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再会の街で/REIGN OVER ME
2007年 124分 アメリカ カラー
監督:マイク・バインダー 脚本:マイク・バインダー
撮影:ラス・アルソブルック 音楽:ロルフ・ケント
出演:アダム・サンドラー/ドン・チードル/ジェイダ・ピンケット=スミス/リブ・タイラー/サフロン・バロウズ/ドナルド・サザーランド/マイク・バインダー
予告編で、9.11ということは言っていただろうか?言っていたかもしれないけど……思い出せない。言っていたとしても、それほど全面に押し出していたわけではなかった気がする。ただ、過去をどこかに置いてきてしまった男と、80年代の音楽がその悲しさを募らせる、そんな趣の予告編だった。
あえて9.11を表に出さない宣伝には、観終わった後には大きく、深い意味があったように思った。
劇中でも巧みに触れられているけれども、あの惨劇で傷ついた大勢の人たちは、それぞれに哀しみが違っている。
それは例えば戦争映画でも同じだとは思うけど、それをある種一面的に語れるようになるには(それはいい意味も悪い意味も含めて)それこそ半世紀もの時の流れが必要で、今9.11で傷ついた人の悲しみを語るには、まだ時間が近すぎて、あまりになまなまし過ぎるのだ。
それを今、大きなひとつの悲しみとして、誰か一人に託して語るのはとても難しいし、それをウリにして宣伝するのも、確かに無粋だろうと思う。
魂を置き忘れたアダム・サンドラーをちりばめた予告編は、観終わった後にこそ深く心に染み入り、好印象を与えた。
それにしても驚くアダム・サンドラー。観始めた時にはね、あらら、やはり「ウェディング・シンガー」から時が経っているし、口の横のシワが深く刻まれていて老けたかしらとも思ったんだけれど、やはりそれは彼が、愛する家族を失った大きな悲しみを抱えた男としてそこにいるからであり、次第にあの愛すべきアダム・サンドラーのキャラも出してくる。
立ち乗りの、子供が乗るようなスクーター、浪人生のようなよれよれのチェックのシャツに肩掛けカバン。劇中、アランの娘から「ヘンな子供みたいな人」と言われるのがピッタリの……そう、哀しみを思い出さないために、出来る限り幼児返りしようとしているかのような男、チャーリー・ファインマン。
テレビゲームにハマり、アステアの華麗なミュージカル映画に没頭している。絶世の美女を表現する時も、「40年代の映画の女優のようだ」と表現する。今を見ようとしない男。ムジャキでワガママな子供のような男。
それでも基本的には、というか全編、彼は悲しみに包まれた男であり、哀しみに翻弄されるがあまり自分をコントロール出来ず、何度となく理不尽に暴れて、ヘタすると観客からもアイソをつかれかねない事態を繰り返す。
しかしやはり彼が観客の心をとらえて離さないのは、アダム・サンドラーの持つ人好きのするキャラが大きく作用していると思われる。
これはね、ズルイくらいなんだよね。どうしても憎みきれない。大暴れするその一瞬後には、キューンと寂しそうに花を鳴らしてすり寄って来る子犬みたいで、抱き上げずにはいられないんだもの。
もちろん、チャーリーがそんな風に理不尽に暴れるのは、愛する家族を一瞬にして失ってしまった、その衝撃から逃れられずにいるからなんである。
そんな彼と大学時代ルームメイトだった、歯科医のアラン・ジョンソン(ドン・チードル)は、往来で偶然彼を見かけた。大学を卒業してからは没交渉だったけれど、彼の悲劇は知っていて、気になっていた。歯科医名簿からも彼の名前は消えていて、心配していた。
いや、心配していたなんて、表面上のことかもしれない。彼は歯科医として成功し、ニューヨークに仲間と共同のクリニックを立ち上げ、子宝にも恵まれて、いわゆる勝ち組の生活をしている。その心の片隅にあったとしても、偶然往来で彼と出会わなければ、きっと何も始まらなかった。
と、いう皮肉も、劇中で次第にあぶり出されてくる。チャーリーは心配してくれるアランにいわゆる狼藉を繰り返しながらも、信頼を寄せてくる。
それは、後にチャーリーと家族ぐるみで仲が良かった、それまでは親友であったと思われる男性によって明らかになることなんだけど……彼がチャーリーの失った家族たちと全く接触がなかったからなのだ。表面上の、事実としてしか知らない。妻と娘三人をあの忌まわしい惨劇で失ったと、想像することしか出来ない。
彼女たちの存在を知っている人間を、チャーリーはことごとく避けた。義父母でさえも。
義父母はチャーリーを心配していた。いや、正確に言うと、心配していたように見えた。チャーリーが管理人の女性と財産を管理する会計士に取り込まれて、いいようにタカられていると、彼らはアランに訴えた。私たちは今や、身寄りのなくなったチャーリーの唯一の身内なのだと。
正直その時点では、チャーリーがあんな心神喪失みたいな状態だから、この義父母の言うことが本当のように思えたのだ。
血が繋がらないといっても、愛する妻や子供と血を介した身内、チャーリーが心を開けば、彼が救われるんじゃないかと思った。妙に排他的な管理人や、政府からの補助金やなんかで潤っているチャーリーを狙っている、と義父母が指摘する会計士が悪人にも見えた。
まあ、この会計士に関しては、最後までよく判らない部分もあったんだけど……でもこの義父母の存在は、人の心の傷がそう簡単に定義出来ないことを、シンラツに示すことになったのだ。
一見、彼らだけがチャーリーの心を理解し、慰め合うことが出来ると思った。でも、慰め合うことがチャーリーに必要なことではなかったことが、明らかになってくる。
どんなに辛いことがあっても、人は前を向いて歩いていかなければならない。口で言うのは簡単なこと。そう、本当に困難なことで、この映画でもチャーリーが立ち直ったなんて安易なハッピーエンドは用意していない。あくまで彼が一歩を踏み出そうとしている部分で終わっている。
一歩を踏み出してすらない。踏み出そうとしているところで。でも踏み出そうとすることさえが、どんなにどんなに大変なことなのかということなのだ。
そう。アランは何も知らないから、何も余計なことを聞かないから、チャーリーは心を開いたのだ。しかし結果的にはアランに、あの時の、思い出したくないあの、愛する家族を一瞬にして失った時のことを語ることになるのだ……。
チャーリーは、何度も彼に反発する。過去のことをちょっとでも聞きだそうとしたら、つかみかかって、クリニックの掲示物から備品から何から壊しまくって、荒らしまくって。誰から頼まれたんだ、お前は誰なんだ、オレをほっといてくれと言いながら、アランの答えなど待たずに荒れまくる。
その矛盾に彼自身でさえ気づいていないし、それを仕掛けられるアランもあまりの豹変ぶりに呆然として、彼を救いたいと思っている筈なのにその矛盾に気づかない。
そうしてキレて出て行けと怒鳴ったりもするんだけど、そして彼も憤然と立ち去ったりするんだけど、でも次の日にはもうチャーリーはクリニックの受付や家のドアの前にボーッと立ち尽くしているのだ。まるで迷子の子犬みたいに。
アランの娘は「子供みたいな、ヘンな人」と言い、彼はそんな娘の言い様をいさめるけれども、ホントにそんな感じなのだ。そんなアダム・サンドラーが、どうしてもほっとけない、愛しさなのだ。
そんな娘の言い様をいさめる、そう、アランはいわば理想的な父親、そして夫になろうと努力している様子が非常に伺える。娘の送り迎えや、就寝前には妻のジグソーパズルにも付き合う。歯科医を開業しての何不自由ない生活、いわば家庭人として完璧なハズだった。
でも妻との間は、どことなくギクシャクとしていた。理解ある妻、チャーリーをなんとか助けたいという夫にも表立って反発するわけではない。でも、こっちはどうなのという空気は濃厚に漂っていた。
ラスト、この家族も決してハッピーエンドにはなっていない。まさに第一歩を踏み出した、言ってしまえばそれだけ。でもそれさえも、踏み出すのは本当に難しいし、踏み出してしまえば、その先はきっと早いんだとも思う。チャーリーが現われなければ、この家庭もじわじわと崩壊していたかもしれない。たったひとこと、心を込めた「愛してる」が言えるか言えないかで、その崩壊が止められるということに気づかなかったかもしれない。
そして、チャーリーの義父母こそが、この物語のメインテーマになるべき人物なのだが……。彼らは確かにチャーリーと最も傷を共有出来る人たちなのだろう。見ているこっちも、なぜチャーリーが彼らを執拗に拒絶するのだろうと思っていた。
この物語構成は本当に巧みで、というか、ちょっとズルくて、観客にチャーリーを本当に理解して心配しているのが誰かを、クイズのように提示してくるのだ。
会計士のシュガーマンをおとりにしてかき回して、最初のうちはこの義父母がチャーリーを救えるのだとばかり思っていた。しかし彼らは結局自分の哀しみを、悪い言い方をすれば正当化するためにチャーリーを利用したんだよね。
自分たちと同じ悲しみに違いない、同じ悲しみ方をするに違いない、そうでない彼は冷たい人間なのだと、チャーリー自身の、彼だけが抱える哀しみには目をつぶって、見ないフリをして、自分たちの思い通りにならない彼を追いつめた。
ついにはチャーリー、弾丸の入っていない拳銃を警官に向かって振り回し、拘束されてしまう。そして彼を一年間入院させるべきだと義父母は言い立て、裁判沙汰にまで追い込んでしまった。
哀しみを抱える人間が、それを前提とした上での自分勝手さまでをも責められるなんてこと、考えたこともなかった。そんな辛いことがあぶりだされるほどの、あまりにもひどい惨劇だったのだということを、改めて思い知らされる。
裁判で、祖父がいつも持ち歩いているという孫娘の写真を、しかも引き伸ばして、若い弁護士がこれ見よがしにチャーリーに掲げる。それまでは何とか平静を保っていたチャーリーが明らかに動揺を見せ始め、耳をふさいで音楽を聴き始め、ぶるぶると身震いが止まらず、叫びだし、裁判は中断してしまう。
判事(ドナルド・サザーランド。さすがの貫禄)はまず、えげつないやり方をした若い弁護士を厳しく叱責し、その後で、それを示唆したであろう義父母を静かに、しかし厳然と諭す。
「考えれば考えるほど、これは裁判にするような件ではない。家族の話し合いで解決することだ」と。
特にヒステリックになっている祖母に対して。でもそれも、この時点では、なんだよね。それまでは彼女は冷静に見えた。でも、証言台にさえ立てないほど冷静さを失い、傍聴席からでさえ、彼女は吠えた。
でも当然だけど彼女もチャーリーと負けないぐらいに、哀しみを抱えているんだよね。その哀しみの優劣なんてつけられっこない。でも、でも、なんて哀しいんだろう。こんな場に持ち込まれたら、その優劣で決してしまう部分があるのだ。
壮絶な哀しみを抱えながら、相手がそれ以上の哀しみの中にいることを察しなさいと言われてしまうんだ。あなたの哀しみは自分勝手さを含んでいると。
歴史に残る惨劇は、それだけであまりに大きいから、それによって傷つけられた人間の個々の哀しみを詳細に拾い上げるのは困難なのだ。それは、戦争映画が、人類の、人間全体の普遍の悲しみというテーマに収束しがちなのが象徴している。
でも、記憶がまだ生々しいうちは、恐る恐るでもいいから、こういう試みは必要なのではないか。
大きくとらえるほどに、人間のナマな悲しみは、大きな歴史の中に形骸化して埋もれてしまう。
だからこそ、悲劇は、惨劇は繰り返されてしまうのではないのか。
チャーリーが立ち直る足がかりを得たのだとしたら、やはりそれは、あのちょっとイカれた美人患者、ドナ・リマーにあると思われる。
最初、アランを指名して歯を一本だけホワイトニングしたいのだと現われたドナ。その歯はセンセイが決めてくださいな、と流し目を送り、なんかおかしいなと思っていたら案の定、センセイをお口でイカせてあげたい、などと、トンでもないことを言い出す。
しかし彼女は、アランが憧れているらしい、同じビルの中の美人精神科医(あまり明確にはされないけど、帰りを待ち伏せている描写が繰り返し現われる)の患者だったんである。
この奇妙な人間関係は、ハッキリそうと明示されるわけじゃないけど、一見常識人のように見えるアランもまた、どこか、壊れた部分を持っていることを示唆する。
実際、アランは妻との関係以外にも悩みを抱えていた。身体を壊した父を自分の元に呼び寄せたものの、都会になじめない父はすっかり心を閉ざして引きこもり、そんな父に母もイライラを募らせているという、悪循環。そんな状態が彼自身の家庭にも影を落としていただろうことは否めない。
劇中、チャーリーと親しくなる中で、アランの父親が突然亡くなってしまう。
この時、チャーリーともある転機を迎える。
アランの父親が亡くなったのは、チャーリーにメル・ブルックスのオールナイト上映に誘われた日だった。映画に大笑いしている最中に、彼の父親は死んだ。そのことに衝撃を受けるアラン。
しかしチャーリーは彼を朝食に誘う。メルの余韻を殺すのはもったいないと言って。さすがにアランは、そんなチャーリーにはついていけなかった。
しかも驚いたことにチャーリーは突然、アランに100万ドルを譲ろうとする。かの会計士、シュガーマンが血相を変えて彼の元に押しかけてくる。友達を失いたくないチャーリーの、子供っぽい、しかしあまりに純粋な考えだった。
で、そう、話が脱線したけど、最初、アランに執着していたイカれた美人患者、ドナ・リナーこそが、おそらくチャーリーを今後、救っていくだろう人物なのである。
それは、明らかではない。あくまで、そうだろうと想像されるだけである。だって何たって彼女は、アランに「先生とは親しい感じがする」とフェラを迫り、それを断わられたら、「性的暴行を受けた」とクリニックを訴えるような、イカれた女なんだもの。
彼女も確かに、最後まで読みきれない。離婚した夫が、自分に内緒で長いこと女を囲っていたことに心の傷がある、と語るけれども、それであの行動というのも極端に思える。
……というのは、そんなの、自分がそんな状況に陥ったことがないからであり、「そんなことで……」という世間の無理解こそが、人を追いつめるんだろうと思われる。
人の傷つき方、その度合いは千差万別。
それをこそ、この作品は言いたかったんじゃないかと思うのだ。
だからこそ、チャーリーを心から理解出来るのは、一見イカレ女に見える彼女であり、観客には受け入れられても、世間からはつまはじきにされているチャーリーを支えていけると思うのだ。
チャーリーの義父母に、彼が勇気を振り絞って言った台詞が、突き刺さった。
あなたたちは、哀しみを分かち合えると。でも自分は違うんだと。そして……写真なんかなくても、妻を、娘を、街の中で見い出せるんだと。あちこちで、感じるんだと。
この台詞をぶつけたチャーリーの悲しい成長と、それをぶつけられた祖母が雷に打たれたように震えて涙をこぼすのが、もう観てるこっちも嗚咽を抑えきれないんである。
それは、チャーリーが悲しいまでに哀しみから脱していないことではあるんだけど、でもそれぐらい、写真なんか必要ないぐらい、妻を、娘を愛していたってことでさ……。
そりゃ祖父母だって、特に娘に関しては、娘なんだから例えようもない悲しみがあったに違いない。でもそれを、「分かち合えるから」と定義する、いや、せざるを得ないほどの、この惨劇をこそ憎まなければいけなんだけれど。
でも、人間の悲しみは、そんな惨劇の前にはある意味ちっぽけで、そして……大きすぎるから、対等に語れないのだもの。
チャーリーは、突然姿を消す。義母に、壊してしまった対のランプの片方を残して。義母はこのランプのことで、チャーリーと深い溝が出来ていた。思い出のランプだと知っているのにと。そのランプ、彼にとっても妻の大事な思い出の品である筈のそれを残して、彼は消えた。
アランは、行き先を知っている。でも彼らにそれは言わない。しばらくチャーリーを一人にしてやってくれないかと言う。反発を試みようとした彼らを柔らかくいさめて。彼は一人で生きていく力が必要なのだと。それは哀しいけれど……あなたたちといると出来ないことだからと。ある意味で、残酷だけれど、愛する者との縁を断ち切らなければ、彼は前を向いて生きていけないのだ。
そして、その新しい場所にアランが差し向けたドナがいた。
初めて会った時から、見たこともない美人だと動揺していたチャーリー、まだ上手く話せないけれど、そこには小さな希望の光りが見える。
精神科医を演じるのはリヴ・タイラー。劇中じゃやたら若いとかベイビーだとか言われているけれど、いつの間にやら女優としての貫禄が出てきてて、ビックリする。
アランから依頼されて、チャーリーを診ることになる。でもチャーリーはなかなか心を開かない。
「このままじゃ、ただのエクササイズよ。私でなくてもいい。誰かに話さなければ意味がない」そう、彼女はカケに出てみる。
それを話したのはやっぱり、アランだったのだ。
妻と娘三人と犬が一匹。女の世界の中のミスター・マン。女、をフィメールという表現をする。優しい響き。チャーリーの口ぶりから、どんなに穏やかで幸福な生活だったかが伺える。
娘たちの性格、将来の夢、忘れる筈なんてない。忘れることなんてどうして出来るのか。
チャーリーは執拗に台所のリフォームを繰り返していた。その理由をアランは聞いてみた。チャーリーは重い口を開く。
空港にいた妻と話した、電話での会話。最後の会話。彼女たちを迎えに行くために出かける間際の彼はイラだって、台所の話なんてどうでもいいだろと怒鳴ってしまった。最後の会話だったのに。
アランは、優しい言葉もかけただろ、と言ってみる。そんなことは忘れろと。……忘れられるぐらいなら、何百回もリフォームなんてしない。2ヶ月に一度は新しい台所に変えてみる。自分の手でペンキを塗って。でもそこに立つ妻や娘はいないのだ。
チャーリーとアランが心を通わせるようになるのには、音楽が重要な役割を果たしている。アランはチャーリーの音楽の趣味が悪いと言い募るけれど、チャーリーは“あの頃”の音楽を心から愛しているように見えた。
家の中に防音のスタジオを作り、学生時代の頃のようにジャムセッションをしては時を忘れた。
あの頃に戻れれば、妻や娘のことを考えずにすむ、とチャーリーが覚えず考えていることを、その時点でアランは知らなかった。ただチャーリーといることが楽しくて、彼を心配していることさえ、一時忘れていたんじゃないだろうか。
アランも救われているのだ、こんな彼にも。
チャーリーが玄関口でアランに、靴を脱ぐように再三注意するのが妙に印象に残ってる。家の中で靴を脱ぐなんて日本式なのかと思ったけどそういう訳でもないのだろうか……。
そういやあ、それとは全然関係ないけど、街角に「鍋焼きうどん」と筆文字で書かれたのぼりがはためいているのもミョーに気になったなあ(笑)。
ところで、会計士シュガーマンを演じているマイク・バインダーが脚本、監督!!!!!しかも、スタンダップ・コメディアン!でも知らない作品ばっかり……。
なんか微妙な立ち位置というか……日本未公開作ばっかりだし。
チャーリーを身寄りのない男だとしたことは、義父母が、彼は自分たちとしか悲しみを分かち合えないとするためだろうけれど、哀しみにも自分勝手があるなんていう、厳しい現代も示唆しているのね。
なんて生きにくい世の中になってしまったんだろう。★★★★☆
ヒロインは、もう三十路の坂をトウに越した真希。5年ごとに開かれる同窓会が、劇中4回描かれるから、ラストシークエンスはもう50の声も聞こえそうになっているのだろう。つまり、もう若くない私が実に共感出来る年代。
最初の同窓会の時、つまり私と同じ年代の彼女たちがつぶやく「“ワカモノ”って(言葉が)、フツーに出ちゃうの、年とったなって思う」って台詞なんか、メッチャ共感してしまう。まあ、結婚経験はないにしても、彼女の、彼女たちの囁くモノローグや会話は本当にリアルに響くのだ。
シャワーを浴びながら、鏡に向かって両方のオッパイを持ち上げたり放したりして、「昔の私、今の私……」と繰り返すつぶやく真希の姿に、うっ、これって実際やるよな、と思う。
しかも彼女は、浮気癖のある夫と別れて今は一人暮らし。実家は近くにあるけれど、祖母の残した一軒家に一人で住んでいる。
実家暮らしの方が楽じゃないかという女友達に、「イナカは出戻りに厳しいのよ。人のウワサは75日じゃなくて、75年なの」と言う真希。なんという、言い得て妙な上手い台詞。
こんな具合に、彼女たちの台詞にはちょっとした格言にしたいものが盛りだくさんなのだ。
最初の同窓会の時は、まだ彼女たちも30代そこそこ、夫との不仲は始まっていたけれど、そんなに絶望していた訳ではなかった。
そして5年後の同窓会、前回トイレの中で同級生の法雄を“食って”いた友達の佳代子は、結婚生活は息抜きが必要、とばかりに若い男とのウワキを繰り返してる。
夫と離婚してしまった真希に“オトナのオモチャ”をプレゼントしたり、年上の彼女が欲しいという男とのダブルデートをブッキングしたり、かなり奔放な友達。
「棒アイスを食べているのは寂しい女。カップアイスは女を諦めてる女」てのはどうなのかなあ、上手い言い回しではあるけれど。
この“オトナのオモチャ”を使う場面は、まあピンクならではとも言えるけど、「セフレからプレゼントされたけど、一回しか使ってないから新品みたいなものよ」と言う佳代子がまずぶっ飛んでるし(こんなん、1回使ったもんを友達にやるかよ!)ウインウイン言ってるコレに「こんにちは〜、こんにちは〜」と挨拶なぞしてみる真希が、なんか凄く判る気がして苦笑しちゃう。
バカらしい、寝よ、と一度は布団に潜りこむものの、結局使ってみる真希、グイングイン動いているのを上手く挿入出来ず、「あ、そうか」と電源を止めてから入れるのが妙にリアル。
電気の力じゃなくて自分の動作でイッたのに、「恐るべし、ハイテク」とつぶやくのが笑っちゃう。しかも、これで満足したかと思ったら、一度電気を消してから、またウインウイン鳴り出してるし(笑)。
実はこの、佳代子が“食った”法雄は五年後、ソフィー美・ルミ?とか名乗ってオカマバーのママとなっている。演じているサーモン鮭山氏、この日、上映前の舞台挨拶に来ていて、上映されている二本共に出演している彼は、「首から下は『ヒロ子とヒロシ』、首から上は『再会迷宮』」とちょっとネタバレな発言。つまりバッチリメイクに金髪のカツラ、くびから下は白シャツに黒ボトムといういでたち。
二本を観た今となっては、かなりツボにはまる格好。ピンク大賞に助演賞があるんだとしたら、間違いなく賞を差し上げたい素晴らしきバイプレーヤー。というか、こんな観る機会が少ない中でも、やたらに出まくっている(笑)。ダブダブのヤバい体形で高校生とか演じちゃうし!だけど、どの作品でも凄く印象的だし、主人公に影響を与えるんだよね。
真希は、ルミのスナックの常連客である。ここで働いている鈴音も、真希を姉のように慕っている。ていうか、鈴音は彼女の一軒家をていのいいラブホとして使ってるんだけど、まあそれはまたケッサクなエピソードがあるので後述。
ソフィー美・ルミというのが、「私の好きな女優二人の名前なの!」というのは、う、うーん、ソフィー・マルソー(まさかソフィア・ローレンじゃないよね)と、フィービー・ケイツかな?いや、なんか同じぐらいの年代だから、その辺がストライクなのかなと思って……。
ルミは、真希がいちいち落ち込んではこの店で飲んだくれるのに対して、「切ったチンチンでひっぱたくわよ!」なあんて言う。「えっ、切っちゃったの」と驚く真希に、「まだついてるわよ。タマは抜いたけどね」としれっと返すルミ。
「……凄いなあ……。自分のまま生きるって、こんなイナカじゃ難しいじゃない」真希が言うと、「こんなイナカだから、自分の思うまま生きる方がラクなのよ」と逆に返すルミ。
二人の言い様は全く逆なんだけど、それぞれに判るんだよね。だからルミの言うことも深く染みる訳。色々気を回して、結局自分を偽って疲れてしまうより、自分の思うままに生きてしまう方がラクだってこと、男から女になってしまった強さを持つルミだからこそ言えること。
佳代子のブッキングしたダブルデートから逃げ出してきた真希は、またこのスナックで飲んでいる。「何かあったの」と聞くルミに、「何もなかったから、落ちこんでんの」と真希。このあたりの応酬も実にシャレている。
真希は以前から、自分でカラを作って、その中に入り込んで、誰かカラを破ってくれる人を待っているんだと言っていた。今回のデート相手は破ってくれる人ではかった。いや、違うのだ、結局は……ルミは言う。「カラは自分で破るものよ」と。そう、そうなんだよね。
でね、このダブルデートの、佳代子の方の相手は、鈴音の彼氏な訳。演じている松浦祐也が凄まじくてさあ。鈴音とのセックス場面の時から凄かったんだけど……。
あのね、この日舞台挨拶に来ていた鮭山氏が、「僕と松浦君が出ている間は……那波君が登場してから本編が始まりますから、それまでガマンしてください」てなことを言っていたのね。まさしく!なのよ。
もー、鮭山氏以上にケッサクな松浦氏。鷹匠の見習いという設定自体、一体どっからそんなことを思いつくんだ!というキテレツなキャラ、北田。
セックスの最中にも鷹のぬいぐるみを手から離さず、「師匠は鷹の気持ちになれと言っていた!」と、鈴音のアソコをぬいぐるみのくちばしでつんつん突付くわ、イク時にも「ブルブルブルッ!」と奇妙なおたけびをあげるとゆー、もうイタくて見てられないって!
大体、そのふんどし姿は何なのよ!つーか、このくちばしのつんつんに喘ぎまくって、「鷹ってスゴイ……」とつぶやく鈴音もそーとーキテるけど!(爆笑!)|前年女優賞獲得のえりな嬢、相変わらずイイ具合にキれてるわ。
でさ、この鷹のぬいぐるみがいちいちスクリーンに絶妙な角度で侵入してくるのがもう爆笑必至で、死にそうになるのよ。
真希がダブルデートから抜けちゃったもんだから、寂しくオナってる男の部屋に(このカットも、一瞬、セックスしてるように見せるあたりが上手い)駅弁スタイルで入り込んでくる(笑)佳代子と北田。
で、3P状態になるんだけど、北田は相変わらず鷹のぬいぐるみを離さないもんだからさあ……次第にこのぬいぐるみが、まるでもう一人?の登場人物??のように思えてくる訳。だって彼の動きに合わせて、思わず知らず、佳代子のオッパイを突付いてたりするんだもん!(大爆笑)。
全体的にはしっとりとした味わいの作品なのに、鷹匠見習いの男、鷹のぬいぐるみというこの設定一発で、中盤のシークエンスをさらいまくるのがスゴイ!
なのに、後半はそんなことモノともせずにしっとりとした味わいに戻っていくのもスゴイ!
60分という決して長くないピンクの時間枠なのに、その切り替えも非常にキレイにサエてるんだよね。やはりこのあたりは、無口な青森の天才、竹洞監督の手腕だろうか。
でね、そうそう、後半がまた染みるのよ。劇中三度目の同窓会、真希の元カレ、初めての相手である神野忍が来るという。これまで同窓会には一度も出席していなかった彼、転勤で地元に帰ってきたのだ。
佳代子に言われずとも、思わず心ときめく真希。ちなみに佳代子は夫と離婚した直後、勢いで婚約した彼氏とのラブラブにウキウキしている。転んでもただでは起きないオンナなんである。
で、その神野、真希が盗まれた自転車に乗ってやってきた。「パンクして捨てられていると思っていたから……」という、なんだか気まずい再会。
先生に挨拶だけ済ませて、ルミと佳代子と共にルミのスナックに移動し、四人だけの同窓会となる。佳代子は彼氏からの呼び出しで早々に戦列を離れ、ルミは「サバに当たった」といってトイレにこもり、真希は忍とゆっくりと話すことが出来た。
そして朝まで飲み明かし、ルミは真希を忍に任せて辞する。イイヤツだ……。
「体力は20代だと言われた」と言う忍は、真希から“盗んだ”自転車の後ろに彼女を乗せて走りだす……も、次第に失速し、しまいには彼女が自転車の後ろを押す。「20代もギリギリなのかな」「30代の聞き間違いだったかもしれない」笑い合う。
「バスの始発までウチで飲み直さない?……良かったら」忍は同意し、家に上がった。
忍の指に結婚指輪を見つけた真希、彼は「形だけだけどね」と言った。
妻がウワキをしているんだという。それも、行きずりの男をとっかえひっかえ。「そうなると、毎日帰って来るのも自分じゃなくてもいいんじゃないかと思えてきて……」それは、真希が夫に感じたことと同じだった。
忍を立たせて、目をつぶらせる。これは当然キス?と思いきや、彼の後ろの襖を開ける。あらら、ひょっとして押し倒して?と思ったら……とお!とばかりに忍を蹴倒す真希。!!??同様に驚く彼に真希は「ごめん、ちょっとハジけてみたくて……」って、爆笑!
でもそれは、ルミに言われていたことだったんだよね。そう、カラを破るのは自分しかいないんだって。「真希はヘタに頭がいいから、ヘンに考えすぎるのよ」って。
何も考えずに彼を蹴り倒す。マジメな彼女が精一杯考えた、自分のカラを破る方法。
「でも、真希がハジけたところ、初めて見た」と忍は笑い、「俺もはじけよう」と彼女を引き寄せキスをした。
「昔とは身体が違うから……」と尻込みする彼女に彼は、「変わってないよ。特にここが」とオッパイをいたずらっぽく触ってくる。
で、こっからの、鈴音や佳代子たちとは違う、しっとりとしたセックスがイイんだよなあ。
もうとにかくマッパで、隅々までナメつくすような彼女らのセックスと違う。忍の方は上衣を着たままだけどなぜか性急な感じはなくて、真希をいたわるような感じに見えるのがね、フシギなんだけど、ホントそんな感じなのだ。
真希は自転車を返そうとする忍に、いいから乗っていくように勧めた。これを返しに来る言い訳が出来るから、と。
すると忍はニッコリ笑って、それがなくちゃ会いにきちゃいけないの?と言った(素敵!)。
そして真希を後ろに乗せて走り出す。
カットが変わり、また忍と真希が自転車に二人乗りしている。少し年を重ねた二人。真希の左手の薬指にはキラリと光る新しい指輪。
あれからまた5年が経ち、二人は共に同窓会に向かっているのだ。
同級生の女三人が集まって、「若い頃より今の方がセックスっていいよね」「イキオイだけじゃないもんね」としみじみと語り合うシーンなんか、ピンク映画でやっちゃっていいのと思いつつ、ほおんと作家のために用意された場だなと思う。
これが意外に?というか本質で、女を理解していなきゃいい作品が生まれない場なんだよね。忍が登場してからなんて、ちょっとした少女マンガ的な願望が込められてるセンシティブさがあるし。
10代や、あるいは20代の頃も、自分がそういう“ワカモノ”だってことさえ、意識に上らなかったのに、それをどんどん染みるように感じる。こんなにもリアルに、そして繊細に感じさせる名言に満ちた傑作。★★★★☆
こうして彼のデビュー作を観てみると、念願の初演出だからか役者としての彼のキレ味も気合いが入ってて、なるほど役者で各方面に呼ばれて、そのうち監督から役者の方にシフトしていくのもむべなるかなという素晴らしさなのだが、うう、うう、私は佐野監督作品がもっともっと観たいのだよー!
で、そのデビュー作。心震える傑作。80年代らしいファッションや生活スタイルが、まるでロマンポルノを観ているような少々のノスタルジーを感じつつも、自分の中の牙をどこに向けたらいいか判らない男の心の荒みように、そしてピュアに、心が震える。
それでも最初のうちは、佐野監督のデビュー作ってことで、彼の青春を覗き見ているような気がして、なんだか勝手にドキドキしていた。タイトルクレジットの、タイプした紙を切り張りしたようなスタイリッシュさも、彼の青春期を形成したとんがった映画へのアコガレのようにも感じたし(勝手な妄想)。
佐野氏演じる寂れた工場に勤めるしがない男が、拳銃を手にして破滅へと向かう物語と並行して、彼の同僚でエロいことしか考えていない青年二人組がオミズなおねえさんと暴力的で未来のないエロにふける。
それが、主人公の物語に集中出来ない気もしたけれど、この主人公はあまりに真っ直ぐに疾走するから、自分でもどこに向かっているのか判らないほどに疾走するから、彼を抑制するために、演出家としての佐野氏にとって、この脇エピソードも確かに重要だったのかもしれない。
それにきっと主人公の男が持っているような、何にも向けられない牙は、きっとこの同僚二人も持っている。荒木太郎(だよね?若い!大学生みたい!)扮するオミズなねえちゃんに本気でホレている青年の思いだって、主人公の青年がエレベーターで出会った女の子に寄せる純粋と、それほど変わらないだろうと思う。ただ彼は、遊び慣れている先輩についてまわって、そのおこぼれにあずかろうとする。
このオミズなねえちゃんは先輩の方にホレていて、肉体関係もある。「私のこと好き?愛してる?」とセックスの最中に聞きたがる彼女に、先輩の男はテキトーに応じていた。だけど、女の尻の穴に入れたい欲望を満たすために後輩を使ってレイプさながらに犯した後、後輩に、後は好きにしていいから、とポイ捨てする。
ウソつき、愛してると言ったくせに、と毒づく彼女は、優しくするから、と正常位で乗っかってきた若い男の子に、さっきまで彼に腕を押さえられて肛門に突っ込まれていたというのに、「私のこと好き?愛してる?」と同じ問いを繰り返すのだ。
愛してる男にその気持ちを確認したかったんじゃないのだ。彼女は愛してると言ってくれる男なら、愛せるのだ。
でも実際は、セックスするためなら、男は愛してるなんて言葉ぐらい安売りできる。この場合、ヒドいのは男なのだろうか、女なのだろうか。
と、とっとと脇エピソードをかたづけてと。こうして書き連ねてみると、確かに主人公の男が同僚二人との対照であぶりだされる。
主人公の男は、何たって佐野氏が演じるんだから、見るからに口下手である。工場でも同僚の誘いには一度も応じたことがなく、付き合いが悪い男として軽く蔑まれている。つっても二人は毎週土曜、決まった飲み屋で飲んでカラオケをするだけなんだけどさ。
主人公の男(いちいちこう書くのもメンどいが、役名が与えられてなかった気がする)は、どっかヤバい筋から拳銃を手に入れる。
弾丸はそこに入った6発きり。実際に撃つわけじゃないですから、これでいいですよ、と彼は満足そうに黒光りする銃身を撫でながら言う。彼のことを昔から知っているらしい、銃を融通してくれた男は、親御さんを泣かせるなよ、とお決まりの台詞を言って立ち去る。
実際に撃つためじゃない。確かに彼が何のためにこの拳銃を手に入れたのかは観終わった後になっても判らない。結局はこの拳銃を彼は撃つことになって、それは彼自身も血で染めることになるんだけれど……。
まずは彼、その拳銃を手に、女を買う。景気よく前払いをした彼に女は機嫌が良く、もったいぶって服を脱ぎ始める。あと2万出したら私のをナメていいわよ、それに私もしゃぶってあげる。上手いんだから……などと調子に乗る女に、それまで黙って服を脱ぐ女を見ていた彼は拳銃を突きつける。これはホンモノだからな、と豹変して女を犯し、尻の穴に拳銃をグリグリと押し付ける。
あ、ここがリンクしているのか……確かに銃身は、男のソレに例えられるんだっけ。怯えて泣き声を上げる女、という図も同じだ。ただ、男に愛していると言ってほしい女と、カネのためなら何でもする女の違い、そして男女のピュアネスが逆転している点も面白い。
一方、彼と運命的な出会いを果たすことになるヒロインの方も描かれる。正直、このヒロインがもうちょっとステキだったらと思わなくもなかったんだけれど……。
まず、化粧荒れなのか、肌荒れがヒドく、女優の基本はそこだと思っているんでちょっとガッカリする。演技は普通にイイんだけど、そんな美形でなくてもいいから、そして演技もヘタでもいいから、女優さんには、ことにピンクのようなカラミが重視される作品では、肌のキレイな人を持ってきてほしいと思っちゃうんである。
彼女は、上司と不倫関係にある、らしい。不倫ではないのかな。でもとりあえず「また会社で」と言っているし、上司と部下の関係であることは間違いなさそう。
そしてどうやら、こんないいマンションに住めているのも、この上司に囲われているといった感じだかららしい。事後彼は、翌朝ゴルフがあるから、と早々に辞するんである。口では「君と朝までいたいんだけどね」と言いながら、恐らくそんなことは一度だってなかったに違いないことは想像に難くない。
そしてこんな関係にあっても、彼は彼女を抱いた後に、その枕もとに万札を二枚、落とすのだ。いや、口では「これで美味しいものでも食べなさい」とは言うけれど、女を買っているという形にして、逃げを売っているのは明らか。そう攻撃されるのを恐れて「君を買っている訳ではないよ」などとわざわざ口にするのもカンに触る。
でも彼女は、ただ黙っていた。黙って抱かれて、黙ってカネを受け取っていた。「2万出したら、私のをナメてもいい」と言っていた商売女と(そう、2万円がリンクしてるんだよね……細かいところにこだわってる)対照的だった。
本当は彼女はこんな金など受け取りたくなかっただろうし、こんなところにも住みたくなかっただろうと思う。でもそう言ったら、こんな、愛していると言ってくれもしない男も自分のところから去ってしまうから、だから、セックスの時も、カネを渡される時も、別れる時も、何も言えなかったんじゃないのか。
そうだ、ここもリンクするのだ。遊びに来ているだけと頭では判っていた客の男に入れあげてしまったオミズな姉ちゃんのピュアと、高級マンションに囲われているOLとが、同じ女の感情で、不思議にリンクする。
そして、拳銃を手に、何を目的にも出来ずにさまよっていた主人公の男が、彼女と運命の出会いをする。
マンションのエレベーターですれ違った二人、あの商売女の仕事場がここだったんだろうか。白いワンピースをまとった長い黒髪の彼女に、彼はひと目で魅せられる。
そして彼は花束を手にして、マンションで彼女を待ち伏せする。明らかに怪しい。というか、こんな方法しか思いつかない彼の信じられないほどのウブさに、打たれるのだ。
エレベーターの入り口で、決死の思いで彼女に花束を渡す彼。案の定、やめてくださいと拒否されると、彼は思わず彼女に拳銃を突きつけた。そして彼女の部屋に強引に入って、縛り上げた。そこに、電話がかかってくる。それは彼女をいつも悩ませていたヘンタイ男からの電話。
恐らくこれは、あのエロ上司じゃないかと思われるんだけど、それが明かされることは、ついにない。
ただ彼女はこの電話の男が彼だと思っていたから、どこか安堵したように「誤解してた」と彼に言う。思わず逆上した彼は、彼女を押し倒し、服をビリビリに破いてコトに及ぼうとするんだけど、ハッと我に返って、「俺、何やってんだ……」とつぶやいて自分に呆然とするのだ。
「ただ、花を渡して、話が出来ればいいと思っていただけなのに……」
思わず、この言葉に、打たれてしまったことに、自分で驚いてしまう。だって、だって、だって、そんなこと、あり得ないじゃない!突然マンションの入り口で花を渡された男と話をするなんてさ。
そんなことを考えた彼のあり得ないほどの純情さに呆然としつつも、でもあり得ないほどの純情を、女はどこかで、焦がれていたんだと思う。
それは、愛してるよと言われるよりも、手に入れ難い奇跡。
だからね、縄をほどかれて、警察でもなんでも突き出してくれと言った彼に、愛しげにキスをした彼女の気持ちが、すっごくすっごく、判るのだ。
だってあのシーン、キスするんでしょ、早くしろ、しろー!と心の中で念じたもの。
レイプされかけた男に情を感じて女の方からキスするなんて、一見して男の幻想のように見えるのかもしれない。でも違う、これは、女の、女こその幻想。レイプされかけっていうのも、ギリギリの理想かもしれない……こんなこと言っちゃマズイかもしれないけど。
100パーセントの純情が、100パーセントだからこそ本能の獣にくるりと裏返るスリリングを、どこかで女は焦がれているのだもの。もちろん、ピュアこそが前提になっていなければならない。そしてそんなことは、まさに奇跡なんだよな……。
だからね、二人のセックスは、なんかエロというより、夢が叶ったのをこの目で見るようで、感動的なんだよなあ。
でも、彼が拳銃を手にしているという前提が、この物語が破滅に向かっている、ラストは破滅に違いないと、見ている間中感じさせてくるから、彼らが湿度100パーセントの思いで交わすセックスが、見てて辛くてたまらないのだ。
幸せな朝を迎えて、彼は朝食を買いに行くと彼女に言った。ちょっとの間でも離れるのを名残惜しそうにする彼女。そして観ているこっちには、恐らくこれが別れになるだろうと、判ってしまった。だから、この後を見守るのが辛くて……。
彼がコンビニに買い物に行っている間に、あの不倫相手の上司が訪ねてくる。やはりあのヘンタイ電話の相手はコイツで、男が怒鳴って電話を切ったことで心配になって訪ねてきたんじゃないかと思う。いや、推測だけど。
でも本当にそうだとしたら、訪ねてくるのが朝とは遅すぎる。やはり彼にとっては、言いなりになってくれる都合のいい部下の女の子に過ぎなかったのだ。
破られた服を見て勝手に推測して、無事で良かったとか言いやがるコイツに、無表情で抱き締められる彼女。もうコイツに心はないのはアリアリ。
そこへ、買い物を終えた彼が帰ってくる。
ダメ!ダメ!と心の中で唱えたけれども、彼は拳銃をぶっ放してしまった。
ただ、それもひょっとしたら、彼の妄想だったかもしれない。このあたりから虚実ないまぜになってくる。彼は部屋を飛び出して、らせん階段をぐるぐると駆け下りる。観ているこっちも目が回ってくる。
そのぐるぐるに乗せるように、上司と彼女のセックスがぐるぐるとついてくる。それはピンクのカラミのパーセンテージを満たしているような、佐野氏の生真面目さをも思わせるし、ここから破滅のラストに突っ走ることを思えば、彼がせっかく手にした真実の愛を、やっぱり今までの自分の不器用さゆえに信じられず、それゆえに自分自身を破滅に追い込んだようにも思えるのだ。
やはり、拳銃は破滅の象徴だったのか。
彼は、ヤケクソに拳銃をぶっ放す。人殺し、という声が追いかけてくる。公衆便所に閉じこもる。ガチャリとリボルバーを取り出してみると、残った銃弾はたった一発。彼はブルブルと震えながら、銃口をこめかみに当てる。アー!アーーー!!と悲痛な叫びをあげ、四肢をブルブルと震わせながる。
やめて、やめて、やめて!せっかく、真実の愛を、自分にウソつきな世間の人が手にすることさえ難しいものを、手に入れる奇跡をモノにしたのに!
銃声が聞こえた。そこへ、彼を追いかけてきた彼女が、やじうまをかき分けかき分け現われた。
ドアを開けた。彼はまだブルブルとふるえていた。銃弾はそれたのか。ホッとする。彼女が彼を抱き締めた。子供のように震える彼を、抱き締めた。
佐野氏のこのシーンの演技が本当に、死んでしまうと本当に思ってしまうほど、心震えるものだったから、本当に、心配しちゃったから、救ってあげたかったから、ああよかった、ハッピーエンドじゃないかと、安心するのも束の間、いや、やっぱりそんなの、おかしい、大体、彼女、彼がひと目惚れした時の、どこか不自然な白いワンピース姿じゃないかと、思う。
あれは、神様が彼に見せてくれた幻想だったのか。
カットが変わると、彼女はまだ部屋にいて、壊れた目覚し時計を手にして、耳に当てている。
銃弾は、にっくき上司には当たらずに、この時計に命中したのか。
二人は、お互いの身体を重ねた時、時の流れの無意味さのことを口にしていたのだ。でも二人が出会った時から、きっと時は回りだしていた。でも回りだしたからこそ、その終わりが来てしまった。
拳銃は、人の命を終わらせるために存在する。そしてそれは、人だけが勘定する時間という概念を分断する、本当に明確に分断するマシンなのだ。
そう思うと、彼が寂れた工場で働いていたことも思い起こされる。
いつもいつも同じように歯車がかみ合って回っていた。でもそれは同じように見えて、いつもいつも違う時を刻んでいたのだ。
血まみれの彼がタンカに乗せられて運ばれる一瞬のショットと、壊れた時計に耳を当てる彼女のショット。
若さを感じつつも、その凄まじい刹那に心を打たれずにはいられない。
やっぱり、やっぱり、やっぱり!佐野監督は、凄い!のだ!★★★★★
だって、実際に結婚生活を経験し、そして失敗し、子供も持ってそのしがらみも充分に経験している二人が、たった数日で運命的に恋に落ちて、それで今後の人生、共に過ごしましょう、なんていくらなんでもなさすぎるもんね。
でも、せっかくハリウッド映画観たのに、ああ、ハッピーエンドじゃないんだ、とちょっとガッカリする気持ちもあったけど……単純でいいから、フツーに気分が高揚するハッピーエンドであー気持ちよかった、と思いたかった、気もする。
って、思いっきり最初からオチ言っちゃってますけど(爆)。はー、すいません、でも……なんかそれも含めて、ハリウッド映画の構成って、もんのすごくキッチリ決まってるんだな、と思ったんだよね。いや、今更ながらそれに気付いたというか。
まず、今の現状に疲れ果てている。言うこと聞かない子供にガミガミ言って、家事に奔走して。で、その現実からふと離れたシチュエイションで運命の人に出会って恋に落ちて、みたいな。
冒頭に示される現実と、恋の場面のギャップ。それって今思い返して見ると、あらゆる恋愛映画で何度それを見たことか、などと思っちゃうんだなー。
間違いなく盛り上がれる構成として、半ば教科書的になっているんじゃないかとさえ思える。確かに安心して見られはするけど、そのことに気付いてしまうとなんか凄く凡庸に思えてしまって、心がときめかないんだよなー。
いちおう男と女、両主人公って感じではあるけど、より主観的な視線を獲得しているのは女の方。
もう50も過ぎて、ダンナにウワキされて只今別居中のエイドリアン。まだ10歳そこそこの男の子と、ティーンエイジャーに突入して難しい年頃真っ盛りの女の子の二人の子供を抱えてキリキリマイしている。
生活に疲れたような彼女が、ダンナにウワキされても仕方なかったかな、みたいな雰囲気も示唆してね。もちろん、そんなことストレートに言う訳じゃ、ないんだけど。
そしてもう一人の男、ポールの方は、こちらは静かにパートナーとの別れを迎えている場面。もう妻の方は実に冷静に、もうムリでしょ、みたいに彼の前から去っていく。
そしてこっちはすっかり成人している息子は、父と同じ医者の道に進んでいるんだけど……後に明らかになる、ポールの失敗した手術の、何よりその後のアフターケアの冷たさに反発して、遠くエクアドルの地に旅立ってしまうのだ。本当に患者と向き合う医療を見つめて。
ポール・フラナーは腕利きの医者として名をとどろかせていて、それまではそんな失敗などしたことがなかった。
手術の予定が立て込んでいたこともあって、そしてそんな事態に遭遇したことがなかったこともあって、死なせてしまった患者を事務的に処理してしまった。そして遺族から訴えられてしまった。
その遺族と話をするために、海辺の街にやってくるのだ。一方で、息子のいるエクアドルに医療器具や薬を携えて旅立つ準備もしていた。
ポールが泊まる海辺の宿を、友人の留守を預かって切り盛りすることになったのが、エイドリアン。
普通なら今頃は客がくるシーズンじゃなかったから、友人は旅行の予定を入れてしまっていたのだ。料金は倍出すからというポールに押し切られて、仕方なく友人のエイドリアンに急場を頼んだのだった。
しかも嵐の季節。波打ち際に接する形で建っているこの宿が直撃を受けるのは必至。友人は出かける間際まで、こと細かにエイドリアンに注意や指示を与える。
なんかもうこの時点で、絶対嵐の夜に運命の恋に落ちるってな予感、アリアリだが。
それにこの宿っつーかホテルっつーか、が、もうあり得ない建ち方してるのよ。本当に波打ち際に建ってるの。一階に上がる階段なんか、常に打ち寄せる波にさらされているような状態なのだ。
こ、こんなの地震大国日本から見れば、ぜえったい、あり得ない。もう津波で一発でやられるだろ!みたいな。
いや、それでなくても、劇中だってタイフーンに備えてバタバタやっているんだから、こんな場所に建ってたら、それこそ海に建物ごと持ってかれそうな……ううーむそれともロマンチックな設定を獲得するためなら、そんなことは二の次なのだろーか……。
でね、エイドリアンはダンナに子供を預けるんだけど、その時にダンナから復縁話を持ちかけられるワケよ。
ダンナにしてみれば、一時のウワキ程度のことだったんだろう。ただ相手が悪かった。それは彼女の友人だったし、つまりは最悪のルール違反。
エイドリアンとしては、ダンナからそんなことを言われて動揺するものの、その心の揺れは、やはり子供のためを思ってのこと。子供のために、自分の気持ちは殺すしかないのか、と……。
中盤以降に語られるんだけどね、エイドリアンはもともとアーティストだったっていうんだよね。
実際どういうものを専門にやっていたのかは判らないけど、芸術好きの父親の血を受け継いで美術学校を出て、そして物語のラストには流木を用いた心のこもった小箱を製作してる。
でも今はそんな過去は見る影もなく、日々の生活に忙殺されている。娘からは「疲れた顔してる」と心配というよりは蔑むように言われて。
そんな風にエイドリアンが過ごしていた一方でダンナがウワキしていたというのも、彼女の心に澱のようなものを残していたのかもしれないんだよね。
で、そのホテルで二人は運命的に出会うのだが……最初から熱烈に恋に落ちた訳でもなかった。ま、そのあたりはね、人生の酸いも甘いもかみ分けた二人だから。
まあでもそうは言っても、たった数日のうちにそんな仲になっちゃったんだから、しかも盛り上がったのは嵐の夜なんだから、やっぱりめっちゃ雰囲気に流されてるヤナイカと思わなくもないのだが……。
ポールの方がね、エイドリアンと会って変わる訳。
患者から訴えられて、彼は動揺していた。何度もその失敗した手術のことを思い返して、いや、自分は絶対に間違った処置はしていなかった、5万人に1人の麻酔へのショック症状が出てしまったからなのだと結論付ける。
それは確かに正論だったのだろうけれど、会いに来た、患者の年老いた夫をひと目見て、エイドリアンは遺族が望んでいるのはそんなことではないことを即座に見抜く。
愛する人の死の真相を知りたいという気持ちは、その原因ではなく、その最後の時間を知りたいということ。
後に改心してこの夫に改めて会いに行ったポールは、エイドリアンの言葉がいかに正しかったかを思い知る。
夫は、妻がいかに心優しい女であったかをとつとつと語った。自分のためにキレイになりたいと、顔のデキモノを取る手術をすることを決心したことを。
普段、患者というよりは患部に接することばかりだったポールは忘れていたのだ。自分は世界一の医者になりたいと思っていたことを。それは数多くの手術をこなして名医と呼ばれて達成出来たと思っていたけれど、違ったのだと。
その思いを胸に、最初は息子を連れ戻そうとして向かうつもりだったエクアドルに、彼は自分の医者として向き合うこと、そしてそのことこそが心が離れていた息子と向き合うことだと知り、旅立った訳なんだけど……。
とまあ、オチは最初に言っちゃってるからなあ(爆)。そんな具合にそれぞれの家庭なり人生なりのバックグラウンドが描かれるにしても、メインは二人がどう恋に落ちるかだからさ。何たってもう50の坂も越えている二人がさ。
ただ男の方には、そうした躊躇はやっぱり感じられないんだよなあ。やっぱり、というのはそりゃー、それがリチャード・ギアだからさ(笑)。
彼はどんなおじいちゃんになったって、ラブストーリーに違和感はないだろう。そうしたことに躊躇のあるハズの一般人を演じたって、劇中の彼にそうした躊躇は感じられない。ただ目の前の運命の女性を落とすだけ。
でもさすがに、エイドリアンの方にはそうした葛藤は感じられる。50も過ぎて、子供も二人いて、例え運命の恋に落ちたとしたって、家族を捨てて男の元に走れる訳もない。まあ、走っちゃう人もいるだろうけど。
ただ、彼女がそうした思いも持ちながらも、そして嵐の夜の雰囲気にのまれたとしても彼との関係に落ちたのは、やはりダンナのウワキというのが背後にあるからであり、友人の後押しがあるからでもあろうと思われる。
あのね、これが単なる倦怠期で、一応は普通の家庭生活を送っていたり、あるいは離婚してから相当の時間が経ってて、子供との生活のサイクルも穏やかに出来上がっていたなら、やっぱりこういうコトにはならなかったと思うのよ。というか、観客に納得させることは出来なかったと思うのよ。
やっぱり彼女に心を揺れさせるだけの、ここで変えなきゃ何も変わらないと思わせるだけの、今まさに家庭がターニングポイントにあってさ。
友人が心配して、また夫とナアナアに元に戻ったら、アンタが傷つくだけなのよ、と。それより新しい、イイ男を見つけなさいよ、と言っていたんだよね。
まー、それも後から考えると、後押しになるというよりは、この運命の恋をスムーズに行かせるためのご都合主義に思えなくもないのだが(爆)。
ただこの友人、ジーンもまた、商談での旅行だとか言いながら、エイドリアンと電話をしながら、実際はベッドの上でセクシーな若い男とイチャイチャの真っ最中という(笑)。このあたりのセンスもいかにもハリウッドやなーって気がする。
ジーンは昔からの大親友で、エイドリアンのことは何でも知ってる。子供たちのことも、娘の名付け親でもあるぐらい。
そしてエイドリアンが夫との確執で傷ついているのが、単にウワキだけじゃないことも知ってた。エイドリアンの最愛の父親、ダンナも世話になった人の臨終の席に、ダンナはどうやらウワキの真っ最中でいなかったらしいのだ。
ただこのあたりのエピソードは、あまり詳細には語られない。父親の話も、そんな風にサワリがちらりと触れられる程度で、実際にどういう関係だったのか、どんな風にダンナが世話になったのか、あるいは臨終の席にいなかったなんてことは言っていたかどうかもさだかじゃない(爆)。エイドリアンが苦しんでいるのを心配しながら、父親が逝ってしまったというだけのことだったかな。
ちょっとこのあたりが消化不良気味。エイドリアンと父親の関係をダンナとの確執に絡めるには、エピソードがちょっと弱すぎる。
この宿の最上階にある、思い出のいっぱい詰まった部屋には、ジーンの故郷のルーツである異国の神々の絵画が、そこここにあった。それはまるで、この宿を守ってくれているかのような、荒々しくも力強い神たちの絵だった。
その中には、若き日のエイドリアンを描いたものもあった。ポールは「これは君だね」と指差して微笑む。この頃には二人の距離はかなり近づいていた。
まあ最初から、彼は近づく気アリアリだったけどさ。たった一人の客で、たった一人、窓際で食事をするのが寂しいからと、厨房にワインを持って乗り込んできたり、嵐の防御も積極的に手伝ったりして。
でもそれは、彼の抱える患者との問題でさざなみが立った心を抑えるためもあったけれども。
ポールもそうだけど、エイドリアンもまた、ダンナとの確執を相手の前にさらけだす。
母親である自分を嫌っている娘に、夫がヨリを戻したがっていることを話してしまったことに、子供を巻き込むなんて卑怯よ!と彼女は怒りまくって、電話で怒鳴りたてるんである。
そしてポールと一緒に強いお酒を飲んで、保存食のカンヅメをゴミ箱にシュートしてハシャギまくる。もうここで酔った勢いでいっちゃうかと思ったけど、さすがにそれはなかった(笑)。
でも、すっかり二日酔いになった明くる朝、嵐はやってくるんである……。
あー、でも、この時には最後までは行ってなかったのかなあ。しがみつくように抱き合って、キスして、翌朝彼だけがベッドからむくりと起き上がる時、ちゃんと服着てたし(爆)。
でもこの時点でそういう暗示があるような気がしてたんだけど、その後ちゃんと?ガチの場面が用意されていたしなあ。
患者との問題もかたづいて、嵐も去って、二人は海辺のパーティーに出かけるのだ。
しかしさあ、狭い町だから、住民の噂話も聞こえてくる。ポールが失敗した手術のことも皆知ってて、老夫に同情を寄せていたりして。
その割にはエイドリアンたら何の躊躇なくポールをパーティーに連れて行くし、その時点では住民たちもそんなことはまるで関せずなのが、どうにも気になる……。
青いセクシーなワンピースドレス姿のエイドリアンに、ポールは賞賛のため息をもらした。パーティーでおじいちゃんにダンスの相手を譲りながらも、ハイそこまで!とさえぎって、二人は桟橋へと手をつないで歩いてゆく。
もう、絵に描いた様な、ロマンチックな情景である。二人はいい雰囲気になりまくって、もうキスに躊躇もないんである。
そして背景が切り替わったなと思ったら、もうそのまま寝室なんである。もはや彼女の背中のファスナーに彼の手が差し掛かっているんである。いやー、このカットの切り替わりも、ベタだよな……(照)。
そして二人は、別れの朝を迎えた。一度は車に乗り込み行きかけたポールは、再び車を止め、走り出てきてエイドリアンと名残惜しいきつい抱擁を交わした。
しばらく会えない。息子との時間を取り戻すまでは。彼女はうなずく。彼女の方もまた、片付ける問題がある。でも二人の心は、もう決まっていたのだ。
となると、別れたダンナと一応は話をするとはいっても、もうそりゃあ別れるしかない訳で。
ただ、一応そんなアカラサマな理由ではなく、子供たちの親としては愛しているけれど、夫婦としてはやっていけない、ともっともらしい結論を出してはいるけどね。
ポールとの愛の手紙のやり取りの中で、まだ子供が小さいから……そうじゃなければあなたの元に飛んでいくのに、なんてことまで言ってる。ううう、アカラサマではないか。
まあそりゃ、それは子供への愛情がゆえで、エイドリアンはそれを惜しみなく披露してはいるけどさあ……。
母親を嫌っていた娘が、徐々に歩み寄りを見せてきた、とエイドリアンは手紙に嬉しそうに語る。それは別れたダンナがウワキが原因だったことを、そのことでエイドリアンを傷つけたことを娘に話して聞かせたからだった。
しかしこれもね、ラストを考えると、巧妙に、というよりはあからさまに用意されていると思ってしまうけど。
つまり、愛する男に死なれて傷ついた母親を、今は同じ女として成長を遂げた娘が一緒に泣いてあげられる、というさ。あの頃は子供だったから、ママのことを理解してあげられなかった、とさ。
ううう、ちょっとなあ。だって娘はその相手には会ったこともないんだし、母親と彼がどんな時間を過ごしたかも知らないのに、そんないきなり理解を示せるかなあ……。
まあでもね、二人が一年かけて思いを手紙でつなげて、というより、あの数日間よりももっと気持ちを盛り上げて、そしてポールは一年後の再会となる日に、エイドリアンの子供たちと会えるのも楽しみにしていたからね。
彼の方も自分の息子との関係を修復して、一段階段を登っていたから。大人になっても大人になる成長というのはあるのだ。
しかし、一年後、あの同じ宿で感動的な再会をする筈だったのに、赤いドレスでオシャレしてエイドリアンは待っていたのに、ポールは来なかった。
心配で眠れぬ夜を過ごした朝、訪ねてきたのは、彼の息子だった。父親が土砂災害に巻き込まれて死んでしまったことを告げにきた。
エイドリアンが父親を変えてくれた人だということも、息子は知っていた。赤い目をして、まだ僕も心の整理がつかないんだと言って抱えてきた箱には、ポールが読みふけっていたスペイン語の医療辞典、サングラスとともに、エイドリアンが送り続けた手紙の束があって、そして、これから出されるはずだった最後の彼の手紙が入っていたのだ。
君と暮らしたい。残りの人生、君を愛し続ける、と。
その手紙を抱きしめて、エイドリアンは慟哭する。そして数日間、虚無に襲われる。その時そばにいてくれたのが、スッカリ大人になった娘だったのだった。
……落ち着いて考えてみると、この最後の手紙の存在こそが、ハッピーエンドだったのかも。
この手紙に書かれた彼の希望がそのまま現実になるかといえば、それこそ非現実的かもしれないし……ああ……なんて夢がなくなってしまったのだろう……。
そしてもうひとつオマケに。ポールが見たがっていた野生の馬が、浜辺の、エイドリアンの目の前を駆け抜けるシーンが感動的なラストを飾るんである。
うーん、うーんでも、この野生の馬のことも、そこまで執着して語られていた訳ではなかったし、馬の群集もいきなりアップで切り込んでくるしさ、なんかカメラの手前でいきなり追い立てられて走り出したようにしか見えない(爆)。
それこそ、遠くの、見えない果てから走ってくるのをロングでとらえてたりしたら、感動したかもしれないけど、そこはエイドリアンのハッとした表情一発で押し通しちゃうんだもん。そりゃないよなー。
うーん……なんか、こういう見方しか出来なくなってしまったのこそ、いい大人とは言えないよな……とちょっとへこみもするが、でも本当の意味で大人になってからの恋愛にも憧れたい気持ちがあるから、余計に、ね。★★☆☆☆
いや……こんなことを言ってしまってはマズい、絶対にマズいんだけど……その外見の描写に引いてしまう気持ちが抑えられないのは、多分、劇中彼女をはやし立てる子供たちと一緒なのだと思った。
彼女をうすのろ、うすのろとはやし立てる子供たちは、そりゃああまりに残酷で、大人の立場で言えば、そんなこと言うもんじゃありませんとか、ありきたりな言葉でたしなめるべきなのだろう。
でも、じゃあ、それなら、子供たちに彼女のことをどう説明すればいいのだろう?どんな言葉を使っても、残酷になる気がする。むしろ、ハレモノを触るようにコミュニティから排除しようとする現代の都会事情の方が、異様なんじゃないか。
と、いうところまでむしろ踏み込んでくれれば良かったのかもしれないのだけれど。いやでも、それもまた難しいんだろうけれど。
そう、その外見の描写。口を半開きにし、時にはよだれまでたらし、そりゃあ確かに子供たちから「うすのろ」と呼ばれてもムリはない、と思ってしまうような……。同じ女として見ているのが辛い。でもこれは仕方ないのか……そう思っていたんだけれど。
観ている時には気づかなかったんだけど、これって夫婦になっている男女の設定、そのまま逆にしたら「故郷の香り」と酷似してるじゃん、と後から思い当たった。
本作は、足の悪い夫、知的障害者の妻。「故郷の香り」は足の悪い妻、知的障害者(多分)の夫。
本当にまんまだ……。しかも、足が悪い(身体障害者)ゆえに縁談に恵まれず、この相手と一緒になったところまで、ソックリ。
これは偶然なのか、うーん……。
で、そのことに思い当たった時、「故郷の香り」の香川照之は、不思議に美しかったことを思い出した。知的障害者、とまでハッキリ断定はしていなかったけれど、そうだったと思う。子供たちにはやし立てられるところまでソックリだし。
口を半開きにしてぼーっとしている表情までアプローチは同じだったけど、でもそれこそ“純粋で優しい”と思えたんだよね。
そう言葉で解説する訳じゃなかった。ただ夢の世界に飛んじゃっているような彼が、しかし自分のことを実はしっかり自覚していて、愛も自覚していて、それゆえに胸を締め付けられた。「うすのろ」なんだけど、美しかった。
……どこに違いがあるんだろう。アプローチは同じだと思う。ただ本作は、彼女の子供である紅紅がナレーションしながら物語を語っていく設定のせいか、言葉でまず断定しながら進んでいって、もうそれで安心しちゃっているような気がする。感情が追いつくままに、ここはこう、それからこう、と言われちゃっているような、違和感。
そう、娘のナレーションで先導していくのよね。それはまだ、当の娘が登場する前。貧しい田舎村の葬儀から始まる。
夫、葛望の母の葬儀。足の悪い息子と知的障害者の嫁との三人の生活を支えていた祖母が亡くなった。それを今はまだここにいない娘がナビゲーションしていく。
父のことを正直者、母のことを優しくて純粋、とまず説明する。恐らくここで私は、え?もうそんな断定しちゃっていいの?と違和感を感じたんだと思う。
ことに母親の方に……この設定はとてもデリケートな問題だから、いくら娘とはいえ、健常者の視線でそんな単純に断定していいのかと思ってしまったのだ。しかもこれは、あくまでドラマなのだから。
彼らが結婚したのは、身寄りのない桜桃を不憫に思って引き取った祖母が息子の葛望に、お前は嫁のきてもないんだから、桜桃と夫婦になって一生大事にしなさい、と命じたからだった。
彼はそれを素直に受け入れ、それを最後まで忠実に守った。まあ時々はイラだってヒドいこともしてしまったりしたけれど、確かに彼は、とてもいい夫だったと思う。
二人は、というか桜桃の方は、とても子供をほしがっていた。セックスの描写が赤裸々に出てくることには一瞬、ヒヤリとしたけれど、知的障害者だからといって、身体は大人の彼らに対して子供扱いすることこそが差別なんだということをさらりと示された気もした。
村の寄り合い場に夫を迎えに来る桜桃に、「子作りをしようってよ」とはやしたてる仲間たちに、夫はまんざらでもなさそうな顔で、仲睦まじく家に帰って、セックスをする。
時に桜桃は昼間から葛望にのしかかろうとして、焦った彼に「それは夜にやるもんだ!」と突き飛ばされて泣き出す場面さえあり、それってホントに赤ちゃんがほしいのかただ単純にセックスがしたいのか判りかねるようなところもあるんだけど……ホントそのあたり赤裸々なんだけど、でも桜桃はそのあたり、子供というよりは、本当に動物的本能でセックスと赤ちゃんが結びついていたのかもしれないと思う。
でもそう簡単に子供は出来なくて、お腹に赤ちゃんの絵を貼り付けて歩いたりしている桜桃。壁に貼っていた絵は恐らく、ご利益のあるお守りみたいなものだったのだろう、「二元もしたんだぞ!」と夫は怒って、彼女を締め出してしまう。
泣きながら夜中さまよいあるいた桜桃は、木の根っこに置き去りにされた女の赤ちゃんを見つけた。
そう、時は一人っ子政策の時代。ことにこんな貧しい村では、働き手としての男の子をほしがり、女の子が生まれると捨てられてしまうことが多かった。
吸い寄せられるようにその赤ちゃんを抱き上げた桜桃は、その途端に母親になった。赤ちゃんを連れ帰り、それまで夢中だったセックスもどこへやらで、ただただ赤ちゃんにべったりになった。
不思議なことに、こんな子供のような桜桃なのに、赤ちゃんの世話はそれこそ本能のように出来たのだ。抱き上げるしぐさは勿論、カーテンをビリリと破ってオムツ代わりにした最初から、やけに手つきが手馴れていた。
赤ちゃんを連れてきたこと、しかもそれが女の子の赤ちゃんだったこと、しかもしかも桜桃がセックスを拒否するようになったことで葛望は戸惑い、苛立ちを隠せず、ついにはその赤ちゃんを都会の夫婦に引き渡してしまう。
この物語は成長した娘の視点からのナビゲーションだけど、クライマックスはここで終わってしまったようにも思う。
赤ちゃんを連れ去る車を狂ったように追いかける桜桃、そのまま都会までさまよい出て、同じ色の車を探しまくる。
何日も何日も帰ってこない桜桃、事情を知った村の人々が「人でなし!桜桃があんなに可愛がっていたのに」と葛望を罵倒する場面で、この村の人々が桜桃を真に理解し、家族のように受け入れていることを感じる。
それは子供の時には「うすのろ」とはやしたてながらも、そういう時を経るからこそ桜桃がどういう事情を持っているのか、どういう存在なのかを理解し、受け入れられるようになることを示唆していて、ここはちょっと、感じ入るものがある。
「そんなことを言うべきじゃありません」と言うべきではないのかもしれない、と思うのだ。
それに葛望もまたセックスの相手ではなく(ちょっと、そう思わせるような描写もあったケド……)妻である桜桃を本当に愛しているんだから。
妻を探し始めた葛望は、騒ぎに遭遇する。それは、色も形も似た車に乗っていた夫婦から、桜桃が赤ちゃんを奪い取って逃げ出した場面だった。
捕まって、足蹴にされる桜桃に慌てて駆け寄り、「あれはよそ様の子だ、紅紅じゃないんだ!」と必死に押さえつける葛望、咆哮する桜桃……。
俯瞰の画で示すこの場面は胸に突き刺さり、「父は泣き叫ぶ母に心を痛め、私を引き取る決心をしました」なぞとナレーションせずとも、充分に涙を誘う。
そして紅紅の幼少期。この頃が一番幸せだったと、ナレーションの紅紅は回想する。しっぽのように母にくっついて歩いていた時。同じ年頃の子供たちからはやしたてられる「うすのろ」という言葉も理解できないまま、ただただ母と遊ぶ時間が幸福だった。紅紅のために木に登って、たくさんのさくらんぼを取ってくれる母。
父に「うすのろ」の意味を聞いてみても、「母さんのおかげで、お前はここにいるんだよ」という言葉だけが返ってきた。その意味を、紅紅はその時、理解出来なかった。
で、その幸福な場面がさらりと終わると、今度は多感な少女時代が到来する。当然ここに至ると彼女は、他人とは明らかに異質な母を疎ましがるようになるんである。
それはね、確かにこれって、こういうのって、どうしたらいいのかって、思っちゃう。
桜桃はただただ紅紅が大好きで、だから学校までついてきちゃうし、宿題を手伝ってやろうと思ったのか、ノートに“落書き”をしちゃうし、その度に紅紅は同級生たちにからかわれたり、先生にも理不尽に怒られたりして、本当にかわいそうなのだ。そりゃ桜桃を疎ましく思うのもムリはなくて。
ただ、その感情があまりに唐突にカラリと裏返るもんだから、ちょっとあれ??と思っちゃうのよね。
いやもちろん、それには充分な事件は用意されている。雨の日、傘を持って紅紅を学校まで迎えに来る桜桃。しかしその日、紅紅は母が自分を追ってこないようにと、外からカギをかけていたもんだから、閉じ込められた桜桃は窓からどしゃぶりの外へと飛び降りて、迎えに来てくれたのだ。
雨の中佇む母の姿に、紅紅は多分、自分のしてしまったことと、そして母への愛、母の愛を感じたんだろう。いつものようにはやしたてる同級生たちに猛然と突っかかっていく。返り討ちにされそうになった紅紅を助けようと、桜桃はその同級生を追い掛け回して、ぶちのめしてしまった。
……こりゃあ、マズい、と思っていると案の定、その同級生の親たちがやってきて、ウチの息子にケガさせやがって、治療費払え、と凄むんである。夫は「桜桃!また問題を起こしたのか!」と妻を棒で殴りまくった。
泣きながら身を縮込ませる母をかばって、「私が悪いの!」と泣き叫び、「おじさん、おねがい、お父さんを止めて、母さんが死んじゃう!」と乗り込んできた同級生の親に懇願する紅紅。
さすがにいたたまれなくなった親たちは「今回だけだぞ」と言い捨てて去っていった。夫は一転、今度は彼が泣きながら、「金がないからこうするしかなかった」と桜桃に侘び、親子三人で泣きじゃくる。胸をつかれるシーン。
その後、熱を出した紅紅を両親が病院に担ぎ込むなんていうシークエンスもあるんだけど、この治療費は出せるのか?なんて思ってしまう私って……。だって結局は風邪ですねのひとことで終わり、それなのに何日か入院なぞして、うーん入院費……などと思ってしまうんである(爆)。
で、これらの事件は確かに大きなものではあるんだけど、「母の深い愛情を知った」とナレーションを挟んでからは、今までのことがウソのように、5歳の頃みたいに母親べったりの仲良しこよしになってしまうのが、ちょっと待てー!とか言いたくなるのだ。
……だってこの年頃って、そんな単純にいくかい?相当多感な時期で、淡い初恋なんぞも描かれるのに。
あ、そうそう、この初恋にしたって、ただ、彼に好意を持ちました、ってだけで、そのことが紅紅に何を及ぼしたのかとか、あるいは彼が彼女の母親のことをどう思っていたのかとか、その態度とか、一切示されないんだよね。
都会からきた転校生、という設定はスリリングなのに、彼はこの田舎の村でその特殊性を特に活かすこともなく、ただボンヤリと存在するだけなんである。
……なんか、赤ちゃんを取り戻した前半部分で勢いを使っちゃったような気がするほど、少女時代からはツメが甘くなってしまう気がしてならないんだよなあ。
やっぱりこの娘が、そうした微妙さをまるで漂わせてないのが最も共感しづらいところだったのかもしれない……“理解”に至るのがあまりに唐突なんだよね。
でね、その後、桜桃は突然行方不明になる。娘の誕生日のために大好きなさくらんぼを摘みに行って、そのまま帰ってこなくなっちゃうんである。本当に、最後まで。
これもね、母親がいなくなって、どうやら川にはまったらしい、とその遺留物が発見されるまでの数日間、村長がコトを知らせにきた時もいつものように宿題なんぞをやってるしさ、その数日間を苦悩の中で過ごした、みたいな描写がまるでなされないのには拍子抜けしてしまうんである。
いやそれこそ、そんなことをわざわざ提示するのは返ってベタなのかもしれないけど、でもそれにしても、村長が知らせにきたら夫も娘も日常から起こされたように急に、見つかったのか、無事なのか、と慌て出すのが、なんか猿芝居のようにさえ思えちゃってさあ……。
で、川のほとりで、お母さん、お母さん!と泣き叫ぶ娘に、あら?ここで遺体が見つかったというわけではないのか……などと思っていると、唐突にシメのナレーションが入る。そのまま母は帰ってきませんでしたと。私は父の希望通り医学部に入り、云々……みたいな。
で、またまた唐突に、モノクロの思い出写真がカシャカシャと挿入され、さあここで泣きなさいとばかりに示してくるのだけど……この唐突な行方不明事件と、唐突な演技に跳ね返されてしまっているこちらとしては、えー?これって何よー、とただ呆然とするしかないのだ……。
「故郷の香り」とは、どこが違ったのかなあ。愛情を示すのが伴侶ではなくて子供であったことが、難しかったのかなあ。いやむしろ、子を溺愛する愛情の方が、描写はしやすい気がするんだけど……。
なんか、こんなことを言うのもはばかられるんだけど、知的障害者としての表現に気をとられるあまり、その他、特に娘の感情の移り変わりがおろそかになってしまった気がしてしまう。むしろ、それこそがこの物語においては大事だったんじゃないのかなあ。
どっちにしろ、健常者の目から知的障害者を描くのは、よっぽどデリケートに考えないと危険なんだよね。不遜になっちゃうし、単純に感動物語になんて、出来ない。
「歌舞伎町案内人」の監督さんだということは、観終わってから知った。宣伝は「初恋のきた道」の脚本家ってことだけなのよねえ……仕方ないのかな。★★★☆☆
攻撃、そうだ、まさに攻撃だ……。途中思わず耳栓をしてしまったほど、鼓膜が破れるかと思うほどの爆音は、しかしノイズではなく、人の声や、生活音からなされるという衝撃。もちろんヒロインの恐怖や不安から来る悲鳴や息づかいの凄まじさも、容赦なく鼓膜をキリキリと刺激してくるんだけれど。
例えばゴミ袋のガサガサという音、例えばカギについたキーホルダーの鈴の音、例えばヒロインがぐるぐるまきに拘束されるガムテープの音、そんな日常のありふれた音の全てが、こんなにも痛いぐらいに耳障りなのかと、驚く。
これはビデオで見てしまったら、監督の意図するところの半分も伝わらないだろうと思われる。この爆音で見るからこその嫌悪感、焦燥、不安、恐怖、その全てであって、それらでは語り尽くせないもの。
こんな超個性的な監督のヒロインとして、二度も呼ばれていることに驚愕を覚えてしまう。溝手嬢。「出れない」ではどちらかというと受けの演技だった彼女が、本作ではホラームービーのヒロインよろしく絶叫と過呼吸気味を実に耳障りに発してくる。
しかし、やはり彼女は受けであるのかもしれない。もう一人のヒロインとも言うべき、彼女の部屋に突然押し込んでくる女、これぞホラー映画のモンスター、秋津ねを。
連続殺人犯として指名手配されている彼女の、そうした犯罪者としての恐怖は勿論、もう三十路を過ぎた女の動じない落ち着きっぷりの方が怖いかもしれない。だって、犯罪を犯してもう人生どうにでもなれと思っているような“若さ故の弱さ”は既になく、もう彼女は、犯罪者である自分こそが自分自身である、とでも言った自信に満ち溢れているんだもの。
ひょっとしたらそれが最もコワいのだ。おくせず見せるカラミとヌードも、30過ぎた女といういわば開き直りのオーラを発していて、色香とか恥じらいとか、そんなくだらないものは一切脱ぎ捨てているのだ。
こんな状況じゃなければ、彼女のことをカッコイイと思えたのかもしれないと思うほど。
なんて、またまた先走りすぎなのだけれど。で、本当のヒロイン、清手嬢演じる有田鳴海はというと、犯罪者に押し込まれる前から、確かに受け身な気分マンマンではあるのである。
彼女は現在、引きこもりである。という設定は、「出れない」で既に課せられている。ひょっとして福居監督の今興味のある題材なのだろうか、などとうがってしまう。
しかし「出れない」の彼女は、引きこもってはいるけれど見た感じでは割とフツーで友達も遊びに来てるし、そんなせっぱつまった感じはなかった。
しかし、本作の彼女はストーカーの不安にさいなまれ、その不安を紛らすために酒をかっくらうものの、ちっとも酔えなくて、紛れなくて、更に酒をかっくらう、という、見た目からもうネガティブ100パーセントの引きこもり。
テーブルの上にはワインやらバーボンやらと、色とりどりの酒のビンが林立していて、なんだかちょっとオシャレに思うぐらいなんである。
そのストーカー野郎、もともとは鳴海がつき合っていた彼氏だった。それは、あまりにトントン拍子に行き過ぎた。
鳴海は手帳にカンタンな日記をつけていた。初めてのデートでのいきなりのキス、彼、伸一の部屋を訪れて結ばれるまで、あっという間だった。自分でもヤバイと思うほどの超特急。
でもその後、彼からの連絡は途絶えがちになり、次に会った時にはもうケンカ、別れ話が持ち上がる。言ってしまえばあまりにもありがちな話。
でも計算外だったのは、その別れたハズの彼氏が、彼女にイヤガラセよろしくつきまとうようになったことだった。
イタ電やらなにやらで、派遣社員だった彼女はあっという間に会社にいづらくなった。暴力も受けた。すっかり怯えきった彼女は彼から逃げるために引っ越し、それでも不安で部屋に引きこもるようになる。
そうした全ての日々が箇条書きに日記に記されている。それを震える手でめくる鳴海。せっぱつまった画。
しかし彼女はなぜそうして、苦しかった日々を確認するかのように振り返るのか。現実を確認するように、自分が現実に生きていることを確認するように?
しかし、終わってから思えば、果たして鳴海のこの記憶、伸一との恋や、ストーカー行為に悩まされた日々は、果たして本当だったのか?彼女の妄想だったのではないのか。
という虚実のあいまいさは、「出れない」でも感じたことである。
それは私が勝手にそう感じているだけで、明確にそう示唆する要素がある訳でもないし、それこそ私の妄想なのかもしれない。
でも、鳴海がある時点で現実に引き戻された時、書き綴っていた筈の日記はすべて白紙の状態だったし、そのことにこそ、彼女は絶望の絶叫をあげるのだ。それってむしろ、自分がカワイソウな状態の妄想に浸っていた方が幸せだったってことじゃないのか?
いやいや、やはりそれはうがち過ぎなのかもしれない。それになにより、この殺人鬼、坂元愛子が鳴海の部屋に押し入ってきてからの恐怖ときたらないんだから。
恐るべき張り詰めたテンションは全編を通してそうなんだけど、愛子が登場してからはよりそのテンションの具合がぐっと上がるんである。
鳴海はずっと部屋にこもっていたんだけれど、ふとたまったゴミ袋が気になって、意を決して捨てにいった。
妙にはなれたゴミ捨て場。彼女の住んでいるアパートのゴミ捨て場がゴミの曜日じゃなかったのだろうか?歩道橋を渡ってどんづまりのところにガサリと投げ捨てた。そこに、愛子の指名手配のポスターが張ってあった。
なんとなく、気配を感じていたのか、鳴海は早足になる。いや、それはただ単に、ストーカーである彼氏のことを頭に思い浮かべていただけなのか。
いや、アパートの階段あたりから、明らかに自分とは違う足音が後ろから聞こえていた。しかも追いかけるような足音、段々早くなる。
ガチャガチャと焦ってカギを開けた鳴海、そのままドアも閉めずに飛び込むと、その後ろから黒い影がバッとばかりに駆け込んでくる!このシーンの怖さときたら……まさにまさに、ホラー映画の王道そのものなのだ!
なんのしがらみもない筈の愛子が、なぜ鳴海の部屋に押し込んだのか、なぜ鳴海を縛り上げて、脅しつけるようなことをしたのか。
タイトルからは、ただ単に追われている身の愛子が時間稼ぎをしたいだけなのかとも思われるけれど、どうも違う、というか、愛子が登場してからただでさえ普通じゃなかった鳴海の精神状態や、記憶や……がどんどんごちゃごちゃになってくる。
しかもこの愛子は、なんだか奇妙な能力を持っているのだ。鳴海の手帳を探し当て、日記を読み、鳴海が苦しんでいることを知る。鳴海の額に手を当てる。記憶が流れ込んでくる。辛い思いをしたんだね、と鳴海を胸に抱き締める。鳴海は相変わらず恐怖に怯えて抵抗したままなんだけれど……一体、この愛子は何者なの?
最終的に、彼女は鳴海の元カレである伸一との濡れ場っぽいシーンも出てくる。しかしセックスが成立したのかしないのかさえ判らず、憤然とした伸一は風呂場に行く。
そのカレを見つめる愛子のショット、ベッドに仰向けのままの彼女の視線の角度なので、彼女の乳房がスクリーンの手前に生々しく山形を作っていて、それがエロティックというより、素の女のリアル過ぎて、寒々しさを覚えるほどなのだ。
ふと身を起こした愛子は、彼を追って風呂場へと歩いていく。その手にはカッターナイフが握られている。実は、このシーンとどちらが先だったのかすら、私の記憶は情けなくもさだかではない。
現実に引き戻された鳴海が、風呂場の中に血まみれの二人を発見したのと、それに至るいわば説明的シーンであるこっちとが、どっちが先だったのか。
しかもあの部屋は、鳴海のアパートとソックリな気がするのは……気のせいなのか。殺したのは、鳴海なのか?二人とも?
だって鳴海が見つけたとき、バスタブの中に血まみれの二人が……でも、でも、絶叫した次の瞬間には何もなくなっていた。一体何が真実なの?もう、気が狂いそう。
突然の闖入者であるはずの愛子が、鳴海の元カレと面識があるとも思えず、じゃあこれは鳴海の妄想なのか?
愛子に血を与えられ怯える鳴海、この血じゃダメなのネと愛子がつれてきたのは、青いビニールシートをかけられた血まみれの伸一の死体?一体、一体!?
驚愕する鳴海に、愛子はその血を与えようとするんである。なんなの?一体、何が起こっているの?誰か、助けて……。
血がこの特殊な能力を覚醒しているの?確かに、鳴海の頭の中にも奇妙な映像がスパークを始めるし……。彼は鳴海が殺したの?それとも……それとも!
もうこうなってくると……爆音ノイズが脳みそをかき回す度合いも最高潮に達していて、観客(というか、私)の理解力もかなり低下しているし、果たして鳴海が悩まされている過去の記憶自体が、どこまで本当なのかと怪しく感じてきてしまう。
大丈夫か、私、いや、鳴海!彼女の記憶は、伸一に暴力を振るわれた公園で立ち尽くした自分を中心にぐるぐると回りだす。それは今の自分?あの時の自分?そもそもあの時の自分なんて、あったの?
でも、物語なんて、筋なんて、謎解きなんて、どーでもいいのだ。この恐るべき緊張感、死にそうになるテンション、鼓膜が破れそうな人間の魂からの恐怖の悲鳴、狂ってしまう。
こんな狭いコヤに押し込められて、そう、“拘束”されて、こんなものを見せれられたら、狂ってしまう!!
12年前、フィジカルなショックが大きかった気がする福居ショウジン監督が、そのレベルを落とすことなく、精神を破壊するサイキック監督として還ってきた。これはかなり恐ろしいこと、かもしれない。★★★☆☆
今回の香取君的位置にいるのは、香取君以上にみんなの愛玩物(ペット)的雰囲気を醸し出している妻夫木君で、それは心配なんかする必要はないのだ。彼の前ではもうみんな油断しちゃうし、それはかの佐藤浩市でさえもそうなのだから!
そう、この佐藤浩市が、もちろん監督の意図するところを完璧に汲み取っているとはいえ、ペット君であるつまぶっきーに引きずられる形で、客観的に見れば至極オマヌケでおめでたい男を大真面目に演じて、観客から超爆笑をとるだなんて、全く想像しえないことだった。まさかあの佐藤浩市が!って。
でもそういうアタリはもちろん、三谷監督のツボにはまるところなのだろう。まさかこの人が、という人がコメディにハマった時の、おかしさ。あるいは監督には最初から、佐藤浩市という人はコメディ向きに見えていたのかもしれない。天才の感性、恐るべし。
それにしても三谷監督っていうのは、ほっんとうにザ・フィクションの世界を作らせたら、彼の右に出る人は恐らくいないよね。というか、フィクション以外のものを作る気も、本人、恐らくないだろうし。
あるいはフィクション映画の中でも、現代社会を映したリアルな設定だとか、役者のリアルな演技とか、そんなものにも一切興味がないのだ。
完璧なカキワリ、完璧なセット、街並み、カラフルな衣装、全てが嬉しくなるぐらい、ザ・フィクション!ザ・エンタテインメント!
ロケなど全く考えず、まるまる一個の街を全てセットでという監督の超高難度なリクエストに見事に応えた、世界の種田氏の美術は、彼の仕事の中でも最高傑作ではなかろーか。
ラストクレジットにはこのセットの立て込みから、ファーストシーンが撮られるまでを定点カメラで映し出してる。三谷監督の種田氏の大仕事への大尊敬がうかがわれるのも嬉しい。
そうそう、脚本・監督の三谷氏自身のクレジットは、他のスタッフのクレジットの横に並んでちんまりと、ますます控えめになっちゃってるし(笑)。
勿論この作品に関しては、監督の敬愛するビリー・ワイルダーな要素があちこちにちりばめられているんだろう。でもそのカキワリチックなフィクション味は、その大御所、ビリー・ワイルダーでさえ、ここまで執拗には追及しなかったんじゃないかと思われるぐらい。
しかも、ご丁寧なことに、劇中冒頭、綾瀬はるか嬢演じる夏子に、「あのホテルも、あっちのビルも、でっかいセットに見えません?ヤクザに殺し屋だなんて、とても現実の話とは思えない。まるで映画みたい」とわざわざ前置きさせるのだもの。
それは勿論、その台詞を発しているはるか嬢自体がまんま、その映画スタジオのセットの中でそう言っているのもあるし、これから始まる物語が、映画を撮っているという設定で騙して、役者を連れてくるというのにもリンクしていく。
仕掛けるつまぶっきー演じる備後君が、自分の命をなんとか守るために必死になって計画したことも、彼に雇われた売れない役者の村田大樹(佐藤浩市)にとっては、どこまでも芝居、映画、フェイクなのだ。
勿論村田は役者に命をかけているし、一回一回、心からの芝居をし、備後君もウッカリ「本当の殺し屋だと信じてしまいそうだった」とまで引き込まれる。そして全てがバレて、その魂の芝居のひとかけらもフィルムに収められていなかったことを知った村田は、まるで命が削られたかのように落胆をする。
でもそれでも、村田の芝居はあくまでフィクションなのだ。しかしそのフィクションが現実を凌駕していく。でもその現実さえも、この「ザ・マジックアワー」という大いなるフィクションなのだ!!
いやー、やっぱり三谷監督は、まあそりゃ舞台出の人ではあるけど、やっぱり、シネフィルだよね。フィルムというウソに焼き付けられるホントを愛している。いや、そのホントはウソなんだけど、というどうどうめぐりのややこしさを、あのややこしい顔して面白がっている。
しかもウソの筈のフィルムにほんのわずかだけ映し出された命のかけらに、村田が涙するシーンにジーンとし、映画はやっぱり人生だ!などと、思っちゃうじゃないの!
と、もはやネタバレにさえならないほどに、突っ走ってしまったが(突っ走りすぎた)。いやだって、物語の面白さ、語りの秀逸さはいくら言ったって、誰もが知っていることだからさあ。
そう、こんな話、現代日本に存在するなんてことを言っちゃうこと自体、スゴすぎるのだ。
ヤクザのボスの女に手を出して、彼女共々危うく殺されかけた主人公、小さなクラブ「赤い靴」の支配人である備後君は、しかしそのボスから、伝説の殺し屋、デラ富樫に会わせてくれたら命を助けてやる、自分は彼のファンなんだ、と言われる。
助かりたいばっかりに自分は彼の知り合いだ、などとウソをついてしまった彼、その富樫が誰も顔を見たことがない幻の殺し屋であり、捕まえるのは不可能だと悟った時、トンでもないことを思いついたのだった。誰にも顔を知られていないような売れない役者を雇って、映画の撮影だと騙して演じさせちゃおうと!
前半は本当に、騙されてここに来ている村田と、彼を騙している備後君という図式に、備後君側の視点でドキドキハラハラしっぱなしで、なかなか笑うどころじゃなかった。でも次第に、村田の役者としての情熱に巻き込まれ、ヘンにヨユーが出来たというか(笑)。
そうそう、佐藤浩市が登場する場面だって、そうしたフィクション、カキワリのマジックが既に仕掛けられている。
夕暮れの空をバックに、夜になる前のほんの短い時、つまりマジックアワーの話を熱く語っている彼、それはまるで映画のワンシーンのようだったんだけれど、マネージャーから声をかけられて中断するそれは、夕暮れの空は描かれたカキワリだし、それを聞かされているのは若いスタッフなのだった。
カキワリが運ばれだして、映画のクレジットが流れ出す。佐藤浩市が語っていた「ザ・マジックアワー」!
佐藤浩市に売れない役者を振るのも凄いけど、売れない役者として演じている佐藤浩市を袖にしまくる描写も凄い。唐沢寿明演じるスター、ゆべしは、彼のクサい演技に何度もストップをかけるし、市川崑演じる監督は、彼を主役の磐田(中井貴一)のスタントに起用する。
ちょ、ちょーっと待て、市川崑!中井貴一のスタントってところも、ここに既に日本映画の歴史の流れを感じて凄いけど(それを言ったら香川照之もいるし!)、市川崑が、しかも「黒い101人の女」(!!!ディズニーとも絡めてるのかよ!)を撮っている監督としてスクリーンに現われているのも凄すぎる。
黒い101人の女に詰め寄られて、撃たれて落っこちてしまう佐藤浩市……。市川監督まさに最後の姿、しかも黒い101人の女!ううう、さすがシネフィル三谷監督、見てるこっちまで感無量。
アメリカ映画に造詣が深い三谷監督だけど、ホント、日本映画もすんごい愛してるよね。劇中映画として登場する、村田が愛してやまない、役者を目指すきっかけになったという「暗黒街の用心棒」という映画は、まさに往年の日本のドンパチ映画の流れをきっちりと踏襲して、ほんのワンシーンだけ流れる画も、そして勿論ポスターもかんっぺきなのだ。
このたった一作だけで表舞台から消え去った、高瀬允という役者の存在がまた素晴らしく、それをほんのワンシーンで表現する谷原章介も、あ、彼ってクラシックが似合う人だったんだと思い、そして確かに谷原章介が年老いたらこんな顔になるだろうと思わせる、今でも「明日のマジックアワー」を信じて役者を続けている老・高瀬允を演じる柳澤慎一のダンディなカッコよさときたら、もおー、ないのだ。「諦めるのは早すぎる」と、手さばき鮮やかに拳銃をくるくるっと回して、ニッコリと村田に手渡したりしちゃうんだもん!
だーかーらー。また先走ってしまったじゃないの。もはやもう順序もメチャクチャ(爆)。
まあ、だからね、とにかく村田は売れない役者で、だから備後君に目をつけられた。ギャング、殺し屋、という設定に、新人監督で、脚本もないというムチャクチャな状態なのに、あの「暗黒街の用心棒」のファンだという布石が打たれている彼は乗り気になっちゃう。まあそれも、散々役者のプライドを傷つけられた後だったからなんだけど……。
だからこそ「オールアドリブかよ!」っていうのが、あり得ないこととしてではなく、役者としての自分の力量を試される、あるいは信用されているって方向に取って、もう舞い上がっちゃうんだよね。で、この寂れた港町、守加護(すかご)にやってくる。
でもね、自分が必要とされていること、っていう、思えばこれほどクラシックな設定もないってことが、このザ・フィクションな映画のウラテーマになっているとも言える。
村田はこの現場に、自分が必要とされていることに感激したからこそ来て、芝居にのめりこんで、今まで自分から一度も出たことのなかったような演技が引き出されたのだし、そしてボスにいいように縛られているとばかり思っていた愛人のマリ(深津絵里)が、この人は自分がいないとダメなんだと、自分だけが必要とされているんだと実感して、ボスの元に戻っていくのだし。
備後君だけが、その場所をこれから探さなきゃいけないんだよね。つまぶっきーは何たってペット君だから、誰からも愛されるけれど、自分がいなきゃダメだって言われる人がいるキャラじゃない。
いやいや(笑)、今の時点の備後君にはそれがない。お前ならどこに行っても大丈夫だと村田に言われる備後君、これからの彼は、それを探す旅なのだ。
うーんでも、もしかしたら彼のそばでいつもいつも心配し続けていた一途な女の子、夏子の存在に気づくのかもしれないけれど。
いやいやだから、また訳も判らんうちに、最後まで行っちゃったって。えーと、だからね、村田は売れないけど、スタッフには長年の信頼を築いている仲間がいっぱいいるし、彼らがいるからこそ、売れない役者人生でも、今まで続けられたのかもしれない。
そういえば、後に村田が、この街で偶然CM撮影をしていた憧れの高瀬允から、こう言われるのだ。私がスクリーンでカッコ良く見えていたとすれば、スタッフのおかげだと。いいスタッフにめぐり合うことが大事ですよと。
村田は、その要素は既にあるんだよね。でも、そう、最大のスタッフである監督、相性のいい監督に出会えてなかったってことだと思うのだ。
それが、実際に映画を作るために起用した訳じゃなかった備後君だったってのは、大いなる皮肉だけど、素晴らしいマジックなんである。
この古い街並みが重宝されて入り込んでいるCM撮影隊を、ガス漏れがあったとか騙くらかして、ちょいとカメラを拝借したりして、なんとかインディーズの少数精鋭のゲリラ撮影、てな状況を再現して、疑惑の目を向ける村田(というか、彼のマネージャー)をギリギリ納得させて“撮影”を進める備後君たち。
勿論、村田以外は、これが映画の撮影だなんて思っちゃいない。いやいや、映画の撮影じゃ、ないんだから(笑)。それを巧みな台詞のすりかえやリンクで切り抜けて(って意識は勿論、村田にはないわけだけど)いくのがサイコーでさ!
「カットっていうのは、彼のニックネームです」と苦肉の策でヤクザの手下たちに備後君が言えば、それを受けてカットと呼びかけてしまった部下の黒川(寺島進)に、「なぜお前がカットっていうんだ!カットって言っていいのは、この人だけだ!」と村田が大激怒。勿論村田は監督への信頼でそう言ってるんだけど、彼らはこの大物殺し屋がそこまで心を許している相手だと思っちゃうわけで!ていうか、なんかラブな雰囲気も醸し出してて、サイコー!
“富樫”の力量を試すためにつれてこられた波止場での武器密輸の場面、「どこからオレを狙ってるんだ」と言い、その場所まで当てて見せる村田。勿論村田は、カメラのことを言っているんだけど、裏切ったら殺すつもりで下っ端を潜ませていた黒川は「なぜ判った」と顔色をなくす。
取引相手との銃撃戦にも、(撮影だと思ってるから)ヨユーで銃をバンバン撃ち込む村田に、黒川は「ヤツはホンモノです。敵の銃弾の中を笑いながら転がってました」とボスに報告。もー、爆笑!だって、その時の村田は、まさに“クサイ演技”大全開だったんだもん!しかも最初はホンモノの銃の音を間近に聞いちゃって、鼓膜破れそうになってるしさ(笑)。
この役にノリノリの村田は、当然ラッシュを見たがるんだけど、撮っている筈もないから、ラッシュはない、完成までの楽しみだ!と備後君は言い続ける。
でもね、この波止場のシーンは確かに、すんごい迫力だけど(そりゃそうだ、ホンモノの相手に、ホンモノの銃撃戦なんだから)そこでの村田の芝居は、やはりまだ、“必要とされている”ものじゃない。彼が後に見る“ラッシュ”は、もっと撮影が進んでからのものなのね。
売れない役者人生が長い村田は、持ち物やメイクも自分で調達する。ゴム製の拳銃で自信たっぷりに脅しをかける彼に、逆にヤクザのボスは「凄い度胸だ」と信用しちゃうんである。
しっかし、ボスの部屋に入るたびに、村田は役者としての経験から、「そう、オレがデラ富樫だ」という自己紹介のシチュエイションからもう一回始めちゃうもんだから「これ、聞いたことがある気がするのは、オレだけかな。」「またそこからやるんだ……」とつぶやくボスの西田敏行のアゼンとした表情がサイコーでさ。
しかもその度に村田はボスの机にどっかと腰掛け、目をひん剥きながら、机の上のペーパーナイフをあらゆるバリエーションでなめまくる(爆笑!)しまいにはボスが、「そんなに好きならあげるよ」というのにも大爆笑!
そういやあね、村田が持ってきた大きな丸い荷物が何なんだろうと思っていたんだよね。そしたら、この場面で、いきなり窓から飛び降りる村田!備後君が一番驚いて(そりゃそうだ)急ぎ窓に駆けつけると、びよーんびよーんと飛び上がってくる村田、って何ー!と、トランポリンて!
「監督にオレのいろんな引き出し、見てもらいたいんだよ」頭を抱える備後君。観客はもう、手を叩いて喜んじゃう。佐藤浩市がトランポリン、っていうこの場面が三谷監督の頭に一番最初に浮かんで、そこから出来上がっていったってんだから、天才の感性はホント、恐るべし……。
メイクにもこだわる村田、しっかり目張りまで入れちゃって、備後君に叱られるんだけど、しまいには黒川に連れられていく車の中でメイクをしだす。「見え方が大事だろ」という彼につられて、彼のメイク道具を借りて眉毛を描いちゃう寺島進には爆笑!
でもね、村田の、こういうある種古くさい役者道っていうのは、でも今の時代は失われているからこそ、ぎくしゃくしちゃってるのかな、って気もするんだよね。
見え方っていうのはつまり、他人からどう見えるか、でしょ。村田が売れなくてもスタッフにはウケが良かったのは、そういう気質があったからだし、昔の仁侠映画の中のヤクザが無法者の嫌われ者ではなく、どっしりとした存在感の慕われる存在だったのもそうだよね。
それこそ、今じゃ成立しない、劇中映画の「暗黒街の用心棒」が生きてくる。
ニセモノを騙っているんだから、当然本物のデラ富樫が黙っている訳もない。そこまで備後君が考えていなかったあたりがあまりにもウカツというか、それこそが全国民のペット君たりうるブッキーである。
村田をデラ富樫として雇ったボスが、富樫の雇い主を知っていると思わなかった時点でアウト。いや、確かにまさかとは思った……富樫のファンだから彼に会いたいと言っていたのに、と。でもそれなら、「私から彼の雇い主に連絡する」と言った時点で気づかなきゃいけないのよね。
その雇い主が、江洞(香川照之)。電話を受けたその目の前に、ホンモノのデラ富樫がいる。この時点では顔を見せない。プライドをキズつけられた彼は、中華料理の回転テーブルの上でしょう油の小瓶を倒す。小瓶なのに、蛇口のようにしょう油がどんどんどんどん、とめどなく流れ出す。こういうちょっとした遊び心が実に、ザ・フィクション、ザ・エンタメなんである。
そんでもって、まさに満を辞して最高潮のクライマックスで現われる、ホンモンの富樫の存在感が凄くてさ!
細身の黒のロングコートに、角張った細い黒縁メガネ、神経質そうな顔をその中にうずめて、不気味に立ち尽くす存在感にゾクリとくる。なんか、「カポーティ」のフィリップ・シーモア・ホフマンを細身にしたみたいな異様さ。いやまあ、その存在感は一瞬で、村田の役者最後の“マジック”に巻き込まれて、ほうほうの体で逃げるんだけどさ。
でも私、彼が港ホテルの喫茶でいつもお茶飲んでいる老医師だとは気づかなかった(爆)。だって、キャラというか全然印象違えてたんだもん。温厚な老紳士と、シャープな殺し屋、後者のカッコよさが際立っていただけに……。同じ人物だと判らなかったのは私だけ……だろうなあ(爆爆)。
あー、また先走っちゃった。もー、メンドくさいからこのまま、行く。捕まって危うくコンクリ詰めにされそうにまでなって、「監督、これ映画じゃねえな」とようやく全てを悟った村田。自分の身と引き換えに彼らを助けてくれたマリを救い出しにいこうと、もう一度力を貸してほしいという備後君を振りきり、この町を後にする。
しかし、ずっと身につけていた、お守りの毛布の切れ端がないのに気づき、取りに行った街の名画座、焼いたフィルムの中にヘンな映像があると、確認をしていたCM撮影スタッフに遭遇。フィルムの中に紛れ込まれた、富樫を演じた自分の演技を見た村田、思わず涙を流す。
だってそれは、いつか大きなスクリーンに映る自分を見たいという夢が(自分を含めてたった三人の観客だったとしても)叶った瞬間、しかも自分自身でさえ見たことのない、役に身を捧げた姿だったんだもの。
まあそれは、声がなくサイレントだったからかもしれないけど(爆)。でもそれもさ、超、クラシック映画へのオマージュだし、とにかく脚本を重視して、つまり興行としての成功が第一で、っていうことへの、役者というのはなんなのか、ってな問いかけにも思えたんだよね。そしてそれを、村田はここで見つけたんだと思うんだ……。
でね!その村田のマジックってのがサイコーでさ!もー、ここは、まさに映画のマジック。
役者をやめる決心をした村田、ならばと信頼している仲のいいスタッフを東京から集め、マリ救出のためのシナリオを、まさに映画の場面として演出し、役者の最後の華を飾ろうとするんである。
映画、それも村田はアクション志向、そしてヤクザ映画、ギャング映画といえばドンパチ、もうそれ系のスタッフを万全配備、ボスのウラ稼業のウラ帳簿を記憶している会計係を国税局に引き渡すための大芝居を、必要以上に過剰演出するハズだった。
会計係をマンマと逃がすまでは予定通り。しかし、そこからあとは予定外。マリを自由にする筈が、マリに執着している筈だったボスが、「村田とマリが蜂の巣にされ、車が大炎上」という予定の、ハデなクライマックスをブチ壊す、予想外の行動に出たのだ。
密輸が失敗した外国マフィア、という設定のスタッフたちに撃たれそうになる(勿論演技)村田の前に立ちはだかり、せっかくの、役者最後の名演技を披露する筈の村田の見せ場を奪ってしまう。この男は悪くない、私を撃て!と。
感動したマリが、ボスに抱きついて、ズルズルのハッピーエンド!?一体何のためにこんな大芝居を打ったのか!あぜんとするつまぶっきーの顔がもー、サイコーでさあ!
あ、だから、村田のマジックの話だっけ。それはその後。ズルズルのハッピーエンドになってしまって、せっかくのハデなアクションシーンが見せられなかった、と意気消沈の備後君たちの前に、ホンモノのデラ富樫が!
しかしそこで村田、役者人生一世一代の大芝居!ホンモノの富樫は、銃なんてなくたって人を殺せるんだ、なんて言いだすから何をするのかと思ったら、もともと仕掛けられてた備後君や夏子の弾薬を、手ピストルでバンバン言いながら、アイコンタクトでスタッフさんに爆破させる!
「ああー!」なんてくるくる回りながら倒れるクサイ芝居のはるか嬢らも爆笑なんだけど、あぜんとするリアル富樫に村田が「もうちょっとこっち寄って」なんて指示を出し、何となく彼が従っちゃうと、スタンバイされてた弾薬が、富樫の両脇で凄まじく爆発しまくり、背後の車がハデに炎上!
伝説の殺し屋、すっかり固まって、きびすを返してすたこらさっさ、登場したリアルスナイパーのオーラが凄かっただけに、このギャップには観客もアゼン!いや、フィクションはリアルさえも凌駕するという、監督の強い意志が込められていたのかもとさえ思う!
でもさあー、ボス、月に乗って歌う、ステージ上のマリにホレこんだのに、台詞でもそう言っていたのに、それなのに、これから先、一緒に生きていけるのかな、とちょっと心配にもなるが……。
もうこのボスの時代は終焉に近づいてて、新興ヤクザの江洞に町はほぼ牛耳られかけているのだもの。これからは地獄だぞ、と声をかけるボスにしかし夏子はニッコリと「望むところよ」
まあ、大丈夫か。人生の辛酸をなめてきた夏子だもの。
なんか流れ的に触れられなかったけど、村田のマネージャー役の小日向さんが、結構場面をさらっちゃうのよね。どこか小姑的なキャラなんだけど、それは、「私が村田の一番のファンなんです」というのも泣かせるし。
一番サイコーだったのは、ヤクザから遠隔で撃たれてしまう場面!確かに撃たれた筈なのに次のシーンでしれっと出てきて、「なんか心臓が痛いんだよなあ」なんて言うもんだから!?と観客が唖然としていると、病院で見てもらった彼、医者に「心臓はなんともありませんよ。それよりも気になることが。あなた、撃たれてますよ」!!??
胸ポケットに銃弾の穴、中に入れていたサクマドロップの缶の中から銃弾がコロリ、悲鳴をあげるマネージャー。そ、そんなアホなー!!
港ホテルの厚化粧のマダム、蘭子を演じる三谷監督の盟友、戸田恵子もさすがのカンロクだったなあ。ことにね、こんなムチャな計画を立てた備後君に言う台詞がいいの。
「寂しくなるわね」もうそのひと言で、このバカ男が死んじゃうだろうって確信してるのが伝わるから、備後君、というかつまぶっきー苦笑いして「そういう言い方はやめてください」こういうシニカルな笑いも、上手いんだよなあ。
ところでデラ富樫って、デューク東郷と同じイニシャル……なのは別に関係ないか。そこを狙ってたら面白いかと思ったけど、うがちすぎかな、ふふっ。★★★★★