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「さ」


2006年鑑賞作品

サイレントヒルSILENT HILL
2006年 126分 カナダ=仏 カラー
監督:クリストフ・ガンズ 脚本:ロジャー・エイヴァリー
撮影:ダン・ローストセン 音楽:ジェフ・ダナ
出演:ラダ・ミッチェル/ショーン・ビーン/ローリー・ホールデン/デボラ・カーラ・アンガー/キム・コーツ/ターニャ・アレン/アリス・クリーグ/ジョデル・フェルランド


2006/8/7/月 劇場(丸の内ピカデリー2)
日本のゲームが原作、というのはこれまでも何回かあったけど、そういう映画を観るのは私は初めてかもしれない。
……んで、ゲームが原作という場合、それってどこまで話が確定しているもんなのかしらん?ゲームなんだからある程度選択肢があって、ゲームする人がそれを選んでいくことで、話が幾通りも出来るようになっているんでしょ?それを映画にする場合、結末まで決めないといけないわけだからさあ……。

などと思ったのは、私コレ、なんかいかにもアメリカ的な決着のつけ方だなと思ったの。パッケージとしての見え方は神秘のホラー映画そのもので、私もそれをワクワクと期待して足を運んだんだけど、違った。ありていに言うと、ホラー映画でさえなかった。
なんかね、極端に断じてしまえば、裁判映画だよね、これって、みたいなさ。魔女裁判。いかに悪かを有能弁護士さながらに饒舌に語るトコに、やけに重点が置かれてる。

ホラー(恐怖)っていうのは神秘と同じで、人間には説明がつかない不条理があるから怖いんであって、それに全て決着をつけちゃうと、怖くなくなっちゃうのよね。
日本のホラーみたいに、不条理は不条理なまま投げ出すある種の勇気を持つのは、やはり難しいのかしらね。
あ、でもこれ、ハリウッド映画ってわけじゃなく、監督はフランス人なのか。以前にも日本のコミックを原作に映画を撮ったことのあるお人だという。……アキバ系かい?
それにこのグロ趣味は、カルネとかの、近年のフランスっぽい感じはあるよな、確かに。
じゃあこれは、脚本のカナダ人のせいだということにしておこう(と勝手に決める)。

地図にも載っていない、タブーの、誰もいない廃墟の街、サイレントヒル。かつて大規模な地下火災があったこの街を、夢遊病持ちの少女、シャロンは夢うつつでたびたび口にしてた。
その病状は一向に良くなることなく、サイレントヒルへの執着もどんどん強くなっていった。心配した母親のローズは、そのサイレントヒルに行ってみることを決意するんである。

……っつーのもねー。そもそもこのヒロインであるローズが原因で、ただならぬ事態を起こした場面がいっぱいあるんだけど、このサイレントヒルに足を踏み入れたこと自体がまず、そうなんだよね。
夫はサイレントヒルに行くことには猛反対だった。でもローズは私に任せて、と、もうこれしかないっていう悲壮感で娘を連れて突入するんだけど……そこまで意固地になってサイレントヒルに踏み込もうとするのが、判んないというか、説得力がない。
だって、サイレントヒルがどういうところかっていうサイトとか見て、ヤバイ場所だって認識はあったんでしょ?いくら娘が夢遊状態でサイレントヒルを執拗に口にしていたって、暗い絵を幾つも描いていたって、そこに行けば問題解決するとなんで思うわけ。返って危ないと思う方が普通じゃないの?

……まあ、そこに行かなきゃ話は始まらないんだから、そんなこと言っちゃってもしょーがないんだけど。
でも、もともと主人公は男性だというこのゲームの設定が女性になり、母親になり、娘への愛だけで突き進ませるあたり、これってホントいかにもアメリカ的浪花節だよな、と思う。
「フライトプラン」とかもそうだったじゃない?なんかね、こういうアメリカ的母の愛情って、あまりに我が強くて引いちゃうんだよな。
しかも後に明かされるけど、このシャロンは養女であり、てな展開になると、独善的な自己満足のニオイさえしてくるし。しかも、一目見てこの子だと思ったとか言ってるし。ま、このあたりは後の展開の絆の要素も関わってはくるんだけど。

ローズは警官の静止も振り切って、サイレントヒルへと突入するんである。
猛スピードで車を走らせていたら、突然目の前に人影が横切り、慌ててハンドルを切る。激しく頭をぶつけたローズはしばらく気を失っている。
エアバッグも出やしねえ。まあ出たらマヌケだけど、こういうトコとかツッコミどころ満載だな。
んで、その間にシャロンがいなくなっちゃってるんである。
慌ててサイレントヒルの街中に捜しにゆくローズ。白い灰が雪のように降り積もっている。

時々目の前を、シャロンソックリの女の子が駆け抜けてゆく。最初のうちローズは、それがシャロンだと思って追いかけていくうちに、この街の恐ろしい闇に捕まってしまった。
顔のない、肉体の固まりのようなクリーチャー、焼け爛れた人間たちがさながらゾンビのように彼女に襲いかかり、果てはすさまじく巨大な刃物を持った兵士?が襲い掛かる!
そこに助けに来てくれたのが、ローズが振り切った女性警官のシビル。彼女と共に閉ざされたサイレントヒルで、シャロンを捜しつつ、この街の秘密を解明して行くことになるんである。

一方で、ダンナは妻と娘を助け出すべく、警察に助けを求めていた。しかし……何かがおかしい。警察の態度は、どこか奥歯にモノがはさまったようである。サイレントヒルには地下火災が続く危険な街というだけではなく、何かがある。
ダンナはそれを探るべく、公文書館に侵入して手がかりを探す。そこにはシャロンそっくりの女の子の資料があった。まさか、この子がシャロンの母親なのだろうか?
……ホンット、ツッコミどころ満載ね。だって、ガラス破って公文書に侵入するなんてさ、この時代にセキュリティ機能も働かずにこんな原始的な方法で入るかなあ。
それにここで示されるシャロンと、シャロンそっくりの女の子、アレッサとの関係も、最後まで見てもよく判らないのよね。
アレッサはこのサイレントヒルで悪魔と断じられて火あぶりにされた。その火が元で地下火災がおき、アレッサは虫の息で病院に運び込まれた……。でも、火あぶりの道具が倒れたぐらいで、今も地下が燃え盛るほどの大火事になるの?だからこれが、悪魔の仕業なの?

私は最初、あの写真を持ってダンナが孤児院に事情を質しに行った時、アレッサはヒドイ目にあったとか言ってたし、よってたかってレイプされて、少女ながらシャロンを産み落としてしまったのかと思ったの。
まあ、男たちになぶりものにされた暗示はちょっと感じたけど(それもうがちすぎだったかな)、アレッサはあの通り、黒焦げになって死んでしまったわけで、物理的にアレッサが妊娠したわけじゃないのよね。アレッサからシャロンが生み出されたことは確かだけど。
火あぶりにされ、黒焦げになった彼女が見つめた先に、“良心”としてのシャロンが突如現われたという感じである。しっかし、ここまでナゾ解きみたいに持ってきといて、いきなり不条理はないよなあ。
ということは、もう最初からシャロンは夢の中の子供だったのかなあ。最後は結局パラレルワールドっぽいしさ。

確かにローズが迷い込んだサイレントヒルの闇の世界は、怨念が生み出す幻想世界ではあるのだ。おぞましいゴキブリモドキがザラザラと埋め尽くしても、ドアの外側から巨大な刃物をマジックショーのナイフ刺しみたいにぶさぶさ刺されても、一旦光が入ってくれば、それは霧散してしまう。
あ、だからか。あのおマヌケな場面、懐中電灯の光を当てると動き出す、フラワーロックみたいな女のバケモノ達っていうのは、そういう伏線があったからか。あまりにオマヌケで思わず吹き出しちゃって、そんなこと観てる時には気づかなかったわ。つまりこのオバケたちは光によって動きを封じられる、闇の世界でしか生きられないってコトなのね。

そして闇に飲み込まれると、存在自体が消されてしまう。←だけでいいのに、バケモノにわざわざ八つ裂きにさせる。血しぶき満載。
ちえー、スプラッタをこんな単純に使わないでほしいのよね。
そもそもこの映画、恐怖とかミステリとかRPGとか悪魔とか宗教とか裁判とか、はてはパラレルワールド、単純に怪しげで括られるサブカルチャを盛り込みすぎなのよ。パラレルワールドひとつとっても、大きな問題なのに(「ルート225」を観よ!)。
で、それを強引に、スプラッタで決着つけちゃう。気に入らない。スプラッタはそれ自体の美学があるんだから、悪魔や盲信を滅する材料にしないでほしい。そういう使い方をしちゃったら、戦争と同じ正当化、胸が悪くなるばかり。スプラッタがまたしても差別されちゃうよ。

さまざまなヒントを追って、シャロンを捜しに迷い込んだグランドホテル(!)。そこで出会ったアンナが死んじゃったのは、明らかにローズのせい。もうここなんてツッコむより、怒りだよ。闇が忍び寄っていて、シビルとアンナが必死に早く中に入れと叫んでんのに、なんであんな悠長に話してんのよ、アホか!
で、闇の怪物に捕まったアンナはあわれ皮膚をはがされた上にヤツザキである。うっ……趣味悪い……もう再三スプラッタなの。
それにしても警官、シビルの、プラチナブロンドのショートカットが蠱惑的なセクシー美女っぷりには惹かれる。クリーチャーの毒液に上着をはぎとってあらわになるデカパイといい、コスプレ心をくすぐるのよね。

でも結局、このシビルも火あぶりで死んじゃうのだ……。ていうか、彼女を死なせることはないんじゃない。もお、なんつーか、趣味が悪すぎる。
ローズはシビルの助けによって、最後のカギを握る部屋へと突入していく。魔女狩りに妄信するサイレントヒルの生き残りたちによって、ローズやシャロンの代わりにと、シビルは火あぶりに処されてしまうのだ……しかもシャロンの目の前で!ローズがアレッサに出会って彼らを静めるために現われた時、もはやシビルは黒こげ。って……ちょっと前に到着したって良さそうなもんじゃない。
あ、そうか、この妄信しているコイツらを殲滅させるだけのより正当な理由が欲しいんだな。こんなザンコクな奴らなら絶滅してもいいと。それこそ趣味が悪いよなー。

ラストはシャロンとともにローズが家に帰ってくるんだけど、どうも様子がおかしい。ローズ側の視界は今もまだサイレントヒルの頃のように煙っていて、実際家にはダンナがいるのに、ダンナも妻たちの気配を感じているのに、彼らは会うことが出来ないの。
そう、パラレルワールドなんだよね。サイレントヒルに彼女たちが迷い込んだ時から。だってダンナは警官たちとサイレントヒルに救出に行ったけど、その時から彼らの視界はローズたちと違ってたし、ダンナは妻の香水の気配を感じたりしたけど、結局見つけられなかったんだもの。
シャロンが何かに導かれるようにして家の中を歩いて行く、その目が据わっててコワい。しかしそれがなんなのか、そこだけは投げ出されて終わる。これだけじゃ、あまりイミのない不条理。

冒頭はね、私が最初期待していたような不条理が漂ってはいたのだ。雪のように白く灰の降り積もる世界、そんな心惹かれる恐怖が美しく横たわってたんだけど、ヤボなクリーチャーが出てきたらもうダメ。ギャーギャーうるさいっての。
いや、それよりも、デボラ・カーラ・アンガー演じるアレッサの母親が魔女っぽくて、彼女が登場したら、もうそこから見た目がホラーというよりファンタジーになっちゃったのがね……、だって彼女の造形って、ハリポタワールドとさして変わらないんだもん。

しかも、ここにもちゃっかり母と娘の愛情物語持ち込むしさ。全身やけどのまま怨念だけでこの世界に生き残った(のだろーか。よう判らん)アレッサが、自分を追い込んだ妄信者たちを有刺鉄線(みたいなヤツ)をシュルシュル延ばしてさんっざんにヤツザキにしても(あーあ)、母親だけは殺さない、なぜ生き長らえさせたのか、と一人残された彼女にローズは言うのだ。「あなたが母親だから。子供にとって母親は神なのよ」
……そんなカンタンなもんじゃないと思うけどな。母親が悪魔だと思っている子供だっていると思う。ま、そういう絶対的な存在だから、逃げられないという含みかな。いやいや、ここでは絶対、単純な意味でだよね。

ローズ役のラダ・ミッチェルは、しかし熱演である。「メリンダとメリンダ」でも達者な演技を見せていた彼女、「ハイ・アート」のことはすっかり忘れてた。好きな映画だったのに。ロリな魅力とか書いてる私、そうだったかしらん。
このローズのファッション、精神的な暗さを示すモノトーンで、動きが判りやすいフレアーと、走りやすいブーツ。彼女自身がキャリアウーマンなのか専業主婦なのか、なんか判りにくい。

やっぱりゲームが原作なだけあって、RPGそのものだな、と最初は思った。最初はわけも判らず迷い込む。そのうち、そこここにヒントを見つけて行く先を決める。味方が現われる。敵が現われる。敵か味方か判らない相手が現われる。選択や勇気を迫られる場面がある、という展開で進んでいくってのが。
でも、やっぱりそれは自発的なゲームだから楽しいのであって、そこから映画の独自性をどう持ち込むかという点が問題で……つまり恐怖のテイストをどう処理するかってコトがね。

これは日本が開発したゲームだから、日本の恐怖の描写の仕方を想像したんだけど、まるで違ってた。
改めて言うけど、恐怖映画じゃなくて、裁判映画だったのよ。アメリカっぽいよねー、こういうの。悪魔を出してきて、その定義で裁くあたりも。
悪魔はハッキリと悪だけど、日本における幽霊や霊魂や妖怪や……は、悪じゃないのよ。退治するというより理解するというスタンスだから、基本的に違うんだよね。
退治する、その正当性を主張する、だから裁判になるし、それがアメリカの本質なんだよなあ。共存ではなく、独占と排除。前提というか、根拠となる価値観が違い過ぎるんだ。

でもさ、昔のホラー映画は、悪魔が主題でも、こんなにリクツっぽくなくて、不条理で、コワかったのになあ。★★★☆☆


THE 有頂天ホテル
2006年 136分 日本 カラー
監督:三谷幸喜 脚本:三谷幸喜
撮影:山本英夫 音楽:本間勇輔
出演:役所広司 松たか子 佐藤浩市 香取慎吾 篠原涼子 戸田恵子 生瀬勝久 麻生久美子 YOU オダギリジョー 角野卓造 寺島進 浅野和之 近藤芳正 川平慈英 堀内敬子 梶原善 石井正則 榎木兵衛 奈良崎まどか 田中直樹 八木亜希子 原田美枝子 唐沢寿明 津川雅彦 伊東四朗 西田敏行 山寺宏一(声)

2006/2/13/月 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
まっ、これがいわゆる「グランド・ホテル」形式、んで、「有頂天時代」にもオマージュを捧げているんだという。うっ、この基本2本を観てない。ヤバい。うー、三谷監督は舞台出身のくせに?映画に思い入れ深すぎて困っちゃうよ!
それにこういう、すべての人が主人公としてのエピソードで進んでいくオムニバスチックな話より(ま、全然違うんだけど)、前二作のような、ひとつの目的に向かって収斂されていく話の方が好きだしなあ。
などと思うのは、このオールスターキャストの話をイチから書き出すのがめんどいからとか思ってるだけの話なんだけど(爆)。これだけのオールスターキャスト、それも三谷監督の希望が100パーセント叶ったというキャストを完璧にさばき、バラバラに見える人たちが実は綿密につながっているというのは実に凄い。

なんつっても凄いのは、緻密なカメラワークがね!あまたの人々の台詞を喋るタイミングに合わせて、その立ち位置にめまぐるしくパンしてゆくスリリング。つまり舞台調のワンシーン・ワンカットにこだわってるわけで、少々酔いそうなのがナンだけど。別にカット割っても良かったような気もする、なーんてね。いや凄いんだけどさ。
基本的にホテルの中、密室ということで、「ラヂオの時間」の密室性、つまりは舞台性を思わせもするんだけど、新館と旧館が入り組んだ、という迷路な感じが、ロケーションよりも四次元的なネジレの広がりを持つあたりがさすがなんだよなあ。
この見事なホテルセットには目を奪われる。へえー、美術、種田さんなんだ。ちょっと意外。
だって彼って、耽美的な、種田さんだってまるわかりの世界を作る人だからさ。カメラマンで言えばクリストファー・ドイルみたいな。三谷さんはそういうのは望まない人でしょ。あくまでクラシック、オーソドックス。それに忠実にいくというのがね。
つまり基本がそれだけしっかりとしている人だからアーティスティックなものも作れるってことなんだね。

さて、めんどくさがらずに、ね。頑張って書こう(笑)。
まずはやーっぱ役所さんよねー。ドラマ見ないんでアレなんだけど、この二人は初顔合わせだよね?「笑の大学」の脚本は三谷さんだったけど、監督は違うし……。ちょっと、意外なんだよな。だって役所さんのような、ホントに生真面目なキャラだからこそギャグになるという役者さん、いかにも三谷氏、好きそうだもの。だから今回は満を持しての登板。
しかもこれほどホテルマンが似合う役者もいまい。それこそ日本一どころか世界一似合う。お客さんのことを、本当に、マジに、一番に大切に思ってる、しもべである前に家族だと思ってるホテルマンなんてさ!

今や宿泊部副支配人という地位にある彼、新堂の前に十数年ぶりに現われる元妻、由美に、どう見てもホテルマンとバレバレなのに、その日受賞するマン・オブ・ザ・イヤーの受賞者だなんてウソをつきとおそうとする、のは、かつて目指していた夢を諦めた姿を見せたくなかったからであり。
で、この元妻を演じているのが原田美枝子。彼女は確かに演劇の夢に邁進していた彼が好きだった。でも見栄を張らずになんでも話してほしかった。そんなところ、今でも変わらない彼を、どこか切なく、ほろ苦く見つめている。
そしてこの彼女の夫こそが、マン・オブ・ザ・イヤーの受賞者。でも新堂は舞台関係の受賞者だと思い込んでいたのが、なぜかシカの交配に関する受賞者で、そこでもウソをつきとおすためにシカのかぶりものをかぶってまで挨拶するところまでマジメなのが、いかにも役所さんらしくて笑っちゃう。
しかしその妻として紹介されたのが由美だったものだから、しかも由美までかぶりものかぶってるし!彼女もマジメにかぶってるんだよねー。もう(笑)。
自分のウソなんてバレバレだったことを知った新堂、頭をかかえる。そんな彼に由美はこう声をかける。「今、頑張ってるんでしょ?もっと自分に誇りを持ってほしかった」って。

ああっ!ダメだ!こんな風に思いつくまま書き連ねていると、それこそこのホテルのように迷路に迷い込んでしまうー。ちょっと、軌道修正。
慎吾君の話に行こうかな。彼は、今夜このホテルを辞めて田舎に帰るつもりだったベルボーイの憲二。ベルボーイのかたわらずっと歌を続けてきて、いつかメジャーデビューする夢を持っていたんだけど、それを諦めることをついに決意したのだ。
そんな彼を新堂はまだあきらめるのは早いんじゃないか、と引き止めるんだよね。それは、自分自身が夢をあきらめてしまったから、夢をかなえることを誰かに託したいと思ってる。
と、いうのは、このホテルで憲二が久しぶりに出会う幼なじみもそう。彼女、なおみはスチュワーデスのカッコして現われるもんだから、憲二は彼女が昔からの夢だったスチュワーデスの夢を叶えたんだと思って、彼女もまた彼にカンタンに夢を諦めるなとかいうもんだから、「君は夢をかなえたから凄いけど……そう簡単じゃないんだよ」とゴチる。
でもホテルでスッチーのカッコしてるなんておかしいよね。そのことに憲二は気づかないけど……そう、なおみも夢を諦めたクチ。この衣装は今まさに盗難届けが出され、“ホテル探偵”がその行方を追っているのだ。

あ、ホテル探偵が出てきたから書いちゃおう。しかしこんなん本当にいるのかね。演じているのがアリキリの石井氏で、しかもクラシック映画の探偵さんみたいにキメキメで、このちっちゃい身長でそれをやられるもんだからただただ可笑しい(笑)。
彼が追っているものは他にもあって、この大晦日のカウントダウンパーティーに出演する芸人さんの、大事な“腹話術アヒル”。このアヒルがあらゆる場面を横切ってゆき、シーンの後ろでグワッグワッ言うもんだから、これがまた絶妙で可笑しいやらカワイイやら。あっ、ちなみにこのアヒルの声は山寺さんなんだそうで!

で、ちょっと話を戻すと、憲二が夢を諦めるために手放したアイテムが、回りまわって最終的に彼の元に戻ってくる、のが感動的なんだよね。
特に、「幸運を呼ぶからって。でも全然呼ばないんですよ」と自嘲気味に手放した手垢まみれの人形が色んな人の手に渡って、それぞれの人たちに少しほろ苦いながらも確かに幸運かもしれないものを残して彼の手元に戻ってくるのが。

最終的に彼にそれを手渡すことになるのが、今世間をにぎわせている政治家、武藤田である。演じるのは佐藤浩市。
本当の悪党は他にいる。でも彼はワイロを受け取り、悪徳政治家として後ろ指を差されながらも政治家として生き残るか、全てをブチまけて政治家の夢を諦めるか、二つの一つの選択肢で揺れている。どちらにしても地獄。そして彼は第三の選択肢を考えるようになる……。
彼のかつての愛人がこのホテルの客室係をしている。それが松たか子演じるハナ。シングルマザーで子供を育てている……どうやら武藤田との間の子供であるらしい。
最終的に、ラクになるために全てをブチまける決意をした彼に、「この国を変えようって本気で思ってたよね。それなら、悪徳政治家になってしぶとく生き残りなさいよ。周りにどう思われたっていいじゃない」と言われ、彼はアッサリ彼女の言うとおりにすることを決めてしまう。

しかし彼はこのホテルである女性に会っていて、ひとときの安らぎを感じているのだ……それはこのホテルにしつこく出没して客引きをしては何度も追い出されているヨーコである。
このヨーコを演じる篠原涼子がステキでね!ハスッパな女だと外見からして判るんだけど、男は彼女に惹かれるし、心安らぐし、何でも話し、さらけだしてしまう。
ってことが、彼女としばし親密な関係であった、あのマン・オブ・ザ・イヤー受賞者であるオッサンを焦りまくらせることになるんだけど(笑)。だってヨーコの携帯には彼のハズかしい写真が残されているんだもの。
そうそう、小道具の妙はここにも発揮されてて、武藤田の秘書の携帯には真の悪徳政治家がカネを受け取っているシーンがバッチリ映っており、これを公表するか否かで攻防戦が繰り広げられるわけで、ヨーコの携帯の写真を消そうと追ってきたあのオッサンが間違って武藤田の秘書の携帯をバッキリ折って、ヤッター!とばかりにバンザイしながら走ってくもんだから、大爆笑。

ちょっと、話がズレたけど。ヨーコがね、全ての男が惹かれる女だけど、誰かのための一人の女ではなく、でもそれが、ミジメだったりするわけじゃなくて、カッコイイんだよね。
結局、武藤田にしたって彼女に話を聞いてもらって次の段階に移れるものの、そこに登場した元愛人の意見にアッサリ方向転換したわけで、つまりヨーコは男を動かすだけの力を持った女ではないんだけど、決してなぐさめや使い捨ての女ではなく、そこにいる男を食ってエネルギーにして、どっこい生きてゆくっていうカッコよさがあるのだ。
あれだけ武藤田を心配しているように見えたのに(むっちゃん呼ばわりしてたし)、ラストはその秘書とよろしくやっちゃってんだもん。
そしてホテルの構造に従業員より詳しいから、そりゃそうだ、何度も何度も追い返され、その度に忍び込んでるからさ、武藤田の逃亡に頭を痛める従業員に力を貸すトコもカッコイイのだっ。

この時の、新堂と武藤田のやりとりがイイんだよね。
悪徳政治家として生き残ることを決意した武藤田、一度はセッティングしたこのホテルでの記者会見を中止しようと言い出す。でも新堂はホテルマンとして、彼に記者の前に出るべきだ、と言うのね。
「私たちはお客様の家族です。家族は時には相手のためを思って厳しいことも言います。それがホテルマンとしての誇りです」
てな台詞がこれだけ似合う人も、他にはいまい。
そうやって、裏口から逃がす武藤田に、「いってらっしゃいませ」と頭を下げるでしょ。すると武藤田、「帰りは遅くなる」それに返して新堂、「お待ちしています」いやー、泣かせるな。

あの時、武藤田に投げつけたハナの言葉は、彼女自身を吹っ切ることにもなった。
もう彼女も周りにどう思われたっていいって、腹をくくった。
もしかしたら、今までは子供と外に遊びにも行かず、ひっそりと暮らしていたのかな。この“悪徳政治家”の子供なんだもん。彼女、登場から終始イラついて、子供の世話を任せていると思しき電話の向こうの相手に向かってキレまくって。
でも全てが終わり、従業員の制服から着替えた彼女、今度は優しい声で子供に電話してる。
「来年は、いろんなところ、行こうね。もう何にも気にしない」

武藤田が第三の選択肢にしていたのは、死、だった。でも、その彼の耳に聞こえてきたのが憲二の歌声だったんである。
というのも、憲二は隣の部屋の大物演歌歌手、徳川が公演前のストレスで落ち込んでいるのを、なおみにうながされて自分の歌で励まそうとしていたのだった。
なおみにしてみれば、これは憲二が歌手になるためのチャンスと思ったわけだけど、そううまくは行かず、徳川は機嫌をなおすものの、「君程度の歌手はごまんといる。趣味として続けるんだな」と突き放してしまうのだ。
その歌はドンキホーテだのサンチョパンサだのという、なんだか奇妙な歌なんだけど、前向きで陽気で元気になれる歌。それを壁越しに聞いた武藤田は涙を流し、死を思いとどまる。
エレベーターホールでギターを抱えた憲二に、「君があの歌を歌ったのか」と問い、ガバッとばかりに抱きつき、「ありがとう」というシーンは、目を白黒させてる慎吾ちゃんが可笑しくて苦笑しちゃうけど(しかも男同士のこの抱擁が(笑))なかなかいいシーンである。
だってね、憲二は歌手にはなれないかもしれないけど、でも一人の人の命を救っただけで、どんな歌手より凄いじゃない。
いや、憲二の手元にこの時武藤田から渡された、めぐりめぐって戻ってきた幸運の人形は、もしかしたらという思いを抱かせてくれる。

でね、実はスチュワーデスなんかじゃなかったなおみが何者かというと、金持ちの愛人であり、毎回毎回部屋を荒らす常習犯として客室係にはキラワレモノなんである。
彼女の部屋を掃除していたハナが、豪華な毛皮やアクセを失敬してファッションショーなんぞを楽しんでいる時、その金持ちのオヤジの息子が現われ、彼女をなおみだと思い込んで別れ話と手切れ金を提示してくる。
ハナはついついその展開に巻き込まれるんだけど、話を聞いているうちにこの息子にムカついてくるのね。なおみが毎回部屋を荒らしていたのは、このオヤジへの愛ゆえに孤独に苦しんでいたんだと、愛しあう二人を引き離すなんてとんでもない!とばかりに義侠心にかられてくる。

そこにこのオヤジがホテルのエントランスに突っ込む事故をおこして現われる。顔を包帯でぐるぐる巻きにして、彼女のことをなおみだと信じて疑わないようなフリをしながら人払いをし、ハナの腕をぐっと掴んで「君は何者だ」
ハナは同じような立場で、その愛を叶えられなかった人だから……そう憲二の夢に皆が託したように、彼女もまた、誰かにそれをかなえてほしかったんだね。
だから、このオヤジがなおみを真剣に愛している、と聞いてホッとし、部屋に現われたなおみに、「私は部屋を荒らす女はキライ。でも、オヤジはあなたを愛してるの。行ってあげなさい」と仲をとりもつ。
んで、カウントダウンパーティーの時に二人に再会して、「知り合いのような、そうでないような……」と言いながら微笑む。うーん、粋だね!

さてさてっ。なんていう中でも、カウントダウンパーティーへの準備が忙しく進められてる。なんといってもこのパーティーは総支配人がやけに力を入れているから。
この総支配人というのが伊東四郎。彼はこうした華やかなコトが大好きで、つい芸人さんのドーランで白塗りに塗っちゃって、そのまま迷路のようなホテルの中をさまよい、自分がどこにいるかも判らないままスタッフに、「洗顔クリームを持ってすぐ来てくれ!」(笑)。それはクレンジングクリームじゃなきゃ落ちないと思うけどねえ。

あるいは、新年と共に垂れ下がる予定の「謹賀新年」の垂れ幕が誤字で発注されたまま届いたもんだから、急遽、筆耕係に書いてもらうことになるんだけど、小さい文字しか書いたことのない彼が、大きなシーツに小さくしか書けない気の小ささがまた笑えるんである。
これを演じているのはオダギリジョー。こういうキャラモノを演じると、「俺って演技上手いだろ」的な匂いが感じられることがあって、これもその方向でちょっとヤバいんだけど、まあギリギリ、オタクっぽい気の小さい、でも字を愛してる筆耕係がなかなかに愛しいんである。
大役を終えた彼に、自由に書いてみてください、と新堂さんからうながされ、戸惑いながらもアーティスティックな書道を披露する彼は満足げである。でもその会心の出来の上をアヒルが歩いていっちゃうんだけど(笑)。
しかし、そのアヒルの足跡を見事に字に添えられた竹の絵にしてしまったのが、由美であった。三人?のコラボレーションで素晴らしい芸術作品になり、さっきショックを受けていた筆耕係さんがはにかんだような笑顔を見せるのがまた微笑ましいんだなあ。

しかしなんといってもキャストの中で一番のもうけ役なのは、YOUだよねー。
彼女はこのカウントダウンパーティーに呼ばれた芸人一座の歌手なんだけど、座長にいいように使われて、好きな歌も歌えなくてクサってるのね。
次期支配人の呼び声の高い新堂氏をたらしこめとか、マジックのアシスタントまでさせられそうになって、ホテル中を逃げ回り、もう辞めよう、帰ろう、っていう彼女を、座員の皆が、座長をあざむいてまで舞台に乗せてくれるの。歌いにきたんだろ、って。
んで、ぶっつけで歌うこのYOUのキュート&セクシーな歌声っ!ビックリ!
彼女、今歌手活動はしてないの?もったいない!フェアチャイルドがどんなんだったかは忘れたけどさー、でも、このマリリンばりのフェロモンボイス(衣装もそれを意識してるよね)は素晴らしい!

他にもたっくさん、個性的なキャストがいて、もう贅沢すぎ。書く方としてはめんどくて仕方ない。あ、いや(笑)。
新堂は宿泊部副支配人なんだけど、料飲部副支配人が彼にライヴァル心剥き出しで、対立してくる。この料飲部副支配人の瀬尾が生瀬さんでね、いつもおだやかにお客さんの要望を受け入れる新堂に、ホテルマンとしての誇りはないのか!とかみんなの前でバカにしたりすんのよ。
でも新堂がピンチになった時、「お前は宿泊部の副支配人だ。ここの責任は私が取る」とちょっと男気見せたりしたから関係修復したかと思ったら、無事トラブルを終え、新年になって顔を合わせた途端、新堂ったら、瀬尾の足ひっかけて転ばすんだもん!

憲二のギターをずっと背中に抱えたちょっとカワイイ客室係の女の子と、川平さん演じるホテルマンとのキュートな痴話げんかも楽しかった。
カウントダウンパーティーの後ろの方に、シカのかぶりものメンバーがチラホラいるのが可笑しかったり、クスリとさせるシーンの構成の洒落っ気は実にソツがないんだけど、中でも映画の冒頭、前作、「みんなのいえ」の夫婦が客としてラウンジに来てるのが嬉しかったなあ!★★★☆☆


佐賀のがばいばあちゃん
2005年 104分 日本 カラー
監督:倉内均 脚本:山元清多 島田洋七
撮影:三好保彦 音楽:坂田晃一
出演:吉行和子 浅田美代子 鈴木祐真 池田晃信 池田壮磨 緒形拳 三宅裕司 島田紳助 島田洋八 山本太郎 工藤夕貴

2006/7/12/水 劇場(銀座シネパトス)
いかにも文部省選定みたいなパッケージだし、監督知らないし、島田洋七氏原作というのもピンとこないしで観る気はなかったんだけど、何か結構ロングランになってるな……とちょっと気になってしまって、映画館に入っちまったのであった。
あ、思ったより普通にイイ映画だった……(なんと失礼なヤツ)。
ま、“いかにも文部省選定”って感じはやっぱりあるんだけど、私はそういうの案外キライじゃなかったんだわ。
私はこーゆーのを“少年の永遠の夏休みモノ”と勝手に名付けてる。「あの、夏の日」みたいなテイストね。
本作の明広は8年間おばあちゃんに預けられていたわけだから、夏休みどころじゃなく一年中なのだが、でもやっぱりランニング姿の彼が一番目に焼きつく。おばあちゃんの元でのびのびと素直に成長した8年間は、やっぱり“永遠の夏休み”に通じるものがあったんじゃないのかなー。

最初ね、このおばあちゃんはコワい人なのかなと思ったのだ。一度も会ったことのないおばあちゃん。見知らぬ土地。そこでビシビシ鍛えられる、みたいな。
あ、その前に、明広がおばあちゃんに預けられることになるくだりはかなり強烈なのだが……。
お母さんっ子だった明広。冒頭は、母親の働く居酒屋に泣き顔の明広が来てしまう場面から始まる。女手ひとつで息子二人を育てる母親、店には来るなと言い渡していたのは、水商売というほどじゃないけど、厚化粧をして客の機嫌をとっているのを見られたくなかったのもあるかも……。
明広を佐賀の祖母に預けるという話を直前まで言えないまま、迎えに来た伯母を一緒に送っていくフリをして、発車の直前、投げ込むようにして明広を列車に乗せてしまう!そりゃとんでもないトラウマになるって……。母ちゃんに捨てられたと思っても仕方ない。
でも、すねず、ふてくされず、母ちゃんを恋しがり、一方でおばあちゃんにのびのびと育てられていく明広は、実に素直なんだよなあ。

でね、話を戻すと、このおばあちゃん、登場シーンこそ暗い家の中から物も言わずのっそりと現われて、ちょっと恐ろしげな雰囲気なんだけど、怖いということは全然、ないのね。
まず、怒るということはしない。それは明広が怒られるようなことはしない、素直で優しい少年だということもあるのだが……。
とにかく、名言集、なのよね。このおばあちゃんの。
「ばあちゃん、ハラへった!」と言えば、「気のせい」と鷹揚に返される場面でまず目が点になる。「腹が減ったと思うから、ごはんが食べとうなるんじゃ」だ、だってハラがへってるのにー。
んで、明広に走ることをすすめたのはばあちゃんなのに、「あんまり走りよるとハラへるやろうが」とほどほどを進め、「くつが減る!裸足で走れ!」おいおいおいー。

でもね、ばあちゃんが自ら、その節約精神を徹底しているからね。もう骨身のずいまでしみこんでる。まず、仕事の行き帰りには巨大な磁石を腰に麻縄で括りつけ、引きずって歩いている、というのがキョーレツである。鉄くずを拾い集めるためなんである。
もう、この時点でハンパじゃないビンボーだということが判る。家の裏手には川の流れに直角に渡したトラップが。上流の市場でキズもんや形の悪い野菜や果物が捨てられ、流れてくるのをちゃっかり頂くためである。
「ここはウチのスーパーマーケット。でも、食べたいものが流れてこないのがたまにきずだけどな」とばあちゃんは笑い飛ばす。これもまた明広は素直に受け止め、川の水でよく冷えたトマトにかぶりつき、笑顔を見せるんである。

お盆には、野菜を乗せた神様に供えるわら舟が流される。ばあちゃんはこんなありがたいものまで横取りしちまう。さすがに躊躇する明広に、「このまま流したら海が汚れるやろうが」とアッサリ言い、「でも魂は船に乗っているから」と野菜だけさっさと取って、わら舟だけは流してしまうのである。
あまりの都合の良さに思わず笑ってしまうが、確かに理に叶っているといえば叶ってる。しかし凄い強心臓だ……。
食べ物だけじゃない。時には片方だけのゲタが流れてくる。でも片方だけじゃな、と明広が言うと、2、3日待ってみんしゃい、とばあちゃんは言う。ちゃんともう片方が流れてくる。
「片方だけ流されてしまった時はもったいないと思ってるが、そのうち片方だけでもしょうがないと思って、もう片方も捨ててしまうんや。そうしてうちに流れてくることになっとっと」うーん、スバラシイ。

明広が剣道や柔道をやりたがってもお金がかかるからやめとけと言い、替わりに、「いいこと思いついた。走りんしゃい。走る地べたはタダ、道具もいらん」とくるのだ。よーく考えると結構理不尽なこと言われてるのに、彼はいつも素直に「そっか」と言って従うのよね。これが凄い。
貧乏には二種類あると、ばあちゃんは言う。暗い貧乏と明るい貧乏。「うちは明るい貧乏やけん、よかと。しかも先祖代々、貧乏だから自信ば持て」
す、凄い言い方!“先祖代々貧乏だから自信を持て”思いも寄らない逆転の発想!
ばあちゃん曰く、きれいなカッコしてたら、こける時にも気を使わなければいけない。金持ちになったらいろいろ食べたり旅行したりしなくちゃいけなくて忙しい、と言うんである……まさしく逆転の発想だわな。

でね、何度も言うように、それを明広がことごとく素直に受け止めるのが、素晴らしいんだよね。かといってまるめこまれているとか、しぶしぶとかいうわけじゃない。本当に、驚異的なほどに素直なの。
それを言うと、この物語にイジワルな子だとか、ヤな先生とかも徹底して出てこない。ありえないだろというぐらい出てこない。そのあたりもなんとなく大林風味である。
転入初日にケンカした友達とも、先生のわけ隔てない罰で遺恨なく仲直りするあたりから、ああ、この映画はこういう方向なんだなと思ったしな。

だって例えばさ、お金がないから剣道も柔道も出来ないなんていったら、普通の物語の展開なら、友達からはぶんちょにされるとか、あるわけじゃない。でもそんなこともなく、ビンボーな子供たち同士で手作りのグローブやバットで野球をやってたりするのよね。
しかしそこに、金持ちのおぼっちゃんが新品の野球道具を一式そろえて現われるもんだから、こりゃあ、ひとモメあるか!と若干緊張するも、ビンボーな子供たちはその新品の野球道具つきのおぼっちゃんを、垂涎のまなざしで迎え入れる……平和主義だなあ。
しかもこの子は運動神経ゼロで、戦力ダウンは避けられないのだが、ありえない奇跡的なキャッチでチームが勝利してしまうんだもん。ホント、イヤな展開が全くないことに徹底してんのよね。
そしてこの羊羹屋(なのよ)のおぼっちゃんちで、羊羹を山盛り出されて、ハナタレ小僧たちはその甘さに夢見ごこちなんである。少年たちはね、皆素直で、小手先のない演技をするんだよね。だからこんな展開もニコニコと受け止めてしまえる。

そして、先生たちも軒並みいい先生ばっかりなんだよー。これも普通の展開ならありえないでしょ。どっこにもつまづくところがない。まあ、あんな捨てられるみたいな預け方されているのが最も大きなつまづきなんだけどさ(笑)。
ことに、運動会のエピソードは忘れられない。ばあちゃんは運動会の日ぐらい卵焼きを入れてやりたかったのだが、産め産めと叱咤しても雌鳥は卵を産んでくれなかったので(ムチャな……)いつもと同じ、しょうがの甘酢漬けと梅干しがご飯の上に乗せられただけの質素なお弁当なんである。
ばあちゃんは仕事でこられないし、母親とももう何年も会ってない。友達は皆、家族とワイワイお弁当を広げている中、明広だけはその質素な弁当を持って教室に入る。すると、弁当を携えて教室にガラリと入ってきた先生。
「お、明広、ここにいたのか。実は先生腹の調子が悪くてな……お前の弁当はしょうがと梅が入っとるやろ。先生のと替えてくれんか?」「いいですけど……」
そして、その先生の弁当を広げてみると、どーんと巨大なエビフライをはじめ、すげえゴーカな弁当!「ばあちゃん。世の中にこんな美味しい食べ物があったなんて」とむさぼるように食う明広。

しかもサイコーなのは、「明広、先生お腹の調子が悪くて……」と同じ理由で次々と先生たちが現われるコトなんである。おいおい、コントだろこれは!さしもの明広もようやく気づく。
「先生たちはわざと腹痛なったのかもしれん」とばあちゃんにその日の出来事を話す。「やっと気づいたか」とばあちゃん。
気づかれんようにする優しさが本当の優しさだと、ばあちゃんは教えるんである。家族が来ない中、すねずにふてくされずに頑張ってるこの子を先生たちはちゃんと認めてて、彼が自分をミジメに思わないようにと、元気づけようと思った。
そのことを結局、明広は気づいたけれども、それで人の優しさというものを彼は学ぶのである。

んでね、ま、これは伏線としてあったわけで、後に中学生に成長した明広が、ばあちゃんにナイショでアルバイトをし、新しいめがねを買ってあげるのが泣かせるんである。
ばあちゃんは、壊れためがねをテープで巻いてようよう使っていた。こんなばあちゃんだから、自分のためにめがねを新調するなんてこと、絶対にしない。新品のめがねに驚いたばあちゃんが「明広、お前か?」と問うても、「俺、知らん!」と言い通す。
「(死んだ)じいちゃんがくれたのかもしれん。いつも頑張ってるばあちゃんへのご褒美」
まあ、ね。気づかれまくってるけど、気づかれないようにしてるところがカワイイんだよね。

このあたりでは、もう彼にとってばあちゃんは第二の母である。あ、そうそう、勉強はからきしダメな明広だけど、運動会やマラソンでは大活躍、一方で作文で賞までとる。こんな具合にことごとに挫折がないのも、すくすくと成長しているなあと思わせてしまうあたりも凄い。それはこの子が心の奥深くに、あんな風に別れた母親への思慕を懸命にしまっているのが判るからだろうな。
明広はこんな形で自分が預けられることになるほどの苦しい事情を、少年の頃はまだまだ理解しておらず、休みになればカンタンに帰れると思ってる。だから冬休みには帰るとばあちゃんに言うと、返した答えがふるってるんである。
「冬には汽車は走っとらん!」
しかし、明広はいつも線路で遊んでいるから、走っている汽車を見てしまうのね。で、「走っとった」と言うと、ばあちゃん、
「あれは、貨物列車」「でも、人が手えふっとった」「それは家畜。尻尾振ってたんじゃ」さすがにアゼンとする明広。
で、春休みに帰ると言うと、「春は、運転手さんが用事がある」そっかー、って納得してんじゃないよ、明広!
そんな具合で、明広はずっとずっと、大好きな母ちゃんにも兄ちゃんにも会えずに、少年時代をこの佐賀で過ごすのだ。

この物語は最初、大人になった明広が、列車の中で泣いている少年に幼き自分の姿を重ね合わせて回想していく形がとられており、少年の明広の前に、その大人になった明広が見守るようにそこここに現われるのね。
大人になった明広はその時、自分がどんな気持ちでいたかを判っているから、少年の彼にがんばれって気持ちを伝えたくて見守っている、そういうファンタジックな描写も手助けして、少年、明広のけなげさが伝わってくる。

でね、ちょっと話が脱線したが……この賞をとった作文というのが、「僕には母ちゃんが二人います。佐賀ではばあちゃんが僕の母ちゃんです」というものなんである。
佐賀に来た当初、「ずいぶん年食った母ちゃんだな」とクラスメイトにからかわれて「あれは母ちゃんじゃなくて、ばあちゃんだ!」と怒った彼のこと、ばあちゃんは知ってるから、この作文に「バカなことばっかり書いて」と言いながら隠れて涙を流す。
しかもこのエピソードにはオチまである。今度はお父さんの作文を、との宿題に、お父さんの記憶がない明広は思案し、どうしよう、とばあちゃんに相談すると、「知らん、と書いとけ」「そっか!」で、原稿用紙いっぱいに、「知らん」。しかも返ってきた作文についた点数は堂々の100点満点!先生の茶目っ気の効いた思いやりが嬉しいのよね。

明るいビンボーではあるが、しかし、ビンボーならではの?泣けるエピソードもある。
母ちゃんからいつものようにお金と手紙が送られてくる。しかし病気をしてしまった母ちゃん、いつもの半分しか送金できなかった。これで母さん、何とかやってください、お願いします、という手紙を、明広は読んでしまった。ビンボーとはいえ、いつも明るく笑い飛ばしていたばあちゃんの本当の苦労を、そして母ちゃんの苦労を明広は知ってしまい、いつものようにごはんをおかわりできない。
察したばあちゃん、「母ちゃんからばあちゃんに来た手紙、読んだんか」明広はうつむき、そして外に飛び出してしまう。
戻ってきた明広、その布団の枕もとに大きな大きなおにぎりがおいてあった。もみじまんじゅう(このあたりはウケねらいかしら)の包み紙に書かれたばあちゃんの手紙。
「ごはんぐらい腹いっぱい食べなさい」
大きなおにぎりを泣きながら頬張る明広。「戻ってたんか」と言うことしか出来ずに目をうるませるばあちゃん。
あー、ダメなの、私。おにぎりを泣きながら頬張る、っていうシーンに弱いの。凄い限定条件だけど(笑)。「千と千尋」でもあったじゃん。もうツボなのよ。涙腺のツボドーン!なのよ。

そうそう、ビンボーで節約第一のばあちゃんだけど、決してケチではない。それが如実に判るエピソードがまたイイんである。
中学になった明広が野球部のキャプテンになったことを大喜びしたばあちゃん、虎の子の一万円を取り出し、夜中にスポーツ洋品店をたたき起こす。「店で一番高いスパイク」と所望したそれは、2250円。「そこを何とか一万円で!」と言い張るばあちゃんに、スポーツ店主は目を白黒(島田紳助氏が友情出演!)。そりゃそうだ。高く売れなんて交渉、聞いたことないよ!
そして、この時になるとばあちゃんも応援にかけつけ、女子学生と一緒に明広にキャーキャー言ってるし(笑)。
明広が、ばあちゃんを恥じるような子ではない、それどころか誇りに思ってくれていることをばあちゃんもまた、素直に受け止めるようになったからだろうと思う。ばあちゃんもまた、この素直な子に教えられるところがあったんだ。

そして、中学生活最後のマラソン大会。お母さんが来てくれることになった!大喜びの明広。しかし前日に来るはずが来ない。このまま来ないのか……しょげながらマラソン大会に向かう明広。
しかあし!学校一のランナーである明弘がトップを切って走っていくその視線の先には……沿道で手を叩いて彼を応援する、ばあちゃんと並んだ、母ちゃんの姿。よそゆきのスーツにキレイにお化粧をしたその姿は、まるで今まで来れなかった参観日やら運動会やらを全て体現したような、自慢の美しい母ちゃん。
たまらず駆けよる明広。「母ちゃん、オレ、足早いだろう」そんなことしてる間にどんどん抜かれてるって!しかし涙ながらの久しぶりの親子の会話は止まることがない。

そして戦列復帰。自転車でトップを先導していた先生が明広と並走しながら「良かったなあ、良かったなあ!」と声をかける。
山本太郎演じるこのセンセは、勉強はサッパリだけど一生懸命で素直な明広に何かと目をかけてくれている。
山本太郎、という直球が、これほど生かされているキャスティングもないわな。だって、親子の再会にカンドーして、明広と一緒に泣いてんだもん。
二人して泣きながら「先生拭いてください」「いや、お前が拭け!」と手ぬぐいを押しつけあうやりとりは、ちょっとコントじみてるけど、可愛く可笑しい。
しかも、この間にガンガン抜かれたというのに、これで力を得た明広がガンガン抜き返し、ついには学校新記録で優勝する!というのも、ほんっとに挫折のない展開!
ここまでくるとちょっとしたギャグにさえなってるけど、素直なこの子だから許しちゃう。

しかし、そのすぐ後に切ない別れが待っている。この時お母ちゃんが来たのは……中学最後だというのでようやく来たのは、明広を引き取れる余裕が出来たってことだったのかもしれない。
明広は母ちゃんの元に戻ってゆく。その日、ばあちゃんは裏手の川で焦げついた鍋をゴシゴシと洗って、別れの言葉を言う明広を見ようとしない。ただただ、「さっさと行け!」と繰り返すばかり。
でも明広が、「夏休みには遊びに来る!」と叫んで去ってゆくと……彼の姿が見えなくなると、ばあちゃんは顔をゆがめて叫ぶのだ。「行くな、明広、行くな!」
顔を見ては、どうしても言えなかった。
その声は、今まさに出て行こうとする明広に聞こえる。泣き笑いのような、何ともいえない、明広はばあちゃんへの感謝の気持ちをその表情に表現して、8年間暮らした家を後にする……。

いつも通っていた、悲しみも喜びも全て知っている橋の上で、大人になった明広が出迎えてくれている。全てを飲み込んだ顔で。
そして青年になった明広も、全てを飲み込んだ晴れ晴れとした表情で、未来へと歩いて行く。

「哀しい話は夜するな。辛い話も昼にすればなんということもない」がばいばあちゃんの中で一番好きな言葉。ばあちゃんの苦労の人生が、楽しくなる魔法が込められてる。
そして、このいわばベタな世界観を泥臭くならない手助けをしてる、懐かしくもシャレた音楽が素敵。★★★☆☆


サムサッカーTHUMB SUCKER
2005年 96分 アメリカ カラー
監督:マイク・ミルズ 脚本:マイク・ミルズ
撮影:ホアキン・バカ=アセイ 音楽:ブライアン・ライツェル
出演:ルー・プッチ/キアヌ・リーヴス/ティルダ・スウィントン/ヴィンセント・ドノフリオ/チェイス・オファーレ/ベンジャミン・ブラット/ケリ・ガーナー/ヴィンス・ヴォーン/ウォルター・キルン/ボブ・スティーヴンソン/コルトン・ターナー

2006/10/3/火 劇場(渋谷シネマライズ)
なんか不思議な物語なんだけど、どこか心惹かれた。最終的にはリクツなしに心の中にすんなり入る感じ。つまりこれは、青春のモヤモヤを映した物語。青春期はとても振れ幅が大きくて、それは青春の繊細さであり、そして大胆さでもある。身を守るようになってしまった大人になっては出来ないこと。

タイトルのサムサッカーとは、親指を吸う人、ということ。主人公のジャスティンは17歳になってもそのクセが抜けなくて、体育会系の父親からいつも怒鳴られている。そして母親が仲介に入り、弟がそれをクールに見ている、というのがいつもの図式だった。いや、ジャスティンにはいつでもそう見えていた。まだまだ一方からしか見えていない彼には。
ただ頭ごなしにみえる父親は、実はそうではなくて、頭ごなしにしか言えない後ろめたさにも似た弱さを持っているし、だからこそ息子に突っ込めなくて彼のことが理解出来ないことに苦しんでいる。そして母親も弟も、ジャスティンの目から見るほど単純ではないのだ。

ジャスティンはかなりオクテである。ひきこもりというほど内気ではないものの、弟から「友達のいないオタク」と言われるような、アキバ系なカッコにボサボサ頭の少年。向こうの17歳はマセているのかと思ったら、そうなのかもしれないけど、自分を持て余す未熟さは日本と変わらない。
この弟は兄にツッコミまくる。「17歳で童貞かよー」なんてね。そんな台詞は日本でも言うんだろうし、実情はどうだか知らないけど、やっぱりアメリカの成熟したティーンのイメージからは程遠い。
主人公の彼も、角度によってはかなりヘンな顔だし、「繊細な美少年」がこういう映画の主人公になってきた今までを考えると、そういう点でも不思議系なんである。

でも不思議っぽさを感じるのは、大人になった今の私たちが、彼のような振れ幅を持てないからなのだろう、やはり。
モンモンとしていたジャスティンは、ある日いきなり“開花”するのね。すっごく、極端に変わる。大人になってしまうと、これほどの変化は恐怖にも似た気持ちになって、なかなか受け入れられない。でも、ジャスティンは「これぞ本当の自分だ」と狂喜して、もうどんどん上まで行っちゃう。
しかし、皮肉なことに、それは彼のもどかしさが病気だと判断されたことがキッカケだったのだ。ADHD(注意欠陥多動性障害)。
でもそう言われて、ジャスティンはなんだかどことなく嬉しそうなのね。なんだ、病気なんだ、治せばいいんだ、素晴らしき本当の自分は隠れているだけなんだと、自分の可能性を天井知らずに信じてしまう。教師の「君はもともと言葉に才能があるんだ」などという言葉もそれを後押しする。

そして薬の治療によって、その“才能”がいきなりスパークする。頭はスッキリし、それまで出てこなかった言葉がスラスラと出てきて、苦手だったディベートクラスも彼の活躍によって優勝を重ねる。だけど……。
薬はあくまで、それまでの“病気”を治すためのものな筈なんだよね。それがどこまで行ったら治っているのか、まるで見当がつかなくなる。そもそも本当に病気だったのか。本当の自分って。一体何?

息子の性格が、病気だから薬で治す、という診断に父親は、拒否反応を示す。でも「安易にクスリに頼るな」と言うばかりで、具体的な解決策を何も言わないもんだからジャスティンはイラだって、余計反発的に、薬にのめりこんでしまったように思う。
つまり、催眠的な効果もあったように見える。父親への反発が、薬で自分は治るんだ、本当の自分が出てくるんだ、みたいな。

一方、母親は息子を優しく理解しようと務めているけれど、看護士という仕事柄、その病気のことがリアルに判っちゃって、父親のように単純に考えられない。
それに思春期のジャスティンと、近頃ちょっとギクシャクしちゃってる。ジャスティンは母親が俳優のマットに夢中になっていることに、「妻で、母親だろ」と受け入れられないのだ。
なんかね、ジャスティンはちょっと、マザコンだったのかもしれないね。いや、男の子は皆、多かれ少なかれそういう部分を持っているということだと思うけど。
「吸う親指は母親のオッパイの替わり」という解釈は、その中に性的な気持ちもあり、それを思春期で感じ始めたからこそ、余計にそのクセは治らなかったのかもしれない。

ディベートクラスですっかり花形になってしまったジャスティンは、一方で傲慢さを振り回すようになっていく。
先生でさえも、その饒舌さで押さえ込もうとする。大会が行なわれる地のホテルで、景気をつけるためにと先生にビールを持ってこさせ、ハイテンションで酔っぱらいまくり、女の子たちと(彼がただ一人の男の子)エッチに盛り上がったりする。
女の子はこういう時、強気!みんなして下着姿になって、ベッドの上でピョンピョン飛び跳ねまくって、その若い肉体のはじけっぷりに、目のやりどころがない!(いや見てるけど)。

一方で、彼に散々言い負かされる相手校の生徒たちの中に、ジャスティンの異常さに気づく者が出てきてしまう。トイレで薬を飲んでいるジャスティンに、彼は囁く。「それ、スピードと3つしか分子が違わないんだぜ。この中毒患者」
その言葉ひとつで、あんなにも自信満々だったジャスティンは、あっという間に転落してしまう。
壇上で、この男の子とのディベートがどうしても上手く行かない。自分の弁舌が頭のイッちゃった人の言葉のように思えて……というか、そう思わされてしまう。
どう言ってもこのコから、「何を言っているんだ?」と不思議そうに返されて、どんどん冷や汗、あぶら汗が流れて、舌がもつれて、そして……初めて負けてしまった。
その日は、初めて父親が見に来ていたのに。よりにもよってこんな日に!
そしてジャスティンはディベートクラスを辞めてしまう。教師からも、「君は傲慢になった」と言われてしまった。ジャスティンはまた、第三の変化、しかも今度は転落してしまうんである。

でも、それを経てようやくジャスティンは、本当の自分をその中から引っ張り出すことが出来たのだろうな。
つまりは、青春期には避けては通れない、性と恋の大問題。
治療の前、まだ内気でモンモンとした少年だった時、ジャスティンは恋をしていた。同じディベートクラスのレベッカ。
ディベートクラスなのに、提議する彼女に賛成してばかりで、教師からやる気があるのかと叱られていた。
でもそんなジャスティンに、彼女は優しかった。「あなたは勇敢よ」だなんて言葉さえくれた。
河原をそぞろ歩くデートらしきものもした。その時、彼女にドキドキしまくったジャスティンは、「暑いね。シャツ脱がない?その方が自然だよ」などと!なんとゆー、不自然な言い様!
その後、薬によって言葉に天才的に目覚めていく彼の台詞とは思えない。しかしこれこそが、恋のリアリティ。

言葉をこねくり回すことでどんどん自分が偽装されていく彼と、ここでの無垢な彼はまるで別人である。でも青春期には、こんな振れ幅が可能なのだ。まるで別人がくるくると入れ替わりしちゃうほど。
レベッカは、ジャスティンが親指を吸う癖や自分のもどかしさを彼女に言えずにごまかしてしまうことに対し、女の子らしい潔癖さを示して、彼の元を去り、ディベートクラスも辞めてしまう。
そんな彼女の方が、先に転落していた。マリファナ中毒になっていたのだ。
彼女と再会したのは、彼がクラスを退部してから。あんなに自信満々だったのに、辞めた途端に元の弱い彼に戻れるのが、青春の力の凄いところ。
「討論のヒーローね」と彼女に言われ、「辞めたんだ」とアッサリ言い、マリファナを吸い、彼女の言うままにエッチな遊びにのめりこむようになる。

ジャスティンは、母親がマットに入れあげているのを苦々しく感じてたけど、クスリでトンでた時には、自分に夢中になっててそんなこともワキにおいてたんだよね。けど、また急に気になり始める。それは彼が今まで踏み出せなかった恋の領域に、踏み込んだからに他ならない。
しかも、ジャスティン、レベッカにフラれてしまう。彼に目隠しして、散々エッチなことを楽しんで、つまりは彼女と恋人だと思っていたのに、ジャスティンが愛の言葉を口にすると「マジにならないでよ」とレベッカ、急に引くのだ。
「10代の実験よ。ヤなことは先に経験しておきたかったの。あなたなら無難だから……。」!!!

ジャスティンは以前、母親に両親の恋のキッカケを聞いていた。どこか言葉を濁しながら、母親はジャスティンに説明した。父親はプロを目指していたフットボールプレイヤー、しかしケガをしてしまった。そのことが二人が親密になるきっかけだった。
父親は自分が夢を諦めたことで、妻が自分にガッカリしたんじゃないかと思ってる。一方母親の方は、彼のケガにつけこむような形で親密になり、結婚に至ったことを、心苦しく感じている。
この両親は自分たちのことを子供たちに、オードリー、マイク、とファーストネームで呼ばせてて、ジャスティンはそれを、若く見られたいんだと思っているんだけど、夫婦として根本の問題が解決出来ていない未熟さが、まだ恋人のナヤミから二人を抜け出させていないのかもしれない。

確かに父親は、どこかヘンにこだわっているところはある。地元の小さなスポーツ系の大会で勝つことに、執着心を燃やしてる。ジャスティンがかかっている歯医者曰く、「君の父親は勝つのが好きだから」そう、この歯医者さんに負けちゃうんだよね。自転車レースの時には、ジャスティンがこの歯医者をジャマしちゃうんだけど。
父親のトラウマは、競技生活を続けられなくなったあの時に生まれてる。だから愛する妻にも、つまづいてしまった息子にも、根本的な部分で関わることが出来ないのだ。

で、看護士の母親は、マットの入院している有名人御用達の病院に転職し、やけにイキイキ、楽しそうなんである。バッグの中にサインをもらったマットの写真などしのばせているもんだから、ジャスティンはコイツと浮気をしているのではと疑うのね。
あれやこれや、いろんなモヤモヤで悩んだジャスティンは、勇気を振り絞って父親に相談しようとした。でも、父親はそんなトラウマと弱みでがんじがらめになっているから、息子に上手いアドヴァイスをしてやれない。
でも本当は、この相容れないと思っていた父親こそが、彼を理解できる存在なんだよね。それを感じていたからこそ、彼も父親に相談しようとした。つまり、父親が一度挫折していること、知ってるから。
でも二人が近づいたのが、同じ理由、息子同様、マットに嫉妬することだったというのが、男の子供っぽさを思わせて笑っちゃう。
静かに、ジャスティンのベッドルームに入ってくる父親。
「あの写真を見たよ。マットとは、オードリーも趣味が悪い」この時点で、二人は親子を越えて同士になった。 でも二人とも、結局は彼女の崇高さを判ってないバカモノだったんだけどね。

ジャスティンは、こっそり病院まで行って、マットに会う、というか、偶然会った。茂みから覗き込もうとしていたジャスティンの肩をマットが叩いたのだ。
その窓の向こうには母親がいた。「あの人は俺の恩人だ」そして「深い関係なんだ」などと言うもんだから、ジャスティン、固まってしまう。
しかしよーく聞いてみると、クスリを病院に持ち込もうと尻の穴に隠していたマットが、それを取り出そうとしたスプーンが尻からとれなくなって、血だらけで苦しんでいたところを助けてくれたのが彼女だったのだ。その「尻の穴に入れて取れなくなったスプーンを取ってもらった」描写のエグくも可笑しいこと!もう、笑っちゃうよ。確かに深い関係だ(笑)。

人間誰でも、苦しいことはある。看護士としてそうマットにアドヴァイスした彼女に、逆に彼は聞いてみたんだと言う。じゃあ、あなたは?と。そうしたら彼女、ニッコリと笑ってこう言った。
「少年の母親っていうのは、強烈な体験よ」
ない答えを、求められる。親は神じゃない。同じ人間だ。これが現代の、それまでと決定的に違う価値観。ちょっと昔なら、単純に親の世代から伝わる価値観で子供を育てられた。でも今は、世の中はフクザツにすぎて、親も自身の悩みを抱えたまま子供を育てなければならない。

親は絶対的存在。父親は頭ごなしに押さえつけるから憎んでて、優しいけど母親という存在だけにいてくれないから嫉妬して、で、親だから助けてもらいたい、と思ってる。
でも親も、悩み多き一人の人間。母親は最初からそれを息子に示していたんだよね。女の本能のミーハーを、息子は受け入れられないものなのだろうか……。
でも実際の母親は、カッコイイの!ジュースの懸賞のマットとのデート企画に夢見がちにウキウキしていた彼女が、実際の彼の前ではプロとしての看護士の顔になる。自分の弱さもさらけだして、患者である彼を救おうとする。

そういやあね、ジャスティンにそれなりーに影響を与える、歯医者さんが実に味わい深いのだよね。
しかもビックリ、これを演じているのがキアヌ・リーヴス。予告編で、ぶっ飛んじゃった。大スターである今のキアヌが、こんなインディベンデントな映画に出るなんて。しかしこんな映画に出てくれると、昔からの彼を思い出したりしちゃう。そして、素晴らしい存在感を示すようになったな、と思う。
ジャスティンが定期的にこの歯医者に通っていたのは、どこかセラピー的な意味合いもあったのかもしれない。どことなくつかみ所のない、医者らしからぬ彼に、友達みたいなシンパシィを感じていた節もあるし。
ジャスティンに催眠術をかけて、親指を苦くさせてしゃぶりグセを治そうとしたりするのよ、コイツ。でもそれで返ってジャスティスはパニックに陥っちゃう。
しかもこの歯医者さん、そんなマチガイをスナオに認めるところがイイのよね。ジャスティンがクスリでキャラが変わった時、彼に雑貨屋で会うんだけど、どこかヨレっていた印象と違ってパリっとしてるの。まるでジャスティンが変わったのと同じように。
「今まではエセ哲学(心理学?)にイカレてたんだ」とジャスティンに謝罪する彼。もおー、なんか、歯医者じゃないよねー。

でも更に次に会う時、そうジャスティンが転落し、そして立ち直ってニューヨークに旅立つ前に最後の健診で再会した時、若干元のヨレった、でももう悩みや無理を感じない、イイ感じのイイ男になっている。
患者にとって絶対の存在である医者でさえも、迷う。でもそれを認めることで、大人になっても、少しずつ成長できる。というのは、青春の成長など望めないと思っている大人にとって、ちょっとだけ救われる。
「人生に答えはない。答えなしに生きる力を得ることが大事なんだ」

最後にイイとこ取りしたのは、弟君だったかもしれない。だって、一番ギャップっていうか、クールなキャラだから落ち着いちゃってて外に置かれてたから、彼がそんなこと思ってるなんて、思いもしなかったんだもん。
ああでも、判るなあ、判る判る!彼の気持ち。私の場合は逆に、姉が出来が良くて親の期待を一身に集めてる人だったからさあ、無難にこなしてヒッソリしていたのよ、私は。そういう立ち位置はこの兄弟と妙に似ていて、弟の気持ちが明かされた時にグッときちゃうんだよなあ。
この弟、「兄貴の心配で皆忙しいから、僕はしっかりしなくちゃいけないじゃないか」って言うのよー。カラテの型を練習しながら、何気ない調子で。

真剣に何かをやっている弟の部屋に暇つぶしみたいに入ってくるお兄ちゃん、てのも判るのよー。うちのねーちゃんもそうだったもん(暴露!)
この弟は本当にいつも冷静で、あの歯医者さんに腹を立てた兄に、レースでの妨害という子供っぽいイタズラを命令される場面なんか、心の中ではオカシイと思ってるのが判るんだよね。でも兄の命令に屈する形で、つまり兄を立てる形で、共犯になる。
カラテってのも、この家庭の要は自分しかいない、とケナゲに自らを律している様でさー。いやいや、こーゆーところは私には似てないな。
弟の気持ちを初めて聞いた兄は、こうべをたれる。
「どうして、それを今まで言わなかった?……ゴメン」

そしてジャスティンの成績では受かると思わなかった、ニューヨーク大学からの通知が来る。それが、クスリで自信を得ていた頃のレポートによるものだとしても、彼の運命が開けたってことなのだ。
両親は、うろたえる。だってジャスティンってば、あっち行ったりこっち行ったり、振れ幅が広すぎるんだもん!
ことに母親がうろたえるのね。意外、子供っぽさとトラウマを持ち続けた父親よりも、シッカリモノの母親の方だなんて。やっぱり母親は、息子を溺愛する傾向があるのかな。
ニューヨークのガイドブックを眺めながら涙を落とす母親。「ベルギーやチリや、いっそ火星なら良かったのに。想像しちゃうの。あなたがニューヨークのセントラルパークを散歩していたり……」
そしてこの台詞にグッとくるのだ。
「ずっとあなたを見てきたから」

ジャスティンが苦しんでる時も、絶好調の時も、絶不調の時も、彼の心が覗けなくたって、覗けないからこそ心配でたまらなくて、いつもいつも見てきた。見守ってきた。この時代に、すっごい幸せ者なのだよ、ジャスティンは。
父親の台詞もイケてるの。「やっとお前に慣れたのに……」凄い台詞!
でもこれもさ、ずっと見守ってきたっていう前提があるからこそ出る台詞だよね。判りにくい息子に苦悩し続けて、だからこそやっと慣れた、って言葉が出る。無関心だったら、こんな表現は出ないもの。
親の愛情って、なかなか判りにくい。感動的なエピソードなんてそうそうないもの。でもこういうことなんだよね。ただ見守ることが、それも大人になるまでの20年近くをよ、これって凄いことなんだよね。
傲慢にも、それが当然だってぐらいに、ウチらは思っているけれども。

ラスト、ジャスティンのサムサッカーのクセが戻る。歯医者さんは、何ら問題のないクセだと、それを矯正しようとしたことを謝ってた。
飛行機の中、親指をしゃぶりながら居眠りしているジャスティンを見て、臨席の女性は好ましそうに笑っている。
目を覚ましたジャスティン、彼女に自己紹介をする。彼女はまだ笑っている。
ここから何かが始まる。ジャスティンの夢見るニュースキャスターが、この時彼が夢の中で見たように実現するかどうかは判らない。でも凄く凄く、自由、だ。全ての枷から解き放たれて、ジャスティンはニューヨークの街角で空を切って駆け抜ける。

ラストクレジットで見た気がしたのは、本当だったのね、ホンマタカシ!様々な映像サブカルでカリスマ的存在のミルズ監督に、影響を受けた日本代表らしい。へえーと思う。ホント世の中にはいろいろな世界があるのね。映画はまさに人生の教科書だよなあ。★★★☆☆


SAYURIMEMORIES OF GEISHA
2005年 146分 アメリカ カラー
監督:ロブ・マーシャル 脚本:ロビン・スウィコード/ダグ・ライト
撮影:音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:チャン・ツィイー/渡辺謙/ミシェル・ヨー/役所広司/桃井かおり/コン・リー/工藤夕貴/大後寿々花

2006/1/13/金 劇場(丸の内プラゼール)
桃井さんと役所さんがカッコ良かったからいいやっ、と思いながらも、言ってもせんない基本的なところが気になってしょーがない。いくらなんでも芸者と一緒にお風呂入って接待はないだろうとか、提灯にひらがなで「はなまち」なんて書かねえだろうとも思ったが、まあそれは置いとくわ。ハリウッドで外国が舞台の物語が映画化されるたびに思っていたんだもん。今回初めて思ったんじゃないんだもん。例えばジャンヌ・ダルクがなぜ英語なのか、フランス語であるはずだろうとか。そういうの、たっくさんあったじゃない。おかしいよねえ、といっつも思ってたし、その国の人は英語で喋っちゃう自国のヒーロー、ヒロインをどういう思いで見てるのかなあ、とずっと思ってたのよね。
その気持ちがついに判る日が来てしまったのかあ。

まあ別に、そうした実在の人物を描いているわけじゃないし、原作がもともとアメリカ人なんだし(どういう経緯でこういう物語が書かれたのかは実に不思議だけど)、映画という大いなるウソを存分に感じさせる(いい意味でね)ファンタジーな世界だし、いいんだけど、でも、それなら、最初から最後まで英語で通してくれた方が良かったなあ。そうすりゃもうこれは吹き替え、とか思って観てられるんだもん。
これがなぜか、ところどころ日本語なのよね。そうすると、なんで?おかしいじゃん、とどうしても思っちゃう。
冒頭、ヒロインの千代が故郷で喋っているのは日本語、彼らの両親も、村の人々もみんなそう。まあ日本なんだから当然。幼い姉妹が売り飛ばされるためにどしゃぶりの雨の中連れ去られる時も、お父さんに向かって泣き叫んでいるのは日本語。そうよね、日本人が日本で喋ってんだもん。
はてこれがいつから、どういうキッカケで英語になるのかしらん。まあどういうキッカケでなってもおかしいけど、と思っていると、連れてこられた置き屋で、千代だけがチョイスされ、姉と引き離され、置き屋に入ったとたんにこの子はどこで覚えたんだか流暢な英語を話し出す。

まあいいや、置き屋キッカケなら仕方ない、と自分を納得させようとしていると、やっぱりどうにも納得できない場面が。それは千代が引き離された姉を探しあてて再会した時、姉妹同士の会話はやっぱり英語なのね……故郷では日本語で喋ってたじゃん。二人だけの会話なのに、うう、キモチワルイ。
まあ、もう自分たちの言語は英語だ、と思っているんだと納得しようとすると、さらに納得できない場面がやってくる。千代は成長し、立派な芸者となる。芸者たちが座敷へ向かうのを追っていくシーン。部屋の中での男たちの会話が雑多に漏れ聞こえてくる、のが日本語で、芸者たちが入っていくと途端に英語になるのはいくらなんでもおかしいでしょおー。
あるいは、おねえさん、おかあさん、ありがとうございます、など断片的にカンタンな言葉だけが日本語使ってたり、まあ日本のエキゾチックさをネラっているのかもしれないけど、だとしたらなんて短絡的なやり方なのだ……日本語の美しさが大好きなこっちとしては、返って哀しくなっちゃう。もう、そうなるとそれは単なるカタカナのオネエサン、オカアサン、アリガトウゴザイマス、にしか聞こえないわけ。だったら最初から最後まで日本語で通してくれよ……んで、アメリカの公開は英語吹き替えでやりゃいいじゃん。
“外国人から観た日本はこんなにキレイ”とか言っておさめてるけど、そんなん、喜ぶ気にもなれないよ。

まあ、なんてゴネながらも、これはハリウッド映画なんだから、ファンタジーなんだからと、遠くからながめる感じで観てはいたんだけど。それになんだかんだ言って、ヒロインのさゆりを演じられるだけの世界的ネームバリューを持った日本の若手女優がいなかったことが、悔しいね。もちろんチャン・ツィイーで大正解なんだけど、日本の物語なのに、ヒロインを日本人が演じられないなんて。
まあでも、今やハリウッド人となった渡辺謙が既に知られた俳優として堂々と出てきてくれるのは嬉しいし、彼に負けない存在感で役所氏や桃井氏が、日本の役者のカッコよさを示してくれるのはさらに嬉しい。
役所さんと渡辺謙は、なんかすんごい仲良さそうなんだよねー、ツーショットの記者会見とか見てると。「絆」で仲良くなったのかな?役所氏、渡辺謙を「ケンちゃん」なんて呼んじゃって!しっかし二人並ぶと、大人の男のセクシーさにクラックラする。うう、めちゃめちゃカッコイイ二人じゃ。正直、日本の映画スターとしてまず名前があがるのは役所氏の方だよな、と思うから、今回の抜擢、しかも渡辺謙の役より数段複雑さを要求される、役者、役所広司の面目躍如には嬉しい限りなんである。

渡辺謙はヒロインが幼い頃から憧れた“会長さん”。彼の世界に近づくために芸者になることを決意した、とされる人物であり、それだけで成立している役どころだから、平面的にされているというか、実はちょっとソンなキャラクターなんじゃないかと思う。とどのつまり、これは渡辺氏も言っていたけれど、幼いヒロインが夢見続けるだけの男を演じなきゃいけないわけで、その点難しくはあるけど、ホント、言ってしまえばそれだけで。
彼と共同経営をしていて、戦場では彼の命を救ったという延という男を演じる役所氏。延は日本男児の不器用さを示してて、優しく、社交的な“会長さん”とは対照的な男。“会長さん”はアメリカ人にとってはすんなり受け入れられるキャラなんだろうけれど、日本人のこっちとしては、延のような不器用な男に日本人らしさの親近感を覚えるし、母性本能もヤラれてグッとくる。ま、さゆりは“会長さん”を思い続けて芸者になったんだからしゃーないけど、日本人の女なら延さんにホレちゃうんじゃないかなあ。

自分にだけ弱みを見せてくれる、みたいなのに特に女は弱いし。あれだけ芸者はキライだと言っていた延さんが、意を決してさゆりに君が欲しいんだと言う場面、胸がきゅーんとしたのは私だけではあるまい。
しかも、延さんは戦争で負った負傷なのか、右頬にケロイドがあり、それも彼の心を頑なにさせているに違いなく……ってあたりは“会長さん”との対照を際立たせるためなのかちょっとあまりにベタな気もするけど、そんなあたりも女心をつかむんである。そういう純粋さは役所さんが演じるからこそ余計に際立つ。
でもやっぱりそういうのも日本的なのかな。あ!でもだったらよけいダメじゃん!……やっぱり日本を描いていながら心はアメリカの映画なのね。

というのは、やっぱり最後まで感じるのだ。さゆりの急激な台頭に、それまでの売れっ子芸者、初桃がロコツにジャマしてきたり、初桃の妹分でさゆりとは置き屋に入った頃から仲良しだったおカボが女将さんの養女の座を奪われたことを根に持って仕返ししたり。ま、そりゃどこの世界でも、どこの国でもそういうことはあるだろうと思う。芸者の世界は女の世界だから、あったんだろうと思う。でも……ヒロインが叩かれるために用意されるそうした舞台はやはり単純すぎて、そこに日本ならではの、芸者の世界ならではのワビサビなどは当然感じるべくもない。
本来なら達観したところから見守っているはずの女将さんも、さゆりを育て上げた豆葉のいわば策略に(ちょっと言い方悪いけど)アッサリかかっちゃうし。
この、チーム組んで闘う、みたいなあり方も、なんとなーくアメリカ的だな、と思ったりする。アメリカ的というか、スポーツ的?

しかし、この女将さん、どんなに単純化された役であっても、どこまでも桃井かおり、であるカッコ良さにはしびれるんだよなあ。英語喋ってもやっぱり桃井かおり。キセルで吸ってもタバコをふかす桃井かおりそのものであり、置き屋が焼けようが、戦争で何もかもなくなろうが、(延さん曰く)あの人はどうなったって生き延びるよ、というのが、いやー、桃井かおりならまさしくだよな!と思うんである。
この役者としてのキャラの強烈さは、これからでも充分世界に通用するんでないの?いや、楽しみだなー。

ところで、チーム組んで、のお姐さん組の方なんだけど。さゆりが千代として置き屋に入ってきた最初っからけむたがる売れっ子芸者の初桃、コン・リーが髪を振り乱し、鬼のような顔をして演じる。彼女は、自分を追い越して伝説の存在になってゆく千代にあらん限りの汚い手を使って蹴落とそうとし、短気でキレまくる性格、は一見強烈でオイシイ役ではあるけど、悪役としてかなり単純化されている。一方、ミシェル・ヨー扮する、さゆりという名をつけ、彼女を一人前の芸者として育て上げる豆葉は、ラストシーンで明かされる彼女が抱えていた秘密を匂わせるようなたたずまい、その複雑な奥深さをうかがわせる美しさは、日本女性のそれを体現していて、ああ、これよ!ミシェル・ヨー姉さんさすがっ!と感嘆しちまうんである。まあだから、これも、この役をやれる日本女優がいなかったのが悔しいけどね。仲の良かったさゆりを最終的に裏切るおカボには工藤夕貴が抜擢されてるけど、こんな役に日本人ふらんでもええわ、とちょっと思ったもんな。ま、でもダサい田舎娘っぽい駆け出し芸者だったおカボが、戦争を挟んで、あっという間にアメリカ兵相手のハスッパな水商売女に変身し、ガラリと雰囲気を変える彼女の力量を感じさせはするんだけど。

これは、ハッピーエンド、ってことなのかなあ。っていうか、描き方は、もうハリウッドのラブストーリーそのままの、大団円のハッピーエンドそのものなんだけどさ。本当は最初から、“会長さん”はさゆりを身請けするつもりでいた。幼い千代に出会い、彼女を豆葉に預けたのは彼自身だったのだ。でも、恩人の延がさゆりにホレてしまったことで一度は身を引こうとするものの、戦争という時代の波を挟み、そしてさゆりがアメリカ人とヤッちゃってるのを知った延は、(それを見てしまったのは“会長さん”の方だし、もともとその場面をさゆりは延に見せて自分をあきらめてもらおうと画策してたんだけどね。そこをおカボに裏切られたわけで)さゆりから手を引いた。……っていうのって、どうなんだろう。“会長さん”はね、「あいつは人を許すことが出来ない男だから」と説明するのね。恩人で、友人なのに、その言いようもないだろうとも思うし、役所さん自身がキャラに複雑な陰影を与えて(しまった)せいか、見てるこっちとしては、そんなことを理由に延さんがさゆりをあきらめてしまったとは思えないんだよなあ。勝手にね、だから役所さんが演じている延さんならば、さゆりの本当の気持ち(つまり“会長さん”への)を知って、彼こそが身を引いたんではないだろうか、などと、本当に勝手にそんなことを思ってしまったりして。

“会長さん”まで涙流して彼女を抱き寄せてハッピーエンドなんだもん。でもその後さゆり自身のナレーションで語られるように、あくまで妾として身請けされたわけで、夜の妻であるだけで、それをそんな、長年の恋が成就しました、バンザーイ、みたいな雰囲気で描かれると、いいのかなと思っちゃうわけ。そう、ナレーションで注釈つけてんだからさ。いっちゃえば、セックスするだけの相手だよ。身もフタもないけど。それで号泣とかしないでよ、“会長さん”。本当はだから、さゆりが幼い頃から夢見ていたこの結末は、叶いはしたけど、これからの切なさや苦さを充分含んでるんだよ。何かそれが、ちょっとナレーションで説明されただけで思いっきりすっ飛ばされた気がするんだけど。その点においては、そうした“だんなさん”の存在なくして生きられない芸者の哀しさを、豆葉の方が充分判ってて、ミシェル・ヨーはさっすがそれを体現していたんだよなー。

さゆりを伝説に育て上げたのは彼女。誰よりも高い金額をつけた男に水揚げさせるべく奔走した時、本当は一番高い値をつけたのは豆葉の“だんなさん”であるエロ男爵だった。でも、彼女は自分の“だんなさん”だから、許してね、と二番目の医者をさゆりの相手にしたでしょ。ここに豆葉の悲しさ切なさを感じてねー、またミシェル・ヨーの絶妙かつ繊細な表情がさすがでねー。彼女は決して、さゆりの“会長さん”に対する思いのようにはこのエロ男爵を思っていたわけではない。女の意地というものは先行していたけれども、やはり長年の付き合いの情や、女としてのうずく思いは当然あったわけで、そういうのをミシェル・ヨーは匂いたつオンナとしてホント、感じさせるのよね。うーん、ミシェル・ヨーがやっぱり一番素晴らしかったかもなあ。

いやいや!やはり一番は、さゆりの少女時代、つまり千代時代を演じた大後寿々花ちゃんだ!なんてカワイイんだ!あー、「北の零年」は観てなかった!“会長さん”と初めて橋のたもとで出会う場面、泣き顔から一転、ニッコリ笑顔は、“会長さん”が「その笑顔がお返しだ」と言わずとも、もう観客全員へのプレゼントだわっ。しかもしかも英語は流暢だし、ハリウッドに目ぇつけられちゃうかなあ??★★☆☆☆


さよなら、僕らの夏MEAN CREEK
2004年 90分 アメリカ カラー
監督:ヤコブ・アーロン・エステス 脚本:ヤコブ・アーロン・エステス
撮影:シャロン・メイアー 音楽:トマンダンディ
出演:ローリー・カルキン/ライアン・ケリー/スコット・ミシュロウィック/トレヴァー・モーガン/ジョシュ・ペック/カーリー・シュローダー

2006/6/27/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
こんなことが、起こるはずではなかった。むしろ、このいじめっ子と友達になれるのかもしれなかった。
でも、そう思うこと自体が甘かったのかもしれない。いじめっ子は所詮いじめっ子 だ。いじめられっ子と友達になりたいなんて思わないだろう。いじめられっ子が、そう夢想したとしても。

いつも理不尽に殴り倒されて、いじめられている弟のサムを心配したお兄ちゃんのロッキーが、いじめっ子のジョージをこらしめようと提案した。でもサムは、ケガさせたりするのはイヤだという。
川遊びにジョージを誘い、ハダカの彼を川に落として、そのまま家に帰らせるという他愛のない計画が立てられた。
ロッキーはこの計画に友人二人を巻き込む。ジョージはお兄ちゃん世代にも鼻につくガキとして名を馳せているらしく、彼らも一も二もなくその計画に乗る。「この計画しか、弟はうんと言わなかった」「ガンジーかよ」そう、この計画を実行してればよかったんだ。
ガンジーどころか、殺人者になってしまった。
でもたとえこの計画を実行してたとしても、絶対ジョージは自分のしたことを省みたりはしなかっただろうけど。

サムは、いじめられているからこそ、痛みが判ってた。相手にケガをさせたら、そいつと同じことをしたことになってしまう。優しいってこともあるけど、ソイツと同じ種類の人間になりたくなかったってことなんじゃないの。
つまり、大嫌いだから。そのことをもっと自覚していれば良かったんだよ。そうしたら、友達になりたいだなんて気の迷いも起きなかったのに。
絶対に、友達になれないヤツって、いるんだよ。友達100人とか、誰とでも友達になれるなんて、ウソなんだよ。子供の頃はそういうことを夢想してたけど、ムリなんだ。それは子供の無邪気さでは解決できないほど、もっと根本的な問題なんだ。
誰とでも友達になれると思っているヤツがいるとしたら、ソイツのことを、友達だなんて思ってない人間が、少なくない数、いるはず。

「スタンドバイミー」を引き合いにされる作品は時々現われるけれど、そのたびに、あれってそんなにツラい物語だったかなあ、などと思う。
いや、あんまりよく覚えてないんだ。ただ、ほろ苦さと懐かしさがあった感じはしていた。そしてあれが子供時代の最後の夏、最後の輝いた夏休みだっていう感覚はあった。
でもそれは、大人になった当時の子供たちのうちの一人が、「今から思えば……」的に回想するからであって、その時にハッキリとそう思っていたわけではなかった。

でも本作の子供たちは、まさに今、夏が、そして幸せな子供時代が終わったことを実感したことだろう。キラキラ輝く川面のきらめき、時間の流れなんかどこかに飛んでいったたような楽しさは、でも一瞬の幻だった。仲間が一人、目の前でこの世を去った。
いや、仲間なんかじゃなかった。いじめっ子だったんだもの。コイツをこらしめてやろうと思って誘い出したんだもの。
でもその計画は中止して、友達になれるもんならなりたいと思った。大人になった私たちの視点からは、いじめっ子のジョージも、いじめられっ子のサムも、サムを心配するお兄ちゃんのロッキーも、サムの心優しいガールフレンドのミリーも、みんなみんな、まだまだ未熟な子供たちで、この時の性格や方向性が必ずしも大人になった時もそうだとは限らないし、だからやっぱり仲間だったと思う。
ほんの少し、狂ってしまったのは、どこでだったのだろう。

とか言いつつ、このいじめっ子のジョージには、そりゃあムカつくんである。理不尽にサムを殴り倒していじめている部分じゃなくて、彼への復讐を中止した後、実はそんな計画があったんだと知らされた後の逆ギレの彼にである。
原因は自分にあるのに、それを全く意識にのぼらせることなくキレまくり、その場にいた全員に向かって罵詈雑言を浴びせかける。しかも彼らが絶対に触れてほしくない恥部を、何度も何度も、残酷に掘り起こす。
計画中止に唯一反対したのがロッキーの友人のマーティで、彼はいかにも少年特有のつっぱった感じを思わせるコなんだけど、このマーティに対しての罵詈雑言が一番、ヒドかったのね。

マーティの父親は自殺してしまった。多分、街中がそのことを知っている。ジョージは母親からその様を聞いたと言い、執拗に繰り返す。「壁に脳ミソ飛び散らせて死んだんだ!いい気味だ!」何度も何度も。
居合わせた誰もが、そして観客の誰もが、お前が死ね!!!と心の中で叫んだろう。そしてそれが……現実になってしまった。
マーティが言うように、復讐の計画を中止するべきではなかったのかもしれない。それに復讐といったって、ごく他愛のないものだ。
マーティはどこかで、予感していたのかもしれない。コイツが自分にとって許せない人間だってこと。

サムの誕生パーティに来てくれないかと、ロッキーがジョージを電話で呼び出すところから始まる。お兄ちゃんのロッキーが呼び出すところがミソなんである。「サムは実はキミに憧れていて、友達になりたいんだ」という電話に、ジョージは有頂天になってしまう。
なんで、そんなに単純なの。あんたがそんなに単純に反応しなければ、この計画を実行することに躊躇なんて、しなかったのに。
ちょっとオトナな世代がエスコートする誕生パーティ。自分に憧れていると言われたこと。そんなことに単純に喜んで、ハイテク水鉄砲なんていう高価なプレゼントなぞ用意してウキウキと出かけるジョージ。

この、いかにも金持ち坊っちゃん的な、高価なプレゼントってあたりでまず引かなければいけなかったんじゃないかと思うんだよ。だって、プロレタリアな家庭と思しき彼らにとって、このプレゼントのチョイスはおかしいもん。
でも、ジョージがあまりに無邪気に喜んでいるもんだから、彼がサムをいじめていることが、サム本人さえ、なんだかアイマイな気分になっちゃう。
サムはいじめられていることに敗北感を感じていることもあって、出来ることなら復讐という形ではなく、友達になることでミジメさをポジティブにまぎらわしたい気持ちもあっただろう。それを、潔癖なガールフレンドのミリーが後押しした。

この計画の中止は、ミリーの同席と、彼女の拒否反応で決まったといってもいい。サムがミリーに事前に計画を言わなかったのは、彼女に嫌われたくなかったからかもしれない。彼女がイヤがるのを薄々感じてたんだろう。
判りやすい正義を信奉する女の子特有の潔癖さとも言えるけれど、彼女の本音はもっと生々しいところにある。「こんなことに私を巻き込まないで」それが一番の理由なのだ。
そのしたたかさに、まだまだ子供であるサムが気づくはずもない。そして彼女に従う形で計画を中止し、最悪の結末を招いた時も、彼女はやっぱり同じことを言うのだ。「こんなことに私を巻き込んで!」
まだまだ胸もうすっぺらい少女なのに、既にしたたかな女なのだ。

お兄ちゃん世代の中にも、ジョージにいじめられているコはいた。両親がゲイのカップルであるクライドである。彼自身がゲイというわけではないみたいだけど、線の細い優しげなコで、同じ仲間であるマーティからもちょくちょくからかわれてムクれる。その間に入ってなだめるのがロッキーの役目である。
こういう場面が用意されているからこそ、マーティのそれが決して本気ではなく、自分の家庭にもツラいものを抱えているから、クライドと共有する感情を持ってて、仲間として一緒にいるんだってことが判る。そして、そんなこと何にも判ってないジョージに言われることとは全然違うんだってことが、浮き彫りになるんである。

こうしてみると、アメリカの、そしてアメリカに限らない現代社会が抱える様々な問題がすべて入ってる。弱者としてのゲイ、いじめの問題、自殺した親の子供の問題……。
そしてそれらを全く理解することなく、単純ないじめっ子として登場するジョージも、その単純さゆえに、カワイソウな子供と言えるのかもしれない。
彼はちょっと、イタいキャラである。自分のことを天才だと思ってる。頭の中身が他と違うと思ってる。
でもひょっとして、天才ではなくてもちょっとイッちゃってたのかもしれないと思う。だって彼が自分を天才だと定義するコトって、センテンスを逆から読むクセがあるとかっていう程度のものだよ?
でもそれもまた、ただ単に未熟な子供だからだったのかもしれない。
彼はビデオが友達である。“天才”である自分を逐一記録しようというんである。ビデオカメラを持ち歩いているというあたりも、箱入り息子のおぼっちゃんである。
そりゃまあ甘やかされているであろう脂肪でタップリした体形は、「あのブタ、ハムかソーセージにしてやろうか」とロッキーたちにネタにされるぐらいなんである。

かくしてジョージを川辺のボート乗りに誘い出すことに成功するも、ジョージの予想外の無邪気さとミリーの反対で、サムは計画の中止を決意する。
ロッキーとクライドからは了承を得るものの、マーティはこの日のために母親の車を内緒で調達してきたこともあって激しく怒り、計画は断行すべきだと主張するんである。
ホントにね、こんな他愛ない計画なんだから、やってオワリにしちゃえば良かったんだよ。

だってロッキーが言うような、「意外にイイ奴」なんかじゃ全然、ないんだもの、ジョージは。
あの計画を実行してる方がまだ良かった。それで気が済んだのなら。
イイ奴に見えたのは、ただコイツが単純だったからだ。自分がいじめっ子だという自覚がなく、高校生に誘われたことを単純に喜んでる。落ち着いてみればやっぱりサイアクのヤツなのだ。
(ウソとはいえ)誕生パーティーなんだからサムが主役のはずが、はしゃいで自分ばっかり喋るし、目上にタメ口きくしさ。
マーティは「目を覚ませよ。イイ奴なんかじゃない、クズだ」とロッキーに言い放ち、計画の中止に断固反対した。本当にそうだった。マーティは意地で言っているのかと思ったけど、彼には見えていたのかもしれない。

ボートで川に出ようと言うと、ジョージは「救命具をつけないで乗るなんてバカだよ」と躊躇した。自分が泳げないからだろうけど、その言葉には予感するものを感じてゾッとする。
そして、ひきがねは、ボートの上で始められた「真実か挑戦か」のゲームだった。サムとミリーをキスさせたり、ロッキーのマスのオカズを言わせたり、マーティのアソコを露出したり、子供らしい、青いエロネタは微笑ましいぐらいだった。
でも、はしゃいで調子に乗ったジョージにキレたマーティがムリヤリ「真実」を明かしてしまう。実は誕生パーティなどではなく、お前を陥れるワナだったのだと。
そしてそれに逆ギレしたジョージは、一人一人名指しで罵詈雑言を浴びせ倒す。あの時、この計画を中止してと頼んだミリーでさえ、コイツぶっ殺してやると思っていただろう。絶対に。
そして、もうやめろともみ合っているうちに、ジョージは川に落ちた。

だから、この時点までは確かに事故だったと思う。でも、溺れてもがいているコイツを助けに行こうとするヤツは、誰もいなかった。だってみんな、気分悪かったんだもん。ムリもない。
でもジョージが沈んだまま挙がってこなくなると、事態の深刻さに気づき、ロッキーが慌てて飛び込む。
まさに脂肪の固まりの彼を岸に引き上げるものの、もう息をしていない。
ミリーが必死に人工呼吸する。あのゲームで、ほのかに好きだったサムとのキスがあったから、この“キス”があまりにあまりで、いまいましい。なんで、なんでこんなポークハムのために。

息を吹き返さない。取り乱した彼らは、その岸で三々五々散らばる。意見が合わない。正直に出頭するしかないというクライドにマーティは真っ向反論する。死体を埋めて、皆が口裏を合わせれば判らないと。
ここでは鬼気迫るマーティに皆が折れる形で従うんだけど、結果的には黙っていることに耐えられなくなって事件が発覚するんだよね。でもマーティの気持ちは判るんだ……だって、どうしてこんなヤツのために人生をメチャクチャにされなければいけないのかって正直、思うんだもん。
本当に、死んじまえと思った。でもそれでホントに死んじゃっても、当然スッキリなんてしない。コイツが死んじまったことで、一生背負っていく罪をおっかぶされる。こんなヤツのために。

でもね、印象的だったのは、ついに息を吹き返すことのなかったジョージの死体に添い寝する、クライドの姿だった。
彼もまた、ジョージに陰湿なイジメをされて、許せないと思ってたはずなのに。
でも彼は、両親がゲイで、その両親が苦しい思いをしてきたのを知ってたし、自分自身もそのことで色々葛藤があっただろうし、だから……優しいんだよね。
ジョージを埋めて、皆黙りこくって帰って、優しい両親に何かあったのかって聞かれて、なんでもないよと答える彼の優しさがね、なんか、だから辛いんだ。

ジョージはずーっと撮り続けていたビデオを川の中に落とした。そのビデオが見つかることをマーティは恐れてた。でもこのビデオは引き上げられ、それを検証しているところで映画は終わる。
録画ボタンは押しっ放しだったんだっけ?ジョージが彼らに罵倒している姿を撮影してたんだとしたら、見てもらう方がこの際いいと思うけど……だって、本当は優しいいい子たちなのに。

サムを演じるのは、ローリー・カルキン。次々出てくるカルキン一族。7人もいるのか……今までの中で最もスターの兄に似てるかも。「ダウン・イン・ザ・バレー」でも暗い少年を名演した彼は、それだけにかつてのマコーレーのような明るい作品を演じたらどうなるんだろう?という興味が沸く。
しっかし、カルキン兄弟、一体この後何人が生き残るのかね、とも思うけど……。★★★☆☆


サンクチュアリ
2005年 95分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:瀬々敬久
撮影:芦沢明子 音楽:安川午朗
出演:黒沢あすか 山下葉子 未向 下元史朗 外波山文明 武田修宏 光石研 長門勇

2006/10/18/水 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
うーん、もっとガッツリいってほしかった。何がって?いや女同士のラヴ・シーンさあ。この二人が、というか裕子がアキにどうしようもなく抗えなくて、その魅力に、いや魔力に蹴落とされてしまうほどのガッツリしたもんが、ないの。お行儀良くってさあ。舌ぐらい奥まで入れちゃってくれよ。なんかキレイにまとめちゃってつまんない。せっかくアキに黒沢あすかを用意してんのに。

うーん、でも、その黒沢あすか。彼女さあ……結局、「六月の蛇」だけがあまりに良すぎて、というか、彼女のキャラにベストマッチングで、作品自体も強烈だったから、細かいアラが気にならなかったのよね、多分。
ちょっとね、彼女演技が大きいのよ。こっちが恥ずかしくなるような作った演技をする。しかもあんま、美女じゃない。いや美女じゃなくてもファムファタルの魔力があればいいんだけど、いやあるとは思う、そういう個性はある人だとは思うんだけど、その作った演技と、何よりひどい肌荒れで、かなり気分が萎えてしまう。
彼女に落とされてしまう裕子役の山下葉子も、そんなに心惹かれる女優さんじゃない。なんというか、無難。どうしようもなく落ちてしまう自分に対する悲愴や諦念が感じられなくて、そこそこにこなしている感じ。この話のこの二人に、ビシッとのめりこんでくれる演技をする女優を用意できたら、うわあと思うような傑作が出来上がった予感がするのだけど。

でも、あれだけピンクでは傑作を残しているのに、一般映画を撮るとどうもピリッとしなくなるなあというのが率直な感想で……この瀬々監督もそうだけど、サトウトシキ監督の「ちゃんこ」はこの目を疑いたくなるほどの有り様だったので、なあんとなく、最初からそんな目で見てしまうトコもあるかもしれない。
本作は長さをヌキにすれば、百合系のピンク映画と言えなくもないような雰囲気がある。でも一般映画ならという肩肘を張ったわけでもないとは思うけど、やけに現代社会への目配せが気になる。
子供を放置する親。一人で抱え込んで陥るパニック。家族という概念の崩壊。そして、愛という概念の崩壊。
果たして本作に、これが愛だと確信できる関係があっただろうか。
ねじれた形では、かすかに見つけることが出来るかもしれない。でも今や、ザッツラブ!と言える自信を、人は失ってしまった。
でも、愛が欲しい。そして愛を持っていることを気づくこともある。その時には……もう手遅れだったりする。
それを、本作は事件を検証するように、じっくりと遡って描いていく。

そう、遡るの。1エピソードずつ遡っていく。現在の時間軸を織り交ぜながら。そして最後の最後に、悲劇の運命を遂げることになる二人の出会いが描かれ、同時に現在の時間軸がラストシーンとして提示される。
現在の時間軸の挿入、というのを除けば、これって「ペパーミント・キャンディー」ソックリ。時間を遡ることによってじりじりとその原因を探っていき、そして何の打算もない幸福な最初に戻ることによって、結末の悲惨さとの比較でやりきれなさをあぶりだすという手法。
それ以前にもそういう映画はあったのかもしれないけど、あの「ペパーミントキャンディ」があまりに鮮烈だったので、ちょこっと二番煎じ的な印象も受ける。
それに、いちいち「一年前の秋」だのと場面にクレジットされるのもヤボだしな……結構そういう些細なところで引いたりしちゃうのよ。

アキは結婚してたのか未婚の母なのか、とにかく娘がいるんだけどほったらかしで、ガソリンスタンドをやってる父親に預けっぱなし。ホステスをやってるけど、生活のためにというよりは、まあテキトーにカネが入るから、的な感じである。
一方、裕子の方はちょっと裕福な奥様である。この地には別荘を持っていて、夫と幼い息子と三人で休暇を過ごしにやってきた。このシチュエイションだけで、アキと裕子の生活レベルの差は歴然である。
しかし、そういうことも、「ペパーミントキャンディ」方式で徐々に明らかになるんであって、最初のうちはそんなことも判らない。いや、二人に何が起こっているのかさえ判らないのだ。
示されるのは、アキがテレビのワイドショーに映っている映像。「疑惑の主婦、無罪判決!」知り合いの男を殺したという疑惑が無罪判決を受けたらしい。その映像をじっと見ている裕子。だから最初は、彼女の夫がアキによって殺されたのかと思ったら、違う。この事件自体は、裕子とは関係はない。
というか、この事件、アキの勤める店の客だった男を殺した理由は、今ひとつ判らんかったのだが……でもこの事件の決着が、裕子の中でくすぶっていた疑惑に火をつけたのは必至である。

裕子の最愛の息子が、姿を消した。その間、アキはこの地を離れ、そしてアキの父親は死んでしまったため、彼女の娘は施設に行かなければいけない状態になった。裕子はアキを訪ね、「このままだと、(アキの娘は)施設に入れられちゃう」と訴えるものの、「私はそれでいいよ」とにべもない。
後から思うと、こうやって裕子はひとつひとつ、アキの子供への冷淡さを確認しているようにも思える。
その一方で、アキを恋い焦がれていた。好きで好きでたまらなかった。
でも、そんな裕子をアキは拒絶する。裕子から送られてきた何通もの手描きの絵葉書を叩きつけて、「キモチワルイんだよ!」と。

裕子が描いていたのは、この地の野鳥たちだった。鳥を描きだすと裕子は夢中になった。アキに抱かれたことも忘れるぐらい。
そう、裕子は抱かれたのだ。彼女の別荘へ灯油を配達に来たアキに。
「あなたが来るとは思わなかった」という台詞は、その後二人が出会う場面に遡らなければ、その妙味を感じられないってのが痛し痒しってトコなんだけど。

その出会い場面は、最後の最後に描かれる。ガソリンスタンドに立ち寄った裕子たち家族、お手洗いを借りた裕子が手を洗おうとしたら水道がホースにつながれてる、それをたどっていったら、今時珍しい二層式洗濯機につながれてる。
二階で洗濯物を干しているアキに声をかける裕子、降りてきたアキ、外したホースから一面に水がまかれて……ふいに、思いついたように裕子の唇に自分の唇を重ねるアキ。驚いた顔の裕子だけど、拒絶はしない、そのままなんだか、何度となく唇は触れ合い、腰に手が回り……。
なぜアキは、裕子にこんなことをしたのだろう。その後の描写を見ても、アキが同性愛者どころかバイセクシュアルですらないとしか思えない。気まぐれに裕子にちょいレズ感覚のキスをしただけなのか。
裕子に関しても、真性レズであるとは思われない。ムリしてこの家族を形成しているようには思えないし、遡った最後に描かれる家族の風景は邪気無く、幸せそうである。でもアキによって“開発”されてしまった裕子は、息子がいなくなり、アキも去り、夫からも愛想をつかされた結果、街角で拾った女の子に慰めを求めたりするんである。

このエピソードの挿入なんかは、とりあえずエッチシーン足しとこうか的な、ピンクっぽさを感じたりもするんだけど。だって正直、この女の子のエピソードは必要ない。現代社会ならではの過呼吸のパニック障害を持ってる、ってあたりが逆にあざとい感じ。
しかも彼女は若き母親でダンナに子供を殺されたという、ワキエピソードとしてはかなりキョーレツなものをもってくる。虐待された子供の遺体が見つかった、と裕子が警察に呼ばれ、しかしそれは行方不明の息子ではなかった。で、その遺体の母親である彼女と裕子は出会うのだ。
「子供を殺す親なんて、死ぬべき」と言うこの女の子の言葉に、裕子の中で何かがハジける。

ああ、そう考えてみると裕子がアキへの疑惑に対して突き動かされることになるわけだから、いらないエピソードってわけじゃないのかあ。
なのになんでいらないとか思うのかな。この女の子がイマイチ可愛くないせいかなあ。
「あんた、ずっと他の人のこと考えてた。誰かの替わりに私を抱いたんでしょ。そのつもりで拾ったんでしょ。この変態!」なーんてグッドな台詞も用意されているのにい。
ああ、でもこの子、「花と蛇」で「マッチョです!」って言ってた女ボディーガードかあ。そうそう、彩姉さんとヤッちゃうっていうね。おっぱいの形が美しく、屈辱的な形に縛られた姿がとても印象に残ってる。が、フツーの位置に置かれると、そういう肉感が生かされなくて、イマイチなルックスばかりが目に付いてしまう……ゴメン!私、基本的には女の子には甘々な方なのだが、やはりそれはキチンと生かされないと、ダメなのよう。

でも裕子はいつの頃から、疑ってたの?自分の息子を殺したのがアキだって。
チラシを配っていたのは、これ見よがしだったのか。
そしてその理由は気づいていたの?息子が自分たちの情事を覗き見ていたって。
そんなことも観客は知らされないから、裕子の息子が行方不明なことと、アキと裕子の関係とがあまりにもバラけて進行されてて、終盤になるまでかなり宙ぶらりんな気持ちなんである。
息子はね、見ちゃったのよ。いや、正確にはそんなメイクラブを見たわけじゃない。でも外でアキの娘と遊んでいる時から、室内の二人の仲の良さがただならぬものであることを、幼い子供の直感でなんとなく感じてた。そしてアキが娘を連れて帰ったあと、二階に行ってみたら……あられもない格好でベッドに横たわっている母親を目撃する。

裕子は、息子が自分のそんな姿を見たことさえ、気づいていなかったのか。あるいは薄々気づいていたから、息子がアキに殺されたと思ったのか。
でも、アキが裕子の息子を殺した理由を、彼女は最後まで知ることはないのだ。
母親のしどけない姿を見て別荘を飛び出し、アキ親子の軽トラを追って走ってきた息子、途中休憩の場所で、こっそりとアキの娘をハダカにした。 彼はつまり、母親たちが何をしていたのか、知りたかったんでしょ。知ろうとしていたんでしょ。
それを見たアキは逆上して、彼を殺してしまった。
そしてその全てを、アキの娘は見てしまったのだ。

アキと裕子の会話で、印象的なものがある。
海外旅行に行ったことのないアキ。「知らないとこ行くと、壊れたりするのかな」と裕子に問う。
この会話のシチュエイションで、内容以上のことが判ってしまう。海外旅行ぐらいフツーに行く裕子と、そんなことすら夢のアキ。
別荘地に来ている裕福な裕子と、そうした観光客の落としていくカネで生計を立てているアキは、あまりにも違いすぎるのだ。
でもそのアキに、裕子は切り開かれる。
アキは裕子のこと、そんな風に最初から、キライだったかもしれないのに。

でもその関係も、バシッと判りづらいんだよね。つまり裕子の夫が別荘地に入り浸る妻にアイソをつかすっていうのが、ここが別荘地だって頭に入ってないから、ピンとこないの。
そうなのだ。裕子の夫は、行方不明の息子にこだわる妻に冷たくて、結局別れちゃうのだ。つーか、彼女の夫はなぜそんな冷たいワケ?自分の息子が行方不明になったのに、どの時間軸でも全然取り乱してない。
それどころか、取り乱した妻の方がおかしい、って言いたげなぐらいの態度なんだよね。
演じるには、武田修宏氏。正直、やっぱり演技キビしい……こういう中に一人素人が入ると、判るもんなのねえ。

そうなのね。アキの娘は何もかも知っているのよ。全部、見ちゃった。母親が裕子の息子を殺したのを。
だからアキは、この地から離れたんだ。そりゃ最初から娘に愛情を持たない、自分勝手な母親ではあったけど、でも、娘をハダカにした男の子に逆上した。その時、きっと気づいたんだ。それは母親の本能的な愛情だってこと。
それに気づいて、でも自分の罪を娘は見ていて、そして今までもこれからもいい母親でいる自信なんてないから、彼女は去ってしまったんだ。

多分それだけしか考えてなかったのが、アキの愚かなところであり、あるいは純粋さの顕われなのかもしれない。自分が罪人で、そして裕子にとっては仇であることを、イマイチ判ってないような感じがある。
それは娘を愛しているから、人殺しの自分が親であるなんて不幸だからこそ娘を捨てたってことなんだけど、裕子のことはぜっんぜん頭にない感じなんだよね。
当然それは、アキにホレてる裕子にとってはキツい。彼女はその時点で、自分の息子を殺したのがアキだなんて、まさか思っちゃいないから。

でもさ、なんかさ、この感じって、女が恋愛か子供か、どっちかだけにしか振り幅がないって言ってる感じだよね。
確かに女には、そういう部分が基本的にあるんだろう、だから、結婚して夫婦が倦怠期になるのは、女の方に原因があるのかもしれないよな、と思う。男は外に恋愛感情を求める、それが浮気ってことになるわけじゃないの?
なんか話が脱線したけど……で、女の、そんな風に双方を両立出来ない、どこかメンドクサガリな気分の延長線上に魅力的な女がいたら、自分の気持ちとそう遠くないところにあってシンパシイしやすくて、そんで女はちょいレズ気分を持っているんだからさ、向こうから仕掛けてきたら、ムリなく落ちちゃうのよ。男は、気をつけないと。

それにしてもホント、アキが客だったオタク男を殺しちゃう理由が判らない。いーじゃん、ロリコン(アニメオタク?)なぐらいさあ。しかも、それをからかい倒したオメーが悪いんだろ。
アキにからかわれてキレた彼が用心棒にボコボコにされ、その血だらけのカッコのまま女子高生コスプレをした彼女と一緒にカラオケ歌っているのは、笑うポイントなんだろうが、まるで笑えない。
ま、その用心棒である下元氏は相変わらずステキだが。あー、あのやさぐれた感じがたまらない。

今から思うと、裕子がひたすら、ちょっと妄執なぐらいに描いてた鳥の絵は、結構キテるかもしれない。
彼女から送られてきた膨大な手描きの絵葉書を「気持ち悪いんだよ!」とアキが叩きつけた時には意味が判らなかったんだけど(いやだから、時間軸が逆だからさ)。ひたすら野鳥を描いてる、しかもビビットなベタ塗りで、やけにリアルにっていうのがね……鳥って、ふっと我に帰ると、結構怖いというか、何考えてんだか判んなくてキモチワルイっていうか、まあ多分にヒッチコックあたりの影響もあるだろうけど、だから、ブキミなんだよね、鳥のモティーフって。

ラストシーンは、現在の時間軸と出会いの時間軸に集中される。まるでセックスのように官能的な殺しの舞いと、初恋のようなキスを交わす最初の出会いが交錯する。最初からこの残酷な結末に向かって、出会いの引き金が引き絞られていたのだ。
映画の冒頭、なぜ女が車の中で鎖につながれているのが判らないまま始まった。
そして今、全てが判った。
裕子はアキを、砂浜に引きずり出す。鎖の手錠のまま、ナイフでザクザクと彼女を刺す。
でも砂浜に横たわる二人は、不思議に美しいの。
アキはもう息がない。でもどちらも同じ地平に浮かんでいるみたいで、なぜか美しいのだ。

そうだな、この二人が例えば小島聖と市川実和子とかだったら、良かったかも。★★★☆☆


三年身籠る
2005年 99分 日本 カラー
監督:唯野未歩子 脚本:唯野未歩子
撮影:中村夏葉 音楽:野崎美波
出演:中島知子 西島秀俊 木内みどり 奥田恵梨華 鈴木一真 綾田俊樹 関敬六 塩見三省 丹阿弥谷津子

2006/2/2/木 劇場(新宿武蔵野館3)
これは何たって、唯野未歩子が西島秀俊を演出することに対する興味がすんごいあったのだった。いや、見るからに才能のありそうな彼女の初監督作品ってことも、もちろんあったのだけど。
なんか、唯野未歩子と西島秀俊って、同志みたいな雰囲気があるなあと。なぜそう思ったのか自分でも不思議なんだけど……「いたいふたり」での共演の縁があって(確か共演したの、これだけだよね?)今回彼にオファーした、ってだけなんだけど。
「いたいふたり」の時、夫婦役ではあったけど、なんか目指す部分が似ているというか、役者としての、とか人間としての、とかいう、案外頑固な信念が似ているような空気を感じてたんだよね。だから今回、“唯野監督”として西島氏を演出するというのがホントに楽しみだった。

普段は静かな役のイメージが強い彼が、浮気性から始まって、妻の長すぎる妊娠に取り乱し、更には生まれてもいない子供にやけに子煩悩になるマイホームパパ、というカラフルな変遷が楽しい。コミカルな西島秀俊、しかも徹底的な、というのはそうお目にかかれるものではないもの。
そのギャップはヒロインもそうで、あれだけ達者な芸人さんである中島知子が、内にひっそりといろんなものを押し込めている静けさ、というのも驚きなのであった。
あ、でも中島氏はもともと、この人って頭の回転が早いというか、座の雰囲気を読み取る知性があるなあと思っていたから、ドラマを見ない私は今回女優としての彼女を見るのは初めてなんだけど、達者な演技に驚きながらも、いやでも、彼女ならさもありなんだよな、と思ったりする。

予告編はすんごいにぎやかな調子だったから、本編の、やけに静かでオフビートなリズムにちょっと驚いたりする。でもその静けさ自体にすっごく皮肉というか、意味が込められている。外見はキュートだけど、内面は絶対譲らない信念が確固としてあるんだろうな、と漠然と思っていた唯野未歩子(ホント、キュートだよねー。私彼女、大好き)をこうして具体的な形で見ることが出来て嬉しくなる。
三年身籠る、というアイディア自体が、馬とか牛とかのように、生まれてすぐ立って歩いたらラクだろうな、というところから出発しているというのは聞いていたんだけど、先に示されている監督としてのステートメントはもっと深い部分にあったしね。
何でも与えられる中で育った世代が親になる今、そんな未熟な私たち世代が親になるための、親自身が成長するための期間が与えられたなら、ということだったんだって。
私も同世代だし、自身のことで精一杯で、絶対子育てなんてできっこないと思っているクチなので、なんか彼女のこの言葉が染みるんだなあ。

ヒロインの冬子は、そりゃ最初は三年も身籠るなんて思ってなかっただろう。
始まりは、もうあれは8ヶ月ぐらいのお腹かな?妻の妊娠中に愛人との浮気にフケ込むダンナにも、街中の騒音や、音楽や、読書さえも、純粋な子供をはぐくむためにシャットダウンし、常に耳栓し、顔の両側に手でバリケードを作って商店街を歩いている彼女。
とても穏やかな表情に見えるけれど、その信念で子供というよりは自分を守っているようで痛々しい。
彼女は女系家族で、私生児なのか、最初から父親はいない雰囲気である。妹と、母と、祖母と、その他、墓参りや葬式に参加する親類全てが女性なんである。
まるで遠慮がなく、皆と友達みたいな雰囲気で、お墓参りのシーンなんて、墓地でお重広げてピクニック気分でやたら楽しそう。
そういやあ、すっごく料理が出てくるんだよね。それも色とりどりの。どっか食べに行くとかじゃなくて、皆で料理作って皆でワイワイ食べる。女性のヴァイタリティをすっごく感じるのね。
最初は浮気なんかしてて、この女系家族にも腰が引けがちだったダンナの徹が、妻と子供のために家事をこなすうちに、すっかり料理が得意になっちゃった、なんて展開も楽しかったりする。

でも徹がそこに行き着くには、ほっんとうに変遷があったのだった。
これがね、冬子は一貫して変わらないんだよね。いや彼女の中には戸惑いや恐れが当然あっただろうと思われるんだけど、三年も身籠った最後に「こうなるのは私の願いだったのかもしれない」とつぶやくように、夫婦の修復と家族のスタートラインのため、この期間を本能的に望んでいたのだ、きっと。女の本能だね。
徹は、実に判りやすく変遷してゆく。まず、愛人にフラれる。
この愛人の存在をしっかり認識していた冬子は、「ヒドいよね。自分が昇進したからフルなんて……ごめん」などと気まずい会話を、多分彼女は確信犯的にふっているあたりがシニカルで面白いんだけど。
でも、愛人にフラれると(というか、まあ浮気して夜遅くなりながらも、きちんきちんと帰宅はしてたんだから)戻ってくるのがやっぱり奥さんの元しかないなんていうのが、男の哀しさを感じるんだよなあ。

そういやあ、冬子は妹の緑子に「お義兄さん、愛人いるんでしょ。イヤじゃないの。私だったら耐えられない」と言われてたんだった。
緑子は親子ほど年の違う、海くんという産婦人科医とラブラブで、彼と同じ体になりたいといって、同時に同じ食べ物を口にしたりするほどだった。
まあ彼女は若いし、そんな風に思うのも判る気がする……って、私もそんな進んで老成することもないんだけど(笑)。
でもその時、冬子が言った台詞がふるってるんである。「カノジョとはいつか終わりがくるけど、私とこの子は終わりがないの」
親子関係ということでは徹と子供だってそうなはずなんだけど、なんたって身籠っているお母さんである彼女は、その感覚をダイレクトに感じているんである。

というのを、そう、男は感じることが出来なくて、不安で、妻の妊娠中に浮気なんかしちゃうってことなのかなあ。
愛人と別れて、でも妻のお腹は大きくなる一方で、10ヶ月をとうに過ぎても生まれてこない。徹は「前の彼氏に宇宙人とかいなかった?ヘンな病気持ってるとか、怪物とか」なんかもう、たたみかけるように言うんである。「もしそうなら、オレの責任じゃないよね」なんて。
それを受けて冬子ったら、過去の男たちと会ってきちんと“調べる”のもふるってるんだけど。というのもね、それには海君が同席してくれて、彼ってば悪ノリしてその場で採血までしちゃうんだもん。うろたえる男どもが可笑しくて。
徹がそんなことを言ったこと、冬子は海君に相談する。なんかだって彼、やっぱり年の功っていうか、冬子に対してお父さんみたいにふるまってくれて、なんだか安心出来るのだ。
「男は女と違って確信がないから不安なんですよ」彼は言う。
「そっか、徹は不安なんだ……」

妊娠してる時って、もうその時から母親で、女は幸せだけど、男は生まれてからじゃないとそれが実感できない、おいてきぼり感があるのかもなあ。お前一人だけで行かないでくれよ、って感じなのかしらん。
でも妊娠している時から、もう両親なんだよね。妻が妊娠している時に浮気するような、徹のような男も少なからずいるだろうけど。
三年も身籠ったら、その間赤ちゃんから子供へと育ってゆくわけで、そんなお腹の中の子供に対してもう子育てをしなければいけない。

という描写も面白いのよね。お腹の中で、泣き声や、機嫌のいい言葉にならない声さえあげる赤ちゃん。小山のように盛り上がった冬子のお腹の上でミニカーなんぞを走らせて、まだ出てこない赤ちゃんをあやす二人。
ということになるまでには、まだまだ変遷があったんだけど。
まず、冬子はそれまでかかっていた小さな産院をやめて、海君の勤める大きな病院に入院することになるのね。
「妊娠は病気じゃないのに……」と冬子は言い、しかも興味津々の医師団が連れ立って彼女を見にきたり、更にはマスコミに取り上げられて悪魔の子呼ばわりされたり、散々な目にあうのだ。

でも冬子は変わらない。「冬子はよく平気だよな」と徹はイヤガラセのハガキをつらつら見ながらつぶやく。彼女はこんな異様な大きさのお腹になっても、全然臆することなく車椅子に乗って散歩したがったりした。周囲は明らかに好奇の目を向けているのに。
冬子にはヒミツがあるんである。それは、辛いことや悲しいことがあったら、誰にも言わず、流しの下にしまいなさい、というおばあちゃんの教えである。
何かあるたびに、それは悲しいことでも嬉しいことでも、冬子は手紙にしたためて流しの下の缶の中にしまいこむ。その手紙の出だしはいつも同じ。「お父さん」
見たこともない父親を頭に思い浮かべているのはもちろん、当然お腹の子供の父親である徹に対しても向けられてるよね。

大きな病院に入院しようと思ったのは、周囲の好奇な目から、徹を守ってやるためだったのかもしれない。
流しの下の、お父さんに当てられた手紙を見た徹は、深夜の病院に駈けてゆく。警備員に呼び止められても、「じゃ、逆に聞くけど、ここの退院手続きってどうなってるの」と聞き返し、全力ダッシュで冬子の病室に向かう。
「帰ろう」突然現われた徹にそう言われて、冬子はビックリの表情。
でも、駆けつけた警備員から両脇を押さえられた徹に、「私の夫なんです。私、帰ります」と宣言し……。

この時から、明らかに徹は変わったように思うのね。
人の目にさらされない山奥に引っ込み、妻子のために会社まで辞めて、つきっきりになる。
だんだん父親の自覚が芽生えてくる。人目につかないところでゆっくりと“育てよう”と決めた時から、確実に、変わった。
男もこうでなくちゃいけないかもね!

一方、妹の緑子は、海君との関係が危うくなってる。彼の浮気が発覚したこともそうなんだけど……まあ緑子の、若さがゆえの独占欲に海君が耐えられなくなっている感じが大きくて。
冬子が無事出産したら、二人の関係は終わりにしよう、そう決めていて……いや緑子はまだそれに納得してない。
食事のシーン、ケンアクな二人を手前にして、画面の右奥で、「徹の料理はおいしいよね!」と笑ってる図が、特に一番遠くに小さく映ってる徹が、二人をなだめようとしているのか、笑顔全開なのが可笑しくて!
腹いせなのか、緑子は徹を誘惑して、そのお……戸外でヤッちゃったりするのね。助手席にわざわざパンツ脱ぎ捨てて用を足しにいった緑子にそういう予感を感じたんだろうけれど、「ちょっとだけ」と言う緑子に「じゃあ、ちょっとだけ」って応じる徹も徹だよ!大体、ちょっとって、なんだよー!

夫と妹のマチガイに気づいたらしい冬子だけど、例によって徹は責めない。
でも緑子と海君の亀裂は心配してて、お姉ちゃん、最近メイクしてないでしょ、してあげる、などとはしゃぐ妹が後ろを向いた隙に、彼女の髪を無言でバッサリと切る。
驚いて振り返る緑子に、「何でもしていいって訳じゃないのよ。めんどくさいから泣かないで」と言い渡す冬子の静かさはヤハリ変わらず、変わらないだけに……コワい。緑子は泣きながら海君のいる続き部屋に飛び込む。
「緑子は悪くないよね!」そう泣きながら。いや悪いって……しかも海君、彼女の希望通り女装して、オカマちゃんみたいになって彼女をなぐさめなきゃいけない始末だし。塩見さんほど女装の似合わない人もおるまいが……。

なんで緑子が海君にこんなカッコをさせたかというと、別れに納得できないけど、男にイヤ気がさして情緒不安定になってる緑子が、「海君、女の人になってよ。男の人がキライなの。女の人になってくれれば、ずっと一緒にいられるよ」と迫り、せめて一日だけでもいいから、と懇願したからだったのだ。
彼女のこの言いようはあまりに突飛ではあるけれど、判らなくもない。大好きだから離れたくないけど、男の部分が彼女には理解できない。その本能が彼女を裏切ることを恐れてる。とても冬子のように泰然としてはいられない。
海君もそんな緑子の気持ちが判るからこそ、別れを決意したんだけど、でも皆で冬子の出産を乗り越えた時、そんな小さなコダワリもぱんと弾けた気がしたんだ。

冬子は自然分娩にこだわった。三年も身籠って、赤ちゃんが相当に大きくなったことを考えると、それは命に関わる危険なことに違いなかった。
でも、徹とも話し合って、ここまできて赤ちゃんが自力で出てこれないようなら、これから社会に出て強く生きてはいけない、と決心した。
この頃になると、やんちゃな赤ちゃんがお腹の中で動き回るのも実にパワフルで、お腹がボコボコ動くのがホラー並みにコワい。

ついに陣痛が始まる。海君はその女装のカッコのまま(笑)、落ち着いて出産の準備にとりかかる。
徹はうろたえながらも、夜食のおにぎりなぞ作る(おにぎり握る西島秀俊、ステキだわー)。緑子もタオルを用意したり、お姉ちゃんの手を握り締めたり、懸命である。
どうやら長くかかりそうだ……牛並みの出産を覚悟しましょうね、と海君は言い、冬子も覚悟を決める。
長い長い長い夜があけ、徹は一休みしようと思ったのか、すがすがしい朝の中を出てゆく。と、産声が!慌てて家に駈けてゆくと、戸口から生まれたてでビッショリ濡れた、でももう立って歩いてる赤ん坊が!
徹は迷わず駆け寄って抱き上げる。まるで長いことそうしていたように、迷いなく。
ドアを威勢良く開ける。と、緑子と海君が「シーッ!今すっかり眠ってますから」「もう、お義兄さんたら、本当に間が悪いんだから」
穏やかな眠りの冬子と、なんだかすっかりラブラブに戻ってる緑子と海君、そして準備期間が長かったせいで、もはや手馴れた父親である徹が暖かな空気に包まれてる。

すっ飛ばしちゃったけど、途中、冬子のおばあちゃんが死んじゃうエピソードがあったのね。相変わらず女系の親類大集合で、いつも以上に徹は居心地悪い思いをしている。
家に帰ってきて、玄関で塩をまこうとしている彼に冬子が、「それって霊を追い払うってことでしょ……おばあちゃんを追い払うなんて、なんか可哀想で」と言い、徹は自分ひとりにだけ塩をまいて家に入る。
「オレ、お前のばあさんキライだったんだ。だって怖いじゃん」そうつぶやく彼に、「うん」と冬子は否定しない。でもなぜか、なぜか徹は泣き始めて……お腹の中の子供も、パパが泣くのに呼応したのか泣き始めて……何かそれがね、子供が生まれる前の通過儀礼として、凄く印象に残ったのね。
まあ、なんで彼がそこまで怖いと思っていたのか、せいぜい、開かない缶やらビンやらをまとめて開けさせて(ちょっと、面白い)「ダンナさんも子育てに参加しないと」ぐらいは言ってたけど。

ラストはなんだか大団円。冬子のお母さんには若い恋人がいるし(おいおい、娘と逆のことやってる!)。
冬子と徹と子供の家族三人、川べりを歩きながらしりとりしてる。平凡な風景が、親となるための三年を乗り越えたからこそ、愛しく思えるんだ。★★★☆☆


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