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マザーウォーター
2010年 105分 日本 カラー
監督:松本佳奈 脚本:白木朋子 たかのいちこ
撮影:谷峰登 音楽:金子隆博
出演:小林聡美 小泉今日子 加瀬亮 市川実日子 永山絢斗 光石研 もたいまさこ 田熊直太郎 伽奈
とはいえ、実は予告編に遭遇した時から、その予感はありありとしていた。実は実は、もんのすごく予測通りの映画だった。ビックリするぐらい。観たことあるんちゃうのと思うぐらい。
「かもめ食堂」から連なるプロジェクトの4弾目になるのだが、あの傑作、「かもめ食堂」までもが凡作に思えてくるからやめてほしいと思う。
というか、このプロジェクトってホントにかもめの時から意識して作られていたの?かもめの成功があったから、本作まで二番煎じ、三番煎じとつながってきたんじゃないの?
そう、今更こんなこと言うのズルいけど、実は同じ荻上監督で連投した「めがね」の時点で、あ、なんか随分似た雰囲気……とは思っていた。
それまで荻上監督がたどってきた道は決して、そうした同じ色合いではなかったから、あれ?このカラーに落ち着いてしまうのかな、とも思った。
まあ、二番煎じと思わなくもなかったかもしれない……そう、ホントに今更こんなことを言うのはズルいんだけれど。
でも荻上監督はその後、このプロジェクトからは離れて、今年お披露目した新作「トイレット」は、そんな口当たりの良さだけではない、痛烈さがステキだった。
でも、このプロジェクトはどんどん、こういう心地よさの画を差し出せば客が入るんだろ、という意識を感じて、どうにもイラッとしてしまう。何も起こらないにもほどがある。
ていうか、「かもめ食堂」だって何も起こらないっちゃ起こらなかったけど、何も起こらない映画、で見せきるというのは、実は凄く、難しいと思う。
作り手にはっきりとしたビジョンがあって、確固たる信念がなければ、その奥にある世界は見えてこないと思う。正直、“三番煎じ”の「プール」以上に本作は、それがあまりにも見えなかったのだ。
あのね、このプロジェクトに新進の女性監督を起用するというのも、確かに日本はまだまだ女性監督が少ないから非常に有意義なことだとは思うけれど……。
女性監督、というのも、このプロジェクトの、パッケージの、口あたりの良さだけの戦略じゃないの、とこんな結果じゃどうしてもそう思わざるを得なくなってしまう。
これが監督デビュー作になってしまう任された彼女たちだって、不幸だよ。
「プール」はまだ原作があったから、原作の責もあった(ヒドい言い方だな、私……)とは思うけど、本作はどうやら映画オリジナルらしい……そうなると、まさに“四番煎じ”と思われても仕方ないじゃないの。
公開からの日数を考えても、客席の埋まり具合がかなりお寒い感じだったのは、決して偶然ではないと思う。
観客だって判るよ。バカじゃないんだから。そう、なんか映画ファンがバカにされているとさえ思っちゃうもの。ああ、なんかどんどんキツい言い方になってしまうのを止められない……。
小林聡美ともたいまさこはいわばこのプロジェクトの顔になっているけれど、彼女たちは疑問を感じないんだろうか……?などということまで気になってしまう。
もちろん、来た仕事をこなすというのがプロだろうけれど、それにしてもこれじゃあ、このプロジェクトの客寄せパンダにさせられているとしか思えない。
「めがね」にも出ていた光石研や市川実日子、「めがね」からは実に連投である加瀬亮にしたって、そうである。
こういう、心地良さ、口あたりの良さ、そんなところに封じ込められてしまっていいのか。柔らかな映像の感じもあまりに同じで、観ているだけで癒しというよりは、バカになっていく怖ささえ感じると言ったらさすがに言い過ぎか……。
でもさ、どこを切り取っても絵になる、ことにばかり腐心しているように思えてならなかったんだもの。
確かにどこを切り取っても絵になる。静かな町の中を大きくたゆたう川の流れ、その土手にぽつりと置かれた居心地のいい椅子、豆腐屋の前のベンチ、銭湯の前のベンチ、ウイスキーだけを置くバーの古い椅子。
あ、こうして見ると、水もそうだけど、椅子にもコダワリがあるのね。
というのも、実は見ていて気づいてはいたけど、ちょっとウザいなと思っていたポイントでもある(爆)。壊れても丁寧に直して使う、バーの味わいのある古い椅子まではいいけど、誰が置いたか判らない、土手にぽつりと置かれた椅子までとなると、いささかやりすぎというか、あざとい演出だと思う。
正直、あの椅子であんなに気持ち良さそうには寝れない(爆)。首を支える部分もないし(爆爆)。しかも、あの椅子に最初に座ったもたいさんなんて、足届いてないじゃん(爆爆爆)。
とまあ、気にいらないことばかり言っているとどういう話かも判らないから……って、話なんて、ないんだけどね。
これが京都が舞台になっているなんて、ちっとも判らなかった。別に京都らしさを出す必要はないとは思うけど、この町でなければならないことさえ、明確にしなさすぎる気がした。
そりゃまあ、タイトルからも、これみよがしに流れる川からも、水がテーマになっていることは判らなくはない。
でも、台詞があいまいすぎるんだよね。明確に台詞でいうのがヤボというのも、確かにあるとは思うけど、それは明確に言わなくても判る場合である。
豆腐屋を営むハツミ(市川実日子)が、ウイスキーしか置かないバーを営むセツコ(小林聡美)や、コーヒーしか飲ませない(とは言ってないし、それにしては大きな店構えだけど、見事にコーヒーを出すシーンしか出てこない)店を営むタカコ(小泉今日子)に、なぜこの町に来たのか、と問うと、二人は、それはきっと、あなたと同じ理由よ、と返す。それで、終わりである。
そりゃまあ、ね。それはさ、三人に共通するのは美味しい水がこの町にあるからであって、店を営んではいない自由人(としか見えない……もたいさんが定義されないのは、まあいつものことだが)のマコトさんも、町の人が汲みにくる清水の湧き出るところに赤ちゃんのポプラを連れてくるシーンもあり、そうした想像は出来るんだけど。
でも、それにしても放り投げすぎだし、大体この三人は生活感がなさすぎる。それは映画的といって済ませるにはダメだろと思うほどに、なさすぎなんである。
それを言い訳する訳でもなかったんだろうけど。ハツミが食事に誘われたタカコに「こういう(料理)の、作るんですね。タカコさんて生活感がないから」と言うシーンがあるが、いやいやそれはアンタだってそうだろ、と……。
正直、ハツミのお豆腐屋さんは、これは実際にお豆腐屋さんをやっている人が怒るんじゃないかと心配になってしまう。台詞の中では「朝が早い」というのは一応言っているけれど、「やることがあると、出来てしまう」というかなりテキトーな台詞で終了させてしまっている。
それでも劇中で豆腐屋としての姿を見せているならいいんだけど、バケツの中の大豆をかき回しているシーンと、店先でお豆腐を切って売っているシーンで終わってしまう。
後は、「このお豆腐、ここで食べていいですか?」「どうぞ」そ、それだけかい!
ハツミがこのお豆腐屋さんをやり始めたのはごく最近だということは、セツコやタカコとの会話で明らかだし、正直こんな若い女性が土地感もない場所でいきなりお豆腐屋さんを一人で切り盛りするのには違和感がある。しかもことに排他的で有名な京都(ゴメン!!)だよ??ありえない!
それでもがむしゃらに頑張っている姿を描くのならまだしも、いかにものんびりして、ことあるごとにタカコに夕食やらマコトに公園でのたまごサンドやらをご馳走になり、タカコの喫茶店やセツコのバーにも「気になったから」と積極的に足を運ぶ。
そんなんで生計たてられんのかい……と思うのは、ハツミのみならずタカコもセツコもそうなんだけど(マコトはまあ……年金で生活してそうだし(爆))。
なんかさ、かもめ食堂が支持されたのが、間違った方向に捉えられている感じがするんだよね。確かにかもめもゆっくりとした時間は流れていたけれど、食堂を経営していた聡美さん演じるサチエも、そこに集ってくるもたいさんもはいりさんもダラダラしていた訳じゃないし、お客さんが入る努力もしていたし、実際、物語の最後には満杯のお客さんに達成感を感じるところで終わる。
ゆったり感はあくまで、頑張る彼女たちに対するご褒美であった筈じゃないの?だからこそ、何が起こる訳ではなくても、彼女たちが癒されるだけの権利があったから、見ていられた(という言い方もアレだけど)し、それこそ見ている側も、癒されたのだ。
最初から居心地いいことだけに流されているようじゃ、見ている側だって、ねえ……一体何のために劇場で彼女たちの居心地の良さを見せられているのか、意味が判んないんだもん。
そう、ひたすら思っていたのは、意味判んない、ということ。もう、その言葉がずーっと頭の中を回りまわっていた。この今風の言葉は私、好きじゃないけど、ほんっとうに、意味判んなかった。
何が言いたいのか、何を示したいのか。判ったような台詞はやたら吐かれる。例えばセツコさんのバーを訪れた家具職人のヤマノハ(加瀬亮)、彼は行方不明になった同僚のことを、心配はしているんだけど、どこかこの事態をワクワクしている、と悩みを吐露する。
セツコはそんな彼の言葉に驚いたくせに「そんなの普通だよ。私だってあるよ。考えすぎだよ」とさらりと言う。ああ、こうしてここに文字に起こしてみるとそれなりに成り立つ台詞なのに、なんで見ている時にはあんなにイライラしたんだろ……。
それは、ヤマノハが「セツコさんに普通って言われてもなあ」と、つまりセツコさんが浮き世離れしていることに対して再三言及するんだけど、ヤマノハが言外ににじませるほどには、その浮き世離れを肯定的には捕らえられないからなんだよな。
セツコさんはどうやらこれまで、それなりに紆余曲折の人生を送ってきたらしいことは、その台詞から察せられはするし、必要以上に人にも物事にも干渉しない姿勢は、そう言ったら素敵にも思えるんだけれど、劇中で描かれる印象は、ただ適当に投げている感じにしか映らないんだもの……。
台詞が、キメるところから逃げている印象は、セツコさんのみならず、全ての登場人物に感じる。すべての登場人物が、そのバックグラウンドがハッキリとは明かされず、だからこそハツミのような若い女の子がいきなり古い町で豆腐屋をやれることに見ているこっちはイラッともするんである。
まあね、バックグラウンドは必ずしも明確にしなくてもいいとは思う。それこそこのプロジェクトの作品群に出てくる登場人物たちは、おしなべてそうであった。
けれど、それが成功していたのは、やはり荻上監督が手がけた二作目までだったと思う。バックグラウンドを描かないということは、描くことで陳腐になることを避け、それを描かなくてもその人の深い人生や苦悩が透けて見えて、それを通って今ここに、泰然としている、ということを感じさせてこそ出来ることだと思うもの。
出来てないもん。出来てるのは、もたいさんぐらいかなあ。小林聡美でさえそれが出来てないように見えてしまうのが、辛いよ。
ウイスキーしか出さない店で、生活が成り立つだなんて、おとぎ話にしか思えない。
ウイスキーしか出さない店が、どんなに居心地が良くても、そして仲良い友達がやってたとしても、私だったら行かないよ。だってそれって、すんごく傲慢にしか思えないもん。
確かに、ウイスキーしか出さない店、っていうのは、聞こえ自体は、なんかこだわっているように見えていて素敵にも聞こえるのだが……でも実際は、彼女の言うように「横着なんです」としか思えないもんなあ……。
確かに実際の実際は、この町の水の美味しさに惹かれているからなんだろうということは、先述のとおりに判るけどさ、それだけで、このこだわりじゃ、生きていけないよ。
そりゃあ、これで生きていけたらいいし、そんなことを感じさせない部分で本作を提示してくれたらいいとも思ったけどさあ……。
そういう意味では、生活が成り立っていると思えるのは男たちである。先述した、加瀬亮演じる家具職人のヤマノハや、銭湯を営む光石研演じるオトメである。
オトメはいつも、誰の子とも判らない赤ん坊の面倒を見ている。いや、赤ん坊というほどではないか。一歳か二歳ぐらいにはなっていそうな、ポプラという男の子。そして、銭湯を手伝っている、これも出自の判らない青年、ジン。
あのね、このジンやポプラの存在がまた、多分にイライラさせられたんだよなあ。最初のうち、ジンはオトメさんの息子なのだとずっと思ってた。思わせぶりな会話からは、ジンはオトメさんが別れた女房の息子なのかなあ、とか。
しかし次第に、二人は血縁どころか、ぜんっぜん関係ない間柄らしいということが、もうほんっとに、やっと後半も後半になってから判ってくる。
もうその間もすっごい、イライラするのね。ポプラの存在もあるんで、もう訳判んない、早く他の関係者、第三者出てきてくれよ!と……。
もうさ、ホントに、閉じられた世界なのよ。セツコ、マコト、タカコ、ハツミ、ヤマノハ、オトメ、ジン、ポプラ。それ以外、見事なまでに出てこない。
それが、この物語が京都だなんて思いもしなかった理由の一つでもある。おすそ分けを携えて銭湯を訪れるおばあちゃんが唯一ハッキリ映ったぐらいで、あとは水を汲む場面でマコトさんの替わりに汲んでくれる住人が出てきたぐらいかなあ。
土手を往来する犬を散歩する人が小さく映ったぐらいはあるけど……。あまりにもあまりにも、このプロジェクトの常連さんによる画で閉じられてて、生成りの肌触りのよさだけを追究している気がして、これじゃ、ロケをした京都も甲斐がないっていうか……。
そりゃ人は、落ち着ける、癒される場所は必要だと思うけど、それはギリギリまで頑張ったが故である。
それをわざわざ示す必要はないと言われればそれまでだけど、これじゃまるで、頑張らなくても心地いい場所に行けたらそれでいいじゃない、と言ってるみたいじゃんか。
それを見させられて、何が楽しいの。いや、映画は別に、物語性があるかどうかで決まる訳じゃないけれど……。
本作はね、むしろ大人たちよりも邪気のない赤ちゃん、ポプラが真の癒しを与えてくれるんである。しかし実はこれもねえ……と思うところがある。
まず、この赤ちゃんはあまりに出来すぎてる。迷惑かけなさすぎなの。いつも大人しくて、抱かれるがまま、されるがまま。そりゃあ、大人たちにチヤホヤされるわな。手がかからなすぎだもん。可愛いけどさ。
でね、ポプラが一体どこの子なのか、いつも銭湯のご主人のオトメが預かっているから、彼の縁なのか、なんか事情がありそうとか思わせられ、手伝いをしているジンが彼の息子なのかとか思ったりもするから、ホンットややこしく感じるんだけど。
物語が進むにつれ、誰の子供でもないらしい、一体どういうこと?と思っていたら、最後の最後の最後、皆でポプラをあやしていたセツコのバーに「いつもすみません」とポプラの母親とおぼしき声だけが見切れて響く。バーから入り口(カメラ)の方を向いたメンメンが満面の笑顔で「いいえぇ」と返す。
そりゃあ、そりゃあさ、これは理想だよ。町が子供を育てる。ここに至って劇中、マコトさんがオトメさんに思わせぶりに言っていた「この子は、町の皆の子供だと思っているのかもしれないねえ」という台詞に納得も行くけれど、正直私の感覚では、その台詞は逆に母親に対するイヤミじゃないかとさえ思っちゃう。
だってさ、だって、これを、ああそうだったのか、というオチにする意味ってあるの?誰の子供だろう、どういう事情だろうと散々思わせぶりにしておいて、ここに出て来もしない町の誰かの子供だなんてさ。
その母親は、この居心地のいい空間にいさせる意味もないと言うのか。町で子供を育てる、というのが理想なだけに、このミステリじみた展開とオチには大いに疑問と違和感を感じてしまう。
それとも、今ポプラを育てている母親とは違って、彼らはここに至るまでフクザツな人生を歩んできたから、それをこそ示しているというのだろうか?
でもそれならば、いたいけで、都合よいほどに手のかからない赤ちゃんのポプラを入れ込むのは反則じゃないのか??
子供を持ったことのない人にとって……それは私もそうなんだけど……他人の子供というだけで、たとえ赤ちゃんでも、いや、赤ちゃんであれば余計に、緊張するものだよ。
ポプラのような、人好きのする聞き分けのいい子供は奇跡に近い。反則だよなあ、これって……。そりゃあ、この心地いい画にポプラはめちゃめちゃ癒されるけど、ここまで散々反発する気持ちがあるから、素直に受け入れられないよ。
かなり思わせぶりな台詞が散々示されるんだけど、そのどれもが心に落ちてこないのが一番、辛かった。どれもこれも、ぼんやりとして、クリアな線を結ばないのだもの。
そして、いわばこのプロジェクトの中に新入りとして参加したキョンキョンが、“キョンキョン”っていう完成された作りを感じてしまったのはツラかったかなあ。
彼女はとても素敵な女優さんだし、他の映画ではそんなことは感じないんだけど、他のキャスト、このプロジェクトのにおいが染み付いたメンメンが、殊更にナチュラル臭をプンプンさせているだけに、そんな違和感を感じたところもあるかもしれない。
美味しそうな料理を出して、それをゆったりと食べるシーンを出しさえすれば客が来ると思っているんじゃないかという苛立ちを感じ続けていた。
一人暮らしと思しきもたいさんが、毎食きちんと作って手を合わせ、美味しそうに食べるシーンはまだいいのだが……。
でもそれも、彼女のバックグラウンドが不明すぎるからなあ。それに私がそういう境遇になっても、きっと出来ないし(爆)。
まあそりゃ、美味しそうな料理が出てくる魅力は確かにある。その最近のトレンドは、まさに「かもめ食堂」が確立したものだ。
でもそれだけで映画が出来る訳じゃないし、それこそが女性映画、みたいにされるのもケッと思ってしまう。
本作って作品としての信念は感じないけど(爆。ゴメン!)、女性映画というジャンルに対しての目配せはやたら感じるからなあ……それ、正直メーワクなんだよね。美味しい料理が出来ることが女性と思われたら、ホント困る。
ここに留まらない水の清新さ、しかし普遍さ、そして不変さ、というのはとても素敵だと思うけれど、そのテーマが映画として転化出来なかった気がしてしまう、のは、素人のナマイキな考えなのだろうか??
でも、正直な気持ちとしては……とにかく、残念のひとこと。小林聡美ともたいさんは、義務感でこんなところに埋もれてほしくない気持ちをひしひしと感じるよ……。 ★☆☆☆☆
ホントにこれは、センスとしか言いようがないような……それは勿論、映像の切り取り方にしても、音楽の配し方にしても、バックの音楽と台詞の音量のバランスに至るまでそうなんだけど。
そう、この音楽と台詞の音量のバランスなんて、かなりギリギリの冒険間際まで行っていると思うし、センスの良さというのは決して上手くまとまっているとかそういうんじゃなくて、自分自身のセンスを信じていけるところは冒険的に行きながらも、でも破綻はしていない、魅せることを忘れていない、という……。
なんかちょっと驚いてしまった。素人離れはしているけれど、でも決して常識的にまとまっていない。そのキレの良いセンスの良さに。
しいていえばクライマックスで、盟友の直太郎氏の歌が早くもかかってしまうのはちょっとナア、ラストクレジットだけでいいよと思ったが、それは両主演の二人がまさにハダカの肉体に、その肉にまで魂を込めているのが判ったから、ここはジャマしないであげたかったなあと思ったのかもしれない。
そう、二人は本当に素晴らしかった。ことにオノマチちゃん。「殯の森」で、自らを見い出した監督に女優としての成長した姿を恩返しともいうべき形でしっかりと見せつけ、「クライマーズ・ハイ」では良かれ悪かれふんわりしたイメージのあった自身を見事に払拭し、凄みを感じて背筋がゾクゾクした。
そして本作では……基本は純愛を貫く女ということでロマンティックにもなりそうなところなんだけれど、それは自分の人生を、命さえも賭けることなのだという解釈を全身全霊に感じる、まさに更なる高みの凄み、なのだ。
こんなに時間をかけて熟成する女優は近年、珍しいような気がする。最初にみてから何年目になるだろう、私はオノマチちゃんにホレた。
彼女が演じるのは死刑囚に恋する女性。という設定で、私は即座に「接吻」を思い出し……なんとなく顔立ちも小池栄子と彼女は似てなくもないしなどと思ったし。
その設定の“有り得なさ”という点でしっかと共通はしているんだけど……その有り得なさを有り得ない方向にひたすら押し下げたのがかの作品で、本作は……見事に納得させられてしまったのだ。
いや、落ち着いて考えてみれば、やはり有り得ないと思う。でも……オノマチちゃんは自らの肉体言語でそれを見事に示して見せた。
彼女が面会室のガラス越しに流す一筋の涙は、ひと筋の涙なだけなのに……震えるほどの凄みがあったのだ。
とはいえ、死刑囚に恋する、というだけの単純な設定ではない、ところが一応はあの、拒否反応を示しまくってしまった「接吻」と違うところだろうか。
冒頭、印象的なモノクロ映像から始まる。いや、モノクロというだけではない。黒味が勝った、まるでネガポジを反転させたような映像を、せわしない緩急で挿入する。
それは……そう、せわしない関係の男女のセックス。この冒頭でもういきなりわしづかみにされるのだ。
黒光りしたスピード感溢れる導入部から、赤黒い血が画面を彩り、次第に映画は色を得てはいくんだけれど……でもやはりその色は、なんとなく灰色のままである。
でもその灰色が美しく輝くのが、月明かりの下、遠く離れた二人が求め合うクライマックスであり、まさに“灰色のまま輝く”のが凄い解釈だと思って……。
おっと、そんなに性急にクライマックスに行ってはいけない。
大体……そうこの設定はそんな単純ではないんである。でも……それこそが設定だけ見れば“有り得ない”ことなんだけれど。
キリスト教徒の彼女が、ボランティアという形で死刑囚の彼と面会する。果ては身寄りのない彼の養母にまでなる。
敬虔であるというだけでは説明のつかない彼女の彼への執着心は、勿論彼にだって何かウラがあることは判っていたけれど、その一方で彼女に惹かれる思いも消せずにいた。
彼もまた秘密を抱えていた。遊ぶ金欲しさに民家に押し入り、犯行を見られた男女二人を殺した。
それだけでも確かに、死刑に値するような身勝手な行為。彼はそれを深く悔いて自ら控訴を取り下げたのだけれど……実は悔いているのはそれだけじゃなかった。
彼が後に告白するのはそれ以上の鬼畜の所業、殺した女を死姦したのだ。
それを彼は、彼女に伝えた。彼女が自分の秘密を打ち明けてくれたから。
それは、彼女が、彼が殺した男の婚約者だったということ。
「そう、私は裏切られたんです」彼女は言った。
いや、言った、んじゃなかった。これは二人の秘密通信。分厚い聖書のどこかに書き込む通信手段。検閲を受けずに、ラブレターをはるかに越える生々しさで二人は通信を続ける。
そして二人が切り札として出した、相手に見限られるだろうと思って出したカードがこれだったのだ。
彼女が出したカードはね、言ってみればまだ“有り得ない”の領域にあるから、少女マンガ的な純愛でとらえることも出来たのね。勿論それを“有り得ない”ものにしないオノマチちゃんの凄み溢れる熱演があるにしても。
でも、彼の告白したことは……特に女としてはどうしても許すことなど出来ない罪、じゃない。
そう……確かに私は、許すことなど出来ないと思った。そこに彼の更なる切り札、「俺、童貞だったんです」という台詞が入ったとしても。いや、入ったのなら更に。
でも、それを彼女の苦悩の末に共に受け入れてしまったのは、オノマチちゃんの苦悩が、それでも、いやだから余計に彼に惹かれる思いが、残酷なまでに胸に突き刺さったからに他ならないんだよね。そんなこと許容したくないんだけど。
でもそれこそ……素人童貞ならぬ、生身の人間童貞?(すさまじいい定義だ……)てことで、彼はいまだ、あまりに哀しい“童貞”なのだ。いまだ、っていうか、結局は最後まで。いやでも、あの月夜の“秘密”をセックス呼んであげたいけれど……。
彼女にはね、劇中ダンナがいたから、最初のうちアレッと思っていたんだよね。それも理解あるダンナで、死刑囚の養母になることも容認していたりしてさ。
でも……ダンナが彼女に対する態度は、なんだか腫れ物に触るようで「色々あったからな」とかなんかそんな感じで。
しかも物語が始まって早々、ダンナは海外に長期出張に出かけなければいけないのだけど、彼女に一緒に来て欲しいとか、一緒にいてくれとか、言わないのだ。
いや、言えなかったのか……彼女が逡巡する間も待たないままに「俺一人で行くよ」と結論を出してしまう。
このダンナは、傷ついた彼女を救ってくれた人だとは思うけれど、この少ない描写だけでハッキリと、彼女を支え続けられる人ではないことが露呈してしまうのは皮肉である。
いや、彼は見守ることが、まだ傷が癒えない彼女に対する良策だと思っていたのかもしれないし、それが間違っているとは言えないけれど、そんな“生ぬるい”方法では立ち直れないほど、彼女の心は深く傷ついていたのだ、ろう。
つまり、自分の婚約者を殺したとはいえ、その婚約者のウラギリを暴露した形になる殺人者の彼が、彼女を一度落としながらも結局は救い出す形になった、というのは……“有り得ない”設定とはいえ、なんだか哲学的な雰囲気さえも感じるのだ。
哲学的、というのは、本作自体に流れている空気感と言ってもいいと思うのだけれど……何があっても生き延びることこそが大事だと、彼の意向を無視して控訴を勧めまくる弁護士に反抗する形で控訴を取り下げた彼の、その後のまるで修行僧のような、穏やかな日々はまさに哲学だった。
ある意味それを壊したのは彼女だったのかもしれない。だって恋という感情はとても穏やかではいられないのだから。
彼が控訴を取り下げたことを、腹立たしげに彼女に告げる弁護士。そのシーンはなにか、野球場のようなところで、正確に平行なベンチが並んだ場所に、微妙に上下を違えて、ぽつん、ぽつんと二人が座っている。
その画を見た時に、私はこの監督の才能を確信したかもしれない。弁護士は憤っているように見えるけれど、結局は自分の基本的仕事をしようとしているに過ぎず、そして彼女は常識の中に心を納めようとしているけれど、それが飛び出すのをかろうじて抑えている……そんな、相反する二人が、しかし監督によって冷酷なまでに二つの駒として配置されているに過ぎない、みたいに感じたのだ。
二人の秘密の関係は、彼が彼女の絵を描くところから始まる。
そう、最初は言葉ではなかった。彼の玄人はだしのボールペン画を彼女は推奨し、ついには自分の下着姿の写真を彼に供するまでになる。「あなたを描きたい。生まれたままの姿を」という、おずおずながらも大胆不敵な彼の言葉に応えて供した一枚だった。
その一枚だけだったのに、彼はまさに彼女の“生まれたままの姿”どころか、あられもないポーズを次々と生み出していく。
でもそれは……不思議なほどに純粋に、彼女への思いをまっすぐに示してた。重ねられたボールペンの線の尋常じゃない数が、その思いの深さを感じさせたのかもしれない。
尺としては、死刑囚である彼の方が長く、そして心の葛藤としても濃かったのかもしれない。
モデルさんというだけに端正な顔立ちの彼は、しかし見事に、死を受け入れながらも身を焦がす恋を体験する一人の青年を演じきった。
彼が「ジュンと呼んでください。母親なんでしょ」と言った時、それはもしかしたら、彼自身は意識していなかったかもしれないけれども……愛の告白だったように思った。
死刑執行の足音がどの部屋で止まるかに怯え、それぐらいなら自分自身で命を断とうと、爪切りで木の棒を削り、頚動脈をブスリとやる……みるみる血だまりが広がっていく煎餅布団……でも死ねなくて……。
そういった一連の描写は衝撃的な筈なんだけど、あえて淡々と示していた。その淡々としたリズムが逆にブキミで……殊更に彼の中の恐怖をあぶり出すようなありがちな手法じゃないだけに、逆に怖かった。
彼の自殺未遂を知って、彼女が涙を流すのだけど……それが、悔し涙に見えたのだよね。いや、実際そうだったような気がする。
それがどういう“悔しさ”だったのかといえば……それは多分、やっぱり、その時に彼女も彼への思いを自覚したんじゃないのかなと思う。彼女は、彼が控訴を取り下げた時に彼に惹かれる思いを自覚したと言い、確かにそうだとは思うけれど、それをハッキリと自分の中で認めることは出来てなかったように思うのだ。
彼を思う自分がいるのに、死ぬことを選ぼうとした彼に、悔しさを感じた涙に思えたのだ。
この自殺未遂ね、彼は厳しく責められるんである。「自殺に対しては厳罰が待っている」
この言葉は……衝撃的だった。それは……そのまま死んでしまったとしても?という問いが、即座に頭をもたげた。
彼は命を取り留めて、その“厳罰”を受ける訳だけど、この言葉は……本当に衝撃だった。
でもそれって、なんか、キリスト教的だとも思った。自らを殺すことが最大の罪、って。だから仏教ではなくキリスト教が刑務所内に出入り出来るのかなあ。
こうして書いてくると彼と彼女、たった二人の物語のように見えるけれど、彼とすれ違う……までもいかない、同じ死刑囚の人たちが印象的なんだよね。
そう、すれ違うまでもない。驚くべきことに、彼とのコミュニケーションは鉄格子の外の空間にかすかに響く声だったり、洗面台の排水溝から響いてくる声だったりする。
こんなこと、本当にあるのと、それこそ有り得ないどころか御伽噺のように感じるぐらいなんだけど……。
その中でも最も物理的に近づいた、外での体操時間に壁越しに隣り同士になったミッキー・カーチスが一番印象的だったなあ。
ミッキー氏が言うからこそ、こんな立場でも恋は出来る、というのが大いなる説得力を持って心に響くのだもの。
そしてこの言葉を授けてくれた受刑者は……死刑執行を受けて、彼のドアの前を通り過ぎていく。そう、彼の前の執行者として。
そうなんだよね。彼はこんなに若いのに、死刑執行されてしまうのだ。
こんなに若いのに、なんて言うのはアレなんだけど、それこそ10何年その時を“待たされた”人がいるんだから……。
それに対しても、ミッキー・カーチスは言っていたのだ。いつその日が来るのか、今日なのか明日なのかとビクビクしているべきではないと。オレはその日が来て、その瞬間まで2時間だけ苦しむことにしている。そうでなければソンだろと。
彼が言うことは実にライトに聞こえるけれど、でもそれこそが、どんな立場でも、どんなに短い間でも、生きるという権利を与えられているのならば、それを行使すべきだという、凄く深い深い意味が込められててさ……。
そりゃあ、その犯罪だけを、罪だけを耳にすれば、私たちは彼らを許すことなんて絶対に出来ない。それこそが、つまりは罪を犯していない人たちの“権利”だとも思う。
でも……罪を犯した人たちにも生きる権利があるというのが、人間が人間たる社会を形成するに当たって、成熟した人間の果たすべき“義務”なのだろうな。
……キツいな……。
でもね、クライマックスは、本当に凄絶なまでに美しくて……。
今度の満月の夜に」そう、あの凄みのある瞳をうっすらと涙で潤おして彼女は言った。彼はそれに同じ瞳で返した。
彼女はダンナに別れを告げ、一人引っ越しをしたガランとした部屋で、その時を待った。
冷たく青い月の光が差し込む中、彼女は一糸まとわぬ姿で自らの乳房をもみしだき、彼を思って月の光に女の身体をさらした。
そして彼も、鉄格子から差し込む月の光に、“初めての身体”を彼女のためにさらし、苦悩にも似た歓喜の表情を浮かべ、思いと共にほとばしらせた。
……まさにね、究極のプラトニック、なんだよね。
究極のプラトニックでありながら、究極のセックスでもある。
そう、まさにそれこそ“有り得ない”こと。
でもそれを、納得させられちゃうんだもの。
死刑執行へと向かう時、彼は彼女への言葉をモノローグで刻んだ。どこかにその言葉は実際に刻まれていたのか、そんな時間はなかったのか。
「生きていると、びっくりするぐらいつまんないことを考えてしまう。あなたの前ではキレイでいたかった」
その言葉はこの時つぶやかれたんじゃなくて、彼女への思いを吐露した時だったかなあ……でもそれに通じる言葉が、彼女に残したこの、最後の言葉だったと思う。
「人殺しのオレが言うことじゃないけど、生きるって、素晴らしい」 ★★★☆☆