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「た」


2011年鑑賞作品

台北の朝、僕は恋をする/一頁台北
2009年 85分 台湾=アメリカ カラー
監督:アーヴィン・チェン 脚本:アーヴィン・チェン
撮影:マイケル・フィモナリ 音楽:シュ・ウェン
出演:ジャック・ヤオ/アンバー・クォ/ジョセフ・チャン/トニー・ヤン/クー・ユールン/カオ・リンフェン/ポール・チャン


2011/4/12/火 劇場(新宿武蔵野館)
今みたいに、色々とささくれだった時に、こういう映画を観ると本当にホッとする。深い深層心理に悩まされたり、人間の汚いところや愚かなところを見せ付けられたりすることのない、まあ言ってしまえばなんてことのないロマンティックラブコメなのだが、ほんっとに……なんかたまらなくホッとしたなあ。

極めて普通の男の子女の子の、その普通の可愛さにもなんとも心が和んだ。いや、普通といっても特にこのスージー役を演じる女の子の方は、実際は相当可愛いんだろうとは思うが、劇中は書店に勤める、なんてことのない普通の女の子。
そしてそのスージーが出会う、こちらが主人公である男の子は、両親が経営する食堂を手伝うもっともっと普通極まりない男の子。
しかしそれこそが映画の一番の基本的な魔法、ボーイ・ミーツ・ガールの魔法。男の子と女の子が出会えば何かが起きるし、恋の予感が芽生えるんである。このキュート極まりない台北の街の夜に。

そう、ボーイ・ミーツ・ガール、だよなあ!この言葉を思い出したのも久しぶりな気がする。昨今はほおんとに殺伐とした映画が多いもんだから……。
それにね、この映画に私、可愛らしい恋愛映画を量産した、90年代あたりの香港映画を思い出した。「金枝玉葉」とかね。
そういう映画を生み出せるというのも、やはりひとつの力のように思う。今はそれってなかなか難しいのかも。特に今の日本で、こういう映画を作れる体力は感じられない。

でもね、それこそ日本映画でいえば、本作に「真夜中まで」を即座に思い出したんだよなあ。都会の一夜、トラブルに巻き込まれる男と女、それが本作では男の子と女の子、である部分が実に重要な気がする。
そういえば全編に流れるジャズの粋さも共通しているけれど、本作のそれはやはり何か、ほんわかした、和み系のジャズなのも特徴的である。
ジャズなんだけど、ホントに台湾の、台北の街角に流れる、その街生まれのジャズ、みたいな、オシャレさと可愛らしさがあって、それが彼と彼女、本作の魅力にピタシなんだよなあ。

そうなの、一夜、なのよね。だからずっと暗い。まあ、スージーと主人子のカイが出会う書店の場面は何日かに分けて追っているし、必ずしも夜という訳ではないんだろうが、ていうか、昼夜の区別はつかないし、屋内以外はやはりずっと夜の雰囲気。
でもってこの夜の台北ってのがね、なんとも魅力的なんだよなあ。
あのね、今の東京なら、すこうしこの魅力に近づけているかもと思った。節電モードで暗い東京は、それまでいかに夜でも真昼のように明るかったのかが判ったし、そして電気を落とした東京は、最初こそ慣れなくて、節電にせざるを得ない理由も理由だったから暗い気持ちにもなったんだけど、慣れてしまうと、なんか、落ち着いて、しっとりして、イイ感じじゃん、と思うようになったのね。

夜になれば相応に暗くなる、その中で灯される明かりはほんわり温かく、艶めいて、人恋しい気分にさせる、みたいな。
それがね、まさに、この台北の街に完璧に再現されていたんだなあ。台北を象徴する屋台の街並みも確かに明るいんだけど、ちょっと引いてみると、闇の中に艶やかに人の息遣いが聞こえるようなともしび、なんだよね。
水餃子から立ち上る湯気、喧騒もどこかほわほわしていて、何とも心癒されるんだよなあ。

とはいえ、カイにとっては今は一大事である。冒頭、彼は恋人に去られる。フランスは花の都、パリに旅立ってしまったんである。
後々明らかになるところによると、そもそも二人でパリに行く筈だったのが、恋人から「あなたは台北にいた方がいい」と言われて、置いてかれた。
その後、カイが何度もかける電話に、恋人はいっかな出る様子がないところから見ても、あの最初の別れの場面で既にカイはフラれていたと、誰しも判っちゃうんである。

ていうか、そんな台詞を言われたことを知る前から、電話に出ない恋人に、こりゃあフラれてるよ、なんで気付かないのと思うのだが、そんな台詞を言われたことを知ると、それってフラれたってことやんか……と、彼の鈍感さにアゼンとしてしまうんである。
ていうか、そうなるとそもそも、彼らがちゃんと恋人だったのかどうかさえアヤしい(爆)。なんかカイが一方的に好きだっただけちゃうの?みたいな(爆爆)。
しかもカイは、やっと電話に出てくれた彼女から何か決定的なことを言われたらしいんだけど、逆ギレしたかのように、パリに行って彼女に会うんだ!ということになっちゃう。
そのための資金を彼の伯父さんであるアヤしげな不動産屋さんに借りてしまったことから、一夜のトラブルが勃発するんである。

そんなカイがスージーと出会った書店、カイはなんたって彼女と一緒にパリに行ける金もなかったからこそ、泣く泣く彼女を見送った訳であり、どんなこと言われたって一緒に行きたかったハズなんだよね。
で、いつでもパリに行けるようにとフランス語の勉強をしている……のが、書店なんである。語学学校に行けるカネもなければ、本を買うカネさえないから、書店に日参して立ち読みならぬ座り読みをしながら独学でフランス語を勉強しているんである。
それなら図書館で借りりゃいいんじゃないの、などとふと興醒めなことを思ってしまうが(爆)、やはりそのあたりは最新の語学テキストを使いたいといったところだろうか(爆爆)。

で、書店員のスージーが、彼のことが気になってしまって声をかけるところから、ボーイ・ミーツ・ガールは始まるんである。
カイの恋人がパリにいることを知った時のスージーは、まだ彼とは出会いたてだったから殊更にガッカリしたような雰囲気はなかったものの、手の届かない世界を遠く見るような目つきをした。
だってここは台北。アジアの小さな街。花の都パリなんて、思いもつかぬところなんだもの。

でもそれはもちろん、カイにとっても同じである。あのね、オチバレのようだけど、カイがパリに行く描写は結局描かれないし……行ったかどうかも判らないし、いや、行ったとしたならば、まあ早速に決定的にフラれているだろうけれど(爆)、まあとにかく、パリの描写は出てこないんだよね。
これが凡百の映画だったならば、ちょいとパリロケなんぞも交えたであろうが、本作はそんなヤボなことはしない。

ていうか、それをやったら台無しになっちゃう。台北の街の中で完結することこそが、重要なのだ。この小さな、愛しい都会から思いを馳せる、花の都パリ。
花の都、という言葉自体が古いけれど、カイが覚えたささやかなフランス語、特に「ジュテーム」の響きのなんとも遥かなこと。
フランス語、パリ、といったキーワードが連発されるたびに、外への憧れと、でもこの小さな街への愛しさが溢れるんだよね。それが恋という決定的なキーワードを持って語られるんだから、余計に、なんである。

なんたって、そこに敏感に反応してこそ、不動産屋さんを営む常連客のおっちゃん、パオはカイにお金を貸してくれたんである。
てか、このパオはかなりアヤしいというか、いや、どっしりと大物なんだけど、なんか裏社会の匂いがするのよね。
実は冒頭も冒頭、映画の始まりはこのパオなんである。この年になって愛を知ったという相手は、かなり年若い女の子らしい。結局その女の子は登場することはないんだけど、彼は彼女にゾッコンで、もう引退して南の島あたりでゆっくり余生を過ごしたい、と言うんである。
彼の取引相手なのか、裏社会の相棒なのか判然としない、こちらはもうひと目見てヤクザって感じの色眼鏡をかけた男、本気ですか?とパオの言葉に目を丸くする。

物語のクライマックスに用いられる、荷物の運搬に彼が大いに関わっているんだけれど、結局ホントに運ばれるものはなんだったのか、彼らはどんな悪事に手を染めていたのか、あるいは実は全然染めてなかったのか、明らかにされないんだよね。
なんかそれが、本作の和やかさ、可愛らしさを損なわないための配慮のような気がして、なんとも優しいんだよなあ。

パオの元で働いている彼の甥、ホンがもういかにもバカで、このトラブルを引っかき回す役回りなんである。
彼はパオが裏社会に暗躍しているのを知ってるのか知らんのか、とにかく自分はもう不動産業は立派に継いでいけると豪語し、いかにも弱っちそうな手下たち(それでいて肩で風切って歩いている)を従えて、宝くじ売り場でケチなこそ泥をしてみたりして、自分たちの力を外に示したい気持ちマンマンなんである。
このホンは妙に深津絵里嬢に似ている気がする(爆)。んで、ホンはカイがパオから運び屋の仕事を任されたことを知り、嫉妬なのか何なのか、そのブツを奪おうとする訳。
せっかくパオから今後の不動産経営を任されたっていうのにさぁ。ほんっと、バカなんだから。

パオがカイに金を貸したのは、カイが恋のためにパリに行こうとしたからに他ならない。
だってパオも今、恋してるんだもん♪恋はいいものだとパオはつぶやいて、いきがってた頃の、もうまんまプレスリーなモノクロ写真を手にしてつぶやく。
早速オチバレしてしまうと、結局カイが運んだのはこの写真であって、どうやら本当のヤマを欺くための画策だったらしいんだけど、本当のヤマが何だったのかは結局判らない……。

でね、その“本当のヤマ”を追う刑事の話も並行して描かれる。本作ってそう考えると、実に重奏的な展開なんだよね。
この刑事はかなりのイケメンで、私は知らんが恐らく華流スターの一人と思われる。仕事に没頭するあまり、恋人をわっかりやすくないがしろにする男。
わっかりやすく、というのは、彼女が用意した夕食に目もくれず、感謝もせず、仕事に出かけてしまうとかいうあたりね。

そういやあ本作には、この刑事やパオが見ているテレビドラマが印象的に、というか意識的に挿入されて、こんなバカなことねぇやな、と彼らは笑いながら見ているんだけれど、一方でそんなドラマにどこか入れ込んで見ている風もあってね。
確かに刑事やパオは、そんな浮き世離れした世界に生きているんだよな。だから刑事は恋人に去られるし、パオは年若い女の子に恋をしているけれども、その相手は登場しないし、ハタから聞いている限りでも何か現実味がない。

そうそう、すっごく魅力的なキャラがいるの!カイの親友、カオカオ。登場シーンはカイの両親の店に夜遅くにのっそり現われて、カイが彼に水餃子を作ってあげる。まだ食うか?と聞かれてカオカオはニッコリ頷く。
いかにも長年のマブダチといった雰囲気、しかもカオカオを演じる彼はなんともボーヨーとした風貌で、なんかチェ・ホンマンみたいで、いや、あんなにはデカくないけど、でも結構デカくて、人ごみの中では頭ひとつ抜け出ているからすぐ判るようなところがなんとも愛しい。

スージーとカイと共にトラブルに巻き込まれる時も、二人の様子になんとなく含むところを感じとりながらも、特に気を使うこともなく(!)いや、ちょっとは気を使うようなそぶりもあるところがなんか可愛かったりしてさ。
だって彼、カイの身代わりにとホンの手下に捉えられるも、「美味い餃子の店を知ってる」ことで信用され、しまいには彼ら手下たちと共にマージャンに興じ、その腕を敬われるぐらいなんだもの(アホ!)。その状況にアゼンとするホンには爆笑!

ちなみにカオカオは、ファミリーマート(!)に勤めている。いやぁ、なんかコンビニだよなあ、と思い、彼が品出ししているパンに妙に見覚えがあると思ったら、ファミリーマートだった!ファミリーマートの明かりが台北に自然と溶け込んでいるのがイイね。
で、カオカオは同僚の桃子に恋をしている。発音はモモコではなく台湾の発音だったけど、字幕は桃子、と漢字だったし、その恋バナを聞いた手下の一人がニヤニヤして、日本語の発音で「カワイイネ」と言ったから、桃子は恐らく、日本人?

そういやあ、彼女が仕事もせずにレジカウンターで読んでた雑誌の誌面は日本語だったような気も……でも、そういう種明かしはなかったし、桃子役の子も別に日本人という訳じゃないみたいだったけど……。
カオカオがね、もうすぐ兵役だと聞いて、この恋バナを聞いている手下たちはオォー!なら告白しろ、その状況なら一発だ、すぐに女はブラを外す(!)とけしかけるのね。
カオカオはその気になるものの(……ていうかこの状況……拉致監禁されてるのよ、一応)彼女の元に行くと結局、何も言えないのだ。また明日ね、としか言えないのだ。もー、チェ・ホンマン!(いや違うけど)切ないっ!

ホンや刑事との追っかけっこ、ついにはパオも出張って来て事態は一気にクライマックスを迎えるのだが、そこから逃げおおせたカイとスージーは割とあっけなく別れを迎えるのね。
タイトルがタイトルだから……てか、日本語タイトルだけど、この邦題のつけ方もちょっといかにもではあるのだが、でも割とこういう邦題のつけ方もちょっと好きだが……。

まあとにかく、翌朝にパリへ旅立つタイムリミットがある訳であって、そこで一晩を過ごしたカイとスージーが(いや、ヤッた訳ではないが(爆))どういう結末を迎えるかが、焦点だと思っていたのね。
だから、自分で作った麺をスージーに食べさせたささやかな時間の後、タクシーで空港に向かうカイ、それを見送るスージーの場面に、こりゃあカイはパリに行くことをやめて、スージーと共に朝を迎えるか!タクシーに乗り込むのをやめるか、いや、乗っちゃったな、ならその角まで行ったけど止めて、降りて、彼女の元に戻って抱き締めるとか!とか色々もーソーしたのは全部裏切られ(爆)、時間経過が示されるのよね。

で、そう、彼らが出会った書店、今はもういない、カイが座り込んでフランス語の本を読んでいた場所、ぽっかり空いた空間をスージーが眺めていて。しかしそこに、予測どおり、カイが戻ってくるんである!
そして二人は視線をからめ、スージーが恥ずかしそうに、嬉しそうに微笑む顔が可愛く、そして突如繰り広げられる店内の店員全部を巻き込んだダンス!
そういやあ、スージーはダンスを習っているんだと、たどたどしげなステップをカイに披露する場面もあるし、彼らが夜の街を逃げ惑う場面で、夜の公園の不思議なダンス集団に紛れ込む場面が面白かったりするんだよね。
ダンスは全然要素じゃないんだけど、不思議に印象的なんだよなあ。

個人的好みはやはりカオカオ。彼は桃子に恋を打ち明けられるのだろうか。カイとの長年の絆が、しかしなんてことなく示されるところや、捕まった相手とすぐ仲良くなっちゃうキャラが(まあそれは、相手がバカだからなんけど(爆))たまらなく好きだ!
カイはねえ……微妙なんだよね。演じる彼はその普通っぽさがカワイイが、結局彼はパリまで行って、フラれて、スージーの元に戻ってきたのかとか思うと、ちょっとね、ヤハリ。まあカワイイからいいんだけどね!

で、この監督さんはエドワード・ヤンのお弟子さんなんだって?そりゃあいい!★★★☆☆


多感な制服 むっちり潤い肌
2010年 分 日本 カラー
監督:加藤義一 脚本:城定秀夫
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:稲見亜矢 佐々木麻由子 しじみ なかみつせいじ 貝瀬猛 岡田智宏

2011/4/30/土 劇場(テアトル新宿/ピンク大賞ベストテン授賞式AN)
シナリオタイトルの「もどりびと」にはアハハ、なるほどねえ、などと思い、しかしそこから連想した訳でもないんだけど、パッと思い浮かんだのは、その滝田監督が「おくりびと」の妻役はヒロスエだろう、と抜擢してくれたその「秘密」だった。
死んだ高校生の娘の身体に奥さんが入り込む。若い娘にあなたの妻よと迫られて目をシロクロさせるダンナ。うーむまさしく本作そのものではないか。

本作ではその女の子の身体は娘ではなく、見も知らぬ赤の他人の女子高生なのだが、この赤の他人というところがキモというか、実にじーんとくる味わいをもたらしてくれる。
赤の他人、袖すりあうも他生の縁、どころではない、もうこうなると。赤の他人が赤の他人でなくなる最上の結末に、なんてシャレた幸福!と満たされるんである。

とはいえ、ね。最初はもう、どうしようかと思った。思いっきりチープモード。天界の天使、テンコちゃんが、人間たちの寿命を灯したろうそくの番をしながら、ヒマつぶしに天界テレビでカップルたちのセックスを覗き見ている。
と、いう設定からしてううむと思うが、その天界のセットといいテンコちゃんの天使コスチュームといい、もうもうもう、チープ極まりなくて、加えて演じるしじみ嬢の「いやーん、どうしよう」てな演技も見てられないほどワザとらしくて、もうホントに……どうしようかと思った。
そう、しじみ嬢ってこんなに芝居ヘタな筈ないのになあ、ていう時点で、これが大いなる計算に基づいていることぐらい気づくべきだったんだけど、もうそれはそれは徹底したチープっぷりだったからさあ……。

大体人間の寿命を示すろうそくがあれっぽっちしかないのはどうなの、などとつまんないところが気になったりして、いやあきっとそれは、数多くの天使が手分けして番人しているんだろうと思う一方で、それじゃ一体何人の天使が、何室に分かれて番してんのよ!とホンットつまんないことが気になってしまったりして。
全てを観終えてしまえば、このハチャメチャな設定を笑い飛ばすための大いなる計算だった、と判るんだけど。

だってさ、ビックリしたんだもの。あの佐々木麻由子がパジャマ姿で天国と地獄の別れ道のところに現われて、間違って死なされたと知って、どーゆーことなのよ!と文句つけて暴れ回るなんて!
あのじっとり熟女の彼女が、かつて別の作品で濃厚なカラミを演じた岡田智宏に対して、戻せよ、オラァ!みたいにガンつけまくるなんて。

しかもその岡田氏もバカみたいな天界人コスチュームで髪なんてぴったり分けちゃってさ、天国、地獄、ときったない字で書かれたそれぞれのゲートの前でノートパソコンをパコパコやりながら、行列を作っている人たちをさばいているなんて。
ゴネ始めるチンピラ風の男が現われると、メンドくさいなあ、と指をパチンとならしたかと思ったら、地獄のゲートから幼稚園の学芸会だってもうちょっと気が効いてるんちゃう、というような赤鬼チックなのが現われて引っ立てていくなんて。もうどうしようと思った私の気持ちだって判ってくれる、でしょ?

佐々木麻由子扮する景子はもともとあと40年は寿命がある筈だったのが、テンコちゃんがくしゃみをして寿命のロウソクを吹き消してしまったことでこんなことになってしまった。て描写も、テンコちゃんの鼻の穴に明らかにオモチャのハエが止まって、ふえ、ふえ、ふえ、ふえっくしょん!となって、あーん、どうしよう??なんだから、もうどうしようと思った私の気持ちだって……まあそれはもう、いいか。
とにかくこうした異常事態だから、ゼウス様から聖なるマッチを借りてきて、再び景子のろうそくに灯せば彼女は生き返る。これでオッケー!ということになる。

しかしトンでもないことに、あー、安心、と思ってついついセックスしてしまったテンコちゃんと岡田氏扮するペテロ(ついついするか!)その間に景子の肉体は燃やされてしまった!オイー!こ、これってピンク映画としての要素を思いっきりおちょくってないか……。
またしても景子からドヤされるペテロとテンコちゃん(佐々木麻由子のイメージじゃない……この画はホント、得難いわ……)。一計を案じたその一計は、トンでもないものだった!

テンコちゃんが天界テレビから覗き見ていた高校生カップルの初々しいセックス、でもこの女の子の寿命は18歳、景子達夫婦の濃厚なセックスと見比べて、しかも景子達は寿命がまだまだ長くて、運命の切なさを感じていたテンコちゃん、死んだばかりのこの女の子の肉体に景子さんの魂を入れちゃえ!てなアラワザを思いつき、実行しちゃう!
目の前で死んだ筈のカノジョの麻美がムクリと起き上がったもんで、ビックリ仰天した彼氏の広樹。麻美が、私は景子、アラフォーの人妻なんだと言ってもそりゃあ、信じられる訳がない。

でも、麻美(と言うべきか景子と言うべきか)とのセックスはそれまでの彼女とは全然違って、騎乗位とかフェラとか、それまで彼が望んでいたけど彼女が恥ずかしがって拒んでいたことをバンバンやってくれるし、言葉遣いもぞんざいだし。
そしてダンナから拒絶され、意気消沈し、酒をくらう姿はどー見たってあの初々しい麻美じゃない。「あなたの彼女の麻美ちゃんは死んだの」と再三言われると、さすがの広樹もその事実を受け入れざるを得なくなってくる。
そして景子を気の毒に思った広樹は、自分の部屋に彼女をかくまいながら、だんなさんとの関係をとりもつ協力を申し出るようになるんである。

景子の魂が入り込む女の子を演じる稲見亜矢嬢と、その魂の持ち主の佐々木麻由子とでは、あまりに芝居力が違うもんだから、うう、佐々木麻由子はこんなクサイ芝居はしないよと、演じているのが佐々木麻由子自身じゃないのに思ってしまうウラミはあるが(そう思わされるほどに、この設定に入れ込まされているワケだよね、つまり)、そこらへんを計算してやっているのかは判んないけど、実に巧みに本来の妻、佐々木麻由子の姿を、魂の持ち主である彼女を上手く挿入してくるんだよね。

最初こそ、景子の魂が入った麻美の来訪に、愛する妻を失ったばかりで沈み込んでいた夫は激しく拒否するんだけど、毎日弁当を届けられ、その味は愛する妻の作ったその味そのものであり、添えられた手紙が記す彼のクセは確かに妻しか知りようのないことであり……。
そんな展開の中で、景子が料理を作っている場面、ゴミの分別も出来ない夫に文句を言う場面、もう今日はこれ以上お酒はダメ、飲み過ぎるとあなた全然だめになるじゃない、という艶っぽい台詞さえ、“金曜日の行事”的にてきぱきと言われる。

そんな、長年一緒に暮らしてきた夫婦の、ちょっと尻にしかれている様子が実に巧みに描写され、いいタイミングで挿入され、亜矢嬢の芝居に疲れかけた頃にいい感じで入ってくるんで、これは上手いなあ、と思う。ていうか、やっぱり二人の芝居力には明らかに差があるからさ……。

ねっとり熟女のイメージがあるから、佐々木麻由子がこんな魅力を振り撒くっていうのも、凄く意外で、凄く良かった。
彼女がカラミを披露するのはテンコちゃんが天界テレビから覗き見る場面だけ、それって何か、安いAVの盗撮モノみたいな感じでさ、とおーくから、ボケボケ、てな感じで、もうそれだけで終わっちゃう。あの佐々木麻由子が、もったいない、ぐらいな感じで(爆)。
でもそこからは、いわゆる回想やふと夫が麻美の中に感じる妻の面影やぬくもり、といった表現が、その時の佐々木麻由子が、すんごい、素敵、なんだよなあ。

だから正直、ね、カラミ要素をこなすのは、若い女の子の肉体を持った麻美、つまり亜矢嬢にかかっているワケで。
その中に景子の魂が入っていて「こんな若い男の子に迫られたら、もうダメ」とか言っているのが可笑しい一方で、ナイスバディな若い身体をピチピチと躍動させるのは、ギャップの可笑しさもあいまって見応えがあり、エロの表現をマンネリ化させない努力も大変だよなあ、などと思ったりもする。
でも、ホント、これは「秘密」だよな、と思う。そしてそれ以上に……畳と女房は若い方がいい、などという禁句を言いたい男性諸氏にとっては、中身は古女房で身体が女子高生に若返る、なんて実はめっちゃ理想なんではないだろうか??

……それこそ、禁句だわな。それにそんなこと言っちゃいけない。この切なさが、本作の素晴らしさなんだから。
でも……うん、そう、この夫婦、熟年夫婦には子供がいなかった。それは見ていて気になっていたところだった。逆に言えば子供がいないまま来たから、今でも金曜日にセックスを欠かさないような、恋人の気持ちを持ち続ける夫婦でいられたのか、と思うと、何か複雑でもある。

妻が死んで意気消沈するダンナの姿は、初恋の彼女が死んで意気消沈する広樹の姿に重なる。広樹は一度は彼女が生き返った!と喜んだけれど、その中身は違うということに直面する。
何かそれがね、広樹がこのダンナにシンクロする十分な理由になった気がしてね。年も境遇も全く違うのに、ここで確かにこの二組のカップルはシンクロしたのだと思う。

お弁当作戦は功を奏し、ダンナは麻美の中に景子がいることを認めつつあって、日曜日のデートにこぎつける。
今日は記念日、初めてのデートの日よ、と誘い出されたダンナは、自分たちがどう見えているかを気にする。親子かエンコウか、でも景子はそんな状況さえ楽しみ、彼の腕をとって歩き出す。
3D映画にオドオドするダンナの肩にそっと頭を乗せた時、その時、景子の顔になった。彼が感じるぬくもりも、確かに景子のものだった。

いつもデートの後はこの公園で映画の感想を言い合ったでしょ、そう言う景子にもうダンナは反論する気持ちさえ持たない。
一緒に観た映画を順番に言おうよ、と、景子は「シザーハンズ、私泣いちゃった」と口火を切る。ダンナの方は「思い出ぽろぽろ。悪くないけど感傷的過ぎる」などとネガティブなことばかり言うから、景子が思わず突っ込むと「君につまらない男だと思われたくなかった。映画なら黙っていても大丈夫だから」と何十年ごしの本音を言うのだ。
「結婚してからもビクビクしてた。いつアイソをつかされるかって」お互いすんごい好き合ってるのに、こんなに長い間一緒にいるのに、その気持ちを確かめ合ったことがなかったなんて。

このシーン、映画のタイトルが次々出てきて、アラフォーである彼らの年は私もドンピシャで、もう判り過ぎる!みたいな。
で、彼が言うネガティブな感想は特に、作り手の本音っぽいよなあ、などと思うとちょっと楽しくなる。

そして彼女は、“初めて誘った時”の台詞を言ってよ、と言う。彼は「景子さん、うちに寄っていきませんか」とようようしぼり出した……。

ラストがね、本当にいいの。景子、麻美の肉体に景子の魂を宿した景子(ややこしいな)は大きなお腹を抱えて川沿いを歩いてる。その隣に広樹が歩いてる。
の、前に、テンコちゃんとペテロのシーンが挿入される。あっ、せっかくチープじゃなくなったのに、と思わず焦ると(爆)、彼らはね……広樹を心配し、死んでしまった麻美を哀れむんだけど、テンコちゃんがまたしてもナイスアイディア。

「私、いいこと思いつきました」景子のお腹にいるのは、麻美の魂。つまり、生まれ変わりなのだ!言ってみれば麻美の肉体の中の新しい命に麻美の魂が……ややこしいけど。
いや、実はそこまでハッキリと言い切ってる訳じゃない。でも、テンコちゃんが言いかけた“アイディア”そして、何より景子が「女の子なの。もう名前は決めた。麻美」と言う台詞の幸福感で、全てが、見事に、収斂されて行く。
その幸福感、腑に落ちる完璧さ、お見事!というしかない。

やっぱりね、ベテランのなかみつせいじ、佐々木麻由子の安定感、にじみ出る人生感よ。これはもうね、やっぱりね、若い人には出ないんだな。年をとるのも悪くないと思えちゃう。★★★☆☆


タナトス
2011年 101分 日本 カラー
監督:城定秀夫 脚本:城定秀夫
撮影:田宮健彦 音楽:タルイタカヨシ
出演:徳山秀典 佐藤祐基 平愛梨 渋川清彦 古川雄大 大嶋宏成 大口兼悟 斉藤一平 白石朋也 秋本奈緒美 升毅 梅沢富美男

2011/9/29/木 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
城定監督ということだけでパーッと駆けつけたので、いろんな意味でびっくり。まず劇場のコミコミぶりにびっくり。上映終了間際ということもあろうが、なんだか知らない間に人気監督になってる??
それともこの特撮&イケメンドラマ系の出演者の歴々のせいなのだろうか……てか、言うほどイケメンでもないし(イケメンの線引きレベルはどんどん著しく低くなっている気がしてならない……)客層的にもヤハリ城定人気?
なんでもポスト三池監督といわれているとか……って一体その根拠はどこから……出自もタイプも全然違うのに。

ま、そんなことはどーでもいいが。そう、監督の名前だけで来たから、まずこの、どストレートな青春ボクシング映画を全うしていることにもビックリしたが、それは私が彼の一般作品をちゃんとフォロー出来ていないからかもしれないと思い直し、しかし時にこれはワザとちゃうのと思うほどのクッサイ芝居にくじけそうになったりもする。

いやそれも冒頭からだからさ……。“クッサイ芝居”は二つ、というか二組というか。
主人公リクが助っ人として借り出される暴走族。まあ今でもこんなマンガチックな暴走族は確かにいるんだろうが、いかにもなメンチ切ってヤッチマイナ!みたいな(それじゃ「キル・ビル」だ)今時こんなマンガも逆にねえだろうというクサさで見ていられない。こ、これは絶対確実にそうやって演出してるよな……。
てかこれがマンガ原作で、まあその前に原案として元世界チャンピオンの竹原慎二氏が関わっているんだから、ひょっとしたら彼自身の体験に基づいているのかもしれないし。なんかそんなやんちゃな青春時代だったって聞いたことがあるようなないような。

で、そう、マンガ原作だから、という訳でもなかろうが、この暴走族の描写はもうほんっとに見てられないほどクサい。
ことに、リクに助っ人を依頼する、他人の力でジャマを蹴散らしているという小心者のくせにやたら態度がデカい、もうわっかりやすくいけすかない男のクサさときたら、そのいけすかなさに腹を立てなきゃいけないのに、うう、見てられない、見てられない、と思うばかりなんである(爆)。
まあ後から思えば、それぐらいのアクの強さがないと、メインのボクシングファイトにつながっていかないのかも……しれないが。

しかしもう一組、いやもう一人のクサさはそのボクシングジムの会長で、こ、これは実際マンガのキャラクターっぽいよなーと思う。
自分のジムから世界チャンピオンを出したい!という妄執に駆られて、壊れていく初老の男の哀しさ、というより可笑しさ(爆)。
実はこういう、ところどころに転がるクサさがなけりゃ、意外にマジに熱血青春モノとして秀作になりそうな気がするぐらい、気合は入ってたんだけどなあ。

あ、でも、それこそメインの男の子たちの芝居力がちょっとアレだから、ところどころ大仰にしたのかもしれない?なんて思いっきり言ってしまったー!
いやその……そんな言うほどヒドくもないし、それこそ彼らがボクシングにのめりこんでいけば、その肉体の躍動感で、芝居なんていう小手先のことなんて気にならなくなっていくんだけれど、でもそこに至るまでのいわゆる芝居シーンでは結構キビしい。

特に主役のリクを演じるアナタが(爆)。狂気が目に宿る芝居をしているんだろうけど、なんかそれこそザ・マンガって感じに目をぎょろりとむかれたりすると、なんだか困っちゃう。
まあ確かにお見事なぐらい、めだまのオヤジがそこにいるんですかってぐらい、キレイにむいてますけど。
ああでもこういうの、なんかVシネとかにありそうな芝居だよね。あぁ?みたいに相手を威嚇しようとする時の定番のお芝居。

そんなことがあるだけに、彼がボクシングという場で水を得た魚のようになっていくと、ここだけでいいじゃん、と思ったりもするんである。
てか、なぜリクがボクシングに出会ったかというと、棚夫木との出会いがあったから。棚夫木にとってはサイアクの出会いに違いない。彼はアマチュア時代は無敗を誇り、意気揚々とプロテストを受けようとしたら、先天的な脳の疾患が発見されてしまい、プロを諦めざるを得なくなって、自暴自棄になっているところにリクと、その取り巻きに出くわしたんである。

ボクサーはリングから降りたら人を殴ってはいけない。棚夫木もそれを守ろうとしたけれど、初めて自分より強い相手を見つけたリクの執拗な挑発に、ついにみぞおちにパンチを食らわせてしまった。
それを見ていた取り巻きの暴走族たちもあぜん。恥をかかされたリクは棚夫木をぶっつぶそうと、ジャージの刺繍に書かれていたジムに乗り込むんである。

というような導入部と並行して、リクの生い立ちがちょこちょこと挿入される。人に触られることに強烈な拒否反応を示し、それがためにコミュニケーションを取れないリクは、依頼主のあのいけすかない暴走族に言わせれば「友達も女もいない」んである。
そりゃー、ちょっと肩に触れられただけでビクリとして振り払うぐらいだから、女の子とイチャイチャなんで不可能だよな……。
そう思うと、友達がいないということ以上に、彼がこんなキレイな顔(まあ一応(爆))してるのにひょっとしたら童貞?キャー!などと妄想して楽しんでみたりする……不毛……。

小さい頃母親が家を出て行き、父親からは虐待を受けていたらしい、ていうのも腕をつかまれて「強くなれ!」と言う父親に絶望的に泣き叫びながら「触らないで!」と言う回想シーンのみだから、虐待と言うにはちょっと弱いイメージなのだが、ひょっとしたらこれも計算なのだろうか?
だってリクがコミュニケーション下手を解消したのは、馴れ馴れしく腕をつかんだヒロインの、それに対してはなぜか、拒否反応を示さなかったからさ。
つまり、彼にとってショックだったのは去っていった母親の記憶であり、憎からず思っている女の子に腕をつかまれた時、それは母親に手を引かれていた記憶と重なる訳で……やーだー、やっぱり男は皆マザコンって訳かい??

だって正直、このヒロインの描写もねー。かなり単純というか。まあ男世界に入ってくる女の子なんだから、ある程度は仕方ないのかな?
でも演じる平愛梨嬢はもう26歳なんだから、こんなキャピキャピな女の子って感じでもないんだけど……。ていうか、劇中では恐らくもっと若い設定だよね。保育士を目指しているとかいう台詞もあったし。

それにリクも、あるいは棚夫木も、演じる役者の実際の年齢よりは若めの設定だよな……てか、特にリクを演じる徳山君が、もう30手前だっていうのはちょっとビックリだったけど。
ニット帽かぶって、暗い目をして、ボクシングジムに乗り込むなんて、三十路の男はしないよな、やっぱり(爆)。
でもボクシング経験者というだけあって、そういうシーンに突入していくとめきめきと魅力を発揮していくのだが。

それで言えば、リクをボクシングへといざなった棚夫木にしてもそうなんだけど、最初はね、彼が主人公かっていうぐらい、深刻さも、尺も割いてたのね。
でも次第にリクに比重が移って行きつつ、でもやっぱり最後まで、棚夫木、なんだよなあ。

リクがシャドウボクシングをする時、その相手はいつも棚夫木。クライマックスでは最高のライバルが現われるんだけど、それだって、ピンチの時に彼を救うのは、ボクシングから足を洗った棚夫木の駆けつけた姿、お前はこんなところで負ける奴じゃねえだろ、というまなざしなのだ。
棚夫木を演じる佐藤君は、それこそイケメンというタイプじゃない、誠実そうなルックスが魅力の子なのだが、こういう子も一緒くたにイケメン扱いされるのが、私的には納得いかない。まあ別にいいけど(爆)。
エンディングを見ても、リクが単独主人公というわけじゃなくて、リクと棚夫木でダブル主演だったのかもしれないなあ、という気がしてくる。

おっと、なんとなく先走ってしまったが(爆)。あのね、私が一番お気に入りなのは、リクのセンスを最初に見抜いて、テストと称して相手になってリクを更にドン底に突き落とし、その後はラーメン店主として、更に私設ジムのトレーナーとして彼を育てていくメガトン山本なんだよね。
演じる渋川清彦がめちゃめちゃ良い!チャーミングで、彼はかなり出る作品に偏りがあるけど、もっともっと広く知ってほしいと思う役者さんだよなあ!なんか見るたび好きになっちゃうんだもん。

メガトン山本はあごの弱さを除けば完全無敵のボクサーなのに、唯一そのあごを責められると足がくだけてしまう。あごは鍛えられないから本当に泣き所。
おかげで全戦全敗で引退してしまい、ラーメン屋を開業する。それでもちっともクサってなくて、「俺はボクシングも好きだけど、ラーメンも好きなんだ!」それがちっとも負け惜しみに聞こえないチャームがたまらなく好きっ!
なんか見た目的にはあまり美味しそうなラーメン屋には見えず(爆)、「三回食べなければ本当の美味しさは判りません」なんて張り紙が。オイッ。なんかそういうところも含めてなんとも愛しいんだよなあ。例えマズくても、ここでまったりしたくなっちゃいそう。

彼の店をひいきにしていて、兄妹のように仲がいいのが、先述したヒロイン、平愛梨嬢演じる千尋である。
もともと彼女はバイトしているスーパーに来るリクを見知っており、彼がボクシングを始めたことも、近くをトレーニングで走りこんでいるのを見かけて知っていた。
「私、リク君のファンなんだよ!」と、この店で遭遇した彼の腕をガシリとつかみ、メガトン山本「あ」 この絶妙の間の「あ」に思わず噴出してしまった。いいなあ、やっぱり、渋川氏!

どうやら千尋に触られるのは大丈夫らしいと見て取った山本は、彼女にリクのマネージャーを頼み込む。流れで千尋はジム自体のマネージャーのようになって、女人禁制の筈のジムは千尋の華やぎで一気に明るくなる。
リクもまた頑なさが取れたのか、更に上達を著しくするんであった。

なんか、千尋って「タッチ」の南ちゃんっぽいよなあ。まあ南ちゃんはマネージャーではなかったけど、スポ根マンガのヒロインに必須の、メンバー全員をメロメロにする、この無敵のサワヤカな可愛らしさ。こんな女の子は現実にはいねーよ、とグチっと言いたくなるんである。
特に、リクのトレーニングにママチャリで付き合う場面なんかはねーっ。皆にも振舞うはちみつ漬けのレモンの定番過ぎるベタさには思わず青ざめたぐらいだが、リクの屋外のトレーニングに付き合う彼女は、更にそれを越えている。

ストップウォッチや汗拭きタオルといった定番中の定番アイテムを、そのタオルをリクが四畳半の自室に持ち帰って煩悩タップリに抱き寄せている場面なぞは……!!
なんか、ジャッキー・チェンがスー・チーにキャピキャピトレーニングにつきまとわれてる「ゴージャス」を思い出してしまった。大スターの二人にとっては消し去りたい作品かもしれない……。

会長が執着する棚夫木のプロデビュー、日本がダメならメキシコで、なんてことになっている。取材陣まで呼び寄せて、もう華々しく出発という間際、母親の涙とリクのパンチで棚夫木は膝まづいてしまう。
母親にすべてを話したのは山本。出て行った母親への思いを抱えるリクが放ったパンチで、棚夫木はプロを諦め、ボクシング界からも去っていった。
「プロにならなくても、家は買えるよ」そう言って、小さなアパートの部屋から、母親に送り出されて仕事に出かけるスーツ姿の棚夫木。

棚夫木はまさに天才で、彼の頭にパンチを浴びせられた選手がいなかったから、その病に気づけずやってこれたんだけど、その棚夫木を初めて震撼させたのがリクだった。それでも、スパーリングでリクが棚夫木から奪えたダウンはたった一度だけ。
棚夫木がボクシングから去り、リクはプロテストに挑む。棚夫木の件でジムから追われていたリクだけど、勤め先の引越し会社の倉庫に手作りのリングを作ってくれているのを見て絶句する。
この仕事場を紹介してくれたのは当然山本で、この手作りのジムを作るために掛け合ってくれたのも彼なのだが、でもその会社の社長を演じる梅沢富美男がまた良くてさ!!!
最初から、リクを見る目が温かだった。いかにも“今時の若い子”って感じで、挨拶も出来ないリクだったのに、面白そうな子だと言ってくれた。

引越し搬入の現場で、先輩から失敗を押し付けられたのを我慢して受け入れたリクを、客からの報告があったとはいえ、ちゃんと伝えて彼の頑張りを評価してくれるちょっとしたシーンが、梅沢氏のあたたかな雰囲気もあいまってジーンとした。
彼はかつてボクサーだったという設定で、「故障ばかりのポンコツボクサーだったけどね。君の後ろにはそんなボクサーが沢山いるんだと判ってほしい」と、あの人の良さそうなニコニコ顔で言われると、なんかもう、ね!
梅沢氏が披露するシャドウボクシングはなかなかサマになってたけど、彼も経験あるんだろか??

クライマックスは、新人王を賭けた東日本大会の決勝戦。その相手は、もといたジムの、あの妄執会長が意地になって新入りを急遽仕立て上げてきたんだけど、それが、……まあ、予想はしてたけどさ。
あのクッサイ暴走族の中で、なんか存在感ありげに後方に控えていた眼光鋭い青年、須藤。
リクが一度自分の限界を感じてトレーニングを離れ、元いた公園でブラブラしていたところに、あのいけすかない暴走族野郎が砂上の楼閣の主になっていい気になってリクにケンカを売り、リクがためらっていると、須藤がやめろと声をかけて、逆にぼこぼこにやられ、リクが声をかけようとすると、グサリ!あーあー、やっちゃったー。
もう最初から憎まれ役だった暴走族野郎、見くびっていた懐刀(見くびっていたんだから、懐刀とも思ってないよね)にヤラれた。

ここからの、パトカーが来るまで付き合ってくれないか、と須藤とリクのシーンがなかなかに、いいのよ。
親がいない彼は、このくだらない暴走族に居場所を見つけたと思っていた。だから執着していた。でもこのバカ男の暴走にガマンがならなくなって……。
「お前は居場所を見つけたんだな」タバコを断ったリクに、自分もこれを最後にする、と吸いながら、「外に出たら、自分に出来ることを見つけてみる。そうしたらダチになってくれるか」この台詞にはアツくなったなあ!

でも二人は、そんな生ぬるい状況では再会しない訳で。先述のように、リング上で対戦する訳。
相手のトレーナーが百戦錬磨で、リクのクセを教え込んで最初打たせておき、油断したところで攻撃を仕掛けてきて、リクは窮地に立たされてしまう。で、そこにこれまた先述したように棚夫木がやってきて……。

棚夫木とは、サラリーマンになった彼とトレーニング中のリクが街中で出会うシーンが用意されていて、これがラスト、棚夫木がリクのトレーナーとなり、一緒に世界を目指すという、これ以上ないほどの予定調和(いや、ホメてんのよ)のエンディングに向かっていく訳で。
でもクライマックスの、須藤との試合シーンは、この須藤がウッカリ魅力的だったりするもんだから(爆)、正直ここで終わってもいいんでないの、と思うほど(爆縛)。

まあでも、もちろん(!)リクが勝った後、祝勝会に「ダチが勝ったんだから祝いに来て当たりめえだろ」と照れたようにうつむきがちに言う須藤のシーンがあるからさ。シャバに出たらダチになってくれるか、その約束は反故だ(試合で再会したからね)、というこれまでの経過があるからことさらにじんわりくるんだけど、でも、その台詞の時にリクいないし!
つまりやっぱり、リクにとっては棚夫木、なんだよなあ。その時棚夫木と走りこみしてて、棚夫木がサラリーマンは辞めたのか兼任なのか、とにかくリクのトレーナーとなって一緒に世界を目指すというのが大団円のラストなのだもの。

これってつまり、リクはダチを否定、まではいかないけど、須藤との、ダチになってくれるか、という一度の約束を、ライバルとなったことで反故にし、その試合シーンにこそ彼はきらめいていたからさ。
棚夫木とは決してダチにはならないし。同志ではあってもダチではないし……。実はちょっと切ないラストなのかもしれない、と思うのは深読みだろうか?
男の理想の関係は、一生なんとなく続けられる気軽なダチではなく、花火のように一瞬の歓喜のための同志なのかなって。

ところでタナトス、というのは、原作者の思いをメガトン山本を演じる渋川氏に解説させるのだが、死を象徴するギリシャ神話の神で、山本はリクの背中にその翼を見る。
それを臆面もなく台詞につづるからこれもオオゥと思ってしまうが、渋川氏の、臆面もないのもチャーミングな魅力でなんとか乗り切ってしまう。
リクのまっすぐさに「男の子だねぇーと」目を細める山本を演じる渋川氏こそが可愛らしいからさあ。
……だけど、原作者、あるいは原案の竹原氏が、なのかな。えっらいロマンチックなんだわね。この台詞をそのままフキダシ、あるいは台本のカギカッコの中にはハズかしくてなかなか書けんわ(照)。★★☆☆☆


たまたま
2011年 53分 日本 カラー
監督:小松真弓 脚本:小松真弓
撮影:長野陽一 音楽:高木正勝
出演:蒼井優 森山開次

2011/10/23/日 劇場(渋谷シネクイント/モーニング)
これってどういう経緯で作られたのかなあ、イメージ作品のようでもあるし、ネットムービーとかかなあ、それにしてはやけに映像美に気合入ってるしなあ……。
などと思って見終わったあとちょいちょいと解説を覗いてみたら、蒼井優嬢とこの小松真弓監督が共に作り上げた、つまり二人の友達映画とでもいったものなのね。

友達映画などというと何かバカにしているような響きがあるが、そうじゃなのよ。上手く言えないけど……小松監督自身のことは知らないし、なんたって今回が初の長編作品で、普段はCM、ミュージッククリップ、ショートムービーといった分野で活躍なされているというんだけど、ほんとそういう分野は私疎くて。
でもね、なんか蒼井優嬢と極めて似た価値観を持っている、もっと言ってしまえば相似形なぐらいなんじゃないかって。類まれなる信頼関係を、この映像からは感じ取ることが出来る。

蒼井嬢がほぼ出ずっぱりで、彼女だけがメインで、彼女の横をするすると人が通り過ぎていく、しかもその殆どがアイルランド人!
となると、そんな映像作品で、出演者と演出者の相似形の信頼関係を感じ取ることが出来るだなんて、かなりただごとじゃないんじゃないかと思うんである。
小松監督のCM作品には午後の紅茶があったから、じゃあそのあたりで蒼井嬢とは出会ったんであろうが、午後の紅茶の蒼井優は壮絶に可愛いからなあ。
いや、何に出てても彼女は可愛いんだけど、午後の紅茶の彼女は、何かもっと華やかに可愛さがパンと周囲に飛び散るようなインパクトがあった。

本作は蒼井優のイメージクリップ、彼女の可愛さを堪能するための映画ではないかと思ってしまうほど。いや、彼女の映画に関しては、なんか毎回そんなことを言っているけれど。
彼女と人間関係をがっつり構築する人間が一人として出てこない、みんな通りすがりであり、彼女は行くべき場所を探してずっとずっとさまよっているんだから、観客は彼女だけをずーっと見続けることになるわけで、そらー、その可愛さにノックダウンするしかないんである。

ていうか、ここがアイルランドだというのも……。
最後のオチまで行かなければ(オチなどと言うのもアレだが)彼女がなぜここにいるのか、どういう役回りなのか(オチが判らなければ、役回りなどという言葉も出ないのだが)さっぱり判らないんだけど。
判らないうちから、ああ、確かに蒼井優をアイルランドの自然の中に、可愛らしい街並の中に、アンティークの家具の中に、お人形のように可愛い子供たちの中に紛れ込ませてみたい、と、そういう企画だったんじゃないの、などと思ってしまうのだ。

まー彼女は森ガールなどとも言われているが、確かにおとぎばなしのようなアイルランドの森も、海辺も、荒野も、白く乾いた街中も、まあよくまあ、似合うこと!
大体、白タイツがおとぎばなし的に似合っちゃう女の子なんて彼女以外に考えられない!白タイツなんてさ、それこそ私ら世代の入学式かピアノの発表会かてなとこだよ(爆)。

白タイツなんて足が太く見えそうで怖くてはけないよなあ……いや、実は蒼井嬢だってそんな特に足が細い訳でもないのだが、いい感じな感じ?なのだが、それがまたイイのよね(だんだん何言ってるのか判らなくなってきた……)。
タイツだけじゃなく、白のワンピで白づくめで、名前も与えられていない彼女がなぜこのアイルランドにいるのか、自分自身も判っていない様子なんである。

もうめんどくさいので(爆)ネタバレしちゃうと、つまり彼女は、“手紙”なんだよね。それも、郵便事故か何かあって、長いこと届けられないまま放置された古い手紙。
これは本当に、最後にオチが示されるまで判んなかったなあ。
それというのも、本作の冒頭に蒼井優へのインタビューが試みられていて、それは彼女の今までの女優人生の喜びや悲しみを聞き出すものでね、まあ正直その内容はなんてことないんだけど(爆)。

いろんな人になれていろんなところに行けて楽しいとか、でも負の感情の全ての重みを課せられて辛かったとか。
それでも人の笑顔を見れば、頑張ろうと思える、人の笑顔を見るのが大好き、とか、でも時にはずっと隠し続けた秘密をバラした時の相手の顔を見るなんて気持ちよかったとかね。
正直かなーりベタでゆるいことを言ってるんだよなあ。

んでもって、その彼女の言葉に合わせてそんな楽しかったり辛かったりする場面が挿入されるんだけど、それがすべてこのアイルランドで撮ったと思しき映像なんだけど……本編には全然関係ないの。
これが本編に影響してくると思ったんで、正直、あれ?て気持ちはあったかもしれない。しかもこの“再現フィルム”は蒼井優嬢は遊び心タップリに、ヘアスタイルや衣装もかなり遊んでいたりするもんだからさあ。
それとも、本編以外にも彼女が様々な“手紙”になったという意味でのインタビューだったんだろうか。

最終的に本作が示しているメインテーマは、人に気持ちを伝えること。
で、これはホントに大事なことで、でも難しいことで、冒頭のインタビュー(というより、蒼井優嬢が一人語りをしている雰囲気だけど)で彼女がその難しさを語ってる。

伝えなくてもなんとかなっちゃうから、伝えないままでいちゃうとか、結構耳に痛いことを言ったりして、ああそうだな、とも思う。
でもこの、難しいんだけど普遍的なテーマ、言い換えちゃうとちょっとぬるく、優しく感じてしまうテーマそのものを伝えきれたかというと、少々難しかった気もした。

気持ちを伝えなきゃ、なんてもう凡百の場所で言われてることでしょ。
それこそAKBの歌でだってさ(いや、AKBにウラミはないけど……なんかそういう台詞、「モテキ」にあったじゃん)。実は本当に難しいことなんだけど、さ。

いや、確かに最後の“オチ”にひっぱるまで、そのテーマを大事に大事に扱っていたとは思う。
そう、蒼井優嬢は手紙、なのね。古い手紙。古すぎて、どこに届けられるべきなのか見失っている手紙が、アイルランドの可愛らしい民家を一軒一軒回っては、前後ろとたがめすがめつされ、私のじゃないわ、うちのじゃないわ、と言われて当惑する。

そうして流れ流れる。そんな古いものや不思議なものが好きそうな少年に拾われて、虫眼鏡を当てられたりする。
その少年が集めている様々に美しい石の中に、花や砂漠や鳥や太陽や……地球のすべてを見る。
鉱石や琥珀や色とりどりの石の表情を、すべてドンピシャに言い当ててて、ああ、地球のすべてがここにあると、確かに思って息をのむ。
「よく見れば、見えてくる」ちょっと言い回し忘れたけれど、少年の言葉がしんしんと胸にしみる。

カネが全てだと言いながら、その紙幣でお尻を拭くことは出来ない草むらにしゃがんだおっちゃんが、蒼井優嬢が、まあなんたって紙だからそいつをよこせ!などというコミカルな場面もあり……。
でもこの時点で、ていうか、オチまで彼女が古い手紙であることは観客に明かされないからさ。えーって感じ。
ただ白づくめではかない彼女の雰囲気、切手収集家の集まりの中に紛れ込んだ彼女が、コレクターたちに取り囲まれる様子などからだんだんと察せられるのだろうけれど……私はアホだからホンットに最後まで判らなかった(爆)。

中盤の見所、中空に漂う人の気持ちを集めてはカラフルなキャンディにして手の中に集める、濡れたような街のライトアップの中に現われる道化師のような青年。
蒼井優嬢以外、唯一日本語を喋る青年。ていうか、モノローグ以外、彼相手以外では彼女が言葉を発することはないから、彼女が日本人であるかどうかも……。
いや、なんたってアイルランドの古い手紙なんだから、日本人だのなんだのもないよね、それはこの青年もさ。
いやウッカリ彼らが日本語で言葉を交わすから、何かそういう意味があるのかな、なんて思っちゃったのよ。難しいな……。

でもこのシークエンスが、転回点であることは間違いない。様々な人の感情が溶けたキャンディを、面白い味、とカラリと音をたてて口に含む。
キャンディが歯に当たってカラリと音を立てる感じが、なんともファンタジックで、濡れたようなライトアップの夜の街の中の、マジシャンのような青年のダンスもあいまって、何か胸の中をすーっと清涼な風が吹き抜ける心地よさがある。

なんか特にこのシークエンスから、酔ったような感じで見ちゃった感はあるかもなあ。人の気持ちが甘い砂糖の中に溶け込むだなんて。甘い甘い気持ちや、甘苦い気持ちや、それこそ甘酸っぱい気持ちもあるんだろう、なんて。
自分も、と中空にぴょんぴょんと飛び跳ねて、こぶしの中にキャンディを生成しようとする蒼井優嬢が、全然出来ない、と消沈。
彼は「当然だよ。僕は選ばれた人間だもの。そして君は別のことに選ばれた人間なんだよ」みんな、選ばれた人間なんだよ、と。
この最終結論に至っちゃうと、若干道徳くさい気もするけれど、中空に漂う人間の気持ちをしなやかなダンスでこぶしの中に収めてキャンディにする青年の、夢のような画は確かに魅力的だった。

彼女が何のために選ばれた人間なのか。てか、人間ですらないんだけど、というツッコミをオチを知ればしたくもなるけれど、ただ彼女が時を超えた古い手紙、つまりそれを書いた人間がいることを思えば、まあ大きい意味でそうも言えるのかもしれない。

彼女が自分の行くべきところ、つまりこの手紙が届けられるべきところをついに発見するラスト前、それぐらい古い手紙を待ち続けている、子供たちから「蛇女」と呼ばれているケバい中年女性が印象的である。
この女性が待っているのが手紙だとは判らないから、蒼井優嬢を目にして、ずっとずっと待っていたのよ、などと言うから、逃げられた男とこんな可愛い女の子を見間違うか、などと思うんだけど、まあそれも当たらずとも遠からず、てかそのまんま当たってるというか……。

蒼井優、いや、この古い手紙が“蛇女”宛ではないと知ると、私以外にあの人を待っている人がいるんだろうと、可哀想なぐらい、子供が悪いことをして叱られているみたいに、落ち込む。
木の根元に座り込んで、蒼井優嬢が見かねてそばにちょこんと座り込んで、その長く伸ばした見事なウェービーヘアを優しく引き寄せるのがキュンときてさ!
でも蛇女さんは、蒼井優が去ると、きっと愛する人のために伸ばし続けたその髪を手ずからジョキジョキと切るんだよね……。

そしてさまよいさまよい、ついに蒼井優、いやさ古い手紙は、行くべき場所にたどりつく。
目に下途端、そこが私の行くべき場所だと判ったと、モノローグする。
しんという音がしそうなぐらい、しんと静かな家。おとないを告げてそっと入っても誰もいない。
テーブルに腰掛けて足をブラブラしたりなぞして、待っている。
カットが替わり、いきなり老人が、ほんとに、もう枯れそうな、消えゆきそうな白い老人が、たまらない目をして蒼井優嬢の手を握っている。
待っていたよ、言葉にしなくても、そう言っているのが判る。

ここはクライマックスで、タイトルである「たまたま」に込めた思い、蒼井優であり小松監督の込めた思いが蒼井嬢の言葉で語られるのだけれど、正直このおじいさんともおばあさんともつかない枯れた老人のたたずまいだけで十分である。
いや、凄くいいこと言ってるのよ。地球の誕生から微生物の発生から氷河期があり戦争があり、そこで人間が生き残り、両親が出会い、私が生まれ……。すべてが奇跡的なぐらいの“たまたま”だと。
いや違う、ひとつだけたまたまではないと言った。両親が出会ったのはたまたまだったけど、「たまたまではなく恋に落ち」このヘンは蒼井優に似合う乙女チックさで、ふとニヤけてしまう。
それもたまたまだったと思うけどネと、つまんない大人は思うんだけどさ。

そう思いたいのは……必ずしもすべての人間が、特に現代の人間が“たまたまでなく恋に落ちて”愛しい赤ちゃんを得られる訳じゃない、などと思っちゃうからかもしれない。
ヤだね、こんな言い様。たまたまでない美しいことに心底憧れてるくせに。

でもね、そういう、たまたまでないところからこぼれおちても、この優しい世界に加えてほしいと思うからさ……。
何かやっぱり、たまたまと言いながら、たまたまでないことを特別にされると、ちょっとね。

ああ、こんなこと言っちゃったら、台無しやな!!私だって恋も赤ちゃんも大好きや!!(言えば言うほどドツボ……)

まあそんなこととは関係ないけど、スウィートなお顔とたたずまいと、めっちゃギャップのある蒼井優嬢の低い(ドスの効いた)声がなんとも好ましかったって、んん?★★★☆☆


ダンシング・チャップリン
2011年 131分 日本 カラー
監督:周防正行 脚本:
撮影:寺田緑郎 西村博光 高岡ヒロオ 音楽:チャールズ・チャップリン フィオレンツォ・カルビ J・S・バッハ 周防義和
出演:ルイジ・ボニーノ 草刈民代 ジャン=シャルル・ヴェルシェール リエンツ・チャン ナタナエル・マリー マルタン・アリアーグ グレゴワール・ランシエ ユージーン・チャップリン  ローラン・プティ

2011/7/18/土 劇場(銀座テアトルシネマ)
周防監督が「Shall we ダンス?」から長らく映画を撮らなかったのは、妻である草刈民代の生きるバレエの世界に魅せられていたからなのかもなあ、などと思った。
いや、別に映画監督は映画を撮るだけが仕事でもないだろうけど、でも「それでもボクはやってない」まで彼が何をしていたのか、情報を張らない私にはいまいちよく判らなかったし(執筆活動とかしてたのかな?)、今回の映画に際してツーショットで出てきた彼ら夫婦を見ていると何か、ね、ホントに自然に、妻役を夫である周防監督が務めているように見えて、イイなあ、と思ったのだ。一言で言うと、内助の功、みたいな?

いや、なんたってその先に本作が出来上がったんだし、彼の中にもしたたかなクリエイター魂があったんだろうが、映画監督であることが、バレエダンサーである妻を邪魔することのないように、彼が愛と尊敬をもって“内助の功”してるように見えて、何ともステキだな、と思った。しかもその妻のラストダンスを映画作品としてフィルムに残すだなんて、なんてステキ!
映像が残されていることがあっても、基本的にはその場で消え去ってしまう舞台芸術というものの世界に身を捧げた彼女の、その姿を永久に留める。そんな媒体である映画監督の夫としても冥利に尽きるってもんだろうなあ。

とはいえ、表向きは、このバレエ版チャップリンのプログラムの、そのチャップリンを唯一演じることが出来るバレエ・ダンサー、ルイジ・ボニーノの、その姿をこそ永久に留める為に周防監督は動き始めたのだという。
その相手役として草刈民代がいたのは、そしてそれが彼女のラストダンスだったのは偶然だったのか、したたかな計算だったのか。
いずれにせよ、確かにそのルイジ・ボニーノが実に60歳!という、そんな年齢までバレエダンサー続けられるんだ!と素直に驚いてしまう鉄人で、でも確かに60歳ともなれば、どんなに鍛えていても、体力的に先が見えているかも知れず……妻を通してバレエの世界に溺れ、愛してきた周防監督が映画監督としての自分が出来ることとして立ち上がったのは、それもまた、愛、なのだろう、な。

それにしてもちょっと、驚いた。60歳のバレエ・ダンサー。いや、最初にね、彼にインタビューする場面、いきなり年齢を聞いて、ボニーノが茶目っ気たっぷりに「年齢を聴くの!?一ヵ月後(一週間後だったかな)に教えてあげる」と言いつつ、偶然に紛らしたように60歳、と明かし、今のナシナシ!みたいな、本当にチャーミングなんだけど、でも実際、仰天してしまうんである。60歳!?マジで!?と。
でもさ、確かに彼が言うように、体力的な充実は若さであり、内面的な充実はキャリアであり、そのすりあわせに、バレエダンサーは苦悩する訳で。年齢を重ね、経験を重ね、深みが出る精神性に、体力が追いつかなくなる日を恐れ続ける。
バレエダンサーよりずっとその期間が短いけど、大好きなフィギュアスケートも同じ命題でさ、いくら若い時から大人っぽい演技が得意だったりしても、やっぱりキャリアを重ねたそれとは全然違うんだよね、言っちゃ悪いけど若いと上っ面というか……いや誰とは言わないけど(爆)。若さは若さの良さがあり、それはもうその時にしか永遠に得られないものだから……。

とはいえ、ボニーノの、そして草刈さんの、そしてバレエダンサーたちの、年齢なんてすっ飛ばしたエネルギッシュさには驚かされるんだけどね!
“映画”として、バレエダンサーの草刈さんを初めて見ることになる、しかもこれがラストダンスである。日本人として、確かにもったいないことしたかもしれない。それをこそ内助の功の夫、周防監督は言いたかったのかも??

それにしてもチャップリンである。これこそが、ドンピシャである。だってチャップリンは映画の神様。すべての映画人があがめてやまない人なんだもの。
バレエにどっぷり浸かった周防監督が、バレエ映画を作ろうと思った時の題材がチャップリンというのは、特にそのことについて彼はどうこうと劇中で言いはしなかったけど、でもやっぱり意味があるに違いないよね!
全ての映画の始まり。芸術としては新参者だった映画(今でもそうだけど)を始めたチャップリンは、その中で確かに、バレエへのリスペクトも示していたように思う。

チャップリンがバレエプログラムになったのは、至極当然の成り行き、もしかしたら遅すぎるぐらいだったのかもしれない。
チャップリンが巧みに披露するあの有名なパンのダンス、フォークに固いパンを突き刺して、ドタ靴のステップよろしく魅せるシーンを本作の中にも挿入してくれるけど、ほおんとにあれはステキだよね、スゴイよね。
あんなに素敵だったっけと、何度も見ている筈なのに、やっぱチャップリンは凄いな……などと当たり前のことを思ってしまった。
サイレント時代の彼の身のこなしはダンス、その基本であるバレエの軽やかさや優雅さに通じ、彼自身が作曲した劇伴もさ、ホントそんな雰囲気を感じさせるんだよね。

そのパンのダンスをほうふつとさせるようなマイム系のプログラムを含めた、オリジナルを半分ほどに縮めた演目が後半、“第二場”として用意され、まさにそこからはバレエ、バレエ、バレエ!なんである。
第一場と第二場の間にはバレエ公演よろしく5分間の休憩が丁寧にさしはさまれている。
第一場はさながら第二場のメイキングといった趣。いや、違うか。第二場は完全に撮影スタジオとロケーションによって、映画作品として“クランクイン”して作られているのだから。

第一場はその稽古の様子、あるいは振付師であるローラン・プティと周防監督との映画作品にするに至る火花散らす折衝、チャップリンの息子のユージーンを訪ね、墓参りもし、取材や資料集めも兼ねているんだろうけど、どこか周防監督が映画の神様、チャップリンを巡礼するような、ファン心が満載のパートなど、この第一場の印象が強いので、第二場が完璧に映画作品として作り上げられてても、何かドキュメンタリー映画としての印象の方が強いんだよね……。
実際、予告編では撮影合い間のショットで、カメラのこちら側にいるのに同じようにちょび髭をつけている周防監督に草刈さんが「ヘンな夫婦」と言ってみたり、映画パートの撮影後に草刈さんが誰かと(ボニーノだったかな)涙ながらに抱き合うとかいうシーンが使われている。でもそれは、本編にはないのだ。

メイキングとして残されていたものを、いかにも本編にあるかのように使うのはちょっと卑怯じゃないのお、などと思ったが、でもこれがないと確かに観客はなびかないかもしれない……(爆)。
この、予告編だけに使われている映像は、確かに観客としての私たちが見たい映像、なんだよね。夫婦としての周防監督と草刈さん、全てが終わっての感動的な抱擁、でも本編では見事にそんな感傷的な場面は出てこない。

本編では周防監督と草刈さんが夫婦だということを触れる場面なんてほんの一瞬で……しかもそれは、草刈さんが映画監督という生理を知っているから、今のパートナーでは舞台ではゴマカシが効いても、映画作品として残すんじゃダメだ、とプロデューサーに直談判する場面に置いて、であるのだ。
これは見ている時には、そうして斬って捨てられる若手のダンサーが気の毒でひえっと首をすくめちゃうんだけど、でも、この一瞬にこの夫婦の強力な絆を感じたなあ。
しかもそこには前提として、彼女のダンサーとしての誇りがまず、あるからさ。みっともない姿をフィルムに残す訳にはいかない、私の夫は徹底して撮るから、ていうさ。

でもね、実際、バレエを映画として撮るって、どういうことなのかピンとこなかったのだ。それこそ劇場中継みたいなものを想像してたんだけど、共同制作者ぐらいに同等な、いやもっと高いランクの位置づけである振付家のプティと、どんな風に撮るのか、という点で静かに、だけど熱くやりあうんである。
プティは徹頭徹尾スタジオでやるべきだという。ダンサーがこんなに素晴らしいんだから、と。それに対して周防監督は、劇場での舞台の上でやりたいと言った、よね?後から思うと周防監督の言葉と矛盾するように思ったから、私の勘違いだったかなあ……。

ただハッキリしてるのは、周防監督のその提案がプティから激しく却下され「それならば私はやらない」と窮地に追い込まれたこと、そしてプティに了承を得たのかどうなのか、実際の作品は、ユーモラスな警官のおっかけっこのプログラムと、ラストの、まさしくチャップリン作品のラストはコレ!という、長い長い一本道をチャップリンが歩いていく、というシーンをロケーションで撮ってて、これが凄く、イイのだ。
緑まぶしい公園での、スコンと抜けた解放感の中での警官たちのダンスは本当にのびのびしてて、その緑の中の制服がちょっとオマヌケで、なんともかわいくて。
そしてラストシーンは……もうこれは……これしかないでしょ。これこそが映画の醍醐味。ここだけは、古くからの芸術、バレエにだって勝てるもん。この哀愁。現実に戻された、乾いた誇りっぽい道で我に帰るチャップリンの哀愁!

……おっと、脱線してしまった。実際のオリジナルからはいくつかに絞られた第二幕のバレエプログラム。バレエを映画にするってこういうことかあ、と感心した、絶妙なカメラアングルや切り返し。
なるほど、“劇場中継のようになるのが一番怖い”と周防監督が言っていたのはこういうことだったのか。
確かに一連の流れは止まることはない。確かにひとつのプログラムであり、公演そのものである。でも“劇場中継”ではないんだよね。

カメラが切り替わって特定の人物に焦点があってのパースペクティブ、魔法のような粉雪が舞い、カットが変わると人が突然消えたり現われたり。
突然コマ落とし映像になってスパゲティとおもちゃのように格闘するさまは、まさにチャップリンのサイレント映画そのもの。そうか、そうか、こういうことなのか……。

そうした判りやすい違いだけではなく、まさにこれは映画の撮り方で撮ってると、全編を通して思う。つまり彼らが一体何度同じことをさせられたかっていう(爆)。
それはドキュである第一場でそれを予測したボニーノが思わずため息をつくように、一連の流れであるバレエプログラムを映画として撮るってことは、通常の映画の何倍も大変だろうってことは、第二場を見るまではちっともピンとこなかったんだけど、さすがボニーノは、そして勿論草刈さんも判ってたんだなあ。

「黄金狂時代」のコケティッシュさや「キッド」のイタズラ少年を見事に表現した草刈さんも素敵だったけど、やっぱりやっぱり、「街の灯」である。
そして、「空中のバリエーション」(「モダンタイムス」)。どちらも、第一場で草刈さんとボニーノ(「空中の……」では振付指導として)が格闘している様をねちっこく追っていたプログラム。
「街の灯」では盲目の少女の動きに草刈さんが苦悩しまくり、「空中の……」では空を飛んでいるように見せるリフトが技術と体力不足で出来ない若いダンサーが降ろされてしまうという厳しいシークエンスが用意されている。
ことに後者は、「一回きりの舞台ではごまかしが効くけれども……」という先述の草刈さんの言葉が飛び出し、舞台にこそ情熱を注いできた草刈さんがそんな台詞を口にするほどに、映画監督の夫のこだわりを判っているのだと感銘を受けるんである。

そして「街の灯」は、チャップリン作品としても代表的なものだから……。この「街の灯」のプログラムは映画そのものを想起させる、舞台装置や小道具を使ったものから、よりバレエとしての、バレエダンスとして昇華させた、二人ががっぷり四つに汲むダンスプログラムの二層構造になっていて、盲目の、焦点が合わない彼女と時間をかけて気持ちを交わしていくのをその二層でたっぷりと見せてて……やあーっぱ、プロは違うと。

チャップリン映画はね、若い頃に見たっきり。やっぱりどこか、映画ファンとしては見ておかなくては、みたいな感じでこなしたっきり。
もちろんその時にもそれなりに楽しんだし、私的には「犬の生活」が一番好きだったりしてさ、するんだけど、でもなんか、全然判ってなかったような気がする、なんてさ、思った。
ここには確かにチャップリンがいる。確かに、息子さんのユージーンが言うように、チャップリンをやるにはモノマネではいけない、プティとボニーノはそれをきちんとやってのけた、というように、プティが振り付け、ボニーノが生きた、ここだけのチャップリンなのよ。
ボニーノは、事前にチャップリン作品を見るなんて、怖くて出来なかった、だから何も見返さずに臨んだ、と言った。チョビ髭にドタ靴、サイレント風の白塗りにステッキを振れば、誰でもチャップリンになれる。誰でもなれるということは、誰もが違うチャップリンだということ、なんだよね。チャップリン=それぞれの人間、ということなんだよね。

印象的なプログラムがある。「もし世界中のチャップリンが手を取り合えたら」スクリーンシルエットのマジックから次々にたくさんのチャップリンが出てくる。その中には草刈さんもいて、メイクをしている場面が第一場に出てきて、彼女も周りも大爆笑。でも確かにチャップリンであり、そして、草刈民代なのだよね。
チャップリンは誰もがなれる。だけど誰もがチャップリンではない。そうだ、髭だけでシンクロしてヒトラーになったチャップリンを思い出す。チャップリンにもなれるし、ヒトラーにもなれる。そしてその前に、みんな、一人のそれぞれの人間なんだよね。手をつないだ時、皆の中のチャップリンになれたら……。

なあんて、ね。なんか宗教的過ぎたかな(爆)。バレエってさ、確かに観る機会がなかなかなくって、だからその点だけでも、得した気分というか。周防監督はこれからどういう映画を撮っていくんだろう。それがホント、純粋に楽しみ。バレエ監督になっちゃったりして!? ★★★☆☆


探偵はBARにいる
2011年 125分 日本 カラー
監督:橋本一 脚本:古沢良太 須藤泰司
撮影:田中一成 音楽:池頼広
出演:大泉洋 松田龍平 小雪 西田敏行 マギー 榊英雄 本宮泰風 安藤玉恵 新谷真弓 街田しおん 桝田徳寿 野村周平 カルメン・マキ 中村育二 阿知波悟美 田口トモロヲ 波岡一喜 有薗芳記 竹下景子 石橋蓮司 松重豊 高嶋政伸

2011/9/25/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
いやー、キタんでないかい、キタんでないかい。こーれーはー、キタんでないかい(と、慣れない北海道訛りを使ってみる(笑))。
これはね、シリーズ、行くよ。寅さん終わり、釣りバカ終わりの松竹は「築地魚河岸三代目」をシリーズありきで製作したのに、予告まで出した二作目の製作は頓挫したまま話にも触れられない。
東映も東宝もあるのはアニメか特撮。大人の客が呼べるシリーズ、どこの大手も人気シリーズはのどから手が出るほど欲しいに決まってるのだ。
まさか。よもや、それを我が大泉先生が手中にしてしまうとは!

いやそりゃー、まだ判らんよ。それこそ「築地魚河岸……」みたいに二作目製作決定!と打ち出して取りやめになるかも(いや一応延期になってるだけらしいが……アレはほぼダメだろうな)。
いやでも多分、それはないと思う。キタと思う。だってシリーズに向けての波を感じる。それは物語性としての作品の出来も、近年稀に見る音楽のカッコ良さも(これは大きい。今風ってんじゃなくて、都会的でグルーヴィーでスマートなの!)、単純に見た目のセンスも(湿度のある色味がヴィヴィッド!)、そしてキャラクターもすべてが申し分なく魅力的だからさ!!
それになんたってタイトルがいい。何かが起こりそうで、そして洒落てて、文学的な香りさえ漂う。こーゆーのがタイトルのセンスがあるというんだろうさ。

いやー、そらー大泉先生に対してはかなり点が甘くなるのはそうなのだが、彼にシリアス一辺倒の役柄が振られると、なんか違うだろう、と思った。「半分の月がのぼる空」とかね。彼には彼にしか出来ない役があるだろう、その時こそ彼が輝く時だろう、と思った。
「アフタースクール」などはそれが大分叶えられたけど、ならばそういう役が上手いこと連続してくるのかといえば、なかなかそういう訳にもいかないからさ……。
それこそ現代における寅さん的な位置の役者が求められるんなら、彼が来るんじゃないのと贔屓目ながら思ったりもしたけれど、それがどんなものなのか想像もつかなかったんだけれど!

いやー、大泉先生、もちろんコミカルで人情味あふれるキャラはこの探偵にピタシだけど、一方でシリアスパートもバランスよく、これだったんだ!と思う。
彼の背の高さが、締まったスタイルの良さに見えるなんて初めてである。あのサウナシーンのためだけにイイ身体になった訳でもあるまいが(爆)、シュッとしたスーツがギャグじゃなく(爆)良く似合っててちょっと、ほう、と思う。
そんな感じで、洒落たバーで依頼を黒電話で受けるのもサマになってるなんて、かなーり意外!

いやそれは勿論、ここが彼のホームグラウンドであるからというのも大きいに違いない。まさかまさかのホームでのこの秀作が、しかもシリーズになるなんてというときめき。
私ゃー北海道をかじっているとはいえ、大都会の札幌は雪祭りか友人を訪ねてしか行ったことがないが、スクリーンに映る札幌がこんなにも魅力的だった記憶は、映画ファン人生を振り返ってもちょっと思いつかない。
どんなに大都会でも地方都市扱いにされて、繁華街でさえ野暮ったく映されるのが常であったこれまでを思うと、感慨無量である。

アジア最北の大歓楽街として紹介される札幌ススキノは、オープニングでいきなり固められた雪の街路での追っかけっこアクションで既に観客の心をつかむ。
今まで、ほこりっぽい東京は歌舞伎町あたりで見てきた凡百のそれと、新鮮さ、カッコ良さで何の劣るところもないのだ。
それは、ホステスやらが喫茶店のお姉ちゃんやらが操る土臭い北海道訛りですら、そうなのだ。その中には歌舞伎町と同じように外国人の姿も違和感なく溶け込んでいるけれど、それもまた、札幌だと雰囲気が違うんだよね。

これがね、大阪とか博多だとか言ったら、この魅力は出なかったと思うんだよなあ。それこそ大阪なんぞは手垢もプライドもつきすぎている。それが魅力ではあるけれど、新しくシリーズを切るこの新鮮さは出ない気がする。
そりゃあ本作だってシリーズとなっていけばそれなりに手垢もプライドもつくだろうけれど、それは全く未知の領域なのだ。こんな楽しみなことがあろうか。

それこそ……これはこのサイトでかなり言ってきたことではあるけど、それこそ大泉先生所属事務所の社長、通称ミスターは、こういうことをこそ目指していたんではなかろーかと思う。
よもやそれが、こんな大手の、しかもシリーズになろうかという大作で、よーちゃんで作られるなんて!!

うう、なんかもう目頭が熱くなってしまう。めんどくさいから先にストーリをばばばと行ってしまおう。
正直これは、私の苦手分野のミステリ。ことにヤクザ組織が複数出てきただけで、オバカな私はお手上げで、実行犯の花岡組?でも黒幕は大阪の銀漢興産?あー、ダメー、て感じなんである。
しかもヒロインに加担するスポーツバーとかも出てきて、これがゲイの男たちと思ったらヒロインに加担するんだから違うの?とか、もうぐるぐる。私、頭悪いの……。

でもさ、あの電話の声が小雪さん、つまりヒロインの沙織であることは、もう声だけで判っちゃうじゃん、と思う。それは前提の上なの?それとも最後までそれはナゾとしてあることなの?というあたりがちょっと気になる。
コンドウキョウコを名乗って、探偵が常駐するバーの黒電話にかけてくる謎の依頼人と、血なまぐさいヤクザの抗争を裏で操ってクイーンとしてのしあがっていく沙織が同一人物であることは、……だって電話の声、全然加工も作りもしてないし、予告編の段階で誰もが小雪さんだって丸判りじゃん。
これが前提なのか前提じゃないのか迷うから、見てて余計にこんがらがるんだよね。だって百戦錬磨(多分)の探偵が、まさか声の聞き分けも出来ないなんてちょっと思いにくいから、すべてを飲み込んで探偵さんはことに当たってるのかな、と……。

冒頭のアクションは、探偵さんが他の依頼でこうむったもんである。依頼人は田口トモロヲ扮するブン屋さん。家庭があるのにゲイの恋人の存在をかぎつけられて探偵さんに泣きついた。
証拠の写真やデータを取り戻すだけで30万は、トモロヲさんは高いと言ったけど、そうかなあ、安いような気がする……。沙織から電話一本で受ける依頼も、危険度に比すると一回10万は安い気がするなあ……まあ探偵の相場は知らんが。

トモロヲさんが家庭持ちでゲイ、つまり両刀使いであることを「いいと思うよ」としれりと言うのが松田龍平ってのが!
だって、だってさ、龍平君のデビュー、「御法度」で彼を押し倒してたのがトモロヲさんなんだよ!!これはかなり遊び心のある台詞のやり取りだと思うなあー。

そうそう、龍平君、龍平君よ!!彼は大泉先生扮する探偵さんの相棒。相棒っていうか、正確なところは運転手、なんだけど、空手の師範代という能力もあって、何度となく探偵さんの危機を救う……んだけど、なんたっていつも駆けつけるのが遅い。
普段は北大で助手をやってて、つまりかなり頭がいいらしいんだけど、いつもいつもぐーたら眠りこけてる。部屋でも、講義中も、馬小屋!でも。

そんな龍平君がたまらなく可愛く、愛しいのだっ。そう、本作での一番のヒロイモノは龍平君だったかもしれないなあ。
いや、確かにその片鱗はあった。それこそつい最近、同じく相棒の片割れを演じた「まほろ駅前多田便利軒」で、そのとぼけた“相棒妙味”とでもいったものを披露していたけれど、その相手が大泉さん、つまり年上となると、こんなにもぽーっと可愛くなるとはッ。
彼はさ、オーラがあるし、勿論主役でバンバンやっていける人なんだけど、これが意外に、こんな風に力の抜けたワキに回るとこんなに魅力的なのね、ということが、「まほろ」から本作に至って判ってきたというのがね!
探偵といえば彼も「悪夢探偵」で、主演だったけど確かにそのとぼけた妙味はそのあたりからじわじわと現われてきた。

本作は、龍平君の真の魅力が出たんじゃないかと言いたくなるほど、そのぼけーっとして大泉先生の横にいる様がチャーミングでさ。
だけどなんたって龍平君だから、作品のかもし出すスタイリッシュさをジャマすることもなくて、なんともいい具合なのよ。
大泉先生が龍平君の天然さをカワイイカワイイと言っていたのも判るし、その素の魅力が見事に出ていたと思う。
だってさ、大泉先生はまあ基本は舞台の人だし、キャラ的にも割と大味の芝居をするじゃない。そのあたり龍平君と真逆なのも、テンポ的に実に可笑しくって良いんだよなあ。
別に龍平君が芝居で絡んでいる訳でもない、留守電メッセージを入れる尺がやたら短いことに大泉先生が突っ込むのでさえ、龍平君のとぼけた味を感じさせるんだもの!

探偵さんが、いつもは冷静なのに、明らかに我を忘れて危険に首を突っ込んでいくのをね、龍平君演じる相棒の高田が、このとぼけた味を維持しながらも「たった一人の友人を失いたくない」とぼそりと言って止めようとするのがね、もうね……。
ううう、松田龍平、こんなに可愛かったのか!やっべー、まじで。大泉先生とのコラボ、予想をはるかに超えて似合いすぎて萌えまくり!!

……ばばばと筋を書いちゃう筈が結局脱線しまくり。えーとどこまで行ったんだっけ。
トモロヲさんに写真とデータを渡したパーティーにいたのが、沙織と彼女のダンナの霧島。演じるのが西田敏行。長年シリーズモノの顔だった彼が、消えゆく役での共演というのは実にグッとくる。まあそれは、本作がホントに首尾よくシリーズとして続いていったら言えることだけど。

でもホント、霧島はあっという間に死んじゃうのに、最後の最後まで、まさにこれぞキーマンとして存在感を発揮し続けるからさ。
もう最初からネタバレだから言っちゃうけど、沙織が愛する霧島の復讐を果たすべく、彼を死なせたすべての関係者を殺戮するため、その最終段階、仕上げのために探偵を巻き込んだんであり、つまり沙織にはある程度枠組みが見えているから、どんどん探偵にあれやれ、これ聞け、誰を呼び出せと言ってくるんだけど、探偵と同じく観客も全く判らない状態でやられるから、結構混乱するんであった。

抑えておかなければいけないのは、放火による雑居ビルの火事で一人の女性が死んでしまったこと。それが霧島の娘だったことが明らかになる。
その娘の名前がコンドウキョウコ。探偵に電話をかけてきた女が名乗った名前。
娘とはいえ、彼女が霧島のことをあしながおじさんというほどに、疎遠であった。学生運動のなれの果てによって、霧島は妻子をおいて姿をくらましていたから。

最初ね、電話をかけてきてるのは、コンドウキョウコの異父妹なのかと思ったんだよね。写真だけで紹介されるには吉高由里子嬢はビッグすぎるんだもん。
でもマジで写真だけだった。うそお(爆)。姉とは仲が悪かったとか、思わせぶりすぎるやんか(爆)。ゲスト出演が豪華すぎるのも、問題あるなあ(爆爆)。

まあそれはおいといて。娘であるコンドウキョウコにあしながおじさんとして店を持たせた霧島だけど、えげつない地上げ攻勢の末に、脅しのはずの放火でコンドウキョウコは命を落としてしまう。
そんなポカをやった“札幌で一番下品なヤクザ組織”の下っ端の青年は、口封じのために殺されてしまった。青年が出入りしていたその組織がカクレミノにしている右翼道場から、青年の父親がある証拠を握って金を融通してもらってホクホクの生活をしている……のもつかの間、ヤクザを脅すなんてのはやはり“身の程知らず”ってことなのだろう。
貧しさから抜け出したかった父親と、何も知らない母親と共に惨殺されてしまうんであった。

……自分で書いててそろそろコンランしている(爆)。このね、実行犯である、カクレミノの右翼道場、札幌で一番下品なヤクザの、一番の実行犯、物語の冒頭に大泉先生を雪野原に埋めた見るからに外道に生まれついて外道に育ち、外道のオーラをまとっている目バリ男が、え、え、えええええーッッ!!マジですか、高嶋政伸!?マジに!?
ラストクレジットで彼の名前を見て、え?何の役?えーと……と顔合わせかるたのように消去法でいって、え、え、まさか……と……。

まさかのまさか!ぜんっぜん、判らなかった!てゆーか、彼、確かに目の下の目バリは印象的だったけど、穏やかなつぶら目の印象だったからさあ……。
てゆーか、この役を彼にキャスティングした根拠ってナニ!?ここまでイッちゃうって、なんで判ったの!?いや、私はドラマとかあんまり見ないから単に彼の実力を判ってなかっただけなのかもしれないけど……ほんとに、ほんっとに、驚いた!おぼっちゃまだと思って見くびってた、ホントに、ゴメン!!!

……どうも脱線しちゃう。もういいや、あらかた書いたし(爆)。
やはり小雪さんのことは書いとかんきゃいけないだろう。男なら誰もが魅了されてしまうほどの美女。勿論その通りだし、彼女自身が持つミステリアスな魅力をミステリの要素にいかんなく発揮して、確かに騙された。
まあ依頼人の声は彼女だろうとは思ったけど、確かに途中までは、彼女はその美貌と色気で皆に好かれていた正義のおっちゃん、霧島を騙した毒女だと思ってた。
そのからくりがどうだったのか、先述したように異父妹が電話の主なのかとかも思ったし、ちょっとコンランしたけど、やっぱり彼女が声の主だと明確にされれば、すべてが納得いっちゃうんである。

小雪さんは、これだけの美貌とこれだけのオーラとこれだけのミステリアスとこれだけの蠱惑を持った人なのに、実は意外にそのすべてが生かされた役柄ってなかったんだなあ、と思う。
いや、すべてとは言わない、一部でさえも、よ。実はそれってこんなにもったいなかったんだね、と。
高級クラブのママとしてセクシーなドレスを身に着けておじさまたちの目を釘付けにする沙織は、まあこう書いちゃえばベタな、なんか青年マンガあたりに出てきそうなキャラとも言えるんだけど、でもそんなキャラをその通りやれる人って、実は意外にいなくてさ、しかも実は実はその奥に更なる秘密を抱えている女なんて、更にいなかったのよね。

でも、そう。それこそマンガ的になら、いるのよ。本作ってさ、誤解を恐れずに言えば、かなりマンガチックだと思う。そもそも主人公の探偵が名前を明かしていないあたりもそうした確信犯的なものを感じるし。
クライマックス、沙織が復讐の総仕上げをする場面、自らの結婚式で新郎を始め、にっくき相手をバンバン殺していって、最後には幸せそうな顔で自らのこめかみにピストルを当てて……なんてさ。
でもね、でも……その美貌、そのオーラ、ミステリアスがすべてガチッとはまった小雪さんが、純白のドレスを返り血で染めながら、殺戮していき、最後は本当に本当に幸せそうな顔でこめかみに発射する場面は、なんかもう、すげー、打たれたなあ……。

ていう前の場面の、大泉先生の、沙織に指示されて遠隔地の小樽に配置され、真相が判った!!となって彼女が何しようとしているのかも判って、必死に必死に、列車の中でスピードあげてくれ!!!て叫んで崩れ落ちるのは、彼のシリアス演技にはいつもハラハラしてしまう向きとしても、結構ちゃんと?グッときてしまったのであった。

えーと、こんなんで、ちゃんと筋、判るかしら。てか、私ちゃんと判ってるかなあ?
とりこぼしをいくつか。情報源となっている地元のショボいヤクザ組織の幹部、松重さんがかなーりお気に入り。
ほぼ意味なく大泉先生とサウナ入ったり(二人とも凄いイイ身体!)、北海道ならコレだろ的お約束チックにジンギスカンつついたり。
その後、ひどく重要なネタをもたらしてくれて、その間ずーっと松重さんらしい仏頂面なのに、何気に親切なのがこれまた彼らしく、この後のシリーズ化を考えると最も楽しみなレギュラーキャラ。
松重さん、好きなんだよなあ。こういう、コワモテなのに実は義理堅くてカワイイっていうの、彼以上にしっくり来る人って思いつかないもん。

探偵がマズいナポリタンとコーヒーの朝食をとる喫茶店の露出度満点なウェイトレス。重傷を負った自宅のベッドにもこの朝食を運んでくれて、つまり彼におおいに気があるという……。
演じる安藤玉恵嬢がフェロモンとコミカルさ満点で、これまた適役。このキャラも実にシリーズっぽいよねー。

正直、大泉先生の怒涛のプロモーション中は彼しか見えてこなかった、つまり監督さんが全然見えなかったからかなーり不安だったんだよね。映画では極妻とか……うーん、観てなかった。それ以外はテレビドラマの演出多数。
私はまったく未見の監督さんだったけど、東映お抱えの人であり、シリーズ発進でここまでの完成度ならば、これは大泉先生ともども行きそう。ああ、ヤバい。なんかとめどなくドキドキしてきたー!!!★★★★★


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