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「ち」


2015年鑑賞作品

チョコリエッタ
2015年 159分 日本 カラー
監督:風間志織 脚本:風間志織 及川章太郎
撮影:石井勲 音楽:鈴木治行
出演:森川葵 菅田将暉 市川実和子 村上淳 須藤温子 岡山天音 三浦透子 渋川清彦 クノ真季子 宮川一朗太 中村敦夫


2015/1/27/火 劇場(新宿武蔵野館)
まず、風間志織監督ぅーっ、一体何年ぶりよ!という衝撃から始まった。10年ぶり、そうだよね、そうだよね!ずっと心のどこかに名前をクリップで止めているような感じで待っている監督さんの一人だった。
「火星のカノン」が大好きで、その次の「せかいのおわり」からふっつりと10年が過ぎていた(私、自分のサイトのリンクが間違ってることに今気づいてショック。10年間タイトルから感想文に飛べない状態だった(汗))。

まあそりゃあ、それまでも寡作中の寡作の監督さんではあったが(だって私、結局この二本しか観てない(爆))、それにしてもこんなにもあいてしまうと、受け止める観客側のリズムがなんだか狂ってしまう……なんていうのはちょっとした言い訳。間違いなく風間監督の空気感を感じながらも、10年の間にすっかりくたびれちまった当方は、何か遠く、懐かしいものを眺めるような感じで観てしまうのであった。
それはそれでいい感触なのかもしれない……判らないけど……。でも正直なところ、せめて数年のスタンスで、風間監督のリズムに自分の中の柔らかな感覚が途切れないままに触れ続けていたかった。そうしたら、この透明な少年少女をもっともっと愛しく感じられたかもしれないのに。

いや、それはちょっと違うかもしれない。私がすこうし壁を感じているのは、本作がフェリーニの「道」をモティーフ……いや違うな、オマージュ、でもないし、うーん、とにかく、かの名作がなければ成立しない、こと。恐らく監督の中でそれこそが大きい要素であったということ、なのかもしれない。
私、「道」観てたっけかなあ、と思い……ホラ、こーゆー名画って、断片的な映像が結構あちこちで流れてたりすると、それを観覚えているのか、自分が観ていた記憶なのか、判らなくなることがあるじゃない、って私だけ?
それにこーゆー名画って、あらゆる人のコメントやら感想やらがダダもれされてるから、余計に自分の印象が薄れてしまっているんである。って、本当に好きな映画だったらそんな筈ないんだけどね。

探ってみたら大学時代に、タダで名画が見られる大好きな視聴覚室、結構な割合で入り浸っていたここでレーザーディスク(これこそが未来の媒体だった筈なのにっ)を借りて見ていたんであった。
序盤タイクツを覚え(爆)、しかし何かムズムズとしたヘンな感覚で胸満たされ、最終的には結構ないい点数をつけている当時の私(恥)。

風間志織監督はこれを、15の頃に観て、映画への道に進んだという……というのが、ラストクレジットもすべて終わって、彼女のメッセージの形で示されるんである。ああやっぱりなあ、と思う。確かに私は「道」を観ていたけれども、この感触だと観ていないのと変わりないよな、と思う。
つまり「道」でまさしく「道」を指し示されるほどの影響を受けた人と、ムズムズ程度のオバカな映画ファンとではあまりに違うのだ。

時代が進むにつれどんどん世界中の映画の数が増えていって、こうした乖離現象はどんどん増えていくような気がする。
それこそちょっと前までは、こうした名画に対する共感の感覚って、当たり前に映画ファン、のみならず一般の人たちに至るまで持っていたと思う。それが薄れていくことは、それだけ映画が(のみならずあらゆる新しい文化芸術が)広く深くなっていっていることを示しているのだろうけれど、誰もが得ていた共感を持ち得なくなった時代は、やっぱり寂しいのかもしれない。

そんなことは本作自体とは何の関係もないんだけれども、久しぶりの風間志織監督作品だったから、なんかいろんなことを言いたくなってしまった(爆)。
しかしそもそも本作は原作がある訳だし……。ヒロインが所属しているのが映研であるから、最重要作品が「道」であったのは間違いないにしても(だってだからこそのこのタイトルだ)、他にも色々な作品がきっと出てきている筈。
でも監督にとってはやっぱり「道」であったし、ジェルソミーナではない、もちろんジュリエッタでもないチョコリエッタは、これから先の道を歩いていかなければいけない。そこに監督さんは、かつて少女の頃の自分を見出したんだろうか……。

誤解を恐れずに言えば、幼い頃に母親が死んで、「死にたい」「殺されたい」果ては死んでしまった愛犬、ジュリエッタを思い、「犬になりたい」と進路希望に書いてしまうチョコリエッタ=千世子のキャラ設定は、少女が夢見る自分、という気がする。
こんなことを言ってしまったら実際に親を亡くした方たちに対して失礼極まりないんだけれど、少女にとって、親が死んで孤独を感じている少女、死にたいと思っている少女、というのはまるで甘美な世界観に他ならないんである。

みなしご、という言葉に無意識に憧れていたのは、私たち世代には絶対的にあったんじゃなかろうかと思われる。孤独という意味さえ知らなかった頃に、孤独の辛ささえ知らずに、それに憧れた時代。
幸いにも私は両親健在で実に恵まれた学生生活を送り、こんな孤独も、死にたいも殺されたいも思ったことなぞない。だからこそ、もう一度言うけど、誤解を恐れずに言えば、夢見てしまう。

千世子をチョコリエッタと呼んでいたのはその、死んでしまった母親だった。「チョコチョコチョコチョコ、チョコリエッタ」そう耳元でささやく、まさにウィスパーボイスが耳をくすぐり、夢の向こうから聞こえてくるみたい。
この母親、市川実和子の柔らかな母親像がずっとずっと、本作を貫く。”高校生時代の8ミリフィルム”の中で当時を演じても全く違和感がない。
まあそりゃあ、彼女が死んでしまったのは千世子がまだ幼い時で、まだまだ若かったにしても、今の市川実和子のお年を考えるとヤハリ、これはなかなかに驚異的なんである。
まあ、今の年代と年の取り方というか、感じは確かに違うけどね……。とにかく市川実和子が、まさしく風間志織の世界の住人、という感じがするんだよなあ。

そして彼女の娘、つまり本作のヒロインであるチョコリエッタ=千世子を演じる森川葵嬢が、特にその近眼っぽいガラス玉のような瞳といい、市川実和子によく似ていて、母と娘というのが、本当にシンクロして感じられるのだ……。
これはかなり大きい、と思う。幼い頃の時間軸からスタートしているとはいえ、母親はどこか幻で、先述したように、どこか少女が夢見るシチュエイション、なのだもの。
しかも市川実和子は全く違和感なく、ジャンスカの女子高生として8ミリフィルムの中に焼き付いている。少女と少女が時空を超えて、確かに母と娘としてそこにいる、だなんて。まさに映画ではないの。

森川葵、確かに聞き覚えのある名前だと思った!!恐らく名を上げたのは「渇き。」あたりなのだろーが、良かった、「スクールガール・コンプレックス」を観ていて!あの作品からはぼこぼこ有力若手女優が輩出していたんだねえ……。
そして「スクールガール……」でまさしく葵嬢はヒロインだった訳なんだけど、本作では物語が始まってほどなくして、自らジャキジャキと髪を切ってしまう、ベリーショート、と解説されているけれど、あれはほとんどボーズという状態。
「スクールガール……」では、それこそその後ブレイクした門脇麦嬢にくわれる形の、大人しめのヒロインだったけれど、本作での、市川実和子母にシンクロする、ジェルソミーナならぬジュリエッタならぬチョコリエッタの、ガラスのようなもろく透明な存在感は、どうだ!それこそが風間志織の世界観なのだけれど!!

どこかに感情を忘れてきたような、つぶやくような、ささやくような、台詞の置き方(言い方とか、話し方とか言うより、そんな感じがする)が、なんともチョコリエッタ、って感じなんである。それは、彼女に相対する正岡正宗先輩=菅田将暉が割と芝居!て感じであるから余計に際立つ。
この先輩もまた、少年が夢見るキャラ設定という感じがする。両親が離婚して祖父に育てられた……大抵、実の親が欠けるというのが、夢見る少年少女のアイデンティティ獲得の手っ取り早い妄想なんである。

この祖父というのが、彼言うところによると相当な人物で、回想で語られる中村敦夫がぶっとびじいちゃんを印象的に演じているが、これが一番、ありそうな理想の妄想という気がしないでもない……。
じいちゃんが残した書斎で、気楽な浪人生活を送っている先輩。壁には「俺は正岡正宗!」との大きな書。ピンナップされた映画の数々。だらだら撮影した映像をパソコンで編集して日がな一日暮らしている。

そこへ、千世子がやってくる。「道」を借りにやってくるんである。部室にあった筈のソフトは、先輩の私物だったと聞いて。
実に映画的な、ガランガランと神社よろしく鳴らす”呼び鈴”、手書きの道案内、建設中みたいな仮の外階段を恐る恐る登っていく。
雑然とした、下足のままの部屋。冷蔵庫の中のビールを飲みながら「道」を観て酔っぱらい、先輩に背負われてバスの最終に突っ走る。フェリーニの映画の中に出てきた、くじらのバスに乗って帰るために。

といった、ステキ妄想がふんだんに現れるのだから、ココはDVDではなくてVHSビデオテープであってほしかった、などと、合間に現れて消えていったLDで観たくせに!な私は思ったりするんである。オフィシャルサイトのストーリー解説では”ビデオテープ”とされているんだよね。きっと実際の原作もそうだったんじゃないかなあ……。

なんだかんだ言って、映画の、いやもっと言ってしまえば映像の基本はあのテープにあると思う。ディスクはあくまで最終保存の記憶媒体であるんであって、せめてVHSというのは、その甘やかな、まあ古くさいかもしれないけど、美学をギリギリとどめていてくれているから。
だって重要なアイテムとして、千世子の母親主演、そして顧問の先生が監督して撮った8ミリフィルムが登場するのだから!

このシチュエイションは、去年の秋ごろに観た、「茜色クラリネット」を思い出すものがある。アレはかなりビミョーだったけど(汗)、親が映研で自主映画を、しかも8ミリで撮ってた、というのは、実際にその経験があった人たち、よりも、それに憧れていて出来なかった人たち、つまり私のよーな映画ファンにとって容易に考え付く設定だと思うんだよなーっ。
だってさ、映研、というのは私ら世代には憧れも含めて欠かせない、これぞ”妄想”サークルのひとつ。いや、フツーにあるんだろうけれど、少なくとも、憧れ続けた私の学生時代、高校にも大学にもなかった!

私にとっては、映研での青春ライフだの、映画を語り合う先輩後輩だの、よもや8ミリで自主映画だなんてありえない、ありえない!まさしく妄想の中の理想、理想の中の妄想の世界、なんだもの!!
それを経ることが出来た人たちが、今の映画界の才能を担っているというのが、その妄想理想を叶えることさえ出来なかったこちとらとしては、恨みがましい目で見るしかないのだっ。

……スミマセン、個人的感情で脱線してしまいました……。えーと、だから、なんだっけ。なんだっけというか(爆)、そもそも本作は、ストーリーテラー的な展開という訳じゃない。やはりこれは少女のリリカルもので、「道」を敬愛してやまない”先輩”と、「どこか遠くに行きたい。山は(母親が死んだところだから)大嫌い。海に行きたい」と、ロードムービーよろしく旅に出るというのが、色々と少女のもどかしいリクツをこねまわした末の、メイン部分なんである。
先輩がおじいちゃんの形見、的に、立派なオートバイを引っ張り出してくるあたりも、実に理想的な少女妄想である。……正直、ラブホに宿泊しても、ベッドをカーテンで二分割して、1ミリも危険がないってあたりは、優しすぎるというか、むしろ少女妄想だってちょこっと物足りないんじゃないかという気もするけど(爆)。

でも、仕方ない。千世子、いや、チョコリエッタはジュリエッタ、ジェルソミーナなのだから。
この絶対的な処女性……と言いかけて、でも、私のうっすらとした記憶の中でも、ジェルソミーナは処女ではなかった筈と思い当たった。だからこそ、私の中の、ムズムズとした感覚が残っていたんであった。

このあまりにも明確な違いをどう考えればいいのだろう。だからこそ正宗先輩は、「自分はザンパノじゃない」と言い、彼女にも「君はジェルソミーナじゃない」と言ったのだろうか。
そしてそれは……「道」から思えば、肯定的な意味なのだろうか、雰囲気としては、哀しげに見えたけれども……。

映画、に限らず、その昔からゲージュツというものに関して、白痴女ってのは一つのジャンル、聖なる、美しき、哀しき、アイテムであった。ジェルソミーナはいわば、その完璧な姿だった。
……私ね、「道」のことを微妙に覚えていなかったのは、どこか記憶から排除していたのかもしれない。だって私、フェミニズム野郎だから(爆)。
いつの頃からか、いや子供の頃からかもしれない、白痴女のもの悲しさにマッチョな同情がらみの愛を寄せる傾向が、キライ、大キライだったのだった。

勿論「道」はそんなことを蹴散らす名作だとは思うけれど、それが悪い方向に影響したいろんなことは、まあやっぱりあると思う。それは過去のいろんなゲージュツ的名作に同じく言えることであり。今は「道」は出来ないんだよ。
いわば、アレこそが、理想の妄想の世界、まさしくそうなのだ。真実の愛というものに憧れていた、監督と同じように15の頃に「道」を観ることが出来ていたら、こんなツマンナイこと考えなかっただろうか。
ジェルソミーナとザンパノを、哀しいけれど確かに愛だと、感じることが出来ていたのだろうか。

チョコリエッタは、とにかくとにかく、死んでしまった愛犬、ジュリエッタのことを考えている。ジュリエッタは自分たちと一緒に旅行に行かずに、留守番していた。その旅行の途上で、母親が死んだ。母親がジュリエッタと名付け、千世子をチョコリエッタと呼んだ。
父親は少なくとも本作の中では、そうした映画的妄想の世界から離れている。この旅行の留守番にジュリエッタの世話を仰せつかり、そのまま10年、家族同様に暮らすことになる、”キリコちゃん”は父親の妹。演じるのは須藤温子……須藤温子!!「なごり雪」以来、何してたの(爆)。いや、「ちゃんこ」があったか(爆爆)。……どうも、大林組のヒロインは、その後の差が大きいんだよなあ……。

もうひとつ、といいつつ、かなり重要な部分。とても気になる部分が、あった。
千世子と先輩は、バイクに乗って海を目指すんだけど、近道だから山を通るとか、かつて行ったことのある小さな商店街だとか、立ち入り禁止の柵をよいこらしょとよけて突破したり、そして先輩が頼りにするスマホの写真地図は、そこここがモザイクになっていて、明確さが薄れていて、迷子になってしまう、のだ。

それはやっぱり……放射能、なんだよね。震災、というより、はっきりと。
千世子が山を嫌っているのは、勿論母親が事故死した場所であるからだけれど、そこで一人取り残された彼女が出会うのは、ガスマスクをした”山の男”。
その前に、千世子が見る、チンドン屋のような一団は、マメ吉田などを配して、(こんなことを言ってはアレだけれど)明らかに、フリークス的な、何かの原因がそうさせた、そんな意図をどうしても感じてしまう。
ジュリエッタをほうふつとさせる人懐こい大型犬がこんな山の中にいるのにも、何か意味を持たせているのか……などと考えるのはうがちすぎなのだろうか。判らない。

商店街はシャッター商店街、というよりも、ハッキリと人が逃げ出した雰囲気がアリアリで、ホームレスというより取り残された2、3人の初老の男たちが、駆け抜ける千世子たちをぼんやりと見やっている。
そこここに貼られ、時には落書きをされている、”安全”を大書した政治家のポスター、そして何より、その後、キリコちゃんの恋人を迎えた時に、千世子がビデオカメラを回しながらこれみよがしにつぶやく「(彼が持参した)このケーキは何ベクレル」という台詞。

正直、ね、この台詞を聞いた時、それまでの描写で何となく判ってはいたけれど、正直、ガッカリした。そりゃ仕方ない、震災後、クリエイターとしては、それは避けては通れない。避けたら逆に不自然だもの。でもだからこそ、それをどう入れ込むかは、凄く注目されるところだと思う。
「これは何ベクレル」はないだろう、と思ってしまった。写真地図がモザイクになってしまう、というのは、凄く社会派な皮肉を感じただけに……。

でも、この作品、作風、世界観の中で、それをすっかりと納得できる形で着地させるのは難しいのかもしれない。でも、だったら、触れないでほしい。
私はちょっと、どころか、過敏になってる。理想妄想の世界なら、それでピュアに完結してほしい。どうしてできないことを、するの。

……ごめんなさい。ただ、過敏になってるだけ。
キヨシローのエンディングテーマを歌う葵嬢、フレンチポップスのように確信犯的に音程がゆらぐのが何とも不思議チャーミング。 ★★★☆☆


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