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「せ」


2022年鑑賞作品

セックス依存症 漫才師の濡れた毎日 (師匠の女将さん いじりいじられ)
2018年 67分 日本 カラー
監督:工藤雅典 脚本:工藤雅典 橘満八
撮影:井上明夫 村石直人 音楽:たつのすけ
出演:並木塔子 水川スミレ 生田みく 安藤ヒロキオ 折笠慎也 小滝正大 飯島大介 酒井あずさ 古本恭一


2022/3/25/金 録画(日本映画専門チャンネル)
芸ごとモノは不思議とピンクと相性がいい気がする。それもさびれかけた、とか落ちぶれかけた、みたいなせつな寂しい芸ごとの世界。ピンク自体が風前の灯火だからだろうかだなんて、なんて失礼な。
私の大好きな「言い出しかねて」の腹話術師なんて、なんてその最たるものだった。ああもう、16年も前の作品になるのかあ。

あの小柄な腹話術師はなぁんとなく、本作で先輩風を吹かす構成作家を演じる小滝正大氏になんか似てる気がする……と思っていたら同じ人だった(爆)。ビックリした!正大じゃなくて正太表記で感想文あげてたから慌ててDVD確認したら、やっぱり同じ。もとにしたデータベースが間違っていたのか(直しました……)。彼だ彼だ!ああびっくり(爆爆)。

小滝氏と共にここ数年のピンク映画によく顔を揃えている安藤ヒロキオ氏が主演で、この名前が不思議で今回ふと調べてみたら、名前の由来は先輩芸人オラキオから。つまり彼は元芸人さんだったと知ってこちらも大いにビックリする。
独特なオーラを放つ監督さんや役者さんの出自をたどると、芸人さんだったりすることが時々あって、安藤氏の孤独で、鋭く怖いようなオーラに、役者として大注目のアンジャッシュの児嶋氏を思ったりする。

安藤氏とかつてトリオで相方であったという野間を演じる折笠慎也氏もまた、近年のピンクを支える男優さんの一人。
私が大して数を観てないせいもあるだろうけれど、まあまあ端正なお顔立ちゆえか(まあまあて(爆))これまではどことなくカルい色男みたいな役柄を観る機会が多かったように思うが、本作での彼は、安藤氏演じる相原のネタを作る才能に嫉妬し、トリオの紅一点で相原の恋人であった那美を奪うことで、彼への意趣返しをしたつもりになっている哀しい自己中男である。

しかしクライマックスで相原もまた野間の喋りの上手さに嫉妬していたことが明らかになるという切なさで、つまりは那美の存在は完全に無意味なんだよね。
その哀しさが彼女自身も、そして彼らにもイマイチ判ってないあたりがまた切ないんだけれども。

だいぶすっ飛ばしてしまった(爆)。本作は、キッシンジャーというトリオの物語と共に、その解散によって芸人を引退しようかどうしようかという状態で清掃のアルバイトをしている相原が出会う美しい未亡人とその義理の娘との、後から思えば何か幽玄な、夢のような悪夢のような世界観とが同時進行している。

相原のアルバイト先に入ってきたこの未亡人、演じる並木塔子氏もまた近年のピンクを支える、しっとりと陰のある存在感の持ち主。
未亡人、というのは、その夫は相原がビックリするぐらいの重鎮芸人だったらしい人物で、そのネタ帳を見せてもらったことから後にちょっとした騒動が起こる、のは、つまらない嫉妬の足の引っ張り合いに過ぎないのだけれど。

この未亡人、和代の義理の娘、つまり、夫の連れ子の静香はセックス依存症という設定である。
これがタイトルに関わって来るのか、主人公の漫才師がセックス依存症なんじゃないじゃん、とまぁピンク(原題は違うが)ではありがちのことではあるがとりあえず心の中でツッコみ、でもこの、セックス依存症、義母の和代が言うところのニンフォマニアである娘が、本作に不思議な色合いを加えるのだ。

そもそも和代の娘と知る前に、相原は静香と出会っていた。相原は彼女がレイプされていると思っていた。
あの状況を見て何故そう思うのかは疑問なぐらい静香ちゃんノリノリで路地裏セックス楽しんでたじゃんと思うが(爆。こーゆーあたりはヤハリ、ピンクで時々、女の視点で見ると首をかしげてしまうあたりでもある)、静香ちゃんを演じる生田みく嬢がひどく童顔で、オッサンにムリヤリ言うこと聞かされているように思ったのか、そのあたりが男の浅はかさだが(爆)。

そう……一体静香ちゃんはいくつの設定なのだろう。中学生にさえ見えるような童顔だが、場末の居酒屋で義母の和代からアルコール抜きでと言われて怒るぐらいなんだから、成人は越えているのだろう。まあ中学生でニンフォマニアだったら困っちゃうが(爆)。
でもそう……この童顔エロで、おおぶりのセーター一枚で生足出したり、股広げてパンツ見せたり(もはやパンチラのレベルではない)、オジサンの股間や乳首をなでたり、手練手管である。

和代は恋仲になった相原に、決して娘と一対一で喋らないで、部屋にも決して入らないで、と懇願する。
つまりこの時点ですっかり相原は和代の家にまで入り込んでいるし、静香は新しいパパが出来たと無邪気に喜んでいるが、そのパパという響きが、別の意味に聞こえるのは当然のことで。

美熟女でありながらどこか世間ずれしていないような、不器用な和代を巧みに表現する並木塔子氏に対し、その小悪魔、ファムファタルを自由奔放に発揮する生田みく嬢である。
本作はもう一人、作劇上はかなり重要キャラであるキッシンジャーの紅一点、那美がいるのだが、この二人の女優に比してちょっと芝居力の問題もあって(爆。スミマセン!!)、この不思議な母子の愛憎に目を奪われちゃうんである。

和代は、相原と心底恋に落ちていたと思う。カリスマ的芸人だった夫とはどういう夫婦関係だったのか……相原との初めてのセックスは、まるで少女のように、「ずっとこんなことなかったから……」と恥じらった。そういう点では、義理とはいえ娘よりもずっと経験値が低く、純情乙女のようだった。
だからこそ義理の娘が手に負えなかったのだろう。セックスがそれ単体として我慢できない体質、というのが、きっとこの純情乙女な気質を持つ和代には理解不能だったのだろう。

哀しいかな、きっとそれは、男の方は理解できちゃうのだ。まさに静香ちゃんは言ったのだ。男のそうした性欲は理解され許されるのに、なぜ女のそれは認められないのか。
彼女の口吻は、女のそれはビョーキ扱いされるということへの不満というか、差別意識への怒りの主張とさえ聞こえた。でもそれを言いながら相原を自室に誘惑して引き入れ、アレをくわえてるんだけどさ。

ちょっとまた、先走ってしまった。そんな展開に至るまでに、相原は構成作家の田所にその才能を惜しまれ、何か書いて持って来いよ、と声をかけられる。
相原が抜けた後の、野間と那美はいいネタに恵まれず、停滞している。野間は相原への嫉妬もあって、那美をレイプまがいに抱く始末である。

田所が相原に声をかけたのは、結局コイツも大した才能がなくて野間と那美にいい台本が書けなかったからであって、原稿料を払えばオッケーとばかりに、相原のネタを自分のものにしようとして彼を怒らせる。
でもそれをたしなめるのが和代で……仕事をくれたじゃないかと。確かに姑息な手段をとった田所だけれど、チャンスをくれたじゃないかと。このあたりはさすが、芸ごと世界に通じている姐さんの貫禄、本作の魅力である、せつな哀しい芸人の世界を真実味を持って感じさせてくれるんである。

だからこそ一方での、ニンフォマニアの静香ちゃんがいざなう、何か異次元ワールドというか、彼女の部屋に入ったら最後、みたいな、神秘的な青い光に満たされた部屋に催眠術のように入っていく、入って行ってしまうあのシーンを頂点にすさまじく対照的で。
静香ちゃんのニンフォマニアが、芸ごと世界のせつな哀しさ、芸人の夫を亡くしてぼんやりとバイトなんぞをしている未亡人のせつな哀しさ、才能とは何ぞや、相方への嫉妬がイコール尊敬と愛情に他ならなかったことに気づけなかった哀しさといった、いわゆるマトモな(爆)ヒューマンドラマとかっきり対照的にぶつかって、なんか……。

一体あの母子は実際に存在したのか、そもそも芸人世界で成功するってこと自体が夢みたいなことだし、理不尽な事態にさんざんさらされるし、その中で、あの妖精のようなエロい少女、その母である乙女のような熟女、実在したのか、なんて。

雨の夜、だった。相原と和代がラブホテルで愛をかわした夜、ザーザー降りで、傘もなくて、相原は和代に自分の上着をかぶせてあげていた。
そこに迎えに出た、生足がエッチくさい静香。和代は娘がノーブラで乳首を立たせているのに気づいてハッとして相原から遠ざけた。もはやすでに、二人が出会っていたことなぞ知る由はなかったけれど、女のカンというか、母親のカンというか、あったのかもしれない。

実際、あれだけ和代から言い含められていたのに、結局相原は静香ちゃんと 寝てしまう。
そりゃまあ、自身の芸人人生のあれこれもあったし、静香ちゃん、亡きお父さんのネタ帳を参考にしていたことを、盗作だと田所に告げ口してから思いもかけぬ展開になったから……。

野間がこの事態を聞きつけて和代を脅してレイプしたことが最大の原因であったが、この時に直面、というか、明らかになったのは、相原も野間に嫉妬していた、お互い嫉妬していた、つまりお互い尊敬しあっていたということを、なぜ一緒にやっていた時に判りあえなかったか、ということなのだ。

その犠牲になって野間に食われた和代、というのは、まあありていに言えば、ピンクのカラミネタと言いたいぐらいかなりムリがあるなという展開で、結局は男の、男同士の夢の決裂というか、判りあえなかった哀しさを描きたいがために、女性キャラはことごとく、同性から見ればそんなんないわ、というところに置かれちゃっているのが哀しいけれども。
和代と静香はとても濃厚に魅力的だし苦悩が描かれもするからいいんだけど、ないなあと思ったのはヤハリ、那美、かなあ。二人の男を天秤にかけるだけの芸への情熱も、そもそもの恋の情熱も、あまり感じられなかったから……。

ラスト、相原はいつもモップをかけていた小さな雑居ビルの屋上にいる。一人、いる。清掃会社の社長が静かに近づいてくる。タバコに火をつけてくれる。
ただ黙って、タバコを吸って、東京の空を見上げるのだ。相原がこの後、どうするのか、どうなるのか、判らない。那美が彼を待ち受けているけれども、何か言いたげに待ち受けているけれども。一瞬立ち止まるけれども、その後、彼女と、あるいは野間と、どうなるかなんて、判らない。
夢のように現れて消えていった和代と静香、やっすい居酒屋で何度も明かされる事実のあれこれ、すべてが愛しい人生の記録。★★★☆☆


ゼニガタ
2018年 111分 日本 カラー
監督:綾部真弥 脚本:永森裕二
撮影:伊藤麻樹 音楽:仙波雄基
出演:大谷亮平 小林且弥 佐津川愛美 田中俊介 玉城裕規 岩谷健司 松浦祐也 八木アリサ えんどぅ 土田拓海 吉原雅斗 安達祐実 升毅 渋川清彦

2022/10/12/水 録画(日本映画専門チャンネル)
ドラマを観る習慣がないせいもあって、名前を聞けば、聞いたことある、と思う大谷亮平氏が、私多分初見なのだわ。と思ったら「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。」に出ていたんだって。覚えてない……。まぁとにかく、情報入れずに観始めて、誰これ?と思ってデータベース探ったぐらいだからさ。
そういう意味では新鮮な気持ちで見られた。大谷氏プラス二人の男優、三人の個性の違うイイ男がメインを張るのが、見ていて楽しい。

主人公の富男を演じる大谷氏は座長にふさわしい落ち着きとお髭の似合うイイ男っぷり、義弟の静香を演じる小林且弥氏は、ああ、彼は本当によく映画で見かける。しかもいい作品に出会っている印象がある。本作がいい作品かどうかは微妙かも知れんが(爆)、ここまでメインに近い彼は初めて見る気がする。
優秀な兄にコンプレックスを持っているんだけれど、そこにはもう一つ、ある事情があって、彼に頭が上がらない、というより従属している状態。しかしめっぽう強くって、妙に愛嬌と色気がある弟君。

そしてこの兄弟の元に雇い入れられる、元ボクサー、唯一勝った試合で相手を死なせてしまったという、八雲を演じる田中俊介氏は、顔と名前が一致した!って感じ。
異色の作品に呼ばれている印象、本作ではイイ男兄弟に入り込む、殺気立ったお顔の青年が、だんだんとチャーミングな魅力を見せてくるのが面白い。

富男と静香の銭形兄弟は、表向きは居酒屋を営んでいるが、その実闇金なんである。つーか、この表向き居酒屋、っつーのはホントの客が入ってくるはずもないぐらいに、つまみはお通しの枝豆だけ、しかも枝豆一皿5万円。どこかギャグみたいな場所なんである。それこそこれ、漫画が原作なんではないかと思ったぐらい。
まず冒頭は、静香がチンピラどもにぼっこぼこにされている場面から始まる。取り立てに来たのにボッコボコ。最後には雇われた元ボクサーの八雲に更にボッコボコにされるから、あららこの取り立て屋さん、弱いわねと思いきや、突然キバをむく。

後々判るが、いくらボッコボコにされようが、彼は痛みを感じないらしいんである。劇中、そこまで明言されてはいなかったと思うが、あまりの不死身っぷりは展開の要所要所でかなりのご都合主義を醸し出し、ないだろ、と思うことが多々。
でもまあ色っぽくてとぼけてて、兄に頭を押さえられて拗ねてる可愛らしさがキュンとくるから許してやろう(爆。つまりこの三人の中で、小林氏に最もヤラれている私なんである……)。

で、このチンピラたちを本丸の銭形居酒屋に連れ込み、金がないなら手持ちの貴金属やらをとりあえず取り上げる。途方もない利子がつく貸した金が返せなければ、そうした代替品、肩代わりする人物、金になる情報、そうしたもので替わりにしてくれるんだから良心的かもしれない。もちろんそれがドラマを産むからなんだけれど。
このワナにかかって、先輩から押し付けられた客に連れてこられたホステス嬢が、客の借金を肩代わりすることプラス、自分のサラ金の借金を返すためにと、銭形から金を借りる。そしてそのループが、銭形兄弟の因縁の相手、ムショから出たてのヤクザ、私の愛する渋川清彦氏演じる磯ヶ谷へとつながってくるんである。

こんな感じで男たちのドラマなんだけれど、そこに入り込んでくる女のドラマ、それに一人立ち向かうのが佐津川愛美嬢。
本当に不思議なんだけれど、彼女はとても可愛らしい、ベビーフェイスと言っていいお顔立ちで小柄だし、なのにいつでも、こんな具合、こんな具合と言っちゃ失礼かもしれんが、愛憎まみれた、セックスとカネの欲に落ちた、底辺であえぐ女を当てられて、それがなぜか似合っちゃう。なんだろうなあ。充分純愛ドラマだって出来る可愛らしさなのに。

愛美嬢演じる珠は、この田舎町のさらに女社会、さりげなく勝ち組に入ることで生き延びるすべを得る、そんなつまらないヒエラルキーに過敏に反応して生きている。この狭いコミュニティでは、女同士で探り合いながら、ひかえめながらも確実に勝ち組に入らなければと、さりげなく、でも確実に見せびらかす高価なアクセサリーをつけたりする。

その中で彼女が慎ましい女子、佐和を陥れたのは彼女自身が正直に生きられない妬みだったのかもしれない。先述のように副業のホステスの客に騙されて借金を負った彼女は、勤め先の工場で盗みを重ね、その罪を佐和に押し付けようとするのだが、見事に返り討ちに遭う。
きっと、バカにしてただけに、いや、うらやんでいただろうだけに、なんでこの女子の闘いから外れていられるのと思っていただけに、この返り討ちこそが彼女にとって、予想外の大きな痛手で、だからここからまさに、転落していくのだった。

珠の管理を任されていたのが、銭形闇金に雇ってくれと志願した八雲。富男はあっさり彼を信頼、いや、信頼ではなかったのか。八雲自身がそれに疑問を持って富男に聞くと、志願してきたのが彼が初めてで、初めての人を雇うと決めていたから、と言ったが、どうだろうね。ちゃんと人を見ていただろう。
静香から言われて、富男を探ろうとしていたのもどうやらお見通しだったと八雲は感づき、そう静香に言い渡し、管理を任された大金をしっかと守り、静香はあっそ、とちょっと鼻白んじゃう。このあたりはコミカルで、二人ともチャーミングで可愛いが、実はさ、このキモとなる部分の処理が、なかなか難しいんだよね。

銭形兄弟の父親が超ド級のカネの亡者で、警察官という隠れ蓑の下で犯罪者の弱みを握って多額の裏金をため込んでいた。でも一方でケチで、その使い道を思いつかないまま死んでしまった。
受け継いだ長男の富男、実に小学生時代から、教師や用務員相手に闇金をはじめ、義母に虐待されていた義弟の静香を、月20万でその暴力の権利を買う、と言って救い出した。

ここまでは美談っつーか、美しき兄弟愛でイイじゃんと思うし、この兄弟愛が、弟の静香には伝わっておらず、金で兄に救われ、従属させられた自分は奴隷だと思っている、というのを、どう回収して感動のラストにするのかなとワクワクしていた。
なのに、信用しているのかいないのかさえ判らないまま、ただただ弟には父親の残した金のことも告げず、その管理を八雲に任せることを表明し、そら弟は激怒するわさ。

一体、富男はどういうつもりだったのかなあ。静香がカネに対して亡き父と似た気質を持っていることを危惧している、というのはまあ判るけど、違う人格なんだし、静香自身も自覚しているところもあるし、そもそもこのキモをまるで話し合わないまま30年もほったらかしっつったら、そらー弟君がスネるのもそうだろ。
まあ確かに、腕っこきの弟君には充分な報酬が支払われ、それを使うことなく、敷き詰めた札束の中で“冬眠”するのが彼の安らぎなんだからいいのかもしれないけど、でもねえ。結局最後まで、その点を兄は弟を信頼しないもんなあ。

感情むき出しの弟、そして雇人の八雲に比して、富男の、何考えてか判らない、クールなカッコよさだけで押してるから、周囲のエモーショナルな登場人物に比して、おいおいおい!とツッコみたくなるのはそうなのかもしれない。

やはり強烈な印象を残すのは、彼女こそがエモーショナル女優、ワレラが佐津川愛美嬢である。彼女が演じる珠の行動原理は、判らなくもないが、という微妙さ。田舎女子のプライドと見栄は、彼女のような見栄タイプと、珠が見下したことで見誤った、堅実タイプとに分かれるだろう。
同じ女としてはこっち側のドラマの方が見たかった気がするが、珠はカネを得るためにどんどん深みにはまって、……最初は女同士のマウント競争レベルの話だったのに、富男に関わって、クソヤクザの磯ヶ谷に関わって、どんどん深みにはまっていく。

こんなこと言っちゃったらミもフタもないんだけれど、この現金主義が、コロナ禍からのほんのここ2、3年で、一気に古臭く映っちゃうんだよね。現金、つまり紙に印刷したもの。火をつければあっという間のものを、後生大事に金庫やら冷蔵庫やらにしまい込んでいる図が、それこそ昭和時代は普通、任侠映画には欠かせない図式、平成になってもVシネマで効果的に使われていた。
でも令和になっちゃったら、もうデジタルだもの。キャッシュレスだもの。ワルモンは数字で金を動かすんだもの。すんごく、懐かしい図式で、今更これやるの、という感はあったかな。

内臓がカネになるっていうのも懐かしいフレーズだったし、それ以上に定番中の定番、いざとなったら身体売れ、っていうのもね。
これは、……まあ正直、このキャラクターはオマケ的というか、あんまり必要なかったような気がするというか、まぁこういう顧客もいるんだねという、農業移住に心折れかけた女子、というので安達祐実っつー、ビッグネームを入れ込んでくるんだけれど、ちょっとこのシークエンスは甘かったかな、という気がする。

芋を育て、芋を売れ、ひたすら、愚直に。それで追いつかなければ身体を売れ、と富男は彼女に訓示するけれど、そこまでの描写にはいかない。
芽がなかなかでない、それを、二人目の雇人、珠の勤めていた工場の同僚、恐らくアスリート契約として働いているとおぼしきナイジェリア人のワダンチがふるさとのジャガイモ農法を伝授したんだから、給料上げてよ!と談判するという、平和的なラストが用意されているんだけれど。

なんかいろいろ大事なところをすっ飛ばしちゃった気がする。えーと、なんだっけ。とにかく樺山のクズさよ。冒頭、八雲を雇って銭形兄弟からの取り立てをチャラにしようとしたチンピラカス男、樺山。
でも、なんか、可哀想なんだよね。結局ただの弱い男なのに、虚勢を張って、磯ヶ谷という伝説のヤクザ男に心酔して、いや、そこに縋りつくことでアイデンティティを保って、上納金を搾り取られているだけなのに、働きが足りない、何度も何十回も、信じようと思ったのに裏切った、と言い渡された樺山は……。

なぁんで、もう。アホとしか言いようがない。珠にケツを叩かれて決死の覚悟で銭形居酒屋に突進した。たまたま八雲がカネの番をしていて、樺山なんて相手にもならなかった筈なのに、八雲がお札で足を滑らせ、樺山の銃弾を受けてしまった。
そもそもこの拳銃を調達したのは珠であり、このゆゆしき事態の後も、珠は手綱を緩めない。カネはいくらあっても足りない。まるでとりつかれたように。いや、復讐だったのか。磯ヶ谷の女に取り込まれた、屈辱を晴らすためだったのか。磯ヶ谷のマンションの冷蔵庫にたんまり積み上げられていた札束と拳銃。それを奪えと、樺山にけしかけたのだった。

もう正直ね、このあたりになってくると、先述したような兄弟間の不条理さというか、お兄ちゃん何も言いなさすぎだろ、演じる大谷氏が一人超然としているのが、周りでバタバタとエモーショナル芝居を頑張っているのがツラいというかさ。
なんで富男は静香と腹を割って話さないの。カネというのは生臭いし、静香の気質を憂慮しているんだろうけれど、だからこそ作品の中で解決しなければそもそもこの設定を提示した意味がないし、ラスト、なんかゆるゆるで、まぁいっか、みたいに先送りされた兄弟の描写には納得いかないんですけど!!

割と楽しかったと、観終わった時には思ったけど、思い返してみると、ツッコミどころ満載だった。役者さんたちがめっちゃシビアな演技で魅せてくれていたから、うっかり見過ごすところだったが……なかなかに、ツッコミどころ満載だったのね、と思う。

でも、そうそう、冒頭で、金がないならアクセサリーでも金歯でも出せ、と富男が樺山たちチンピラを締め上げた時、誰も携帯だけは出さなかった。これまでもみんなそう、携帯だけは何が何でも手放さない、それぐらいなら内臓を売るというヤツもいる、と富男が首をかしげる。
この台詞は後々生きてくる。実際、内臓を売ってつぐなえと言われた樺山、携帯を投げ出して、つまりすべてを捨てて街を出た珠、という図式があるのだから。そこに男の見栄と女の見栄の、捨て時の差が見えてくるのも面白い。★★★☆☆


前科者
2021年 133分 日本 カラー
監督: 岸善幸 脚本:岸善幸
撮影:夏海光造 音楽:
出演: 有村架純 森田剛 磯村勇斗 リリー・フランキー 木村多江 若葉竜也 石橋静河 マキタスポーツ 北村有起哉 宇野祥平

2022/2/24/木 劇場(TOHOシネマズ日本橋)
「二重生活」「あゝ、荒野」が一緒の監督さんだってことが結びついてなかったことが今更ながらあれっと思って。やだやだ。どちらもすんごく印象的な作品だったのに。ことに後者なんてまさにその年の賞レースを席巻していたのになあ。

そういう意味で言えば、あの「あゝ、荒野」の監督さんの新作っていったら、これは観逃すわけにはいかないやつだったのに、危うく観逃すところだった。だってオリンピックでさ(爆)。
あるいはなぁんとなく保護司が若い女の子という設定が、ヘンケンなのは百も承知で、なんか現実的じゃないなぁというのが、予告編に接した時の正直な想いだったからかもしれない。

それは本作に実際に接してもやっぱり正直なところ、変わらなかったかもしれない。コミックス原作ということは知らなかったんだけど、それこそマンガチックな設定だなあとも思っていた。
保護司が登場する映画と言えば近作では「すばらしき世界」が強い印象で思い出され、まさにあの作品も前科を持つ人の更生の物語であったんだよな。
そういう意味では似た、というか共通の設定を持っていたけれど、私たちがなんとなく抱いている保護司のイメージはまさしく「すばらしき世界」のそれであり、そうだそうだ、つい最近でも保護司の出てきた映画があった。「ノイズ」、無残にも世話した前科者に殺されてしまう役だ。そのどちらもリタイア後の年配の男性、例えば前職は教育者だったりする信念を持った人でなければとてもとても務まらないメリットのない仕事。

それがなぜなのか。本作に接してようやく判った。メリットがない筈だ。報酬がないとは知らなかった。国家公務員の仕事だというのも初めて知って驚いたが、報酬がないとは更に驚いた。
完全にボランティア、しかも想像するに、善意が裏切られることも多いだろう仕事。そりゃ相当の信念と、それなりの生活基盤と経済が安定しているベテランでなければ引き受けないだろう。それじゃ保護司の担い手自体がいないんじゃないかと勝手に心配しちゃうが、本当に本作のような、若い保護司さんが存在するんだろうか。

もちろん、人気原作であり、力のある監督さんによって作り上げられているのだから、リアリティがない訳ではないのだけれど……。
有村架純嬢扮する阿川はコンビニ店員で生計を立てながら保護司をしている。月二回の報告を受ける他にも、心を砕いて元受刑者たちの話を聞いている。
面倒を見ているんでもなく、世話をしているんでもない。話を聞いているのだ。実際に仕事を紹介したりとかもあるのかもしれないけれど、あくまで保護司のスタンスは見守ることにあるのだろうと思う。阿川のように若い女の子にそれが務まるのは、彼女自身が壮絶な過去を持っていたことが明らかになるんである。

そんな彼女の最も新しい担当は、殺人を犯した工藤。演じるは森田剛氏。寡黙、というよりは口下手、手先の器用さが彼自身の繊細さを物語るような工藤の無骨さを、森田氏が全身全霊を打ち込んで演じることに心打たれる。
そしてその彼にこれまた全身全霊でぶつかるのが弟役の若葉竜也氏で、よーく考えるとこの兄弟の年の差としてはちょっとヘンかなと思ったりするのだが(爆)。
なんかさ、時々あるんだよね、こういう、似てる訳じゃないんだけれど、運命のぶつかり合いの共演っていうか。哀しすぎる境遇を共にした幼い兄弟が大人になって再会し、何一つ変わってない、哀しいままで、哀しい結末に突入していくってのを、森田氏、若葉氏、全然似てないのにまるで相似形の絶望に向かって突っ走っていくのが、見てられなくて。

若葉氏演じる実が登場するまでは、平穏なんだよね。でも、判っていた。このままじゃ済まない、こんな穏やかで優しい空気のままじゃ済まないことは判っていたから。
阿川が担当する、あるいはかつて担当して今は自立している元受刑者との触れ合いは本当に暖かで、特に、今はもうすっかり更生して、便利屋の社長として生き生きと働いているみどりとの関係性なんて、もう親友だもの。
ザ・ヤンキーなみどりを演じているのが石橋静河嬢だと気づかなくって、絶対に知ってる女優さんなんだけどなあ、このお顔誰だっけ……と思い至らないほど、予想外のキャスティングだった。でもやっぱりさすがなのだ。

阿川が苦悩に直面しているその時点では、阿川の過去をみどりは知らない。いや、結局、彼女には特段打ち明けないままだったと思う。でも判りあうって、信頼してもらえるかどうかって、その人に何があったか知ることじゃ、ないんだよね。
その関係性が阿川とみどりの間には、もともとあったものだから、確認しあうだけで充分だった。でも、それを打ち明けなれば、そこまでしなければ、止められないのが、工藤だったのだろうと思う。

工藤は目の前で母親を、義理の父に殺された。それは、彼からの暴力に耐えかねて、逃げた先での出来事。最初に相談したおまわりさん、その次に相談した福祉課、この時点で連携が上手く行かず、というか怠慢と自己保身によって隠蔽され、避けられたはずの悲劇が起きたのだった。
そして幼い兄弟は施設に送られ、大人しくさせるためのクスリ漬けにされる、というのが、当時はさして珍しくなかったのだと、ボケたフリした老医師がしれッと語る。その上でのヤク中の弟との再会だった。髪を銀色に染め、一見そこらにいるオタク青年のように見える風貌、でもぶるぶる震えて、明らかにおかしかった。

実を演じる若葉君が本当に素晴らしく、恐ろしく、もちろんクスリで判断力を失っているという前提はあるものの、最初から彼は現実社会に受け入れられていないという絶望が体中から立ち昇ってる。
頼ることのできる最後の存在であったお兄ちゃんもいなくなって、もう、自分をこの状況に貶めたにっくき奴らを殺すしかないと思い詰めて、その最初のおまわりさんを襲って拳銃を奪い、重傷を負わせた。この時、そもそもの元凶であったおまわりさんを殺してしまっていたら、そのまますんなり捕まっていたら、実は最後の最後、追い詰められて死なずに済んだのかもしれない。

いや、こんな言い方は良くない。タラレバはそもそも言うべきじゃないけれど、まるでこれじゃ、最小の復讐にとどめて、更生できればいいねと言っているようなものではないか。

「すばらしき世界」でもそうだったけれど、難しいんだよね。情状酌量とか、これは殺しても仕方なかったとか、それだけの悪人だったとか、それはすべて、本当に一面的な見方だ。
事情というのは、あくまでその人個人の一面的なものに過ぎない。それが、工藤兄弟のように、どう見ても同情的にしかとらえられない事情でも、彼らをこんな状況に貶めた大人たちがどんなに許せないと思っても、それはあくまで、彼らの目から見たそれぞれであり、他の視点から見た時、この兄弟の事情ではない角度から見た時、それは全く違った事情になる筈なのだ。

本作が時折危ういと思うのは、これは……言いたくないけどこれぞ悪い意味でのマンガチックな部分であって、工藤兄弟を追い詰めた、社会的外ヅラは偽善の仮面をかぶった大人たち、という判りやすいズルい大人の図式、なんだけれど、先述のように、決してそんな単純なことじゃないっていうもやもやを感じてしまう部分なんだよね
。本作がそういったもやもやを、いわばエンタメとしてぶっ飛ばし、感動巨編として強引に持って行ったのなら、いや、それもどうなのか判らないけれど……。

木村多江扮する弁護士さん、そして彼女が弁護した、工藤兄弟の母親を殺した義理の父、演じるのがリリー・フランキー氏だというのが、うわぁ、「ぐるりのこと。」の二人だとか思って、ざわざわしちゃう。まあそれは全く関係ないけど、でも裁判とか、弁護士とか、この二人とそれがリンクしちゃって、キャー!!と思っちゃう。全然違うよ。だってここでは、木村氏はクールな弁護士、リリー氏は、彼女が弁護したDVの果てに殺人を犯した受刑者。
弁護士という職業を、正義の味方と言ったり、逆に、悪魔の手先と言ったりする。それは、客観的、あるいはその時の世情的にみて、正しい、弱い、と思える人たちも、悪い、ずるがしこいと思える人たちも、その単純につけられたイメージが正しいのかというところからフラットに見る、そう言われればそれこそが正しい、正しい職業、でもこんな難しい職務はない。それこそ、保護司よりずっとずっと難しいかもしれない。

工藤兄弟の義父の弁護をしたことで、実の殺人リストに入っていた宮澤弁護士を、最後の最後に自死してしまった弟の敵討ちをと思い詰めて、工藤はなまくらなハサミを手にぶるぶると待ち構えた。
それを、阿川の幼なじみの刑事、淡い恋の相手で、不審者から彼女をかばって死んでしまったのが彼の父親、という、複雑すぎる幼なじみからの情報で、なんとか押しとどめた。

工藤はあくまで、弟の想いを遂げてあげなければ浮かばれないと思ったに過ぎない、よね……??そう思いたいけど、工藤がどこまで、弟と同様の恨みを抱えていたか判らないから……。
そりゃあ彼らからすれば、どう考えたって許せない存在の義父を弁護した弁護士なんて、殺して当然な存在であるだろう。でも……工藤は弟の復讐劇に接して驚いたぐらいに、彼自身は恨みの感情がなかったんじゃないかとしか思われないのだ。

その差はどこにあるんだろう。やはり、最後の最後、一人ぼっちになってしまった心細さが、その原因、元凶、仇を探し求めたら当然の結果であっただろう。
でも工藤は、違ったよね。弟の想いを遂げるために、阿川に止められて未遂に終わって良かったけれど、最後の標的を、殺す気はないさね、あんななまくらはさみで殺せるわけないから、可哀想な可哀想な弟の想いに突き動かされたということなのだろうと思うさ。

ならば、ならば工藤は、工藤の想いは、どこで全うされたのだろう??凄く凄く重く重要な作品だと思うし、今の日本社会に一石どころじゃなく投じる作品だと思う。でも……。
こういう社会派作品は本当に難しいと思うんだけれど、問題提起ならいくらだってできる、その先の解決策が示せてるかどうかっていうことまで求められると、難しいよね。
つまりは、こういう問題提起の作品は、この文章中にも触れた近作にもなされていたし、本作は、まさに保護司と元受刑者の問題をストレートに取り上げているのなら、という、期待と責任が生じてしまうからさ……。★★★☆☆


戦争を知らない子供たち
1973年 89分 日本 カラー
監督:松本正志 脚本:大和屋竺 藤田敏八 古俣則男 松本正志
撮影:福沢康道 音楽:木田高介 西岡たかし 杉田二郎
出演: 島村美輝 加藤小夜子 酒井和歌子 原保美 若松和子 大槻純子 沢井正延 河村引二 杉田俊也 加地健太郎 森幹太 池田勝 佐藤明彦 寄山弘 水城リカ 中島純一 斉藤宜丈 吉田まゆみ 寺島信子 三上左京 三重街恒二 福崎和宏 小原秀明 チューリップ

2022/9/18/日 録画(日本映画専門チャンネル)
有名なこの曲が、映画になっているとは知らなかった。私が産まれた次の年の作品。もはや今は、私は当然だけれど、大半の人たちが戦争を知らない日本人たちになってしまった。
私の親世代だって、ほんの子供か、物心もつかないような年頃の頃。父親は昭和15年、母親は20年の生まれなので、父親はよく、自分は戦前生まれなんだと、妙に誇らしげに言っていたような記憶がある。母親だって20年の1月生まれなんだから、戦前なんだけどなあ。

本作の主人公、一郎の父親はまさに戦争を知っている親である。一郎が些細なことでしょっぴかれた先で、担当した警察官が一郎の父親が軍隊時代の上官だったことで、一郎そっちのけで話に花が咲いてしまう。戦争なんて忌まわしきものでしかない筈なのに、彼らは妙に楽し気に、誇らしげに盛り上がるんである。

そう、誇らしげ、なのだよね。一郎の父親は決して厳しい人物じゃない。現代に生きる若い世代の一郎に理解がある。
一郎はこの時、友達のあおりをくらって停学処分になっているんだけれど、部屋に引きこもる一郎に母親は心配しきりなのを、父親は「そっとしといてやんなさい。いつまでも子供じゃないさ」と、一郎を一人前扱いして制してくれるし。

でも一郎は、物わかりのいい、ハヤリの歌(タイトルである「戦争を知らない子供たち」だ!)も器用に歌いこなす父親に、「上手いなあ……上手すぎるんだよな」と聞こえるか聞こえないかの声でつぶやく。
戦争を知っていて、その経験の上で人間形成がなされ、自分の意見をはっきりと持ち他人の意見も尊重する、“上手すぎる”出来すぎた父親。戦争を知らなければイチ人間として成長も認められないのか。

しかも一郎たちの前の世代には学生運動もあった。まさに直前の1972年の連合赤軍の事件をピークに急速に衰退していった。
取り残された世代だったのだ、彼らは。戦争にも取り残され、学生運動にも取り残され、何に情熱を傾ければいいのか。
いやそもそも、戦争に、学生運動(それも、リンチ殺人にまで発展した)に情熱を傾けることが良いこととも思われないのに、学校内で恋愛映画の真似事でキスをしているのを見とがめられただけで、停学処分になってしまうような、バカバカしい教育的指導に従う青春って、なんなのか。

キスをしていたのは、一郎の友達の博と、いかにもはすっぱな風貌と言葉遣いの麗子である。麗子はこの処分を不服として、彼らの先輩世代が謳歌していた(という言い方はヘンかもしれないが、彼らにとってはどこか憧憬があったんじゃないかと想像しちゃう)デモ、立てこもりを決行する。でもほんの数人しか集まらないし、屋上からトラメガで叫ぶ声明もあまりにもお粗末。
いやそれ以前にもはやそうした熱い時代は、身内でのリンチ殺人という粛清に向かったあの事件から急速に冷え込んだ矢先で、だから彼らの真似っこは、あまりにも子供じみているのだ。若い女教師、二条先生から、もっと人間的な要求がある筈だと突っ込まれると、とたんに語彙力を失ってしまい、ふざけんなコラァ!と先生をひん剥き、ホラ!男の子たち!!とけしかける始末。

でも、男の子たち、つまり一郎と博は何にもできない……。そりゃそうだ、彼らはチェリーボーイだもの。そもそも博は麗子と恋人でもなんでもなくて、恋愛映画の真似事をしてキスをしただけで、停学になったことよりも、その刺激的な経験に男子二人はひゃっほーい!なのであった。

この土地に、自衛隊移駐の計画が持ち上がってて、その敷地に入っただけで、てゆーか、その周辺をこんな話題で盛り上がって走り回っただけで、警察に目を付けられ、しょっ引かれちゃう。
なぜ走っていたんだ、という、驚きの詰問でしょっ引かれるんである。走るのに理由がいるだなんて、民主主義の国とは思えない……てゆーか、怖すぎる!!いつの時代も、現代でだって、この恐ろしい理不尽さは大なり小なり存在し、訳の判らないまま巻き込まれるのは大抵、その時代の若者なのだ。

彼らのすぐ上の先輩は、学生運動の余韻を引きずっているのか、自衛隊移駐の反対運動にのめり込んでいる。迷い込んだ一郎と博に、その時は学校のOBとして親し気に接してくれるが(二条先生をエロな目線で見てたこととかね)、次に一郎がその時の親しみを頼りに会いに行くと、けんもほろろに追い返されるんである。
これは、なんだろうなあ。この先輩が一人で相対していた時には、後輩に対して先輩ヅラ出来ていたけれど、仲間がいるところでは出来なかった、ということなのかなあ。

というか、大事なところをずっぱりすっ飛ばしちゃったわ。一郎、博、麗子は三人して家出して、旅芸人一座に転がり込むのだ。
どこがどうしてそんな展開になるのか、なんかいきなりチューリップの「どこまでも どこまでも」をバックに旅行きになり、行き当たりばったりどころか何にも考えずに雪原の中を、時にトラックおっちゃんに麗子のチューを交通費として差し出しながら、無邪気に雪の中を転げまわったりして。

でもすっかりお金が無くなった先のラーメン屋で、白塗りの女の子を見かけて、その一座に転がり込むんである。その女の子、加代子は最初から一郎にロックオンなのだけれど、彼は気づいてはいるようだけれど、しばらくはどうしようもできない。
そもそもこの旅行きに、博と麗子の邪魔になっているんじゃないかと気にしていて、最初こそはキスごっこから始まった二人が急速に、セックスもしちゃうし、愛してるよと言い合うし、それでなくても戦争世代からもデモ世代からも取り残されて、何故か停学処分になって今ポツンと友人の恋愛沙汰を見守ってギターなんか弾いてる一郎なのだ。

考え直してみれば、重要なことをすっ飛ばしてたわ。あの虚無虚無のデモと立てこもりが、学校中から無視されて、心配した二条先生が、私を人質にして本当の訴えを起こしなさいと乗り込んできても、そんな訴えなんてない思い付きの浅はかさだから、もううやむや、どころか、一郎、博、麗子以外の、なんとなくつきあっていた、友達という名の友達じゃなかったのねというメンメンはあっさりと去っていってしまう。
そして学校側の差し向けだったのか、謎の覆面軍団に二条先生は連れ去られてしまい、傷だらけの三人はただ茫然と取り残されるばかり。

旅芸人一座に転がり込んでからの展開はかなり好き。日本版フェリーニと思っちゃう。小さな小さなコミュニティの中だけのスター、なわばりの中の仁義、二郎たちのような若者が飛び込んできても来るもの拒まずの柔軟さは、逆にごちゃまぜのいい加減さ。結局は一人一人が、芸人だから、自分至上主義だから、その中で生きていかなきゃいけない厳しさである。

新入りの麗子が座長に色目を使っていると、古株のストリップダンサーがキャットファイトを仕掛けるなんていうのはお約束のようだけれど、座長の第一愛人、というプライドを脅かす存在を許すわけにはいかない、生き延びなきゃいけないから、仲良しこよしではいられない、危険な存在は疑惑がなくてもとっとと排除しなければいけないのだ。
麗子は身に覚えがないけれど、まっすぐ応戦しちゃう。彼女は、自分の若さや美しさがこのオバサンを怒らせているんだと、思っているんだろう。だから誇りをもって、対決しているんだろう。それもある、でも、違うんだよ。ある意味では確かに、“戦争を知らない子供たち”だ。そんな戦いは知らなくてもいいんだけれども。

博が、去った。ワガママ勝手な麗子に疲れ切ったのか、それは判りやすい理由だけれど、その後一郎と再会するのがフツーにあっさり教室で、っていうのが、童顔で御しやすそうな博が、案外真面目に、いやしたたかに、自分の人生の先行きを考えたのかなあと思う。
なぜ博を止めなかったんだと麗子からひどく当たられて、一郎はなんかうっかり博の代理になりそうになるけれど、不思議とそうはならない。麗子はストリッパーとして新たな道を見出し、一郎は一座の娘役、最初から一郎にロックオンしていた加代子と一座を飛び出すんである。

またしても、網走番外地かと思うような猛吹雪の道行き。この加代子はなかなかのファムファタル。可憐な娘役、白塗りでもすっぴんでも童女のような可憐さなのに、ストリップもやれます、とかいきなり言い出して、一郎も、観客もビックリさせちゃう。
彼女との逃避行もいきなりな印象だったが、基本一郎は、友達にせよその彼女にせよ、流されるままなヤツであって、加代子だってさ、非情にも前述のパイセン団の元に、手土産、つまり慰み者として置き去りにして、彼はひとり、日常に帰っちゃう、んだよ!!

なんだコイツ、とそりゃ思った。でもこの先に、クライマックス、本作のメイン中のメインが用意されていた。
戦争中に置き去りにされた米軍の不発弾が校庭から発見された。一郎が大人しく学校に帰ってきて、誓約書もなんでも出しますよ、と職員室で首を垂れていた。そこに駆け込んできた現場責任者、校内大パニック、すぐに避難せよという命令をよそに、一郎はとりつかれたように、不発弾に向かって歩んでいく。

成長した青年のすんなり長い腕に、すっぽりと抱え込まれるほどに大きな不発弾。すっかり大パニックになる。てゆーか、これは、まさに現代に通じる、現代でもそのものの、ワイドショーの図式。
父親が呼ばれる。説得できる自信はないけれど、息子を信じています、と、マスコミへの対応百点満点の一郎の父親。そんな姿を知ってか知らずかの一郎は、……知っていたらマジギレしたか、虚無感に襲われたか、とにかく、やはりやはり、一郎とその父親は、戦争を知ってるか知らないか、学生運動も含めて、決定的に、境界線が、溝が、深く深くうがたれているのだ。

一郎の抵抗は、あまりにも子供っぽいそれだったのかもしれない。大きな大きな不発弾を抱えている図式そのものが、お気に入りの抱き枕を抱えているように見えちゃう。
こんな危険なものにでも、とにかく何かにしがみついて、何を訴えたいのかも判らずに、自分でも判らない自分を、誰か説明してよ、判ってよ、もっと言ったら、作り上げてよ!!とまで言っているように見える一郎が、辛い、キツい。

今はね、今だっておんなじだと思うんだけれど、SNSに象徴される、自分を定義できてると錯覚できるツールが満載の世界になってしまってるからさ。
本当はそうじゃない、私はそうじゃないと思ってる。SNSがアイデンティティだと言い切れる人は、真の勇者だよ。私はブログどまりだからSNSを使っているとは言えないんだけれど、ブログですら、本音百パーセントじゃないもん(爆。この感想文サイトは全部本音ですから!!)。だって、やっぱ、親とか心配するからさ(爆爆)。

で、またしても脱線したけど(爆)。この、不発弾を抱えて、マスコミにさらされて、っていうシークエンス、なんかね、白昼夢みたいな感覚があって。そもそも本作自体が、全編一郎君が見ている夢みたいに思っちゃうところもあるんだよなあ。
友達の博と色っぽい麗子の放課後のキス、それを教師に見とがめられちゃう、その場面を隠すために呼ばれたのか、ギターの弾き語りをしていた一郎もしょっ引かれる。自衛隊移駐という社会問題、かつての戦争をプライドにしている父親世代、そんな時代的価値観から常に切り離されている旅芸人一座の異空間。

すべてにおいてイリュージョン的感覚がちりばめられていた中での、最終的クライマックス。大きな不発弾は、爆発することはなかった、と、言っていいのだろうか。
何かね、ふわりふわりとした、その後をぼんやりと示唆する場面、それを信じていいのかしらんと思ったり(爆)。本作は戦争映画として提示されていたから、余計にさあ……。★★★☆☆


ぜんぶ、ボクのせい
2022年 121分 日本 カラー
監督:松本優作 脚本:松本優作
撮影:今井孝博 音楽:田井モトヨシ
出演: 白鳥晴都 川島鈴遥 松本まりか 若葉竜也 仲野太賀 片岡礼子 木竜麻生 駿河太郎 オダギリジョー

2022/8/31/水 劇場(新宿武蔵野館)
タイトルだけで胸がぎゅっと痛くなる。ぜんぶ、ボクのせい、いや、その続きの声が聞こえてきそうだ。ぜんぶ、ボクのせいなの?あるいは、ぜんぶ、ボクのせいだって言いたいんでしょ、と。
冒頭にまず示され、ラストはここに帰っていくのかと判ってしまう、だからこそ哀しい結末だということも同時に判ってしまうこの言葉は、するどい目をした少年、優太の、泥だらけになった顔の中のその眼光きらめく固い表情で放たれると、ああ、どちらの意味合いを持って彼は言ったのだろう。

優太は母親から捨てられた。施設で育ってもう10年は経っただろうか。中学生の彼はもはや重鎮だ。「親が迎えに来るケースは少ない」と職員が、その稀なケースである女の子の親に言うように、優太のみならずここで暮らす子供たちのほとんどが、このまま、親が迎えに来ないまま、中学生になり、高校生になり、親に育てられないまま自立を強いられ、出ていくのだろう。
“母親から捨てられた”という表現をせざるを得ないのが悔しくて仕方ない。“父親から捨てられた”というケースはなかなか聞かない。赤ちゃんを産むことが出来るのは女しかおらず、その時点で男=父親はどんな理由もつけてその責任を放棄することがいくらでも可能だからだ。

正直、この図式は飽き飽きするほど見て来たし、後に登場する優太の母親はその飽き飽きするほど見てきた、ザ・クソな母親の定型、そのまんまプラモデルにでもなりそうなぐらい既視感のあるキャラクターだったので、ちょっと、どうなのかなあと思ったりもした。恋愛体質、男に依存して常にセックス、その男から金を持っていかれちゃうから子供を養育するような生活能力がない、みたいな。
演じる松本まりか嬢の特徴のあるアニメっぽい声といい、「優太のことを忘れたことはなかったよ」という涙ながらの空々しい台詞といい、そう……松本まりか嬢をキャスティングした時点で、むしろこのステロタイプを確信犯的に設定したんじゃないのかと思うぐらい。

つまり、母親がどういうタイプのろくでなしかどうかなんて、まあ言ってみればどうでもいいのだ。オダジョー演じる坂本の母親のように暴力をふるうのでも、口先では甘いこと言って結局は子供より男(というか自分)をとる優太の母親でも、クソであることには違わないのだから。

……フェミニズム野郎としてはなんとなく口元がムズムズするけれども、そう、問題は母親のクソ種類のことではなくって、その子供が、親から捨てられ、信頼する大人も、同世代の友達もいない、その子供が、どうやって生きていくべきか、いや、……大人になるために、どうやって成長していくべきか、なんである。
なんとなくそんな風に書いてみて、そういうことだったのかも、と思ったりする。施設の中で育ち、なぜ自分は他の同級生たちのような家族を持たないのかという疑問への答えが出ず、その答えをひとえに、迎えに来ない母親、ろくに育ててもらってないのに理不尽に思慕ばかりが募る母親にしか解けないと思い込み、その思い込みを施設の職員も解くことができない。てか、迎えに来れない親のことを期待させない方がいい、という対症療法にとどまっている。
それを優太は突破する。だってここを突破できなければ、もう中学生にもなる優太は、お母さんがいつか迎えに来ると思い続けている5歳かそこらの子供から抜け出せないのだ。

そういう意味では母親がステロタイプなのは、正解だったのかもと思う。本作のメインテーマは母親とのかかわりではなく、見知らぬ大人とのそれであるのだから。優太は迎えに来た施設の職員から逃げ出した。だって母親が連絡したんだから。母親は二度までも自分を捨てたのだから。
逃げて逃げて、とあるホームレスの男、坂本(オダギリジョー)に拾われる。解説にあったから坂本、と書くけれど、劇中、特に名前を呼ばれることもなく(クズ鉄屋あたりからは呼ばれてたかなぁ)、優太は彼をおっちゃん、と呼ぶ。

施設育ちという共通点が明かされるのは二人の信頼関係が築かれてからだから、最初からなぁなぁな訳じゃなかった。坂本は名古屋に向かう途中のこの地でおんぼろ軽トラが壊れ、車を直す金稼ぎに、ケチな自転車泥棒やら当たり屋やら、不法廃棄物をクズ鉄屋に持ち込んだりして口を糊している。
優太を拾ったのは、風俗嬢に払う2万円のカネが目当てだった、というのは確かにそうかもしれないんだけれど、でもそれだけだったら、それこそ強奪して、ぼこぼこにして、蹴りだして終わりだろう。この地にたむろしているケチな不良男子たちのように。コイツらが決定的に悲しい結末をブチ込むんだから。

……ちょっと先走ったけれども。オダジョー演じるおっちゃんと優太が妙にウマがあうのが、冒頭に示された場面にラスト向かっていくのが判っているから切ない思いを抱えながら見守っているんだけれど、疑似親子のような、疑似兄弟のような、つかの間の幸福感なのだ。
おっちゃんが優太を巻き込む詐欺やコソ泥は、そりゃ決して褒められたもんじゃない。教育上良くない、なんて言葉さえ吹っ飛ばされるほどの、ただ良くない所業である。

でも、生きていくため。そして、まるで石川五右衛門かルパン三世かのように、貧乏人からとっても仕方ねえだろ、金持ちからとりゃいいんだよ、という義賊スタイルである。
もちろんそれだって許されるはずはないのだが、この場合単純に罪ということじゃなくって、これは当然……親に捨てられた施設育ち同士の共有する思いだ。自分が恵まれていることに、気づいている人、いない人……。それを貧乏と富裕という分け方は確かに単純で、この場合は判りやすいけれど、少し引っ掛かる部分もあるというか。

それは、もう一人のメインキャスト、おっちゃんの友達である女子高生、詩織である。彼女はザ・恵まれた家庭環境。いや……取り立ててそういう訳じゃなくて、普通の家庭と言った方がいいか。
でも食事シーンの感じとか、キッチンや食卓の感じとか、妙にセレブ感があって、父親が娘二人(お姉ちゃんがいるのね)に訓示する感じ、どうやら医療関係でお姉ちゃんはそれを継いでる感じとか。

なんつーかこれまた……既視感たっぷり、なのよね。恵まれた家庭環境といえばお医者さん、お姉ちゃん優秀、妹は苦悩を抱えてて、それが幼い頃亡くなった母親への思いがあるからとか。病気で死んだと言われてたけど、本当にそうなのか、とか。
詩織はそんなもやもやをかかえて、エンコウとかしちゃったり、先述した不良男子たちと遊んだりしてた訳なんだけど、彼女がそこまで至っちゃうまでの苦悩としては判りにくかった、というか、共感できなかった、というか……。
母親は病気で死んだ、こんな説明で終わることある?何の病気だったのか、癌なのか白血病なのか、病気で死んだ、なんてもやっとした言い方はしないよねぇ。

まぁだからこそ、詩織が不信を抱いたのかもしれないけど、それならそれで、そうだと表明すべきだし、お姉ちゃんもいるんだしなあ。
父親の厳しさも中途半端で、門限をLINEで送ってくるだけ。優秀なお姉ちゃんに比して、お前にも期待してるんだからな、というシーンにとどまるだけ。詩織がエンコウまでしちゃうほどのやさぐれる感情に至るのがいまいちピンとこないのがツラい。
ただ一人、自分と話が出来る相手としての坂本おっちゃん、というに至るには、なんのきっかけがあったのかも語られないし、普通の(普通だよな……)の女子高生が出会って、信頼するに至るには、正直疑問だらけなんだよなぁ。

そんな説明は確かにヤボかもしれん。お互いが欠けた部分を補うような関係性だし、年も性別も違う三人の融和関係は何にも違和感はない、そんなことをつつくべきではないのかもしれないんだけれど……。
でも、こと男子二人、おっちゃんと優太に関してはその点、きっちり語られていたから余計に気になっちゃう。女子の事情だけふわっとすんのかい、とかさ。

事態が急転した。おっちゃんの軽トラに放火された。おっちゃんは焼死してしまった。冒頭とラストに示された、タイトルの台詞を言う優太、君がやったんだね、と刑事からの詰問。誰一人信頼できる人がいなかった優太が、母親から二度目に捨てられ出会った、初めて信頼できる大人だった。
その人が死んだ。その放火を、やったのか、ではなく、やったんだろ、と言われた。この絶望はない。事情を聞くスタンスさえない。お前がやったのか、じゃなく、お前がやったんだな、である。
そーですよ、なにもかもボクのせいですよね。そう言えば満足ですか!……優太はそう言いたかったんじゃないかと、今、最初からずっとなぞってなぞって……そこまでの強い反発だったんじゃないかって、きっとそうだって、思えてきた。

だってさ、この時詩織が優太と一緒にいたし、優太が犯人じゃないことぐらい、簡単に判る筈。ホームレスのおっちゃんが周りから疎まれていたのも周知の事実で、おっちゃんと一緒にいた優太が単純に疑われて警察に引っ張られるなんて、そもそもそんな状況の優太をその警察は何故保護しなかったのか、こともあろうに容疑者として引っ立てるとは!
……ちょっと、作劇としてはこのあたり、さすがに強引すぎる印象があるんだけど……。だって、優太を迎えに来た施設の職員がいる訳で、そっから逃げられたということは捜索願いとか絶対ある筈なのに、そういう触れられ方、皆無だよね。てか、それ以降、施設の職員、まったく関与せずというのもおかしいしさ。

まぁその……本当に本作はね、社会派作品で、意欲作ではあると思うんだけど、母親だけが悪役、その母親のステロタイプな造形、お母さんのことしか思慕していない、彩り加える女子高生のキャラ設定のあいまいさ、警察捜査のゆるさ、いろいろ気になっちゃって。それってそもそもの基本の土台だから。今は刻々と事情も変化して、そういうことを反映させるのも大変なんだろうとは思うけれど……。
スリップ姿でけだるく登場、ヒモ男とセックス三昧、メシはインスタント麺か菓子パン、という依存女子は見飽きたよ。まあそりゃ、そんな女子はたくさんいるんだろうけど、なんかこんなん見せられ続けると、子供を捨てる女はこう、イコール、女はこう!みたいに定義されてる気がして、すんごい、イヤだわ。★★★☆☆


千夜、一夜
2022年 126分 日本 カラー
監督:久保田直 脚本:青木研次
撮影:山崎裕 音楽:清水靖晃
出演:田中裕子 尾野真千子 安藤政信 白石加代子 長内美那子 田島令子 諏訪太朗 竹本純平 竜のり子 阿部進之介 山中崇 田中要次 平泉成 小倉久寛 ダンカン 山村真也 宮田佳典 瑛蓮 續木淳平 齋藤一三代 虎太郎 元水颯香 林侑加 石井亮次 針原武司 山縣芙美子 武田匠 河井樹 小野瀬悠太 吉村優希 磯邊ここみ

2022/10/19/水 劇場(テアトル新宿)
鑑賞後、改めて監督の来歴を見て、初のフィクション、初の長編劇場デビュー作であった「家路」を観ていたことを知った。
いや、そのタイトルで即座に想い出したわけじゃないんだけれど(割とありがちなタイトルだし)、なんとなく自分の感想文を読み返してぶわーっと、蘇ってきた。当時はまだ父が存命の、震災後まだ日の浅い福島に、入院中の父の顔を見に、週に一度帰っている時期だったから、とても印象に残っていた。

そして本作に際して、観ている間に思っていた、拉致という現実問題がなければ決して産み出されなかったであろうなということ。
そんな本作をこの監督さんが撮ったことに、あの「家路」を撮った、そもそもはドキュメンタリー作家である監督さんの、今この時ぞと思って挑んだ意志がずばりと心に刺さってきた。

あの「家路」がそうであったように、ドキュメンタリーという形だけでは、取材という形だけでは、実際には残酷なまでに突きつけられているナマな現実を伝えることができない、そう思った時にこの手段を、フィクションという手段を、この監督さんは意を決して使うんじゃないかって、そう思ったから。
だって、初めてのフィクションの長編映画デビューから、実に8年。これでなければ伝えられないと思うだけの題材と年月なんじゃないかと想像してしまうもの。

年に数万人もの行方不明者がいるという。それはなんとなく聞いたことがあるけれど、深く考えたことがなかった。ただ、かの国による拉致の問題が公にされてから、ひょっとしたら拉致の可能性も、と思う人がぐっと増えたのだろうということが、本作に接して、恥ずかしくも、初めて気づかされた。
それまでは、家族間の人間関係とか、高齢者なら認知症による徘徊の果てとか、時には殺人事件が隠蔽されたとかがあるかもぐらいは想像していたけれど、拉致という可能性が出てきた時、一気に考えが変わった。誤解を恐れずに言えば、そこに救いを求める人もいたんじゃないかと思った。

本当に、誤解を恐れずに言えば、である。うっかり言えない。本作の主人公である登美子(田中裕子)は行方不明になった夫を30年待ち続けている。彼女が暮らす港町は行方不明者の発生事例が多く、拉致問題が公になってからはきっと、その可能性こそが高い、と言われてきたんだろう。
どこと特定はされないけれど、いかにも日本海の、小さな港町。登美子は海岸を歩くのが日課である。痛々しくゴミが打ち寄せられている海岸は決して美しいとは言えない。その寂しい港町だから、心無いゴミ捨てというよりも、かの国からの漂流物ということなのかなと思う。だからこそ彼女はこの海岸を、もはやある筈もない夫の痕跡を追って歩いているんだと思う。

そんな登美子を訪ねてくるのが、奈美(尾野真千子)である。夫が失踪して2年。登美子が夫の捜索活動を積極的に行っているにしても、つまりはただただ、待ち続けていて、待ち続ける人生をかたくなに変えないのに対して、奈美は、夫が失踪した理由を知りたいと思っている。
拉致かもしれない、その可能性は頭の片隅にあっても、どこか奈美は……そうじゃない、彼自身に想うところがあったということを、きっと判っていただろうことがなんとなく感じられてくる。

それは……最初は口にしなかったけれど、失踪の理由が知りたい、とおずおずと口にする言葉に現れている、気がする。
拉致であるかもしれない、その可能性に救いを求める行方不明者の家族たちがきっといるだろうという想像は、不謹慎だけれど、自分たちの家族関係、人間関係のせいじゃないと思いたい部分も、そういう人たちも、いないとは言えなかったんじゃないか、って。

奈美はどうだったんだろう。後に発見される彼女の夫、洋司は、未来が、先行きが、決められていることへの不安を口にした。最初は、単なる中二病的なワガママ発言に思えたが、ぽつりぽつりと漏らす中で、奥さんの人生設計、第一子は何歳で産んで、マイホームも考えたい、余裕をもって第二子……という期待に応えられるのかという彼の不安が理由だったのだと判っちゃう。
失踪までするのはいくら何でもと思うが、女性の、男性と違って妊娠可能年齢リミットに焦る既婚女性の気持ちと男性の乖離が想像ついちゃうだけに、同じ女性としては、何とも言い難しという部分があって。

でもその奈美の事情が提示されれば、まったく違う立場のようにも思えた登美子も、実は共通点があったのではと思えてくる。
30年前。登美子が大事に聞き続けている新婚当時のじゃれあいを録音したカセットテープ。聞きすぎて切れちゃって、というシークエンスが、昭和世代には泣かせる。そしてその切れたテープを補修してくれるのが、登美子が町中で偶然発見しちゃった、奈美の夫なんである。

登美子の夫が行方不明になって30年、彼女の役どころの年恰好を考えれば、奈美の夫の失踪時と年齢的にはさして変わらないと思われる。
だけど奈美の方が、社会的な女性の位置というか、思想というか、したたかに、といったらアレだけれど、甘い結婚生活ではなく、そこに人生設計をシビアに立てていた、という図式が見え隠れする。

登美子は一人暮らし、他に暮らしている子供の気配もないし、別に暮らしている母親の様子を見たり、後にその母親が死に、その後、夫の母親もまた亡くなったことで葬儀に参列するのだけれど、その様子では登美子と夫の間には子供をなす前に、夫の失踪があったと推測される。

その点では奈美と同じなのだけれど、登美子と奈美は明確に違うのだ。それは確かに、時代の違いはあるだろう。拉致かも知れない、というのが公的にもハッキリと可能性の一つとして考えられる奈美の世代とは確かに違うのだから。
自分が何かいけなかったのか、あるいは船で海に出て転覆してしまったのか、それとも単に何かがイヤになって逃げだして……とか。

そもそも生きているのか死んでいるのか、様々に逡巡する心の内を、後に奈美の夫を期せずして見つけ出しちゃう登美子は、まるで夫に対するように、心のうちをぶつける。
実際、そんな錯覚があったのだろうと思う。もう10年前には捜索することもしなくなった。捜索ビラに載せていた写真は当然、失踪当時のもの。若いのだ。当時は何歳、そして今なら何歳になってる筈……。

今なら、の年齢が、ちょうど奈美の夫の年頃で、妙に色っぽいイイ男な安藤政信と、登美子の失踪当時の夫の年頃の写真は、似通っていた。登美子に発見された奈美の夫、洋司は、捜索ビラを見て、イイ男ですね、とつぶやいた。

登美子にとってはいつまでも若い夫、新婚当時の甘い幸福を捨てきれない。そんな登美子に、子供の頃からの純粋な想いをぶつけてくる幼なじみ。
そして奈美という存在は、最初こそ、表面上と言ってもいいかもしれない、登美子の立ち位置をいわば利用して、苦しさは共有できるけれど、でも私は若いから、子供も作りたいから、ごめんなさい、みたいな(言い方ヒドいかな……ついつい、女の社会的見え方の度合いを勘案しちゃうから)、同じ立場のように見えて、だからこそ決定的に決裂してしまう存在だった。

なんか今更ながら、そもそもなんだけれど。登美子の暮らしている静かな港町。登美子はイカを処理する工場に勤めている。
登美子に幼い頃から心を寄せる春男(ダンカン)は港の漁師。もう30年も帰ってこない夫を待ち続けている登美子に、意を決してプロポーズしているが、登美子は返事が出来ずにいる。断るんじゃなくて、返事できないままなのだ。

この時点で、春男に対して憎からず思っていることが察せられるものの、それが幼なじみとしての気安さからくるアンビバレンツ的な腹立たしさなのか、登美子は自身の優柔不断を捨て置いて、ただただ思いをぶつけてくる春男の身勝手さを責め立てる。
登美子の言い分は判らなくもない。自分が弱っている時に口説いてくる卑怯さというのは、そうだとしたらヤだなと思うけれど、春男のキャラクターを全編見ていれば、そんな駆け引きとかできるヤツじゃない、ただただ、登美子のことが幼い頃から大好きなだけだと判るだけに……まぁそれも、この年までかいと思うとちょいとキツいものもあるが(爆)、でもそういう男もいるのかもしれんなあと思ったり、ちょっとキモいけど(爆)、でもでも、そんな風に思われるなんてなかなかないからさ、幸せだよなあと思っちゃったり……(個人的見解(爆))。

消えてしまった人が若ければ若いほど、再会できる希望は薄いけど、どんどん、伝説化してしまう。相手は若いままなのに、自分はどんどん年を取る。なのに、再会する場面を想像する時は、きっと自分も若いまま。でもそれを客観的にそうじゃないんだと思えたのなら。
奈美は、そんな想像をしないうちに見切りをつけた。彼女の中で、自分の幸せを優先するだけの力、強さがあったからなのか、彼女を愛してくれる男が現れたからなのか。

登美子にとっての春男はどうだろう。春男の気持ちはきっとずっとずっと前から知っていただろうけれど、一緒になってほしいと口にしたのは、つい最近に違いないことは、同僚の探りの入れ方で判る。
そして、同僚の探りの入れ方で、春男の登美子に対する思いが、周囲もずっとずっと前から、それこそ、この小さな島で、小さな港町で、みんな一緒に育ってきて、みぃんな知ってる、ってことも、判っちゃう。

もう、いい年である。アラフィフどころかアラカンどころである。登美子から再三拒否されて、心配した周囲が場を整えてさえ大喧嘩しちゃって、まるで子供のように春男は一人、海に出ていく。
バカ!バカ!!マジで死ぬ気か!!と思い、実際、そのまま行方不明になっちゃうし、これは遭難のまま行方知れずのまま、哀しい結果、と思ったら、思いがけず帰ってくるんである。

その間には、ふがいないながらも愛する息子がそんなことになったのは、もう少しあんたが優しくしてやってもよかったんじゃないかと、春男の母親が登美子を責め、でも、こんないい歳まで母親と二人暮らし、登美子を思い続けて独身男というイタさもあるが、そんなこと言ったら、私自身、言えないな、もう今の時代、そういうこと言えないなと思ったり……。
春男の母親役が白石加代子氏で、まあこれがまた、これがまたよ!!私も独身女だから、類友なのか、同じ境遇の知人友人たくさんいるから、めっちゃ感慨深いよ。もちろん十人十色、それぞれ立場も状況も違うけれども、考えちゃうよ……。

春男が行方不明になった時、あれだけ登美子に当たった春男の母親だったけど、見つからない時がじりじりと過ぎて行くと、息子への心配はもちろんだけれど、彼女の中に芽生えたものがあった。
行方不明のままの夫を待ち続けた登美子への想い。何の手掛かりもなく不安なまま、でも死んでしまっているなんて想像こそが怖い、希望だけにすがって生きてきた壮絶な登美子の想いが、春男の母親は、身に染みたのだった。
ただ息子のためを思って、登美子と一緒になってほしいと思っていた、それを袖にした彼女を憎んだ。息子が行方不明になったらことさらだったのだけれど、息子が見つかって、そして、登美子と春男の関係も次の段階に入る。

結果、どうなったと言えるのだろうか。めちゃくちゃドラマティックなラストシークエンスだったし、ここに至ると、最初あたりのフェミニズム女子的な気持ちは薄れて、春男を応援したい気持ちにはなっているのだが……。

ラストシークエンス、海の中でもみあいになるまでにエネルギッシュに思いをぶつけ合う登美子と春男はめちゃくちゃ胸アツではあるのだけれど、でも、ここに至っても、やっぱり二人の間には決定的な齟齬がある。
それは、二人が、そういう、共に生きていく相手としての覚悟どころか、特に登美子側がまだ夢見る乙女なままなことが進展を妨げてるのかなあと思う、そんなことを思う私自身に結構ビックリしたりして。常に女の味方なはずだったのに、結構登美子にイラッと来てる自分に気づいちゃう。

ちょっとね、なんだろう……裕子さん自身、どう思ったのか、聞きたくなっちゃう。30年も夫を待ち続け、新婚時代のカセットテープを繰り返し聴き続ける女、どう思う?てか、そもそも成立する?聞きたいわ!

そこがキモだったのかもしれんなあ。拉致問題は確かに大きかった。それが本作のそもそもの動機だったんじゃないかとは思ったけれども……。
戦時中ならともかく、いや、その当時だって、この葛藤は同じだったと思う。おばあちゃんになるまで、乙女を強要されるのはツラいわ。それを奈美が、オノマチちゃんが突破してくれたんだと思う、思いたい。★★★★☆


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