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「た」


2008年鑑賞作品

ダージリン急行/THE DARJEELING LIMITED
2007年 104分 アメリカ カラー
監督:ウェス・アンダーソン 脚本:ウェス・アンダーソン/ロマン・コッポラ/ジェイソン・シュワルツマン
撮影:ロバート・イェーマン 音楽:サタジット・レイ
出演:オーウェン・ウィルソン/エイドリアン・ブロディ/ジェイソン・シュワルツマン/アンジェリカ・ヒューストン/アマラ・カラン/カミーラ・ラザフォード/イルファン・カーン


2008/4/3/木 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」の一見しての異様さが頭にこびりついているアンダーソン監督。本作も、予告編からなんだか異様さが漂っていた。
スピリチュアルムービー……うーん、スピリチュアルという言葉に、若干のうさんくささがつきまとう今日この頃(大丈夫?江原さん!)。
なんて思っていたら、別にそんな雰囲気になった頃から宣伝をしていた訳でもないのに、実際に観てみると、やっぱり何だかうさんくさい感じが(笑)。
いやでもそのうさんくささは、一見、うさんくさくみせておいて、というか、実際うさんくささ全開なんだけど(爆)、最後には心洗われてる、でもそれは、やっぱりうさんくさかったんじゃないか、みたいな??(爆爆)うーん、凄いひねりワザね、監督。

大体、この三人が兄弟だという時点でうさんくささ全開じゃないの。どー見たってちっとも似ていない。
バイクに乗ってて事故に遭ったんだと言う長兄のフランシスは、一見金髪碧眼のハンサムだけど、最初から最後まで見事なオレ様ヤロー。こんな大怪我をしてまで兄弟三人の旅を強行するのが意味不明だし(最初の時点ではね)。
ちょっと弱々しげな次男、ピーターは、妻のアリスを愛している筈なのになんだか上手く行かなくて、妊娠中の妻を置いてこんなところに来てしまった。
そしてジャックは、二人の兄と比べて濃い髪と眉にくっきり二重の瞳、口ひげとエキゾチックな風貌。ちょっと問題アリの元カノと若干のトラブルの後に、この旅に参加。
長兄の自分勝手にイライラしながらも、元カノだけでなくオンナから逃れられず、列車アテンダントのインド美女、リタとイイ仲になってしまう。しかもそれは兄たちにバレバレで、「あのライチ娘(ライチジュースを運んできたから)とヤッたんだろう」と、ズバリ言われてしまうあたりが、カッコ悪い。

そんな三人、ホイットマン一族であつらえたと思しき、揃いのロゴのスーツケースを持っているのが、微妙にキモチワルイのだが、そこはキモ可愛いと言うべきか。
彼らのインドへの旅は、こののんびりと贅沢なダージリン急行に連れられていく。しかしのんびり気ままに、とはいかない。
フランシスは、旅のスケジュールを助手のブレンダンにわざわざ届けさせるという回りくどさで、実にうっとうしい。しかもこの、病気のためにハゲているブレンダンに、ハゲといったら怒ることを知ってるくせに、そう自分で言っていたくせに、ワザと怒らせて辞められてしまい、インドの奥地に置き去りにされてしまう始末。

しかしね、これ、最初は「ダージリン急行」から始まらないのよ。
ちょっとした二本立てみたいな雰囲気?凝った作りなの。まず最初は三男のジャックとワケありの元カノ二人で、パリのホテルの一室だけの物語。そのタイトルは、ラストクレジットの前にバンと現われる、「ホテル・シュヴァリエ」
元カノから逃れてきたジャックは、しかし「探すのなんてカンタンよ」とパリのホテルを突き止められる。「友達のあなたを失いたくないの。寝たら、ミジメになるかもしれない」と言う彼女に、「僕は平気だ。友達になるぐらいなら、死んだほうがマシだ」とジャック。バルコニーから二人でパリの街を展望して、いきなりのエンド。「ホテル・シュヴァリエ」。

え?え?え?入る劇場を間違った?と思っていたら、再び20世紀フォックスのロゴが現われて、改めて始まる「ダージリン急行」。ジャックだけがこの物語の方にもスライドし、三兄弟の一人となってる。
このワケありの元カノのことを他の二人の兄弟も知っているし、ジャックがコッソリ元カノの留守電を聞いていることで、「聞く前に兄弟に了承を取るべきだ」とかまたしてもフランシスがワケわかんないことを言い出してケンカになる。
そして、なんたってここは、彼らのいるアメリカからも、ジャックが逃げ出したパリからも遠く離れた、スパイシーな香りが満ち溢れた国、インドなのだ。なぜ彼らはこんなところに来ているのか?

それは、まあ、父親の葬儀にも来ずに、尼僧となって山にこもってしまった母親に会いに来る目的だった訳だけど……。
という理由は、かなり中盤になってから明かされる。二人の弟を招集した長兄は、いきなり包帯だらけ、アザだらけの怪しい状態で現われるし、「僕たちには心の旅(スピリチュアル・ジャーニー)が必要だ」とか言いながら、自分で全部仕切って息が詰まることこの上ない。狭っくるしい食堂車で、メインディッシュからデザートまで勝手に割り振るフランシスには、観てるこっちもうっわ、サイアク、とイライラ。
どう考えても観光地を回っているだけとしか思えない、決まったところで同じようにお祈りして、ってなこの旅が、どう心を癒してくれるのか、弟二人はいぶかしがるばかりなんである。しかもフランシスは自慢の高級靴を靴磨きの少年に盗まれてしまう、ていたらくぶりだしさ。

ジャックなどはもう、スピリチュアルジャーニーなんて最初からどうでも良くて……というか、あのメンドくさい彼女のことで疲れていたのかもしれないんだけど、ダージリン急行で給仕をしているリタにひと目惚れし、狭い更衣室みたいなところに誘いこんでヤッちゃうんだよね。
まあ、それに応える彼女も彼女だけど……リタの「私にはボーイフレンドがいるから」というのは、同じ列車に切符を確認にくるあの彼じゃないかと思われるんだけど、そうだとしたら、なんか結構禁欲的な感じの彼で、もしかしたらこの美女がちょっと欲求不満になっていた?いやいや……そんな風に考えるのはゲスかしらん。
でも、彼らが列車内で「義歯をはずして食事をするな」とか、つまんないことでケンカばかりし、ついには取っ組み合いに唐辛子スプレーまで持ち出す大ゲンカになっちゃったり、毒蛇を放しちゃったりの傍若無人を重ねて、助手のブレンダンにもアイソをつかされた三人がおろされた時、リタはジャックを見つめて涙を流すんだよね……。だってさ、もう多分、絶対、きっと、二人は二度と、再会できないんだよなあ……。

三人は母親に会うことは叶うんだけど、次の日の朝、彼女は姿をくらましてしまう。三人は呆然としながらも、どこかでそれを予期していた風もあって、むしろそのエピソードよりも心に残るのは、突然行き合った、少年たちの水難事故なんである。
かなりムリヤリ、大きな荷物を、流れの急な川を渡って運ぼうとしていた。木と木に渡した綱が今にも切れそうなのに気づいた三人は急いで走り寄るけれども、一歩遅く、少年たちは川に流されてしまう。
必死に飛び込んで助けようとしたけれど、川の流れはあまりにも急で、滝の向こうで頭から血を流したピーターは呆然と、死んでしまった少年を抱き抱えていた。

他の少年たちと共に、村に送り届けた三人、言葉が通じないから、彼らが必死に救助活動をしたのが判ってもらえているのかどうか。父親はただただ悲しみに暮れ、三人はどこか手持ち無沙汰に、しかし慈悲の心を感じる村人たちの間で神聖な空気を味わっていた。
三人も、肉親を失った悲しみを、ほんの少し前に味わったばかりなんだもの。

ただひとり、言葉が判るらしい少年に、自分たちが救助に尽力したことを説明してほしい、と懇願すると(それもどうかと思うが)三人が帰ろうとしたバスに少年たちが急ぎ駆けつけて、葬儀に招待する、と言ってきた。
葬列って、白なんだよね、結構、他の国では。純白の葬列、幼い遺体にそそがれる白い花びらが、ピュアさを引き立たせて痛々しい。
でも、ここでようやく、本当のスピリチュアルに出会えた気がするのだ。
だって、それまでの、観光用に用意されたスピリチュアルはぜんっぜん、彼らの心に響かなかった。
そこには観光客が来るって知っているから、靴泥棒みたいな不届き者も横行している訳だし。

彼らが求めていた、いわば異国の、自分たちが知らないが故に、手の届かない聖なるものが、彼らの欲求に応えられなかったってのが、皮肉なのか、正当なのか。
そういやあ、ピーターなんか、市場で求めた毒蛇にやけにこだわっていたもんなあ。んで、それをとらえたボーイがもう殺してしまった、と言ったことに「彼らは殺戮を禁止されている。こっそり逃がしたに違いない」と言うあたり、いかにも異国の神聖に憧れてる雰囲気だったもんなあ。まあ、実際、殺してはいなかったけどさ……。
でもそうした、いわばエキゾチックなものに憧れる部分じゃなく、彼らが真に癒されるのは、自分たちと共通する要素であったっていうのがさあ、皮肉なのかしら、それともこれぞ純粋なるオチだったのかしらん?

そもそもフランシスがこんな大怪我をした理由だって、つまりはマザコンだったわけだし。もう辛抱たまらなくなって、自ら土手に突っ込んだ。きっと母親に、一目見て心配してほしくて。
ていうか、三人とも、なんかわだかまりがある風だったんだよね。父の葬儀の後、殆んど音信不通状態だった。この旅の道中、何かというとフランシスの目につくのは、ピーターが使っている亡き父の持ちもの。遺品を独り占めにしているとフランシスに責められると、ピーターは言う。
「僕が一番の息子だと、最期に言われたんだ」
それが元でまたケンカになる訳なのだが、それは本当だったのか。ピーターは結局、「本当はモゴモゴ言っていて判んなかった」と釈明したけれど、それはどうやらそのことで傷ついているらしい長兄を思いやってのことだったのかなあ。

乗っていた列車が迷子になってしまった。その間に丘に登って、三人は祈りを交わした。
なんかね、アメリカみたいな新しい歴史の国って、古い歴史や文化や、宗教や祈りがある国に、憧れてる感じがあるんだよね。
だからインドで、恐山みたいに!?石を積み上げて、羽根を飛ばして祈りを捧げたりさ、ま、言ってしまえば非科学的なことをするわけじゃない。
まあ、マヌケなことには、そんなことをしている間に列車が動き出してしまうんだけど(笑)。

そんな、彼らが崇め讃えるエキゾチックをどこかオフビートに、10パーセントくらいはバカにしているような雰囲気もおりまぜてくる。
そのバランスが絶妙だから、ウッカリ怒るのもヤボだというか、ね。★★★☆☆


ダイブ!!
2008年 115分 日本 カラー
監督:熊澤尚人 脚本:戸田山雅司 林民夫
撮影:佐光朗 音楽:常田真太郎
出演:林遺都 池松壮亮 溝端淳平 瀬戸朝香 蓮佛美沙子 光石研 江守徹

2008/7/6/日 劇場(角川シネマ新宿)
林遺都君、待望の新作。正直、二作目の「ちーちゃんは悠久の向こう」は不発だったからなあ。やはり彼にはずっぱりスポーツモノが似合う。ずっとそれでやっていける訳もないけど、でも、それが出来る強みは大きいと思う。
今回は、デビュー作の野球のユニフォームや二作目の弓道の道着みたいに、ひとっつも彼のキレイな身体を見られなかったうっぷんを晴らすかのように、人体にまといつくのは最小のコスチュームさあ。しかも更衣室では後ろ向きでの全裸も拝める。いやいやいや、別にそんなことを期待している訳じゃないんだけどっ。

でも、走る姿だけで本物のアスリートだと判るぐらいの遺都君が、一体どんな身体をその下に隠しているのか、確かに見たい気はしてた。顔はカンペキな美少年だし、しかも色白で一見して華奢に見える手足の長い身体は、文系の王子系にだってなれる容貌。
でも、風のように疾走するその美しい走り姿を見れば、尋常じゃない筋肉がその下に備わっていることが知れ、勝手に想像してドキドキしてたもんだ。
そして……今回の作品に際して更に鍛え上げられた、一分の脂肪も見当たらない、見事に腹筋の割れた、しかしムキムキではない美しいスポーツ少年の身体には、ああ、アポロの神も彼には嫉妬するであろうと思うぐらい、ギリシャ彫刻のようなカンペキな姿なのであった。

実はね、飛び込みには少々、思い入れがあって。バルセロナオリンピックの出場選手だった金戸恵太選手にね、ちょっと懸想してた(爆)。
まあ、好みのお顔だったってことがあるんだけど、それでも飛び込みという競技のことを、彼の存在があって初めて知ったから。目の回るような空中演技、スプラッシュが出ない入水の感動を、知った。テレビじゃなかなか中継をやってくれなかったけど……。
彼は長い間日本のトップ選手として頑張ってきて、バルセロナで日本人56年ぶり入賞を果たした。メダルを取った訳でもないのに、オリンピックの結果を記した新聞で大きくカラー写真が組まれていたのを今でも覚えてる。美しい空中姿勢の金戸選手の後ろに、バルセロナの伝統のあるひしめきあった街並みがドワーっと見えている写真、今でも忘れられないのだ。

んでもって、彼がそのトップの座を明け渡したのが、当時まだ幼児体形だった寺内健選手で、身体が小さいからそりゃスプラッシュも立ちにくかろうと斜に構えて見ていたのよね。
しかし彼はその後成長してもトップであり続けて、今回この作品にそのトップ選手として、その最初に見た姿とは別人の、ムキムキの、まさに劇中の少年たちが憧れてやまないトップスターとして出演していることには、その後なかなか飛込競技を見ることがなくて知らなかったから、大いに感動!
そして、その金戸氏こそが少年たちを指導し、出演まで(!気づかなかった!)してるのには大いに感動。もちろん彼のご夫人となった、こちらは女子飛び込みの世界を引っ張ってきた旧姓元渕幸選手も!

なもんで、なんか色んな期待や思いを抱えて足を運ぶ。遺都君がまさに水も滴る美少年として登場することを夢想して、よだれをたらしながら(爆)。
彼がイイのはストイックなのに華がある、ひたむきなのに、汗臭くない、ところなんだよね。そう、いくら彼がキツイ練習をこなしている場面で汗だくになっていても、彼にだけは汗臭さを感じない。正直、他の少年たち、特にメインの三人の中では一番マッチョな感じを託されている溝端淳平君にはそれを感じるんだけど(爆)。
まあ、溝端君に関しては、元からそういう役割を振られているのは感じる。寡黙で理想主義でアツい奴。小さな頃から故郷の断崖絶壁から飛び込むことで鍛え上げてきた叩上げ。日に焼けた体と強い眼差しが、都会っ子たちを圧倒するオーラがあって。
しかも後半、故郷に帰ってしまった彼を訪ねていった遺都君と池松壮亮君に、「毎日セックスばっかやってる」とまで言うのだから!
そういう意味では確かに彼に一番、遺都君は食われてしまったのかなあ。

一応は遺都君の名前が一番最初に来るから主演とも言えるけど、形としては三人の少年の並列主演とでもいった趣だからね。流れは確かに遺都君だし、最後大技を成功して優勝、見事オリンピックの切符を勝ち取る彼はまさしく主演なのだけれど、途中経過で他の二人のエピソードに行くと、結構その間、遺都君の影は薄くなってしまう。
まあそれは、他の二人に対しても言えることではあるんだけど、なんか今回の作品に関しては、遺都君よりも、やっぱりジュノンスーパーボーイの溝端君にメディアの関心は行っているみたいだからさあ。
うう、やはりどんなに素晴らしい作品の主演で存在感を発揮していても、映画という媒体は、今や美少年コンテストの名声にさえ劣ってしまうのか……。
そしてもう一人の池松君は、このダイビングスクール存続をその肩に背負わされるエースとして苦悩する、いわば日本人好みの浪花節的キャラなので、もうとにかく確かな演技力を、って趣も強いしね。

そう、物語を形成するためっていうのもあるだろうけど、そんな、割とクラシックな物語形式なのよね。
日本ではマイナーな、大会を開いても客の来ない地味な競技である飛び込みの、数少ない専門クラブであるミズキを、そんな競技にはとんと関心のないスポンサーが切ろうとしているのね。存続したいのなら、このクラブからオリンピック選手を出してみろ、と。
飛び込みに真剣に打ち込んではいるものの、オリンピックなんてことは考えにも上ってなかった少年たちは浮き立つ。
しかも、そのために美人のコーチが配属されてくるもんだから更に浮き立つんである。

しかし、この美人コーチ、麻木夏陽子はオッソロシイほどの鬼コーチで、少年たちは反発必至。それでも坂井知季(遣都君)は彼女から練習メニューを渡され、ひょっとしてオレって期待されているのかも……と自主トレに励む。
しかし麻木コーチは青森から一人の少年をスカウトしてくるもんだから、またしても少年たちの心は引っ掻き回されるんである。正直言って、実力があるとは思えないこの沖津飛沫(溝端君)。入水時のスプラッシュがハデすぎて、とても点数には結びつかない。
ただ、飛沫のダイブは、高く舞い上がり、華があって、人の目を惹きつけずにはおけない、何かがあった。彼の祖父は戦争のためにオリンピックに行けなかった、悲運の天才ダイバーだった。観衆を熱狂させたスターだった。その血を彼はまさに、受け継いでいたのだ。
それと対照的なのが、まさにエースのダイブを見せる、このクラブ切ってのトップ選手、富士谷要一(池松君) 。彼はこのクラブのコーチの息子で小さい頃からスパルタ教育を受けており、既に父と子の関係が存在しないほどだった。家でも父のことをコーチと呼ぶし、常に敬語をつかって、息詰まる生活を送ってた。

なるほど、この二人に挟まれれば、エリートでありサラブレットである彼らに比べて、知季一人がフツーの男の子なんである。フツーの男の子として彼を、観客の共感を誘うキャラにしようという意図がかなり露骨に見てとれる。
期待されるなんていう経験が今までなかった彼が、コーチに目をかけられて、なんだか上手く居心地が取れなくて、ためしに両親に聞いてみる。自分に期待するところはあるかって。でも両親は、健康に、幸せでいてくれればいいと言う。
それは確かに、子供に対して親が望む最大のことで、いい両親だと思うし、彼は幸福なのだろう。でも知季は、普通というワクが逆に自分をがんじがらめにしていることに、苦悩するのだ。

と、こう書いてみると、案外斬新な視点なのかもと思う。期待されることに疲れる子供という設定は、確かに今までにあった。その典型が、本作の中でエースの立場にいる要一であり、そのために熱くなれないことに苦悩する彼は、一度ゴリ押しで決まった五輪代表を蹴るという決断までも選択する。
あるいは、広く自由な海だけれど孤独な津軽の断崖絶壁と、狭くてクスリの匂いがするプールだけど、観衆の喝采や、仲間との戦い、コーチの思いが充満している競技の場と、どちらを選択するのか、最初は五輪に行けなかったおじいちゃんの敵討ちのつもりだったけれど、今度は自分のために敵地に赴いた飛沫の存在。
二人とも知季と比べたら実にドラマチックで、だからこそ知季は時として二人の存在感の間に埋もれてしまう。

知季の感じる、普通のワクに閉じ込められてしまう感覚は、そんな風に具体的にされたことはなかったけど、今まで意外に誰も言っていなかったかもしれない、と思う。
子供に期待をかけすぎて、潰してしまうことを反省した時代から、子供を自由にすることこそが良しとされる時代になって、それが逆に子供に虚無感を生み出した。
確かにそれは、更に突き詰めていけば、今の社会の子供や若者が犯す犯罪にも通じるものなのかもしれない。そう考えると、子育てって、子供を抱える社会って、なんて難しいんだろうと思う。期待しすぎても、しなさ過ぎてもダメだなんて。
でも、結局は子供が自分自身で道を見つけていくしかないってことなんだろうけれど。
でねでね、でもその、期待されないことに落ち込む描写っていうのは、かなりステロタイプに用意されてて、凄く説明的で、斬新な筈がすんごく凡百に見えたのがもったいなかったなあと思うのね。
いかにも家庭の食卓、親に言いたいことを言えない少年、そんな子供の様子を汲み取れない親、っていう図式が、絵に描いたよう過ぎてさ。

更に、知季が失恋する場面まで出てくる。しかもかなりベタな感じで。つまり、飛び込みに打ち込むあまり、彼女との約束をなかなか守れない日々が続いて、久しぶりのデートでも、彼女のお手製のお弁当を前に、カロリーコントロールをしている彼は一瞬、躊躇したりしてさ。なんだか最近、トモ君遠くに行っちゃってる、という彼女の台詞も、凡百の少女漫画や恋愛ドラマで何百回聞いたかなって台詞だよね。
そんでもって、いつもその彼女の悩みをそばで見ていた弟が彼女を奪っちゃうっていうもなあ……いやこれが、高校生の話だったら、ドラマチックにもなりそうだけど、それこそマッチョな雰囲気をかもし出してる飛沫は、彼女と「毎日セックスしてる」ってなぐらいだし(ううう、このピュア系蓮佛嬢とかよお。逆に生々しい(爆))。
でも、中学生という設定の、しかもこのストイックな遣都君で、デートは動物園でお手製のお弁当でさ、クラゲのマスコットが恋のキーワードだなんて、セックスどころかキスさえもイメージできないじゃないのお。
……なんか、この失恋のエピソードは、ストイックスポーツが似合う遣都君には、余計な気がしたんだよな……それともそれって、嫉妬かしら(爆)。
でも確かにそれで、観客に近しさを感じさせることはあると思うんだけど。しかも知季は、最終的には弟と元カノが応援に来ている前で、見事なダイブを披露し、オリンピックを勝ち取るんだもの!

こういうスポーツモノでは、どっかで泣きたいと思うんだけど、ちょっとだけ泣けた部分はひとつだけ。一度は自分の手でオリンピック代表を手放した要一が、自分の手で取り戻そうと、クラブの存続の危機にも責任を感じて、遅くまで練習した結果、高熱を出して、試合でなかなか演技に入れなかった場面。
失格になる寸前に、父親である富士谷コーチがざわめく観衆に叫ぶ。「静かにしてくれ!オレの子が飛ぶんだ!」
それまでずっと、コーチと選手という厳しい関係を保ってきた。親子だからこそ、それは他の選手以上に厳しくて、家庭でもそれを崩さなかった。クラブ存続のため、スター選手と安全パイとしてのコンビを組まされることになった要一は、クラブのため、コーチのために、保守的な演技をしてきたことに、疑問を感じた。それは、飛沫や知季のひたむきさが彼に火をつけたから。
でもやっぱり、だからこそ、葛藤があったのだ。責任をとって辞職に追い込まれている父親の、せっぱつまった背中を見てられなかった。
そんな風に要一は、そして父親の方だって、ずっとずっと、親子の絆はあったはずなのに、この場面でようやく爆発する。父親の叫びで静けさを取り戻した中、彼は最高のダイブをして、オリンピック選考基準の500点越えを達成し、演技後駆け寄った父親に抱き抱えられる。この場面だけは、ちょっと涙出た。

でもまあ、感動っつーのは、なかなか出来にくいもんでさ。他ではなかなか、ね。
知季に関しては、実にスポーツマンらしくストイックに、高度な技への挑戦というテーマがあって、最終的には、中学生にはあり得ない、世界的にも難しい4回転半に見事成功する。技の途中のスローモーションや、入水した水中での満足した表情、それ以上に感情が爆発する、水面から上がった遣都君の1000パーセント以上の笑顔と、まさに汗臭さを全てスプラッシュに変える爽やかさは印象的なんだけど、なんか知季に集中出来ない要素が多すぎて。
それはメインの二人の濃さが勝っちゃってるってのもそうだけど、むしろ知季に課せられる、親の期待のなさや失恋のエピソードこそが、ジャマしているように思えてならないんだよね。
他の二人には知季には持てない重い枷が課せられているから、知季に課せられているのが、いくら親近感を持てるものだとしても、それだけに、軽いものに思えて仕方なくて。
遣都君には、ただただストイックに好きなことに邁進してくれた方が良かったかなあ。苦悩するとすれば、他の二人がエリート&サラブレットってことだけでさ。

ただ一人、平凡だった知季に課せられた特別は、彼がダイヤモンドの瞳を持っていたこと。
そのことを、知季は要一から知らされる。コーチがそう言っていたのを聞いたと。その意味が、彼は最初、判らなかった。もちろん、観客も。
ただ遣都君は美少年だし、その瞳は実際キラキラと輝いて純粋無垢で、飛び込みへのひたむきな思いに溢れてて、そういういわば観念的なことを指しているのだと思ってた。
でも、鬼コーチがそんな、あいまいなことで彼を五輪選考会の試合にまで抜擢するわけがないんだよね。

ダイヤモンドの瞳、それは、瞬間視の能力。一瞬で静止画のように焼き付ける能力のこと。
知季を慕う後輩をからかって、ダイブの最中、途中の飛び込み台のところでその後輩の水泳パンツをズリ下ろした画も、街中で、ビルの谷間から見えた、弟が自分の彼女と楽しそうにデートしていた場面も、本当にコンマ何秒の一瞬なのに、彼の目にはしっかりと焼きついていたのだ。
その最たるものが、子供の頃の彼が最初に飛び込みに出会った冒頭。これもビルの谷間に一瞬で見えた、夕暮れのオレンジの光の中に、荘厳な存在感を見せた、交互にしつらえた飛び込み台。その一番高いところから、手を真っ直ぐに天上に伸ばして、殉教者のように飛び込む要一のシルエット。
後にそれを彼は、コンクリートドラゴンと呼んでいたと明かす。そのドラゴンが生きている限り、僕は飛び続けるんだと。
一度オリンピック代表にもれたけれど、それをもっと超越させるものが、あるからと。
それで頑張りすぎて、疲労のたまった身体で飛び込んで、飛び込み台に頭をぶつけてしまう。
うう、この場面は、ホントに怖かった……飛込競技を見る度、ちょと身体のバランス崩して、頭打っちゃうんじゃないかって、いつも思ってたから。

そう、一度は要一に決まって、オリンピックへの夢を断たれたんだけど、彼が辞退したことで、ラストのクライマックス、選抜大会になるわけね。
そこには、自分の手で手放したものを取り返すために意気込む要一、祖父の見せたシンプルだけど美しい技、スワンダイブに臨む飛沫、そして、そのダイヤモンドの瞳を武器に、4回転半にチャレンジする知季との激突となる。
でもやはりそこには、仲間意識が確かにあって。要一は、「勝っていくたびに一人になる、個人競技とはそういうものだ」と言っていたけど、でも三人の間には、それまでに培った絆が出来ていた。
一度は五輪選抜の北京合宿からも漏れて、ふてて津軽に帰ってしまった飛沫。しかし、津軽に帰るとか、言い方するかなあ……。津軽って、地域、地方の呼び名だからさあ。甲信越に帰る、って言うのと同じ、ヘンさがあると思うんだけど。
ま、それはいいけど。そのおおらかなダイブは指導者の目を引いていて、「腰の故障がなければ、お前が選ばれてた」と後に要一が明かすんである。

うう、でもどうなの、それは。それって、反対の理由で、点数稼ぎの無難な演技をしたために合宿メンバーから落とされた三位の選手の替わりにメンバーに選ばれた知季が、いかにもただの繰り上げって感じじゃん……。
でね、飛沫は腰の故障、要一は高熱、知季は足の痙攣と、もう三人ともギリギリの形でこの大会に臨むのだ。バックに大海原が控える会場は、プールの狭さを憂いていた飛沫の奔放さも受け止めるスケールのデカさ。
難易度の高い技をピシリと決める要一と、難易度は低いけど見事満点を連発して観衆を熱狂させた、美しいスワンダイブを決めた飛沫とが同点でピタリと並び、そこに最後の最後、未曾有の4回転半に挑む知季が登場。
彼はその時、自分のダイヤモンドの瞳の能力を、実感する。回転する間、ピタリピタリと焦点が合っていく。客席の家族や元カノ、コーチや仲間たちの姿が見える。そして……「見えた」回転後、しっかりと水面をとらえ、入水!二人を引き離して優勝、奇蹟のオリンピック代表を手に入れるのだ。

うう、「ラフ」を観なかったのが、悔やまれる……あれも飛び込みだったんだ……水泳かと思ってた。でも監督がね……なんか観る気がしなくてさ。
本作の監督さんも、デビュー作ではかなりくじけそうになったのだが、二作目の「虹の女神」は良かったから。それともあれは、キャストが良かったのかしらん(爆)。
若い時に同世代の気の合う仲間と出会う運命的な作品って、こういうものなのかもしれない。
それにしても何でこんなに皆、ワキゲが薄いの。うらやましい……。

と、ところでクレジットでビックリ。山田健太君。知季の友人役て!どこの場面!?全然気づかなかった!★★★☆☆


タクシデルミア ある剥製師の遺言/TAXIDERMIA
2006年 91分 ハンガリー=オーストリア=フランス カラー
監督:パールフィ・ジョルジ 脚本:パールフィ・ジョルジ/ルットカイ・ジョーフィア
撮影:ボハールノク・ゲルゲイ 音楽:アモン・トビン
出演:チャバ・ツェネ/ゲルゲイ・トローチャーニ/マルク・ビシュショフ/アデール・シュタンツェル/イシュトバーン・ジュリツァ/ピロシュカ・モルナール/ガーボル・マーテー/ヘゲドシュ・デー・ゲーザ/イシュトバーン・フニャドクルティ/ゾルターン・コッパーニ

2008/4/15/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
うわ、ショック。結構グロや残酷モノも観ているつもりなのに、そんな描写にショックを受けるほどヤワじゃないと思っていたのに、まるで構えてなかったせいもあるかもしれないけど……本気で吐きそうになった映画なんて、ひょっとしたら初めてかもしれない。
うう、初めてで終わりにしてほしい。繰り返される嘔吐のシーンなんて特に直視できなかったよ……何べん吐くんだよ、もうテメーら!
それ以外にも、×××とか××××とか……(うっ……あとで書くけど、もう……)確かにこんなの、NHKで放送出来る訳ないよ。

って、そうだ!ラストクレジットで思い出したのだった。何で私がこの映画に足を運んだかを……タイトルだけ頭に入れてて、なんでかを忘れていたのは不覚だった。そうだ、サンダンス映画祭でNHKの賞をとったのだよね、これ。
でもそんな、気にしてなかったのだ。映像が過激すぎて放送出来ないなんて結構よくある話で、実際に見てみたらなんだこんな程度、ってことももっとよくある話だったから。NHKが保守的だなんて思っちゃいけなかったんだわ。結構アウトローなところ、あるんだから。
ていうか、これをNHKはよくサンダンスの賞をあげたよな……って思っている時点で先入観アリアリだが。だってどー考えたってこれ放送にのせらんないだろう……。
あ、いやっ!脚本の段階でもう、NHKは出資と放映権手放して離れてるんだ。作品が出来上がってからなのかと思ってた。
奥さんが脚本家!スゲー夫婦!

まあ、どのへんが放送にのせらんないかって言ったら、これから書いてくとこ、映画全編全部と言ったって過言じゃないんだけど、まず映画の冒頭から、あ、こりゃのせられるワケないわという状態なんだもの。
だっていきなりペニスそのもんよ。しかもいきなりいきり勃った状態で現われるのよ。しかもしかも、そのペニスの先に火柱がたってるのよ!?って、ナニー!
いやいや、それは百歩譲って、ツクリモノだとしよう(まあ、アノシーンのためにわざわざ勃たせた……わけじゃないよね……と思いたい)でも、カットが変わり、その彼が氷水で身を清めるついでみたいな感じで下のモノを引っ張り出して洗い始めるアレは……ホンモノでしょう!ビックリしたよ、今ってあーいうの、あんなしっかり映していいのかあ……(なんかそればっかり気にしてる(爆))。

いや、確かに日本の映倫は大分ゆるくなってきて、物語のテーマに即していれば大目に見る部分が多くなってはきたけれど、でもでも、ほんっとに、まんまなのよ。あれは造りようないでしょ(って、私もそればっかり言いすぎだけど……)。
でもね、男女のセックスの結合部分にはボカシ入ってんだよね。ヘンなの。冒頭で屹立しているペニスはそのまんま見せているのに、性行為の交合部分はダメだなんて。
って、なんかそんな話ばかりで進んじゃって、どんな話だかまるで判らないじゃないの。ほんっと、こーいうところ私の悪いクセだよなあ……。

これはね、三世代の物語なのだ。血と肉と内蔵にとり憑かれた三世代の男たちの話。このペニス男(!)をおじいちゃんに見て、その息子の大食い競技のスター選手、さらにその息子である孫は一転してガリガリの小男の剥製職人。
それぞれホントに血がつながってんの?と思うぐらい、全く違う三人なんだけど、キテレツさでは、三人とも相当イッちゃってる。

最初のおじいちゃんであるモロジュゴヴァーニ・ヴェンデルは、当時は勿論青年、軍隊の一兵卒で、コワイ上官にはいつも敬礼で固まっているような若者。しかし唇の左側が醜く割けている彼は、それだけではなく暗い異質さを醸し出している。
彼の上官である中尉と、中尉の太った妻と、美しい二人の娘たちと共に森の奥に駐留していて、中尉はそんなヴェンデルをどこか牽制気味に見張っている様子なんだけど、この中尉の方がよほどスケベ根性は座っているような感じ。
ヴェンデルに、「女性器の表現は美しい。露を含んだ白いユリだ。この世で一番素晴らしいものだ」などと、しつこく言ってきかす。彼が繰り返す、「モロジュゴヴァーニ」という冷たい呼びかけが、その長い名前をいたぶっているように言う言い様がゾッとするのだ。

ヴェンデルは、雪に興じる女の嬌声だけでもよおしちゃうような、良く言えば純情な、悪く言えばヘンタイな男なんである。だって覗き見しながら木の節目にクリームを塗りこんで、パンツをズリ下げ……って、ええ!ソレをやるつもりなの!?マジでやってるって!木の節目から亀頭がっ!(あー、書くのもハズかしい)首を傾げながら近づいてきた雄鶏がつんつんと突付いたりして、ひえっ!
そしてヴェンデルはろうそくの火マニアなのか、ろうそくをともしてはその火を愛撫するように触ったり、口で吸い込んだり。そんな彼の性癖を中尉も知っていたのか、もったいぶって彼に配給のろうそくを手渡したりする。

ヴェンデルのエピソードにはちょっと摩訶不思議で印象的なシーンがインサートされている。飛び出す絵本から本当に出てくる人間。マッチ売りの少女のイメージ。そしてそのマッチ売りの少女は扉から出てきた男に肩を抱かれ、その先のイヤな予感を感じさせるのだ。
そして、女たちが浴びている木の浴槽が、くるくると回転するたびに棺桶になったり、小麦粉の生地を練っていたり、男女が乳繰り合っていたり、赤ちゃんのベッドになっていたりする。そしてバラバラに解体された豚がキレイにおさめられている。この豚が、というか肉の感じというか、血の感じというか、がこの作品の大きなテーマとして三世代に共通してゆく。
豚を屠殺するシーン、そしてそのままたき火の中に押し込んで黒く蒸し焼きにするシーンなどもある。ゴシゴシとコスってキレイにして、解体する。ズルリと這い出す内蔵のグロテスク。この時点では、そういうのもまあ、見たことあるしとか思って、余裕こいていられた。でも、これは前哨戦、伏線に過ぎなかったのだ。

ヴェンデル、肉を肉欲と読み違えたのか、何だかこのあたりから妄想が激しくなって、太った中尉のおかみさんとヤッている妄想をしだし、それは案の定、死んだブタのアソコに突っ込んでいるんである。そんな彼の後頭部に、中尉は冷徹に銃弾をブチ込む。ブタの死骸に崩れ落ちる彼。そしておかみさんが産んだ赤ちゃんは、お尻にブタの尻尾が生えているのだ。
えっ、えっ、あのセックスはヴェンデルの妄想じゃなかったの、というか、彼がブタな訳じゃないんだから、このいわゆる人間とブタとのハーフはどういうこと?とりあえず、この中尉との間の子では絶対、ないよねえ!?ヴェンデルはブタにとり憑かれてしまったの?もう頭が、この前半戦でぐるぐるぐる。
中尉はどう思ったのかは知らないけれど、この奇妙な子供のしっぽをペンチでバチリと切り落としてしまう。このシーンもすんごい接写で、やけにリアルなんだけど(正視できないよー)、ブタの尻尾が生えた子供が入る訳でもない筈なのにさあ!うー、でもホントにこんなのは、まだまだカワイイもんだったのだ。

そしてその尻尾の生えた子供、バラトニ・カールマーンは、長じたら大食い競技のスター選手になっていたんであった。
小さい頃からその才能がスバ抜けていたカールマーン。幼くして工場での特訓に参加した彼。機械でずぼずぼ注ぎ込まれるプリンの液体、ひしゃくでかけられるココアパウダー。一列に並んでせーのでスプーンを動かす先輩たちを蹴散らして、彼だけがあっというまに完食してしまった。
しかしもう、このシーンからブタ状態。というか、大食いの特訓工場があるっていうのが……いやそりゃフィクションなんだけどさ。

作品中ではIOCに働きかけて正式競技に、とか、オリンピック風の映像も出てくるんだけど、そのチョイリアルなあたりが、いい感じの悪趣味?なんである。
しかもねー、昨今日本で流行っているような大食いの、ストイックさ美しさとは真逆も真逆、まさにブタが飼料を食っている状態なの。
ブリキの器に顔を突っ込んで、前を汚しながらスプーンでかっこみ、そのエサの目方が刻々と減っていくことで決める、まさにブタそのもの。ギャラリーの盛り上がりはボクシングの試合かってなぐらい、その食べっぷりに声援を送り、ラウンドが終わるたびに選手たちは慣れた様子でゲーゲーと吐きまくる。

あのね、彼らが食べてる時から、もう見てるこっちが吐きそうなのよ。だってまず食べ方が、それ全然中に入ってないでしょう、ってな感じでスプーンで救った大半がじゃぶじゃぶとこぼれおちてランニングシャツを汚している状態だし、しかもその食べているモノが、既にゲロそのものとしか思えないようなものなんだもん。まさにブタのエサ。
彼らははやし立てられてはいるけれど、人間扱いなんてされていないのだ。それは、ブタの尻尾を生やして生まれてきたカールマーンが一番判るべきだったのに、尻尾を切られてしまったせいなのか、彼はカンちがいしてしまった。
世界王者なのだ、スターなのだと振りかざし、第三話目になると、それを疎ましがった息子にアイソをつかされることになるのだ。

でも、この父親のエピソードが一番尺を割かれてた気がするし、ある意味では華やかで、きらびやかな、バブル的な時代だったのかもしれない。
ハンガリーの選手であるカールマーンは、ソ連の圧倒的な選手にはかなわない。そこはあきらめながらも、二番手、三番手を狙おうとする。そのあたりが、なんか卑屈で哀切な感覚ももたらす。
彼は真の世界チャンピオンではないのだ。後に息子にそれをしきりに誇るけれども、決して、違うのだ。結局は国内の小さいところで争って、小さな勝利を収めはするけれども、それもまた、長くは続かないものだった。
ハンガリーはかつて共産主義政権で、監督が社会人になる前に今の民主主義に移った。ソ連への脅威と嫉妬の視線。同じ共産主義でも楽園のようなキューバへの憧憬。そういう、日本では想像しえない感覚が興味深い。

国内女性チャンピオンであるギゼラをめぐって、ライバルと争っていたカールマーン。競技中、開口ナンタラ症とかって、いきなり口が開かなくなってしまって途中棄権せざるを得なくなってしまった彼、しかし、ライバルを蹴落として彼女をモノにしたのはカールマーンだった。
しかしさ、三世代通して唯一の恋物語が語れる場であるにも関わらず、何たって大食いスター選手同士の巨漢カップルだから、決して見た目美しくないのがさ(爆)。だって彼が彼女の色気を感じるってのが、腋毛から滴る汗が彼の顔に落ちてくるってな場面なんだもん。うげー。しかも彼はそれを、平静を装いながら、恐らく心中かなり盛り上がりながら、舌を伸ばしてペロリとなめとるのだ……あうう。

二人は結ばれ、ラブラブな時を過ごしていた。待望の妊娠が判り、喜ぶ二人だけれど、「野菜課」に移動するのをかたくなに拒んだ。カロリー手当てが出なくなるからといって。
しかしそれが、赤ちゃんの成育をさまたげたんではないか。豪華客船の余興に呼ばれた二人、キャビアの大食いを見せたあと、ギゼラは倒れた。倒れたっつーか、ゴン、とテーブルに頭をつっぷした感じ。しっかしあのキャビアの大食いは実に下品な催しで、巨体をかがめて辛そうに食べ続ける二人は、更にあまりに哀しすぎるのだよな……。
あんな肉にジャマされていたら、そりゃ赤ちゃんの成育もさまたげられるよ。生まれた赤ちゃんは、おそらくカールマーンの予想に反して、小さな小さな未熟児だった。失望の色を隠せない彼はそれでも、二人の子供であるだけで充分だ、という態度を懸命にとろうとはするけれども、もうこの時点で妻には、彼とこの先うまくはやっていけないことが、判っていたのかもしれない。

そして、最大の衝撃の第三チャプターである。サブタイトルもこれこそが示されている。
なんか思わず先に言っちゃうけどね、私あのクライマックス、何が起こっているのか判んなかったんだよね。その奇妙な美しさの残酷に、ただただ身を震わせているばかりだったんだよね……。
なんてワケ判んないこと言ってても仕方ない。
孫世代の彼、バラトニ・ラヨシュの登場は、もういきなり自分の店を構えているシーンから。ぎっしりと様々な剥製が飾られた、大通りに面した店を持つラヨシュが、この道に並々ならぬ腕を持っていることが判る。だってもう最初っから、大きな熊の剥製に着手していて、迫力満点なんだもの。生肉から皮を丁寧にはぎとっていくシーンは、後のクライマックスでいきなりショックを受けないようにさせる伏線だったのかもしれない。

大きな防護メガネをつけて、黙々と作業を行っているラヨシュは、それまでのマニアックな父や祖父と比べて、ストイックな職人オーラに満ちている。
いや、満ちていすぎる。なんか追及しすぎているキモチワルサがある。テンションの持っていき方は違うけど、結局は父や祖父の血を彼もまた受け継いでいたことを、最後には思い知らされるのだ。
ラヨシュが父のために大量の食料品を買うスーパーで、お気に入りの女性店員に話しかけるシーン、ずっと作業所にいるせいか、その白すぎる顔、そして小柄でやせぎすの体といい、なんか、どうにもこうにも異様さが漂っているんだよね……小さなノスフェラトゥのよう。

ラヨシュの“最期”を発見したのは、もしかしたら彼の一番の理解者だったかもしれない……もっと彼と話す機会があれば、こんなことにならずに救えたかもしれない、レグーツィ・アンドル博士だった。
博士はラヨシュに、仕事の依頼に来た。何を頼んだのかは、劇中からはすぐには判らなかった。その最後の仕事を責任を持って仕上げて、店の受け付けに置いてラヨシュは幕引きをした。
博士が置いてあった封筒から取り出した中からは、小さな小さな胎児のような、というか胎児を水晶に閉じ込めたものが現われた。

この三世代のうち、唯一親子としての関わりがあるのが二代目と三代目。自分では動けないほどにでっぷりと太ってしまった父、カールマーンを定期的に見舞っては面倒を見ているラヨシュ、しかしなんたって小さな息子に産まれた時から失望している父親と、彼が上手くいっているハズもなく……。
しかもなんか父親はちょっとボケ気味?動けない身体でいつも見ているのは、自分が輝かしかった頃のビデオ。画面の中には、とうの昔に出て行ってしまったかつての妻が映っている。顔をしかめる父親。

そんな父親に冷たい視線を浴びせて、ラヨシュは大きなケージの中に飼われているデブネコ、というより巨大ネコ三匹の世話をしている。世話?なんか殆んど家畜の飼育みたいな……床をゴシゴシと掃除し、大量のエサをドサリと与える。
息子には全然期待していない父親は、ネコに自分の夢を託して、毎日脂肪分タップリのバターを与えるように指示しては、巨大化していくネコに、息子の前で当てこすりのように自分の夢を継ぐようにと語るのだ。大食いがもてはやされて、オリンピック競技になんて言われた時代ははるか昔なのに……。
それでも黙って父親の分のチョコ菓子も買い(この父親は、「オレに吸収できないものなんてない」と、チョコ菓子を銀紙ごと食べるのだ……)、毎日訪れていた彼だけれど、ついに爆発する。父親がラヨシュのことを「死体処理人」「この便所虫」と侮蔑タップリの言葉を吐き捨てたから。

キレたラヨシュはチョコ菓子のダンボールを蹴りちらし、ネコのケージもそのまま開けっ放しにして、電気のブレーカーをガチャリと落として憤然と出て行った。もう二度と来ない。僕なしで一日だって生きられるのかやってみろ!と叫んで。
しかしそこは息子、ラヨシュはまた部屋を訪れるのだけれど……部屋はシンとしていた。確かに父親は彼がいなくては生きられなかった。でもそれはあまりにも恐るべき理由。ケージから出たネコ達が、動けない父親の腹を食い破り、内蔵を引きずり出して食べていたのだ。
ううう、なんという、なんという!

だ、だってそのでっぷりとふくらみきって巨大な鏡餅のようになった腹からでろでろとはみだした内蔵は、もうグロテスクという言葉さえ追いつかないような、息子に便所虫だなんて言う資格なんてないだろっていうような……ヒドイものだったんだもの。
しかしラヨシュが呆然としていたのは一瞬だった。その一瞬で彼は、全てを決心したんだろうか。
丁寧に父親の死体を処理し始めた。ここが「死体処理人」の彼の本領発揮。「パパ、すぐにきれいになるよ」と内蔵をキレイにとりだし、乾いたワラをつめた。ひょっとしたら、ラヨシュにとってそれこそが一番の愛情表現。愛の形。
そのシーンだけで充分に衝撃的だったのだが……。

いやね、このシーンのすぐ後だったから、父親の処理の続きを映しているのかと思っていたのよ。でも考えてみれば、もうワラをつめていたもんなあ。
しかもラヨシュがどうやってそれを行っているのかを映しているのは引きのシーンでの一瞬だったから、よもや彼がそんなことをしているなんて……。
と、奥歯にモノが挟まったような言い方をしていても始まらない。つまり、つまり……父親の処理を終えた彼が次にしたことは……自分自身を剥製処理することだったのっ!!

本当に、気づかなかったのよ、私。ただまるで手術シーンでもあるかのように超接写で映していく“解体作業”の異様さに目を奪われて。
異様?一種の美しささえ感じるそれは、執拗なほどにリアリスティック。一体何を使って撮影したのか、よもや本当にやりながら……なんてあるわけない!けど、そんなあり得ない妄想さえ頭に浮かんでしまう程、フレッシュな肉や内蔵がつぎつぎと鮮やかに切り取られていって……フレッシュだなんて言いたくないけど、本当にそうなんだもん。
定着液?を注入しながら丁寧に皮膚をはぎとり、ひとつひとつの内蔵を取り出しては小さな気泡があわ立っている液体の中にチャプンと入れていく。時には直視出来ないほどのグロテスクな内蔵たちを、しかしまるで慈しむように丁寧にとりだしていく。
その映像に釘づけになって、これが何を意味しているのかすっかり頭から飛んでいたんだけど、ようやくその執拗な解体描写が終わり、ふうと息をついたら、皮膚を縫っている彼の手からカメラが引き、それが、それが、それが……自分自身で自分の腹を縫っているんだもん!

え?そんなのって可能なの?だってもうそんなことしたら、完全に死んでるじゃん……と衝撃を受ける。
でも、ラヨシュが今どこまで生きているのか、奇妙な機械に全身をつながれて、まるで途中からはプログラミングされたその機械に動かされていたみたいに。
そして、そしてっ!縫い終わった彼の、その首に徐々に白く光るカマのような刃が近づいていくのだ。ええっ、まさか……と思っていたら、そのまさかなの。
すぱん、とまるでオモチャの首が飛ぶみたいに、ラヨシュの首がはるか後方に勢いよく飛んでいく。もうそこまでに完全に処理しているから、血さえ、出ないのだ。
そ、そんな、そんなことって、アリ?もう、もう……大ショック。

しかもその決着の仕方が、更に凄まじい。カットが変わると、どこかの講演会?パーティー?あれはラヨシュの地下作業所をそのまま使っているのだろうか。白づくめの男女が奇妙に動かないストップモーションのような状態で、目をギョロギョロさせながら群集まっている。
会場に飾られている、あの巨大な父親の剥製、講演をしているのは、彼の最後の依頼人であったレグーツィ・アンドル博士。自らを剥製にしたラヨシュを讃えている。
その側にひっそりと佇む、ラヨシュの剥製……。たった一つの誤算は、機械の反動で右腕がねじ切れてしまったことだけれど、首と右腕がない状態でスラリと立っているその剥製は、まるで長い年月から掘り出された時にはその状態になっていたミロのビーナスのようにさえ見えるのだ。それぐらい、完璧だった。
ラヨシュは神の領域に手を出してしまったのか。

それこそ奥歯にモノが挟まったようなオフィシャルサイトでは、この作品の衝撃がいっこも伝わらないのも歯がゆい。デビュー作の「ハックル」を未見だったのが悔しい。恐ろしい若き才能。魔術的グロテスクジャンルのアンファン・テリブル。
登場人物から距離をおいて。感情よりも嗜好や意志を見つめたのだという監督と脚本家の奥さんコンビは、超強力。「一代目は愛や性愛、二代目は成功、三代目は不死なるものへの欲望」そうか……すごい納得しちゃう。
しかも彼が好きな監督の一人である、三池監督のお気に入り作品として挙げたのが、よりにもよって「オーディション」うー、判りやす過ぎだろっ!★★★★☆


たそがれ (いくつになってもやりたい男と女)
2007年 64分 日本 カラー
監督:いまおかしんじ 脚本:谷口晃
撮影:佐久間栄一 音楽:ビト
出演:多賀勝一 並木橋靖 速水今日子 吉岡研治 小谷可南子 福田善晴 高見国一 山田雅史 谷口勝彦 高槻ゆみ 河村宏正 前川和夫 玉置稔 横田直寿 谷進一 デカルコ・マリィ

2008/2/27/水 劇場(ポレポレ東中野/モーニング)
こ、これは……!傑作かもしれない。ピンクだし(というのもアレだが)キワモノかもしれないけれども(……怒られそうだな)、そして関西のノリが全編を支配してて笑わせ、確信犯的な自虐のムードも漂いながらも、胸が熱くなる、苦しいほどの切なさがある、涙を禁じえないのだ。
うー、私、本当に泣いてしまったよ……かなりの予想外。不条理ギャグっぽい方向に行っている最近のいまおか監督からして、ホント、キワモノを予想していたからさあ……。

この、64分の中にきっちりとたそがれの人生の辛さを盛り込み、後半はしっかりと初恋が甦る恋愛物語になっているこの凄さ。だって二人はもう65歳であり、女性の方は夫に先立たれているとはいえ、そして男性の方はもう余命いくばくもない妻を抱えているとはいえ、孫までいる、世間的には「おじいちゃん、おばあちゃん」なんだもの。
でも前半でその問題はしっかりとクリアし、しっかりとクリアしているからこそ、後半、二人がラブホテルで抱き合う時にはもはやキワモノではなくなってる。
それは単にもう連れ合いを亡くしたからなんていう都合の良さではなく、そうした辛さを同じように経験してきたからこそ、今二人でいたいという想い。それが納得できちゃうのだもの。

あのね、これって二つの映画を思い出さずにはいられないのよ。「コキーユ〜貝殻」「透光の樹」。私、二つとも大っ嫌いなの。前者は、同窓会で再会した男女が深い仲に陥る部分、後者は同じく再会をモチーフにして、熟年の恋を描いている点。
「コキーユ」はね、確かに恋愛映画だったかもしれない。でも彼らが年を重ねている大人であるという設定がきれいに置き去られて、まるで意味のないものになってた。愛している筈の家族は置き去りにされ、何ひとつ意志の疎通をすることなく、ウツクシイ恋愛に没頭してた。ただそれだけだった。

そして「透光の樹」もそういう部分にもムカついたけど、年を重ねた大人のセックスが、結局は見るに耐える人を選んでいる点で現実味がなかったし、年を重ねているという部分にそう、結局は目をつぶったということは、年輪を重ねた方たちに対して凄く凄く失礼なことだったのよ。
こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど……おじいちゃん、おばあちゃんのセックスなんてちっとも美しいものじゃない。確かにそれはキワモノだ……でも彼らが必死に生きてきた人生をきちんと映し出せば、自虐的にでも映し出せば、その先にあるセックスは、美しいのだ。
美しかった。ちっともキワモノなんかじゃなかった。彼らが素肌で抱き合う姿に、胸が熱くなったのだ。

凄くね、確信犯的な笑いはいっぱいあるのだ。だって彼らがセックスに頭でっかちになる中学生時代を、何と今の彼ら自身が学生服を着て演じているんだもの!時にはかぶったそのカツラを脱ぎ捨てて!
え、えええ!せめてそこは年相応な役者使ってあげようよ!と思ったりもし、苦笑しつつ見守ることになるんだけど……それこそが、この作品の正解なのだ。常に老いている自分を見つめている、自覚しているからこそのホンモノ。

身体が動いているうちは、連れ合いが元気なうちは、子供を育てているうちは、がむしゃらに、誇りを持って人生を生きていた筈の彼らが、身体が思うように動かなくなり、連れ合いを無くし、子供たちにジャマモノ扱いされ、いいようにあしらわれてくる哀しさ切なさは、自虐でなければ辛くって描けやしない。
老いては子に従え、なんて言葉が古い時代のものではなく、現代でもむしろ強要されている、しかもそれが女性ではなく男性にもということを実感する。
それをきちんと見せられるから、後半、「老人の恋」「高齢者の性」がキワモノではなくなるのだ。

とは言いつつ、そこはそれ、ピンクだし、いまおか監督だから?トンでもないことだって様々あるけどね!?
冒頭、主人公の一人、65歳の鮒やんの登場シーンは、いきなりスーパーで女性客のスカートをめくることだし(!!)、とっ捕まってこんこんと諭されてもまるで悪びれず、「いつもあんなハデなパンツはいてんのかいな」とニンマリとする始末。色っぽいスナックのママとはバコバコヤッちゃってるし、幼なじみたちとストリップ劇場に足を運んだりもするエロジジイなんである。
でも、左官職人として必死にやってきて、手に職がついていたら一生働けると思っていたのに、足を悪くしてからは時々頼まれて仕事をするぐらいだし、大半は隠居状態で娘にガミガミいわれている状態。そして妻はガンで入院していて、もう助かりそうもない。こんな筈じゃなかったのだ。

この妻の存在、登場シーンはほんの少しなのに、そして鮒やんのほんの少しの補足だけで、この夫婦の全てが見えてくるのも凄い。こういう脚本の力や演出の力は、60分前後という尺が決まっているピンクならでは。
入院している妻を見舞いに行く。彼女もまた老い、見るからに命のともし火が消えかかっている、見るのも辛い状態。
しかし彼女は、夫をちょいちょいと呼び寄せて「オメコ触って」と囁くのである。「こんな恥ずかしいこと何度も言わせんといて」鮒やんの戸惑った表情からも、恥ずかしがって布団を顔まで引き上げる彼女からも、この妻がそんなことはよう言わん女だったことは推測される。

後に鮒やんは「そんなこと、今までひと言も言ったことなかった」と述懐して、ああやはりそうだったかとしっかりと腑に落ちる。
ピンクならではの展開?と一瞬思ったけど、シーツの下に手を入れて神妙な顔でさすってやる鮒やんの表情と、目をつぶって切ないうめきのような声をあげる妻とは、悲哀や切なさこそ漂えど、決してエロなんかではないのだ。
そしてコトが終わり、妻は鮒やんに「ありがとう。あんた、頑張りや」と声をかけ、次のカットではもうベッドが片付いている。恐らく最期の言葉。なんかそれが、たまらなく胸にしみたんだよなあ……。

同窓会で初恋の相手、和子と再会した時には、軽く思い出話をした程度だった。
そして妻を見送り、再び二人は会うことになる。和子の方から連絡して来たのだった。藤色の和服をしっとりと着こなした彼女は、同窓会の時よりも更に美しかった。「おしゃれしてきたん」和子は恥じらうように笑う。
確かにしっかりとおばあちゃんな様相ではあるけれど……年相応なりの美しさが彼女にはある。やっぱり大人の恋を描くんだったら、そういう部分を見逃がしてほしくないと思う。若く見えるとか、とてもそんな年には見えないなんていう女優の美しさが、こういう場合になんの意味があるのかと。

そして鮒やんの方なんか、カッコ良さも渋さもかけらもない。ホンットにただの関西のオッチャンである。
最初にこの二人をパッと見て、セックスまで描く恋物語なんて聞いたら、そりゃあキワモノだと思う。
いやむしろ、そのインパクトはネラってたと思うけど……もうこの時点になってくると、鮒やんの人生も和子の人生も見えてきて、そして二人の初恋の思いに戻っていく旅が、とても心に響くものに昇華されているのだ。

とは言っても、彼らの間に引っかかっていた“思い出”っつーのがまた、トンでもないものだったんだけどね!
何せ中学生時代、男の子はセックスのことを覚えたてで興味シンシン、新婚夫婦の寝所を覗きに行ってみたり(そうした部分で、ピンクの条件をクリアしていくあたりは上手い)して、「女の方があんなことするんや……」とショックに近い妄想にふける。
思いつめた鮒やんは、神社の境内に和子を呼び出してズボンを下ろし、「頼む、和ちゃん、俺のなめてえな!」お、おいおいおいおいおいおいー!
しかもこの回想シーンも、先述の様に彼ら自身がやってるもんだからもう、ギャグなの!笑うしかない。この場面のことを考えると、確かに中学生にはやらせられないよな……。

それから50年、その事件?が起こった神社の境内に腰掛けながら、そんな思い出話をして笑い合う。和子は鮒やんが、その時のことを気にしていたのではないかと心に引っかかっていた。あの時以来、疎遠になってしまった。好きだと言うことも出来ずに……。
そして和子は改めて告白をする。息子夫婦について東京に引っ越さなければならない。もう会えなくなるからと、和子は精一杯おしゃれをして、50年前に言えなかった思いを伝えに来たのだった。

そんなことを聞いてしまったら、もうたまらない。鮒やんは強引に和子をラブホテルに連れ込む……とまあ、このあたりの衝動はピンクならではなのかもしれないけど、そっから二人がセックスに至るまでにはまだ間がある。
当然和子は当惑し、鮒やんが愛撫を仕掛けても何度もその手をいなすし、「じゃあ、こうしよう」と彼を抱きしめて子守唄を歌いだす始末なんだもの。
でもね……ああ、この台詞が私、一番突かれたなあ。こんなことして世間の目がある、とかいうことを和子は言うのね。そりゃ当然だ。
でもそれに対して鮒やんが「世間は俺たちなんか見てない」あ、「世間は俺たちを見捨てたやないか」だったかな、そんなことを言うのね。それ、すっごい心を突かれたな、と思って……。

今までそれこそ、世間に沿うように、そこで認められるように必死に生きてきたのに、役立たずになったら世間というものは自分たちに見向きもしなくなる。
それでも世間を気にせずにはいられないけれど、でもそんなこと気にせずに、甦った初恋の思いでつながれたら……。
そして二人は結ばれ、鮒やんは和子と残りの人生を生きていきたいと願う。共に連れ合いを亡くした者同士、一緒に暮らしたっていいじゃないかと。
鮒やんの気持ちは判るし、そう出来たらどんなにいいかと思う、でも出来ない。なぜ出来ないんだろう……。
「私、今晩のことで残りの一生生きていける」と言う和子。

でもね、和子も逡巡してるんだよね。鮒やんが帰宅すると、和子の息子夫婦が帰りの遅い母親を心配している、と二度も電話があった、と娘が困惑顔。
そこに鮒やんの携帯が鳴る。家に帰れないでいる和子からだった。電話ボックスで悄然としている和子、泣いていた。彼女を抱きしめ、口づける鮒やん。もうこのあたりになると、路上で65歳同志がこんなことしようが、ちっともキワモノなんて思わなくなってくる。胸にグッとくるシーン。

息子に、本当の自分、女である母親を見てもらいたいと、臆する鮒やんを連れて和子は家に帰る。いかにも気の強そうな嫁と、冷たそうな息子が出てくる。いくつやと思ってるンや、とメイワクそうな顔して言う息子に和子は毅然として、「私、今日ほど幸せな日はない。私、女や」と言い放つ。
そして「飲み直そう」と鮒やんを家に上げ、二人は河内音頭で踊りだす。あのね、この時に和子と踊っている鮒やんが、いつも引きずっていた足が、まるで治ったように軽やかになっていたのは見間違いじゃないと思うんだけど……アレは深い意味があったのかなあ。

結局、和子は息子夫婦と共にこの地を去っていく。それを鮒やんは遠くから見守っている。それに気づいた和子は軽く手を振る。
この別れのシーンの切なさときたら、もうホント、ないんだけど。
でもラスト、重くならないのはね、ただ一人の理解者であると言ってもいい鮒やんの孫が、落ち込んでいるじいちゃんを元気付けるために、替わりにスカートめくりをやったる!とスーパー中の女性のスカートをめくっていくシーンが最後に用意されているから。
ああ、これがあったから冒頭、トンデモエロじじいとしてのスカートめくりがあったのかと思う、粋なラスト。胸につくんと残って離れないものはあるけど、いや、だからこそ、人生は尊いんだよね。

一緒にワルやった友達が病に倒れるエピソードもあるし、自分だけが相手だと思っていたスナックのママが、若い大工と関係を持っていたのを目にしてショックを受ける鮒やんの描写も、老いていく焦燥や不安を示してて、笑いを挟みながらも常にそうした視線は保たれているんだよね。
だからこそ、奇跡のように甦った恋の気持ちと、肉体の結びつきが輝きを放つし、セックスのつながりよりも、それを超えて気持ちの深い部分を揺さぶってくれるのだ。

いやー……ちょっとヤラれたなあ。もう、いまおか監督はいっつも予想外のボールを放ってくるんだから!★★★★★


たみおのしあわせ
2007年 118分 日本 カラー
監督:岩松了 脚本:岩松了
撮影:山崎裕 音楽:勝手にしやがれ
出演:オダギリジョー 麻生久美子 原田芳雄 小林薫 大竹しのぶ 忌野清志郎 石田えり 富士眞奈美

2008/9/2/火 劇場(シネマート新宿)
どうもなにかねえ、演劇畑の人が映画を作ると、私的にはピンと来ないことが多い……なんか、続いちゃったな、「同窓会」から。
でもこの場合は演劇の人というより、「時効警察」チームというべきなんだろうか?監督自身は勿論、キャストも大分、かぶってる。私は殆んど観てなかったんでアレなんだけど、以前にも時効警察チームの作品「転々」は、なあんか私は、乗り切れなかった。

それがね、なんか要素が共通していたような気がするのが……小ネタにこだわるところだったかもしれない。物語の本筋には関係ない、観客をクスリと笑わせるような小ネタ。
本作では、ミスドの店内の壁にある、鍵穴のような、小さな扉のようなものが、何なんだろうと店員に聞くと、設計者に聞かなきゃ判らない、なんて大げさなことにまでなって、皆して首をかしげているというシーンなんか、顕著。
たみおと彼女のデートのシーンではあるけれど、二人の関係にも、物語の筋にも、ぜえんぜん、関係ない。
こういう脱力系の小ネタってさ、これは私の偏見かもしれないんだけど、ことに映画にはあまり向かないような気がするのよ。
決まった尺があって、大きな流れに観客を乗せなければいけない映画の場合、ここで無意味に流れを止めてしまう。なんとなくね、本作にはそういう要素がいっぱいあったように思えたのだ。

それは、物語の筋に関係あるところでも、本質的な部分でさえ、そうだったかもしれない。
タイトルロールの主役であるたみおが、もう30男だってのに身を固められないのは、もうひと目見てダサ男だってことが原因なのは判る。それを演じているのがオダジョーだってのが少々イヤミにしても、彼はさすが達者で、そうしたダサ男もサラリと演じてみせる。
チェックのシャツに白いスラックス、シャツは一番上のボタンまで止めるべきか、なんて悩んでいる時点で、その前にこのファッションこそが大問題なのに、上まで止めたらもう壊滅的だよ、とハラハラする。
その割には、靴まで新しいとカッコワルイ、なんてところはこだわったりするんである。
んで、長い髪を後ろでまとめて、肩掛けカバンでしょ、まるで懐かしの「電車男」状態。いや、それよりヤバいかも……。つーかこのカッコで一体どんな仕事についているのかも、結局最後まで判んないし。
そうしたカッコのことで父と顔をつき合わせて、そんな靴のことまであーだこーだやっているのが、そんな、流れを止めるネライ過ぎの様な気がしちゃったんである。
でもそれを言ったらキャラは全員ネライまくりで、成立しなくなっちゃうんだけど……つまりはこの辺は、単に好みの問題かなあ、やはり。

民男は父親と二人で暮らしているんである。母親はもう鬼籍に入っている。
実はこの母親が死んだ時に、父親は別の女のところにいた、という確執があって、それを聞くまでもなく、父親がこの年齢まで一人でいることが、単に一人息子を心配しているってだけでないのは雰囲気で察せられるんである。
まあ、雰囲気っつーか……父親を演じているのが原田芳雄だから、色気ムンムンだしさ、それを言ったらオダジョーだってそうな筈なのだが、まあその辺は彼は巧みに色気を押さえ込んでいるので。
冒頭、デートに着ていく新しい服を物色していたデパートの屋上で、孫と思しき子供とボール遊びをしていた壮年の女性が「こっち見てる」としきりに気にする息子を、いつものことのように持て余し気味な父親、というのが、常にモテモテである父親の女関係を牽制しているのは一発で判る。そして息子は、本当にこの父親の子なのかってほど、対照的なんだよね。

実際、父親には現在付き合っている女性がいる。仕事先のパートさんである宮地さん。演じるのが大竹しのぶだから、これが結構生々しいんである。
それを言ったら、父親が息子に遠慮して別れてしまったやはりパートさんだった過去の恋人、宗形さんにしたって、石田えりなもんだから、それ以上に生々しい。しかも若い時でしょ、なんか、原田芳雄と石田えりかあ、なんてリアルに想像しちゃうんである(爆)。
というか、現時点で原田芳雄と大竹しのぶはかなりベッタリ、ラブラブを演じるので、うう、なんか結構、見てるこっちがテレてしまうかも。
だって若いオダジョーと麻生久美子の方は、まるで中学生の恋愛かってなぐらいに、遅々とした進展具合なんだもん。

度重なるお見合いを何度も断わって、ようやく理想の女性、瞳さんに出会えた民男。つーか、この風貌で(元がオダジョーだってのは、ナシにしてよ)度重なる見合いを断わり続けたってのが、なかなかに強心臓ではあるが。
いや、やはり民男にとって、そして父親にとっても、互いの存在、そして関係がその要因だったのは、「卒業」なラストを待たずとも知れるんである。
理想の女性と思えた彼女だけど、なんか、かすかに、危険なんである。いや、そのことに民男自身は気付いていない。それに気付くのは父親の方。
瞳さんが若い身空に似合わずに囲碁が趣味だったり、父親の誕生日に自分の送別会を抜け出して二人で食事したり、その際のプレゼントのネクタイには自分の名前がコッソリ刺繍してあったり。
そして、亡き妻の浴衣を着た姿に声を無くした父親は……それはつまり、亡き妻が現われたと思ったに違いないのだ。
しかもおなじヒトミ、妻の名前は仁美といった。一緒に食事をした誕生日の日、父親が妻と同じ名前を呼ぶことになることを、なんだか瞳さんは嬉しそうにしていたのだ。

しかも瞳さんは以前、勤め先の上司と問題を起こしていたらしい。民男に対しても「バカな女なの、私。凧みたいな女だから、ちゃんと捕まえていないと、どっか飛んでいっちゃうの」と自嘲していたりして。
それがどういう意味だったのか。文字通り惚れっぽいのか、それとも、かつての恋しい年上の男を思って、まだ気持ちがフラフラしているという意味なのか。
瞳さんはね、携帯電話を持ってないんだよね。民男と土手をデートしていた時、そこを通りがかった男が、浮気相手と思しき相手に「子供の誕生日だから……」と携帯で言い訳しているのを耳にして、「携帯って、未練がましいよね」とつぶやいた彼女は、そんな経験をしたに違いない。
で、民男も携帯、持ってないよね。瞳さんとミスドに入った時、客の皆が一心不乱にメールを打っているのを呆然と眺めている。こういう店に入ることもない民男は、どうも世の中の動きがよく判っていない男なのだ。

でも確かに、この描写は少々大げさにしても、いつでもどこでもメールをしてる人々って、なんか目が座っているというかトランス状態で、しかもそれがあちこちにいて、なんか確かにちょっと異様なんだよね。
それは、私もまた携帯を持っていないから、そんな風に見える訳で、それ自体、多分に時代遅れなんだけど、でも恐らく以前は携帯を持ってて、今は捨てた瞳さんにとって、それは余計に心にチクチクくる光景だったに違いない。
あるいは、なんか意味もなく出てくる忌野清志郎が、常に携帯電話を持って店から外に出てて、連れの男に怒られているのよね。するとキヨシローは逆ギレするわけ。「オレをつなぎとめておくだけの、会話をしろよ!」って。それもいつも同じ台詞。
呆れた連れが「友達なくしますよ」と言うと、「最後に残るのが、本当の友達だろ!」とキヨシロー。「それがいなくなるって、言ってるんですよ」
携帯電話と人間関係のズレを、ビミョーに指摘している??

ところで話は戻るけど、あの浴衣を着せたのは民男だったんだよね。
夜半、訪ねてきた瞳さんと一緒にアルバムを見ていたら、ふとした拍子にジュースを彼女のスカートにこぼしてしまって、亡き母の浴衣を貸したのだ。そして、しっとりと似合っている彼女に見とれて、襖の陰でイイ雰囲気になるんだけど……。
でも、彼女が夜半訪ねてきたのは、民男に会いたくて、ではなかったんじゃないかって。帰って来た父親の背広をかいがいしくハンガーにかけてやったりとかするし、やっぱりアヤしいんだもの。
決定的だったのは、民男との結婚式の当日の出来事だったのだが……。

一方で、民男の方には父親の問題が見えている。昔から、父親が自分のために恋愛関係をセーブしていたのは判ってた。
だから自分が身を固めることが出来そうになって、父親にも幸せになってもらいたいと、つき合っている女性、宮地さんとの関係を応援しようとするんだけど、彼は知ってしまうのだ。
その女性と叔父がである透が、ただならぬ関係に陥っていることを。

とゆーか、その叔父ってのが、この物語を引っかき回すんである。言ってしまえば中盤の主役と行ってもいいぐらい。
民男の母の弟である透。もともとこの病院つきの一軒家は、彼が所有権を持つべきもの。医者にならずにニューヨークに飛んだ透は、長い間連絡もなく、だから父子はゆったりとこの家で暮らしていたのだ。
しかし、いつからなのか、透はコッソリ、天井裏で暮らしているんである。
床に落ちているペットボトルのフタ、つけっぱなしのエアコン、濡れている流し。父も民男も喫煙者じゃないのに部屋にタバコの匂いが充満しているもんだから、父親は昔付き合っていた宗形さんじゃないかと疑い、息子も、「(昔の男の家に入り込んでタバコをすうような)そんな女だったよ」と吐き捨てるように言って、二人の仲は気まずくなる。そして今のカノジョである宮地さんも巻き込んで、ビミョーな雰囲気になって。
でも、その犯人はこの叔父で、ほんっと、いつからこの天井裏に住み着いていたのか、考えるに恐ろしいんだけど。

ついに近所のおじいちゃんに見つかり、いつ帰ってきたのかと聞かれ、なんかなし崩し的に……口止め料ってワケでもないんだろうけど、このおじいちゃんと恋人のための、ラブホ的な場所として今は使っていない診療室を提供するんである。
これがイイカネになるもんだから。次第にその輪がどんどん広がり、近所中の肩身の狭い老カップルが続々と集まり、バッティングしちゃうもんだからシフト表まで作り、しまいには乱交状態になり??(声だけだから判んないけど……声だけだけに、生々しい。)
しかもそこで鍼灸教室まで開いて、うっかりそこに入り込んじゃった宮地さんは、もうパートも休んでちゃっかりカネ稼ぎに加担して、このイーカゲンな透と恋仲になっちゃう。
ていうのも、息子に遠慮ばかりして、煮え切らない父親にイラ立っていたせいも確かにあるんだけどね。

それにしても、小林薫はこーいう役続いてるよね。ちゃらんぽらんで、旅がらすで、調子ばっかりよくて、刹那的に人生生きてるっていうかさ。しかもそれが、すんげー、似合ってるし。
彼が、「ニューヨークから久しぶりに帰国した叔父」を演じる場面の、いつの時代の映画の影響なのっていう、膝上ズボンにハイソックスにサングラスといういでたちには、笑った。
しかし彼が吸っているタバコが「国産だよね」と民男に見抜かれるあたり、ウカツ。てゆーか、それってホント、一体どれだけ長い間、あの屋根裏で暮らし続けてたのよ!

この物語は、中高齢者の恋愛を後押しすることが目的なんじゃないかと思われる節がある。ことに、高齢者の。
そりゃ小林薫や原田芳雄や大竹しのぶや石田えりは全然違和感ない。むしろ、オダジョーたちの方が違和感あるぐらい、もう恋愛マスター、ベテランなんである。
でも、いわばワキ役となり、しかし大きな役割を果たす、診療室で愛を確かめあう老カップルたちが、大きなインパクトを与えるんだよね。
近所の目を気にして、会う場所もままならない。でも、ただ“会う”だけなら、そんなに苦労する訳もなくて……つまり、それ以上のことがあるワケで。
考えてみれば、小林薫たちがベテランなら、彼らは大ベテランなわけで……年をとったからって、ソレが恋愛の要素に含まれない筈がないんだもんなあ。なんか、生きる勇気が沸いてきた??

父親は息子のフィアンセが、どうやら自分こそに好意を抱いているらしいことを危惧する。決定的だったのは結婚式当日、ウエディングドレス姿で、彼の胸に顔をうずめてきたから。
それがどういう意味なのか、確かめることさえ出来なかったけど、それまでの要素がありすぎたから……。
そして息子の方は、自分が家を出た後、父親と幸せになってほしいと思っていた宮地さんが、叔父と関係を結んでいることを知って苦悩する。診療室をいかがわしい目的で勝手に使われていたことさえ、父親には言えずにいるんである。

そんな親子の気持ちが、教会での誓いの言葉の最中、爆発する。
それぞれに、走馬灯のように危惧する場面がめぐりまくり、誓いの言葉に民男が詰まった時、父親は、こともあろうに、息子の手をとって教会から逃げ出すんである!!
そして、どこに行くとも知れないバスの後部座席に二人、陣取る。

って、まんま「卒業」じゃん!

……なんかね、最初からこれを、「卒業」のパロディをやりたかっただけなんじゃないのかなあ、とそんなことも思っちゃうのよね。
思えば、「卒業」は、若い青年がオバチャンとヤッちゃう話だったりするしなあ……あらゆる年齢の恋愛のコトを確かに感じさせるよなあ。
私、あの「卒業」の、後部座席の二人で終わるラストシーンが衝撃で、いまだ忘れられないのよ。ドラマチックなハッピーエンドの筈のシチュエイションなのに、後部座席でなんか疲れた顔しちゃって、全然、幸せそうじゃなかった。
しかも前半部の、オバチャン、もといフィアンセの母親との情事の方が印象強烈だったりしたからさ……。それを下敷きにしたパロディなのだとしたら、そりゃー、救いはないだろー。父と息子で「卒業」はないよな……。

しかも二人が降り立った、どこともしれぬ場所で、彼らは亡くなった母親、仁美を見る。
後のバスから降りた彼女は、顔を見せることなく、背の高い草原に入っていく。
顔が見えていないのに、民男は、母さん、と呼び、その後ろの父親も呆然としたような顔をしている。
彼女を追って、草原に分け入る民男。そして、父親。
ここでオワリって、一体どういう意味なのよ……。
えー?何それって、思わず口に出してつぶやいちゃったよ。
それって、結婚出来ない(したくない)男の、本音なの?

そもそも、惹句が「結婚しても、しなくても、どのみち君は後悔することになる−ソクラテス 」なんだもん。
私的には、それはこっちの台詞だと言いたくもなるが??
でもきっと、瞳さんはどのような形であれ、結婚したら幸せへの道が開けると、思ったんだよね。だって彼女の方からプロポーズしたんだもん。「あの、お願いします。結婚してください」って。
そして民男はそこまでの考えには至っていなかった。そこまで深い考えはなかった。むしろ父親が幸せになれる方法であり、それは自分たちの生活が、関係が壊れない方向性だった。

結婚してもしなくても後悔するなら、どっちを選ぶべきなのか。
きっと、すべきだと、人は言うだろう。
でも、この結末は、民男はそれを選ばなかったように思う。瞳さんは選んだのに。
ひょっとしたら、それが男と女の本当の本音、なのかな★★★☆☆


丹下左膳 坤竜の巻
1956年 61分 日本 モノクロ
監督:マキノ雅弘 脚本:棚田吾郎
撮影:永塚一栄 音楽:鈴木静一
出演:水島道太郎 沢村国太郎 南田洋子 金子信雄 河野弘 中川晴彦 河津清三郎 伊丹慶治 伊達信 植村謙二郎 小林重四郎 月丘夢路 フランキー堺 堀恭子 坂東好太郎 雪岡純 利根はる恵 森健二 坂東要二郎 玉村俊太郎 清水将夫 弘松三郎

2008/2/8/金  東京国立近代美術館フィルムセンター(マキノ雅広監督特集)
ねえ、これもまた超有名な題目ではあるけど、私は未見。
大河内伝次郎&伊藤大輔監督版がまず有名であって、それも未見なのにマキノ版の、しかもしかも三部作になっている二部作目をいきなり観たもんだから最初のうち……というか結構全般に渡って???
あー、これってホントにいわゆる続き物で、第一部を観ていることが大前提で、しかも続く第三部を観ることも大前提になってる(焦)。だって、「後編、近日上映」のラストクレジットだよー、全然終わってないっ!私ってばなんて中途半端なところを観てるのだ……。

しかし映画にしてもドラマにしても、初めて観る丹下左膳に興味シンシン。こんなにおどろおどろしいというか、まがまがしい雰囲気に満ちたものだとは思っていなかった。
いやそういう雰囲気にしたのは、マキノ監督の考えるところだったのかなあ。今まで触れてきたマキノ作品はいつでもワクワクする、笑いも多いエンタメだったから、このまがまがしさにへえーっ、と思う。

で、私の観ていない第一巻では、この呪われた妖刀の存在をまだ知らないうちの左膳は、本作よりは普通の男だったのかもしれない。
普通の男というのもナンだが……なんたって右眼右腕が欠損したはぐれものなんだから、世をヒネて見てはいただろうけど。
本作の左膳があまりに最初から最後まで狂っているもんだから、ドギモを抜かれたのだ。だって、ねえ。狂った男が主人公だなんて、ちょっと有り得ないことでしょ。
いや左膳自身も、自分が正気じゃなくなっていることは自覚している。妖刀、乾雲はその手にしただけでうなりをあげ、持った彼自身を狂わせるのだ。
そして次々に人を斬っていく。それがいきなり冒頭で、彼は左手で乾雲をメチャクチャに振り回し、無数の御用提灯に追われているのだ。

で、第一巻を観ていないから一体どうなっているのか、しばらくはどうも??なんだけど、彼が町奉行から逃れられるのは、この刀をめぐるいざこざが岩城藩が絡んでのことらしいからだというのが次第に判ってくる。
暴れ廻る左膳をかくまい、この乾雲と対になる坤竜を手に入れることを約す彼を動かしているのが藩主たちなのだけど、彼らはもはや左膳を持て余し気味といった雰囲気なんである。
まあ、そりゃそうだ。いくら藩邸には町奉行が手を出せないからといっても、見境なく斬りまくる浪人をいつまでも放ってはおけない。
坤竜を手に入れる件から手を引くように言っても、「俺は藩主様直々に、お前に手に入れてほしいと言われたことを信じている!」と左膳はガンとしてきかない。だから左膳は、逆に藩に命を狙われるようになってしまうのね。

この丹下左膳を演じる水島道太郎の、妖刀に憑かれた様はまさに狂態の恐ろしさ。左膳自身がこの刀に振り回されているのを判ってて、それでも逃れられない、先には地獄が待っているのが判ってて引きずられる哀しき狂態が、圧倒的。
それにやっぱりこれはモノクロの力で、モノクロの闇が、そのまがまがしさを十二分に発揮しているのよね。スクリーン全体に異様な空気が充満している。まさにこれは、妖刀の妖気だろうか。

乾雲は対になる坤竜を呼んで、求めて、うなりをあげて左膳を引っ張りまわしているんだよね。その坤竜を持っているのが、左膳に一太刀浴びて怪我を負ったという栄三郎(というのは第一巻で描かれているらしい)。
彼が何故坤竜を持っているのかは、それこそ私が未見の第一巻の部分なので、このあたりも観ていてちょっとややこしいのだけれど、もともとこの二刀の持ち主である弥生という娘が、栄三郎に坤竜を預け、しかも彼女は栄三郎に恋をしているらしいのだ。
しかし彼女は、栄三郎にお艶という女房がいることを知らない。そして左膳にホレているお藤という色っぽい年増(時代用語で言う年増ね。ま、20代中盤ってところだ)が、弥生をけしかけて栄三郎の長屋を訪ねさせ、お艶と問答している最中にまんまと坤竜を奪ってしまう。

お艶も、栄三郎がうなりをあげる坤竜に取り憑かれかかっていることを心配していた。しかもなんかよく判んないんだけど、栄三郎はええとこの坊っちゃん(あ、調べてみたら、弥生の親が開く道場の師範代だ)で。お艶は自分みたいな女が彼と一緒になるなんて、身分違いだと思っているらしいのだ。
自分の不注意で坤竜が奪われてしまい、動揺するお艶。一方でそんな妹を心配する兄の与吉が、栄三郎と別れさせ弥生に渡す手切れ金として、こともあろうに左膳の元から乾雲を盗み出してきたことから、更に話がややこしくなる。再び二つの刀は別れてしまったのだ。

この与吉を演じているのがフランキー堺でね、彼はこの重苦しい話の中で、唯一息がつける存在。あの独特の軽みで、あっちこっちと敵味方の間を自在に動き回る。
お藤と藩主たち双方に、栄三郎の居所を探るという依頼を受け、敵味方である両方からちゃっかり報酬を頂こうというトンデモナイ奴なのだけど、双方共にすねに傷持つ身だから、このお調子モンをそうそう問い詰められないのだ。
そして当の左膳と栄三郎は、二刀をその手にしたいという妄執に取り憑かれて、そんな小物のことよりも、目の前の相手を倒すことの方が大事なんである。

橋の上で、二人は行き遭う。お互いにお互いが持っていた乾雲と坤竜が入れ替わって、うなりをあげる二つの刀が火花を散らす。腕づくで奪わなければ本意じゃないと、二人は元のとおり乾雲と坤竜をお互いに手渡してから(律儀だな……)再び死闘を繰り広げる。
この時には、二人を襲うべくあまたの手練れが周りを取り囲んでいるんだけれど、二人はものともせずに異様な空気を発してやりあうのだ……絶対、狂ってる。この二人の一騎打ちは、いわゆる剣豪の一騎打ちの潔さなど微塵もない、まがまがしい迫力に満ちている。

と、栄三郎が坤竜を手にしたまま川の中に落ちて(飛び込んで?)しまう。あっ、と観ているこっちまで思わず声をもらしてしまう。
左膳は襲いかかる周囲をなぎ斬りながら、「死ぬな、坤竜、坤竜!」と叫び続ける……栄三郎の名ではなく、刀の名前を叫びながら死ぬな死ぬなと叫ぶ左膳の異様さ。
この人数で彼を捕らえられない手練れたちは、絶対に彼にのまれている。それを俯瞰でじっと見つめるカメラの冷徹さ。

いくらなんでもの左膳の暴れように町奉行、大岡越前がついに最後の手段、藩主に直訴する。しかし藩主は知らぬ存ぜぬの一点張り。これも第一巻を観ていないと判らないんだけど……そもそもはこの藩主が、二刀を欲しいがために起こした騒動が発展したらしいのだ。
さて、このあたりで私の記憶は急速に遠のくのだが(うっ、最後の10分くらいだったのにい)気づいてみると終マークと「後編、近日上映」のクレジットが。えっ?でも遠のく記憶の中でも必死に目をあけていた限りでは、左膳を追う町方のカットしかなかったような……と、とにかく第三巻に続くしかないってことなのか。私ったらなんて中途半端な……。

左膳にホレるお藤の、襟足を思いっきり抜いた着こなしで、しなりとS字に身体をくねらせて彼にすり寄るぞくっとする色っぽさ。それとは対照的に、若侍のようないでたちで、まさに男装の麗人といった趣の弥生の美しさ。
そして自分は卑し女だと、ひたすら卑下しまくりながらも栄三郎への思いをけなげにつむぐ町女のお艶、と三人三様の女性たちが、それぞれに非常に魅力的。
男たちが狂っているからこそ、その支柱を支える彼女たちが素晴らしい。★★★★☆


丹下左膳餘話 百萬兩の壺
1935年 91分 日本 モノクロ
監督:山中貞雄 脚本:三村伸太郎
撮影:安本淳 音楽:西梧郎
出演:大河内傳次郎 喜代三 沢村国太郎 山本礼三郎 鬼頭善一郎 阪東勝太郎 磯川勝彦 清川荘司 高勢実乗 鳥羽陽之助 若松文男 今成平九郎 高松文磨 葉山富之助 中村錦司 大倉多一郎 川島国男 梅田哲郎 南條竜之助 城井啓助 松本竜之助 宗春太郎 花井蘭子 伊村利江子 達美心子 深水藤子

2008/11/2/日 東京国立近代美術館フィルムセンター(大河内傳次郎 伊藤大輔監督特集)
立て続けに映画、ドラマとして豊川悦司、中村獅童という魅力的な俳優によってリメイクされていたのが気になってはいたけれども、過去作品、特にオリジナルを観ていない状態で新作を観るのがどうにも躊躇されて、スルーしてしまった。
今回、そのオリジナルを観る機会を得られる。それも、名作の誉れ高く、丹下左膳といえばこの人、という大河内伝次郎の本作を。彼の丹下左膳の姿は、スチール写真でよく見かけるけれど、その妖気漂う存在感に、この姿を動くスクリーンで観たいと常々思っていたから。

しかーし!他の大河内版丹下左膳を全く観てないからアレなんだけど(またこういう機会をつかまえたい!)本作の丹下左膳は妖気漂うとか、殺気漂うとか、ぜえんぜんない。オドロキの、スラップスティックコメディとでも言いたい趣なのだっ。
つーか、丹下左膳は、マキノ版、水島道太郎演じるものをまず観てしまっていて、それがまた、メチャクチャドシリアス入りまくっていたもんだから、余計に丹下左膳の重いイメージに拍車がかかっていたんであった。
まさかこんな超コメディだとは全く予期していなかったので、イチイチツボに入りまくって爆笑につぐ爆笑。映画の面白さに、古い新しいなんて関係ないんだということを改めて痛感させられる。
というか、喜劇映画としての基本が詰め込まれまくっていることに驚嘆するんである。

あのね、よく、芝居というものを同じうしていることで、舞台演劇と比較して語られたりするじゃない。でもね、映画でしか出来ないこと、映画でしか出来ない表現、というものが、勿論あるということを、こんな原点に帰って、思い知らされるんだよね。
それは映画という技術。カッティングという、舞台演劇には出来ない表現法。それを殊更に、芸術的に振り回すんじゃなくて、ここで切ってここでつなげば、人は笑うし、感動するし、驚くしってこと。
映画という芸術がまだまだ新しかったこの時代、彼らが試行錯誤し、アイディアを出し合い、挑戦してきたことが、今こうして、喜劇映画の基本になっていることに感動するんだよね。

コドモはキライだ、預かるもんかと言いながら、次のカットではごはんを食べさせ、竹馬なんかケガをして医者を儲けさせるだけだと言いながら、次のカットでは庭で竹馬に乗らせ、……その言葉とウラハラな行動の繰り返しが、しつこいくらいにこれでもかと押してくる射的場の女将さん。
こういう描写は、彼女の尻に敷かれていると思しき、この射的場の用心棒の丹下左膳においても繰り返しなされて入るんだけど、彼女のそれほどにはしつこくない。

というか、彼女に指示されたことにやだい、やだい、と言いながらも、次のシーンではしっかりその通りの行動をとっていたり、っていうパターンで、つまり、この同じ手法のギャグのカッティングで、既に二人の関係性をバッチリ示してる辺りも上手いのよね。
しかもこれだけ繰り返してくると、彼女がどんなにキツく言い放っても、いやいや、絶対次のカットになれば、裏返っているに違いないと確信出来、その確信がその通りになるというのも可笑しく、最初のうちは意表を突いた可笑しさだったのが、次第に予想に添った可笑しさに変わっていくという、観客を信頼した流れになっているのも嬉しい。
安心して笑える、それは心の温かさになっていくのだ。

というか、まずストーリーをなぞっておかなくちゃ。これは、ちょっとしたミステリだって入っているかもしれない。
百万両を埋めた在り処を塗り込めた、一見地味な壺。そんな秘密を知る由もなく、柳生家の次男、源三郎は、その壺を兄から結婚祝にと頂戴して江戸に出てきた。
しかし彼、剣術道場の婿養子として何とか生きる道は得たものの、一国一城の主である長子の兄が自分にくれたのはこんな汚い壺一つなのかと、それも妻からもこんな小汚い壺、と言われたことが最も堪えたんだろうと思う、こんな壺はクズ屋にでも売ってしまおうと思う訳。
しかし、故郷からこの壺を返してはくれまいか、いや、カネは出す、とまで言われて、彼は逆上しちゃうのね。そんなフザけた話はあるかと。
でもそれもやはり、婿養子としての立場ゆえの見栄っ張りだったかもしれないんだけど。泰然とした妻に、結局は最後まで頭が上がらず、ウワキの現場(この時代なら、あの程度でもウワキでしょう!)まで抑えられて、もうグウの音も出なくなっちゃうんだからさ。

冒頭はね、柳生家の城での描写なんだよね。主人公の丹下左膳が登場するのにもすんごい時間がかかるし、その丹下左膳をこの壺のことで振り回す、源三郎の登場までにも結構時間がかかるんである。
しかしこの丁寧な描写が、いかに次男以下がこの時代、ないがしろにされているかを物語っている。壺がクズ屋に売られるように、次男以下は、より良い“クズ屋”に売られるように、頑張らなくてはいけないんである。
この源三郎を演じる沢村国太郎の、ヒネてはいるけど育ちのいいお坊ちゃま然とした鷹揚さが、丹下左膳の殺気だった浪人といい対比をなして、左膳と射的場の女将さんのコンビと共に、笑わせてくれるんである。

ことにサイコーなのは、左膳がよんどころない事情で六十両もの大金を作らなくてはならなくなって、道場破りをした先が、射的場で顔見知りだった源三郎の道場だったという、一つのクライマックスであるシーン。
とかく弟子たちに、いや何より妻に低く見られている源三郎が、一糸報いる最大のチャンス、そして左膳も、顔見知りの源三郎なら、話をつければなんとかカネを融通してもらえるチャンス。
お互いの思惑が一致し、壁際まで自ら攻め込まれた左膳に源三郎が「負けてくれ!」「六十両だ」「高いな」「ビタ一文まからん」「よし判った!」という、一瞬のかけひきの、その情けなくもバカバカしい可笑しさと来たら、もう、もう、サイコーでさ!
ていうか、丹下左膳はさ、片目片腕の、異様な風体に異様な強さ、やっぱり私が抱いていたような、妖気と殺気が漂う剣客な訳さ。それがこんなさあ……その八百長試合がまた、やたらワザとらしく飛び上がったり、飛びすさったり、やたら芝居がかったアクロバティックなのも、可笑しいったらないの。
しかも、その後、とかく頭が上がらない妻に対して、ここぞとばかりにエラそーな態度を見せ付ける源三郎のちっちゃさがまた笑えるったら!

……つい脱線して、物語をなぞろうとした所からまたズレてしまったが。
でね、この壺がクズ屋に売られちゃってさ、その先が、もう一人のメイン、もしかしたら源三郎より丹下左膳よりも、メインかもしれない、コドモと動物には勝てないと言うけれど、この愛らしさ、ケナゲさにはそりゃ勝てないよなー、という、ちっちゃな少年、安なんである。
父一人子一人で生活していたのが、その父が殺されてしまったことで、ひとりぼっちになってしまった。
でもね、その殺されたというのも、源三郎が今ハマっている現状と、さして変わらないんだよね。つまり射的場の女の子に入れ込んで、毎夜おめかししては通いつめ、しかも自分を大店のダンナだなどとウソまでついてさ。で、射的の弓にナンクセつけたチンピラに、見事な腕を見せ付けたことから逆恨みされてしまう訳。

でもそれで殺されたのは、丹下左膳にもちょっとは責任あったと思うなあ。
帰り道、狙われるかもしれないからと、女将から命じられて(ここも最初、拒否するんだけど、お約束のカット替わりにはちゃんとそれに従っているという、アレね(笑))彼を送っていく。でも、大店だとウソをついている彼は、使用人の手前があるからと、途中で左膳を帰し、つけてきていたあのチンピラたちに殺されてしまうのだ。
虫の息の彼の口から漏れた、安をどうか頼む、という言葉から、一人きり、父親を待ち続けているちょび安を見つけ出した女将と左膳は、彼を引き取り、育てることになるんである。

二人が安になかなか、本当のことを言えないのも泣かせるんだよね。お互い、自分が言うのはヤだよ、と押し付けあって。
意を決して左膳が告げようとすると、「僕は泣いたことないから。あ、一度だけある。お母ちゃんが死んだ時」なんて言うもんだから、更に左膳がひるんでしまうのが、なんかクスリと笑っちゃいながらも、切なくてさあ……。
ほおんと、このちょび安が、この映画の真の主人公だったんじゃないかと思う。事実を告げられても、やっぱり泣いている姿は見せない。ただ、寂しそうな後ろ姿で、縁側にちょこんと座っているだけである。それがまた、キュンとさせるんだよなあ!

こういう、この子のけなげさは随所に現われていてね。メンコ代わりにしていた六十両小判を友達に返しにいく途中で盗まれちゃって、その始末をめぐって女将と左膳がケンカしているのに心を痛めてさ、出て行っちゃう場面も、泣かせるんだよね。
焼いている途中の餅が焦げた匂いで、安がいなくなったことに気付いた女将と左膳。「ケンカしないで」と手習いを始めたばかりのたどたどしい筆致の書き置きがまた泣かせる。
笑わせられる場面ばかりに気が行きがちだけど、ほおんとこの子のけなげさには、胸を打たれちゃうのだ。しかもこの、字を書けるようになった手習いも、寺子屋に行かせるか、剣術道場に行かせるかで、女将と左膳がケンカした末に、当然女将が勝った結果な訳で(笑)。親子の絆なんて、血じゃないんだよね、って、思わせてくれるのよね。

で、その六十両を得たのが、源三郎の道場破りだった訳よね。あー、やっとつながった。
しかしさ、六十両小判をメンコ代わりに使うなんてことになったのも、百万両の壺が見つからないのに業を煮やした柳生家からの使いが、その形の壺なら全て一両で買い取るというお触れを出したことから始まったんである。
左膳はちょび安が持っていた壺を売っちまおうと考えて先に得た一両を、メンコ遊びをしていた安にくれちまった。女将に怒られて、壺は売らなかったけど、それを見たお金持ちの友達が、家から六十両のデカい小判を持ってきて、メンコにして遊び始めちゃったのね。それで負けるあたりも可笑しいんだけどさ(笑)。

つーか、壺を探すフリをして、息のつまる家から逃げ出して射的場に入り浸っている源三郎なのよね(笑)。
彼は常に言い訳がましく、「江戸は広い。クズ屋もたくさんある。壺を見つけるまでに、十年かかるか、二十年かかるか。まるで仇討ちだ」と繰り返す。もう、散々、繰り返すのよ。繰り返しのギャグがここでも効いてて、しつこいと思いつつ、ついつい笑っちゃうのよ。
それを、柳生家のスパイとして、源三郎の御付としてついてくる男もマネするのが可笑しくてさ!だって彼、源三郎から小金を渡されると、それ以上付き従うのをアッサリやめて、で、柳生家からもチャッカリ手間賃を受け取ってさ、で、あの受け売りの台詞の繰り返しでしょ。そのお気楽さに、ほんっと、ウケちゃうんだよなあ。

しかし、そんなお気楽さんの中にも、マジメな従者もいるんである。
源三郎の奥様付きの老従者が、壺の発見を祈願に行った高台の神社からの望遠鏡で(こんなん、この時代にもうあるのか!)、左膳や射的場の女たちと金魚釣りに出かけた源三郎のその横に、あの壺があるのを見つける。
で、奥様に見つかりました!と望遠鏡を見るように促すと……彼女は壺の方は見ずに、ダンナが女と楽しそうに金魚釣りをしていることこそに釘づけになる。しかも源三郎、鬼嫁(爆)が見ているのも知らず、バカそうに釣り糸をペロペロなめてたりするもんだから、噴き出しちゃう。
それまでは百万両に目がくらんで、ダンナの尻を叩いて送り出していた妻が、「そんなに金魚がお好きなら、我が庭にも大きな金魚がたくさんございます!」とプンスカ言ってさー(爆笑!)それって、金魚じゃなくて、鯉じゃないのよ!!(大爆笑!)

つーか、ちょび安が金魚を入れていたその壺を見ていた筈なのに、全く気づいていないあたりが源三郎がボンヤリっつーか、バカっつーか(笑)。
そういうおっとり加減がなんとも、憎めないのよねー。ま、最初から本気で壺を探すつもりなんてなく、うるさい妻から逃げてノンビリ遊ぶのこそが目的だったんだから、しょうがないかな。
で、壺のありかを知り、左膳の協力によってあるじとしての威厳も取り戻した彼が、しかししばらくは壺を我が家に取り戻すこともせずに左膳に預け、ノンビリと自由を謳歌しようとしているチャッカリ加減がまた可笑しくてね!

源三郎の射的が超ヘタクソなのも、爆笑なんだよなあ。なんとか的に当たったのは一発だけ。その他は地面や屋根にまで突き刺さり、それを射りはじめのカットから、矢だらけの地面や屋根のカットにサクッと替わるのも、上手いよねーっ。
ほおんと、喜劇映画のカッティングのお手本みたい。的を設置する女が、見当違いに飛んでくる矢に悲鳴をあげるのも可笑しいし。
で、射的女が、「あの的にすれば」と示唆するのが、超巨大な、大太鼓か、てな的なのにも爆笑。それも一瞬のカッティングなんだよね。カッティングの教科書、だよなあ!

あるいは、通常はヒマしてる用心棒の丹下左膳が、客に請われて歌いだした女将の歌に、「頭痛がする、眠れない」とナンクセつけてさ、あ、そう、とばかりに更に朗々と歌いだす女将、というのも、ベタのお手本だけど、ベタはこうあるべき、であり、サラリと笑わせてくれるのよね。
てゆーか、この最初の時点で、左膳と女将がいちいちぶつかりながらも、実はすんごい信頼関係を得ていて、ひょっとしたらイイ仲にもなってるのかも?っていうのも匂わせているのが素敵なのだ。
女将が歌いだすと、左膳がイヤミったらしく、置いてある招き猫をくるりと背を向かせるのも可笑しいし、その招き猫が、ちょび安を寺子屋に通わせるのか、道場に通わせるのかでケンカして、左膳が投げつけた何かで割れてしまって、次に置かれたのがダルマだってのも可笑しい。

あ!このダルマはね、源三郎が、やっと三本の矢を的に当てて、小さなダルマを記念品にもらったのと連動しててさ、哀切な可笑しさがあるんだよなあ(笑)。
あれだけ通って、散々弓を射て、記念品のダルマは、大きな者からズラリと並んでいるのに(これをナメの画で冷静に映すのも妙に可笑しい)、やっと、小さなダルマを得るのが精一杯、ってのがさあ。

壺を持っていけば一両もらえる、と殺到する江戸の町民の描写、そこにあの壺を持っていったちょび安を、危機一髪左膳が連れ戻すタイムアクション、なんていうハラハラも盛り込む。
あらゆる描写、要素が盛り込まれ、百点満点じゃないのお?そういやあ、妖気も殺気もないと思っていた左膳だけど、中盤、六十両を得ようとトライした賭場からの帰り、襲われた刺客を、ちょび安の目を閉じさせて、一刀両断に斬り捨てるなんて場面がある。
ちょび安には、うめいているのは、賭博に負けたからだろう、なんて、自分が負けてうめいているのを安にからかわれたのに引っ掛けて言うんだけど、左膳の浪人としての、用心棒としての、殺しのプロフェッショナルとしての恐ろしさを一瞬だけ垣間見せる。
一瞬だけに、え、え、何?とうろたえさせ、ぞっと背筋に寒気を感じさせる。その他が、ホームコメディと言っていい趣だから、余計に。

いやーあ、ホンットに面白かったなあ。フィルムの状態は結して良くない。ノイズもあるし、画面も所によってかなりズタズタ。それでも、そんなこと、まるで気にならなかった。
いや、気になったかな、これだけ面白いと、キレイな形で残っていたらって、思っちゃう。消失してしまった古い映画が数多くあることを思うと、ひょっとしたらこんな面白い素晴らしい映画も、その中にあったのかもしれないと思っちゃう。彼主演の映画で、そんな憂き目にあったものが、数多く存在しているのだもの。

やっぱりね、スクリーンに出会いに行かなきゃいけないと思うよ、今だって。映画映画って言うとさ、ビデオなりDVDなりになるじゃないって言われるのよ。
でもそんなことじゃないのよ。今この一瞬が最後のチャンスかもしれないのだ。それで人生が変わるかもしれない。
きっとかつての観客たちは、無意識のうちに、そうした気持ちを持って、カツドウシャシンを観に行っていたに違いないと思うんだもの。★★★★★


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