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「こ」


2011年鑑賞作品

恋の罪
2011年 144分 日本 カラー
監督:園子温 脚本:園子温
撮影:谷川創平 音楽:森永泰弘
出演:水野美紀 冨樫真 神楽坂恵 児嶋一哉 二階堂智 小林竜樹 五辻真吾 深水元基 町田マリー 岩松了 大方斐紗子 津田寛治


2011/12/6/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
円山町ラブホテル街殺人事件って、東電OL殺人事件のことなのかあ、と今更ながら知ったりする。今や被告の冤罪が疑われる事件として有名なこの事件が、当時、こんなにもセンセーショナルに書きたてられていたことを私はちっとも知らなかった。
つまり、被害者となった女性がエリートキャリアウーマンなのに、売春婦としての、それもやっすい売春婦としての顔を持っていたこと、母親がその事実を知っていたことや、彼女自身の奇行もメディアが次々と暴いていたらしいんだけれど、まっっったく、知らなかった。
うーん、なんでだろう。まあ元々週刊誌やワイドショー的なものは見ないけど、それにしても……時期的に仕事が一番大変だった頃だったからかなあ。

しかし、実際の事件をベースにしているとはいえ、それにとらわれて観てしまっては、全く持って筋道違いであろうことは、前作の「冷たい熱帯魚」でも随分と思い知らされていることなんである。
思えばあの「愛のむきだし」だってそうだったんだけど、かの作品の時には実際の事件がどうとかはちっとも考えなかった。ていうか、「冷たい……」にしても本作にしても宣伝が、実際の事件をベースに……というのを打ち出しているからついつい気になるだけで、特に本作なんかはものすっごい大胆に創作しているしさ。

それを思えば「冷たい……」なんて、現実に忠実(ではないけど)なように思ってしまう。本作は、そう、つまりはアイディアをもらってるだけなんだよね。
そのアイディアはただ一点、キャリアウーマンの持つ二つの顔。夜になると渋谷の雑踏を徘徊する立ちんぼ。一万円どころか五千円、時には千円でヤッたりする、堕ちるところまで堕ちた売女。金に困っている訳でもないのに。

つまり、なぜ彼女がそんな行動をとっていたのか、単に嗜虐的だったのか、人生の価値観という深遠な部分でなのか。
マスコミ的にはそのギャップや彼女の壊れた人間性こそが興味が惹かれるところだったんだろうし、まあ確かに私も含め、一般大衆はそうだよね。眉をひそめ、私にはシンジラレナーイという。でも園監督は、違ったのだ。

なぜ、彼女は、堕ちる道を選んだのか。
そこに、恋人のように愛した父親に対する思いと、そんな父親、つまり自分の夫を毛嫌いしながらも実は激しく愛していたんじゃないかと思われる彼女の母親との葛藤があった。
というのは、字面で示してしまうとちょっとベタな昼メロのようにも思えるのだが、そこは彼の手腕である。
彼女を殺したのは母親。娘の下品な部分、おっぱいやクリトリスを排除して、キレイなマネキンにつなぎ、セーラー服と赤いドレスを着させた。

おっと。

なんかどんどん喋っちゃうけど、訳判らないな。ていうか、本作でまずつかみはOK的に扇情的に示される、遺体発見のシーン、土砂降りの雨がだだもれになっている崩れかけたアパート、切れ切れの遺体がマネキンにつながれてウジがわいているという場面。
事実をベースにしたというから、私はこの部分こそがそうなのだとばっかり思った。だって遺体をバラバラにして、マネキンにつなぐなんて、いかにもホラー映画的に興味をそそられる要素じゃん。
でもそんな事実は、ベースになった事件にはなかったんだよね。先述したように、キャリアウーマンが持っていた二面性、それだけだったんだよね。

このバラバラ死体の嗜虐性、グロなアーティスティックとでも言った感覚は、園監督が商業的に世に出た「自殺サークル」をふと思い出したりした。まあ「冷たい……」もバラバラだったけど、グチャッとすることより、身体が消え去ること、“ボディが透明になる”ことの方が衝撃だったからなあ……。
セーラー服は、父親を溺愛していた頃の彼女、赤いドレスは、汚い売女に堕ちた今の彼女。そのどちらも、母親は嫌悪していたのだろう。
キレイなマネキンにつないでも、女の部分は切り取っても、激しい憎悪があふれてる。

……順序だてていかなければ。そう、この、彼女、ベースになった事件を思えば、殺されたこのエリートキャリアウーマンこそが主人公と思われるが……いや、主人公、だったのだろうか?
本作には三人の女が出てくる。このエリートキャリアウーマン、大学助教授(教授?)である尾沢美津子。売れっ子作家の貞淑な妻である菊池いずみ。そしてこの殺人事件を追う女刑事である吉田和子。

冒頭は、その刑事役である水野美紀のいきなりの全裸である。いや、話には聞いていた。彼女は園作品で脱ぐ、と。必要な作品なら女優は脱ぐのだ、と思い感じ入ったが、実際に見ると、???
彼女演じる吉田は確かに、夫の後輩と爛れた不倫関係にあるし、冒頭の冒頭、ファーストシーンは、彼女がラブホの風呂場のガラスに押し付けられてあえいでいる画を、ガラスのこちら側から撮っている画なんである。まあつまり、顔と押し付けられた手だから、おっぱいはナシ。
で、吉田の携帯が鳴って、渋谷円山町のラブホテル街で遺体が発見されたと。その携帯に出るためにいそいで風呂場から出てくる時だけ。

まあ確かにヘアも全開のバッチリヌードだけど、そこだけで、不倫相手とのドロドロは結構頻繁に示される割には、そういうシーンで彼女は見せないのよね。
結構そういうのって覚えがあって……例えば「さよならみどりちゃん」の星野真里とかね。確かにちゃんと脱ぐけど、エッチシーンではモノを見せないというね。
本作は他の二人がその点できっちり仕事してたから、余計に気になったかなあ。

なんかどーでもいいことが気になってるかも(爆)。そう、後の二人。ていうかさ、三人メインのように宣伝されてて、その中でも大メジャーである水野美紀は、ひょっとしたら客寄せパンダのようなところはあったかなあ?と思う。
三人メイン、ではないんだよね、正直。主人公は……あ、でも後の二人のどっちだろう。アイディアの元になった二つの顔を持つ女、美津子だろうか、彼女に女としての人生を教授されるいずみだろうか。

正直なところでいえば、いずみに対する、ていうか、いずみを演じる神楽坂恵に対する監督の思い入れを感じた、などと言ってしまったら、二人がパートナーとなった事実を知ってしまった故の俗な先入観、なのかしらね、やっぱり(爆)。
でもそれを知らなくてもやっぱり、そんな感覚は持ったかもしれないなあ。

美津子は最初からハッキリしている。表のキャリアウーマンの顔と、裏の売女の顔。しかもその二つの間を、彼女は確固とした信念を持ってつないでいて、圧倒的である。
反していずみは、揺らぎ、迷い、踏み間違い、心酔し、堕ちていく、私らにそれなりに親近感や共感を持たせるキャラで、観客を物語に連れて行くキャラとも言えるからさ。
いずみが毅然とした売女の美津子に最初に出会って、大学教授としての彼女に次に出会って、どちらも同じように惹かれるのが、とても強烈に印象的である。
特に、最初に出会った売女の美津子にこそ運命を感じて着いていく、っていうのがね……ひょっとして、ひょっとしたら、確かに女にはそういう気分があるかもしれない、と、思わせちゃう。

まあ、いずみがそんなことにからめとられたのには勿論事情があるからなんだけど……。画に描いたような玉の輿、売れっ子小説家の妻。
外に仕事場を持ち、まるで会社勤めのようにきっちり出かけて帰ってくる夫の話を聞いて友人たちは、あいまいな笑みを浮かべる。誰もが、それは外でウワキしてるでしょ、と思っている訳である。
当のいずみはそんなことを思いもしない……かどうかは判らないけど、時間キッチリに夫を迎え、スリッパを正確な位置に揃え、美味しい紅茶をスッと差し出す。
時に、石鹸が違うと“静かに”怒られる場面なんか顕著だけれど、相当な潔癖のこの夫との生活は、明らかに息がつまる。いずみは幸せそうだけれど……。
でも、いずみはやっぱり息がつまったのか、外に働きに出る。意外にも夫もそれをアッサリ承諾する。そこから運命はどんどん暗転していくんである。

試食販売の仕事をぎこちなくこなしていたところに現われた、スカウトの女性。フツーに生きている女なら、モデルなんかじゃなくAVだとすぐに判りそうなもんだが、いずみは褒め上げられて頭に血が上る。
言葉巧みに脱がされ、AV撮影にまで持っていかれる。その手練手管は、ドキュメントを見ているようである。

ショックを受けたいずみを、女社長が男優に耳打ちして、アフターケアさせる。擬似セックスじゃモヤモヤする。ホテルに行ってしようよ……。
夫とのそんな生活がなかったいずみはこれですっかり絡めとられてしまった。なんたって夫とは、“チンチン触ってもいいよ。久しぶりだろう”“嬉しい”てなレベルだもの(それにしても凄い台詞だ……)。

胸元をあらわにしたハデなドレスで渋谷の街に繰り出したいずみは、若い男に声をかけられる。警戒していたいずみだけれど、結局彼とセックスしてしまう。
それにしても彼の使う手段、ピンクの塗料の詰まった風船をぶつけるっていうのは、まあクライマックスでいずみの夫と美津子がセックスしている場面にもやたらぶつけるにしても、かなりシュールで、こういうあたりは園監督カラーなのかなあ、と思う。なんせ詩人だからね、彼は。

そう、詩人……台詞が独特なんだよね、園作品って。形ばかりの夫婦生活をお人形のように続けるいずみとその夫の会話は、それだけならメロドラマの伏線なだけなんだけど、園イズムというような独特さで、なんとも奇妙な感覚に襲われるんである。
それともこれは、演じる神楽坂恵嬢の風味なのかなあ。そうかもしれない。だって美津子と出会ってからの方が、いずみの奇妙な会話のリズムは増す気がするもの。

いずみに決定的な影響を与える美津子を演じる富樫真が、その狂気が強烈ながらも、いわゆる芝居の上手さを感じさせるのと対照的に、彼女は何か……なんだろう。
多分キャラのせいだろうと思う。夫に教育され、AV女社長に見出され、美津子にぶっ壊されて、その都度不安げにいびつな女。
だから見てて不安になるし、ハラハラする、のは、彼女が観客に最も近い存在だからなのかもしれない。最終的には、彼女が一番強かったし、しっかと生き残るんだもの。

神楽坂恵が見事なおっぱいの持ち主なもんだから、それと対比する形でキャスティングされたんじゃなかろうかと疑ってしまうほど、富樫真のおっぱいはちっさい。薄い、と言った方が正しいかもしれない。
彼女の、それでなくてもあばらがくっきりとするほどに脂肪のない身体があらわにされる最初のシーンで、そのおっぱいの薄さに驚愕した。一瞬、これは女になりたい男の身体なのかと思ったほど。
……失礼は重々承知。でもそれに物凄い意味を感じちゃったんだもの。

もちろん、富樫真は、いや、美津子はこれ以上なく女であり、だからこそのこの運命である。でもその身体がまるで少年のようにはかないというのが、私の胸を貫いた。
母親が嫌悪した、父親の“下品な血”、その父親を愛していた美津子。ムリのない程度のセーラー服姿の回想でほんの一瞬示されるだけだったけど、事件の真相が明らかにされる段で、父親のアトリエに少女時代の美津子の絵がいくつもいくつも残されていたことが、何よりの証。
その時、美津子は少女だった。セーラー服の乙女。その薄い胸が、その回想シーンでは彼女は脱いでないのに、でも絵に描かれているからさ、余計にそれがエロティックで……。
父親との禁断の関係が、その絵一発で示されていると感じずにはいられなかった。

美津子は大学教授だった父親と同じ大学で教鞭をとっている。専攻も同じ日本文学。夜の街でうらぶれた売女として出会った美津子に運命を感じたいずみが、彼女の職場を訪れ、凛とした姿で講義をしている美津子に見とれる。
パンツスーツに身を包んだ美津子は殊更にマニッシュで、あの薄い胸を思い起こすとそこにも勝手に意味合いを感じてしまう。だって神楽坂恵嬢の巨乳がまたハンパないからさ!

いずみが夫のこと、自分自身のことを思い、美津子の前でメソメソするシーンといい、私、勝手にね、美津子といずみのラブを想像してしまったりした。勝手な萌えだけど、でもそんなに的外れ、かなあ?
確かにいずみは、女としての自分の欲求をもてあましてたけど、男の、世間の怖さを判ってないお嬢様であり、それを教えてくれたのが、こんなマニッシュな大人の女性なら、ちょいと迷いそうにもなるじゃない。

でも、女という点で言えば、美津子は女の中の女で……。ああ、何かこう言ってきちゃうと、ほおんとに、水野美紀だけが取り残されよ。
なにか彼女は、狂言回し……まではいかないにしても、語り部風だよね。だってメインの展開は、美津子といずみで回されていて、吉田だけがその時間軸から切り離されているんだもの。

それでも、爛れた不倫関係というセンセーショナルな設定は用意されているし、しょっぱなでいきなりヘアヌード(という言い方はキライだが)も見せてくれるし、期待させるんだけど、うーん、なんか、もったいな気がしたなあ。
その不倫相手がアンジャッシュの児嶋氏という意外もイイ感じだったのに。

ホント、児嶋さんの方!?とビックリしたよー。いや、だって、アンジャッシュといえば、イケメンは明らかにもう片方じゃん、と(爆)。
でもだからこそ、強力なリアリティがあるんだよなあ。夫の後輩として、ほんっと無害な顔を見せるから、彼女を呼び出して声だけでオマタを濡らす(あー、ヤな言い方)男ってのが、そのギャップがヤラしくてさ。
それだけに、ほんっとうにガッツリのエッチシーン見たかったなあ、などとゲスなことを思ったりもする。

冒頭で示された凄惨な遺体が一体誰なのか、年代と、行方不明になっている女性のリストで追っていく吉田とその後輩の男の子。
吉田はふと、私が売春してたらどうする?と問いかける。一瞬驚くも、まさか、と笑う後輩。
そのまさかがまさかなのよ、と先輩らしい顔で後輩を“教育”する彼女だけど、この冒頭近くのシーンで、本作の主筋、女のまさかのまさか、が示されているし、それだけに、それを後の二人の女優に思いっきり持ってかれたのが、最初に脱ぐシーンで牽引しただけに、惜しい気がするんだよなあ。

美津子が講義で使っていた詩。言葉なんて知らなければ良かった。日本語と、少しの外国語を知っていたから、君の涙に立ち止まる、という詩が何度も現れる。
その講義でいずみがうっとりとしたのは、美津子と共に、その詩であったかもしれない。同じく象徴的に示される暗号のような言葉、“城”に関しては、最後までピンと来なくって結構困ったんだけれど、この詩は結構グッと来たなあ。

だって、殊にこういう……言葉では到底説明できない、セックスという魔物。ことにセックスに感情が巻き込まれてしまったら……感情を言葉で説明できなくなったら、もう手に負えないじゃない。
いやそりゃ、そもそも、感情を言葉でイコール説明なんて出来っこないけど、せめて近いところまで近づいて行けたらと思うのに、それが一切拒否されるのなら。
でもセックスってそうだし、恋もそうだし、そもそも全ての感情がそうだと思えば……“言葉なんて知らなければ良かった”と、確かに思う、のだろう。

ホントにね、園子温はウッカリ詩人だから、もうこんな風に惑わされて困ってしまうの。エログロな描写で世間を驚かせている、なんて言っちゃえば、映像作家を評するありがちな言葉だもの。
彼は言葉を知ってる。その意味も無意味も知ってる。映像がそれに取って代わる場合も知ってる。だから、強いんだ。

美津子のお母さんが出てきてからのクライマックスこそ、だろうな。涼しい顔で、いや、その下には激しい憎悪を秘めて、自分の家柄には合わない夫、その下品な血を受け継いだ娘、と笑顔を張り付かせたまま、下品、下品、下品、と連呼する、こちとら上品なお母様は、しかしそう口にするほどに、彼女こそが下品に堕ちていく。
だって、それって裏返してみれば、この母親が、夫に対して、欲求不満を……つまりセックスに対する欲求不満を抱えていたと言ってるようなもんで、で、その原因は、夫の欲求が向いていたのは、“同じ下品な血を持つ”娘な訳で。
それでもその夫の“下品な血”を、彼女は欲していた訳で。だからこそ、その血の末に生まれ、その欲求を独り占めしている娘を蛇蝎のごとく嫌った訳で。

下品な血を引く娘だと、そんなヒドイ言葉を、まるで世間話のように聞いている美津子、父親との蜜月をほのめかすと、突然豹変して刃物を持ち出す母親。
まるで昼メロみたい、と思う一方で、全てが彼女たちの中で段取りが組まれいて、だからこそ怖いのだ、と思う。
この親子、面白いでしょ、と気楽に笑うポン引きの青年こそが、全てが判っているのか、それともいないのか……だって彼は最終的に、この母親の手にかかって、美津子と共に殺されてしまうのだから。
色白で華奢な、ふと油断してしまような優男の彼が、急に豹変したり、元の穏やかな、ていうかヘラヘラ男に戻ったりする戸惑いも、いかにも現代的だと思った。
オシャレにかぶってるハットがまた、その下の、無害ですよと主張してるような笑顔と共に、小面憎くてさ。

どう決着をつけたらいいんだろう、判らない。ただ、確かに決着点は示されてる。それも、二箇所。
本作の真のヒロインはやっぱり彼女だったろうと言っていいだろうな、いずみが、美津子を継承するかのように下品な行動……子供たちの前でしゃがんで放尿する。
その前には、いずみの夫に吉田と後輩の男の子が事情を聞きに行く場面があり……って、そうだ!大事なこと、忘れてた!
あのかんっぺきに神経質ないずみの夫、ツダカン演じる官能小説家の菊池は、実は美津子の上得意で、いずみとはデリヘルの現場、美津子の替わりに来たという、修羅場中の修羅場で顔を合わせる訳で。つ、ツダカンー!!!

……まあ、まさにこれこそベタな昼メロだが、しかしやはり、ビックリしちゃう。いや、この場面自体は、ドキドキしながらも、過ぎ去ってしまえばどうということもないのかもしれない。
あくまで、ツダカンは女たちの物語の脇役にすぎないとさえ、思う。ただ……事件の重要参考人としてだろうな、吉田たちが彼の話を聞きに行くと、妻はちょっと変わってて、プイと旅に出てしまうんですよ。やだなあ、そんな騒ぎ立てないでくださいよ、なんて、しれりと言いやがる場面なんである。
いやそれも、ありがちな場面なのかもしれない。でも、実はこういう状況がリアルにそこここにあって、行方不明になって、そのまま永遠に姿を消してしまう人たちは、こんな“ありがち”な中に、とてつもない複雑な理由であったのかもしれない、と思わせる場面でもある気がして。

ラスト、吉田が、水野美紀が、ゴミ袋を持って収集車を追いかける。そうやって、帰らなかった主婦がいると、まことしやかに囁かれる伏線がある。
満足できない現実社会、それでもそこから逃げられるのか。その伏線でのエピソードは、三日で戻ってきたというけれど、ゴミ袋を持ったまま、鬼門の円山町に再び迷い込んだ吉田はどうなのか。

それにしてもこのタイトルは、確信犯なのか、どうなのか。恋なんて、1パーセントもない。ただ、欲望だけで、愛さえも、ない気がする。
あ、そうか……美津子の父親への恋、か。それが全ての始まりなのか。ならばやはりタイトルロール的な意味でも、美津子がヒロイン、なのか。

ワザとみたいに降りしきる雨と、その湿度の中に絶望的に立ち上る濃厚なエログロ。そう思えばメッチャ確信犯な世界観。
先述したような奇妙さも、全てが計算づくに、そこに飲み込まれているのかもしれない。なんかね、どこまで行ってもやっぱりやっぱり、園子温は判らないよ。★★★☆☆


コクリコ坂から
2011年 91分 日本 カラー
監督:宮崎吾朗 脚本:宮崎駿 丹羽圭子
撮影:奥井敦 音楽:武部聡志
出演:長澤まさみ 岡田准一 竹下景子 石田ゆり子 柊瑠美 風吹ジュン 内藤剛志 風間俊介 大森南朋 香川照之

2011/7/21/木 劇場(有楽町スカラ座)
世襲などあってはならない切磋琢磨するクリエイターの世界で、どこかそんな風にも見える親から子へのバトンは、時に批判めいた風潮で語られても仕方ない部分はあるだろうと思う。ことに本作のように脚本という、世界観を決定付ける下地を宮崎駿という天才クリエイターが手がけてしまっている場合は尚更、であると思われる。
だけどそもそもジブリ自体が、今までにはなかった場であることを考えると、こうした展開は実に興味深く眺めることが出来るように思う。作品自体だけを語ることが最初から難しいことが判っているから、もう最初からそれコミコミで提出し、その上で語ってくれ、と言っているスタンス。

監督のデビュー作、「ゲド戦記」は、明らかに父親殺しの物語で……いや、まんまそういう話であり、男の子の成長で必ず乗り越えられなければいけない、精神学的な父親殺しの問題を、ちょっとあからさまなほどに描いてて、まさにここを通らなければ、監督はジブリという場に立てなかったのだなあ、と思って、強い印象を残したんであった。
あの暗さが父親とは違う彼の個性だと思ったから、今回のサワヤカさはひとつ吹っ切れたものを感じたけれど、ただやはり、父親離れのハッキリとした意志は感じたんであった。

……いつまでもそんな風に言われるのも、本人はうっとうしいだろうけど、でも本作に関しては、先述のように、やはりそれはコミコミであるだろうと思う。
オフィシャルサイトを見れば、父親の脚本を監督の個性とセンスで細かく手を入れた過程も描かれ、なるほどとも思うけど、そんな細かいところを気にしなくても、キャラクターの、特にヒロインの顔一発でそれは判っちゃう。

ジブリのお家芸、先にポスターの絵をドンと出し、これが次の新作ですよ、と皆々に印象付ける。それが宮崎駿の手からなる、ヒロインが旗を揚げる絵で、ふわりとしたワンピースといい、見上げた可憐な横顔といい、いかにも宮崎駿のヒロイン、という気がしたんであった。
いや、そう言ってしまうのも短慮かもしれない。ここ最近の作品では、どこか頑固なほどに”普通の女の子”を描くことに執心していた感があるから。

ナウシカ……よりは、クラリスやシータのような(今回のポスターの絵柄は、そっちに近い感じがする)ふわっとしてて男の抱く理想の純粋な少女、みたいなこんな絵を見るのは久しぶりだった気がする。
で、予告編が出始めて、まあその時にもちょっと違うな、とは思ったけど、実際に全体を見ると、ポスターの少女は、劇中のヒロイン、海じゃねえだろとはっきり言えるほど、そう、はっきり、別人であった。
顔立ちも髪型も確かに同じ。でも、違う、全然違う。別人。いかに世界観を握る脚本を宮崎駿が書いても、それを掌握する監督が作るならば、監督の世界になるのだと思った。

その海の声を演じるのはまさみちゃん。最初は可愛く演じていたのを、無愛想にしてくれと監督に言われたという。それこそ可愛く演じていたら、あのポスターのヒロインになっていたと思う。
オフィシャルサイトにも書かれていた、好きな男の子と実は血がつながっているかもしれない……などという、さっすが少女漫画原作!てな展開は、それこそ宮崎駿が書いていた「…………」の余韻をそのままにしていたら、まさに原作当時の80年代の甘やかさを伝えていただろうと思う。

それも悪くはないんだけど……私だって、その当時の少女漫画で育った世代だし、宮崎駿監督もそのあたり大好きそうだなと思うんだけど、バッサリ切った、よね、吾朗監督は。
ここに関しては、解説読んでなるほどと思った。その当時、リアルタイムの青春映画の台詞のテンポのよさ、無愛想に聞こえなくもないくっきりと意志力のある台詞回し、ああ、確かに当時の若者たちは、余韻になぞ浸っていなかったのだ、と。

ていうか、そもそもどんな話なのか……。そう、舞台は今じゃないのよ。東京オリンピック前年の、高度経済成長バンバンな時期。
ヒロインは女子高生の松崎海。祖母の営む下宿屋で朝晩の食事を切り盛りしている。船乗りだった父親は朝鮮戦争で死んでしまった。
大学教授の母親は、外国でバリバリ働いている。幼い頃、父親が迷わないようにと揚げ続けた旗を、今も毎朝掲げるのが日課である。

海が出会う風間俊は、学校の有名人。天文学部、哲学部などの男子学生がひしめく、通称カルチェラタンと呼ばれる古い建物の中で、「週刊カルチェラタン」の編集長として腕を振るい、取り壊されそうになっているカルチェラタンを存続させんと、ガリ版での一枚刷りの新聞で熱く訴え、学生を集めた討論会や、窓からしげみに飛び降りるなど、派手なパフォーマンスも披露する。
のは、後の学生運動を彷彿ともさせるけれど、この時にはムズカシイ政治問題などもちろん皆無で、彼らはただ、自分たちの自由を求めて純粋に雄たけびを上げていて、その姿はまぶしいほどなんである。
それは無論、この希望に満ちた、未来しかないと思えた時代ゆえの、若者の輝きなんである。

……なんて思ったのは、後に作品解説をちょこちょこ読んだからであって、実は観ている時にはそんなもっともらしいことを感じた訳ではなかった。
確かにカルチェラタンの古色蒼然とした洋館の趣、そこに女子学生たちが乗り込んで行われる大掃除の大イベント、男の理想という名の汗臭さから、歴史的建造物の荘厳さへ見事に変化を遂げ、お互い憎からず思っている男の子女の子が手を取り合って喜ぶ青春は、ただそれだけでキラキラしていたから。

そう、なんかね、観ている時にはこれがある意味”時代物”であるという感覚は、それほどなかったっていうか……。下宿屋の食事を任されている海の境遇は確かに特殊だけど、しっかり者のお姉ちゃんと言えばそれまでかもしれないし。
そのお姉ちゃん的キャラクターは、ひとつ下の妹、更にちょっと離れたまだ子供子供した弟という存在もあってことさらに感じられるんだよね。
でも彼女が、「お父さんは船乗りで、朝鮮戦争で死にました」という時、急にドキッとするのだ。特に、朝鮮戦争、という、教科書か時代劇でしか耳にしないような言葉を、それまで普通の女の子として見てきた海から発せられると、急に現実に引き戻されたような気がしてしまう。いや、”現実”ではないけれども……。

その海が出会う運命の男の子、俊の父親もまた、船乗りである。ていうか、海の死んでしまった父親とは船乗り仲間であり、一時彼らは”自分たちは血のつながったきょうだいではないか?”と実に少女漫画らしい苦悩に直面するのだけれど、それは海の母親が外国の仕事から帰ってきて、彼女の問いに答える形でアッサリと解決するんである。
いや、アッサリと、なんていうほど簡単な事情では無論、ないのだけれど……。戦後の混乱期にはよくあったんだという、親を亡くした子を他の家族が引き取って育てるというシチュエイション。

ことに仲間内の絆が強い船乗り同士、ことに海の父親はもうその点気が早すぎて、自分の籍に入れちゃって、でも新婚の奥さんが身重だったから自分のところで育てるのが難しいてなことになり、同じ船乗りで、子供を亡くしたばかりの風間夫婦に託したのだった。
そこで彼が、正義感の強さから、自分の子供だと言ってしまったから、後にこんなややこしい事態になった訳で……しかも実際、海の父親は、いったん自分たち夫婦の籍に入れてしまっていたのだから、余計に。

親愛と尊敬を込めてお互いを”貴様”と呼ぶこと自体、私らの感覚では到底想像できない。だって貴様って、今じゃ完全に蔑称だものなあ……。
海の父親と俊の父親、そしてもう一人、後のキーマンとなる三人が、友情を分かち合って撮った一枚の写真。お互い、俺より先に死ぬなよと言って撮ったその一枚が、海と俊を惑わせ、そして、ただ一人生き残っていたもう一人、小野寺によって真実が明かされることとなったんである。

まあ、真実が、と言っても、海の母親が彼女に問われて話して聞かせたことが殆ど全てであり、彼らが小野寺に会いに行ったのは、それを再確認すること以上に、父親たちの時代の絆や友情、その時代を経て自分たちが今、この未来ある時代にいることを見つめなおす、といった感覚が大きいのだけれど。
それにしても、そうした展開にしても実にテンポが早く、「澤村の娘と立花の息子に会えるなんて」と小野寺が感慨深く言う、実に涙っぽくなりそうな場面も、すんごいサラリと流すんだよね……ちょっとビックリするぐらい。尺的にも潔いほどの短さで、これも、監督の意図的?

カルチェラタンの、純粋で熱い少年たちは総じて愛しく、特に俊の片腕、というか彼こそが学生たちを導き、週刊カルチェラタンの人気企画、試験のヤマ張りもドンピシャの秀才、生徒会長の水沼なんぞは、キラリとクールな眼鏡が似合い、女の子(俊に憧れて押しかけた海の妹)をエスコートする様も実に様になってて、萌えまくりである。
今の男の子たちも可愛いけど、それぞれの個性がひとつの青春に向かって収斂されている、この時代の男の子たちの魅力があふれてるんだよね。

でもそれ以上に、コクリコ荘の下宿人、特にバリバリの女医者と画家の卵の女性二人は、凄く印象的でね!
解説読んで、カルチェラタンは男の巣窟、コクリコ荘は女の巣窟であるというのがなるほどなと思ったけど、カルチェだって女子学生たちを迎えて鼻の下のびきってるし、コクリコ荘だって、……何より海がもう帰ってくる筈のない父親を待ち続け、夢の中で父親の温かい胸に飛び込むのがなんとも痛苦しく、切な苦しく。

ちょっと脱線したが……ね。コクリコ荘の、特に画家の卵、ボサボサおかっぱに眼鏡をかけて、医者の送別会に”男が来る”ことに目を見開くってな彼女が、しかしその送別会パーティーでは、コクリコ荘たった一人の男子である海の弟と共に、わき目も振らずご馳走を食べまくる(爆)。
でも彼女が一心不乱に描いた絵は海の心を奪うし、その中に描かれた、海が毎朝揚げている旗が、実はある船に届いていたことが判る訳であって……。

一枚の絵が、それもアニメ作品の中にあってリアルな油絵が印象的に示され、しかも物語の展開点になるというのは、ジブリ作品の中で一番大好きな「魔女の宅急便」みたいだなあと思い、なにか嬉しかった。

書き忘れた訳じゃないんだけど、書き忘れたかな(爆)。この物語の中で最初のクライマックスとも言える、カルチェラタンを存続させるために、財界人である理事長に、俊、海、水沼生徒会長の三人で東京に会いに行くシーン。
この段に至って、ここが横浜で、最寄り駅が桜木町であることが判り、地方かと思っていたからなあんだと思うんだけど、確かに彼らの感覚はそれほど東京だなんだに臆している感じはなく、地方人のこっちとしては更になあんだとも思ったのだが……。
ただ、でも、やっぱり、東京オリンピック直前、すべてが変わろうとしている東京は、今以上にごたごた、ほこりっぽくて、エネルギーにあふれてて、今の東京より、イナカモンの私は打ちのめされそうな感じがする(爆)。

彼らが会った、いかにもこの時代の、景気が良過ぎて忙しすぎて、でもそれは今の東京の隆盛、日本のためにやっているんだという誇りがムンムンしている社長。
若く純粋な彼らにまっすぐに打たれてカルチェラタンを視察し、豪快にガッハッハと笑って存続を決定するというのは、それこそ少女漫画的に(いや、少女漫画は大好きだけどさ!)出来すぎている気はするけど。
ただ確かにこうした”判ってくれる大人”は、いつの時代にもいるはずだし、いるべきだし、そして当時は確かにいたんだと思うし……。今は、そんな理想をなかなか信じきれないけれど。

タイトルにもなってる坂、これぞ青春、男の子が自転車の後ろに女の子を乗せて、夕暮れの街をダーーーッと駆け抜けていく。散歩連れの柴犬の後姿、尻尾をあげたオピリの×がなんとも言えない(ポ)。
無愛想を心がけたまさみちゃん、「ゲド戦記」からの盟友、信頼の篤い岡田君のそこから引きずった暗さと照れくささがあいまった男の子らしさ、なんとも萌えるのよね。
そりゃあいくらでもほじくれるのだろうけれど、私にとっては基本、なんとも青春のさわやかな作品な感じで、深く掘り下げると返って魅力が失われるような気がした。★★★☆☆


これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫
2011年 110分 日本 カラー
監督:佐藤英明 脚本:君塚良一 佐藤英明
撮影:林淳一郎 音楽:めいなCo.
出演:浅野忠信 堀北真希 阿部力 いしだあゆみ 佐藤浩市 正名僕蔵 粟根まこと 新井浩文 山本剛史 佐藤恒治 佐藤正宏 梅垣義明

2011/5/7/土 劇場(有楽町丸の内TOEI@)
大胆というかなんというか、赤塚不二夫という男を描いた本作の、かなり確信犯的なユルいハチャメチャさ(ベクトルは全く逆だが、まさしくそんな感じ)には、どういうリアクションをしていいものやらナカナカに困る。
まあ一番確実に言えることは、感動モノではないということで、これは昨今の、とりあえず最後には泣かしちゃえばOK、という風潮が横行していることを考えれば、その意味でもとても挑戦的なのかもしれない。
だって赤塚氏が亡くなったのはほんの3年前であり、映画化の企画がそこからそんなに時間をおいていないであろうことを考えると、最後には泣かしちゃえ、という形をとらなかったのは、非常に意図的というか、はっきりとした意志を持ってたんじゃないかなー、などと思われるんである。

もちろん赤塚氏の強烈な存在は知ってはいるものの、漫画作品にはなかなか疎い私なんぞにとっては、赤塚氏と言えば市川準監督の「トキワ荘の青春」でリリカルに演じた大森嘉之のイメージが先に来てしまうんだけど、確かにそうなると、彼という人物像には到底追いつかないんであろう。
原作も、そして事実も、かなり意識的に換骨奪胎した、赤塚氏の奔放(とひと言には言えない、何と言い表わす言葉も見つからない)なキャラクターを描くことにこそ腐心した本作は、赤塚氏のキャラを持ってしても、かなりの冒険だったと思うなあ。正直、こんな大きな配給で大きな映画館にかかっているのが不思議なぐらい。

赤塚氏を演じるのが浅野忠信というのも、いい意味でまっこと摩訶不思議である。彼が赤塚氏の信奉者であるということは今回初めて知ったけれども、正直風貌はまるで似てないし(爆)。
てか、浅野氏、今更先祖がえりした訳でもないだろうが、なんか髪の色とか目の色とか、薄くなってきてない?それとも髪は染めてるの?あんな微妙な色に?しかも赤塚氏を演じるのに?
何にしてもホント、浅野忠信が赤塚不二夫?とまっこと摩訶不思議だったんだけれどあら不思議、なんとまあ……似合うというか素晴らしいというか違和感ないというか、なんというか(爆)。

あのね、本作に出てくるキャラたちは、カラフルでハチャメチャで破天荒でとにかくメチャクチャなイメージそのままに、みんな、メチャクチャなのよ(爆)。
特に判りやすいのは、少女漫画の編集部にいる阿部力のキャラなんかでさ、長髪にオシャレなスーツにレースのお帽子かぶって、ヒラヒラな少女漫画家センセーをヨイショしている青年なんて、ザ・作ってるキャラ(いい意味でね)なんだけど、浅野忠信は、なんというか、楽しんでいるという域を越えて、いや、楽しんでいるんだろうけれど、まず意外や意外、めちゃめちゃ似合ってるのよね。

シマシマカラフルなピタピタTシャツにズボン(この時代的にはズボンというのが適当だろうな)をまとって、シェーを連発し、ゲイバーでへべれけになり、時にはセーラー服におさげ姿になり、母親を溺愛して、亡くなった時には見も世もなく号泣し、母親の遺体にランニングとブリーフ姿で抱き着いたまま離れない、そんなキャラが似合うなんて、どうよ!

実際、赤塚氏がこんなにマザコンだなんて知らなかったが、そうひと口に言ってしまうのはどうか……終戦前後に大変な思いをした母親を通常以上に慈しみ、愛する不二夫少年は子供として当然、いやそれ以上の優しさではないか。
まあ確かに男の子は母親の苦労に敏感に反応するものではあるけれど……彼の妻として登場する木村多江が、彼とベタベタ、アツアツなのに「ね?私が二番目だって意味、判ったでしょ?」というぐらい、妻と以上に母親にベタベタ、アツアツなのだ。
木村多江は良かったなあ。髪形はあの当時の、今の時代ではオバチャンぽいとしか思えない強烈パーマなんだけどさ(爆)でも不二夫のことを心から愛してて、だから、どこか哀しげに、でもとてつもなくいとおしげに「二番目って意味、判ったでしょ」と言う風情、グッときちゃうんだもん。

彼女が登場して、この台詞を言い、そしてこの台詞を受けた「私、三番目でいいです」という決め台詞が出るに至って、本作の最も冒険的な事実との相違、35年“連れ添った”担当編集者を女性にする、ということの意味が、その一端が、判った気がしたんであった。
正直ね、最初は奇をてらうだけかと思った(爆)。あるいは、いわゆる客寄せとしての、商業的な妥協かと(爆爆)。

更に言えば、確かに“ムクツケキ男が演るより100倍も良い”(原作者の言葉!)堀北真希嬢の可愛さといったらないし、正直、もう、言っちゃえば、彼女の可愛さを鑑賞するだけでも価値があるぐらいなんだもん。
あの深い深い澄んだ湖のような瞳で、“バカになること”に超マジメに誠実に取り組まれたら、そりゃあもう、太刀打ち出来ないよ。

彼女には照れもてらいもまるでない。ほんっとうに、真っ正直に、まっすぐに“バカになること”に取り組んでるんだもの。
もちろん浅野忠信だって赤塚氏になる気合いは相当なもんだと思うけど、でもやっぱり彼の場合は、赤塚不二夫というぶっ飛んだキャラを、そのぶっ飛びこそを前提として演じているからさ。
だから、返って堀北真希嬢のまっすぐさに叶わないのだ。

いやー、やられたなー。この時代のファッションなんだろうけど、常に膝上10センチはあるだろうと思われる絶妙なミニスカ(まではいかないんだろうけど、その絶妙さがイイのよ!)から伸びる足がね。
彼女はモデル体型という訳じゃないんで、身長に比したおみ足の、そのいい具合の長さと肉のつき具合がね、もうもうもう、ね、タマランのよ!お人形さんのようなお顔立ちもあいまって、こりゃー、ヤバイのよ!
だってさ、このスカート丈は、彼女が登場する入社式の、つまりは藍色のリクルートスーツからしてそうなんだもん!ガッチガチのマジメなカッコからして、そうなんだもん!

んでもってその入社式に登場した赤塚不二夫、イヤミのコスプレをした彼が新入社員に強要したシェー!に、彼女だけが反応しなかった。だって彼女は、少女漫画を担当したくて、この小学館に入社したから。
それこそ“ムクツケキ男たち”の中で、彼女だけがシェーをせずに立ち尽くしているのを見て、赤塚不二夫は壇上から降りて彼女の目の前に来る。彼女は見かけに寄らず武闘派で、ガツン!とパンチを彼にくらわしてしまう。
そのことで気に入られてしまって、彼の担当に抜擢、哀れ少女漫画担当の夢はついえるのだった。

原作のエピソードがどこまで反映されているのかは未読なので判らないけれど、そして当の編集者さんは実際は男性なんだからこの点で大きな設定変換ではあるんだけど、この編集者さんの、赤塚氏担当以降の遍歴を見ると少女漫画誌の編集長を歴任しているから、少女漫画嗜好はホントだったのかもしれない。
だとすると、原作どおり男性にこの役を振ってもそれはそれで面白そうな気はしたけれど、でもやっぱり、堀北真希ちゅわんである。
最初の難関である、フジオプロダクションに初めて足を踏み入れ、赤塚氏はもちろん、プロダクションのツワモノたちに気に入られるまでのシークエンスの彼女は、まあ全編とても可愛くて素敵なんだけど、このトップのシークエンスは最高に可愛い。

だってあの酔っ払い演技のかわゆさ、そして女王様さながらに男たちをよつんばいにさせて尻っぺたをベルトでバシバシ叩く様、くだんの絶妙なスカート丈だからさ、男の尻に片足をドンと乗っけると危うくスカートの中がのぞけそうになっちゃうんだよねっ。
私の身間違いかしらん、黒いレースのナニカが見えたような??それ以外にもさ、けっこーあのスカート丈でアブない場面はあるの。
しかも、彼女自身は案外無意識っぽいように見える……のも演技?だとしたらあんな純真なお顔をして悪女かもっ。クソー!(いや、いいだろ別に……)。

で。すっかり堀北真希に没頭しちゃったが(爆)。だからね、原作となっている、つまりある意味主人公である語り部の編集者が男性から女性に設定変更されているっていうのがね、これが意外にイイのよね。
劇中、赤塚不二夫はスランプに陥る。彼の門下生たちが次々に売れっ子作家になって、赤塚不二夫は連載を打ち切られちゃう。
その頃、堀北真希扮する武田は当初の希望どおり少女漫画の編集部に移動になっているんだけれど、彼女が共に苦労した「もーれつア太郎」が打ち切りになると知って動揺する。
しかも赤塚氏最愛の母親が亡くなり、彼の落ち込みっぷりを目にした彼女は、もう一度赤塚不二夫とバカになろう!と決心するのね。

先述したけど彼女は「三番目でいいですから」という台詞を口にする。それはもちろん、編集者として連れそう覚悟としての台詞だし、もしかしたら実際の、原作者の武居氏も言ったのかもしれないと思う。
でもこの台詞を、男性が言うのと女性が言うのでは、例え意味合いが同じでも、やっぱり全然、違うんだよなあ。
まあ、確かにその違いを、フィクションである本作は殊更に強調してはいる。職場の先輩で、どうやらその前からの知り合いでなんとなくイイ雰囲気であるらしい阿部力扮する広瀬から会うたびに「はっちゃん、変わったね」と戸惑い気味に言われ、このクライマックス直前で、赤塚不二夫の元に戻ることを選択する彼女に「彼を愛しているのか」と絶望気味に問いただすあたり、女性キャラへの転換、それゆえの恋愛要素が強調されてるし。

それゆえの、ってあたりが女としてはケッという気もするが、でもそのケッ、をさらりと凌駕してくれるこの台詞「ええ。彼の才能を愛してます」カチョイー!ありがとう、堀北真希よ!!
そう、彼女は最後まで“彼の才能”を愛し続ける存在であり続けたんだもの。堀北真希なのに、こんなに可愛いのに。
しかもあんなにもママラブであった赤塚氏でも“前科”があり、今の奥さんは「女の子のアシスタントって、珍しかったからさ」という事情?で今に至る訳だし、そういうエピソードなり雰囲気なり作れないこともなかったのに、堀北真希の素晴らしき誠実さがそんな雰囲気を遮断し、見事に最後まで、“三番目の連れ添い”であり続けた、のだ!

彼女がそう覚悟し、本作の中で最も重要に語られる、赤塚不二夫が読者の人気も商業的意味合いも全部すっ飛ばして、極めてパーソナルにシュールに描きあげ……ていうかまたしても打ち切りの憂き目に遭う「レッツラ・ゴン」という作品、その製作の過程が、もっとも破天荒に描写されるんである。
ていうかこの作品、未読どころか存在を知りもしなかった私、でも絶対、一般的にはかなりマイナーであると思しきこの作品を、クライマックスに持ってくるってことこそ、大冒険だったんじゃないかと思う。

だって、劇中には誰もが知ってるおそ松くんから始まって、バカボン、ア太郎と続き、そこではサンデーとマガジンというライバル誌の対立があり、先にアイディア会議をときらびやかな飲み屋でライバル編集者と白熱、なんだか知らんうちにガクランでの殴り合い、ついには牢獄にブチこまれる、なんて華やかな?エピソードまであり。
その中で武田は赤塚不二夫にバカを仕込まれた、リッパなバカに成長した、訳なんだけど、でもクライマックスは「レッツラ・ゴン」なんだもの。

でも確かに未読だけど、これがクライマックスになるのも、凄く、製作側の意図を、いや、意志を、感じるんだよな。
ここに至るまでもちょぼちょぼ出てはきたけど、時は学生運動真っ盛りでね、まあいわば、赤塚氏が提唱?する、バカなんてことはそれこそバカなのよ、愚の骨頂なのよ。
赤塚不二夫が世の喧騒から逃げ出した温泉旅館、そこに彼を追いかけてきた武田、そして生み出される「レッツラ・ゴン」、それには色濃くそんな時代の描写が映し出され、武田、いや実際の編集者の武居も誌面に登場し、それだけリアルな現実感があるんだけれど……。

そう、この温泉地にお手製爆弾をこしらえて着々と準備している集団がいるワケよ。お気楽に彼らの中に入っていった赤塚と武田、最後には鉄球をブチ込み、さながらあさま山荘かよと思うような情景が、しかしひたすらオバカに繰り広げられ、これってホントにあったの??と……オバカに再現?されるだけにビックリしちゃうんだけど……。
とにかくね、この♪ダイナマイトが15トン〜(この曲を聴くとなんとも切なくなるな)と盛り上がってる武装集団もね、赤塚不二夫だと判ると「ファンです!」「サインしてください!」と有頂天なのだ。それってさあ、それってさあ……。
だって赤塚不二夫の生み出す世界も、彼自身も、この集団の思想や理想とはまったく、逆ベクトルじゃない?

このシークエンスはね、殊更にオバカに、CGもワザとらしいほどに駆使してさ、鉄球に武田や編集長がしがみついて、あーれー、なんていうほどに徹底してオバカでさ、だからなんだか、笑って済ましちゃうんだけど。
そうやってぶっ壊す、クレーン車を使ってぶっ壊す、その座席には大きなメルヘンなクマのぬいぐるみがあったりする赤塚不二夫、って実はすんごく思想的なのかもしれないと思ってさあ……。

でも、それは別に、観ている時にそう思った訳でもないんだけど(爆)。なんかこうして思い返してみるとね、そんな風にも思えるかなあ、って。
そう、この編集長、いかにもあの時代の、男社会の、マッチョな漫画編集部の編集長、演じる佐藤浩市はいい具合に年々、風貌も芝居もねちっこくなってて、イイなぁ(爆)。そこんところがね、浅野忠信のいい具合の薄さと軽さに対照的で、イイんだよね。
そんな浅野忠信に“ピースダイナマイト”でバーン!とやられちゃって、次のカットではなさけなく頭ボサボサで車椅子乗ってるあたりのバカバカしさも、このねちっこさだから余計に可笑しいのよね。
それでも彼も、お父上のようにいい感じに枯れていくんだろか……想像出来ないなあ。

これってね、別に赤塚氏の人生の最後まで描く訳じゃない。原作が、赤塚氏存命のうちに書き上げられているっていうのもあるだろうけど、でもそれでも、え?ここで終わり?みたいな感は、あるんだよね……。
「レッツラ・ゴン」で好き放題やった赤塚氏と、その彼に“連れ添った”武田。しかし当然というかなんというか、「レッツラ・ゴン」は読者人気が低迷し、打ち切りが決まる。
編集長、そして少ないながらも「レッツラ・ゴン」を支持する熱心な読者もいたのに、やはり、人気職業、淘汰の波に押し流されてしまう。

映画の終わりは、担当を外された武田と赤塚の二人のシーン。彼女が初めて訪れてドギモを抜かれたプロダクションの屋上に風見鶏のようにくるくると回る、赤塚のコスプレのイヤミと、その裏側ははっぱ一枚の全裸のイラスト。
その屋上ではライバル誌、バカボンのグラビア撮影が行なわれてたり、色んな想い出があってね……。

そこで、最後のひととき、二人は缶ビールを片手に語り合う。そもそも、自分は酒が飲めない、てか、飲んだことがない、酒自体に嫌悪感を示していた武田に、歓迎会という名目でほとんど脅しで彼女の酒豪、だけじゃないバカ、だけじゃない、とにかく編集者としての能力(酒豪とバカが編集者としての能力、かもしれない、ってあたりがスゴイが……)を掘り起こした赤塚。
それを女性に転換した堀北真希とのこの最後のシーンは、この思い切った転換は確かに有効だったなあ、と思う。

母親を溺愛する、仲間がいなくなると背中を丸めて寝込んじゃう、子供のような赤塚不二夫、素敵な奥さんは出てくるけど、それ以上に彼に色恋の余地は確かに感じられないんだもの。
マジメにバカをやる真希嬢は素敵だったし、バカこそが素晴らしい、お利口を治してバカになるべきだ、という赤塚不二夫の素晴らしき精神を、彼女は純粋に示して見せたんだものなあ。

まあ、とはいえ色々と戸惑う部分は満載ではあったんだけど……。
個人的には赤塚不二夫が溺愛する素晴らしき母親を、硬直した遺体まで(爆)完璧に、慈愛たっぷりに演じたいしだあゆみと、ハダカになったら意外にぽよぽよで、こんなユルい、しかも脇なユルさがなんとも新鮮だった新井浩文がかなり収穫だったわぁ。★★★☆☆


婚前特急
2011年 107分 日本 カラー
監督:前田弘二 脚本:高田亮 前田弘二
撮影:伊藤寛 音楽:きだしゅんすけ
出演:吉高由里子 浜野謙太 杏 石橋杏奈 青木崇高 吉村卓也 榎木孝明 加瀬亮 宇野祥平 吉岡睦雄 白川和子

2011/5/10/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
うわーっ!杏ちゃんのダンナさん、吉岡睦雄じゃん!私、彼を一般映画で観たのって初めてじゃない?(と思ったら「ゲゲゲの女房」で見ていた筈なんだけど、覚えてない……)なんかカンドーッ!
プロフィルにはピンク映画のピの字も出てこないが(一般公開になったピンク作品も、その一般タイトルだと判らないしねえ)、彼が何年もピンクで実力と存在感を発揮してきたことを思うと、この抜擢とも言えるキャスティングは本当に嬉しい。

だって、すげー、イイ役だし、すげーイイ感じじゃん!えーっ、なんでなんでと思ったら、短篇で名をあげたというこの監督さんの、その短篇作品に出演歴がある。そっかあ。
でも何にせよ、何とも感動する。ほんっと、イイ感じだったもん。奥さんのことをほんっと愛してる、優しくて、寛容な夫、吉岡睦雄、似合ってる!いやー、感動したなあ。

……なんてことだけで話が終わりそうだ(爆)。いやいや、そう、この監督さん、数々の短篇で名を挙げたお方だというし、観る機会もあった筈なんだけど、今回が初見。
吉岡睦雄にスッカリカンドーした私はウッカリ本筋を見失いそうになるが(まだ言うか)、でも彼の妻役の杏ちゃんも、私はあんまり彼女の演技してるところを観る機会がないんだけど、良かったなあ。イメージよりずっと、落ち着いていた。

いや、そういうキャラクターを演じているからだとは思うけど、まあ確かに彼女が自ら切り開いてきた経歴を思えばこの落ち着きっぷりは当然といえば、当然だな。
それが、どんどん追いつめられてパニックになっていくヒロインを、まあまあ落ち着いて、となだめる雰囲気に実にマッチしてて、その真逆さが開けば開くほど可笑しく、それを微笑ましく、あるいはかなり面白がって眺めている夫の吉岡睦雄の存在がまた良くてね!

……ああ、結局同じところにループしてしまうような。とっとと本題。
ヒロインは吉高由里子嬢。うーむ、私は正直、彼女がちょいと苦手。声がね、苦手なの。「蛇にピアス」で、この声でガンガン押されたのにかなりへこたれてしまって、彼女自身に何の問題もある訳がないのに、苦手になってしまった。
あれはね、あの話にあの声かよ(いや……若い女の子ってのはそうなんだから、あくまで私が勝手に作ったイメージと相反していただけなんだけど)と思ったからなんだけど、そう、彼女のことをこういうハチャメチャコメディ系で認識していればそんなにへこたれなかったかなあ、と思う。
いや、「蛇にピアス」以前にも見ていたはずなんだけどね。私、ほんっと目配り効かなくて(爆)。

そう、本作の、高飛車で、上から目線で、二股どころか五股かましてることを「人生は様々な経験をするべき。だから時間を有効に使ってるの」と豪語する女の子、チエは、似合っちゃってるのよね(爆)。いや別に、彼女に対してそーゆーイメージがある訳でもないのだが(爆爆)。
私が苦手だなーと思ってるその声も、このキャラと、監督が“スクリューボールコメディ”だという世界観にはとっても似合っている。
彼女がここまで自信たっぷりなのは、無論デキる女であるからってのもある。営業職の彼女は、バンバン仕事を取ってくる。その移動手段がベスパさながらのスクーターってのもカッコよくもキュートである。そう、悔しいけれども?彼女が持つ自信は、それだけの礎があるんである。

でね、そんな彼女が5人の恋人を持ってる、わっかりやすく五本の鍵を財布に忍ばせている、それも番号を振って、どれが誰だっけ……なあんて悩む場面まであり。
つまりチエは結婚する気なんて、なかった。人生を豊かにするために、時間を有効に使って五人の恋人と付き合っている、筈だった。

しかし親友のトシコが突然結婚を決めたことから、彼女は動揺する。いや、別に突然という訳じゃなかった。だってトシコの結婚相手は長年付き合ってきた人で、いつもトシコに愚痴を聞いてもらっているチエも良く知る男性。
でも確かに結婚を決めてから挙式まではあっという間だった、のは、それが“オメデタ婚”だったから。
トシコは「長年付き合ってると、キッカケってもんが必要だから」とそれが意図的であったことを示唆する。そしてチエに「チエも結婚しなよ」と真顔で勧めるんである。

このトシコのキャラっていうのは、いまだにオメデタ婚、というか、出来ちゃった婚を冷ややかに見る世間を、そういうことじゃないのヨ、と、充分大人になった目線で諌めているカッコ良さがある。
そうなんだよね。世間の“デキ婚”の大半は実は、こーゆー理由だと思うもん。結婚事情が過去とは大きく異なり、まあベタに女性の社会進出もそうだし、あるいは逆に男性の経済難もあるかもしれない。

長年付き合っている、あるいはそうでなくても、結婚をお互いちゃんと意識していても、周囲の状況がなかなかそれを許さない場合、エイッ!という“キッカケ”を作るというというのは、昨今の一つの“手段”に過ぎないのだ。
だって今の時代、ウッカリ子供が出来ちゃった、なあんてちょっとありえない話だしさあ。特に長年付き合っている二人なら特に……。
杏ちゃん扮するトシコがチエに結婚報告をし、その経過を説明し、お腹を愛しそうにさする、そのすべての動作がなんとも落ち着いていて、杏ちゃん、なんともステキなのよね!

しかしうろたえるのはチエの方である。でもこのことでうろたえるっていうのは、おかしいんだよね。だって彼女はトシコとは価値観が違う筈なんだから。
結婚する気はない。仕事が出来る自負もある。人生経験のために男5人と付き合ってる、筈、だったんだから。
でも、チエが「だって一人と付き合っていたら、ごはん一緒に食べようって約束してても、その人に予定が入ったらオワリだよ?」と複数と付き合うメリットをいかにも意気揚揚と語るのに対してトシコが、「……一人で食べればいいじゃん」と突っ込むのに、チエがマトモに反論できないのが実に物語ってるんだよなあ。

そう、チエの言い草は、たった一瞬でも一人になれない、つまり寂しがり屋の、子供みたいなリクツなんだもの。
一人の時間を持ちたい、だなんていう、それこそ大人の女なら持ちそうな気持ちを、チエは持たない。まあそれを独りモンの女が言ったら、男のいないカワイソウな女の言い訳だと喝破することも出来るだろうが(自爆。いや……他意はないです)、それを長年の恋人との結婚を決めた親友から言われたら、そりゃあ、言うべき言葉は見つからないわなあ。

表向きはあくまでトシコの言い分には耳を貸してはいないんだけど、とりあえずチエは五人の男たちを査定することにする。
それというのも、その五人の中で最もリッチな、美容院を何店舗も経営している家庭持ちの男、三宅と行く筈だったスペイン旅行が、彼が妻に怯えたためにフイになり、せっかく取った休暇がぽっかりと空いてしまったからなのであった。
この前提だけで、いかにチエが付き合っている男たちに大事にされてないかが判り……。まあチエにとっては五分の一の存在なんだからムリもないけど、彼女は恐らく、その男たちにとっては一番であるという自負を知らず知らず持っていたからさ。
実はそうじゃないってこと、それこそが本作の描くところなんだけど、それをもう、“実戦”に持ち込むこの前段階の部分でちゃあんと示唆してるんだよね。

そう、ここでちょっと先走ってラストを言っちゃうと……ラスト、チエがめでたくこの五人のうちの一人と結婚するシーンに、残りの四人の男たちが何のわだかまりもなくにこやかに出席している画でもうそれは、明らかなんだよな。
実はチエはトンでもないカン違い女で、この五人の男たちは皆身体だけの関係だった、という(爆)。

うー、先走ってラストを言っちゃったついでに、もうオチとなる部分も言っちゃう!
チエが選ぶ“五分の一”は一番あり得ない筈で、査定の一番最初に落選の名前が挙がった、パン工場の工員、田無である。

正直ね、彼はコメディリリーフだと思っていたので、彼が最初に名前を挙げられ、思いがけず彼女を逆に振る形になり、それに逆上したチエが復讐すべく彼につきまとい、田無の想い人を陥れようとし、とっくみあいのケンカをして通報されて牢獄にブチこまれる……なんて具合に、ずーっと田無のエピソードが尺を稼ぐことにね、あれ、あれれ?と思って見続けていたのね。
あれ?大丈夫?こんなに尺稼いで……だって五人もいるのにさ、と。

いや、正直さ、その他の四人、“若くて可愛い”のがメリットである彼は、ゴメンナサイ、私いまいち知らなかったけど、んでもって二番目に若い青木君は「ちりとてちん」」で記憶があるぐらいだけど、あと榎木孝明やら加瀬亮やら、結構ゴーカやんか。
それに、確かに若くて可愛い子と、同年代の幼なじみで気の置けない青年と、加瀬亮が演じるのはバツイチで子供が一人いるちょっと年上、榎木氏はずっと年上のリッチマンと、見事に年代を分けて様々な男性を用意してるからさ、それぞれの“恋人”との愁嘆場、あるいは入り乱れての修羅場が繰り広げられると思ってたんだよね。

でも思いがけず、一番冴えない男である田無とのエピソードを中心に話は進んで行き、ちょっと話に関わってくるのは加瀬亮演じる西尾ぐらいで、後の四人は“実は言うほどメリットなかった”って示されてオワリ、なんだよね。
リッチマンの三宅は奥さんに頭を抑えられればオワリだし、若くて可愛い野村君は自分が原因で事故りそうになったのに「ちゃんと見ててよ!」と逆ギレして本性を現わすし。
幼なじみの出口青年に至っては不動産会社社長の父親におんぶに抱っこで趣味生活を満喫、その趣味が温泉地めぐりだった頃は良かったけど、スピーカーに凝り出した今は、爆音に「ホントに死を感じたよ」と逃げ出してきたチエは頭を抱えるんである。

……でもそれもこれも、今まで付き合ってきて判ってなかったんかい、ていう程度の話でさ、つまり、そう、田無に突き付けられるように、チエは誰とも“付き合って”などなかったんだよね。
最初が田無だったから、こんなヤツ査定の最低ランクだから、あっさり切る筈だったから、そんなヤツから「別れる?だって俺たち付き合ってないじゃん」と言われたから、チエは逆上したけど、きっと誰から始めても、大して反応は変わらなかったんだろうと思うんだよな。

手帳に五人の男たちのメリットとデメリットを書き出す、その田無の項はホントサイアクなの。大体が、他の四人はメリットから書き出すのに、田無だけはデメリットをズラズラズラーッ!と連ねる。
小太りで、盗癖があって、自分では面白いと思ってダジャレを言うけどウケておらず、自分では友人が多いと思ってるけどホントはいない、とかさ。意味なく鼻血を出すとか、もう、クソミソなの。
で、メリットはひと言「楽」。この部分が予告編でもコミカルに取り上げられていたし、よもや彼が五人中選ばれる一人だとは思いも寄らなかったのだが……。

最終的には彼が唯一、チエといい勝負だった、ということなんだろうナと思う訳。取っ組み合いのケンカもど突き合いも、田無としかチエは恐らく出来ない。
それがつまり「楽」ということなんだけれど、この時点ではチエはそれに気づいてない。

てか確かにどーしよーもない男。その登場シーンで風呂を借りにきた、と勝手知ったるという雰囲気で訪ねてくる彼は、後の回想シーンで語られるチエとの出会いもサイアクなんだもん。
住み込みの銭湯を夜逃げによって追われた彼は、夜の街、酔いつぶれた女を狙って一緒にタクシーに乗り、居候を決め込もうとする訳。
最初は彼が何をしようとしているのか判らなかったんだけど、そんな目的だったと判るのは、無論、その最後の網にかかったのがチエだったから。

「……あんた、いつまでいるの」をチエが寝ぼけまなこで問う先で、田無はニコニコチャーハンを作ってる。「やなことあったことは、お腹一杯食べれば元気出るから!」そう言ってパクパクチャーハンを食べる田無。
しかしチエはあることに気付いた。「ちょっと!ここにあった私のCD(一列ズラッと!)どうしたのよ!」「だって、何かしてあげたかったけど、お金がなかったから……」
信じられない価値観だけど、田無はこれで押し通すのだ。だってその代わり食事を作ってあげたじゃん。感謝してくれないの?随分だなあ、哀しいなあ、みたいな!

ホンットあり得ないんだけど、それに押し切られてズルズル田無のと関係を続けているチエこそ、あり得なかったかもしれないんだよな。
それに言ってしまえばこれはチエの回想であり、どこまでホントなのかも??それを言ってしまえばオシマイだけれど……。

ただ、それこそフツーならば、こんな男はもう締め出してしまえば 良かった筈。
チエが関係を続けたのは、そして恋人のうちの一人、つまり付き合っているという認識だったのは、寂しがり屋である一面と、そして、彼女が上の目線である、付き合っている関係上で、立場が上なのは自分である、というのが大きかったんじゃないかしらん。

いやね、他の四人に対しては、そんな上から目線はないのよ。若くて可愛い年下の恋人に対しても、幼なじみのおぼっちゃま青年に対しても、チエが対応しきれない事態に至ると、相手に対して怒ることはせず、謝ったりそこから逃げ出してしまう。
つまり、他の四人に対しては、素の自分を出してないんだよな。大人である後の二人に対しては、理不尽なリクツをぶつけたりするけど、それはでも、思うように自分を扱ってくれない、恋人として対等に見てくれない寂しさから出る爆発である。

でも田無に対しては似てるようでちょっと、いや大いに違ってて……。その違いが何なのか上手くいえないんだけど、その上手く言えない違いが、“ホントの相手”ってことなのかもしれないし、ウッカリ最初に切ろうとした相手に反駁された、その偶然の順序だったのかもしれないんだけれど。

田無はチエのことを好きな訳じゃなく、パン工場の社長令嬢に恋している。
その事実を突き止めたチエは、社長令嬢の本性を暴き、メチャクチャにしてやろうと画策する。
ていうか、自分がフラれるなんてあり得ない!と、田無を自分にホレさせてからこっぴどく捨ててやろうと計画した中で彼の恋する相手が発覚した訳で、ジャマする筈が田無のずうずうしさからなんでか仲を取り持つことになって、そんなつもりはないのになんでかいいアドヴァイスとかしちゃって、田無とその令嬢が上手く行っちゃうんである!

この過程の中で、一番大人の恋人である三宅がケンカしたチエをとりなしに彼女のマンションを訪れ、風呂を借りにきた田無と鉢合わせするシーンは出色!
なんで田無が勝手にマンションに入れるのか、令嬢のことを調べてくれるように田無から頼まれたチエが、結果を早く知りたいならと彼に鍵を渡したからなんだけど、そもそもそんな理由で鍵を貸すこと自体、まあこの場面を設定するためだけかもしれないけど(爆)。
でも五人の男たちの鍵を全て持っているチエがさ、その男たちが彼女の元をたずねてくる時は、必ずチャイムで覗きレンズから相手を確認することを思うと、やっぱり特別感が、あるよね。
でも考えてみれば、家族持ちの三宅の鍵も持ってた?ズラリと並んだ鍵は五本なかったっけ?なんか今になって気になってきた……。

まあともかく。なんか田無が令嬢と上手く行っちゃってさ、チエはクサる訳。てのもチエのリサーチが、嫉妬のフィルターがかぶさっているせいか、正確じゃなかったからなんだけど。
チエはそこらにたむろするガキたちの言い様を鵜呑みにして、この令嬢がヤリマンだと決め付けた。
後をつけて、ケーキ屋でアルバイトする彼女が、常連のセレブなおじさまたちに人気で、ホステスや娘のプレゼントに悩んでいるのにアドヴァイスしているのを見て、一人娘の彼女が金持ちの婿をネラっているのだと断定する。
そんなチエのリサーチに激昂した田無が無骨に令嬢に当たったら、うっかり上手く行っちゃって、チエは愕然とする。

それでもチエは諦めず、大人な恋人の西尾(加瀬亮ね)を伴って令嬢が手料理をふるまうという彼女の部屋に乗り込むんだけれど、田無のプロポーズに令嬢が了承!
思いがけず田無と西尾と令嬢が百人一首の話題なぞで盛り上がり、すっかり取り残されたチエは「(百人一首のゆかりの地への旅行に)チエちゃんも行く?」とこともあろうに田無から振られて、ブチッと切れ、田無に強引にキスして事態をメチャクチャにし、その場を飛び出したんであった。

あのね、この場面で、田無が令嬢にプロポーズする、「ケースしか買えなかったんだけど……」と指輪の入ってないケースをパカッと開け、しかもそのない指輪をパントマイムで取って指にはめるシーンは、どー考えたって「ALWAYS 三丁目の夕日」のパロなんだけど、ツッコミもフォローもないのはちょっとツラかったかもなあ。
いや、たまたま私が観たのが大分後になってからで、劇場に観客も少なかったからさ、これ、「三丁目の夕陽」じゃん!という笑いをハッキリと共有出来なかったからってのもあるんだろうけど……。これをね、またパントマイム返しで返されちゃうんだもん。

突然のキスをしたチエを、田無も追いかけてしまう。取り残された令嬢と西尾のツーショットが、呆然としながらも、意味ありげなのがラストに効いていて救われる。
スクーターのチエと自転車の田無のおっかけっこは藪に突っ込み、しかもその後も取っ組み合い。
この時、令嬢の部屋でワインを飲んでたチエがスクーターに乗ってたからあれれとヒヤリとし、実際通報されて連行される時も「酒を飲んでるのか」と言われるからさ。
でも思えば、あの“若くて可愛い”恋人とオシャレなレストランで食事した後も、僕が運転する、と言う未成年の彼に任せたけど、最初に運転席しようとしたチエは、ワインを飲んでいるシーンがあったよ、なあ?
まあラストクレジットも終わった最後にね、飲酒運転は映画の演出嬢の……みたいな但し書きはあったけど。
まあこんなことが気になるってあたりは現代人かもなあ。そんなことが気にならない時代が良かったとまでは思わないけどさ。

で、田無はチエが好きだったかも、いや好きかも、好きになっちゃったかも、みたいな感じで彼女に告白、しかしチエはしてやったりの高笑い。檻の外からも取っ組み合ってたくせに、素直じゃない。
呆れた警察官は二人を別々に釈放。チエはトシコが迎えに来てくれた。
ごめんね、といつになく殊勝なチエに、いいよいいよ、泊まっていきなよ、とトシコは優しく言った。
一方の田無は、すっかり夜が明けて明るくなって、ようやく令嬢が迎えに来てくれる
「ごめんね、工場の人とか友達に電話したんだけど、誰も来てくれなかったんだよぅ」……確かにチエの言うとおり、彼が自身で思うほど友達はいないらしい。
チエへの想いを感じとった令嬢に田無は手ひどくフラれる。

チエは飲み明かした翌朝、目を覚まし、トシコとダンナが仲良く、穏やかに一緒に朝食の用意をしているのをまぶしく見つめるのだ。
「夫婦って、いいね。二人とも、本当の相手って感じ」そう、もうね、杏ちゃんとね、吉岡睦雄がイイのよー。彼、ほんっとうに、良かったなあ。なんか、ホント、嬉しい。

その後が、クライマックスである。お互いがお互いの気持ちをようやく認識して、お互いの部屋を訪ねるのがキュンとなるんである。
しかしまあ、あの田無とはねえと思うのだが(爆)まあそれを言っちゃえば、美人の殻に隠れてはいるが、確かにチエもそーとーなもんだし(爆爆)。
それを喝破したのが、エア指輪を突っ返した令嬢で、「田無さんがお世話になった人だと思ったから頑張ってご馳走作って、アイソ良くしたのに。ずっと無愛想で、上から目線で、あの人、私の料理、一度も美味しいって言わなかった」。もう、チエの本性、モロバレだよねー。
てか、ある意味それだけ素直なのがチエの良さと言えばそうなのだが、それを慈しみ、あるいは面白がってくれるのはトシコとそのダンナぐらいなもんだった訳でさ。

ヘタに出来る女だったチエは、そんな自分の欠点にも気づかず……ていうか、そうそう、そういやあ、チエが上司に言われてしぶしぶ、冴えない年上の部下と一緒に営業周りをするシーンがあってね、それが実に象徴してたんだよな。
確かに口ばっかりで全然仕事が出来ないオジサン部下だった彼はチエをひたすらイライラさせてたんだけど、時間をかけて彼なりの方法を会得する訳さ。
それはチエには考え付かない、“冴えないサラリーマン”である彼でしか思いつかない考えであり、ま、ちょっと示されだけなんだけどね。
「オマケはありがちなマンゴープリンより、もう一個チキンの方が嬉しい」とかさ。まあそれをチエが判ってたかどうか、その時のチエはそれどころじゃなかったから……。

で、まあ、ちょいと脱線しちゃったけど(爆)、クライマックスよ。田無の部屋に忍び込んだチエは、田無が売り飛ばしたと思っていたCDが彼の戸棚にあることを発見する。
そこに田無が帰ってくる。押し入れに隠れようとするもビッシリいっぱいで、しょうがなくてドタンと倒れて寝たフリをするチエ=吉高嬢がカワイイ。

思いがけずチエがいることに驚きつつも、彼女への想いを吐露する田無にガバと起き上がって噛み付くチエに更に田無はビックリ!
今更いいかげんなこと言わないでよ!いや本気なんだよ!と、もう取っ組み合って取っ組み合って、勢い余ってなんと隣の壁をバーン!とぶち破って飛び込む!
ええええええ!!!いくらビンボーアパートとはいえ、どんだけ薄いよ、壁!そりゃ飛び込まれた隣りのおばあちゃんはビックリよ!!

でもそのおばあちゃんが人生訓を垂れるのにはちょいとビックリしたけど……。いや、確かに凄く有効な人生訓ではある。ていうか、体験談だから。
ずっとグチを受け入れてくれていた優しい夫だった。ある日湯飲みを壁にぶつけて激昂した。オレはずっとガマンしてきたんだと。
おばあちゃん、あまりにビックリして、それ以来何を言うのも怖くなった。黙りっきりで過ごしてしまった。そして体調を崩した夫はそのまま死んでしまった。
だからね、ケンカは出来るうちに思いっきりしなさいと、おばあちゃんは言った。

この台詞も、ぶちぬいた壁の前で殊勝に聞いている二人の画も凄くいいんだけど、それまでのトーンとあまりに違うんでちょっと戸惑ってしまう。ここから明らかにトーンが変わって、あービックリした、と元の部屋に戻った二人、田無が、他の四人に負けないように頑張る!最後の一人になる!と今までになく真剣な顔で宣言し、気圧されたように、う、うん、頑張ってねとチエが返す。
もうそうなると、キスも、押し倒しも、チエはすっかり受け身なんだもん。
ていうか、五人に散らしていただけで、チエはずっと、押し切られると弱いタイプの、割と古風な女の子だったのかもしれないなあ。

ラストは最初のトシ子の結婚式同様、チエの結婚式。見事残った一人になった田無との結婚式!
トシ子の時と同じように、後ろ向きでブーケを放ったチエ、あの令嬢が受け取り、子連れで参列していた西尾がニッコリ。
なるほど、百人一首で意気投合してたし、傷ついた者同士だし、何より二人ともシッカリしてるしなあ(爆)。

“鮮烈な若手俳優”だった加瀬亮がいつの間にやら若手女優をフォローする立場になったことになにがしかの感慨を覚える。
“若くて可愛い”恋人が予告編でも印象が強く、映画の冒頭も熱烈なキスを、しかも映画そのものって感じでホームの、発車ベルの音の中で交わすもんだから、その後ほとんどエピソードが出てこないのが惜しい気がしたなあ。
それを言ったら趣味おぼっちゃまの青木氏もそうなんだけど……“五人の恋人”ていう前提があったから、それが思ったより生かされずに、その方向でのハチャメチャにならなかったのが残念な気がした。
だってこれって、冴えない、自分が下に見ている恋人に思いがけず袖にされた、ってだけでも充分成立する話じゃないのかなあ?
その点で見れば逆に、もっともっと面白く掘り下げられたかもしれないしさ、なんて思っちゃったから。★★★☆☆


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