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草原の椅子
2013年 139分 日本 カラー
監督:成島出 脚本:加藤正人 奥寺佐渡子 真辺克彦 多和田久美 成島出
撮影:長沼六男 音楽:安川午朗
出演:佐藤浩市 西村雅彦 吉瀬美智子 小池栄子 AKIRA 黒木華 貞光奏風 中村靖日 若村麻由美 井川比佐志
まあでも結構な数が映像化されているし、それは単なる噂だったのかもしれないけれど、今回は、どうだったんだろう。またしても私は未読だが(爆)、そして映像化困難と言われていたらしいが、近年は色々と映像技術も発達して、映像化困難が映像化されちゃう例がバタバタあるから驚かないが、作家自身はどうだったんだろう……。
当然、映画化の前には原作者の了承が必要な筈で、確かにクライマックスの“映像化困難”も含め、キャストも含め、映画にする上でのハショリ方も含め、原作者にとっては心配なことが多々あったに違いないが、了承したその決め手はなんだったんだろう。やっぱり成島監督の手腕、だろうか。
「八日目の蝉」の大成功は判りやすい信頼感だけれど、それにしたって成島監督のハズれのなさは尋常じゃない。ちょっと苦手分野の作品はスルーしてしまったのが今更ながら悔やまれるが、デビュー作からベテランみたいに安定感バツグン、そして面白さもバツグンだったのが、今も鮮やかに思い出されるんである。
こうして段々とバジェットも大作になっていっても、それが変わらないんだよなあ。ていうか、重厚感がどんどんと増している。作家性をキラキラかざして尻すぼみになるクリエイターが多い昨今、こういう監督さんは実に頼もしい。
“映像化困難”というのはまさしくクライマックスの、最後の桃源郷と呼ばれる、パキスタンのフンザの砂漠であろうと思う。尺的にはさほどでもないんだけれど。
原作が未読だったし、予告編ではひたすらこの壮大な映像オシだったもんだから、もう全篇、この地で展開される映画なのかと思って、正直及び腰だったぐらいなんである。未開で素朴で壮大な大地に日本人、そういう映画って、もう考えただけでかゆくなっちゃうんだもの(爆)。
でも、そうじゃなかった。本当に、尺的にはわずかだった。もちろん、そのクライマックスこそが重要で、そこに向かって展開していくんだけれど、でもそのクライマックスも、不思議なほど静かで、特にクライマックス中のクライマックスと言ってもいい砂漠のシーンなんて、その砂漠が、砂漠のイメージを覆す、そう、サンドベージュじゃなくて(80年代だなーっ)雪のように純白で、それこそ雪のようにしんとしている、無音である。こんな静かなクライマックスなんて、経験したことが、なかった。
まあ、そんなことばかり言っていても進まないから、いきますると……。主人公、遠間は佐藤浩市。もう50だと劇中何度も嘆息するが、男の50は一番色気ダダ漏れじゃないですか、と思う。
佐藤浩市だから、という訳じゃない。いや、佐藤浩市だからこそダダ漏れ度もハンパないのは確かだが、彼と親友となる富樫を演じる西村雅彦ですら、ダダ漏れである。
正直、それが一番ビックリしたところで、彼は本作の中でも(も?)やはりコメディリリーフ的なところはあるし、まあ関西弁がかなりガチガチにぎこちないけど(爆)、それもまた妙に可笑しく、でも、……私、西村氏ってこんな色っぽかったっけ?とホントにビックリしてしまったのだ。
登場シーンは遠間に「女に頭から灯油をかけられた」とSOSしてくるというインパクトで、つまり、単身赴任中にメンドくさい女に引っかかった、と。確かにそのシチュエイションを聞けば色気ダダ漏れ男も判らなくもないけど、基本的には関西弁まるだしの、人懐っこい、弱さも丸見えにする、色気とは無縁のキャラだからさあ……。
この灯油事件で助けてくれた遠間に、親友になってくれないかと富樫は持ちかける。遠間はカメラ会社の営業社員、富樫はカメラ専門店の社長。関西から東京に出店してきて、苦戦しているところ。
50を過ぎて親友なんてとしり込みする遠間に、こうして会って酒を飲んでグチを聞いてくれたらいい、と富樫は言う。そう、呼び捨てにして、敬語はナシというのも大事だと。
友達が出来るのに年齢なんて関係ないと普通に思うけど、でも友達、じゃなくていきなり親友、だと確かに尻込みする気持ちはあるかも……。
でも、友達でも、大人になるにつれて難しさは感じるというか、友達、ってのは10代、せいぜい20代、つまり学生時代に出来て、必死にそれにしがみついていくもんだと、どこかで思ってて、その時に出来てないと、もう人間としてダメだぐらいな(爆)、って、私、悲観しすぎ?でもそういう感覚って、あったから、遠間の戸惑いも判ったし、だからこそ凄く、うらやましかったんだ……。
出会いはこれだけではない。遠間は恋をする。30代なかばと思しき、和服のしっとり美女である。雨の日、タクシーの中から、酒屋の店先で往生している彼女を見かけるなんて、その和服で意を決したように駆け出す様といい、まるで映画みたいに鮮烈である、って、これ、映画か(爆)。
遠間はバツイチで大学生の娘と二人暮しである。妻が男を作って出ていったんである。そういう理由だから珍しく娘が手元にいる訳だけれど、妻がそういう行動に出たのは、彼自身の浮気が原因だったりするんである。
しかし彼はそれが娘にバレているとは思っておらず、逆に娘が不倫してるんじゃないかとカン違いして問い詰めると、「お父さんは、カンが悪いよ」と何度も嘆息される。娘は、というか、女は、何もかも知っているんである。
そして最も大きな出会いは、その心優しい娘が見捨てておけずに連れてきた、母親に虐待された幼い子供、圭輔で、父親は娘のバイト先の上司だったんだけどこれもまた弱い男で、彼もまた息子を捨ててしまう。
母親=小池栄子、父親=中村靖日のダメ親、てかダメ人間っぷりが最高に素晴らしく、素晴らしくと言っていいのか(爆)、とにかく、さすが、なんだよな。
中村靖日の、顔がまっちろけでいかにも頼りなく、助けてあげなければと思わせておいて、その弱さをあけすけに盾にして遠間たちに子供を押し付ける図々しさにあぜんとするが、ヤハリ小池栄子の強烈さにはかなわない。「八日目の蝉」でも素晴らしかった彼女は、監督の全幅の信頼を受けているんじゃないかと思われる。
遠間の元に自分が悪かった、再婚相手と共に圭輔とやり直したいと頭を下げるんだけど、そのフリフリの水っぽいカッコとバサリとしたパーマ頭が、いくら涙をぽろぽろ流してもウソっぽく、ウソっぽいのに本人は超マジに思っているというギャップが凄まじくて、小池栄子、やはりスゲエ!と思う。
そして彼女が口にするのが、あの3.11で目が覚めたということなんである。熱に浮かされたように絆、絆と口にする。
あの震災によって、当時製作されていた、あるいは準備に入っていた映画の多く、いや全てかもしれない、が影響を受けて、つまりそれは……影響を受けなければいけない、みたいな、そのまま、気にせず作るなんて無責任だとか、冷たいとか、なんかちょっと見当違いの、ある意味強迫観念みたいなところがあって、とってつけたように震災の要素を入れ込んで、良心ヅラしてるみたいな映画ばかりで、……なんかすんごく、違和感があったのね。そんなことを言う私もまさに人非人なんだけどさ……。
でも、本作、小池栄子が演じる母親は、まさにそんな“とってつけた良心ヅラ”を痛烈に皮肉ってて、溜飲が下がると共に、いやいや、私一体何を待っていたのと思ってゾッとした。
「震災孤児は、たくましく生きてますよ」と言う彼女にイラッとする資格が、私にあるのか。再婚相手の子供を妊娠している彼女が、圭輔の風疹がうつってしまった遠間を勝手に押しかけてきたくせに、「絶対風疹が移っちゃいけないのに!何で言ってくれなかったの、人殺し!!」と豹変するのは、そりゃ当然なのに、そんな彼女を勝手だと、殴られても足をつかんでまで彼女を糾弾する遠間の方に肩入れしてしまうのか……。
遠間が圭輔を引き取ることになるまでにはまだまだ紆余曲折があって、それこそあのクライマックスを挟まなきゃいけないんだけれど、この時、この母親は、確かにヒドイ母親だったけど、少なくとも今愛する相手との子供、お腹の中の赤ちゃんのことは必死に守ろうとしていたのだ。小池栄子の狂気の芝居に、監督が観客を試しにかかってるそんなイジワルが見え隠れして、なんかもう、クヤしい(爆)。
この圭輔を演じる子役ちゃんは、見たことがない。それもその筈、本作のオーディションで大抜擢された子なんだという。本作のための、つまり圭輔のための子。
百万の言葉を込める見上げた大きな瞳と、利発そうなおでこがなんともいとおしい。台詞はほとんどないし、“上手い子役”にありがちな、台詞のありなしはともかく、泣きのシーンはおまかせ、みたいなのもない。
ていうか、子役の最大の武器、無邪気な笑顔が、封じられているんである。オフィシャルサイトを見てみれば、ビックリするぐらい笑顔の彼がバーンと掲げられているけれど、実際の作品では彼の笑顔は見られない。いや、笑顔のシーンはあるけれど、意図的だよなと思われるほど、横顔だけの一瞬とかで終わってしまう。
これってさ、いくらでも感動ヒューマンドラマに出来たと思うのよ。圭輔は血のつながらない他人に心を許す。まず遠間の娘の弥生、人懐っこい富樫は遠間より先に信頼を得て、遠間も頑張ってザウルス、と呼ばれる立場を獲得。
あ、ザウルスってのは、圭輔が大事にしている恐竜のぬいぐるみで、富樫が自分の実家に彼らを休暇に連れて行った先で、老父が作ってくれるザウルスの小さな赤い椅子が泣かせるんである。だってね、ちゃんとしっぽが出る穴もあってね、メッチャ可愛いの……あれ、なんか話がズレた。
だから、そう、ザウルスってのは、圭輔にとって好きな相手を表現する手段。後に遠間が連れてきたあの和服美人、陶器店を営む喜志子もザウルスの称号を、しかもあっという間に手にするんである。
血のつながらない子供でも、愛する子供。私ね、なんでそれがこの日本という国ではこんなにも難しいのかと、ずっと思ってきた。とにかく実子主義、お腹を痛めた子だもの、というのが愛する基本。
だからこそ時に父親がないがしろにされ、離婚すれば母親に引き取られるのが当然。養育費を払わない父親を無責任と呼ぶのも当然。不妊治療に血のにじむ努力を続けるけれど、何らかの事情で天涯孤独となった子供たちは、それだけで欠陥品扱い。
もちろん子供を捨てる親こそが第一に糾弾されるけれど、そんな親の子供だと見られる。そして行き着く先は施設。実子主義の恐ろしさ。
遠間が圭輔を引き取ろうと思った最初のシーン、それを告げられた喜志子が難色を示した。そんなカンタンなもんじゃないと言った。
私その時、軽くイラッとした。チッと思った。そんなカンタンなもんじゃないのは、この日本だからだと。まさしく喜志子が、その実子主義に苦しめられ、妾の子でもいいから血筋をと言われて深く傷つき、離婚した経緯があったから。
中村靖日演じる圭輔の父親が、子供は全て神の子なんだと言う場面がある。あの場面は、彼はすっかり正気を失っていて、しかもそんなタテマエで遠間に圭輔を頼んで、つまり息子を捨てた訳で、だからこそ遠間は、いや、それより観客こそがその論理を勝手だと思ったんだけど、でも……。
子供は神の子なのだ。それは後に、星から産まれた子供だと、フンザの仙人から言い換えられるけれども、同じだったんだ、と思う。
言ってるのが、自分でいっぱいいっぱいで実の息子を捨てようとしている父親と、世界の果ての桃源郷の、100歳を超えるザ・仙人という違いだけで。だけ、が、大きすぎるから(爆)。
タイトルになってる草原の椅子は、実際は富樫の田舎の、小さな草っ原に置かれた、彼の父親が障害者用に丹精込めて作った椅子なんである。この世にただひとつの椅子。
予告編を見た時には当然、これが異国の壮大な草原に置かれているんだとばかり思っていた。しかし実際は「写真で見ると、広く見えるやろ」海に突き出た、つつましい草っぱらだった。
でも、大きく見えるのだ。大きいのだ。ザウルスが尻尾を穴から出して座った椅子、この草原に置けば、まさに、壮大なのだ。
そりゃさ、クライマックスは息を飲む砂漠、最初の一歩を踏み出す圭輔、遠間は愛しい幼子の“最初の冒険”を目を細めて見守る。でもやっぱり、さ。大事だったのは草原、だよね。
富樫は遠間の会社がリストラせざるを得なかった、過労の末の事故で車椅子になってしまった優秀な営業マンを、東京進出した店に引き入れてくれた。
しかし全体の業績は芳しくなく、富樫もリストラに着手、その一人が自殺してしまった。荒れる富樫。この時の西村氏は……まあ、芝居的には判りやすいシチュエイションだとは思うけど(爆)、グッと、きたなあ……。
圭輔は遠間が見せてくれた写真集にクギ付けになった。何よりその子供たちに。写真だけなのに、友達だと、言ったのだ。そして、一人きりの砂漠への冒険じゃなくて、草原で“再会”した子供たちと、他愛ないおっかけっこをする。最初は恐る恐る、喜志子の手を引いて、でもすっかり、楽しげに。
この時、この草原に置かれていた椅子は、もちろん富樫の父親の作ったものじゃないし、それを彼もちょっとだけ残念がっていたし、お互い端っこに座ってガタンとシーソーのように傾くコミカルさにふふっと笑ってしまうんだけど、ああ、富樫の言うように、なんと幸せなんだろうと、思う。
この写真集を撮ったカメラマンとして登場するAKIRAのまっすぐさが、また良くてね。それこそ佐藤浩市や西村雅彦の役者っぷりとは対照的なのよ。照れてしまうぐらい、まぶしいぐらい、まっすぐなの。それはあの愛し子、圭輔ですら獲得できないこと。
……この写真集が重要なアイテムなのは判っていたけれど、それはつまり、それを撮ったというカメラマン、キャスティング、つまりAKIRAは相当重要な存在だったってことかなあ!
しみじみした後に流れる主題歌が、うーむ、ちょっと安っぽく聞こえたのは、かなり、かなーり、残念だったかも。いやいや、GLAYは素晴らしいと思うが、なんか音質、低くない?ていうか……草原の椅子、じゃないよね、なんか、雰囲気が、空気感が。
こういうの、コマーシャル的にしょうがない部分があるのは判るけど、最後まで雰囲気が壊されない、全部が大好きと思う映画って、結局そういうのも妥協しないよね。うーん、うーん、うーん。★★★☆☆
しかもついこの間、是枝監督が手掛けた連ドラが尋常ならざる低視聴率で(爆)、それだけで散々こきおろされたでしょ。あれホント、ガッカリした。
視聴率だけで評価するテレビ界、引いては一般社会に本当にガッカリしたから、もう是枝監督、テレビなんかに行かなくていいよ、と思った。
がしかし、本作の快挙で書かれたどの記事にも、彼の一番新しいプロフィールにそのドラマで知られてるみたいに、ぬけぬけと書かれているのはなんとも皮肉の感がある。
マスコミたちよ、あんだけ止まらない低視聴率とか、山口智子は出番を少なくしてくれと言ってるとか、書きたてやがった癖にっ。
……まあそんなことはどうでもいいんだけど。だから単純に、嬉しい。作品を観る前から、そのことだけで、なんか溜飲が下がるように、嬉しかった。ひねくれてるかな、私(爆)。
でも、そう、それこそそれなりに国際的にも評価の高い監督さんなのに、今回の受賞にやたら世間が飛びついたのはヤハリ、カンヌというネームバリューだったんだろうか。それとも一緒に出した三池作品ばかり宣伝していたのにそっちがハナも引っかけられなかったことの反動だろうか。
……どうもどうでもいいことばかり気になってしまう。受賞から公開まで日もあったし、かなり盛り上がっていたので、すこし客足が落ち着くまで待ってから出かけた。
しかも台風の日だったんで、思いっきり空いてた。ラッキー。だって是枝監督の、特にこういう作品は、周囲を気にせずに観たいじゃないの(でもDVDはヤなのっ)。
正直、赤ちゃん取り違え事件をモティーフにしているということで、ちょこっとだけ腰が引けている気持ちもあった。あら、社会派だわと(爆)。
もちろんいつも真摯な映画を撮り続けている是枝作品ではあるし、前作の「奇跡」だって家族をモティーフにした社会派であったと思うけれど、こうしたいわゆる“事件”を元に切り込むというのは、本当に社会派、ルポルタージュみたいな雰囲気を感じて、ちょっと怖かった。
それに……どうしても目に入ってきてしまう監督自身の言葉、親になって、血っていうのは確かに重要なんだと感じたとか、なんかそんなことを言っていたのを小耳にはさんだりするとなおさら不安になった。
私は親になった経験がないから、だからある意味無責任に言えるのだということは判っていても、ことに日本がやたら重視する実子主義に強く疑問を持っていたし、そのことが女性に子供を産め産めと推奨する、なのに全然、子供を育てやすい社会にしない、そんな日本に憤りすら感じていた。
そして、ならば、親が他人なら不幸なのか、とも思っていた。そんな究極なことも、思っていた。自分は実の両親のもとでぬくぬく育ったくせにさっ。
そう、ぬくぬく育ったくせに、そんなことを思っていたところに突き付けられたこの作品。劇中で言われているように、かなり昔の時代に頻発していた赤ちゃん取り違え事件は、最近ではとんと耳にしなくなったし、そりゃあそんなこと、起こっちゃ困る訳だけど、そう、確かにあった取り違え事件の、その顛末は、その後双方の家族は、どういう決断をして、どう生きていったのかは、確かに知らずにいた。
監督は勿論、そのあたりもバッチリ取材をしつつ、……でもきっと、監督自身、あるいは、是枝流即興演出の中で、役者さんたちに答えを見つけていってもらったのかもしれないけれど、でも、きっと彼の中には結論があったんだろう。
それが小耳にはさんだ話の中に漏れているのかと思って、血を選ぶ、という明確な決断がなされるのかと思って、びくびくしていたのだった。
そういう決断がなされたと、言えなくもない。実際、正式な決断として、双方の家族は本来の息子を“取り戻す”。
でもその後は違和感続出、何よりその二人の子供たちが、子供たちがさあ……。
“本来の息子”に対する愛しさや慈しみも生まれつつも、それが決定打にならないまま、結末は、ある意味曖昧に終わる。
曖昧、という言い方は違うのかもしれないけど、でもあの結末は、決して、監督がちらりちらりと漏らしていた、つまり上手いこと観客をノセて劇場に連れて行くような思わせぶりな文句だけでは収まらない、愛そのものを、示していたと思う。
愛、だなんて、本当に単純でベタで、なのに定義の出来かねない言葉。でも愛としか、言い様がない。
これだけ、ドキュメンタリズムあふれる演出で、静謐で、時に観客に緊張を強いたり、ふっと柔らかくなったり、本当に、今目の前で、リアルに二組の夫婦の、家族の、それぞれの会話、生活、それが繰り広げられているようなのに。
なのに、ふと考えてみると、ベタと言っていいほどの、対照的な二組の家族、と言うより、二組の夫婦、夫婦同士こそが対照的、なんだよね。
もっともっと言ってしまえば、夫同士が対照的。妻同士は、女同士、何より母親同士ということもあってか、意気投合し、連絡を取り合う。
いや、更に言ってしまえば、浮いているのは片方の夫だけ。つまり、メインだらけのキャストの中でも、一番のメインである福山雅治大スターが演じる、エリート夫だけ、なんである。
私はドラマを見ないこともあって、こんだけ大スターの福山氏をあまり見る機会がなくって、ホント恥ずかしいんだけど、さっすが、大スターだけあると思った(爆)。
いや、今までの彼の遍歴は知らんけれども、このイヤミなキャラを、苦悩の中にさまよって、自らのたうちまわって出口を見つけた、そんな実感を感じさせた。
伝え聞く是枝監督の演出ならきっとそうであろう……。それこそ小耳にはさんだ、自分は父親の経験もないし、将来そうなるかもしれないという予感さえない。そんな自分でいいのかと問うた彼に、監督が、これは父性を獲得していく物語だから、それでいいんだと言ったと、ちょっとニュアンス違うかもしれないけど(爆)、そういうやりとりを聞いてて、そして本作を見て、凄く、腑に落ちたんだよね。
こういうテーマなら、それこそ判りやすく、血か時間かで親子が苦悩し、どっちに転ぶにしてもラブ&ピースでハッピー!みたいな、涙涙、みたいな、そんな大号泣メロドラマになりそうじゃん。
でも本作に感じるのは、その大部分は、このエリート男の生き様、有名大企業に勤め、常に忙しくプロジェクトを抱え、一人息子にピアノを習わせ、「ホテルみたい」(訪れた人誰もが言う)な高層マンションに住む。
お受験とか、ピアノの発表会とか、あるいはクライマックスの、病院からの呼び出しとか、そうした公的に他人の目が触れる場所には同席するけれども、それ以外では息子と外に遊びに行くことはおろか、一緒にお風呂に入ることすらしない。
後に取り違えのもう一方の夫に単純に疑問をぶつけられると、そういう方針だからだと、にべもない。方針と言われるとねえ、とリリー・フランキーは苦笑する。
そう、もう片方はリリー・フランキー。福山雅治にリリー・フランキー。実に実に、判りやすい対照。二人を知ってる日本人の価値観でももちろんそうだけど、知らない外国の観客にとってだって、一目見て判るだろうなと思っちゃう。
ぐっと年下の女房をもらって、永遠の少年っぷりを発揮する、良く言えば無邪気な、悪く言えば……まあやっぱり無邪気かな、下町のさびれた電気屋さんを営むリリー・フランキー。
しかし一方で、というかだからこそか、カネにはしたたかで、責任問題よりも慰謝料をいかにふんだくるかを考え、家族の話し合いにはファミレスや軽いフードコートを選び、そこでさえ病院宛の領収書をもらい、老父へのオミヤ弁当までまぎれこませるあつかましさ……いやたくましさ。
そう、福山雅治演じるエリート夫には、絶対に出来ない。エリート夫は、なんたってエリートだから、同級生もエリートで、友人の弁護士を雇って病院を相手取って訴訟を起こす。でもそれは傷を広げるだけである。
原因は看護師。幸せそうな野々宮夫婦(エリート夫の夫婦ね)を見ていたら、そんな出来心が起こってしまった。正直、胸がすっとした、と今は幸せだからこそ出頭する気になったという。
この看護師が時効になっているとか、そもそも今、幸せになってる状況が「夫の子供も自分になついてくれている」とかいうのが、物語の要素としてはベタといえるぐらいに判りやすく比較対象がしやすくって、これをマトモにメロドラマで見たらげっぷが出ちゃうんじゃないかと思うぐらいなんだよね。
でもそうならないのは、やはり是枝監督の、役者にゆだねたドキュメンタリズム&ストイックな演出であり、それがあるからこそのこのげっぷの出そうなほどのベタな設定なのだと思う。
だからこそ、これをスピルバーグにリメイク権渡したことが、めっちゃ危機感を持ってしまうのだが……。
エリート夫の女房は、エリート女房という訳じゃ、ないのね。演じるオノマチちゃんが素晴らしい。
あれ?是枝作品は初、だよね??それが不思議に思うほど、まるで以前から常連俳優だったかのように、しっくりとなじむ。
もともとオノマチちゃんは河瀬監督にドキュメンタリズム演出で鍛えられてきた人だからというのもあると思うし、その彼女のキャリアの最初に父親役だった國村さんが、夫の上司役で登場するのも、不思議なデジャヴを感じる。これは映画ファンへの目くばせ感じるよなあ。
ホテルみたいな部屋に住む夫婦と対照的な形で、下町で大家族で住むリリー・フランキー&真木よう子夫妻。
真木よう子は脱ぎっぷりが悪いのが気に入らんが(爆)、それは本作では関係ないんで(爆爆)、これだけ美人なのに男勝りのきっぷのいい、しかし年下の美人妻ってのがビタリとあってて、なら威勢よく脱げよと、いや、それはだから本作には関係ないんだってば(爆)。
真木よう子のキャラ、そしてその発する台詞が、一番判りやすく、明快で、ストレートに届く。
カネよりも真相を知りたい、といかにもエリートらしいことを言う福山雅治よりも、とにかくカネをもらわんと、と関西人特有のノリで(リリーさんの関西弁っつーのも、意外に新鮮かも……)最後まで問題を深刻にとらえることから避けているリリー・フランキーよりも、ことの問題よりも、母親として取り違えられたことに気付かなかったことを自らも責め、周りからも責められ、子供への愛と夫への反発でぐるぐる悩みまくるオノマチちゃんよりも、本当に、明快、肝っ玉母ちゃん。
エリート夫は最初、二人とも引き取れないかと考える。それは後に、下町妻から、「こっちは二人とも引き取っても全然、かまわないんですけど!」という言葉でしっぺ返しを食らう。
一緒に過ごした6年という時間と、血の重さ。実は彼にとってはそれ以上に大事なのは、“自分の優秀な血を受け継いだ息子”こそであった。
それは一見、血の重さに通じるようにも思えるんだけれど、実際に血のつながった子を迎えてみると、下町の大家族でのびのび育ったその子は、まるで彼の手に負えないのだ……。
そうなの、何より子供たちが素晴らしいの。子供たちを素のままに演出するのは是枝監督の得意とするところだけれど、もちろんこの取り違えられた二人の息子は、それだけでは済まされない。
この二人の息子、エリート夫婦に育てられた慶多と、下町夫婦に育てられた琉晴。あ、この慶多君役の慶多君、「王様とボク」の子なのかあ!なるほどなるほど、そう言われてみれば!
彼はさ、黒目がちの瞳がたまらない。パパとママが、自分の前では絶対ケンカしないけど、見えないところで衝突してること、知ってる。
特に、子供を交換するのかどうかという大大、クライマックス。母親なのになぜ判らなかったのかと責められたことより、「やっぱり、そういうことか」と言われたことに傷ついたと、一生忘れない、と母親が超絶なケンマクで父親に吠えているのを、一人寝室で、その黒目がちな瞳をめいっぱいに見開いたまま、まんじりとせずに薄闇の中に横たわっている姿が、その表情が、瞳が、心に突き刺さって抜けなかった。
なんて、なんて、残酷なことを聞かせてしまったの!!
慶多はさ、絶対聞かないんだよね。どうして下町夫婦のところにお泊りに行く“ミッション”をこなさなければいけないのか。
そしてその“ミッション”がいつ終わるとも判らない、「10年経ったら判ってもらえる」その理由も。
聞きたかったに違いないのに、と思う一方で、彼は判っていたに違いない。こんなやり取りを聞いて、判らなかった筈はないんだもの。
一方の琉晴は、まっすぐに疑問をぶつける。なぜ野々宮夫妻をパパとママと呼ばなければならないのか。なんで、なんでと執拗に食い下がり、エリート夫が「なんでもだ」と、大人特有の丸め込めかたをしようとしても決して諦めない。
しまいには「なんでだろうな」とエリート夫の方が苦笑してしまう。判った、じゃあ、パパとママはあっちにいる、それでいいから、お父さん、お母さんと呼んでくれ、と言っても、また琉晴は、なんで、と言う。
似てない、奥さんの浮気じゃないの、なんて下町特有の残酷な軽口にさらされながら、確かに血がつながってはいなかったけど、本当は一人っ子だった筈の琉晴が、兄と弟を得て、夜中にひとりでトイレに行けるようになった。
弟のオムツがとれたら、今度は自分がトイレについていってやるんだ、と言っていた。
思いっきり、ここの、下町の、お兄ちゃんであり弟であり、活発な、大人の頭ごなしをそのまま受け入れたりはしない、負けん気の強い男の子。
もし彼がエリート夫妻にそのまま育てられていたら……。そして、本来はきょうだいを持っていた筈の慶多が、親の顔色を見て育った、いや、両親が大好きだからこそ、期待に応えたくて、ほめられたくて、好きでいてほしくて頑張った慶多が、下町夫婦にそのまま育てられていたら……。
たらればは、言っても仕方ない、ただそれだけの過程に過ぎない。とか言いつつ、私は割と環境決定論に傾きがちなところがある。
それはでも、無慈悲なまでの実子主義に反発するからであって、それは本作の中での、病院という、この作品中では最も権威のある、大きな組織があっさりと口にする、「交換するなら早い方がいいですよ」という言葉に集約されるんである。
それを聞いて、親四人のうち、少なくとも三人は、はっきりと戸惑う。「犬や猫じゃないんだから」「犬や猫でもダメでしょ」「そう、犬や猫でもダメですよ」なんていう下町夫婦のやり取りに笑わせつつ、実は大きな、大事な、主要なテーマをしっかりと刷り込んでいるのだ。
実子主義というものは、犬や猫を取り換えるぐらいの価値観なのだと。おっと!誤解を恐れずに言えばよ!!もちろん、犬や猫だってダメだってことぐらい、判ってるさ、のえち(愛猫)と引き離されたら私、狂ってしまう!
……いやいや、それはだから、別の話ではあるんだけど、コミカルにまぎらわして、結構シンラツに描写しているんだよなあ。
この事件以前から、エリート夫と心が離れ始めていたオノマチちゃんは、電車の中でふと「このままどっか、言っちゃおうか」と慶多にささやく。まるでそれは、恋人に対するそれのようである。
でも相手は息子、「どっかってどこ?誰も知らない遠い所ってどこ?パパは?」と無邪気に返されて、それ以上言えない。
いや、無邪気なんかじゃない。この時の慶多は、必死な顔をしていた。母親が本当に追い詰められていたのを知っていた。でもパパも好きだから、だから……。
慶多が、あれだけ厳しくされていた父親のことを、好きだっていうのは、なんだか意外な気がしたんだけど、それこそが本作を決定づけるんである。
琉晴君が下町家族にどうしても会いたくて、オノマチちゃんがうたたねしている間に抜け出し、大人と一緒に改札を抜けて、元の家に戻ってしまう。
交換相手の慶多君は勿論そこにいて、“きょうだい”たちと遊んでいる。連絡を受けたエリート夫が迎えに来る。当然迎えに来たのは琉晴である。琉晴!と呼びかける。
なんて、なんて残酷なの。居所が判らなくなった息子を必死に探して、たどり着いて迎えに来た“パパ”は、別の子供を迎えに来たのだ。別の子の名前を呼んだのだ!!
押し入れに逃げ込んだ慶多の小さな胸がはりさけそうになっていることを思う。ひどい、ひどいひどいひどい、なんて残酷なの。なんて残酷なの!
下町ですくすくと成長した琉晴だって、あまりにもいじらしいのだ。下町の大家族で育った琉晴君を喜ばそうと、しばらくぎこちなかった夫婦だけれど、次第に無邪気な戦闘ごっこに興じるようになる。
掃除機で応戦するオノマチちゃん、福山氏が、リモコンで悩みつつ、彼らしくギターをマシンガンに見立てて応戦するのが素敵。
アウトドアで育った琉晴君のために、高層マンションのベランダから釣り糸をぶら下げてみたり、部屋の中でテントを設営して星を眺めたり。
楽しそうだったのに、流れ星に込めた琉晴君の願いは、「パパとママのところに戻れますように」……そして、ごめんなさい、と両手で顔を覆うのだ。なんて、なんて残酷なのだ……。
まるで、これじゃ、北朝鮮の拉致だよ!……なんて、いくらなんでも語弊があり過ぎるだろうか。
でも彼らにとってはそうとしか感じられない。しかも“拉致”した親たちにとっても、ただ苦しいだけなのだ。こんなことって……。
実の子なのに。血がつながっている筈なのに。少なくともエリート夫婦の中にぽつねんと放り込まれた琉晴君には、そんな痛々しさばかりを感じた。彼は“家族”の中で、愛情いっぱいに育ったから。
一方の慶多君は、最初からこの大家族、何でも直してくれる電気屋のおじちゃん、ガサツだけど優しいおばちゃん、すぐに仲良くなってくれたきょうだいたちの中に溶け込んだ。
溶け込ませてもらえた、と言った方が正しいし、何事にも敏感な慶多だって、そんなことは判っていただろうと思う。でもそれも、すぐに日常に溶けこむハードルの低さなのだ。
正直、監督は下町家族の、血のつながりなんて、何か?と、本当の意味で言ってしまえる強さを支持していると思う。
だからこそ逆に、その強さを持てない、それを弱みと思わず、自分こそが強者であり続けると思うエリート男を“面白がって”設定したのかも、なんて思っちゃう。
よーく、つぶさに見てみれば、この主人公の男、主人公のくせに、そして、彼自身から見ると“下々の者ども”ばかりなのに、説教&説得されてばかりなんだもん。
妻から、家庭を顧みないことをチクリチクリと言われていた皮肉はそれこそ“下々の者ども”の意見をよーく聞いてくださっている、って段階を脱してないし、妻の母(つまり姑)や、腹違いの母親から言われても、すいませんね、てな程度。
結局“血のつながらない”しかも女の言うことは余計に、聞く気さえない訳だ。男ってそーゆーとこ、あるよねーっ。
だから、この取り違えられた二人の息子を単純に見る分には、環境論が多分に発揮されていると思うし、実際、ぼかしてはいるけれど、そういう結論なんじゃないかと思うのね。
あるいは、もうそのあたりの価値観も結論もぐっちゃぐちゃ、どっちでもいいじゃん、まあとりあえずは休戦、御互いの家族で会わないようにするとか、そんなくだらないことはヨシにしようよ!みたいな。
あいまいは日本の悪しき習慣だけど、この場合はそれもいいような気がしてきた。
いざ交換した後に、慶多の撮った、自分の一眼レフデジカメの中の、自分への……父親への自然な、愛情あふれるショットに息をのんだ。そのまま次へ次へと見続けた。
そして次のシークエンス、息詰まるラストシークエンスにつながるんだもの。
田舎の山道、生垣を挟んで早足に歩く幼い息子と幼い父親。大した会話はかわしてなかったと思う。予告編でも使われた、6年間は父親だったんだよ、という台詞は、彼自身の中では血を重要視した、つまり外見は形式的な親子だったという意味合いがあるんだけど、実際は他人の子だったことを考えれば、どちらもが、逆転する、つまりさ、血を重要視してない、愛だけでつながれている親子。
……観てる時には、ここまでつまんない解釈を抱いていた訳じゃなかったの。でも後から思い返してみると、意外につまんない解釈じゃなかったのかもしれないなあ、なんて。
琉晴を可愛く思うようになり、それゆえ慶多に対する申し訳なさを感じてしまうことを夫に正直に告白した妻、次のシークエンスは、先述しまくってる、明確な答えを出さない、秀逸なラストなんだよなあ。
6歳という年齢の絶妙さ。物心がつくかつかないか。そんな数値的なことを考えて、責任を逃れたい病院側は、さっさと交換してしまうことを再三提案する。双方の夫婦は当然渋る……。
6歳、本当に絶妙。有名私立小学校に合格した慶多は、親たちが参加した入学式後のホームルームでも積極的に手を上げる。ノンキにカメラを構える“琉晴君のパパ”にもあっけらかんと笑顔を見せる。
一見、なごやかなシークエンスだけど、この二人の男の子の、繊細で、どこまでも深く浸透する心の内を思うと胸に詰まる。
表向きの無邪気さやいい子さで、大人は安心してしまう、簡単に騙されてしまう。こんなウソの上手い子供にしちゃ、ダメなのに。絶対、一生忘れないのに。
それはエリート妻、オノマチちゃんが、夫の言った「やっぱり、(優秀じゃないのは)そういうことか」という台詞を、一生忘れないと、メラメラ炎を燃やしたのより、もっともっと、百倍も強く。
でもそう思えば、オノマチちゃんのキャラはそれこそ下町で、一般ピープル、なのよね。
一応、セレブ妻を装ってはいるけれど、帰省する実家は町田、それゆえに産院の悲劇が起こる。
そこも含めて皆が、時間を共に過ごした子供をとるべきだという中、エリート夫自身の父親がそれを否定する。やはり血だ、所詮血だと。
しかし彼ら息子兄弟は、連れ子として継母の元で育てられ、いまだそれに対する拒否反応が、少なくともこのエリート夫には、ある。
いまだに“母親”をファーストネームにさん付けで呼び、しかも敬語。ざっくばらんに接しようとする母親の気持ちを思うと、もうこの母親も初老だし、兄弟二人も相応に年取ったんだし、もう、特に女としてはさ、いつまでもガキのコイツをぶっ飛ばしたくなる訳!
エリート夫の父親は夏八木さんで、連ドラから是枝作品への続投。今はもう亡き夏八木さんを、こんな風に続々と優れた新作で見かける不思議さ切なさ。
こんなエリート息子の父親とは思えないほどざっかけなく、隣から聞こえてくる「もう2年も同じ曲」をいつまでもヘタに弾いているピアノに聞こえよがしに文句をつけたりする。
エリート夫が幼い息子に「一日休むと三日遅れる」とピアノを習わせていること、そしてその幼い息子はなかなか上達することなく、発表会ではつっかえまくり、同じ年頃の子供たちが見事な演奏を披露することにエリート夫がいかにも苦々し気なことを思うと首筋がヒヤリとする。
後にエリート夫が「パパもピアノを途中でやめた」と告白することを思うと、彼は実は、ずっと勝ち組であることを誇っていた筈の彼は実は、コンプレックスにさいなまれていた男だったのかもしれないと思う。
実の母親に会いたくて家を飛び出して連れ戻されたことも、後になってもう一人の幼い息子……それこそ“実の息子”に告白する。それもまた、彼の、押し込め続けた“負け”の歴史だったのかもしれないと思う。
エリート夫がね、裁判が続いていることが響いたのか、地方に出向になる訳。なんでオレが、と不満を隠そうともしないエリート夫。
そこで行われている、人口の林を作って15年間かけて生物の生態を見ている所員。
15年も、と思わずエリート夫はつぶやく。すると所員は……まるで夏休みの子供みたいなカッコした……虫取り網を肩に引っかけた所員は、言うのだ。「長いですか」と。
ARATA、もとい井浦新が是枝作品に出るのはそれこそ、「ワンダフルライフ」以来ではないだろうか。あ、いや「ディスタンス」もあったのか。でもやっぱりなんたって「ワンダフルライフ」だ。
是枝作品の方向性を決定づけた、あの実験的傑作。成長した男になって帰ってきた。
そうだ、それこそ15年だ。あれから15年経った。この台詞はきっと絶対、そういう意味があった。
結局この二組の夫婦が、二人の息子を交換することを決意、家族同士で河原でひと時を過ごす。父親は父親同士、母親は母親同士、それぞれの息子の行く末を託す。
オノマチちゃんが、自分はもう子供が産めないんだと、弟を欲しがっていた慶多にこんな形でだけどきょうだいが出来て良かったと肩を震わせ、そんな彼女を真木よう子姐さんがそっと抱き寄せるシーンは、本当に胸に迫った。
二人の母親の白いうなじはなんだか頼りなげで、こんな試練を課せられるにはあまりに頼りなげで。
そして家族写真を撮る。二組の家族が、“それまでの息子”を手元に置いて。「笑いましょうよ、ね」とリリー・フランキーが言う。
宣材写真にも使われているこの一枚の家族写真が、こんなにも深く切なく残酷だなんて、作品に触れなければ当然、判らなかった。
親以上に、それぞれ交換される息子二人の笑顔こそが。運命を必死に受け止めようとしている慶多と、全然事態が判ってない琉晴と。その二人の笑顔こそが。
先述したように、あれだけ血にこだわり、交換した後は会わない方がいいと冷酷に思っていたエリート夫が、段々と心情が変わって、一番のキッカケは慶多が自分の一眼レフの中に残した“パパの写真”であり、この時涙を流したエリート夫=福山雅治が、役である野々宮良多と共に、「そして父になる」なった、のだと思う。
そう確信するほど心に迫る素晴らしい場面、この後、妻と琉晴と共に、下町夫婦の元に、つまり慶多の元に行ってくれた。
琉晴は無邪気に「ただいま」と言って飛び込んでいったけれど、相当の覚悟でこの家に入った慶多はパパから逃げ出し、駈けて行く。
6年間はパパだったんだ、ごめん、と必死に慶多に問いかける。そして追いついて、正面から小さな身体をそっと抱き寄せる。初めて、息子と正面から向き合ったんじゃないかと思う。息子、そう、息子だ、彼の息子なのだもの!!
はっきりとした結論が提示される訳じゃない。むしろ、ハッキリとした結論は、二人の息子を血の元に返したという時点で提示されていたのかとも思ったけれど、このラストはそうじゃない。
二組の家族が今後どういう風に進んでいくのかは判らない。けれども、でも、慶多と共に下町家族の元に帰り、二つの家族が小さな家に入っていく、その結論で充分幸せな気持ちになれた。理想論かもしれないけれど、彼らは家族になったと、そう思えたから。
カメラマン、若い人になってる!是枝監督の静謐な画をじっくりと撮る。今回から名前が変わってる。これもちょっと驚き。日本映画界の前途は明るいなあ!★★★★★
あれ、この人ってこんなにポエティックな映画を撮る人だったっけと思い、いやいや、思えば彼の作品に惚れ込んだ「千年旅人」はまさしく、そんなポエトリーな舞台だったっけと思い出した。
本作は舞台がポエトリーというより、展開がポエトリー。展開……展開なんて無きに等しい。別れた恋人が、“その後のふたり”を追いかける往復書簡ならぬ往復ビデオレターを送り続ける。そのふたりを追いかけるのが映画のカメラで、二重の映像によって二人の男女の生活を綴っていく、言ってしまえばただそれだけのことなんだもの。
でもその“舞台”はポエトリーとは程遠い東京とパリ、まさにどちらも大都会で、しかしその中で一人たたずむそれぞれは、砂漠や雪原の中にたたずんでいるかのようにまさにたった一人で、しんとしていて、そのお喋りは誰が聞く当てもないような、壁打ちのボールの、壁がないような無力感に満ちている。
無力感、とも違うかもしれない。虚しさというのとも違う。寂しさというのは少し似ているけれどやはり違う……単純な言い方しか出来ないけど、やはりそこには何とも言い様のない美しさだけが横たわってる。
坂井真紀扮する七海と辻監督自らが演じる純哉は、ドキュメンタリー制作を共同で続けていたけれど、そのコンビの解消と共に恋人関係も解消した。
実に15年の長きに渡る関係の解消に、七海はまるで傷ついていないような軽い感じで、私たちのその後を撮ろうよ、と言い出した。別れた恋人のその後を追うなんて、いい企画でしょ。誰もが見たがるよ。私たちはクリエイターなんだもん、という訳である。
どうして彼らが別れることになったのか、最初のうちは「私から言い出したんだよ」と言う七海の言葉でしかなく、それぞれの二人の様子を映し出すだけで。
往復するビデオレターも、言ってみれば漠然とした言葉……特に饒舌に喋るのは七海の方のみ「どうして私たち、別れちゃったんだろうね?」「別れる必要なんてあったのかなあ……」「気になる人は出来ましたか?私はまだ」なんて言う、言葉ばかりが羅列されて、そのバックに映る大都会、東京が、しかしやけにしっとりと美しく目に沁みて、上野の不忍池なんてこんなにキレイだったかなあと息を飲むぐらいで。
それに対して純哉の方はどちらかといえば沈黙に近い返しだったから、なんだか、もどかしいというか、何が彼らに起こったのか、判らなかったのだ。
別に、判らなくても良かった。最終的にはその原因となる場面、共同で製作していたのに純哉が現場で仕切りだして、七海の意向を無視し続け、それどころかヒステリック女のような扱いをして更に七海がキレて現場が崩壊、という、女としては実に見るに耐えない場面が映し出されるのだけれど、正直この場面を明示するのは意外な気がした。
最初に感じたポエトリーさのまま、特に説明しないまま、二人の別れた恋人を、東京とパリの美しい四季の中に映し出していくのだと思ったから。
この場面の明示は、それ一発で本作そのものがヤボになってしまう危険性をはらんでいるけれど、後半に持ってくることでそのギリギリの一線をこらえているといった風にも見える。
まあ考えれば確かにこの場面は必要だったのだろうなとは思うのだけれど、ずっと二人一緒の場面がないまま進むとばかり思っていたから、いきなり坂井真紀と辻仁成が衝突する場面で、ヒヤリとしたのだ。
その場面では七海はジャマモノ扱いされていたし、純哉はいかにもデキる感じだったのに、それぞれが別れてしまうと一人になっても意地のように仕事を続ける七海に対して純哉は、「僕はまだ何も作れていない。七海のようには出来ない」と自嘲めいたモノローグを残す。
それを聞いていたから、後のその場面が意外にも思えたのだけれど、一人の舞踏家を追うドキュメンタリーをドリーでドラマチックに撮ろうとする純哉と、フィックスでじっくりと撮ろうとしていた七海では、やはり七海の方が正しかったのかもしれなかった。
ビデオレターは、特に七海の方は質問の形を投げかけるけれども、それが返ってくる形にはならない。お互いが対峙していた時にはケンカ別れし、会話もかみあわず、ただぶつかり合って終わりだったろうと思う。
人間が二人になって、建設的な会話が出来ることなんて、実際奇跡に近いことかもしれない、と思う。このビデオレターという方法は、実はとても理想的な会話なのかもしれない。
相手からの返答はその場では来ない。あるいは、待っても来ないかもしれない。でも言いたいこと、聞きたいことは言える。聞きたいことは、答えが欲しいことじゃなくて、それを聞きたいってことを、伝えたいだけなのかもしれない……。
不毛のようにも思えるけれど、でも実はそれが最も、判り合える方法なのかもしれないと思う。ラスト、純哉は帰ってきた、よね?二人がかつて一緒に住んでいた、今は七海が一人住む部屋に……あのシルエットは純哉だよ、ね?それも意外だったけど……。
おっと、かなりすっ飛ばしてしまった。いきなりラストに行って、どうする。詩的と言えば、純哉のパリパートの方がやはり色濃い。
東京パートの坂井真紀は、どちらかといえばこの設定を引っ張るためのビデオレターの饒舌や、舞踏家のドキュメンタリー製作といった目に見えた動きがあるけれど、パリでの純哉は、まるで純文学の世界のような展開と静けさである。
そう、展開、展開はある。劇的にある。冒頭、女性芸術家のドキュメンタリー撮影のカメラマンとして登場する純哉は、カメラ越しから意味ありげな視線をこの芸術家、シャンタルに送る。
あ、これが辻氏だと判っちゃいたけれど、こんなに何もかもを超越していただろうかと、なかば呆然とする。長い黒髪だけで、男性が中性的な雰囲気を獲得できるほど、甘くはない。細身であるだけでも、ダメだ。男性には男性の骨格というものがあり、フェロモンというものが、あるんだもの。
シャンタルが「あなたは男性なの、女性なの?」と問うた位、純哉=辻氏は超越していた。純哉はシャンタルに請われて肌に詩を書く(まさに、ポエトリーだ!)モデルとして雇われるのだけれど、それは若い愛人を囲っているよう。
実際純哉はシャンタルに、あなたが好きですとさらりと、水のように言う。シャンタルの方があなたはまだ若いんだから。それとも年配の女が好きなの?とたしなめるぐらいで。
でも、まあ確かに辻氏の年齢からすればシャンタルの年上加減はちょっとキビシイかもしれないけど、純哉に言い寄るシャンタルの娘アンナの年若さのギャップとはどっこいという感じもし……でも見た目には、全く、判らないんだよね!年齢も、超越している。この人ホントに父親かよと(まあそれはこの場合関係ないけど(爆))思っちゃうような浮世離れ感。
シャンタルが純哉の背中に流麗な筆遣いで詩をしたためていくんだけど、まあこれが、その肌の質感、鍛えすぎてもいない、ナチュラルな美しさ、ここがパリで、白くてソバカスなフランス人の中で東洋人のクリーム色の肌のしっとり感が際立つというのもあるけれど、それにしても、う、美しすぎる!!年取らなさ過ぎだろ!
字を書くために上半身裸でうつぶせになっている、そのけだるげに向けた横顔がヤバすぎる!!……うーむ、もちろん彼は自分がそんな風に映っているのが判っているからこそ自らをキャスティングしたんだろうが(まあ、先述のようなインディーズ製作のなにくれもあったとしてもね)、ヤバいなあー。
もちろんもちろん、彼自身がパリに根付いたアーティストであるからこそ、というのはある。いや、純哉のキャラは、まだたどり着いたばかりのここで何も見出せていないもどかしさというのがあって、もしかしたら過去を思い出しながら辻氏は演じていたのかなあと思い、それが彼のこの、年齢も性別も(ってのはヘンだけどね(爆))超越した、浮世離れした感をもたらしたのかなあ、って。
それにしても、いきなり渡ったパリなのに、いきなりフランス語が喋れているというのもおかしい気がするが……まあ、いきなりパリに渡る訳もなく、それなりにツテがあったから純哉は渡った訳で、だからフランス語が喋れたのか……そういう細かいことをついつい気にしてしまうのは、まったく、ヤボだよなーっ。
アンナは純哉に対して複雑な思いを抱く。ママの恋人、それともママが連れてきた私の未来の夫?なんて。フランスの、それなりの年になった美人の女の子なのに、「私、処女なの」とうちあける。
純哉と出会った冒頭、つまり、ママのモデルとして裸のままうつぶせていた純哉、ママに向かって「彼と別れたの。もう、ダメ」と言っていた、つまり恋人がいたのに。フランスでもそういうことってあるのかしらんと、ヘンケンありありで思ったり(爆)。
シャンタルはこの美しい東洋人(日本人という感じも超越してるんだよな……)に対して実際はどこまで思っていたのか。七海からのビデオを見たがり、ナナミはあなたのことがまだ好きなのネ、と言い、あなたはどうなの?と、聞き様によればヤキモチと思えなくもない言葉を口にする。
彼の唇にチュッとやりもするし、アンナと一緒にいるところを目撃して、黙って背中を向けて行ってしまう場面もある。その場面は妙に美しく、ベンチの二人、背を向けて歩いていくアンナ、というカットを完璧な構図で示しもする。
ていうか、本作は、全てにおいて完璧な構図だ。だから、こんな風に書き出してみればそれなりの展開があるのに、その画の美しさの方が焼きついて、詩情の深さの方がしんしんと沁みてしまうのだ。ついついドラマの濃厚さを追い求める向きへの、さりげない批判のようにも感じる。
アンナが産まれた時に出て行ったきりだった夫が、突然帰ってくる。突然なのに、橋の上での再会なのに、シャンタル、と呼びかけ、この辺に住んでるんだ、と言う。
親子三人、無邪気にピクニックに出かける。その様子を純哉が離れたベンチから撮影している。シャンタルや、あるいはアンナとごちゃごちゃありそうなこともあっさりスルーして、純哉はシャンタルのモデルを終了し、一人の生活に戻る。
七海からのビデオレターはもう膨大な量になっている。管理人がいなかったと言って玄関口まで届けに来る郵便配達人は日本オタクで、純哉とのやりとりに見せるコメディリリーフぶりは一服の清涼剤といった風である。
七海の方は、純哉と共に製作してケンカで中断していた舞踏家のドキュメンタリー製作に没頭している。この舞踏家は、きっと辻氏自身が彼を映画に撮りたかった人なのだろうと思う。純哉が彼から教わった舞踏を、プライベート空間で披露する場面もあるしさ。
前衛舞踏という方向のジャンルだろう、そのお弟子さんたちへのガチなインタビューも少々ながら挿入するあたり、やはり彼への肩入れ様は間違いない。
でもそんなことよりも、何よりも、七海とこの舞踏家が二人きりで相対する場面の、湿度たっぷりのドキドキがたまらないのだ。別に、彼と彼女がどうこうなるという訳じゃない。そんなヤボなことにはならない。先述のように、どうやら純哉は帰ってくるみたいだし……。
この舞踏家は、現場でケンカ別れした二人を、目の当たりにしていた。舞踏を教えたぐらいだし、どうやら純哉の方を信頼していたらしい雰囲気が漂う前半は、その続きを撮りに来る七海に固い応対をするのが見ていてもヒヤヒヤした。
だって七海もさ、「あなたにとって舞踏はなんですか?」なんて、そりゃないよと思うぐらいヒドい質問するんだもの。でも七海が、何とか彼の懐に入りたいと思って、「……好きな人が出来たら、どうしますか」と聞いた時、彼が「僕なら、一緒にいます」と言った、竹林のロケーションも出来すぎなぐらい最高で、唖然とするぐらい、美しかった。
その後、「だから、来ました」と七海が来たから、うっわこれは、と思ったら、彼はさらりと受け流して、彼女に舞踏を教える。純哉に教えた舞踏を。
そのシーンは、なんか、なんか、なんかもう、たまらなくドキドキするの!相手をつかまえる、そこから抜け出す、その繰り返し、だけなのに、いや、これって、結構、意味ありげかも、とにかく、静かな道場の中で繰り広げられるこの繰り返しが、めちゃくちゃ、ドキドキするの!!
……何気に、色々放り込んできてるんだよなあ。一見、静かな、詩的な作品に思えるのに。
七海にはさ、一緒に製作している安藤さんっていうひげもじゃのおっちゃんがいてさ、彼は家庭持ちだけどどうやら七海に横恋慕してて、劇中、離婚の手はずが整ったと、もうそれは、七海に対する愛の告白に相違ないのに、七海だって判ってるのに、判ってないフリする。
七海は、そういうとこはザンコクだよね。判ってるくせに、彼に頼って、なついて、「酔っぱらってヤッちゃうの?」なんてコナかけてさ。
舞踏家のドキュメンタリー作品がなかなか仕上がらない七海に、こんどこそはスタッフの顔になって七海を叱責する安藤さんに、そこに至って七海の甘さを、ひょっとしたら純哉と別れたことで、羽をもがれたことで両足で立てなくなってしまった弱さを思う。
……私、本作は、別れた二人が一人で立てるようになる物語なのかと思っていたんだけど、実はそうじゃなくて、やっぱり二人じゃなくちゃダメだという結論に至る物語だったんだろうか。今時ないほどの甘美さだけど、いつもの私ならイヤと思いそうだけど、そうなら、ちょっと、甘やかな嬉しさを思う。
桜がはらはらと散り、雪が積もる。ラスト近くになると、東京とパリの四季が、どちらがどちらか判らなくなるほどにめまぐるしく交錯する。時空が、超える。
映像で詩を書ける人、それが辻仁成なんだと思う。劇中、七海がすっかりしらけてそっぽ向いてる横で、ギターをかきならす場面で、そうか、ミュージシャンだったけと思い出した。
二人の気持ちが離れている様を、ベッドの設置から何から諄々と示す(これがまた、なんとも切ないんだよね!)先にある気まずい場面なのに、ギターを無造作にかきならす彼は、妙に、ステキだった。
坂井真紀は、まさに彼の盟友なんだね。それこそ事情を見てしまえばギャラ的にはまあ……ていうのがあるんだろうけど、今まで見てきた彼女の中で、この七海の坂井真紀が一番、好きだと思った。
ステキとか、憧れるとか、じゃなくて、この女の子(世間的には単なる女でも、年齢的に近いからさっ)、好きだなあ、という、シンプルな思い。
役者としても、シンプルに役を生きられる場っていうのって、欲している、渇しているんじゃないかなあ、などと思う。そう思うと……最初にちらりと、観客には関係ないと言ってしまったけど、今の日本の、映画制作状況をふと、思ってしまう。★★★☆☆