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完璧なゾンビ映画を観たのは久しぶり、とか言ったけど、まぁ別に観続けてきた訳じゃないのでアレだけども(爆)。でも、ゾンビ含めてホラー映画に妙にはまった若い頃があったからさぁ。
そういう時期って、映画を観ているとあるような気がする。実際、ロメロにライミ、トビー・フーパーやルシオ(ルチオなの?)・フルチといった優れたゾンビ作家が出た時期が固まっていたこともあって、あの頃は神の領域だったと言いたいぐらい。
その後飽和状態になるとどんなジャンルでもそうだけど、パロディめいたゆるい、コメディチックになるようなところがある。ゾンビはその最たるもので、その存在に対する矛盾自体を揶揄するような向きもあったからなあ。
特に日本ではなかなか出てこなかった。土葬という風習がないせいもあるかもしれない、などと学術的なことを言いだしたりして(爆)。近年ちらほらと予告で接したりはしてきたけど、なんかそういうパロディチックな雰囲気が気になって観る気が起きなかった。
それは、「東京ゾンビ」があまりにヒドかった記憶も影響しているかもしれない(爆)。本作だって、大泉先生が主演でなかったら、観なかったかもしれない。
ゾンビゾンビと言っちゃったけど、ゾンビじゃないと言われそう。あくまで、感染する正体不明の奇病であり(でも感染したら心肺停止しちゃうんだから、死体に対して病気というのもなんだろう……)、ZQN(ゾキュン)と呼ばれる彼らを、ゾンビと言っちゃいけないのかもしれない。それだけオリジナルな存在なのだから。
でも、見た目はまんまゾンビなんだもん。だからゾンビ映画と言っちゃいたいんだもん。噛まれたら感染する、ってところは違うのかな?ゾンビの定義っていわゆるリビングデッドよね。死体が生きているように動いている、っていう、ただそれだけだったような気がする。
噛まれて感染、っていうのはまんまヴァンパイア。ゾンビと吸血鬼のかけ合わせの発想?単純のようで、これが案外目からウロコ、それがこんなに怖くなるってことが!!
大泉先生が演じているのは漫画家、のアシスタント、英雄。本人は漫画家のつもりだけれど、15年前に新人賞を取ってからは鳴かず飛ばず。原稿を持ち込んでも「普通ですね」で却下される。同期の漫画家は今や大ヒット連載を抱え、英雄も「……おもしれーなー……」と認めざるを得ない。
ボロアパートに住む恋人とは冷戦状態。そりゃそうだ、次は絶対掲載される、そして一気に連載だ、とかいうよくあるクズ男の寝言を15年も聞かされたのだから。でも、そうやって大喧嘩して仲直りするはずだった再会があんなことになるなんて。
起承転結の起、になる導入部分の恐ろしさは本当に見事だった。同居する恋人、片瀬那奈が、あの美人があの異形に変貌するんだから恐ろしいことこの上なかった。
異形もそうだが、動きの奇妙さはホラー映画においても重要な要素。ベッドから落下し、あり得ないアクロバティックな動きで玄関へと近づいていくシークエンスは、まだその恐ろしく変貌した顔が見えないだけに、恐怖よりも不気味さの方が色濃く、不気味というのは恐怖よりも時に怖いことがあるのだということに気づく。
英雄が噛まれずに済んだのは、先に彼女がドアをがしがしとかじり、歯が全部抜け落ちてしまったから、という理由づけさえ忘れてしまうほど、最初にZQNに遭遇するこの導入部は心臓が止まるような恐ろしさだった。
その後はアシスタントをしていた漫画家さんのマンションへ戻るも全滅、そもそもここで“土佐犬“が”噛まれて重体”のニュースとか、首にキスマークつけて身体がだるい漫画家さんとかいう予兆が静かにひそやかに示されていたのだ。
漫画という誇るべきカルチャーから世界を変えるんだ!!と雄たけびをあげる妄想をぶつぶつ独り言つぶやいていた英雄はアシスタント仲間からも疎まれる存在だったのだが、そんな普通で、気弱な彼がヒーローとなっていく、のには、こんな過酷な状況しか、なかったのか。
肉体的にもそうだけれど、感情もマイナスの部分が発露されて漫画家先生のマキタスポーツをメッタメタ、ぐっちゃぐちゃにたたき殺すつかっちゃんがZQNの恐ろしさを示す第二段であった。
そして英雄は外に出るも、猛スピードで走ってきて通行人に襲い掛かるZQNが一人、二人、三人……ついには街中にあふれかえっているのを目にする!何が起こっているのか、ここだけなのか、日本中か、世界中か、結局そういうことも最後まで判らずじまいで。
スマホで掲示板を見てZQNとか富士山に行くとウィルスが死ぬとか、ウソかマコトか、みたいな情報をちらと見た限りで、最後の最後、どことも知れぬ場所から脱出するけれど、それは決して何の解決でもないのだ。本作は未だ連載中ということだから、そうやってずっとずっと続いていくんだろうけれど……。
おっと、ついつい先走って最後まで行ってしまった(爆)。まずね、英雄は一人の女子高生と出会う訳。出会う展開も最高にスリリングなカーチェイス。もうこのシーンから、ハンパないエンタメ映画の完成度の予感があったと思う。
この高速道路のシーンも、メインの展開となるアウトレットパークも、韓国での撮影だったと聞くと若干の悔しさを感じる。そうか、これを日本でやれなかったのかあ、なんて。閉鎖されたアウトレットなんてロケーションがあったからこそのことかもしれん、日本じゃそんな都合のいい場所は探せそうにないから。でもちょっと悔しい。
このカーチェイス場面で、同じタクシーに乗り合わせた官僚、風間トオルが感染者であることが明らかになり、運転手の村松氏に感染する、という一連の流れのスリリングがたまらない。
官僚を車から蹴り飛ばし、感染した制御不能となった運転手になすすべなく、シートベルトをして横転する車に身を任せるすさまじさは、往年?の名作「スピード」をふと思い出したりもしちゃう。
これで助かるというのもあまりに奇跡だが……とにかく英雄と女子高生、比呂美ちゃんは富士山へと向かうのだ。
アウトレットパークで生存者グループがたてこもっている。一方、ZQNもいっぱいいる。生存者グループたちは、ZQNが来れない屋上で避難生活を送っている。
リーダーの伊浦を演じる吉沢悠が、彼の優しげな雰囲気を表面上では出しながらも、実は冷酷でワンマンなリーダーというのを浮き彫りにしていくのが恐ろしい。
彼はいい感じに役者年齢を重ねている。上手いなあと思う。オーバーオールというのは彼の年齢に比して幼い感じなのだが、それが逆に不気味さをもたらす。
このリーダーに判り易くかみつく本能むき出しの岡田義徳にも驚く。彼には気づかなかった。ラストのキャストクレジットに、あれ誰やったんだっけ??と思ったぐらい。
長髪だったせいもあるかもだけど、あのむき出しの感じは彼のイメージではなかった。凄かった。でもどこか単純な人の良さが出て、最後にはZQNに噛まれまくってしまうのだけれど……。
ここでようやく出てくる感のある長澤まさみ嬢は、これだけのネームバリューの人がようやく出てくるにふさわしい活躍を見せまくってくれる。
まず何より、カッコイイ。あの長い手足をフルに動かして、小さな手斧ひとつでZQNをぶち殺しまくる。彼女はなんだかんだ言って、それまでカワイイまさみちゃんとして扱われていたので、ようやく彼女本来のクールな魅力を発揮できたことを嬉しく思うんである。
この作品の後に「海街diary」の撮影があったことを聞くと更に驚いてしまう。てゆーか、なんで公開がこんなに遅れているのだろー。撮影時期って、不思議だな……。
ところでここまでウッカリ言い忘れていたけれど(爆)、英雄は猟銃を持っている。許可証をちゃんと取得している、正当な所持。
冒頭、彼女に追い出される時に、「手帳を持ってないと、不法所持になっちゃうんだよ!」と訴える場面に笑わせるけれど、この猟銃を持っている理由が、趣味だと説明するものの、ZQNを殺す理由以外にないよな……と思っちゃうところは少々アレだろうか。
気弱な彼から猟銃を取り上げる緊迫のシークエンスや、何よりこの猟銃で迫りくる大量のZQNをぶっ放しまくる、今までのよーちゃんでは考えられない凄惨なクライマックスに、ああ、確かに銃というアイテムがなければゾンビ映画は作れないけれども、それが普通にある社会よりも、銃というのが非現実的な、それだけ重い日本社会での本作、そしてクライマックスってのが、全然違う重さを持つし、だからこそヒーローなのだと。
……まぁ、ゾンビと言えども殺しまくってヒーローというのも特に日本社会ではなかなか言いづらいけれども、やはりなんか感触が違うんだろうと思う。そしてそれは、妄想ばかりでなかなか一歩が踏み出せない、頼りない男(だった)英雄、それを演じるよーちゃんが予想以上に素晴らしかったから……。
言い忘れていたことがもう一つ(爆)、女子高生、比呂美ちゃんを演じるのは有村架純嬢。しかも、ZQNになりかけ、という設定の斬新さ。ゾンビ映画がこれまで、完璧に人間側とゾンビに分かれ、いわばゾンビこそが悪だという、勧善懲悪のような世界観だったのに比しての斬新さ。でもこれが実に日本的というか。
ZQNは眠らないよ、というメンバーのひと言によって彼女は迎えられた。その時点でどこか、疑わしきはすべて罰する的な、欧米的思考から外れているように思えた。
そして劇中、生存者の仲間たちも次々にZQNの毒牙にかかるんだけれど、判り易いのが先に奥さんがZQNになってしまったアベサン(徳井優)。屋上から奥さんの変わり果てた姿を英雄に笑顔で説明している場面から浪花節的だと思ったけど、クライマックス、これまた浪花節的な奇跡で奥さんと対峙した時、彼女も彼のことを判り、彼は彼女に噛まれ、彼女を殺した彼は、「今行くよ」と自らののどに針をぶち込んだのだった。
そもそも人格も破壊するということだった筈なのに夫のことを覚えていたっつーのも浪花節だし、つまりここでも、人間とZQN、いやさゾンビは違うものではないんだと。そもそもは当然、人間だったんだと。
そういう優しさがね、そういう作り方が、ああ日本だなあと思って。一緒に闘ってきた仲間がZQNに取り囲まれて噛まれまくっているのを、哀しさに咆哮しながらぶっぱなすしかない英雄に、凄くね、感じるのよ、そういうのを。
で、なんか脱線して比呂美ちゃんのことを言いそびれたけれども。赤ちゃんに噛まれた、その母親の方がZQNだったという彼女は、一見理性も失い、怪力を得て怪物、にはなっているんだけれど、心肺停止の筈のZQNが彼女は脈拍を持っているってことで、一時は仲間割れで殺されかけるも生き延びる。
看護師のキャリアがある藪(まさみ嬢)によってかくまわれる。いつ完全変貌するかも判らないのに。
こういう部分、先述のような部分、本当に日本的だと思う。正直、最初の怖さからは離れた中盤、中だるみのような雰囲気もあったんだけど、この価値観を獲得し、それを判ってからは、なんかただゾンビ映画じゃないという気持ちで観られた。
あれだけ撃ちまくっても、おぞましさやRPGのようなゲーム感ではなくって、何か違う感情が生まれていたのは、そういうことだったんだと思う。★★★★☆
ニュースフィルムのように時代の移り変わりを映してみせるのだが、その中にしれりと皇太子(現天皇)と美智子さまの“テニスコートの恋”なモノクロ写真を挿入してくるのには思わず噴き出す。
あけっぴろげな身体を売る女たちの話に、そ、そんな!!しかもこれが、本当にさわやかで仲睦まじげにプレーをしてらっしゃるやけにいい写真で(爆)、余計に、い、いいのかしらんと思っちゃう(汗)。いや、何がって訳じゃないけど(爆爆)。
しかもダメ押し?厳かに流れる君が代である。最後の日、厳かに流れる君が代。ああ、ワレラ日本人よ、ってことなのか、ええ!何か決定的に違う気がするのだが!!
いや……違わない、天皇一家を敬う気持ちと赤線の仕事を胸を張ってする女たちとが交わらないと考えること自体が、違うのかもしれない。いや、コメディだとは思うが、なんか深い気がする!!
様々な女たち。まずは今回の特集である芹明香から行こうか。時間差で複数の男たちを引き込むヨーコ。センセーと持ち上げるご年配さま。なかなか終わらないセンセーを置いて、トイレに行くとしれりとウソをついて次の客へ。最後の日だから、混んでいるからと、結構お客たちは聞き訳がよいのである。
複数の客を相手にするから、洗浄液(洗浄器かな?聞いた感じは微妙)は欠かせない。なんつーか、生々しい。
まだ熱いままのそれを、まぁいいか、と主人は設置して踵を返す。直後に入った客がギャー!!!と悲鳴を上げる、てな細かいギャグが丁寧にちりばめられていて楽しい。
ちらりの出番だけれど、宮下順子だけではない薄幸の女がいる。しかし彼女は家族がいるという点では、宮下順子扮するひとみよりは不幸ではないのかもしれない。
夫が入院してしまったからといって、まだ赤んぼをつれてやってくる幸子。幸子という名前だが、いかにも幸は薄そう。だって、つまり、夫はいるけれどビンボーだから働かなくてはならない。
共働きなのか、夫が子供を見ている主夫だったのか、もともと夫は身体が弱かったのか……いずれにしても、夫が、妻の仕事の内容を判っていることは明白で、そのことがひどく哀れさを誘うんである。
先に私は、この世界に身を置く女たちのたくましさを書いたが、それはあくまでたった一人で生きていく覚悟を持った女の場合なんである。
哀しいかな、女は男や家族といった愛するものが出来たとたんに弱くなる。いや、強くなる、と世間的には言われる、女として生きていくという点は譲ってしまうんだから、弱くなる、と言いたい。
本当は、そういうものが出来てもこうした“職場”で胸を張って仕事が出来たらどんなにカッコイイかとも思うが、少なくとも当時は、そこまでの社会環境は出来ていない。いや今もそうだけど。
個人的には、赤線最後の日だからと勇気を振り絞って筆おろしにきた青年の相手をする、百戦錬磨の康子のエピソードが好きである。彼女は赤線最後の日のこの日、悠然と店前に立っている。この時ばかりと記者がやってきてインタビューを試みるも、まさにこの時だけのヤカラなのだから、彼女はパァンと平手打ちをして追い返すんである。
だっていかにもエラソーなんだもの。この日だけのこのこ来たくせに、自分たちはジャーナリスト、何でも知ってますぜみたいなさ。文春かよ、みたいな!!当時も今も、変わらないよね。
そんな康子に、初めてなんですけれど……とおずおずと声をかけた青年。本当に何も知らなくて。女の服の脱がせ方も、触り方も、そもそも女の身体を見たり触ったりしたことさえないでしょうと。
手取り足取り、一生懸命に青年がコトを学んだあと、康子は問うてみる。なぜ来たの、赤線が最後だから?と。
自分は結婚するんです、と青年は言う。愛する嫁さんのために、何も知らない自分を恥じて、学習に来たんである。康子はとても微笑ましく思う。
もうこんな場所に来ちゃだめよ、と言う。青年はいかにも純朴に、だってここは今日で最後でしょうと言う。
……ああ、なんと純粋な!!ホーリツでなくなってしまえば、本当にこういう場所がなくなると思っているだなんて!!そんな彼に、こういう場所はなくなる筈がないなんてこと、教えなくても良かったような気もするけれど。男はどんなに純粋から始まっても、確かに判らないものだからなー。
そして、やはりメインは宮下順子。彼女もそうだが、なんと言っても相手になる青臭い学生、風間杜夫に衝撃を受ける。当たり前だが、超若い!そして……やばっ、萌える、何このぽよぽよした可愛さ!!
あれっ、宮下順子と風間杜夫は同い年、うそっ。いや、劇中では学生さんである益夫が赤線の女、ひとみに岡惚れ、ひとみも年下の可愛い男の子、益夫に惚れられて商売であることを忘れちゃう、つまり恋に落ちちゃうという設定で、設定だけじゃなく、かんっぜんに彼女は年上の女、彼は年下の男に見えたからさ……。
いや、宮下順子が老けていたという訳じゃない。むしろ妙に可愛らしい、というかちょっとイタいいでたち……女学生のような長めのボブスタイル(つーか、おかっぱだな)に、なんでか大きなピンクの花をあしらって、フシギちゃんつーか、言ってしまえばカマトトっぽい印象で(爆爆)。
だからこそ逆に、それなりにイイ年をしてのその格好だから、水森亜土的な感じで(爆)、職業的にそういう感じにしているという、大人の女だな、というか。
風間杜夫は恐らく、その年齢のまんまの若さなのよ。改めて彼は甘い系の美青年だったんだと認識した。いや、私だって「鎌田行進曲」「スチュワーデス物語(は見てはいなかったけど)」の世代だから美中年であることは判ってたけど、そうか、美中年の前はそりゃ美青年、なのか!!
まだまだ出来上がっていないお顔に、身体は妙にエロティックにたくましく、細い宮下順子を若々しくつまりテクニックなぞなく、青臭さだけで抱く、あの清純なエロ!ああ、ヤバい(萌)。
おかっぱ頭に大きな花をつけた状態で、若き青年の身体の下であえぐ宮下順子をふと痛々しいと思うのは、結局はきっと彼と、……もう会えないことが予測できるからなのだろうか。
益夫はね、まだ学生だから、ひとみに会いに来る金がなかなかできない。思い合ってても結局は商売女と客、金がなきゃ会えないんである。
安定食屋の見本を見て生唾を飲み込み、学生にとっての商売道具である本を売り、それでも愛読書の啄木の文庫本は二束三文だと言われたせいもあるけど売り切らず、血を売ってようよう彼女に会いに来る。
貧血でフラフラの益夫のために、ひとみは鍋焼きうどんをとってやる。若き彼に、自分の分も食べさせてやる。鍋焼きうどん二杯を平らげる若さ。でもひとみは、窮地に立たされていたのだ。
しばらく行方をくらまし、もう切れたと思っていたヒモ男から連絡があった。赤線最後の日をかぎつけない訳がない。彼女の行く先を勝手に決めて、手付金を懐に入れていた。
なぜ、なぜこんなクズ男と別れられないのか。手付金云々だって、闘おうと思えばできるはず。実際、公娼制度が終わった後、バーに改装してひとみに継続して働いてもらおうと主人夫婦は思っていた訳で、それだけ信頼を寄せていた訳で。
主人夫婦、そんな男の言うことは聞くことないと憤慨し、力になってくれる風情だったのに、もうそんなこともひとみの耳には入ってないっていうか、もうどうしようもない、自分はそうするしかない、幸せになる資格なんかないのだ、っていうような……もう、マジでイラッとする!!
益夫から「必ず手紙を(つまり居所を知らせるために)書いてよ」と手渡された住所も、蛍の光が流れる中、ぼんやりとした顔でマッチで火をつけ、燃やしてしまう。
それを同僚がじっと眺めている。事情は判らずとも、同じ仕事をしてきた女同士として、まあ判っちゃうのだろう。でも必要以上に不幸を選択することもないと思うけどね!!
でもやはり、女は考えるのだろうか。愛する男が、しかも年下で、しかも学生で、自分に会いに来るために血を売って貧血を起こすような可愛らしさはつまりは非力で。
勿論、彼の若さが彼の未来であり、自分のような立場の女が邪魔するべきではないと思う一方で、非力な彼にこんな女は重すぎる、つまり、彼の愛の力は信じていても、愛は実行力にはならないと、思ってるのだ。
実際、手紙を書いてと何度も念押ししながらも、「さよなら」と決定的な言葉を言って背中を向ける益夫は、確かに頼りないのかもしれないのだけれど。
自分のような女、というあたりが、同じ赤線の女でも宮下順子的な女と、この特集のヒロイン、芹明香的な女とでは違うのだろう。そして宮下順子こそがメインになってしまうのが、日本という国なのだろう。いかに赤線という女のたくましさが際立つ場所だとしても。
一本目の映画では、宮下順子のヒモ男は顔が見えていた。なんたって蟹江敬三だったのだから。そして彼女は彼にホレきっていたのだから。
でも本作では、突然電話をかけてきて、理不尽な通達をする男は、サングラスの下で顔が見えない。今、ひとみが愛しているのは、頼りないかもしれないけれどまっすぐな愛情を寄せてくれる益夫に間違いないのに。顔の見えない男に従うしかないなんて。こんなの、赤線のたくましい女の話じゃないよと思ったり。
益夫からプロポーズめいた言葉をもらい、手紙を書いてくれと言われて、それに応えずひとみはもう一度抱かれることをこそ選択する。生々しい選択だけれど、おかっぱ頭に大きな花をつけたフシギちゃんのままだから、……まるで年老いた少女のようで痛々しくて。女としては、見ていられない。
だからこそ特集としては芹明香だったのかと思ったり。今だったら彼女こそが当たり前の女の基本だろう。
でも、彼女も含めて女たちはしんみりと赤線最後の日を迎える。蛍の光がひどく心にしみる。青函連絡船を思い出したりする。なぜあのメロディはあんなにも決定的な終焉を迫り、哀しいのだろう。★★★☆☆
しかも本作、赤線の女たちと当時の女優さんのお顔立ちと、メイクの似通った感じで、何人かで切りまわすオムニバスのような雰囲気もあり、誰がどの女だっけ、とか、序盤の内、かなり頭の中を混乱させながら見ていたのも原因だったかも。ああ、自分の顔認識力の悪さがホントに恨めしい(爆爆)。
芹明香特集といえど、トップに来る名前は宮下順子。いわずとしれたロマポル名女優。今回の二本立てではどちらも薄幸な哀しき女を演じるが、より印象的だったのは二本目の彼女の方だったが、まあそれは、私の神代監督苦手がそうさせたのかもしれない(爆)。
むしろ、赤線の女といえば、宮下順子が演じるような湿度たっぷり不幸な女というよりは、私が芹明香とカン違いしていた丘奈保美演じる直子のようなしたたかな女の方がパッと頭に思い浮かぶ。
ところでこの日の二本立てはどちらも、売春禁止法によって終焉を迎える頃の赤線を描いていて、そうした寂寥というかやけっぱちのような雰囲気が漂っている。
でも、その不幸よりも女としての不幸をたっぷりと吸い込んだような宮下順子のような女はむしろマレで、形が変わったって同じように私らは生きていくさね。その才能しかない、いや、その才能があるんだから、と堂々としている。ちょっと殺しても死なない雰囲気なんである。
ところで、くだんの芹明香が演じるのは、公子という女で、冒頭、この世界から足を洗い、結婚生活へと旅立っていく模様を映しだすのだから、確かに彼女は一人のキーマンであったに違いない。
ただ私があまりにもウカツだったのは、先述したように序盤で女たちの見分けがついてなかったことから、ラストの方ではすっかり、天性の赤線の女、生まれながらにしての娼婦のような存在になる彼女が、その最初、この店に入った時にはまるっきりの処女で、石のように身を固くし、服を脱ぐのもぎこちなく、入れられた時には「お願い、動かないで、動かないで」と泣き叫んでいた、あの公子が長じた姿であったことを、判っていなかったことなんである!!
ああ!!!そこを判ってなかったら、本作を見た意味なんにもないんじゃなかろーか!!!もう私、ホント、バカ!!いやそれぐらい、別人28号だったってことで……言い訳にしてもヒドすぎる……。
気を取り直して(爆)。そう、それだけ公子は変わったんである。それでも、結婚に初々しい希望を持って店を出た冒頭には、処女であった頃の気持ちを持ち続けていると本人は思っていたかもしれない。
夫は誠実で、お金がなくて式は上げられないけれど貸衣装で写真だけでも撮ろう、と衣装まで予約してくれて公子を感激させる。しかし、公子を落胆させるのがこともあろうに新婚旅行先の”初夜”で、あまりのヘタさに彼女はすっかりしらけきってしまうんである。
ゆっくりね、と諭してあげても、新妻に目がくらんだ彼はなかなかに呑み込みが悪い(爆)。……彼とはお客で知り合ったんではないの?だとしたらその時に判っていたと思うんだけどなあ……。やっぱりサービス業として客に接するのと、恋人になり夫婦になるのは違うということなのか。
でも、公子がその生活に辛抱たまらんくなって夜の町に帰ってくると、「濡れてる。私今日イッちゃうかも」などというのだから、奉仕するだけが好きな訳じゃなかったとは思うのだが。
まぁ、公子の話は後回しにして。トップに名前が来る宮下順子。お相手は蟹江敬三。うおっ!ロマポルで鳴らしていたというのは有名だけれど、私は案外それに遭遇するチャンスがなかったんだよなあ。
宮下順子扮するシマ子は、刺青のある男に弱い。それって、ヤクザものに弱いという意味とは違うのかなあ。彼女も内ももに桜の花札を彫っている。男が太陽の位置にそれをあえて彫らず、「いいことがあったら彫る」と言ったのにならうように、彼女も花札の中央は白く抜いている。
ホレちまった男に見えない部分で迎合する、見えない部分ってーのは、エロな部分を想起させる、つまりつまり、男に惚れきって傷つくことを上等とするような女なんである。
まー、私のようなフェミニズム野郎には理解の範疇を超えるのだが、ある意味一種のマゾヒズムがヒロイックにさえ昇華するほどの激しさを持つこーゆー女を、無下に否定しきる訳にもいかない感覚は確かに、ある。
蟹江敬三扮する志波は外見は粋がっている男だけれど、賭けで負けが込むと女に金を運ばせ、ヒロポン中毒になっているような、クズ男なんである。
彼と彼女の登場シーン、「店に来てくれれば、取り分が得になるのに」というシマ子に突然激昂し頬を張り、俺は客としてお前を抱きたくないのだと言う。この台詞は確かに女泣かせであり、シマ子は彼にむしゃぶりつくのだが、結局金を融通しているのはシマ子の方なのだから、なんだかねぇ、という感な訳よね。
で、どうやら若い女とウワキしているらしい(それを同僚から吹き込まれるあたりが、女の世界の怖さ(爆))ことを聞きつけ、仕事をほっぽりだして彼の元へ駆けつけたシマ子。
ヒロポンをやめてくれなきゃ私帰らない!!とか言って、注射器を踏みつけて足の裏血だらけ、そして男狼狽、抱いてくれなきゃ帰らない、とか言って、男狼狽、なし崩し的にエロエロセックス、お前しかいないんだよー、みたいな(爆)。
うーむ、なんか論点ズレてるが、それが彼女の、無意識としても計算だとしたら、怖い女だ。女の湿度100%。
私が一番好きだったのは、芹明香とカン違いしていた、直子を演じる丘奈保美。ヒマを持て余した客たちが押し寄せる正月に、それまで同僚が樹立していた客記録を更新しようともくろんでいる訳である。もうこのくだりが、サイコーである。つまり私は結局、コメディが好きだから、しんねりすると胸がつかえちゃうのかもしれない(爆)。
この店の主人は殿山泰司。そのことにもワクワクしちゃう。お父さんと呼ばれる彼は、娘である彼女たちに伝授する。股火鉢で中をあっためれば、客はすぐにイッてしまって、回転が良くなるんだと。
最初は鼻であしらっていた直子が、しかしすぐに実践するのには爆笑!尻を上げて、あちち、あちち、と股をあぶっている様も可笑しいが、中に入れた客が「なんか、熱い、熱い、熱い!!」と絶叫するのにも噴き出してしまう。
いやいやいや、そんな、ナニが熱くて我慢できないほどの熱さに膣内がなってる訳ないでしょう、と思うのだが、そのあり得なさに女のプロ意識っつーか、執念っつーか、とにかく強さをきちんと付与してくれているような気も、確かにするのよね。
で、彼女が記録の26人を達成せんがごとく、午前を過ぎても、その疲れ切った身体を引きずって男を捕まえるべく自らを奮い立たせるのがこれまたサイコーで。彼女が一番キョーレツだったから、芹明香かしらとカン違いしちゃったんだよなあ。
途中酔っぱらいの客がムリヤリ入り込んできて、案の定勃たなくて、もぅー!!!だから酔っぱらいはイヤなのよ!!とキーッ!となるところとか、最高好きだなあ。
で、最後の客にフラフラになりながらからめとるがごとく連れてくる時の、もう完全にイッちゃってる目に劇場爆笑!!執念ありすぎ!!
そして、今回の特集の芹明香である。彼女は誰もがうらやむ結婚生活から飛び出して、元の店に戻ってきた。いかにも商売女のハデなワンピースに身を包んで。
かつての同僚から客を譲ってもらって、嬉しげに下着を脱ぎ「濡れてる。私今日、イッちゃうかも」と楽しげに言って、女将をあきれさせた。誰もがうらやむ足抜けだったのに。
いや、本当にそうだったのだろうか。この赤線の女たちは、口ではそう言うけれども本当に結婚によってここから抜け出すことが、夢だったのだろうか。
それは、いまだに言われる、女は結婚という逃げ道がある、仕事にあぶれても、結婚という選択肢がある、というだけの話だったんじゃないだろうか。
そして結婚というワードには、幸せになるとかゴールとかいう幻想の付加価値がついてくる。男がそれを得る時には決して言わない付加価値。
つまり、女には選択肢が余計に与えられているように見えて、それが職業や人生ということに置き換えられているという分、そして人生のゴールにすげ替えられている分、決定的に女には選択肢が少なく、逃げ道がないということなのだ。
ああ、結局フェミニズム野郎(爆爆)。本作は当時の風俗を描くという使命があったのだろう、漫画家、滝田ゆう氏が風俗考証と共に劇中のカットも構成していて、これが実に当時っぽいながらも、フランスのような退廃風刺画のような雰囲気もあって、日本らしいキュートさの中にも、何とも色気があるのだ。そして当時の、まるで神田川のようなさびれた雰囲気もあり……なんともイイんだよなあ。
女は強し。それは絶対に。だから、トップに名前が来る宮下順子ではなく、丘奈保美であり、芹明香であるのだと思う。
シマ子の今は想像できない(死んでるか、行方不明か)だが、公子や直子の今は想像できるのだ。場末でもどこでも、たくましく生きているに違いないと。どこか小さなスナックに訪ねていけば、きっとそこにいると、想像できるのだ。
そう、「道具が海のように広い」と称されて(!!)新天地を求め、仲間に何も告げずに鞍替えした繁子のように。
記録を作って直子にうらやましがられた繁子の、その秘密とたくましきその後が明らかにされる最後には、女の強さと誇らしさがあふれ、ああ、こんな職業には就けないが、私も女で良かった、長生きするわ!と思わせるんである。★★★★☆
なかなか、そこまで思う監督さんってのも、いない。つまり彼は映画に対峙するために必要なアカデミックさを手に、無意識か意識的にかは判らないけれど、とにかく確実に観客に圧を与えてきている、そんな感じが強烈にしたんである。
そして、映画を愛してはいるんだろうけれど、映画よりも文学、その中でも小説は下劣で詩こそが至上の美なのだと、オレはその詩人なのだと、みたいな(爆。私、ひがみにもほどがあるなー)。
そしてそれは、本作にもきっちりと継承?されていて、ある意味もっとコアである。だってこのタイトル、そして劇中にも、高く評価された詩集として熱烈なファンの存在も示唆される「秋の理由」という詩集は、福間氏自身のそれだと、いうんだもの。劇中、美しい女の子とロマンスグレイの美中年が声を揃えてその詩をうっとりとそらんじる場面さえ出てくるんだもの。
そしてその詩を書いた詩人が今、書けなくなっているということを皆が憂いていて、彼が復活したら大ニュースね、とまで言う。……その自画自賛に、思わずほっぺたが赤くなってしまう。
と、いう、その書けなくなった詩人、村岡を演じるのがわが敬愛する佐野和宏氏であり、その妻が寺島しのぶ、という、奇跡の顔合わせであることが、本作に足を運ぶ大きな動機になったのは否めないところ。まさかこの二人が、しかも夫婦役で共演とは!ああ、生きてて良かった……。
確かにことこの二人については、当然文句などある訳はない。声の出なくなった夫に苛立つ妻。特に明確にはされないけれど、子供もいない様子なのが、この妙齢の夫婦に独特の影を落とす。
佐野氏と寺島氏では、彼女がアダルティーなせいもあって見た目は違和感ないけど、実際には結構年が離れてるよね、と思うと、この夫婦の成り立ちにちょっと興味がわいたりもするのだが、そんな無粋なところに物語は言及しない(というか、そこまで考えてない?)。二人とも名優だから勿論名演技だが、声の出なくなった夫に苛立つ妻、という見え方はかなり平凡かな、と思う。
実際はそこにコアがある訳じゃなく、詩人の詩を絶賛するところがメインな訳だから(爆)、特に重きを置いている訳じゃないのかもしれないが(爆爆)。
主人公はこの二人では、ないのだよね。もう潰れかけている小さな出版社を経営している、先述したロマンスグレイの宮本(伊藤洋三郎)。宮本はその出版社を恩義のある亡き先代から引き継いでいて、先代も村岡の才能を高く評価していた。
宮本が風前の灯火の出版社をたった一人で守り続けているのは、なんとかして村岡の次の作品を手掛けたいと思っているからなんである。
宮本の編集者としての腕は凄いらしい。間借りしている他の編集者の妙齢女子二人も熱視線を送るぐらいである。まあそれは、ロマンスグレイの宮本に色目を使っているのかもしれないが(爆)。
でも、そういう、才能ある作家を見出すとか、真の芸術を見つけ出す力とか、そーゆーところにこの妙齢女子(とゆーか、トウのたった女子、同じような年頃の私が言うのもナンだが(爆))がステキーとばかりに目をハートマークにするあたりも、文学自画自賛を感じてお尻のあたりがムズムズしちゃうんだよなあ。
そしてもう一人の主人公、やはりエーガは可愛い女の子がメインに来なくては。見たことあるようなないような、離れ目加減がキュートな趣里嬢。
見たことある気がしたのは気のせいじゃなかった。なんか大好きになっちゃって満点漬けちゃった「ただいま、ジャクリーン」のあの彼女か!!
宮本との出会いは、突然暴漢に襲われて殴り倒され、キュウと気を失っている宮本を助けた(つーか、手を伸ばして起こしただけだが)のが、彼女、ミクだったんである。訳ありげな少女に見えるが、実際はどうだったのか、よく判らん。
村岡のファンで、とにかくやたらと詩をそらんじるのだが、その言い様がやたら舞台っぽく声を張って、わざとらしくて、なんか……なんとも聞いてられないんである。その感じって、「わたしたちの夏」の時もなんとなくそんな覚えがあったような気がするんだよね……すみません、うろ覚えなんだけど(爆)。
とにかく彼女は村岡、つまり福間氏の詩をほめたたえまくる役柄。そして見ている時にはさっぱり判らなかったけど、その「秋の理由」に出てくるヒロインそのままに、人の心を読むことが出来るのだという。
……このあたりの描写は、若干フシギ少女の感ありで、あまり物語の進展に関わるような重要性は感じなかったが。てゆーか、私自身、このミクという女の子にどうしてもシンクロできなかったからなあ。
「未来と書いて、ミクと読むの」とか言われた時点でかなりウンザリとしちゃった。大体この言い方自体、2000年代キラキラネーム全盛の昨今では、かなり古臭く感じちゃう。
まあ確かにミクは、ちょっと現実離れした感はあるかな、と思う。よーく落ち着いて考えれば、これは初老がかった中年男女の三角関係の物語に過ぎないといえば、その通りなんだもの。
宮本は村岡の妻、寺島氏演じる美咲に想いを寄せている。正直言ってその事実時点で、男って甘いもんだな、と思う。美咲は、そんな次元に今いないんだもの。恋だの愛だの、言える状態にいないんだもの。
なのに男どもは未だに詩だの文学だの、愛だの恋だの、人生だのアイデンティティだのといった世界に死ぬかっていうぐらいの耽溺をして、勝手にやってやがれ!という感じなんだもの。
……とゆーことを、福間氏自身が意識して描いていたのかまでは、正直確信が持てない。ただ、寺島氏の、つまり私と同世代のリアルな女の肉体を持つ彼女の芝居に、そうした苛立ちを感じたまでである。
作劇というか、キャラクターとしては、彼女はただただ、スランプに陥った夫との生活に疲れ果て、言い寄ってくる夫の友人の情熱にふと心を動かしはするものの……みたいな感じ。でも絶対そうじゃないよね、と思うところに、寺島氏の気概を感じるのは勝手な見方だろうか。
彼女が本作に駆り出されたのは、福間氏が若松監督作品で映画デビューしたということもあるのかなぁ、などと断れない説を勝手に夢想してみたり(爆)。
そして何より佐野氏である。彼の病気と復帰を同時に知った時、病気をしたから監督が出来ないとか役者が出来ないとかいうことはないんだ、という震えるほどの感動を覚えたことを今も鮮明に覚えている訳で。
で、役者として彼が登場してくる時は、彼自身のアイデンティティである、のどの病気で声帯をとって声が出なくなった、というそのままの設定であった。今回、作家としての苦悩のプレッシャーから、声が出なくなり、そのまま精神的に追い詰められていくという役柄。そうか、声が出なくなるというのは、別に彼自身のそのままの実情にこだわらなくったっていいんだ、ということを発見した嬉しさは確かにあった、かな。
宮本が自分の妻に寄せている想いに気づいている村岡、嫉妬した彼は、宮本の方ではなく、まず妻の方を問い詰める。勝手に思いを寄せているのは友人の方なんだから、そっちを責めるべきと思うが、こーゆーところは男だよなー、と思う。
良かれ悪かれ、女は相方が浮気したら、相方ではなくその浮気相手を責め、憎み、責任を問う傾向があるじゃない?もちろん相方にも怒りは向けるにしても、私の彼氏をとったドロボウ猫!みたいな(死語―)。
村岡が、自覚するほどに追い詰められていく、ソフトに自殺未遂までしちゃう描写は、重たい経験を特にこの数年積み重ねてきた佐野氏だから響くものはあるけれども、でもやっぱり、甘いかなあ、と思っちゃうんである。その甘さを、きちんと糾弾されるシークエンスはあるのに。
あなたばかりが苦しんでるような顔をして!みたいに、妻に突き放される場面はちゃんと用意されてる。ただ、こうして書いてみてもハッキリと判るほどに、それはあまりにも使い古された表現、なんだよね。
第三者から見て甘いように見えるけれど、実は本人はとても苦しんでいて……といった三段活用?を、観客に感じさせるのは、これは実は結構大変なことなんじゃないかと思う。役者の力量は無論必要だけれど、肝心の筋立てが最低限納得できるものでなければ、やっぱりそれはつらいんじゃないかなあ。
村岡氏を敬愛するのは、フシギ少女、ミクだけではない。小説家を目指している学生っぽい青年もそうである。
僕は小説家になれないんでしょうか、とおずおずと聞く彼に村岡氏は、激しく書きなぐる。
なれるかなれないじゃない、書きたいのか、書きたくないのかなんだ!と。
……佐野氏は大熱演だからウッカリそのまま適度にカンドーしてスルーしそうになるが、……うっわー、これ、かなりなクサイ台詞&本質から逃げてるよね、と思う。
つまり詩人は、売れることなど考えては詩人じゃないのか。つーか、彼は小説家になりたいんであって詩人になりたい訳じゃないのに。むしろそこに言及しなかったのは、やはり小説と詩にはゲージュツ的に大きな隔たりがあると言いたいのか。
……どうも、苦手意識が炸裂しちゃうんだよなあ……。
宮本の経営する出版社の先代の奥さんが妙に理解者(ヘンな表現だが)だけれど、結局じゃあ何なのという気もしなくもない。結局、男の夢と、男の健康な生活をニコニコ笑って支えている生ぬるい存在にしか感じない。
彼女自身にだって、村岡の妻の美咲に匹敵するぐらいの熾烈な人生があった筈だと、女目線ではどうしても感じてしまい、彼女の慈母のような雰囲気にふと苛立ちを感じてしまうんである。
ことあるごとに挿入される、雨か露か霜が解けたのか、濡れた地面、張り付いた落ち葉。冬がすぐそこまでやってきていることを冷たい湿度に感じさせる。
ミクがヘンなゲジゲジみたいな、繊維のカタマリみたいなものを拾い上げて、宮本か村岡と哲学的な会話をするシーンをやたら推してきたが(相手が誰だったか覚えていない時点で既に)、よく判らなかった(爆)。だめだ、私は詩人の考えることはよく判らない。バカなんだものーっ。★☆☆☆☆
そらまぁ、出ている役者たちは若い。ヒロインのハルコを演じる蒼井優嬢が“アラサー”という括りで、もう若くはない……などと自嘲しているほどに、他のメンメン……一人歩きの男に無差別暴行を加えている女子高生グループも、成人したてでまだ人生の現実味のない“キルロイ”三人組も、若いんだから。
しかしその若さを、なんかもうひたすらキャーキャーと騒ぎ立てて走り回ってハイタッチし合って過ぎていく、というのが、これは……ついていけないというよりは、逆に、若干、古い表現じゃないかしらん??と心配になってくる。
つーのも、あれだけ「私たちのハァハァ」でナマな女子高校生の魅力を、その甘い汗臭ささえ漂ってくるほどに描いたのに、本作の女子高生は……。
その、ザ・現代JKなファッションからして、カタログから切り取ったみたいで、手くびのピンクのシュシュとかさ、逆にむずがゆいんだもの。老成監督が世の情報を基にして“リアルなJK”をやらせてるみたいでさ……。
などとゆーことばかり言っていても仕方ないので、とりあえず物語を追ってみる。そもそもタイトルにもなっている“アズミ・ハルコは行方不明”になったのは、どの時点だったのか、誰か私に教えてほしい(泣)。
アズミ・ハルコは認知症の祖母とその介護にイライラしまくってる母親と15歳になる老猫みーちゃんと、全てにノータッチな父親と暮らしている。母親の言葉遣いからしてこの祖母は姑だと思われるが、父親は完全ノータッチなんである。
この、日本社会にありがちな縮図に特に斬り込んでいく訳でもないのだが、それこそそのついていけなさに惑わされて気づきにくいんだけど……よーく考えると、これはすべての世代における女子の生きにくさを語ってるのかなー、とも思えるんである。
え??それを今頃言ってること自体が、遅い??うーん、やはりそこは、私がフェミニズム野郎だからなのかな。真に迫って伝わってこないよ!!とか思っちゃうのかな(爆)。
そう、考えてみればそんな伏線はあちこちに用意されている。アズミ・ハルコがぼけーっと勤めている(ように見える)小さな商事会社は、明らかに無能な社長と専務がトンでもない給料をかっさらい、女事務員は信じられない安月給である。
具体的に数字が出てくる。ここまで極端じゃなくても、正直いまだに現代の日本社会の、小さな会社はどこもこんなもんであり、仕事の能力を完全無視して、事務なんて誰でもやれるんだから若い女の子がイイね♪というのも、ほんっとうに、そうなんだから。
しかも恐ろしいことに、本作で描かれるような無能中高年幹部だけじゃなくって、それなりの壮年男子でもヘーキでそーゆーこと、言う訳!!……思わず熱くなってしまうフェミニズムおばさん(爆)。
ハルコの先輩である山田真歩嬢演じる吉澤さんは、さんざん女を捨てたと口さがなく言われても黙したまま、「フランス人と結婚して退職」という離れ業をやってのけて、ハルコと共に溜飲を下げるんである。
その前から吉澤さんはハルコに、早くイイ人を見つけて結婚した方がいいよ、とアドヴァイスをくれていた。ハルコもだから、なんとなくかつての同級生と付き合う、つーか、実際は単なるセフレだったけど……なんてことになったんだと思う。
このあたりの描写は、凄く、哀しいほどに、いまだに救われぬ現代女のエレジーだが、なんかそれが、そんなもんだよね、みたいな感触なのが、……うん、それが正解なんだろうけど、ああやっぱり、若い男の子には判らないのよー!!!とか叫びたくなってみたり(爆)。
結婚するしか女のゴールはないと言ってるようなもんだ、そして女もなんとなくそう思ってる。
原作はどういうニュアンスだったのか知らないが、なんか、本作の感覚では、そのことに対する当然感じるはずのシニカルが、感じられないのよ。それっておかしいでしょ、っていうことが、なんか、感じられないのよ。それが、納得いかないの!!!
……すみません、フェミニズム野郎なもんで……。でもね、だってね、このことって、本作のいわばキモである、物語をかき回す役割である、“女子高生ギャング”(この名称もどうかと思うが……)にもつながってくると思うからさ。
夜道の一人歩きの男性を狙ってボッコボコにして、重傷を負わせる、という事件がこの地方の近辺で多発、男性に一人歩きを控えるようにという異例の通達が出たんである。
彼女たちは実に楽しげにボッコボコにする。ミニスカ制服からパンツ丸見えでドロップキックしたり、意味なく側転したり(爆)。
大きな髪飾りや重ね着のカーディガンやパーカーや派手なフルメイクは今の女子高生、なのだろうが、なんでこんなに古臭く感じるんだろう。先述したけれど、ザ・女子高生を、カタログのように切り取ってしまったから、鮮度が失われたように思う。一人一人が見えてこないから。
彼女たちは「男に復讐するため」と言って活動?している訳だけれど、復讐、ってことは具体的な何かがあった筈なんだけど、そのあたりの言及は、何もない。
いや、具体的な何かがあったってことじゃないのかもしれない。彼女たちが一人ひとり顔が見えないこと、つまり“女子高生ギャング”あるいは現代のJKとして乱舞しているっていうこと自体が、象徴としての存在であり、彼女たちが感じる男への怒りは、個々のリアルな事象ではなく、JK全体の、いやもっと言ってしまえば女たちが抱える全体の怒り、なのかもしれない。
でも、そうなると余計に、ぼやけてしまう。フェミニズム野郎としてはね、リアルに怒ってるのにさ、と思ってしまう。
彼女たちが何に怒っているのか判らない。ナマに男社会の厳しさに接している訳でもなく、理不尽にレイプされた訳でもない(少なくとも描写はされない)のに。社会現象、なんて言葉に言い換えられる弱さを感じる。
このJKたちに関わっていたら、先に進めない。もう一組、大事なコたちがいるんだから。
高畑充希嬢の登場は衝撃だった。集まっているのは一応振袖姿の女子たち。しかし信じられない着こなし。きらびやかといえば聞こえがいいが、つまりバカで下品(爆)。そこにキャー!!!久しぶりーっ!!!と現れる充希嬢は肩を出してないだけまだマシだが似たり寄ったり。
キャバ嬢という設定はなんかいかにもだが、その職場の先輩(菊池亜希子)が、結婚、離婚、シングルマザーという存在で彼女のそばにいるのが少し、違うんである。
この先輩は、ハルコの同級生で物語の冒頭、他の同級生の結婚パーティーで再会している。この先輩が言うのも同じく、「イイ人を見つけて結婚すること」が女の幸せ、というよりそれしか道はない、という感じ。
ハルコがそこから汲み取ることと、アイナがそこから汲み取ることは、同じようで違うようで同じようで。ハルコもアイナも男に執着しちゃうのは、一緒で。
アイナは成人式で再会したユキオ(太賀君)とユキオのかつての同級生マナブ(葉山奨之)が盛り上がってる、グラフィティアート(つまりは街中落書き)のユニットに参加する。彼女自身はあんまりよく判ってない感じ。ただのヤリマンとして彼らにはとらえられてて、そのウザさも共通認識。
彼らがモティーフにしているのは行方不明で捜索願が出ているアズミ・ハルコ。その貼り紙を写メして、街中にスタンプしまくっている。そしてそれがいつしか女子高生ギャングたちの事件とまぜこぜにされて、彼らは追い詰められてしまうんである。
太賀君がこんなに今風の(というのも死語だが(爆))ワカモンをやるというのも、初めて見た。勿論、バカでヤリマンなウザ女に扮する充希嬢も新鮮だが、女はいくらでも化けられるからねー。セックスシーンで片パイでも出してくれてたらおおっと思ったところだが(爆)。
ハルコの方は、ドラッグストアでレジしてた曽我と再会。幼馴染であり、子猫だったみーちゃんを見つけたのが彼であり、引き取ったのがハルコという間柄。
「みーちゃん、生きてる?マジで?連れてきてよ」そう言う彼の自宅は、荒れ放題、まるで廃屋にでも住み着いているような感じ。
家族はどうしたのかだなんて、ヤボなことは明らかにしない。ハルコはそう離れていない自宅の窓から、みーちゃんの雄姿を見せる。自分の家に招くなんてことはしない。かつてはしただろうに。
ちゃんと、知っていた。曽我がそんな幼い頃からこの間結婚したクラスのカワイ子ちゃん一筋だったことを。セックスする間柄になっても、どこかぼんやりの曽我に合わせるように、自分のウキウキを表せなかった、というのは、後に捨てられたハルコが恥を忍んで曽我にぶつける言葉から明らかになる。
その気持ちは判らなくもない……女のアマノジャクだ。でも本作の中では、家の中のトーンから始まって、外の社会と一応は触れ合ってるハルコのそれが一ミリも変わらなので、そう言われた男同様、ええっ……と思ってしまう。
そこを女なら判るべき!と思うけれど、ちょっとあまりに変わらなすぎというか……そういうニュアンスの微妙な違いこそが、凄く大事なんじゃないかと、思っちゃう訳。曽我に対する気持ちがラブだったのか単に焦りからくる思い込みだったのか。ちょっと描き込みが足りないような気がした。
女はそう一筋縄ではいかんのだ。アラサーなんて全然若いと思うが、ねじくれは充分始まってる。そしてそれが現れ始める十代をカタログにしてしまったら、そりゃたどり着けないよ。
ユキオとマナブはエセアーティストで成功をつかみかけるも、結局は才能なんてないパクリさんたちだから、先が続くはずもなくあっという間に転落。その彼らがモティーフにしていたのが、この時点で行方不明になって数年になるアズミ・ハルコであり、彼女とアイナはお互いそれと知らず、顔を合わせる。
……後からもう一度考えても、アズミ・ハルコの行方不明になった時期がどーしても判らない。私がバカなのだろーか??キルロイの活動を考えればすでにアズミ・ハルコは姿を消してかなり経っている筈なのだが、かなり交差していたんじゃないかと?いやもう、どーでもいーや。
終盤のクライマックスの、JKと警官たちのエアシューティングバトルは、それまでのカタログな寒さ以上に、どーにもこーにもムズムズしたなあ。こういうのをポップというのだろうか?違うような……違うような!★★★☆☆
後にメジャー映画として作られた同タイトルの映画化の方が有名なのかも知らんが、やはり私にとっては(一般用にタイトルが作り替えられたといっても)やはり、デメキングはいまおか作品に違いないのである。
漫画の世界も広すぎて、ホント判らないからなあ。ベテラン漫画家さんだったんだ。本当、失礼しました。
松江監督が残しているこの映画が作られた成り立ち、いまや人気監督となった山下監督も噛んだ展開はとても面白いのだが、観客としてはイチ映画として観るしかないので、観ている時はフシギがいっぱいなんである。
そして主人公を演じる大橋氏も判らない。彼もまた漫画家なのだという。ウィキを探ってみればそれもかなり面白い経緯を経た漫画家さんである。いやーホント、漫画の世界は広い広い、ついていけない……。漫画家、へぇ、と思うぐらい、ちゃんと役者顔である。
この西岡というフリーターの男は終始無表情で、クールと言えばそうだが、こういう役をヘタな役者がやるとただのダイコンになる恐れもある。彼はイイ男まではいかないが、フツーの青年というには少し気になる感じを残している、それがクールというよりシュールさを醸す、この西岡という青年に上手くマッチしていて印象的なんである。
この西岡という男は「東京には近々大地震が来て、原発も爆発して、皆死んでしまう。だからお金を貯めて10人女を連れて、安全な山奥に逃げるんだ」という極端論を正義のように語り、それに気づいていないヤツらはバカだ、と言ってはばからない。
何か右翼のような男なのだが、一方でヘンなところで弱く、高圧的なスナックのママの言いなりになって金を払ったり、何より、ちょっと頭の弱そうなヒロイン、よしこに同情して夫探しを手伝ったり、一緒に暮らして子供をあやしたりする。憎めないというのともちょっと違うような、なんともシュールなチャーミングさを持つ青年なんである。
このスナックのママとの関係(というか、脅されて頭を下げて金払う、みたいな)は、最後まで続き、彼にとってはかなり理不尽だと思うのに、なんかそれもフシギちゃんなんだよね。実際、彼はこのママさんにどやしつけられるのが好きだったのかなあ。
彼は特に前半集中的に、やたら吐く。ゲロゲロ吐く。原発への嫌悪を唱えていることもあって、ちょっとヒヤリとする。
まあその、福島を故郷の一つに持っているこちとらとしては、そうした一連のフクシマ映画にかなりフクザツな想いも持っていることもあって(それに、公開されているポレポレは、フクシマ映画を積極的に発信しているしね)、ちょっと構える気持ちもあるのだが、そういうのともちょっと違う感じである。
一応役者という設定であるらしい。でも今は全然売れてない。そして彼自身もそれに執着している感じがまるでない。
ただ彼の今の関心は、この東京から脱出することだけで、今は売れっ子の映像作家としてCMなんぞも手掛けている先輩に「女紹介してくださいよ。ゆるくてすぐヤレる子。そしたら秋田に連れていっちゃいますから」という、まあいわばサイテーのクズヤローなんである。
実際、呼び出した女の子にもそういわれて平手打ちを食らう。しかしその後、その女の子は先輩とイチャイチャしているんだからヤリたくない訳ではないらしい。
その先輩も交え、合コンなんぞも行うが、冴えない男たちのメンメンで女の子たちはドン引きだし、西岡君はその席でもゲーッと吐いちゃうもんだからもうオシマイなんである。
この合コンシーンに出てくる、女の子組の中にお気に入りの柳英里紗嬢が顔を出していたのが、彼女の名前があったのも足を運んだ理由であった。松江監督のコメントを信じれば、スタッフ、キャストともほとんど手弁当だったらしいので、彼女の気概は嬉しいところなんである。
インディペンデント映画というのはそれこそ雨後の筍のように出てくるし、ホンットに、ただ作りたくて作りました、みたいな個人的映画がそれでも劇場にかかると映画扱いされる、という昨今の流れもあるのでなかなか判定しづらいところもあるんだけれど、こういう仲間が集まってくるのを目の当たりにすると、ついつい点も甘くなっちゃうんだよなあ。
男子側に吉岡睦雄がいるのはまあ、この組ならば定番だが、ちょっと喜んじゃったのは佐藤宏氏!同じくいまおか監督の怪作のタイトルロール、川下さん!!「女とセックスしてー!」と叫びまくる様まであの川下さんまんまで、笑っちゃう!!やっぱりこれは、いまおかファンをニヤリとさせるためだと思う!!
しかもコイツ、西岡君が大事に貯めていたお金を「ごめん、ちょっと借りる」と言って姿を消しちゃう。このあたりのアヤしさ満点もサイコーである。しかし通帳と印鑑、一緒に保管してたの??あれだけ東京の危機感を叫んでいながら、なんというユルさ!
そんな時、西岡君は雑踏にプラカードを首から下げて裸足で立ち尽くす女、よしこと出会うんである。解説では吉川、となっているが、よしこ、と言っていた気がする。吉川よしこということか?
ひとことも口をきかない。ただ、ニコニコ笑顔である。プラカードは「あなたを待っています」まさに、タイトルである。靴は履いた方がいいよ、と西岡君が言った後からははいているから、言葉が判らない訳ではないらしい。
なんて思うのは、明らかに異国の顔立ちだからである。演じる彼女が山本ロザという名前なのだから、まあそりゃ絶対、純日本産ではないと思うのだが、不思議なことに、そのことに全く触れないんである。
夫を待っているらしい彼女に西岡君は「田舎はあるんだろ?帰った方がいいんじゃないか」と再三言い、見てるこっちとしては当然その田舎は、海の向こうなんだろうと想像し、だからおいそれと帰れないんだろうと思っていたのだが、西岡君はそうは思っていなかったらしい、てゆーか、作り手側の設定もそうは思っていなかったらしい。
「下呂温泉なんだ。いいところだね」ええっ!と思ったら、迎えに来たのも純日本人顔のお母さん。なんだこの不思議!
劇中、よしこの娘を預けている保育園のスタッフと思しき女性に見つかって、「仕事をしていたっていうのはウソなの?それじゃ預かれなくなるわよ」と進言され、実際その後からよしこは幼い娘をだっこして街頭に立つことになる。
彼女は重たい買い物の袋を下げて帰るところを西岡君に手助けされたりもするし、西岡君が「美味しい」と感激する手料理をきちんと作ったりもするし、最初こそ裸足だったししっぽをつけた奇妙なスタイルで、「頭おかしい女」のキャラを確立してはいるものの、妙にきちんとしているんだよね。
言葉は発しないながらも理解はしているし。そして仕事もせず、ただただ夫の帰りを待っている……。夫のことも気になるが、一体生活費はどうなっているんだろうと思う。
身ぎれいだし、買い物も料理もしている。古ぼけてはいるけれどちゃんとしたアパートに住んで、貧しい感じはしない。一体生活費はどうしているんだろう、などと……。
そもそも彼女が探していたのは本当に夫だったのか。「あなたを待っています」という言葉が何か、意味深長でさ。西岡君は言葉を発しない彼女から、彼自身が納得できる答えを想定して質問していたようなところがあるし、「どうせ、頭がおかしいから判らない」という失礼極まりない前提で、似顔絵に似ている先輩を彼女の夫に仕立て上げたりする有様。
彼女が、夫が帰ってきた、という態度を示したのは、後から考えてもやっぱり、演技だったんじゃないかと思うしさ。だってその後も、プラカードを下げてやっぱり街頭に立ち続けるんだもの。同じにこやかな笑顔を浮かべて。
「あなたを待っています」そう思うと凄く、意味深な言葉に思えちゃうんだもの。私を受け入れてくれるあなたを待っています、そんな風にも思えちゃうんだもの。だとしたら西岡君はその試験に不合格だったのか。
突然走り出して中華屋に飛び込んで客のチャーハンを手づかみで食べたり、そして大声で泣きだしたり、本当にフシギちゃんで。そしてこの時が初めてだよね、声を出したの。
だから早晩、彼女は言葉を発すると思った。それを最後のキモにしているんだということはかなり判りやすく、判った。まるでキタノ映画の「HANABI」みたいにね。
最後、お母さんが迎えに来て連れていかれるよしこは西岡君に「バイバイ」と言った。ハッキリと。まるで昔から普通に会話していたみたいに。
先輩からのカンパも得て、西岡君は念願の秋田に向かう。女10人はかなわなかったが、まあその直前のエピソード、先輩が用意したヤレる女、めっちゃオバチャンだったが、「最後の晩餐はコレ」というほど好きな納豆ご飯をメインにした焼サケに海苔におこうこにおみおつけという、純和風朝ごはんまで一緒したんだから、いい思い出になったのだろう。
リヤカーを引きつつ秋田へ向かう。その途中、よしこの母親からもらった手紙に目を通し、缶コーヒーをあおって、よし!と気合を入れる。なんか、最後だけ見たら青春映画のようであるのよね。★★☆☆☆
なんてゆー、ある意味では斬新な印象から始まる本作品は、ロードムービーと言う点でもとても新鮮。そうか!ロードムービーだよね!解説のその言葉を目にしてはたと膝をうった。確かにそうだ!!当時はきっとそんな言葉は使われていなかっただろうけれど。
上原謙は乗り合いバスの運転手。バスといっても山道を長距離延々と走るバスである。当時のまるっこい、座席数がきつきつになっている感じがイイ感じである。
劇中、乗客との会話で「シボレーが中古で手に入ることになったから、開業する」などとゆー話が出てきて、きっとこのバスもそういう、戦後のアメ車あがりなのかしらんと思わせるデザインである。
しっかし乗客たちはただ乗ってくるだけで乗車賃を払っている風はないが、どういう料金システムになっているのかしらん??……そんなことはヤボなことかと思われるが……。
かなりな田舎町から、山道を延々走って、東京へと出られるそれなりに大きな駅のある街につくと思われるルート。というのは、貧しい村から東京へ売られていく娘が乗ってくるからである。
顔見知りの住民や乗り合わせた乗客からどこへ行くのかと問われて、東京へ、と答え、お屋敷への奉公なのか、いいですなぁ、と返されると途端に口をつぐんでしまう雰囲気で、どういう事情か、にわかに察せられてしまうあたりがツラい。
バスの運転手、“有りがたうさん”はこうした例をずっと見てきている。紡績工場あたりに働きに出るのならまだマシなのだ。言えない場所に行かなければいけない娘さんたちを、これまでに何人見てきた、と具体的な数字をあげる。
その間にもバスのルートから逆方向に戻ってくる人々がいる。中央に出たものの、失業して戻ってくる人たちであり、これもまた何人も見てきたのだ。彼だけじゃなく、乗り合わせた乗客たちも一様にそれに同意し、暗い顔になる。
“有りがたうさん”という、タイトルにもなっているのが彼の呼び名である、のは、狭い山道をいくバスは、向かいから行き合う荷車を引いた農夫や、旅芸人や、小学生やら、女学生やら、まあとにかくいろいろな人たちがいて、当然こんな埃っぽくて狭い山道だから通行人の方が優先、と彼は思っているのだろう、優しくクラクションを鳴らし、どけてくれた彼らに対し、「ありがとう、ありがとう」と声をかけて過ぎ去るんである。
後ろに過ぎ去っていく彼らを映し出す感じがこの作品のメインというかモチーフになっている感じで、なんともステキなんである。
時にことづてや、大きな町で流行歌のレコードを買ってきてほしい、なんていうお使いまで引き受ける“有りがたうさん”に、乗り合わせたヒゲの紳士は「乗りもしない客なのに。汽車に間に合わなくなるじゃないか」と眉根を寄せるんだけれど、こんな長距離で、途中ゆっくりと休憩もする道行きでヤボってもんである。
そんな優しさと何より男っぷりの良さもあって、“有りがたうさん”は街道の女たちに大人気なんである。
このタイトルを目にした時には、ありがとうさん、と方言チックに呼びかける雰囲気なのかと思っていた。ありがとう、に、さん、という敬称がつくだなんて、かなりの予想外。でも間延びした語感で、ありがとうー、ありがとうー、と声をかけて緑深い山道を行く上原謙は妙に魅力的なんである。
モノクロだから緑深いなんて判らないけど、でもわさわさとした森感というか、本当にそういうのどかな雰囲気が満ちていて、モノクロなのにみずみずしい緑を頭に思い浮かべることが出来るのだ。
そしてそんなのんびりとした道行きだけれど、ドラマがある。なければ映画なんか成立しない(爆)。ヒロインとして名を連ねているのはその名にふさわしい美女(ちょっと細すぎて長すぎる眉がコワいが(汗))、桑野通子。とても印象的に覚えがある女優さんだが、先述の通り、本作では恐るべきボー読みである(汗)。
彼女はヒロインだが、でも狂言回しといった立ち位置である。はすっぱな彼女は何の職業をしているのか、少なくともカタギではなさそうである。というのも、「私が初めて横浜に出た時も、有りがたうさんのバスだったわ」的な(まあ詳細があやふやなのはカンベンしてくれ)台詞があり、何度となくこのバスで行ったり来たりしている常連らしいからである。
この長距離バスの常連ということは、それなりの事情があるということであろう。むしろ、乗客ではない街道を行く芸人たちや宿の酌婦たちの方が彼のなじみかもしれない。
時には逆方向からくるバスに乗った、裕福そうな親子がいたりして、娘が頬を上気させて東京で観た水の江瀧子の舞台のことを語ったりするけれど、この貧しい村ではそんな話の方が夢物語なのだ。
事実上のヒロインは、売られていく娘であろうと思われる。送っていく年老いた母親と乗り込み、うつむいたっきりのこの娘のことを、有りがたうさんは先から知っていたのだろうか、そのあたりがちょっと微妙なところである。
結末から考えれば、二人は好き合った同士だったのかもとも思うし、それを察知した桑野通子が彼をけしかけたとも思えるのだが、何せ慎み深い当時の映画だから(汗)そのあたりは判然としない。
売られていく先が、東京であってもお屋敷でもなく紡績工場でもないのは、沈み込んだこの親子のリアクションで丸わかりである。てか、もうちょっととりつくろってもよさそうなもんだと思うぐらいである(爆)。
みんなにバレバレなのを気にして娘が、今度聞かれたら東京の親戚のところに行くんだって言ってよ、と老母に耳打ちするも、その後に現れたのが先述の裕福な娘で、屈託なく舞台を観に行きなさいよ、などと言われるから、もううつむくしかないんである。
これはね、絶対、まあその、身売りだよね。赤線というかさ。女は強いししたたかだから、その先で不幸になるとは限らない、特にある程度時代がここまで来たら、女衒に売られて返せない借金の中に埋もれる、とまではいかないのかもしれない。でもそれでも、やっぱりそんな風にソンをするのはいつでも女なのだもの。
そんな会話もなされる。逆説的、というか、皮肉な意味である。ビンボーな中で、子供だけは豊作だと。むしろ娘さんで幸せだと。男じゃ働き口もないが、娘なら……つまり、売り先はいくらでもあると。そんなひどい言い様にあからさまに言い立てないのは、親側に立った場合と、そしてチャンスと言う点では、確かに売られた娘にもそれがあるかもしれないという、そういう時代だから、なのだろう。
のんびりとしたロードムービーにも見えるし、結果的にはほのぼのとしたハッピーエンドにも見える本作で、そんな厳しさをほのかに見え隠れさせるのが、監督の腕なんだろうなあ。
桑野通子はホントに面白い。のんびりボー読みはきっと作戦だと思うことにして(爆)。可愛らしく着飾った売られゆく娘にちょっかいを出そうとするエロひげオヤジをけん制する姐御っぷりが実にイイ。
娘の老母が頂き物のようかんをふるまう。このはすっぱ女には配らないのは、やっぱり警戒しているんだろう。でも彼女はぷんとするも、むしろ居合わせた客たちにポケットウィスキーをふるまって、味方につけちゃう。そして老母も彼女も煙たく思っていたヒゲ男にはふるまわず、見ている観客であるこっちは思わず噴き出しちゃう。
車内は歌を歌ったりしてイイ雰囲気。桑野通子はさ、有りがたうさんの言動とふるまいで、この娘さんとのほのかな関係を察知しているに違いないわけよね。で、この長い道行きの中で実に巧みに、じわじわと、ここであの子を救えるのはアンタしかいないのよ!!と持っていく訳。
と、いうことに気づいたのは観終わってからで、見ている間はそのボー読みに圧倒されていたので(爆)、その上手さに気づかなかった(汗)。
それというのも、のんびり優しい有りがたうさんが、唯一その姿を崩したのが、東京に行くのがイヤでしんみりと涙をこぼしている娘、老母が、もう覚悟を決めたんだろう、今更泣いても仕方ないじゃないか、と困惑している、という様を、バックミラーで眺めながら、それに気を取られて危うくがけ下に落っこちそうになったところ。
こののんびり映画の本当、唯一のひやりとしたスリリングな場面で、映画的技術もここぞとたっぷりと使っているので、ああこれは!!と思う訳よね。有りがたうさんにもこんなことがあるんだね、いやあ、みたいな、そんんなのんびり会話する事態じゃないだろ!!みたいな……。
その後から、ずっと黙り込んでいた娘が彼に対してぽつぽつ話し始める、という感じも上手いんだよなあ。手紙書いていいですか、返事ぐらい書けますよ、みたいな。
他人行儀っぽいけど、こんな会話はそれ以前の関係がそれなりになければ絶対に出ないもの!!
シボレーを買う金があるなら、一人の娘を救えるんだよ、という桑野通子の台詞を、運転に没頭するフリをしながら、聞き流すフリをしながら、彼はどこで覚悟を決めたのだろうか??
途中、結婚式とお葬式の客を同時に乗せ、縁起が悪いからと結婚式の客が降りて、そりゃ悪かったと葬式の客が降りる。そんな日本的な仁義の場面やら、娘が出て行って気がふれた父親や托鉢の僧をハイキングだと言ったりしちゃう場面に噴き出したり、花街の女に土産の半襟を所望されて乗り込む男がいたり、土木工事に従事する朝鮮の人たち、その可愛らしい娘さんが有りがたうさんにしんみり別れを告げたり、本当にいろいろな人間模様があって。
そして最後、翌日の折り返しバスに、娘と老母が乗っている。もう一転して表情が明るく、娘は、あの方はいい方だったわね、とほおを緩めているのだ。あの方というのは彼女たちが警戒していたはすっぱ女、桑野通子のこと!
途中、流行歌のレコードを所望した酌婦に、今日は向こうで泊まりだから、明日になるよ、と言っていた有りがたうさん。その一晩に彼女をゲットするための交渉事、だけではなく、あったんだろうと思うと、もうこっちの頬がゆるんじゃう!!とか思うのはゲスの考え??
でもこの古い映画からそこまでさせるというのが、楽しいでしょ!!深刻な場面でも妙に音楽が明るいし、最初からきっと大丈夫、と思わせるんだよなあ。★★★★☆