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ジヌよさらば かむろば村へ
2015年 121分 日本 カラー
監督:松尾スズキ 脚本:松尾スズキ
撮影:月永雄太 音楽:佐橋佳幸
出演:松田龍平 阿部サダヲ 松たか子 二階堂ふみ 片桐はいり 中村優子 村杉蝉之介 伊勢志摩 オクイシュージ モロ師岡 荒川良々 皆川猿時 松尾スズキ 西田敏行
でも、松尾スズキ氏の映画にはこれまであまりピンと来ていないものだから(って、これが見るの三作目だけどさ)、特に今回が、映画監督デビュー作となる「恋の門」以来の松田龍平との再タッグと聞くと、その作品が最もピンと来なかったもんだから、ちょっと、やっぱりなあという気もしなくもない(爆)。
舞台出身のクリエイターさんに時々感じる、舞台がイチバンなニュアンス……上手く言えないんだけど、シュールな展開、気のきいた(という自負を漂わせる)セリフ、笑わせる場面を必須のように入れてくる、といったちょこっとした要素が、じわじわと拒否感覚を育ててしまうんである(爆)。
そして恐らく舞台作品では、エピソードがある程度とっちらかっても(言い方悪いな……いろいろなエピソードが並列してても、か)、最終的にクライマックスで盛り上がって収斂していけばOKみたいな雰囲気がある(ヘンケンかな)けれど、映画ってやっぱり、2時間なら2時間のパッケージという感じがあると、思うんだよね。舞台的とっ散らかりが居心地が悪いのは、そのせいじゃないかと思うんだよね……。
舞台経験豊富な芸達者な人たちが次々ととっちらかるのは確かに面白いんだけど、なんだか、居心地が悪いんだよ。
てなことは、舞台アレルギーの映画ファンのたわごと(爆)。でもそのとっちらかりが、作劇自体に影響すると、やはり映画、としてはツラいと思う。ナマの役者を見にいく感覚がある舞台とはやっぱり、違うと思う。
先のおばさま方のナイス意見、「後半は別の話」というのは、松田龍平君が演じるお金恐怖症の青年が、もんのすごい田舎町ですったもんだの生活をする、ナンセンスかつハートフルな物語、を期待した(まあ、勝手な期待にしてもよ)、のが、後半は全く別の話、過去に秘密をかかえた阿部サダヲの浪花節になり、そして村長選挙の話になり……。
コミックス原作の時にはいつも、尺の違いがもたらすこうした不幸を嘆くことにはなるんだけれど、そして本作も、原作全体を描こうとした結果、こうなってしまったのだろうけれども、そんなことは観客側にはなんの関係もないんだからさあ。
ふと思い出すのよ。「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を。映画作品で取り上げたエピソードからむしろ、コミックス原作は本当の話が始まるのだということを知った衝撃は大きかった。でもその映画作品は、本当に素敵だった。そういう潔さが必要だと思ったのだ。
でもコミックス原作の映画化作品で、そんな思い切ったことができる人は皆無に近く、そして大抵は不幸な幕切れになってしまう。本作もまた、そうであったように思う……未読だけどさっ。
だからこそ、中盤まで、お金恐怖症の松田龍平、のエピソードだけで進んでいくところまでは、それなりにほんわりと面白かった、気もする。松田龍平特有の、芝居する気があるのか疑わしい(爆)気の抜けた演技(いや、そこがイイのよ!)が、彼以外の俳優たちの気合入りまくり芝居とのギャップで化学変化を起こし、あはあはと見ることが出来ていたように思う。
うーん、でもやっぱり、物足りなさは、あったかなあ。それは、この松田龍平という特殊な役者の特殊な芝居を、気合の入った舞台役者の芝居の中に埋もれさせてしまうという、一番やっちゃいけないことをしてしまったからのように思う。
相手役(?なのかなあ、一応)の二階堂ふみ嬢は映像畑だけど、彼女も気合系芝居の女優なんだもの。
東京で小さな銀行に勤め、合併に伴って個人経営者の融資の見直しを迫られ、お金によって人生を潰されていく人たちを目にしてきたタケ青年。判り易く、目の前で首つり自殺を見てしまったりね。
お金に触れないほどに精神をやられ、この小さな村にやってきた。自給自足の生活を目指し、一銭もお金を使わないことを公言する。
東北の山奥と思しき(当然、架空の村の名前だろうし、訛りのアクセントから推測するしかないんだけど)この村で、携帯も水道も電気もガスも使わずに生活するなんて、「死ぬ気か!」「お前、バカなの?」と村長はじめ、村人たちは怒ったり呆れたり。
そんなご大層な理想を掲げてても結局は村長の美人妻の差し入れ食事から始まって、数々の手助けがなければ全然生きていけないんである。
この描写がね、まあ解説を読めばなるほど、「憎めない天然キャラに救われて、村人たちに度々助けられるのだった」とゆーのはなるほどと思うけど、確かに松田龍平にはそういう得難いキャラがあるんだけど、先述のように彼の個性をよってたかって舞台人たちが抑え込んでいるもんだから(爆)、こんな風には思えない、正直。ただ単に、ただ考えが甘い都会育ちの男じゃないの、と思っちゃう。
結局後から考えると、松田龍平じゃなくて、阿部サダヲを押し出したかったんじゃないのと疑ってしまう。どんな頼みも断らない、荒っぽいけどめちゃくちゃ人がいいこの村長さんの過去が暴かれる後半がスタートすると、まるで違う映画を見ているみたいなんだもの。そしてその力の入れ方がハンパないんだもの。
この村長さん、阿部サダヲの美人妻が松たか子。この二人が夫婦役とくれば、「夢売るふたり」を思い出さずにはいられない。阿部サダヲという一見、コミカルキャラを持ってきて、ずっぱりシリアスに漬かり込むあたりも、「夢売る……」のデジャヴを感じてしまう。そういう変化を入れ込むあたりも、阿部サダヲが裏主役、いや本主役なんじゃないのと思ってしまう。
そしてそれは、本作に抱いていた予感や期待、少なくとも中盤までは松田龍平君が頑張って押し進めていた”お金恐怖症の男”のナンセンスさ、頼りなさ、コミカルさを、まるでなかったことにしてしまうような感があるのだ。
恋人殺し、という容疑をかけられている逃亡者、なのになぜか、小さいと言えどもひとつの行政をつかさどる村長に、本名のまま収まっている。このあたりのムリさ加減は、村の”神様”と称されている、西田敏行扮するなかぬっさんというナゾの老人が、すべてを彼の裁量の元、みたいにしている感がある。
……このあたりもかなりのムリムリさ加減。それこそ長くじっくりと描くコミックスだからこそのキャラや設定であり、目が光る神様をそのキャラの面白さをそのまま伝えるには、やはり相応の作戦が必要だと思う。
タケのお金恐怖症というのは、現代の殺伐としたリアルさをそのまま伝えていて、松田龍平のユルさをもってしても、いやだからこそ、生々しいホントを感じさせるものがあった。彼が全てを捨てて、お金を使わない生活を、この寒村でしようというのも、彼が一方で持つ、ひどく純粋な部分が観客にそのまま受け入れさせるものがあった。
だからこそ、目が光る西田敏行っつーのが、難しくなるわけだよ……。”目が光る西田敏行”だけなら、大いにアリなんだけど(爆)、難しいな……もうこのあたりから、見てるこっちの心が上手くかみ合わなくなっていった感があった。
やたらと三谷幸喜という内輪ネタを押してくるのもね……。同じ演劇人としてのつながり、勿論ワレワレ観客にとってもおなじみのネームバリューをもったお人ではあるにしても、ちょっとくどい感じがしたなあ。
この村唯一であろうと思われる小さなお宿に、子供が描いたような文字の色褪せた(それだけ古い)サイン色紙が飾ってある、というこっそり感でクスリとさせるだけで充分な気がした。
最終的に、”三谷幸喜ディナーショー”のポスターで散々イジりまくるに至ると、正直ちょっと、ウンザリしちゃう。
そして、”監督、脚本、出演”、そう、出演、の松尾スズキ氏である。監督自身が出演もするパターンは様々あるが、本作の松尾氏は北野武タイプである。つまり、キーマン中のキーマン。まあ、主演ではないにしても。
先述のように、後半すっかり阿部サダヲの物語、阿部サダヲが主役であるということを考えると、その彼、村長の過去を暴く人物として登場する松尾氏は最もオイシイ役であり、それはつまり、本作が後半こそに、つまりつまり、阿部サダヲのエピソードこそに力点をおいてんじゃねーの、と思われても仕方のないところじゃないのかと思ったりもするんである。
だって、タケのお金恐怖症もかなりなんとなくの感じで治っちゃってるしさ……。なんとなくとはいえ、その場面は、村長の妻を助け出すという大いなる盛り上がりの場面ではあるが、つまりは村長のエピソードの中、な訳でしょ?
タケが村長の美人妻とドライブしたい!と酔った勢いで懇願するシーンとか、かなり唐突な感じがして、あれ?そんな、岡惚れするような描写あったっけ……と一生懸命思い出して、ああそういえば、自転車を譲られた場面で、彼女が自転車乗ってるお尻を妄想するシーンがあったっけと思ったけど、それだけだよなあ……となんか、ツメの甘さにがっくりきたりするんであった。
あれだけお金恐怖症、いわばストイックに追い詰められた彼が、女子高生、二階堂ふみにあっさり陥落するというのが、まあ確かに考えてみれば、彼の台詞の通り「キスとか久しぶりで(夢中になってしまった)」そして、超々ミニミニの制服から覗くパンツに欲情してむしゃぶりつくのも、”まあ確かに考えてみれば”判るんだけど、それまで、先述したように、彼のユルい芝居の魅力にあまり頓着せずに描いてきたもんだから、理解が薄いまんまきちゃって、なんか衝撃度が薄くって……。
二階堂ふみが、彼女ならではの強めの芝居をし、彼女を美人局に使う荒川良々は当然、もっともっと強めの芝居をしているだけに、凄くもったいない気がするんだよね。
この三人のシークエンスは特に、芝居くさい、舞台くさい気が、凄いした。
この女子高生、青葉ちゃんが、ヤクザの荒川良々に命じられてハメたんだということを一升瓶を携えて謝罪に来て、そのすぐ後にヤクザがオリャーとやってくるトコ、ウソくさい謝罪をいきなり訛って、テンポよくたたみかけるふみ嬢からの、怒鳴り込む荒川良々の流れが、ホンット、下北沢あたりの芝居を見ているような気がした(って、見たことある訳じゃないけど(爆))。
舞台の雰囲気の面白さを、その世界で生きている人だから出したいという気持ちがあるのかもしれない。それを毛嫌いしている私がオカシイのかもしれない。でも……。
何かね、こういう部分部分だけが浮いているような気がしてしょうがないのよ。舞台では許されるであろう、ナマの役者の面白さは、だって映画ではナマじゃないんだもの、浮いちゃうよ。そう思うんだけどなあ……。
村長が他の女に産ませた子供、というエピソードがある。”神様”の娘で、旅館の女将がその母親。演じる中村優子はメチャクチャ色っぽく、隣村の議員から言い寄られまくるのもむべなるかな、なんである。
その私生児が”村長ソックリ”だから、タケはひと目で判っちゃってうろたえる訳だが、まあそりゃ実写ではそこまで、観客にそうだそうだと納得させるほど、阿部サダヲにそっくりな男の子を用意できないだろうということはあったにしても、でもそれはさ、タケの台詞と、そこそこ阿部サダヲに似ている男の子のアップ、で良かったじゃん。そこに阿部サダヲの顔をオーヴァーラップさせるなんて、もう、一気にマンガチックになってしまってガクッとしてしまう。
まあマンガ原作なんだけどさ……この場合のマンガチックというのは、ネガティブな意味でしかないからさ。なんかね、映画の観客を信じてくれてない気がしたの。ここだけじゃなくてさ、いろんなとこで。……ホント、舞台アレルギーのヘンケンもりもりなんだけどさあ……。
田舎町で可愛くオロオロとしている松田龍平を堪能したかったから、なんか消化不良な気分。それが充分、出来る企画だったと思うからさ。
青葉ちゃんとヨリを戻したのが「セックスがハンパなく良かったんで」と無邪気に言い放って、オッチャンが飲みかけてたお茶を噴き出しちゃう、そーゆー良さが、もっともっと全編に欲しかった。
はいりさんとか凄くハジけてたのに、それが”舞台人の浮き加減”の中に収まっちゃったのは本当に残念だよ。
それに、村長の中年腹を強調するためのツメモノが凄く違和感があった。原作のキャラを再現したのかもしれないけど、だって誰もが、阿部サダヲはそうじゃないって、知ってるじゃん。お顔はそのまんまだし、役のために太るんじゃなければ、そういうのは違うんじゃないのかなあ。
それこそこれは映画、実写という、観客が本当にその場所で起こっていることだと信じて入り込む世界。舞台じゃないんだからさ!!!★★☆☆☆
えー……よく覚えてない。いやあ、なんか最近、ホン・サンス作品の情報はちらちらと見かけ、その韓国映画らしからぬ(いや、らしい、のがどういうのかと言われると困るのだが……)フランス映画のような洒落た雰囲気が、断片的な情報でもいかにも素敵で、あれ、私観てなかったっけ、一時期はわりと韓国映画観てたし、観ててもおかしくないのになあ、と思っていたら、ちゃんと観てて、クサしてたとは(爆爆)。
うーん、相性が良くなかったのかなあ。なんか私かなり保守的な感じで拒否反応を示していたみたい。
本作がホン・サンスのホン・サンス的な部分をどの程度現わしているのかは判らないけれど、それこそこんな感じの雰囲気を、最近ちらちらと見かける”ホン・サンス風”からは感じていて、気になっていたから、今までの出会いが良くなかっただけなのか、あるいは私も若かったのかな?(照)。
近年の日本人俳優ミーツ韓国映画は、勿論その逆もあれども、やはりかの国の、基本的には反日、嫌日感覚を考えると、日本人ミーツ韓国映画、の方が、大きな意味を感じるんである。
加瀬亮演じる主人公、モリが泊まるゲストハウスの女主人は、年ごろ(役者さん自身の実年齢から言っても70手前といったあたりだから)から思えば決して、日本人に対して好感を持っている筈はないと思われるけれど、劇中再三、「私は日本人が好きだから」と口にするんである。
それは勿論、映画は監督のものだから、監督自身の言葉に他ならない、彼女自身の言葉ではないとは思うけれども、嬉しさよりもハラハラ感の方をついつい感じてしまう……のは、まあいつものことっつーか、しょうがない部分は、あるよなあ。
この女優さん自身がどう思っているのかとか、考えちゃう(爆)。でも同じクリエイティブな仕事をしている同志なのだから、きっとね!
対する加瀬亮が、演じるキャラの設定とは言え、同僚の韓国人スタッフといさかいを起こし、”低レベル”とハッキリ口にするだけにさ……。
まあ、でも同時に、「でも同じ韓国人で、尊敬している」と愛する彼女を語り、それこそがこの物語のメインストリームな訳だし、充分にペイしているとは思うけれど、けれど……ハラハラするよ!!
……うーむ、なんか違う方向に話が進んでるぞ。いやいや、違ってもいないと思う。
韓国語も話せずに、たった一人、ふらりと訪れた日本人、モリという存在が、ただ何でもない路地裏の……つまり大都会とか、そういうんじゃない、片田舎とまではいわないまでも、本当に、日常の韓国の情景の中に入り込んだ時の化学反応というか、どうなるのか、っていうのは、気になるもの。勿論フィクション映画だけれど、何かノンフィクションのようなドキドキを感じてしまう。
と、思ったのは、あながち的外れでもなかったかもしれない。その日ごとに脚本を渡されるから、前準備が出来なかったのだという。だから加瀬亮は、自分自身のままに臨んだのだと。
うーん、ジャッキー・チェンスタイル??いや違うって(爆)。でもそれを可能にしたのは、彼らのコミュニケーションが英語を中心にされているってこと、なんだよね。そしてそれは残念ながら、日本映画としてだと、なかなか成立しないと思うんだよなあ。
韓国の人たちって語学に長けている、英語なんていうのはフツーに標準って感じがする。てか、日本人が何故こんなにも語学レベルが低いのかが問題、というかもはやナゾなぐらいなのかもしれない(爆爆)。
だって、特に観光地でもなさそうなゲストハウスのおばちゃん、てかおばあちゃん(爆)が、するすると英語が話せるなんていうのは、ヤハリ日本では考えられないもの!若い人ならともかくと思ったが、日本じゃ若い人からダメだもの(爆爆)。
そしてもう一つは、たった一人の日本人として、つまりはいわば日本人のアイデンティティを背負った形になってもおかしくない形で、しかも主演として参加している加瀬亮が、ただのひとことも日本語を喋らないというのもやはり、大きなことだったと思う。
観ている時には、それを殊更に感じる訳じゃないのね。韓国語がひとつも喋れずに、想い人を探しにこの地にやってきた、つまりは異邦人。
語学学校で働いていたという彼は、つまり日本語を教えていたのかな?韓国人同僚とソリが合わなかった苦い経験を持つ。
英語しかコミュニケーションツールとして使えないし、彼女には会えないし、焦りと、それなりの孤独もある。でもそれを、母国語でちょっと愚痴るとかさえ、させなかったことが、後から考えると、かなり大きなことだったように思う。
日本人として異国の地を旅するという形で外国映画、もっと狭めると韓国映画に参加する日本人俳優が、一言も日本語の台詞を発しないというのは、これは案外難しいことなんじゃないかと思うのだ。
だって、アイデンティティだし、自分の感情がほろりと出て当然のことじゃない、母国語って。それをムリない形でこの地で過ごす、時にはケンカもし、行きずりの関係も持っちゃう加瀬亮は、凄い、凄いかもしれない!!
いや、凄いのは加瀬亮じゃなくて、いやいや加瀬亮も勿論凄いけど(爆)、やっぱり、ホン・サンス、なんだろうなあ。それを納得させちゃうんだもの。
劇中にね、韓国人の奥さんを持ってこの地に暮らす、欧米人(どこの国か、言ってたかな?)の男性がいる訳。流ちょうに韓国語を話す訳。
でも彼は、ここに住んでいるのは奥さんのためだと言う。ある意味ハッキリとそう言う。ここが好きだからじゃなくって、奥さんがいるからだと。
こんなにハッキリ言わせることに、監督さんの意図にヒヤリとする。モリはそれを聞いて、好きな人のいる場所で、好きな人と暮らす、シンプルで大事なことだけど、それがなかなか出来ない、自分はその相手にも再会できてない、とかなり悪い酒って感じでカラむのね。
ちょっと、はぐらかされたかなとも思うけれど、かなり挑戦的な描写だと思う。だって正直、この男性は、奥さんがいなければこの地に住むことはない、と言っているようなものだもの。
そして、モリが彼女と再会して、モノローグされるところによると、二人は日本に住み、子供ももうけて幸せに暮らす、と。かなり挑戦的ではないかと!!
……スイマセーン。いつものように、まったく判らないまま進んでますけど(爆)。まあでも、想い人を追って韓国の地に降り立った日本人、モリ、という基本ラインは判ったでしょ(爆)。
でも本作の最も大事な部分は、時間軸がバラバラ、ぐちゃぐちゃになっていること。
モリは長い休暇をとって彼女に会いに来たけれども、彼女もまた長い旅に出ていて、会えない。休暇の間に彼女に会えるのか判らないまま、この地で起きた出来事を長い長い手紙にしたためて、出会った場である語学学校に預ける。
彼女がその長い長い手紙を受け取る場面から始まるんだけど、感極まった彼女はそれを階段の下に落としてしまって、拾い集めるも順番がバラバラになってしまう。
彼女が手紙を読み進めるバラバラの順番に、モリがこの地で過ごしたエピソードも語られるという趣向なんである。
この時、一枚だけ階段に置き去りにされたように見えたんだけど、そうじゃなかった?あの置き去りにされた一枚が何か大きな展開になるのかなと……いやなっていたのに、私が気づかなかっただけかなあ(爆)。
年上の彼女、なんだよね。それって劇中で明確にされていたっけ?ただ、化粧っ気がなく、本当に普通の女性、という感じ。
今まで韓国の女優さんってただただ美しく、不自然なまでに美しく(爆)、時におっぱいも不自然なまでに美しく(爆)、したりしたもんだから、まるで私みたい、と言いたいぐらいの(爆)、女の武器一切ナシ、って感じが、その彼女を追って加瀬亮が来たんだと思ったら、なんか泣けちゃって(照)。
モリは、彼女がもしかしたら結婚しているかもしれない、と言ってるぐらい、それぐらい、時間が経っていたのか、あるいは何かそういう予感があったのだろうか。
その間連絡を取っていたかとか、そんなことも一切判らない。現場で作られていく物語だからかもしれないけれど。
難しい病気にかかっていた彼女は、遠く南米の地に治療に行っていたんである。”医者であり牧師である”なんていう台詞が出てくるから、その人と結婚したのかとヒヤリとする。
だって、彼女、左手の薬指に指輪してたよね?そーゆーの、やっぱりチェックしちゃうよ!あれは、なんだったんだろう……モリがその昔プレゼントしたとかいうことなのかなとも思ったけど、そーゆー解説もなかったしなあ……。
でもこの彼女は、いわばナビゲーター的な雰囲気で、バラバラになった手紙を読む挿入的に出てくるのと、勿論、最後にはモリと再会してハッピーエンドを迎える訳だけど、いわばこの作品のヒロインではないのかもしれない、と思う。
大きな役柄、存在として登場するのは、つまりモリの心情をかき回す存在として現れるのは、二人の思い出の場所、タイトルにもなっている、日本の地名が入っているカフェのオーナーの女性である。
ムン・ソリ。あれっ、絶対この名前、聞いたことある!!と思って慌てて探って仰天!私にとって最も衝撃的だったと言っても過言ではないと思われる韓国映画、「オアシス」の彼女!!
そう、あの頃、文化交流が正常化になって、韓国映画が凄く新鮮で、なんていうか、攻撃的な、責めてる感じがあって、観ていたのだった。今も忘れられない、あの映画は!
デビュー作が「ペパーミント・キャンディー」!!あれも凄い映画だった!!!ああ、この再会は凄く嬉しい。しかもイイ感じに年を重ねて、加瀬亮とチョメチョメ(古いっ)する役柄だなんて!!
最初私ね、時間を単純に逆行しているのかと、思ってたのさ。このカフェのオーナーの迷子の犬を見つけるくだりあたりは、確かにそんな感じだったと思う。
でもその後に、彼女とねんごろになる(この表現も古いだろうか……)展開がある訳だし、まあそうでないとなかなか難しいよね、やっぱり。
韓国映画の飲みのシーンだと、やっぱりマッコリとかそういうイメージで、実際そういうシーンを見る方が多かった気がするけれど、本作ではどのシーンでもほぼほぼワイン、外国人であるモリに気を使った??
いや、意外にそういう側面も普通にあるのかもしれない、というのも今更ながらの新鮮さだった。やっぱり色々偏見があるんだなあ、と思う。
やっぱり男女が最初に距離を縮めるのは、お互い少し気取った、西洋の文化が必要なのかもしれない。そうか、考えてみれば、お互い西洋の言葉でコミュニケーションをとってる訳だし。
モリと、まるで何年来の親友、って感じで仲良くなる、ゲストハウスの女主人の甥っ子だというサンウォンに関してはさ、彼って監督自身の分身的キャラじゃないだろうか、ときっと誰もが思うと思うんだけど!
いくつものエピソードがあるのに、メインの物語軸にはほぼ重要性がないってあたりの(爆)軽さが切なくて好きっ。
映画を作るってことは、所詮その程度のことなんだと、自嘲……も軽めに、逆に”その程度”を誇りに思っているんじゃないかっていう雰囲気が感じられて、なんかイイんだよなあ。ワケアリ宿泊客の若い女の子と大人げなくマジケンカするあたりの子供っぽさも妙にチャーミングでさ、なんとも憎めないのよ。
監督自身が演じているんじゃないかと思ったぐらい。加瀬亮と監督が意気投合したといういきさつさえ知らなかったのに、そんな風に思うなんて不思議なんだけどさ!★★★☆☆
私のイメージでは、昭和残侠伝の風間重吉は、健さん演じる花田秀次郎と同等のウェイトを持っている感じだったんだけど、そらまあまだまだ観てないものも沢山あるし、たまたま今まで観たものがそうだったのか、あるいは私が池部良しか目に入ってないからなのか(爆)。
と、ともかく、本作は、まず松方弘樹、なんだよね。わっかいわっかい、青くてウブな松方弘樹。このあたりの時代の松方弘樹を見ると、本当に青くて猪突猛進で、男くささよりやんちゃな可愛らしさの方が先立つような感じで、ああ、この頃の彼なら良かったのに……などと思う(爆)。なんつーか、弟気質というかさ。
本作でも重さんの腹違いの弟という設定。わざわざ腹違いという設定にさせるのには意味があるのかと思ったら、特になかったというあたり(苦笑)。
腹違いの兄弟、ってのは苦労を共にした、って風に聞こえるからなあ。これが種違いとなると、インランな母親のもとに生まれたクズたち、という風に聞こえる、などとゆーのはフェミニズム野郎のひがみだろーか(爆爆)。
でもでも、腹違いはよく聞くけど、種違いってあんまり聞かないし、腹違いって設定を少なくとも本作では特に生かしてなかったからさあ。
うーむ、どうもフェミニズム野郎は、こんな男臭い作品でも違う方向に行きたがるらしい(爆)。修正修正。
そうよ、松方弘樹よ。どうも脱線してしまう。冒頭は、重さんのお株を奪うがごとき、秀さんとの道行を彼がしているのよ。
工事入札のいざこざで敵対する組に殴り込みをかけ、見事親分の首をとった松方弘樹演じる文三。その助っ人として同行していたのが秀さん。文三の親分さんは実は、彼が返り討ちにあうことを期待して送り出したのだが、なんたって昭和残侠伝の秀さんが助っ人だもの、多勢に無勢でも、勝っちゃうのさ。
あ、そう言ってみると、この冒頭の場面は、ラストの、お約束の秀さん重さんの殴り込み場面に呼応するんだなあ。
多勢に無勢でも勝っちゃう、けれどもその結果はちょっと違う。そのちょっとが私にはとても悲しい。ああ、でもこんな最初に言っちゃったらダメダメ!!
だーかーらー、松方弘樹だってば。脱線するする(爆)。
親分さんが彼の死を期待したってのは、親分さんが手を付けた女、おみのが、文三のカノジョだったからさ。手ごめ同然に妾にしたから、そらあ表面上は文三は姐さん、とたてる。でもおみのは当然納得がいっていない、ことを敏感に察知していたからさ。
でもさ、敵方の親分殺しを遂行し、素直に寄場送りになるつもりだった文三を、若いモンを身代りにたてるから、と遠方にやったのは、のちの展開のためのように思えなくもないんだよなあ。
だっておみのから遠ざけるには、しばらくよそにいってほとぼりさましてろ、という優しい処置より、寄場送りにした方が手っ取り早いじゃん。おみのが彼を追って行ったことに激怒して、二人をぶっ殺す、という展開のために思えちゃう、んだよなあ、なんか。
まあそれはともかく。本作のキモはとにかく、筋を通す、筋を通す、なんである。どこかの組に属するんではなく、いつでも旅人、わらじを脱いだ組に恩義を尽くす、のが生き方である秀さんにとっては、それが最も重要なことだし、渡世人ということにちょっとした自嘲を含ませながらも、筋を通すことを愚直なまでに守ることで、自嘲の中のプライドをにじませるんである。
こーゆーあたり健さん、って感じだし、日本人、って感じがする。それも、少なくとも東日本って感じがする(爆)。どんなに不条理でも、ワリに合わなくても、筋を通すことこそが義理だと、話はそれからだと、いう日本人、なんだよね。
でもそのことが、本作の奇妙な面白さにつながっていくんである。文三が肺病を抱えたおみのをお兄ちゃんのいる金沢に逃がしたあたりから、客人としての義理から文三を追うことになる秀さんの、“筋を通す”スパイラルが始まるんである。
恋仲の女を親分さんが手ごめにして奪った。しかも親分さんは自分の死を望んでいる。そんな不条理にも、不条理だということは承知の上で、まずは筋を通すことが大事だと説く秀さん。
渡世人のはしくれである文三もそのことにはうなずくし、お兄ちゃんの重さんも「あの人は筋が判っている人だ」と感心する。
そしてこれまた私の大好きな重さんをさしおいて(爆)存在感をふりまきまくる、金沢の顔役、三州の親分さん。演じる鶴田浩二が、おだやかな凄みがめちゃめちゃカッコ良くて、松方弘樹といい、鶴田浩二といい、もう重さんは三番手、四番手じゃないのお、と悔しくて仕方ない(爆)。
いやー、鶴田浩二が登場してからは、松方弘樹もなにも、消し飛んじゃったね。人格者とはこういうオーラを持つ人のことを言うんだろう。
渡世人という風情ではないの。警察に拷問を受けるシーンでは見事な彫り物を披露するけれど、和服に身を包んで穏やかに微笑んでる時には、まるで文人のような趣なの。
重さんの焼いた皿を心がこもっている、と高く評価して買い取るシーンとか、本当にそんな、違うジャンルの映画みたいな感じでさあ。
鶴田浩二に、さらわれちゃったなあ、と思う……。実はこの親分さんの女将さん、病身のおみのを引き受けて、黒田一家のチンピラどもに、玄関先で威勢よく啖呵を切る加代は、秀さんの元カノなのであった。
でもそんな設定も消飛んじゃうのよ。そりゃあね、そんな甘酸っぱい若かりし頃の回想シーンもあるさ。思いがけず再会した秀さんに、ずっと待つつもりだった、と彼女が苦しい胸の内を告白するシーンもあるさ。
でも秀さんが言うように、「三州さんは立派な人だ」男気といい、人間としての成熟度といい、もう見るからに叶わないんだもの。
もちろんそれが、恋とか愛とかいう、どうしようも制御できないものとは関係ないことは判ってる。でもでも、勝ち目ないよ。鶴田浩二が完璧すぎるんだもの!!
だってね、秀さんは、それこそ筋を通すために、そんなくだらない渡世人の義理を立てるために、三州さんを斬らなければいけなくなるのさ。そんな秀さんの立場を理解した三州さんは深くうなずいて、サシの勝負を受けて立つ。
あらら、どうなるのかしらんと思ったら案の定、どうしても確実に三州さんを殺したい、地元の入札でこじれてる稲葉組(ここに黒田組がわらじを脱いで、結託してる。ややこしいなー)が卑怯にも飛び道具を使って勝手に加勢してくる。
ほらね、こーゆーあたりがラストの道行のための強引さと思える訳さ。だって、腕の立つ秀さんを見込んで三州さんを斬ることを命じた訳でさ。彼が斬れば、彼だけの咎になる。都合がいい訳でしょ。一匹狼の、ただの客人なんだもん。
劣勢を見越して加勢したという訳でもなく、唐突に、しかも銃声をとどろかせて参加してくるなんて、全然意味判んないんですけど(爆爆)。
筋を通すために三州さんを斬ることになった秀さんを、その軌道修正を行うための強引さに思えちゃうんだよなあ。
そう、筋、筋、筋、なんだもの。あまりにも秀さんがそれを押すから、なんかその不条理さがバカバカしさに感じて、クスリと笑っちゃうぐらい。筋を通しまくった挙句、結局は文三は病死したおみのと一緒にあの世で幸せになれ、とばかりに、殺されてしまうんだもの!!
で、まあそう、その出来事が、長年堅気を守ってきた重さんに再びドスを握らせ、ラストの秀さんとの道行になる訳だが、筋押しまくりが結局は裏切られて、お前になんか筋も義理も通す必要はない!と斬り込みにいくんだもんなあ。
そらー、見てる誰もがこうなるだろうと思ってたわよ……筋ってなんだよ……と思っちゃう。いやさ、任侠映画はこーゆー、不条理なまでの筋や義理こそが魅力なのはわかっちゃいるが、本作はそれを、魅力として納得させたうえで、この斬り込みは当然!と思わせるのは難しかったかなあ……。
うーむ、とゆーか、秀さん重さんコンビが松方弘樹、いやさ、最終的には鶴田浩二にすべて引っさらわれてしまったのが痛かったよなあ。あれえ、こんなに鶴田浩二って穏やかな大人の魅力で素敵だったかしらん、という感じ!健さんがまるで青二才に見えてしまうんだもん!!
筋の通ったお方だと賞賛されながら、お前なんかにそれを通す必要はない!、ってオチじゃ、そうなるわなあ……。うーん、任侠映画って、難しい!
まあでも、いいのよ。結局最後の斬り込みシーンはやっぱりやっぱり、素晴らしいんだもの。任侠映画は、ここを観るだけで満足、っていうところはあるもの!
それまでは筋だ筋だと静謐さを保ってた健さん。わらじを脱いだ先での作法も完璧。おかわりをする時はご飯の真ん中をくぼむように残して食べて差し出す。魚の骨は懐紙に包んで持ち帰る。賭場への出入りは丁の目が出た時。
ホント、まるで文人のような静謐さと正確さ。任侠映画で大好きな、軒先での仁義が、形式バリバリのそれが見られる魅力が、そのまま秀さんに乗り移っている感じがする。それは日本人の、イイとこと悪いとこの合わせ鏡のようでもあるんだけれど……。
ちょっと脱線したけど(爆)。そんなお手本のような渡世人の秀さんが、ドスを持って斬り込むと、上半身をあらわにした背中に唐獅子踊るそのお姿、素晴らしい筋肉の盛り上がり。このギャップ。
いや!いやいや!!ギャップなら重さん、なの!!堅気として、絵付け皿の職人として、静かに生活していた重さんが、「もう二度とドスを持つことはないと誓っていたのに」という、このギャップよ!!
秀さんと、これから自分たちが着るのは白い着物か赤い着物だ、と(どっちにしろ、死ぬということ(泣))誓い合い、斬り込みに行く夜の道行。人格者の三州さんが、重さんの様子がおかしかったことに気づき、秀さんとの決闘の傷も癒えぬまま駆けつける男気。
様式美丸出しの、斬られる人たちが斬られたがりまくりの、斬り込みシーン。そして死んでしまう重さんと、三州さんによって逃亡を助けられる秀さん。
イヤーッイヤーッ、重さんが死んでしまうの、イヤーッ(号泣)。ううむ、でも、この道行きで重さんだけが死んでしまう確率は高かった記憶が……主人公はやっぱり、死なないんだもん。
こんな風に書くとドシリアスみたいだけど、コメディリリーフの存在に助けられたりもする。病身のおみのが金沢に向かう列車に乗っていた時「心配で直江津で降りるはずが金沢まで来てしまった」と恩着せがましく言うのもなぜかチャーミングな、田舎丸出しの訛りが何とも可愛らしい男。
列車の中でも一人、浪花節を熱唱して、おみのの気分が悪くなるのが、純粋に病気のせいなのか、彼の熱唱のせいなのか(笑)。
大事な秘密ごとを都合よくバラしちゃうイイ立ち位置。ラストの斬り込みの場面で、たすき掛けのカッコの用意が遅くて、すべてが終わった後に駆けつけるのも、シリアスなトコだけに妙にホッとしちゃったなあ。そして重さんの亡骸をまかされるんだもの……。
もう一人。中盤の一つの盛り上がりである、三州さんが刑事にとらわれての拷問シーン。ヤクザから袖の下をもらってる刑事、顔はバタくさいコワモテで、ストイックを気取ってるが、酒の席で女をあてがわれるとあっさり馬乗り。秀さんに布団をめくられると、だらしないふんどし姿があらわに(汗)。
背広をシュッと着こなしてるのに、その下はふんどしなんだ、当時は。いやー、勉強になるなあ、って違うって!★★★☆☆
でも同じく、ばななさんも若かったのだ。今、26年も後に映画化になることを、当時自分が書いた世界観を彼女がどう思っているのかに興味がある。
映画に対峙して、その聞き覚えのある台詞からだんだんと記憶を手繰り寄せて思ったのは、ああ、なにかとても、若い、若い感覚だということだった。やっぱり毒素はどこにもないような気がした。
そんな筈はない。ありていに言えばこれは不倫の物語。でも当時の私は、恋人が既婚者である女の子という設定に想像もうまく追いつかなかったし、私よりは10近く上のばななさんだって、当時はその若い感覚で描いていたと思う。
すっかり評価も定まったであろう超有名な作家さんとその作品にこんなナマイキな口をきくのはドキドキしてしまうけれど、でも、26年経ったのだ。
26年経っての映画化は、どんなに原作の世界観を忠実に再現していると、例えその原作者が絶賛したとしても、その時間のギャップが生まれ、化学変化が生まれ、それがまた、映画と原作の関係性の面白さなのだ。
だから、同時代のベストセラーをただちに映画化してしまう商業映画の最先端とは違う面白さがある。そして……とまどいもある。
一番判りやすく言えば、携帯電話だった。現代で映画化するのなら、そして普遍的な物語ならば、わざわざ書かれた当時に時代を戻す必要はない、確かに。
でも、当然携帯電話などなかった時代に、いつもいつも家で時間を忘れたように眠っている寺子をつかまえるのに、家の電話にかけるだけで容易に事足りた、というこの”不倫”の関係を、いつだって携帯できる電話、しかも今の、近未来チックにさえ見えるスマホであるということが、もう二人の関係性を危うくさせたように見えた。
いや、それでいいのかもしれない。それこそが面白いのかもしれない。あの時、あの時代、いつだって家で「また眠っていたんでしょ」と安心しきっている年上の恋人が容易に彼女を捕まえられた、家の電話。だからこそちょっとおかしな台詞に聞こえる場面があるのだ。「電話に出ないから……出かけていたの?」
これは携帯電話ではありえない台詞なんだけど、彼がついそんな風に言ってしまうぐらい、彼女は彼の手に容易に落ちている、そこが面白いのかもしれない。
でも携帯電話なのだ。いつだって捕まえられる度はイエデンより容易な筈なのに、それなのに彼は言う。「どこかに出かけていたの?」そして彼女は言う。「あなたの電話の音にだけは、いつだって起きていたのに」
今の時代には妙によそゆきに聞こえる、言ってしまえばちょっと女くさい言葉も、それを喋るのが安藤サクラだからこそ、奇妙なアンバランスを感じる。
いや、彼女自身は時代を超越した女優だとは思うのだけれど、この世界の中での、さらし木綿のようなピュアすぎる彼女から出てくる言葉とは何か少し、違う気がするのだ……。
井浦新もまた時代を超越した俳優で、そのしんとした素敵な声に相変わらずじーんとさせられるけれども、彼が言う「……しましょう」というこれまたよそゆきの言葉も、現代の恋人同士にアンバランスさを加えてくる。
ひどく、似合うのだ。彼が言うと、そのよそゆきの言い方が。それを彼女もまた、「あなたのそういう言い方、好きよ」という。
好きよ、っていうのがね、アンバランスな訳。今の女の子、あるいは安藤サクラなら、好き、あるいは好きだよ、と言う気がして。なあんていうのは、フェミニズム野郎の私の勝手な言いぐさかもしれんが。
でもこんな風に、距離がある。不倫なんていうとドロドロの修羅場で、奥さんと別れてよ、いや君が一番大事なんだ、とかまあそーゆーこと想像しがちだけれど(ベタかな)、二人の間にはそんなドロドロがまるでなく、そして時代のギャップも相まって、なんとも不思議な感じなんである。
ファッションのことも、ちょっと思ったかな……。安藤サクラは凄くステキにナチュラルでセンスが良く、ちょっとだらしないようなセクシーさを出しているのね。それは彼との関係だけで生きている女の子を描写するのに凄く効果的で、素敵だなと思うんだけど……。
劇中、「あの人は私にキレイなカッコをさせて、街中で会う」的な台詞がある。それは、決してお互いの部屋で会うことはない、彼だって妻が植物人間になっちゃってて、彼女の方はいわばメカケ状態で一人暮らしで、何の障害もない筈なのに、騒がしい都会の夜の喧騒とネオンの中で会って、こじゃれた店で食事して、泊まるのはラブホですらない、都会の夜景も一望できる、ちょっとしたシティホテルなのだ。
”決してお互いの部屋で会うことはない”以下は、その切ない関係性は今の時代も普遍のものと思われるんだけれど、「私にキレイなカッコをさせて」ってところにふと引っかかるんである。
多分それこそ、よしもとばななの時代だったんではないかと思う。不倫相手に部屋と生活費を与えて、キレイなカッコをさせて、夜の喧騒の中で会う。そして泊まるのはオシャレなアーバンホテル。それなのによしもとばななが描くと、まるで水晶のように純粋な世界になるというのが、魅力だったのだろうと思う。
そうだよ、だって、いつまででも惰眠をむさぼり、呼び出されて恋人と会う生活。銀行で記帳をする場面からすぐに判る、愛人、というより妾の生活なのだ。
決して彼は彼女が働くことを禁止している訳じゃないけれど、後に「バイトなんか始めたの」と苦笑する場面で、その関係性は歴然と判る。
それもまた、奇妙なアンバランスの化学変化。当時だってメカケなんていう言葉も制度も、もう時代遅れのものだった筈。この原作中にだって使われてはなかったと思う(多分(汗))。
でも彼女の立場は明確に妾であり、愛人ですらない。その違いはどこかと聞かれるとアレだけれど(爆)、愛人は、恋愛という関係においては対等である、という気がする。きっと愛人ならば、植物状態の奥さんならばさっさと別れてとか言いそうである。
でもそれはよしもとばなな的ではなく、結果的によしもとばななの時代よりずっと昔の制度を持ち出すことになる。そしてそれが四半世紀後の現代によみがえった時、そんな奇妙なアンバランス感を感じさせることになるんである。
不倫をしている女の子って、そんなにあちこちに、その情報をバラすもんなんだろうか……などと言ってしまえば、この原作自体をブチ壊すことになるんだけど(爆)。
キーマンである、自殺してしまった親友に打ち明けているのはまあ、判るにしても、久しぶりに会った友人に、「相変わらず不倫を続けているんですか」とまで言われると、ちょっと興ざめしてしまう。「そうよ、まだ別れてないわ」先述したけど、この女くさい語尾もちょっとね(爆)。
親友は、「私の前で始まった恋だから、上手くいってほしい」と言う。恋、恋なのか。
そうか、思えばこの原作、そして映画化となった本作の最初につぶやかれるのが、これが本物の恋だと誰かが保証してくれたら……と苦しむ寺子のモノローグだった。でも原作も、そして本作も、恋としてしか、描いていない。恋だから、苦しいのだ。
安藤サクラは脱ぐとか脱がないとかいちいち騒がれない域に達しているので、安心して見ていられる。でも、実を言うと本作に、いや原作に不思議とセックスの匂いを感じていなかったので、とまどいを感じてもいる……。不倫のカップルのお話なんだから、それを感じないなんて可笑しいんだけれど、読んだ当時の自分があまりにもそのことに対して頓着がなかったせいなのだろうか??
安藤サクラのヌードはこぶりなおっぱいがエロを感じさせなくて(いや、それはあくまで本作において、ということだろうが)、少年のような(少女ではない、のかもしれない……)無防備さで、新氏とのホテルの場面ですら、さらさらとしたものを感じる。
最初のホテル場面で、ハダカで抱き合っているのに、顔も向き合っているのに、キスをしないのが、妙に象徴的に思えた。その後はセックスの場面でちゃんと?キスもするし、特に回想場面、出会いの場面の冬の海辺、彼にキスされて戸惑い気味に彼の胸に顔をうずめる彼女とか、印象的なキスシーンはいくらもあるのに、そのどれもがなにか夢の中の出来事のようなんだもの。
そう、何かね、夢なの、乙女の夢みたい。いつもいつも寝てばかりいる寺子、レースのキャミにお尻がぷりんとはみ出たショーツ姿、のみならず、そんな惰眠をむさぼるシーンでもサービス満点?に脱ぎまくる安藤サクラ嬢。でもその小ぶりのおっぱいは痛々しいほどに無防備でちっともエロを感じさせない。
羽毛布団を足でギュウとはさんで太ももがあらわになるとか、結構なサービスカットを用意しているのに、乙女の無防備さに見えてしまう。
そうだそうだ、重要なことを書きもれそうになっていた……。寺子の親友。ただ一人心を許した、しおりという女の子。”手の込んだ売春みたいな仕事”をした先で、自殺してしまった女の子。
演じる谷村美月嬢、今まで感じたことのなかった、複雑な大人の女、いや、大人の女に向かってなれなかった女の子、そんな繊細さを感じて息をのんだ。
でもこの設定も、”手の込んだ売春みたい”であって売春ではなく、セックスはなく、なにかこう……純粋さゆえに真綿で首を絞められるような苦しさなのだ。
当時原作を読んだ私自身が、不倫の物語なのに不思議とセックスや毒素を感じなかったように、若い才能ゆえの純粋さが、無意識に、そしてしたたかにそれを排除している。それが現代に映像として構築された時に、いろんな化学変化を起こして渦巻いているように見えてくる。
彼の奥さんが事故で植物人間だというのもね、そんな話、ウソでしょ、と思わず寺子が言うように、まるでひと時代昔の少女漫画だ。
正直、それこそばなな氏の時代の少女漫画の中にはあふれていた設定ではないかと思う。それをしたたかに取り入れたのか、無意識に取り入れたのか、こうしてさらにひと時代後の映像化に接すると感慨にふけってしまうんである。
寺子がいつもいつも眠りに落ちていて、現実よりも夢の中にいるように、いやそれよりもはるかに、眠りの中に居続けている彼の奥さんが、それこそさらし木綿のような少女の姿で、恋に苦悩する寺子の前に現れ、自分の足で立って、働きなさいというシーンは、不倫を純愛に書き換えることが出来るだけの若さを持った作家でしか、書けないものだったかもしれないと思う。
あるいは、男性作家ならばそんな夢も描けたかもしれないけれど、これを若い、才能ある女性作家のよしもとばななが描いたからこそ、成立したんじゃないかと考えると、また最初に戻るけれど、今でもばなな氏は、この優しい奥さんの存在を信じて、描けるんだろうかと思ってしまうのだ。いやでも、だからこその、価値ある作品なんだとは思う。思うけれども。
この監督さんは私は初見。写真家さんで、本作は撮影も担っているんだという。アーティスティックな色味や画角になるほどと思わせ、時にピントを甘くしたブレブレのカメラワークに、ちょ、ちょっとナルシストかも……(汗)と思ったりもする。
情緒的な映像の美しさ、自信をもって挑む静謐さに才能を感じる、けど、私みたいなアホ観客は、ちょっとメリハリが欲しくなって、眠くなっちゃったかなあ(爆)。
★★★☆☆
とゆーのを、このシリーズが当たり役となった、ということは何となく知識として知っている大川橋蔵が、まあそれなりにわざとらしく(爆)解説してくれる。
しかも村を一望に見渡せる山の上に、あんな着物姿の母上をぜいぜい言わせて登らせて、である。
と若干、ツッコミたくなったりもする(爆)。量産されている昔の映画は、こーゆーツッコミどころがあるのが楽しいのさあ。
そうなんだ、あの女の子は幼馴染なのか。そんなこと言ってたかしらん。それこそ、こういう暮らしを始めることになる、十番、二十番のトコで描かれているのかもしれない。
幼馴染の女の子、ときたらそらー、色恋が始まるかと思ったら、この子とはぜえんぜん、そんなことにならない。そ、そんなことって(汗)。
いやそれこそ十番、二十番であったのかもしれない……なんか結局、こればかりを言い訳にしそうである……。
何気に観る作品や時代に偏りがあるので、大川橋蔵氏はほとんど観るチャンスがなかった。美剣士というのはこーゆーことを言うのであろうと思う。若干の恰幅の良さのほどよさが、またイイんである。
本作にはギラギラとした男が幾人も出てくる。一人は新吾と剣を交わして名を上げようとしている成り上がりを夢見る男。演じる内田良平(そうか!なんかよく見るインパクトあるお顔だけど、初めて名前と顔が一致した(爆))は、まさにそんな野望を隠そうともしない、全身汗臭さがみなぎるよう。
途中登場する三十三間堂矢通し(これ、なんかの映画で観たなあ……なんだっけ)に、父の負けを取り返すために出場する青年、松方弘樹は、当時売り出し中バリバリって感じの若さで、なんか彼のために作られた役のようなとってつけ感がなくもないけど(爆)、それ位、若さ、青さでまぶしいほど。
二人とも、つまりは現実の生々しい男、なんだけど、大川橋蔵氏は、いい意味で、いや時代劇という世界の中に生きる、非現実的な美しさがあるんだよなあ……。
この二人がびっしりと引き締まった、リアルに使える身体をしているのに対し、大川氏は、まあすっかりと衣装に身が隠されているから単純には言えないんだけど、ややふっくらとした頬から顎のラインを見ると、引き締まった、というよりは恰幅の良さ、であり、でもそれこそが、和服の日本の美剣士には凄くしっくりと来るんだよなあ。
ガチな対戦ではなくて、殺陣としての立ち回りの美しさというか。かといって定型どおりにタイクツ流れではなくて、そこはさすが有名シリーズだから、カメラワークも駆使したスリリングがあるんだけど、やっぱりやっぱり美剣士のいい意味での非現実的な美しさよね、と思うのだ。色白だし、脂でテラテラ光ったりしてないし。
で、幼馴染の女の子とは全然なかったのに、二人もの美女から想いを寄せられる。モテキってヤツですかあ??いやきっと、今までのシリーズでもモテモテだったに違いない……いや知らないけど(爆)。
とにかくこの野望ムンムンの彦十郎に対決を挑まれ、無視すりゃいいのに剣となると立ち会わなきゃいけないってゆー性癖でもあるのか(いやいや)、育ての親の墓の前で立ち会うも(育ての親とのエピソードとか、本編で色々あったんだろーなー)、彼は負けてしまう。
いや、そのまま負けてたら死んでるってこと。墓標の柱が彦十郎の刀を受け、新吾は助かってしまった。忌々しげに、次の対決の日と場所を告げて去っていく彦十郎。「負けた……」呆然とつぶやく新吾。
で、よしゃあいいのに、その対決に向けて新吾は旅に出るんである。うーむ、ヒマか、おぬし。何で生計立ててるんだ……って、時代劇でそーゆーことを言ってはいけない。
まあとにかく、その途上、宿泊した宿でいざこざに巻き込まれる。宿の主人がかつて名うての盗賊の頭だったのが、孫娘可愛さに足抜けし、当座の資金として奪ったカネを、今もかつての部下たちが追っているのだ。
てゆーか、「先立つものはカネです。だからやむを得ず……」とか言ってたのに、「あの子がホレた男に抱かれるのを見届けたら、自首して金は返すつもりでした」と言い、その大量の小判はまんま埋めて隠しているってあたりは、ツッコミどころじゃないのだろーか。
”先立つもの”とゆーには、大金過ぎるし、まんま隠してるし(爆)。これじゃ追手をかけろと言っているようなもんだが……。
まあだから、ツッコミどころが楽しいんだってば(爆)。
この主人、かつての盗賊の頭、次兵衛を演じる三島雅夫氏、これまた名前と顔が一致していないが、”かつては悪人だったが、孫娘可愛さに今は足を洗った”という人相がピタリで、……そんなややこしい人相かよとも思うが、でもまさしくそうなんだから仕方ない(爆)。
なんたってこの孫娘こそが、客寄せであるのよ。藤純子なんだもん!それがね、もうぱっつんぱっつんに若くって、そして田舎娘、元気ハツラツ!って感じを押し出していて、小麦色に日焼けして、とにかくとにかく、私が今まで見たことのなかった藤純子なの!!
……最初に「緋牡丹博徒」を見ちゃってたからなあ……それ以降は、どんな彼女に遭遇してもそりゃあ驚くわな……。
彼女が語る、山の中に林立している羅漢様に伝わる神話というか伝説というか民話というか、は非常によくある話、というか、古今東西よくある……信じているなら振り返るなと言われたのに振り返ってしまった、というアレ。
信じなかったが故に石になってしまった無数の羅漢様、そのどれかの首が落ちて、その後初めて見た男の人と私は結婚するんだと、それはどーゆー流れでの確信なんだか訳判らんが(爆)、とにかくこの田舎娘のお夏坊は、そう固く信心してる訳。
次兵衛はかつての部下たちに見つかって闘いになり、お夏の行く末を新吾は頼まれるんだけれど、彦十郎との約束があるから四日待ってくれと言い、そらー観客側としては、その間にコトは起きるだろと当然思い(爆)、案の定そうなり(爆爆)。
しかしお夏は都合よく山に羅漢様を拝みに行っていて、都合良すぎるだろと思い(爆爆)。しかも羅漢様の首が落ちたのは、大規模な地滑りが起きたからだっていうのに、お夏は「羅漢様の首が落ちたの!!」とノンキすぎるし(爆爆)。ああ、愛しきツッコミどころ満載。
こうやって書いてみると、おやおや、この間にメッチャ重要なエピソードが含まれており……それはつまり、そのたった四日の間の出来事だったと考えると、情熱的すぎるっつーか、運命的過ぎるっつーか、出来過ぎっつーか(爆)。
ちょこっと先述した、三十三間堂矢通しに挑む家族の物語。それに負けて父親は自害し、まだまだ青さの残る息子、藤九郎が、仇をとるために挑戦する手筈。
なんかいきなりあらわれて、口だけでスパルタ修練する新吾にあっさり従って精神統一しちゃうこの藤九郎。うーむ、ここはツッコんではいけないところなのか??
みなぎる筋肉を汗にしたたらせながら弓をつがえる松方弘樹、そのお顔、唇のあたりの柔らかな頼りなさが何とも言えず青臭くて、新吾の事前指導があっても、これは負けるだろ……と思っちゃう。その通り、負けちゃう(爆)。
この催しって、そんなに名誉をかけたことなのか……彼は、自分が死ねばいいのだと、母上姉上が死ぬことはないのだと、やんちゃ坊主のようにやけになっている。
それを止める新吾。なんでこう、重要な場面に都合よく居合わせるんだろう(爆)。そして新吾はハッとして言う。「お母上は?」「一人で庵に」「お一人で!?」
次のカットになると炎に包まれる庵。藤九郎、もっとやけになっちゃうかと思いきや、なんかもうすっかり新吾に心酔したのか、飯田へと向かう途上では、姉と新吾の仲をからかったりしている。
……つまり、この数日、どころかたった2、3日の間で、まあこんな大きな出来事が揺さぶったということもあろーが、この男女二人はお互いにそうと認め合う心の通い合いを既になさってしまったんである。
しかーししかし、ここに件の彦十郎が。盗賊一味の騒動が彼もまた巻き込む形になる。つまり次兵衛の隠し金を新吾がお上に届けちまったから逆恨みされた訳。てめーらが頭を殺すっていう非道を犯したくせにっ。
剣の達人の新吾を倒せるのは彦十郎しかいない、ということで彼と道行きを共にし、クライマックスでは卑怯な飛び道具(この言葉が通用するのは、日本の時代劇だけだわねー)を駆使して観客をハラハラさせたりするんである。
で、まあちょっと脱線したが、たった数日の間に新吾と相思相愛になった藤九郎の姉、小貫よ。美人だけどいかにも薄幸そうな翳のある美しさ。
(少なくとも本作では)はつらつと小麦色の田舎娘を演じている藤純子と対照的で、「あなたをお慕い申しています!」とガックリと膝をつくなんていう、昨今の壁ドンより、いやこの場合は逆だが、と、とにかく、女子的M的ドキドキの場面があっても、あるがゆえに、ああこの人は幸せになれない、ハッピーエンドなんか待ってる筈がない、と思っちゃう、確信しちゃう。
新吾が躊躇する彼女を無理やり胸に抱きとめて「あなたを妻にする。母の元に連れていく」と言ったって、余計にダメなのよ。
それは勿論、その前段階に、小貫が彦十郎に操を奪われたってゆー、まあお決まりと言えども女としても、その女にホレちまった男にしても辛い辛いシークエンスが挟まっているからってのもあるんだけど……。
でもねでもね、もう血を分けた身内はたった一人の弟を、プライドをかけた闘いを仕掛けたのは弟の方だったとしても、無残に討ち取ってしまった男に、女までも奪われた小貫は確かに哀れで、だからこそ新吾が燃えたつのも判るんだけど……。
これが困ったことにさ、彦十郎の、小貫への恋心についつい、キュンとしてしまうおきて破りなのよ。うーうーうー、レイプするなんて絶対ありえないし!許せないし!……でもそれは彼女の言葉だけで語られるってあたりが、ズルいんだよー!!
小貫が思いがけず想い人に再会したのに、彦十郎を「私の夫を殺さないで!」と叫んだ時、それまでのなんかさ、彦十郎、演じる内田良平氏に、その愚かなほどの猪突猛進に、女心とゆーか、母性とゆーか、なんかなんか……そんな気持ちというか、彼にそんな魅力があったからさ、小貫がそういう心持になったのかしらんと思ったのさ。
でもそれだと、もっともっと複雑な心理劇になっちゃう、本作タイプの世界観ではやっぱ、ないかあ。
でもね、ラストにも、あの救いようのないラストにも、新吾の哀しさ切なさよりも、やっぱりやっぱり彦十郎の方のそれを感じちゃうんだもの。それって、間違ってる?のかなあ……やっぱり……。
愛する女の操を汚され、怒りが聖戦を産む。他人のためではなく、自分のために。愛する女をこの手にするために。
新吾はちゃんと勝つのよ。かなりなタメがあったけれど(まあ、この時代の時代劇だからねっ)勝つのに、崩れゆく彦十郎に「弟の仇!」と脇差を構えて突進する小貫は、彼に斬られてしまうのよ。
だってだって、彦十郎は、この闘いは、愛する女を巡る闘いであって、新吾と彦十郎の彼女への想いのどっちが勝っていたかなんて、誰にも判らない、判らない!!
愛する女をヒーローにとられるぐらいならと、もう虫の息なのに返り討ちにした彦十郎の気持ちこそが、女心としてはあまりに胸に迫ってしまう。
たとえたとえ、小貫が無論、新吾を愛してて、彼の胸の中で息絶えることが幸せだと思った、そんな余韻を充分に感じさせるとしてもよ!!
この小貫、高千穂ひづる。つい最近、初めてお名前を……誰だっけ……あーっ!!まさにこの同じ神保町シアターで観た「からたち日記」の主演!そうか、そうかそうか、すんごいあの作品でインパクトがあった!それほど間を置かずしての再会になんか感動!!とても素敵な女優さんなんだね、改めて!!
うーむ、どうもヤハリ、女子的視点でモノを言ってしまうな(爆)。
本作のお笑いどころ、コメディリリーフの、盗賊一味の下っ端、見かけた誰もから「頭にハゲのある、バカみたいな男」と言われる田中邦衛がインパクト大!
全然物語に影響を与える役どころじゃないけど(爆)。”バカみたいな男”でも、100%田中邦衛で、なんかそれが、スゲーッて思っちゃう!★★★☆☆
ちょっと前に「ズタボロ」を見てしまったのが悪かった?のかもしれない。あれもまた、のんきな女の私には判りかねる世界だったが、容赦ないケンカ暴力リンチ描写に心底打ちのめされ、それが一つの世界観に確かになっている凄さがあった。
本作もそうしたバイオレンスはひとつのファクターになっているに違いなのだが、アレを見てしまうとどうにもマンガチックに見えてしまうんだよね。スターさんたちお歴々だし、ここでスタント使って、カット割って、血のり塗って、特殊メイクで目を腫れさせて、ビール瓶はちょっと触っただけで割れる例のツクリモノ、とか考えちゃう。
うぅむ、どうもいけないな。本作の中の彼らだって充分魂を込めて役を演じているとは思うんだけど、「ズタボロ」を見てしまってはなかなか……。
いや違う、それはきっと、言い訳。「ズタボロ」がまだ青春の範囲内で収まっていたのに対して、本作はもう思いっきり、大人の人生の中に踏み出しているから、だから、ついていけない訳で。
こういう世界で生きている人がいることは判っていても、じゃあそれをこちら側(こちら側?)に納得させられるかどうかっていうのは、本当に難しい問題だと思う。
新宿歌舞伎町という、実に限られたエリアでのお話。そこでスカウトマンの男たちはしのぎを削り、テッペンを目指す。男たちにスカウトされた女たちは、幸せになる。幸せになる?……一応そういうことになっている。
男側の抗争的なヤツは、まあこれは男の本能や憧れに根差した世界、映画の生まれた最初から、いやもう、言ってしまえば、人類が生まれた最初から、男たちは陣地を争い、女を売り物にして、勢力を広げることをやめられない生物なのだ。アメリカでは西部劇、日本では任侠、判り易い例。昨今の日本でそれが成立しなかったのは、まあ、草食化が進んだという訳で、その観点から見ると、それは退化ではなく、進化なのかもしれんと、フェミニズム野郎の私なんかは思うんである。
本作は、現代でもそれが成立しますよと、つまりヤクザ映画が今やファンタジーになってしまった現代に歌舞伎町というリアルをぶつけてきたんだろうけれど、歌舞伎町、という限定が逆に、小さな世界にとらわれてる男たちの小ささをあぶり出し、その男たちに売り飛ばされる女たちに共感も出来ず、うーん、なんだろうなあ、と思ってしまう。
だからね、きっと、大きな物語である原作では違うんだろうけどね!!(小心者(爆))。
歌舞伎町という世界でも有数の歓楽街、それも独特の世界観を持つ場所が舞台であることが本作のキモであることは判っていても、面積的には小さくても、無限のワールドがある、ということだとは判っていても、この小さな世界の中で抗争を繰り広げ、女たちを男相手の商売に売り込む、この場所に呪いのように閉じ込められて出ていけない彼らがアワレにしか見えなかったら、もうついていけないのは必至(爆)。
そんでね、本作の必須の条件、スカウトされて時にフーゾクも含める男相手の店で働くことになる女の子たちが、「必ず幸せになる」ということ……。綾野剛扮するピュアな主人公、龍彦は、当初はヘルスに売り飛ばされる女の子の姿にショックを受けるけれども、それを逆にモチベーションにする。
「俺がスカウトした女の子には必ず幸せだって言わせる」龍彦をスカウトマンとして“スカウト”した真虎(これでマコと読む……キザな名前だ)にそう宣言し、それこそが真虎が龍彦を買う理由となるし、最後までそのことにこだわるんだけれども、歌舞伎町でスカウトされて、キャバクラやヘルスやフーゾクに売り飛ばされる(言い方は悪いけど、結局はマージンを取る訳だから、そういうことじゃない?)彼女たちが“幸せになる”という定義が、のんきな田舎女の私には、どーにも判らないんである。
この歌舞伎町という街での“幸せ”の定義は、お金を稼いで、ピラピラの服を着て高いバッグを買って、それでしかない、いやこの世界の中では、それがメッチャ価値あることで、でもやっぱり、それでしかないと、のんきな田舎女は思っちゃうのだ……。
スカウトマンになりたての龍彦が、どういう風に女の子に幸せをもたらせようとしたのか、努力が報酬という形で報われて、経営者や仲間の気がいい。そんなの、フツーの会社でそういうところに勤めた方がいいんじゃないの(爆)とちらとでも思わせてしまったら、オワリだよ。
当たり前だけど、この歌舞伎町に潰されて、自殺してしまう女の子なんてのも出てくる。田舎から出てきた、リストカット跡のある女の子。この条件自体でかなりズルいと思う。
つまり、龍彦は充分気にかけていたと、彼のせいじゃないと。そんな訳ない。ここをクリア出来なければ、「自分がスカウトした女の子には幸せだって言わせる」なんて宣言できねぇだろ。
その後真虎さんに言われて歌舞伎町の中を歩いてみると、龍彦がスカウトした女の子たちは皆落ち込んでる彼を心配して声をかけ、楽しそうに笑いさざめき、ありがとう、私幸せだよ!と言うのだ。
いやいやいやいや!!そんな甘いか!しかも龍彦は「ちくしょう、皆大好きだ!!」と男泣きにむせび泣く。いやいやいやいや、甘すぎるだろ!女をナメすぎだよ。
いや知らない、歌舞伎町でスカウトされて働く女の子たちのことが判る訳ないさ。でも……やっぱりこれは、男の夢、妄想と思っちゃう。
龍彦が最初にショックを受けた、フーゾクに斡旋される女の子たちがどう思ってるかという部分をクリアしてないという甘さが大きいし、歌舞伎町で勤めて幸せになる、ってなんなの、と思う。私、幸せだよ、とまで言わせる甘さが、理解できない。幸せって、そんなに簡単なの、判らないよ。
龍彦を演じる綾野剛君は、かなりバカそうなピュア男子を熱演しているが、それなりにイメージがついてしまっているスター役者なだけに、これをホントにブサイク系のピュア男子イメージ役者さんが演じていたら、こんな色んなツッコミどころもサービスでスルーする気になったかもなあ、と思う。
綾野君はいわゆるイケメンフェイスではないタイプのイイ男だから、こういうバカっぽい役だってなんなくこなす……いや、魂を込めて演じてハマるのだけれど、ついつい、ああ、新境地開拓、ってヤツ??とかイジワルなことを思ってしまうんである(爆爆)。
そういう意味では、山田孝之氏はさすがの迫力で、こういう、いかにもワルな役はピタリとハマるし、逆に彼が龍彦を演じたらどうなっただろうという興味もわいてしまう。
山田氏にはある程度、彼ならハマるに違いないキャラクターを振ったという感じがある。それは真虎役の伊勢谷友介氏にしても同様である。
真虎もねー、いかにも伊勢谷氏!って感じだよね。彼はもともとカリスマ性があるし、ナルシス性もあるし(爆)、独特のエロキューションが凄くフィクショナルで、リアルな現代の人間ドラマにはあまり向かない(爆)。めっちゃお顔も整っている、つまりはコミックスのキャラにぴたりとはまるお人で、ここまでくると、納得出来るんだよなあ。
山田氏もそういう部分はあると思う。最初にお見かけした時から、さわやかイケメンが全盛の中でなぜ彼がスターダムにのしあがったのか理解しかねる凶悪さ(爆)。それだけにオチがあまりに残念だったが……。
なんかいろいろ重要なトコをすっ飛ばしてオチに言及するのもアレだが、言及しちゃったから言っちゃう(爆)。
綾野君演じる龍彦と山田氏演じる秀吉は、実は中学の同級生。秀吉だけがそのことにいち早く気づいていた。
歌舞伎町で対立する二大勢力、ハーレムとバーストのそれぞれのスカウトマンだった二人。抗争は思惑アリアリの合併という形で収束するんだけど、思惑アリアリだからさ。
その中でも秀吉が一番のガン、龍彦が属していたバーストでは絶対の御法度だったクスリを売りさばいていて、自分がトップを取ることを狙っているもんだから、内部抗争が勃発する訳。
で、その中で絡んでくるのがエリカ嬢扮するアゲハ。いかにも歌舞伎町の中にとらわれてしまった女。オトコがらみの借金から逃げ出していた彼女をまず秀吉が救い出した、というか、はした金で拾った。借金を肩代わりするからという優しい言葉で働き詰めにさせ、クスリ漬けにまでさせた。
偶然居合わせた龍彦が救い出す。クスリのことは後から知る。愕然となる。……ああ、なんて甘いんだろう。ズルいよ。
龍彦のことをエリカ嬢演じるアゲハは王子様だという。お、王子様(汗)。彼女が大事に持っている絵本の王子様に似ているからと。
この絵本というのがまたクセモノで、見た目はありがちな絵本だし、苦境から王子様が救い出す、という場面にアゲハが龍彦を重ね会わすのも判るんだけど、その後アゲハは結局地獄に舞い戻る。だって龍彦はアゲハの地獄を判ってなかったんだもん。
で、同時に語られる絵本も、絵本とは思えない展開と結末を迎える。王子様と同衾している絵だけでおいおいおい、と思ったが、全てがまぼろしで、茫然とした彼女が悄然と池に身を沈める、という、ホントに絵本の画でしめすのにはボーゼンとした。
こ、これは映画としてのリアルを目指しているの??でもその前までは全然だったじゃん!!
こーゆー、おいおいなギャップは大オチに至って大爆発する。クスリを売りさばいていた秀吉と一対一で対峙する龍彦。正直、あんなにも「女の子たちに幸せだと言わせる」ことにこだわっていた龍彦が、世話になった真虎さんや社長にナイショで秀吉の行方を黙ったり逃がしたりするのが、オンナとしては訳判らん(爆爆)。
いや、それが男がこだわる、幼い頃の友情というヤツなのか。時に恋人や奥さんよりも優先するばかばかしい友情なんだったら、地獄に落としてしまえ!!(ハイ、すいません(爆))。
まあなんだかんだ言って、割とのほほんとここまで観ていたんだけどさ、あれだけバチバチに対立していた龍彦と秀吉、ことに秀吉側は、青春期のトラウマも相まって深いウラミがあった筈なのに、オバカな龍彦から純粋な対応されると、あっさり陥落しちゃうんだもんなあ。
龍彦側だって、自分を刺そうとした秀吉からかばって友人が刺され、半身不随になってしまったという出来事で、おいそれと秀吉を受け入れることは出来ないはずなのに……。結
構なアクションシーンでビックリさせたにしても、「今日からダチだ!」で秀吉が男泣きする、って、それはないだろ!!あれだけ凶悪、非人情な凶悪山田孝之見せといて、それはないだろ!!だってすんごく長い間恨んでたんじゃなかったんかよ!!子供のウラミ心をナメんじゃねーよ!!
んでもって、クスリとかそーゆー疑惑を負っていた秀吉を逃がした龍彦だが、それを真虎が咎める。逆に危ないぞと。別に俺はどうでもいいけどな、と。
真虎の言葉は、龍彦や、あれだけ非情だった秀吉が持っていた、まったくくだらない、何の役にもたたない、男気とかプライドとか野心とかいうものを持っていて、それはことごとく、本作の中で崩されていくのだ。
ああ、そう思えば、それだけが、リアルに感じられることだったなあ。この狭い世界、めっちゃネームバリューがあるけれどそれだけに狭い歌舞伎町という世界の中だからこそ、狭くて、哀しかった。
最初はスカウトされた立場なのかもしれないが、それをみるみる利用したんであろう、歌舞伎町で君臨するママ役の山田優は貫禄たっぷりだが、どこかで見たヤクザ映画の、という気がしないでもない。
そういう雰囲気は本作の中のここかしこで感じられるんだよね。それが一番イヤなのは、女が男を理解しているとか、支えているとか、で、基本的には守られる立場とか、本気でイヤなの!!あー古いと思っちゃう。
園子温監督は波があるとかないとかいうことも言えないほどムチャクチャだけど(爆)、本作に関しては、商業映画のとらわれたツマラナさを感じたなあ(爆爆)。勝手な言いぐさだけど!!
個人的には、またしてものイイ役のヤスケンに狂喜♪上手いこと言いくるめられて、敵方の傘下に入れられちゃうスカウト会社の社長さん役。
見た目はコワモテだが、実は借金まみれで弱みを握られてアタフタ。う、上手い!
ちょっと昨今の役がカブってる気もしなくもないが、個性的作家、ヒット作品にそれぞれイイ感じで登用されるのが本当に嬉しい。ほんっとに今年、なんか賞に引っかかってくれる感じがするんだけど!!★★★☆☆
そう、そんなことを気にしていたら進めないから、気にせず進む(気にしてるくせにっ)。
今回が長編デビュー作という監督さんは、だからこそ当然初見。原作モノではあるが繊細なローティーンの描写が、男の子も女の子も丁寧で、そして同時にはっちゃけていて、案外こういう感じって得られないものなんだよなあ、と思う。つまりは、かなり好みの感じ。
主人公の男の子、犬田役の清水尚弥君も初見かと思いきや、おおっとぉ、「ねこにみかん」で見ている!そう言われれば、その重たげなふたえまぶたはそうだそうだと思うものの、思いっきり短髪だったかの作品と本作のうっとうしげな長髪でまるっきり印象が違うので、気づかなかった……のは、言い訳。いつだって私は気づかない(爆)。
だって思い返してみれば、センシティブな男の子、という感じは確かにそのままに残しているんだもんなあ。
なで肩が痛々しいような、カッターシャツとちょっと寸詰まりのスラックスがきちんとしすぎてて、これまた痛々しいような。なのにそのうっとうしげな長髪だけが何かに反抗しているようで、いや、彼自身の心を隠しているようで。
じきに示されることだけれど、彼は父子家庭、なんだよね?いつもいつも酔っぱらって暴力をふるってくる父親だけが、彼の家の中での描写。それだけでも逃げ場がないのに、学校でも男子にも女子にもイジめられている。
いや……女子の強美に関しては、彼女は犬田君のことが好きだから、もうたまらなく好きだから、イジめちゃう。小学生男子かよと思うが、彼女にとってはSM的愛情表現なのかもしれない。
強美もまた、母親にとっての理想的な娘を演じている節があり、それをピアノの練習シーン一発で示しているのが、巧みだと思う。
一般家庭でグランドピアノ、ショパンのノクターンに「お母さん、この曲大好き」とティーポットを手にうっとりしている母親、という、娘が親の価値観に縛り付けられているのを凝縮されている上手さ!
おっとおっと、犬田君の話だったのに、つい女子に行っちゃう(爆)。んで、犬田君は男子にもイジメられている……とついつい書いたが、実際に男子にイジメられているのは、数宮君の方である。
ふとっちょで天パでメガネでしかも弱気、という判り易いイジメられっこキャラの彼は、積極的にイジメられている訳じゃないけれども、やはり教室内で孤立している犬田君に自ら近づく。おずおずとだけれども。そして仲良くなる。
それには、妙な酔っぱらいセクシー女が介在する。彼女はなぜか彼らにボクシングを伝授する。彼女を触媒とするかのごとく、彼らはますます仲良くなる。そしてついに、いじめっ子、てゆーか、もはやアレはヤンキーだよな……たちに立ち向かうんである。
おっとおっと、大事なことを色々すっ飛ばして進めてしまった(爆)。そう、犬田君の話だよ、犬田君の。
このタイトルは当然、犬田君を示しているのであろう。先述したように、その重たげなふたえの瞳が印象的な清水君は、自分をイジメる同級生や親を、自作キャラの正義?のヒーロー(正義じゃないわな……胸に”死”って書いてるんだから)にボコボコにさせ、目つぶしとかでブシャー!て血を噴出させ、そうやって、妄想の中で自分を解放させているんである。
この部分を少年の闇、と言ってしまえばカンタンだけど、でも実際、これは有効な手段というか、方法だとも思う……。自分自身の力では逃げ出せない弱く幼い存在にとって、妄想での解放は、自由を獲得する唯一の場所なのだもの。
もしそれさえも奪われてしまったら、犬田君は本当に、”死んだ目をした少年”になってしまっていたと思う。そう、彼の目は光を取り戻す。あのセクシー酔っぱらい女からボクシングを習うことによって。
この酔っぱらい女、「遅刻しない距離とおっぱいのデカさだけで採用した」と店長からハッキリ言われるデリヘル嬢、嬢というにはちょっとトウが経っている感じも、”だけで”と言われるゆえんなのかもしれない……を演じる高樹マリア嬢がステキである。店長にイヤミ言われながらフルスロットルでおっぱいもみもみされて仏頂面、ってシーンとか好きである。
その割にはペロリと見せてくれないウラミはあるが、この中学生二人を胸の谷間だけで釘付けにさせるという、つまりは、本作の最もキモの部分、つーか、私がキモに感じた部分、可愛らしい青春映画、というトコこそが重要なんだから、いかにお仕事の場面でも乳首ペロリと出してしまっては、それは違うのかもしれない、と思い直す。
私にしてはなかなかに優しい意見(爆)。でも、やっぱり重要なのはこの、現代の少年にしては純情すぎる二人なんだもん。この二人にとって、昼間から酔っぱらって、キャミソール一枚で、裸足にビーサンつっかけて、ボクシング教えてくれる大人の女、は、それ以上の露出は避けたい。
てゆーか、もうこれだけで充分強烈。腹筋教えてくれる時、パンツも丸見えさせてくれるし(爆)。てか、この二人、腕立ても腹筋も、3、4回しか出来ない、ってヨワすぎ!いや私はもっと出来ないけど(爆爆)。
現代の少年にしては、などと言っちゃったけど、それは世間的に煽られるニュースの見すぎで、確かにこんな少年少女たちが、きっとまだまだいるのだと、そう思わせてくれるし、思いたい。
舞台がイイ感じに田舎なのがイイ訳。田んぼがあり、その合間に唐突に墓地があり、だだっ広い公園がある。それこそ笛子は田んぼの中を突っ走ってデリヘルの事務所に駆け込むんである。
強美が「うんざりした顔しろよ!」と犬田君の首を締め上げて撮った写メをわざわざプリントする、いかにもさびれた、雑貨屋に毛が生えたような写真店から、その写真を大事に胸に当てて出てくるのもシビれるんである。
何よりこの、男子も女子もカッターシャツに黒スラックスか黒プリーツという、思いっきり保守的なスタンダード夏制服が愛しすぎる。女子は紺のハイソがなんとか現代風をまとってはいるけれど、ベストも胸元のリボンもタイもないのが、無防備で、なんか愛しすぎる。
そしてイキがってるヤツか、ふとっちょの子や、なんかが、シャツをインせず、オーバーしてるのが、これまた胸かきむしられるんである。
イキがってるヤツってのは、数宮君をイジめてる魔裟死(マサシ)。その名前からしてもう誰をイメージしているのかは判るし、彼自身も格闘技好きという設定である。しかしそんなことを言ったら、あのお方に失礼だけれども……だって彼は正義の人でしょう、と思うからさ!
しかししかし、この魔裟死の、いかにもヤンキーフェイスにはかなりの衝撃である。黄色い髪とオーバーシャツだけでは、こんなイカツくはならないでしょう!おでこと顎が突き出している感じ、いやそれだけではない……もう、ザ・ヤンキーなの!!
でも後に強美に喝破されるように、ただ強がっているだけで本当のケンカもしたこともない、それどころか強美に対する恋心は初恋かもしれない(照)。だって彼女に責め立てられるだけで、勃起してるんだもん。これって完璧なSMカップルじゃん(笑)。
でも、強美は犬田君が好きなの……。彼女はSキャラだけど、そのことによって犬田君にイジメっことしてしか認識されていないとすれば、それでキュンキュンしているんだとしたら、逆にMキャラかもしれない。女の子って、複雑で素敵!!
だってさ、彼女の妄想、最高なんだもの。母親を怒鳴って蹴散らした後、ピアノの椅子に座った彼女は、その股に犬田君の顔を挟んでいる、という妄想に恍惚とする。彼の顔を、髪を優しげに撫でさする。
うわぁ……何を、ナニをしてる訳じゃないけど(爆)、凄くエロティック!春に目覚めた女の子の妄想として、純粋とエロが見事にミクスチャーされて、最高!
で、恐らくああ見えて童貞に違いない魔裟死君にしたってそうなんである。彼が従えている子分の一人が数宮君に柔道の授業で負けて以来、それでなくても保身のために自分を殺して魔裟死君に従ってきた彼は、つまりは普通の男の子、もっと言ってしまえば、魔裟死君にいい点数のテスト用紙なんて絶対見せらんない、結構優秀な男の子な訳で、自分自身の道筋に悩みまくる訳なんである。
ああ、ああ、ひも解いてみれば、魔裟死君も、その子分たちも、みんなみんな、イキがる必要もないカワイイ男の子たちなのに!!
それに比べれば、女の子たちはやはり、もうちょっとシンラツだったかもしれない。やはり女の子の方が、いい意味でも悪い意味でも、大人になるのが早い。
強美を取り巻く二人の女子、いや取り巻いているのは、”イケてる女子”を標榜しているさやかだけであろうと思われる。
もう一人のふとっちょ女子、このさやかからブタ呼ばわりされる琢美。さやかは、カワイイ女子の雰囲気を壊さずに、友情の雰囲気も壊さずにブタ呼ばわりしている、と本人は思っているのかもしれんが、当然、10000%の優越感、宇宙のかなたから見下しているのだ。
この琢美が、笑顔でさやかとトモダチしながら、心中でクサしまくっているのが痛快で、これが後々、爆発するだろうか、いや、冷静な彼女だからそのまま収めて終わるだろうかとハラハラ、ワクワクしながら見ているんである。
実際は、冷静ながらさやかの薄っぺらさを喝破して、見事してやったりな訳なのだが、さやかがうえーんうえーんと、ウソ泣き丸出しで、それを特に冷ややかに受け取られないまま終わってしまうのは、優しすぎる気もする……と思ってしまう、イケてない女子経験ハンパない側の意見(爆)。
更に言えば、強美のキャラというか、存在も、琢美から見ればちょっとズルい気がしないでもない。強美はどちらにもくみしない、仲良さげに近づいてくる二人にも常にクールに接していて、一匹狼と言っていい。
それだけ孤独を覚悟しているとも言えるんだけれど、でも誰かと友達になる、誰かを信頼するという決断というか、勇気というか、それは放棄している、とも言えるんだもの……。
琢美は多分ね、それを決断したが故に、ぶりっこさやかを、充分な間合いとタメを作ってぶっ飛ばした訳でしょ。
でもそれに対して強美はさらりと受け流す。彼女にとって、犬田君への恋心に勝るものはなかった訳だ……。そう思うと、強美って、ああ見えて、いやそれどおりかもしれない、凄い乙女、なんだよなあ。
数宮君が、いったん犬田君と離れるのがイイ感じのリアリティがある。柔道の授業でいじめっこ子分に勝って、それ以降もイジめられながらも確かな手ごたえを感じた数宮君は、あのセクシー大人女子に対抗できない気持ちも手伝ってか、「自分は寝技とかの方が得意だと思う」とボクシングから戦線離脱するんである。……笛子の教えているのだって、ボクシングじゃなく、エクササイズビデオに過ぎないのにさ(爆)。
強美に恋する魔裟死から、本当に強いのはどちらか勝負つける!とタイマンを申し込まれて、妙なオーラを放っていた数宮君があっさり負けてしまうのは、あれはうずくまったんじゃなくて、受け身をとったの?それとも負け癖??ちょっと判りづらかった、かなあ……。
あんなヘタレトレーニングにしか見えなかった犬田君が、その通り、ヘタレそのもののワンツーで魔裟死ばったり倒れちゃう、のは、犬田君を褒めていいのか、それともここは魔裟死の弱さを笑うべきなのか、なかなか微妙なトコで、でもそーゆートコが、本作の魅力なんだよね。
だってさ、この勝利を二人は満面の笑みで笛子に報告しに行く訳よ。ケンカを申し込まれたから、いつものトレーニングの時間を大幅に過ぎてる。
笛子は二人に差し入れる100円ケーキを、イライラして自分で全部食べちゃう。アイツに勝ちましたよ!とニコニコで現れる二人を迎えて、「食べちゃったから、また買ってくる!」と大股で遠ざかってゆく。
なんかすごおく可愛くてさ、あんなヤサグレ系未来のない女って感じだったのに。考えてみれば、本作の中で100%自分に正直だったのが、笛子だったんだもの。
だからこそ、ローティーンの、柔らかな少年少女の心に、ぐっさりぐりぐり刺さるのだよなあ。
少女にも?そう、少女にもよ。あの強美が、直接会話をしてなくても、このヤサグレ女が自分にはかなわない相手だってのは、女の本能で判るのよ。
あれだけクールな強美が、犬田君の好きな女子の髪型がツインテールだと聞いて、あんなにツインテールに嫌悪を示していたのに、きっちりツインテールにして、公園を覗くあのシーン、ヤサグレ女がヤサグレ全開で男子二人にボクシングを仕込んでいる。もうそれだけで強美、打ちのめされちゃう。
上手いんだよね、アイテムをはっきり示して、エピソードをはっきり対抗させて、どっちが勝ったか、どっちが打ちのめされたか。
どんなに強そうに見えてもまだまだローティーンの女子だってことを、どんなにヤサグレてて、社会的には負け犬かもしれない女でも、経験という名の武器があることを、一見して、つまんない説明なしに、ズドンと示しちゃう。
後から改めて、よーく考えれば、それぞれの家庭環境やらなにやら、凄くシビアだし、可愛らしい青春映画、だなどと言えないとは思う。でも一見してそうだと思わせることこそが、重要だった気がする。
だって、そんなシビアやシリアスを描くティーン映画なんてそれこそ腐るほどあるんだもの。希望を未来を、示すことって、実はとても難しいことだと思うから。本作はそれが、出来ていると思うから。★★★★☆
でも松岡監督と知ってしまったら、やはり観ない訳にはいかなかった。だって本当に、久しぶりだもの!え?7年ぶりの映画??そんなになる!!
本作に関しては、ドラマの時点から映画化への気持ちは持っていたという。こんなことを言うとドラマヘンケンと言われそうだけど、映画にしたい、映画の思いで作られたドラマの、その映画なのだという感触がして嬉しくなるんである。
だって、劇場版、という言葉がついていないのも嬉しかった。『映画「深夜食堂」』なのだ。ただ、一本の映画としての「深夜食堂」
そして久しぶりに観ると、やっぱり松岡監督だなあ、と嬉しくなるのだ。人が優しくって、しみじみ、ほのぼのと笑える柔らかなオフビートがあって、厳しい向きからは甘いと言われるのかもしれないけど、こんな風に優しい人間賛歌が観たいと思っちゃう。
とはいえ、さすがの松岡監督も、現代のドラマを描こうとすると、やっぱり避けられないの、かなあ、震災のことは……。正直、どこか義務のように入れ込まれる震災エピソードはいつだって身構えてしまうんだけれど……。
三つのオムニバスからなる最後のエピソードだから、順序が逆になってしまうけど、まあこの流れなので先になっちゃうのを許してね。
第三話目の「カレーライス」筒井道隆演じる津波で妻を亡くした男が、ボランティアの女性にホレちゃって、プロポーズの返事を聞きに上京してくるというエピソード。
でもこのエピソードは、その被災者の側の心の弱さ……彼女から指摘されるところの、「あなたのいるところはここじゃないでしょ」というところから、愛する妻を失った故に逃げ出してきてしまった、ボランティアの子にホレちゃったのも、その弱さゆえの部分が多分にあった、という視点が、やっぱりちょっと、今までの”義務的震災エピソード”とは違っていたように思う。
松岡監督自身の心優しさが充分に行き渡りながらも、結構シンラツなことを言っている、じゃない??
ボランティア女子は、自分がボランティアに行ったのは、不倫の恋が破れて、東京にいたくなかったから、イヤな女なのだと自己嫌悪に陥るんだけれど、これはまあ、ちょっとそれこそ、心優しすぎる見方かなあ、とも思う。
それは筒井道隆側の心情が……そりゃあ彼はもう素晴らしい役者さんだからさ、こーゆー、心優しいがゆえのダメ男を演じさせたら、もうもう、涙が出るほど上手いからさあ。
それだけぐっと迫るものを感じるから、東京のキャリアウーマン然としている彼女の方が、可愛くグレている感じで、太刀打ち出来ていなかったのかもしれない。
演じる菊池亜希子嬢の誠実なたたずまいはとても素敵なんだけれどね。なんたってここは一癖も二癖もある人たちが集うところだから……。
とはいえ、それぞれのエピソードの主役を張る人たちは、素直な女ばかりかもしれない……いや!違った!!もう一発目の女が一癖どころかザ・悪女であった!!てゆーか、こうして改めて思い出してみると、三話はそれぞれ、女子が主役を張っているんだね。
総合主演はこの深夜食堂「めしや」を営む、左目を上下にまたいで大きな傷がある、いかにもワケありな店主、小林薫な訳だが、この、迷える女性たちを見守る、狂言回し、というには大きすぎるけれど、でも、そうなんだよなあ。
エピソードごとには無論、準主役、サブキャラでも大きな存在の人がいるから、女性たちを見守る、と一口に言うのもアレなんだけど(第三話なんて、筒井道隆が主演だと言ってもいいぐらい、だしさ)、でもやっぱり女子を見守っている、のかもしれない。
第一話目のザ・悪女は高岡早紀。案外、こーゆー役を観客に存分に納得できる感じで演じられる女優って、少ないかもしれない、と思う。
もともと凄くいい女優さんで、しかもこーゆー役を、どこかセルフパロディ的に演じているのが、なんとも心憎いんだよね。だってその、過去のスキャンダル的なことを思い返したって、結局は彼女が勝ち残ったのは明白だもん(爆)。
お金持ちのお妾さんだった彼女は、「結局は口約束だったのよね」と遺産を残されなかったことにブンむくれで、流れで居合わせた若い会社員の男とくっついちゃう。
これが柄本時生という時点で、もはや当然の様に捨てられるオチは見えているようなモンだが、でも「変われば変わるもんだな」と純愛に突っ走る彼女を感心げに見ていた常連のオッチャンが、「やっぱり人間はそうそう変わらないモンだよな」というオチにつなげるのは、噴き出しながらも、やっぱりそう、なのかなあ……と、納得がいくようないかないような、フクザツな気分にさせられるんである。
ちなみにこのエピソードのタイトルは「ナポリタン」。彼女の郷愁をそそる、鉄板の上に薄焼き卵をしいて、真っ赤に色づいたナポリタンを乗せて出してくるという涙モノの一品。
私の田舎ではイタリアンって言ったの。特別な時のご馳走だったの、と嬉しそうに頬張る彼女は、そういう育ちなんだから決してセレブリティではないんだけど、でもだからこそか、カネに全ての価値を見出し、途中変わったかと思いきや、正式な遺言状が見つかってパトロンからの遺産を相続できることになると、この若いツバメをあっさりと捨て去ってしまう。
当然、常連の女子三羽ガラス(須藤理沙に気づかなかった!)からは当然、先のオッチャンからも白い目で見られる訳だが、その時ヨユーの笑みをたたえながらも案外とあっさりと退散した彼女が言った、「はじめちゃん(柄本時生ね)は私じゃダメなのよ。マスターは判ってたでしょ」という台詞が、表情はそのままの余裕の笑顔なんだけど、その一枚下にどうしようもなく寂しさを感じてしまって、ハッとしてしまった。
だって、この台詞は裏返しこそが真実。私ははじめちゃんじゃなければダメだったけれど、ということなんじゃないかって!!……オトメチックすぎる妄想かなあ。でも、そういうところこそが、松岡監督節なんだもの!!
第二話「とろろご飯」こそが、大メインであろうと思われるエピソードである。いやそれは、単に私が多部未華子ちゃんの可愛さにヤラれてしまったからだろーか。
彼女ってホント、不思議だよね。判り易い美少女、という顔立ちでは決してない(ゴメン!)不思議な風合いなのに、なんだか、とっても、たまらなく、愛しい可愛さなんだもん!!
それはでも、本作のオチをしっかりとシメてくれる田中裕子しかり、松岡監督自身がそういう風合いを持っている監督さん、だからなのかもしれない。
多部未華子ちゃん扮するみちるの登場はなかなかにスリリング。ネカフェでフリードリンクをこれでもかとガブ飲み。ウェットティッシュで首筋とか念入りに拭いている、大きなくたびれたナップサックからもう、ワケアリ感プンプンである。
で、深夜食堂に迷い込んだ彼女は、いや、計画的だったに違いない。マスターの作ってくれる美味しい食事を次々と平らげて、次の瞬間、姿を消してしまう。最初にオーダーしたとろろご飯が、炭火で炊き上げるから時間がかかる、その隙にするりといなくなってしまう。
食い逃げ、しかもマスターの手の調子が悪いのを利用したのよ、と常連たちは怒り心頭。そう、マスターは手首の調子を気にしてて、手に力が入らなくて皿を割ったり往生している。
正直、この描写には、何か悪い病気、腫瘍とかでシリアスな展開になったらどうしよう……とハラハラするが、後に、常連さんである整体師に「軸が曲がってますよ」と言われ、診てもらったらあっさりと良くなるもんだから、思わずガクリとくるが、でもそれも、決して深刻になり過ぎない、優しい優しい松岡節なのだと思う。
みちるちゃんはね、後に謝りに来るのよ。お金がなくて、返せないから、働かせてください、と言う。
見るからにマスター一人で充分な小さな店だけど、この手の調子もあって、そして何よりみちるちゃんが見事な料理の腕前を持っていることを知って、何より何より、かなりワケアリそうなことを見てとって、マスターは彼女を住み込みで雇うんである。
みちるちゃんが、包丁を手に取ってマスターに向け、「えぇ?」とマスター=小林薫が怖気づく場面が、そのすぐ後に彼女が見事に包丁三本をとぎ上げるシーンも相まって何とも可愛らしくほっこりしてしまうんである。
多部未華子ちゃんは、すっと姿勢がよくって、そのお顔のほんわり感とその姿勢のギャップがまた何ともいいの。
突然お国訛りが出るのがなんとも可愛くてさ!常連さんたちも、最初は食い逃げ女、と警戒していたのが、このお国訛りで一気に和んじゃう。
この「めしや」に定期的にぬか床を届けに来る有名料亭の女将、余さんもメッチャ可愛い。
彼女の登場で、あ、みちるちゃんは最終的には彼女にスカウトされて落ち着くんだな、と読めてしまう部分はあれど、みちるちゃんがはっと気づいたように「マスターに恋しているんですね」と言うと、肯定も否定もせず、でも少女のようにテレ気味にうふふと笑うのが、メッチャ、メッチャ、可愛いの!!
みちるちゃんは確かにワケありで、彼女を探しに来た、これまたいかにもワケありな男の登場でその全貌が明らかになる。
故郷の新潟で彼女の料理の腕を認めた……までは良かったが、ソイツの言葉におだてられて店を出そうと、彼女がこつこつと貯めた金をかっさらってトンズラしたというサイテーの男。
この男がマイラブ、渋川清彦っ。確かに彼はワケありダメ男が似合うが、でも私にとっては、てゆーか絶対にそもそもの彼は、もういい人オーラが全開で、だから大好きで、まさにそれは、松岡錠司監督、そしてその作品そのものの魅力、なんだよね!
本作は松岡組とも言うべき、過去彼の作品に出たスターたちがこれでもかと総出演していて、オダジョーなんてその最たるもんで、彼の演じる”街角のおまわりさん”はいかにも松岡作品的あったかいフィクショナルでさ。
それは彼が松岡組で演じた「東京タワー」の重さとは全然違ってて、このオダジョーの松岡監督風味でがっつり組んだのを見たい!と思わせたりして……。
おっとっと、言おうと思ったことから、オダジョーにつられて脱線しまくり(爆)。
だから、なんだっけ。ええと、そうそう、松岡組ではない役者さんたちの、そのピックアップがいちいち好みなもんだから、嬉しくなるのさ。多部未華子ちゃんも、渋川清彦氏も、大好きすぎるんだもん!
そして、今まで出てなかったのが不思議なほどに、松岡風味なんだもの……でもそれは、7年も映画撮ってなかったからじゃないのっ。
うーむ、脱線しまくりで、どこまで行ったのか判らん(爆)。そうそう、オムニバスとはいえ、大メインであるみちるちゃん。
おまわりさんに恋しているラーメン屋の出前持ちの女の子(これまたメッチャ可愛い!!)と、ほぼ言葉を交わさないのに(てゆーか、この女の子が声を出さない(笑))、凄く仲良く、なんていうか、心から親密になっている雰囲気が、なんか泣けちゃう。
テキヤ(チンピラ?ヤクザまではいかなそうだが……)のお兄ちゃんたちから(松重豊と山中崇という、これまた大好きな二人!)風鈴を買い求めるシーンもたまらなく、好きなんだよなあ。
そもそもこのロケーション、セットだとはとても信じがたい、本当に新宿の路地裏にありそうな、記憶にある筈ないのに不思議に懐かしいような、ひなびたあったかさに、そこに現れる風鈴売りに、それを見つけて慌てて取って返し、財布を胸元に握りしめて呼び止めるみちるが、多部未華子ちゃんが、たまらなくその空気が、愛しいのだ。
ひとつひとつ、そっと音を鳴らして、耳を澄ませて、これください、とささやくように言う多部未華子ちゃん、その路地裏のほの暗さ、店の二階の小さな窓辺に釣るされた風鈴、ああなんで、こんなに胸が締め付けられるんだろう!!
でね、田中裕子がオチだって言ったでしょ。彼女は最初に話しちゃった第三話目のエピソードをつなぐ形で出てくる……いや、もう冒頭からその足跡は残しているんだから、いわば彼女が最も、本作を統括しているとも言えるのかもしれない。
店に置き残された骨壺。しばらくは店で預かっていたけれども、持ち主が現れないということで警察に預かってもらうことに。
しかしそうした”遺失物”が意外に、どころか想定外に多いことを知ることになる。骨壺のみならず、位牌とかも。
警察の倉庫にズラリと並んだ様は、恐らくフィクションではないだろうと思う。実際、墓や供養の金もなく、いやそれならまだいい、もっとドロドロなことで置き忘れる形で捨て去られた遺骨や位牌が、こうして拾得物としてひしめいているのだろう。
その骨壺の中に思いがけず砂が入っているのを知り、第三話の筒井道隆が、自分も妻の遺体が見つからずに、いつも二人で散歩していた砂浜の砂を入れた。からっぽのままに出来なかった。重さで納得したかった、と言う。
砂浜、ってことは、妻をさらっていった海の砂浜な訳で、軽さ、重さ、ということ以上にそれこそ重い重い、辛すぎるほどに重い。
彼が、この持ち主もきっと同じような思いで、と推測して皆がしんみりしたのと反して、いや反した訳じゃないのかもしれないが、田中裕子があの持ち前のやわらかオフビートのそこはかとない可笑しさで(あれ、でもやっぱりこれは、この感じは、松岡作品でしか見られないかもしれないな!)、あのダメな男の、たった一つの自慢でした、と、それが甲子園の砂であることを明かすシーンは、深く納得しながらも、ふとクスリと笑ってしまう気持ちなのだった。
しかしそれもまた、なかなかに難しいのだけれど……。そりゃ、甲子園の砂は、凄いよ。たった一つどころか、大いなる自慢だと思う。
でもそれが、津波にさらわれて亡くなった妻の、見つからない遺体の替わりに詰められた砂、というエピソードの流れで披露されるというのが、考えてみればこんなの、感情を逆なでするっていうか、危険な流れだよね、って思うのに、素直に笑っちゃうのだ。
これって、結構、いやかなり、凄いと思う!いい意味で、軽く終わらせるというか……重くなんてね、いくらだって出来るもの。
心の中の重荷を、軽く軽く、心の表面をなぞるように、軽いシリアスにしていけば、必要以上に落ちないんじゃないかと思うのだ……。
落ち切れば、そこから立ち直るだけだ、という言い方もあるけど、私みたいなヘタレには、そんな自信はないのだ。落ち切ったまま、這い上がれないかもしれないじゃない。
いい意味で、いい意味で、軽やかに受け止めていくこともアリなんじゃないかって……今までは怖くて、なかなか、言えなかった。
たまらなく、玉子焼きが食べたくなるよね!いまだにヘタクソだけど、頑張って練習して、あんな風に多部未華子ちゃんが作るような、美味しそうな、美味しい玉子焼きが食べたい、作れるようになって食べたいと思った。単純だけど、やっぱり美味しい食べ物と、それを一緒につつきあえる人間同士って、すごく大事。
料理モノ映画はやたらあって、ちょっと食傷気味だった感もあれど、本作はひと味違うと思う。深夜食堂、実は違う名前「めしや」そこで出される、ほとんどすべてが裏メニュー。
時間帯も、作られるキッカケも、全てがただ一人のためだけに、ひっそりと、愛をこめて作られる、滋味あふれる一品なんだもの。
そうそう、ハロウィンの夜の描写とか……田中裕子の「何かのお祭りなんですか?」というふんわりとしたおとぼけ質問も可笑しく、そうそう、オネエさま方とか、安藤玉恵嬢のストリッパーのキャラもきっぷがよくてとても素敵だったし、買い出しに行く八百屋さんとか、その道筋の急すぎる坂道とか……ああもう、言いきれない素敵なことばかりで、本当に愛すべき”一品”なの!!★★★★☆