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風ふたゝび
1952年 88分 日本 モノクロ
監督:豊田四郎 脚本:植草圭之助
撮影:会田吉男 音楽:清瀬保二
出演:原節子 池部良 山村聰 浜田百合子 三津田健 杉村春子 龍岡晋 南美江 御橋公 菅原通済 十朱久雄 村上冬樹
本作の彼女はバツイチで、叔父さんの経営する売店の売り子さんをしている香菜江。後に彼女の友人、陽子が宮下(池部良)に語るところで、「一度結婚した人って、男の人にたいへん魅力があるんでしょ」とあけすけに言うもんだから、あらあこんな半世紀以上も前からそーゆー感覚ってあったんだなと妙に感心する。
この時陽子は、あの方素敵でしょ、私と違ってお静かで、と言うのだが、先述した通り、原節子めっちゃキャピキャピである。中盤、ラジオ局に職を得てから更にお喋りになり、宮下を面食らわせるぐらいになるが、最初が静かだったわけじゃなく、結構最初からキャピキャピである。
だから陽子の言い様がなんとなくピンとこなかったのだが、陽子はおじさまたちを相手にしたたかに営業をしている、いかにも百戦錬磨といった書店経営の女性なので、彼女の目から見たら、夢見るような結婚をしたのに実はクズ男だったことが明らかになって離婚した香菜江のような女性は、お嬢さんぐらいに見えているのかもしれない。
というのはぼんやりと感じていた程度だったのだが、改めてデータベースを眺めていたら、紹介されているあらすじの、肝心なところが違っている。
各種データベースに乗せられているあらすじは初稿の脚本段階のものも多い、というのを聞いたことがあったので、つまり最初はこういう設定だったのか、と知ると、陽子のキャラに妙に納得したし、冒頭のシークエンスに感じた違和感もそういうことか、と思うのだ。
それはこうである。冒頭は列車の中。後に香菜江を見初めることになる実業家の道原(山村聡)と友人たちが乗り合わせてる。
道原がお手洗いに立った帰りに、陽子と行き合う。陽子の書店のお得意様なので、親しく会話をかわし、道原は席に戻ったところでお手洗いに財布を置き忘れたことに気づいて急ぎ戻る。
財布はあったものの、中にあった10万円がなくなっている。道原の後に入っていたのはのちに香菜江の父親と知れる、仙台大学の教授、久松精二郎であった。
道原は彼の立場を慮り、事を荒立てることをしないのだが、おそらく友人たちがブン屋にしゃべっちゃったらしく、新聞記事になってしまう。久松は上野駅に着いたとたんに倒れてしまう。何この不穏な出だし、である。
こんな出だしだから、なんかサスペンスチックな展開になるのかな、と身構えていたのよ。実際久松が本当に盗みを働いていたとしたら、原節子と池部良が揃えられたとしたって、その恋愛事情に単純に心高鳴らせる訳にもいかないもの。
倒れた久松はポケットに入っていた宮下の名刺によって、彼の下宿に担ぎ込まれる。宮下はかつて、久松の研究室にいた教え子で、戦争によって連絡が途絶えていたのが、このことで再会するんである。そして陽子は宮下の幼なじみであり、香菜江とは女学校の同級。
うーむなかなかに偶然が過ぎるような気がするが(爆)、陽子によって久松がこの件で疑われていることが宮下経由で香菜江に伝えられるんである。何この不穏な前半部分。これで久松がマジに犯人だったらどうするんだよとメッチャ不安になる。
香菜江は道原に意を決して会いに行く。彼女の壮絶な決意をはぐらかすかのように、道原は好人物で、思いがけずことが表立ってしまったことを彼女に謝罪するんである。
香菜江が亡き妻にソックリだったということもあるだろうが、最後まで彼は好人物。
香菜江を後添いに迎えたかったに違いないのに、最初から香菜江が今恋しているらしいことを見抜いているし、就職の世話までしたのに押し付けがましくなく、あたたかに、いつでも彼女のいいようにと計らってくれるおじさまなのよね。
池部良大好きだが、本作に関しては道原にクラッと来てしまったのは事実かも……。演じる山村聡氏のアダルトオジサマな魅力も素敵だったし。
おっと、脱線した。だからね、この前半シークエンスの不自然な不穏さなのよ。結局犯人は、列車内に入り込んだ有名なハコ師だったと道原から陽子に明かされるのだが、そんな単純な決着にするにしたら、不穏すぎるし尺もまあまあとるなあと思っていたのだ。
で、その初稿と思しきデータベースのあらすじでは、なななんと、陽子こそがその抜き取りの犯人であり、最後の最後に道原にそれを告白する、という筋立てだったんである。
一気に納得がいくんだよね。陽子のキャラからすれば、ほんの出来心、いやいたずら心でやったこと、それが大ごとになって、ストーリーが展開して、ということだったんじゃないかって。
でも結果的に選択されたのは、陽子は香菜江の良き友人としてサポートして、つまりはほんのわき役に過ぎなくて。
物語は香菜江が宮下と心を通じつつも、思いがけず道原からプロポーズされちゃうという、あらまあ、モテモテじゃないですか、という三角関係にこそ重きを置かれるから、あの不穏なスタートはなんだったんだろうと腑に落ちなかったんだけど、そーゆーことだったのね!!と大納得。
だーい好きな池部良だが、先述のように山村氏の落ち着いたオジサマ魅力に押されがちである。それだけ当時の彼は若かったということなのか。
ちょっと嬉しい市場勤め。当時は日本橋だったのかな。魚の方じゃなくてやっちゃばなのが悔しい(爆)。でも作業着に長靴はいて、あの喧騒のセリ場面とか、心躍っちゃう。
研究者だった宮下が、戦争でそのキャリアを中断されたとはいえ、なぜ市場勤めをしているのか。後に彼が語るところによると、人間同士のやり取りに疲れたのだという。果物や野菜を相手にしている方が心休まる、と。
久松は宮下の発見したアイディアを発展させて、学界に発表、実際の開発に乗り出せる矢先に、消息不明だった彼と再会できて、喜ぶ。宮下の手柄だったし、実力あるかつての部下が市場勤めをしていることを、もったいなく思っている。
そんな時にあの事件があり、道原が香菜江を見初め、宮下や久松とつながり、道原の出資で久松の研究を事業として実現する運びとなる。宮下をその責任者として取り立てたいという。これ以上ない話だったのだが……。
この間に、香菜江は道原の紹介でラジオ局に勤めることになって、めちゃくちゃ生き生きと働くんである。ちょっと、コントかと思うぐらいに、ドアからドアにバタンバタンと忙し気に走り回り、訪ねてきた宮下が面食らって、待ちぼうけを食わされる。
香菜江は、ごめんなさいね、ウフフッと、ドアからドアの間に宮下に笑いかける。「とてもイキイキしてますよ。削りたての鉛筆みたい」と宮下が香菜江を表する表現がふるっている。
1952年なんて時代は、女は結婚して幸せになる、それだけが価値観だと思っていた。でも、戦後から数年が経ち、戦時中、生き抜くために本来の実力を発揮したであろう女性たちが、戦後、男子が帰ってくるにしてもしないにしても、女だって、いや女こそ、一人で立って生きていける、むしろ男より、生きるために働くことに喜びを持つことができる、というのを描写している気がして嬉しくなるのだ。
それは、初稿でイヤな役回りを振られてたかもしれない友人の陽子がまず示してくれるものである。
実業家のおじさまたちにしたたかな営業力とともに、「なかなかイイ身体してるじゃないか」なんつー、まあ、こーゆーセクハラジジイどもはぶっ飛ばしてやる方がいいんだが(爆)、いわゆる、女子力、生き抜くために女を武器にする強さを持った陽子にほれぼれとするんである。
それに比べりゃ、確かに香菜江はお嬢様チックだったかもしれない。出戻りで、叔父夫婦のところに居候している。彼ら経営の売店を手伝っている。手伝わせてもらっている、と言った方がいいかもしれない。
確かに陽子的女性から見れば、甘ちゃんに見える女性かもしれない。そういう視線は感じなくもないからこそ、あの初稿だったのかと考えると、でもそうなると、この友人二人のもやもやが物語として表立ってしまう。ああ、もどかしい。
結果的に、香菜江はまだまだそんな、女性としてこの時代の荒波を生きていくところからは若干、離れている印象である。道原の元に正月の挨拶をしに行くときの、鮮やかな晴れ着姿に、ヤハリお嬢様的なものは感じてしまう。
この時、宮下は出張で北海道に行っていて、香菜江とは正月休みにスキー旅行の約束をしていたんだけれど、学生時代の研究者仲間に捕まって、足止めを食らう。
重要な足止めである。宮下のそもそもの才能が発揮される研究者の分野と、彼が心惹かれている野菜や果物にかかわる仕事。
馬鈴薯が凍って腐ってしまうのを何とかするための研究所。現代における食品ロス問題にもかかわる問題提起で、私自身のルーツでもある北海道だし、池部良だし(爆)、なんか嬉しく、ドキドキしてしまう。
そして、香菜江はどちらを選ぶのか。てか、なんかさ、あれだけラジオ局で生き生きと働いていたのに、最終的には結婚相手としてどちらを選ぶのか、みたいなスタンスになっちゃってるのが、悔しいなあ、と思って。
確かに、宮下が選ぶ道は無謀だ。資金力がある道原が出資する事業に乗っかる方が圧倒的にリスクは小さい。ただ、香菜江がその点を、それこそ陽子だったらその点をしっかと重視する女性だろうが、香菜江は父親のカラミ、そして東京にとどまってできる仕事、という点でしか見ていなくて。
しかもそれは、現代の女性ならば絶対に考える、自分の仕事がどうなるのか、ということは考えに入ってないんだよね。
まだまだ、この時代には、そこまでは、難しいか……あんなに生き生きと、楽しそうに仕事してたのに、最終的に悩む中に、自分の仕事、自分がどう働きたいか、が入ってこないというのは、仕方ないのか……。
宮下は、ヘンに嫉妬しちゃってるのね。道原に見初められた香菜江、自分なんか……みたいにさ。北海道から帰還した時には無精ひげもそのままに、ああそれも、池部良、ちょっと見たことないワイルドな投げやりな感じが素敵!!とこちとらは陥落しちゃってるのだが(爆)。
鷹揚に、宮下の才能こそを評価して迎え入れようとしている道原に、子供っぽいとも思えちゃうかたくなな拒否反応で辞する宮下。ああ、池部良がそんなそんな。でもちょっとギャップ萌えで可愛くてそれもいいけど(照)。
もうこのままでは、香菜江と宮下すれ違いで別れちゃう!!というところで、仲介役で陽子が登場。宮下の手紙を香菜江に渡して、背中を押す。
初稿の設定じゃ、悪役でしかなかったのが、ああよかった。いやヤハリ、それ以上に、最初から香菜江が誰かに恋していることを察知していたおじさま、道原であり、飛び出す香菜江に黙って、玄関先で、この車を使いなさい、と滋味あふれるお顔で言うんである。
ああ、ああ。池部良こそ大好きだけど、キュンキュンだけど、本作では山村聡氏にヤラれちゃったかもしれん……。
戦後、10年までにはいかないけど、数年が経って、戦争の影はありながらも、皆生き生きと立ち働き、いろんな分野、いろんな土地、女子も男子も未来が開けている時代。
モノクロで、原節子で、イメージするしとやかさとはまるで違う、サイダーのようにはじける前向きさに、めちゃめちゃ心躍って、なんかうらやましかったなあ。★★★★☆
絵画という静謐な価値観が、触れたら壊れそうなこの世界観をそっとつないでいるようである。陽は中学時代から美術部に所属し、素描を見るだけでその力量は確かなものである。
その画才が物心つくかつかないかの頃に家を出ていった母親の血を引いているということはのちに知れるところとなるのだが、凡百の物語にあるように、そのことを厭わしく思ったりする方向にはいかない。
むしろ現実世界というのはこんな風にはっきりとしない、戸惑いのようなもので構築されているのだと、気持ちを言葉にすることさえおぼつかないこの少年少女たちに教えられるような気がするのだ。
そしてそれはサンカヨウというはかなげな花に象徴される。初めて聞いた花の名前、そして見るのも初めて。葉の成長さえ待たずに気ぜわし気に咲き、その薄い花弁は朝露に濡れて透明に光り輝く。
陽がスマホで調べて出てくる写真だけでもハッとするほどの美しさだが、後に陽が海の母親の展覧会で立ち止まる、サンカヨウの花の絵は、まさに静謐な、神秘の美しさで、そしてそこに、陽は長く会っていなかった母親とのつながりを……ああそんな、陳腐な言い方に収れんさせたくはないが。
陽が友人から戯れのように問われた“一番古い記憶”が、母に背負われて山の中に分け入り、この美しい花、サンカヨウを母と共に愛でたという記憶なのだ。
産みの母親が自分たちを置いて出ていった、そのことを実際その母に会ってからは急にその現実が具現化したかのように怒りがほとばしるけれども、先述のように決して最初からそんな思いを抱えていた訳ではなかろうと思われる。
思いがけなかったのは、父から「恋人ができた。結婚しようと思ってる」と突然告げられたことであり、そんな激動の展開にも陽は厭わしいとか、怒りとか、そんなことは沸いてこずに、どう対処していいのやら……という戸惑いに終始するにとどまる。
彼女の新しい母親となる、産みの母親よりはぐっと若い、だけど姉というには年上すぎる女性の方も、彼女の方は当然、社会人生活も、結婚、死別、シングルマザーと経た人生経験もあるから、陽の戸惑いは瞬時にして理解したんだろうと思われる。
決して、ぐいぐい迫ったりしないように心がけているのが判る。かといって、遠慮しすぎもせず、陽が「ついでだから」と娘のお弁当を作ってくれたりすることに素直に感謝する。
菊池亜希子氏演じる、新しいお母さん、しばらくは美子さんと呼ばれる彼女の気持ちが、判るんだよなあ。まあ彼女は私より10も若いから、判るとか言うのもハズかしいんだけど(爆)、でも、10代の頃の記憶よりは10年前ぐらいの年頃だったらどう感じたかな、というのは想像しやすいからさ……。
彼女の連れ子である幼い女の子、ひなたちゃんは、そうした屈託から全く離れたところにいる。こんな大人の事情なぞ、まったく判ってないに違いない。新しくお姉ちゃんができる、ヤッタ―!!ぐらいの感じ。
最初の引き合わせの時からワガママ全開で、この中の誰かがキレちゃうんじゃないかとひやひやしたが(第一位は母親の美子さん、二位は陽、お父さんは……ないだろうなあ……)それこそそんな陳腐な展開は用意されないんである。
この幼く傍若無人なひなたちゃんは、他の誰もと同じく、ひなたちゃんとしてだけ存在する。連れ子だから、とか、血がつながってないから、とか、そんなことは関係なく、ひなたちゃんはお母さんは当然大好き、新しいお姉ちゃんにワクワクし、お父さんにはちょっとズルク甘えてみたりして……この幼い女の子が一人劇場、なんだよね。
先述のような、こういう設定ならこんな陳腐な展開、みたいなのを、それなりに分別のついた現実の彼や彼女たちが出来ないことを、神様に愛された純粋無垢の存在であるひなたちゃんは、軽々とやってのけて、そして結果、戸惑うばかりの大人になっちまった彼や彼女を動かすことになるんである。
家族の物語だけではない。恋愛、のような、その未満のような、淡い、愛おしい物語も心震わせてくれる。その相手となるのが、何このカッワイイ男の子!!と「蜜蜂と遠雷」
で衝撃を受けた鈴鹿央士君で、ふっくらした雰囲気は彼唯一無二のものである。
幼なじみである陽と、恋愛に届くような届かないような、好きの意味や種類を悩んじゃうような、もうオバチャン見ていて歯がゆいわー!!という展開なんである。
ただ……央士君演じる陸側にも、結構な問題がある。今や親が離婚しただの、再婚しただの、単身赴任でずっといないだのは珍しくもないが、陽がそうであるように、当の子供にとっては、珍しくもない、で済まされることでもない。
陸の家庭は、両親はそろっているけれど、父親は結局劇中に顔を出さない。世界中を飛び回る仕事、家を守る母親と姑。うっわ!!とそりゃ思うわ。陸が心臓病を患って手術という展開になってて、検査から帰ってきた時に姑、つまり陸のおばあちゃんとの3人のシークエンスがあるのだが、まあ改めて思えばズルいよね。陸同様、観客にこのババア(失礼!)に対してイラッとさせるのが目的なんだもの。
でも事情を聞いてみれば、陸が産まれた時から父親はもはや世界中を飛び回ってて、今と同じで、心細くて、追い詰められていたお母さんに、どうして助けを求めないの!!と叱り飛ばされて、駆けつけてくれたのが姑だったのだ、と母は陸に語るんである。
陽と同様、今目の前にいないもう一人の親に対して、どう決着をつければいいのか、そりゃ悩むに決まってる。なんか反省しちゃう。いや、私は結婚してないから子供もいないしアレだけど(爆)。
成人してからの時間は日に日にあっという間で、子供と呼ばれていた時、少なくとも10代までの時間が、その一年一年、一日一日、一秒一秒さえが、どんなに長く重くかけがえのないものであったことを、思い出すのだ。
その中でもがいてる陽や陸に、本当に尊敬するっつーか、私だったら……なんて考えたくもないっつーか。でもその中に、ひなたちゃんのような無垢の存在がいて、彼女は陸お兄ちゃんにべったりだし、そして何より……何よりの触媒は、陽の産みの母親であろうと思われる。
演じるは石田ひかり氏。石田ひかり!!!私にとっての、リアルタイム大林映画ミューズ!!結婚を機に女優活動はセーブされて、お姉さまは活躍されているけれどそれだけに、私にとってのミューズだから、さみしい想いを数十年抱えてた(爆)。大好きな今泉監督作品で再会できるとは、なんかじーんとしちゃう。
彼女がなぜ出て行ってしまったのか。この件について、それこそ昭和女の私は、彼女がもっと糾弾されるのかな、と思っていた。実際、陽はその通りの、かなり判りやすい価値観の元に父親にグチをぶつけるけれど、その気持ち自体、彼女の中ではこれまで具現化出来てなかったのは見て取れたし、父親の再婚、新しいお母さん、幼い妹、といったことを、どっか漫然と受け止めて、受け止め切れなかった結果がこの爆発につながった感じはあった。
彼女の言葉通りのバクハツじゃなく、何か答えが欲しかったんだと、このもやもやの、答えは、でも、ないんだよね。父親が陽に、元妻を慮って、恐らくいろいろ省いて当時の状況を説明してるんだろうなあというのは判っちゃうし、もちろん、自分自身のふがいなさを実感してってこともあるだろうし……。
先述したけど、やっぱり一番にシンパシイを感じるのは、10も年下だけど、美子を演じる菊池亜希子嬢である。
彼女がさ、陽の年の頃の記憶や感情もそれほど遠くないからこそ、判るからこそ、気を使っちゃう、でも愛したいのに、という葛藤が、無邪気なひなたちゃんのイタズラによって突破口が開かれ、陽が彼女をお母さんと呼んでいい?とおずおず言い出すシークエンスが、彼女と一緒にマジに泣いてしまう。
それまでには、産みの親であるひかり氏との再度の邂逅、陸との想いの確かめ合い、それに至るまでの、幼なじみたちの絶妙な友情のような恋愛未満のようなドキドキする関わり合い、彼らがたむろする喫茶店のマスター(芹澤興人)の、黙って見守っているのにすべてわかっている懐の深さや、中学時代の戯れから高校生になって、家族の問題やら病気から手術やら進学、のための経済的問題やら、もういろいろある。
あるんだけど、それをこのたまり場の喫茶店でダべってる彼らが、特段告白やら報告せずとも、なんか察知していて、時には必要以上に先回りして当人が当惑するようなぐらいの、なあんか、さ、すっごく優しくて。
でも私たち世代ではなかった、辛さが、あるんだよね。いや、私が恵まれていただけかもしれない。きっとそうだ。
こんな、家庭やら進学やら親との問題やらを、私は恵まれていたんだなあ、抱えたことがなかったから……。でも今の時代、ほぼほぼみんなが当然抱えてるぐらいなことなんだろうなあ。
陽みたいな年代で、4歳の妹ができるなんて、よほどの子供好きじゃなければ、そらー戸惑うだろうなあと思う。自分を思い返したら絶対ムリだもん。すっかり初老に足突っ込んだ(爆)今なら、無責任に、猫でもかわいがるように対応できちゃうだろうけど。
そう考えると、大人になればなるほど無責任になるということなのかも。それは言い過ぎ?あらゆる世代のコミュニケーションに慣れてくる、うーん、言い訳にしか聞こえない。
でもさ、そうして、自分のせいじゃないのさというコミュニケーションの取り方は、決して悪くはない気がする。ていうかむしろ、それこそが、対等な気がする。
赤ちゃん、子供、ティーン、成人、どこから対等に接することができるかなんて、なんておこがましい、そんなにおめーは出来たヤツなのかということだ。幼い年齢の子や、ティーンエイジャーの彼や彼女に、何度ハッとさせられたことかという記憶があるのに、なかなかその境地に達しきれないことこそが、老害ってゆーことじゃないのか。
なんつーか、本作そのものからハズれまくってウロウロしてる気がするが(爆)。私は映画を主軸でしか自分自身の感性というか、価値観というか、それを再確認できない感じがあって。それをね、なんか、いろいろ感じたというか。
本作の中で私に近い年齢の井浦氏や陸の母親である西田尚美氏の、やっぱり昭和な価値観だよねという彼らの不器用なこれまでを想像して共感したり。結婚せず、子供を持たず来た私だけれど、ありがたいことに姪っ子甥っ子と仲良くさせてもらって、なんかいろいろ、考えちゃうんだよね。親であること、親であることが出来なくなっちゃったこと、血のつながらない家族になること、年齢、職業、生活形態……。
やっぱりやっぱり菊池亜希子嬢演じる美子さんが、私がもし、と考えるリアリティに凄く近くて、なんか泣けちゃったなあ。★★★★☆
トランスジェンダーの役は、その当事者が演じるべき。この論議はここ数年急速に広がっていて、現場や作品の規模やいろんな条件の違いによって必ずしもそうは言えないのかもしれない、というのが逆に言い訳になってしまって、だからこそ悪循環なのだ。
役者にも多様性をもっともっと取り入れなければ、いつまでたってもトランスジェンダーやゲイの役を演じると、賞がとりやすい、なんていうつまらないことになってしまう。
偶然なのだけど本当にちょうど、Eテレのバリバラでとりあげていたのが、LGBTQ+だけじゃなく、様々なマイノリティが、役者(もっと広く言えば表現者、と言った方がいいかもしれない)への道を閉ざされている、という問題提起の元に、まさにその役は当事者が演じるべき、というテーマだったので、本作と合わせてとても深く考える気持ちになった。
本作はでも、とてもささやかな物語なのだ。東京に暮らす新谷ひかりはMtFのトランスジェンダー。熱帯魚のリースや水槽の設置、飼育の指導などを行うアクアリウムの会社で働いている。
車いすユーザーの同僚(おお、彼女も当事者キャスティングだね。猪狩ともか嬢)や上司の中山(原日出子)ら、理解ある仲間たちに囲まれているけれど、仕事先ではちょいちょいイヤな目にも遭う。
それが、相手に特段の悪意がないから余計に始末が悪いのだ。トイレの場所を聞いたら目を泳がせて誰でもトイレを案内されたり、「もしかして、新谷さんって男性?」とぶしつけに聞いてきたり。
彼らはきっと、自分は理解ある側に立っていると、大丈夫、それで差別なんかしないよとでも思っているのがアリアリと判るから胸糞が悪くなるが、しかしそうした優越意識を示してくるのは、本作に限っては男性で、女性はというと……これまた事情を判ってるという優越意識で(なぜそれが優越になるのか判らんが)、何も言わずに遠くからクスクス笑っているのだ。
どちらがより始末が悪いかというと、これはなかなか難しい問題である。むしろ具体的な態度を示してくれた方が対処の仕様があるような気もするが、でもその都度、自分の気に染まない説明をしなければならない、という辛さ、うっとうしさがあるのだということを、まざまざと思い知る。
男性の体で生まれて来たけれど心は女性。判りやすいというか、使われやすい表現だけれど、そんな単純なことではないのだと、本作は教えてくれる。ひかりはひかり。ただ一人の彼女でしかないのだ。
彼女の心のよりどころは、トランスジェンダー仲間である千秋が勤める、セクシャルマイノリティー達が集うバーであり、こうしたコミュニティが彼ら彼女らを支えているということを端的に示してくれる。
トランスジェンダーという意味では同じでも、千秋はひかりとはタイプが全く違う。もうすっかり色っぽいお姉さんといった千秋はまさに姉御格で、ひかりは、「私はまだ不完全だから……」としり込みする。
まだ、というのは恐らく(劇中では明確にされないけれど)適合手術を受けていないことだと思われる。ホルモン治療は受けているのか薬を服用、お腹に貼っているパッチもそれに類したものなのだろう。
知られざる彼ら彼女らの日常を垣間見て、本当に千差万別、多様なのだということを改めて実感し、そのことこそを皆理解しなければ、真の多様性社会なぞ遠いものだと思ってしまう。
ひかりは地方から東京に出てきている。故郷では男子校に通っていた過去が彼女の台詞や、卒業アルバムにて示される。ひかりは、卒アルの自分の顔をぐしゃぐしゃにつぶしてしまっている。
なぜ今更卒アルを引っ張り出してきたのかと言えば、出張先が彼女の故郷の町だったからなのだった。そこに、初恋の残り火をくすぶらせていることを知った千秋は、「エモいじゃん。会ってきなよ」とあっけらかんと背中を押すんである。
結果的に、ほんっとうに最悪な結果になるのだが、千秋はもしかして、それを予測していたんじゃないかと思う。
「サイアク、二度と会うかって感じ」というひかりからの報告に笑っていた風情が、そんな風に感じられた。彼女もまた、そんな経験を経て、今吹っ切れてここにいるのかもと思わせた。
えーとね、本当にサイアクなのよ。ひかりは意を決してかつての同級生であり同じサッカー部だった、敬に連絡を取る。ひかりの今の状態は、故郷にウワサとして伝わっているらしいことが、敬の言葉から知れる。
敬が会ってくれるというので、ひかりは胸を高鳴らせ、アクセサリー、ワンピース、パンプスまでも完璧に選び抜いて向かうも、……しんっじられない。敬は「コウキにみんな会いたがっていたから」とサッカー部全員を呼んでいて、しかもお座敷お座布団雑多に座る居酒屋スタイル。
ありえない、ありえない!!だってひかりが今どういう状況なのか、“ウワサ”で知ってたわけでしょ。一人の女の子として、一人の男の子と会う、そのシチュエイションでこんな……ありえない!!もう見てられない、辛い。
ドレスアップしたひかりが、しょざいなげに正座し、前からオネエっぽかったとか、この中で誰がタイプなんだとか、もう、しんっじられない質問を浴びせかける猿ども!!
……ああ、しかも、先述のように、彼らに悪気はないのだ。それどころか、先述のように、俺たちは気を使って、理解してて、受け入れてると思ってるのだ。なんてこと!!
これって、さあ……。私はフェミニズム野郎だからついつい女の子ひいきに考えがちだけど、女の子なら絶対にしない、ありえないと思うんだよね。女心が判ってれば、こんな殺人にも同様なヒドいこと、絶対にしない。
敬はサッカー部の連帯のしるしである、寄せ書きのサッカーボールを持ってきて、なんかカンドーの儀式みたいに掲げ、更に、「俺、お父さんになりまーす!!」サイアク!!おめーみてーなデリカシーのない男どもが、すべての女子たちを傷つけ、敵に回すんだ。クソが!!
……ついつい言葉が過ぎてしまいました。大丈夫、ひかりは、まさにクソが!と思って、振り切る、振り捨てるのだから。
ひかりのような事例では本当に顕著に明確だけれど、そうでなくても、地方から上京してきた人たちにとって、私もそうだけど、判る判る、って、重なる感覚、あるんだよね。
私の場合は故郷がないに等しい転勤族で、故郷に対する憧れがあるからまた違うとは思うんだけれど、生まれ育った土地にとどまれる人たちって、そこからはじき出された人たちにとっては、アンビバレンツ甚だしい存在なのだ。優越もありつつ、劣等感もある。
逃げ出した先の都会は、誰でも受け入れてくれる寛容さがあり、だからこそひかりも、そして私たちも息がつけるのだけれど、その寛容さは、ただほっといてくれるというそれであり、結局は一人ぼっちなのだ。
確かに仲間がいるし、理解してくれる人たちもいるけれど。ひかりが、つまんない故郷のヤツらときっぱりと決別して、光まばゆい新宿南口の広い通りを闊歩するラストシーンは爽快だけれど、一方で少々のもやもやは残す。
ひかりが、心無い言葉を投げかけられるたびに、それをミュートするように、泡の音がかぶさるのが非常に印象的である。
この不思議なタイトルもそうだし、彼女は、魚となって、この水槽の中に泳ぎ出しているんだろうか。つまらないヤツらのつまらない言葉から逃れるために。★★★★☆
ここ数年、LGBTQという価値観は急速に広がったが、正直まだ、特に日本では、どこか流行語のように扱われる程度の理解しか進んでいないように思われる。
原作のタイトルにもなり、劇中自嘲気味に何度も繰り返されるホモという言葉は一体どこから来たのか。いまだにそんな言い方をするのか。ゲイという言葉でさえも、どこかせせら笑うような響きを口の端にのぼせて人は言うというのに。
そんな中で暮らす高校生の安藤純。屈託のない幼馴染、亮平にさえ言えていない。学校の中ではクールなキャラで武装し、今は恋愛に興味ないけど、AVも見てるし、ぐらいのスタンスでクラスメイトからは慎重に距離をとっている。
ああそうだ、ソーシャルディスタンスという言葉がまず、本作でモノローグされた。そしてそれは、ヒロインである紗枝が描いた絵であった。美術部の彼女は物語の最後、全校生徒の前で絵の入賞を授与されるクライマックスが用意されている。
そんな彼女は腐女子。BL漫画に特化されるカルチャーに入れ込んでいるというのは、画才のある彼女の感性が、生々しいセックス描写が多用されるBL漫画に刺激されていることを思わせて、ちょっとおもしろい趣向だと思う。
ゲイである純やその恋人は、BL漫画を読んでみてもとてもリアルを感じず、ファンタジーだね、と笑い合う。
それはストレートカップルの描写に置き換えれば、すんなり納得できること。エロ漫画の中ですんなり挿入出来たり、感じられたりするほどに、初めての恋愛やセックスは簡単じゃないってことは同じこと。それを紗枝がどこまで理解できていたのか。
錯覚しちゃうんだよね。BL漫画ってセックス描写があまりに生々しく描かれているから。それがリアリティだと思っちゃう。
でももちろんそうじゃない。紗枝がショックを受けたように、純の相手は同じ年ごろのイケメン男子ではなく、彼女にとってはオジサンである年頃の男性だし、純愛じゃなく、そのオジサンには妻子がいたりする。
ちょっとすっ飛ばすけど、いろいろあってありすぎて、純が追い詰められて自殺未遂、その後学校全体で討論が行われるんだけれど、まさしくこうした、映画や漫画で描かれているから今は身近だし、だから理解も出来ていると思う、的なことを、のんびりと、でも恐らく本気でそう思って言っているんであろう子たちに、こういうことかと、思うのだ。
BLに限らず、日本の独特のカルチャーの成熟の仕方があって、暗黙の了解で、どんなに生々しくてもこれは現実じゃなく、腐女子の妄想に応えた世界なんだというのは判っている筈なんだけど、生々しい描写にリアリティを錯覚しちゃって、連鎖的に薄っぺらい、ゆがんだ“理解”が広まっていく。
でも根底には何一つわかっていないから、リアルに接すると途端に拒絶反応を示して、気持ち悪い、性的恐怖をこっちが受ける、出ていけ、となるという凄まじさ。
世界に打って出ていけるカルチャーは素晴らしいけど、それは実際の問題解決には一切ならない。
純の友人、亮平を演じる旺志郎君がとてもいい。彼は友人役をやらせたら今ナンバーワンじゃなかろうか。彼が素晴らしいのは、純は純だというこことにぶれないこと。いや、それは普通のことなのかもしれないが。
普通、普通という価値観こそに、純は終始悩まされていて。それはいわゆるヘテロの支配におけるそれでしかないのだが、先述したように日本は、そのがっちがちの価値観に縛られていたからさ。
純がゲイだと知っても亮平の友達としての気持ちはいっかなゆるがないんだけれど、素直で単純だから、ちょこっと頭のいい小野から、「お前、今日安藤のちんこ触らなかったじゃないかよ。気持ち悪いと思ったからじゃねーのか」と言われて、口ごもっちゃう。
そんなんじゃない。落ち着いて整理して考えれば、セクシュアルアイデンティティを全く考えずに接していたのが、純のそれを知って、尊重しなくちゃと思った、だって友達だから、それが彼の中で無意識に自然に起こったことだから、上手く言語化できなかっただけなのに、なんか変な具合になっちゃう。
小野というめんどくさい男子の存在がまた、なんともうまいんだよ。亮平がやたら純に小野をめあわせてくるのが、なるべく人間関係を避けたい純はもちろん、観客側もどうしてかなあと思っていた。
サイアクなことには、純の隠していたゲイであることを、彼が不用意にバラしてしまうし、うっわ、サイアク!!ていうことなのだが、でも不思議と、場面場面で、この猪突猛進男子に捨てきれないものがあった。
純が紗枝に興味がないことを一発で見抜く最初のシークエンスで、それをしっかりと確信させるのに、何度も観客をゆらがせる。理解するということ、さらけだすということ、それがそんな簡単なことじゃないってことを、小野というまっすぐすぎるがゆえに彼自身がその中で揺れて苦悩する、それが媒介になって、劇中の人物たちも、見てる私たちも、突きつけられる。
最初に言った、丁寧すぎるほどに、ひも解きまくる本作のスタンスは、BLの生々しさゆえにゲイを理解した気になる薄っぺらさや、ドラマや映画で描かれているから身近だ、という考えの浅はかさを、フィクションと現実社会を子供のように混同している愚かさを、一つ一つ解明していくんである。
ダブル主演という趣である、ヒロインの山田杏奈嬢。好きな男の子を落とすためにムリヤリレズプレイをするという衝撃の「ひらいて」が記憶に新しく、その彼女が今度はゲイの男の子に恋して傷ついてしまう、だなんて、なんとまあ象徴的なことか。
「男子すべてがゲイなら良かったと思っていたのに、ただ一人、ゲイであってほしくないと思った男の子がゲイだった」と吐露するクライマックスはいわずもがなだが、男と女、ヘテロ、ゲイ、腐女子、BL、あらゆる考え方、嗜好、それが二人の間で化学反応しまくる展開がとてもとても、面白いのだ。
ただそれは、純が紗枝の告白を受け入れちゃったから。ゲイであることを隠して、僕も好きだよと言っちゃったから。紗枝に興味がないことを見抜いていた小野はだから心配し、真実を知って激怒したし、観客であるこちとらとしても、真剣な想いの紗枝を、ウソで受け入れちゃう純に、ダメだよー!!と思うさ。小野が事実を知った時に怒るのも当然だと思うさ。
それは、この生きづらい日本社会に対する純の複雑な思い……“普通”の結婚をして子供を持ち、幸せになりたい、という血を吐くような告白を聞いても、……そりゃちょっとはそうか……とは思うけど、でもやっぱり、ないわ!だってそれって、紗枝に対して子供を産める肉体を持つ女としてしか見てないじゃん!ということだからさ!!
でも、ああでも、でもじゃない、なんだろう……。小野が憤る気持ちは100%共感できる。でも、みんなの前で不用意にバラしてしまったことは、と。でもでも、純がそもそも自分が“普通”の幸せを得たいがために、紗枝の恋心を利用しようとしたことこそが許されないこと。
ああでもでも、紗枝のことを、セックスは出来ない、勃たない、でも好きなことは本当だったのだ。三浦さんとだったら出来るかもしれないと思った。これを、好きな男の子から、ゲイである好きな男の子から言われたら嬉しいのかどうなのか。判らない、判らないよ。
恋愛におけるセックスということは、本当に難しいと思う。プラトニックラブなんて言葉もあるけれど、やはり恋愛は性愛が介在しなければ基本、成り立たないように思う。年数を重ねてそれが次第に変化していくことはあるにしても。
純は妻子持ちの恋人によって、性愛に目覚めた。その中で悩みも生じて、SNSで出会った“先輩”に相談をしていた。でもその先輩は、自ら命を絶ってしまう。
最後の最後、本名と住所を明かしてくれたその場所に訪れた純は驚愕する。先輩どころか、中学生。恋した相手の年上の従兄の写真を使って、大学生を装っていた。あどけない遺影に供えられたドーナツやらヤクルトやらが、純が共有していた凄絶な悩みとあまりにも乖離している。
訪ねた時、父親は関係なさそうな風情でソファに座ってぼんやりとテレビを見ていた。それが、息子を失った喪失なのか、理解の範疇も超えてたから、もうどうでもいいと思っている状態なのか。
後者であるような気がしてならない。だって母親が、「病院に連れて行ったんだけど」と言ったのだ。同性愛は病気。病院に連れて行けば治る。恐ろしいことに、今でもそんな話をよく聞くのだ……。
それは、純が自殺未遂をして、うろたえた母親が、平静を装って息子にとりなすようにかける言葉にも表れている。私も高校生の時、女の先輩に憧れてさ、これって恋なのかなって。
うっわ、いっちばん言っちゃいけない例を出しちゃったよ!!そう、いまだ親が子供をとりなす例はこんな貧困さである。純の悲痛な叫びが喉を絞らせる。それって気の迷いだってこと?自分がどれだけ、死ぬまでに追い詰められていたか、お母さんに幸せな結婚、孫を見せてあげることをしなきゃいけない、って……。
いまだに、なのか。私ら世代にはあったさ、そーゆーの。だからこそ私は、ホントズルいんだけど、姉がそれを成し遂げてくれて、あーこれで私、お役御免!!とホッとしたもんだわさ。
「きのう何食べた?」でもその話題は出てきてて、同じくゲイで一人だけの子供、シロさんもそうだったなと。
シロさんもきっと、純と同様な学校生活での苦しみがあったと思うんだけれど、そこを乗り越えて大人になった彼は、愛する恋人と幸せな生活を営んでいる。これを純に見せたいと思うし、彼を理解する存在が、「きのう何」で象徴されるように、しっかりゲイの状況を理解している訳じゃないけど、仲の良い隣人として、お買い物仲間として、そしてお互いの家族関係や人間関係を相談したりしあったりして共有しているってことが、大事なんだと。
ワールドワイドな理解はもちろん大事だけど、近くにいる大事な人の事情をどれだけ知っているのか。理解なんて不遜なことじゃ、ないんだよね。あ、知ってる知ってる、大丈夫、っていうさ。
それを、10代の、高校という集団生活をしている中で、アイデンティティもあって、隠したい中で。
何度も言っちゃうけど、冒頭で言った、とにかくひも解くということ。こんなに執拗に、うわべだけとか、あいまいだとかいうことを、引っぺがさなければいけないのかということ。
いけないんだろう、でも一方で、先述したように、それはそばにいる人、大事な人に対して、そうであればいいんじゃないかって気がする。みんながいきなり飛び越えてなんて、ムリだもの。そばにいる人が、伝播していけばいいんじゃないのかなあ。
それをね、それを、まさに旺志郎君、友人役を演じさせれば今や右に出る者がいないであろう彼が、見せてくれた気がして。
ゲイだけど、家族を持ちたい、ああ、「メゾン・ド・ヒミコ」、そして、腐女子が男の子を翻弄する「腐女子彼女。」。もうかなりの時を経た、当時はセクシャルマイノリティ―に対して理解ある作品だったのが、今見ると全然だ。0%。そして今でも。道のりは長い。★★★★☆
構成、カットの緩急、突然走り出すようなスピード感。そうしたものは、時に技術に酔っているようなクリエイターも時々いるものだが、感性なのだろうけれどヤハリ計算されつくしたとしか言いようがない、なだれ打つ展開に恐れおののくのだ。
ホラーヒロインかと思うぐらいの怖い女の子なのに、目が離せない。こんな自分勝手な子ぜったいヤだ、と思うのに、彼女の気持ちが判る、と思ってしまう。それは自分の中にあるのが判っていながら、自分を嫌いになりたくないから目を背けている自身なのか。
澄子を演じる福永朱梨嬢にまず心奪われる。無造作な前髪のふんわりとしたショートカット、間違いのない美少女だし、一見した生活態度は特に問題ない……後輩の相談にも乗るし、先生にも常識的に接する、そんな女の子。
でも片膝をいつも覆っている黒いサポーター、同じ三年生なのに先輩と呼ばれていること、そして……担任教師がそれとなく彼女を注意して、見張ってるじゃないけど、気にしていること等々が、何の事情も明かされないままながらも、なんとはなしの不穏な空気感の中、徐々に、徐々に、描かれだすんである。
今の時間軸までにどんな事件が起こったのか、詳細に語られるのは本当にラストもラストのシークエンスまで待たなければならないんだけど、そうした時にイライラするような、早く説明しろよ!!とか思うようなことがない。
それは、澄子の不気味さ、というか、彼女に何が起こっているのか、彼女が何をしようとしているのか、そもそも彼女は何を考えているのか……というのが、なかなか見えてこないスリリングさに、知らず知らずつかまれてしまっているから、なのだ。
それはもちろん、もう冒頭に、彼女が橋の上から川に飛び込む描写が示されているから。でも、その理由は何なのか、しかも母親の葬式の直後、死んだはずの母親が見えていたりするシークエンスを、これまた意味深に示した後。
澄子のパーソナルがこの強烈な二つの要素で構成されていない訳がないことだけは胸に秘めながら、ドキドキしながら観客は連れていかれるんである。
澄子の標的になる男の子がいる。幼馴染の秀明である。後から解説を読んで、「きらきら眼鏡」のあの彼だと知り、ああ!!と思う。不思議なぐらい印象が変わらないって、そらそうだ。同じ年の製作だったんだね。今から3年前、不思議なことに彼は二作品で、年上の女性に惹かれるティーンの男の子を演じていたんだなあ。
しかして、「きらきら眼鏡」ではそれは心の邂逅、というところにとどまっていたのに対して、本作ではハッキリと、女性教師と恋に落ちている。「きらきら眼鏡」の時も思ったけれど、ぽよぽよとした幼い風貌で、年上女性となにくれ、みたいなイメージでは一見、ないのに、なんだろう、不思議。
澄子を心配している波多野先生との秘密の恋愛関係は本気である。しかしそれを澄子はかぎつけ、証拠写真を撮り、一枚いくらで脅迫して秀明から金をとるんである。
徐々に明らかになるところでは、澄子の父親が教え子の、そして彼らの良きお姉さん的存在であった聡子と恋愛関係にあったことを、秀明が澄子にささやいたことが、そこからすべてが崩壊したということが、澄子の言い分である。
すでに起こってしまったことだし、過去を回想する訳でもないので、観客であるこっちは客観的判断は難しいし、澄子がこの恨みに対してどこか異常なまでに固執していること、澄子とその父親とでこの事実が話し合われている様子がないこと、そして何より……死んでしまった聡子がホラー映画さながらに、爆音とともに澄子につきまとうように現れることで、事実はどうだったのか、という、いわば凡百の疑問を巧妙に(と言いたいぐらい実に上手く)かわすんである。
だってそらそうだ。誰かにとっての事実は他の誰かにとっては決して
そうじゃなく、そもそも事実って何?真実って何?という議論に落ち込むと、何一つ解決しなくなってしまう。昨今の、“関係者”だの“疑惑”だのといった記述の元に何の信ぴょう性もない中傷が垂れ流しされることなんかさえ、思い浮かんでしまう。
ただ……澄子にとっては、確かに、ただ一つの、すがるような事実だったんだろう。確かに事実ではあった。澄子の父親と聡子の関係を、秀明が告げたのは確かに事実だった。言ってみれば、それだけだった。澄子がそれを知ることがなければ、何かが変わっていただろうか、いや……。
秀明が、かつての自分の父親と聡子のように、教師との恋愛関係に陥っていることが許せなかったのか、そんな単純なことでもないような気もする。
とにかく澄子はゲームのように秀明をいたぶる。脅迫しながら、彼の家に上がり込んで食事を共にしたりする。「だって、秀明んちのごはん、美味しいんだもん」と悪びれない。
それは単純に考えれば、今や父子家庭で、気まずい親子関係ということもあって、澄子が秀明の家庭の食事に安らぎを感じているとか考えることもできなくはない……ないだろーなーとは思うが、どうだろう。
澄子は自分自身を欺いているような哀しいかたくなさがあって、本当の自分の気持ちをはかりかねているようにも感じるから。
秀明は澄子に脅されるがまま、先生との関係を隠すように付き合っていた女子と別れ、エンコウで金を稼ぐまでして、写真を取り戻した、筈だった。
あーあ、もうオチバレなんだけど。澄子の闇の深さは、見ている間ずっと、本当に計り知れないと思っていたし、改心したように見えても、確かに安心はできてなかった。
改心……?何その、人間のエゴたっぷりの言い様!!一見してね、ヒューマンチックな展開になるし、その展開も、しっかりと誠実さにあふれていて、騙されそうになるんだよ。騙されそうだなんて(爆)。
つまり、秀明の波多野先生に対する真実な想いが、父親が聡子に抱いていたそれに見事にリンクする展開。凡百の展開ならば、ここでヒロインは改心(イヤな言い方だが)して、人が人を愛すること、みたいなことでさ、落ち着くのかなと思うじゃない。
自分自身が誰かにウラミツラミを言うために正当化して、勝手に産み出した分身だったのかもしれないと、澄子が聡子の亡霊におびえていたのが、秀明にも見えていたことで得られる展開が、思いもよらないそれであったことに、この噴出する才能にボーゼンとするんである。
つまり、ただ私は苦しめられていただけだった。誰も私のことなんか見てない。誰かを愛し、愛され、その中で苦しんでいたとしても、そこには愛があったではないか。
誰も私を見ていない。誰からも愛されていない。死んでしまった母親、家族のためではなく、聡子のためを思って別れた父親、なのに死んでしまった聡子、秀明も、波多野先生も、秀明に恋している後輩も、誰もかれも、私のことなんか見ていない!!
こんなことはそれこそ凡百で言いたかないけど、でもやっぱり、年を経れば判るのだ。自分のことを誰も見ていないことに打ちのめされる気持ちは判る。でも、誰もがそうだし、その考え方がどれだけうぬぼれなのかにこそ、打ちのめされる時が来るのだということが、判るのだ。
誰も、自分のことなんか見ていない。それが当たり前だということ、それを受け入れることが、いかに難しいかは、すんごくよく判るけど、ホント、そうなんだよ、って教えてあげたいのだ……。
秀明の波多野先生への想いを聞き、父親の懺悔を聞き、一見、懺悔の気持ちを持ったかなと思ったのは甘く、澄子は手元に残していた秀明と波多野先生が抱き合っている証拠写真を一斉メールする。
心のどこかで予感していたといえ、マジか!!と思い、秀明が澄子を狂ったように追い回しても、もう駄目だよと思う。ダメだけど、でもなぜかを、聞きたかった。いや、聞く前から判ってた気はする。
澄子はね、誰も彼もに対して、嫌い、大嫌い、とまるで楽しいことを言うように言い放つ。想像もできない、勇気だと思う。私は絶対出来ない。出来ないからこそ、そう言い放つ澄子がどう思ってそれを言っているのか、考えてしまう。
自分が大嫌いだから、他人に放っているのか。そうかもしれない。大好きだと言う訳にいかないプライドがあるから、逆のことを言うのか。そうかもしれない。そのすべてが違うのかもしれない。
その澄子に対して、そらーヒドいことされた秀明は同じ言葉を返すのは当然だし、澄子に同情の余地はない。余地はないんだけれど……。
澄子は屋上に向かう。橋から飛び降りた記憶がよみがえる。そして、屋上では一度、波多野先生に止められていた。その時澄子は冷笑して、飛び降りたりしませんよ、と言った。
この時には先生と澄子とは、秀明のことは薄く挟んでいただけで、少なくとも澄子側からすれば、うっとうしい、善意ぶってる女にしか過ぎなかったのだ。
波多野先生に関しては、生徒である秀明との秘密の恋を、しかしマジに大切にしてる、という、どこか少女漫画的なスタンスでしかここまではなかったのが、誰からも見捨てられた澄子を最後の最後、全身で死の淵から引きはがすという役割を担ったことが、結構ビックリする。
ロマンティック側にとどまってるとばかり、思っていたから。つまりは、秀明に恋してる後輩ちゃんと同じぐらいのスタンスだと思っていたから。自殺未遂して留年して帰ってきた澄子のことを気にしていたのが、単に教師として学校として、ヘンなことしでかされたら困る、と思っていたから。
いや実際、そうだったのかもしれない。判らない。それでもかまわないような気がするのだ。
何が人を引き留めるか判らない。少なくとも、彼女だからこそ澄子の、あんたなんか嫌い、に、同じ言葉を返したうえで熱いハグが出来たのだ。打算がないから。負い目がないから。
いやー、凄いもの見せてもらった。10代という季節は、これ以上ない自尊心がパンパンで、でもそれをクリエイターとしてリアルな客観性をもって描けるのはそこからできるだけ近い方がいいんだってことは改めて感じたし、そのためには、若い才能が必要なんだってことも感じたし。
10代を描いた映画を見てて、なんかしっくりこないと思う時って、大抵監督さんが年食ってる(爆)。なんかノスタルジーになっちゃう。それもいいんだけど、ヤハリリアルなティーン映画は若き才能に撮ってもらいたいし、こうしてそれに接すると、その若き才能が、その年齢に従ってどんなすげーものを見せてくれるのかと思うと、ワクワクが止まらんのだ!!
★★★★★
ある日突然、恋人が別人に入れ替わってしまった。いや、正確に言うと違う。ある日突然、恋人が去り、その代わりに別の女の子がやってきた。ああそれもなんか違う。入れ替わってしまう、のは最終的に、そう言わざるを得ないラストを迎えてヤハリ、と思わせるからなのだが、だからこそ怖いのだ。
一体恋人はなぜ去ったのか。そしてその代わりのように現れた女の子はどこから来たのか。ドッペルゲンガーと思いかけたが、姿かたちはまるで違うし、後から来た女の子は、自分がその恋人と偶然同じ名前だね、と言うだけなのだ。
なんという不思議怖さ。そしてこのアイディアに脱帽する。物語冒頭、平凡で幸福そうな恋人同士である。
ザ・個性派脇役役者である前原滉氏であるが、「きまじめ楽隊のぼんやり戦争」と本作と、不思議に主演作が続いている。「きまじめ」にせよ本作にせよ、不思議漂う作品に彼の平凡とも異形とも言えるお顔が、ばちっと合致するのだ。
本作での彼はキャスティング会社に勤める、その腕を仲間からもタレントを売り込む取引先からも買われているきまじめな(この場合のきまじめは、あの作品のきまじめさとは全く別のものだ)青年である。
同棲している恋人、茉莉とは手をつないで自作の歌を口ずさんで歩くような、仲の良さである。
茉莉を演じているのが奈緒嬢で、この年頃のあまたの若手女優さんの中でピカイチにキュートな笑顔を持つ、一目見て恋に落ちちゃうような女の子である。
その罪深き可愛さが最も発揮されたと思われるのが、「僕の好きな女の子」で、それ以来私は彼女を見かけるたびに、ズルい、ズルい、この可愛さはズルいよね、と心の中でつぶやき続けていたんであるが、本作では思いもよらぬ、ナゾばかりを残して姿を消す展開になる。あの愛らしい笑顔で恋人の紀夫はもちろん、観客の心も奪っていたから、ただただ戸惑うばかりなんである。
ただ……最初から、不穏な雰囲気を感じさせていた。こんな仲の良い恋人同士なのに、明るい陽光の下のシーンがないのだ。
そもそも冒頭、茉莉の顔にゆらゆら影がゆらめく橋の下で、紀夫は謎の女って感じ(言い回し違ったかも……)、と、表情を絶妙に隠すゆらゆら影に彩られる恋人の表情に、そんなのんきな感想をもらした。何それ、と茉莉は笑った。
奈緒嬢の華やかな笑顔をろくろく拝めないまま、何の前触れもなく茉莉はこつぜんと姿を消す。
正確に言えば、入れ替わるように二人の暮らす部屋に現れた、マリと名乗る女の子の登場で、紀夫は茉莉が消えたことを知るんである。
いつの間にか仕事も辞めていた。つまり、茉莉は自分の意志で紀夫の前から姿を消したことは明らかなんだけれど、だったらこの、マリという女の子の存在は一体なんなのか。
マリはここに来る以前の記憶がないのだ。自分がマリという名前だということと、ここで暮らすんだということだけ判っているというのだ。何それ何それ何それ、超コワいんですけど!!
スレンダーな長身で、華やかな美女であった茉莉と比して、マリ役の天野はな嬢は、うりざね顔で小柄な和風美少女である。それがなんだか怖いのだ。ひな人形のような、女能面のような、振り返ったらそこにましましているような、怖い美しさである。
ただ、彼女自身は天真爛漫と言っていいような、無邪気さなのだ。自分が何者なのかさえ判ってないのに、まるで動揺していない。自分はマリという名で、ここに暮らすということだけが判っていると、突然姿を現したアラジンの魔法の精のようなことをすんなり受け止めて、紀夫に言うんである。
その無邪気な素直さが、だんだんと侵食してくる。紀夫は当然取り乱すし、出て行けと言うし、マリに当たり散らすのだけれど、実際行くところのないマリは、彼に悪いなあと思いながらも、どうしようもなく、周辺をウロウロするばかりなのだ。
紀夫の気持ちを思えば、マリを口汚くののしって追い出すのは致し方ないとも思うけれど、過去の記憶も持たずに、ただここにいるべきという神からの啓示をもって現れたマリにとってはどうしようもない。
でも本当に、これはどういうことなのか。紀夫は切羽詰まって警察にも相談するが相手にされず、茉莉の姉夫婦に打ち明ける。最初こそは、そのうちけろっと帰って来るって、と言っていた茉莉の姉だったが、どうやらその気配がないらしいことを察知すると、さすがに動揺の涙をこぼす。
ただ……この時、彼女のお腹には新しい命が宿っていて、それが妹が失踪した動揺なのか、妊娠中で気が立っているのか、判らなくなってくるのだ。というのは……茉莉の存在そのものが、人の記憶という点から、あいまいになっていくから。
ここでは何度も何度も言及している、人の死は二度訪れるという話。実際の死と、人の記憶からなくなった時の死。萩尾望都先生の不朽の名作、「トーマの心臓」からの、忘れられない人生の警句である。
茉莉は死んでる訳じゃない、と思う……それすらあいまいになるほどである。彼女の生きてる影は、ふんわりと風のように、行き過ぎる。
紀夫の同僚が茉莉を喫茶店で見たという。家の中に落ちていた歯医者の診察券で予約が入っている。茉莉は生きて、しかも遠くに行っている訳でもなく、このあたりにいる筈なのだ。
本当に紀夫やこの近辺の世界から姿を消したいと思ったのなら、こんな見え隠れはしない筈だし、紀夫にも、茉莉の姉にも、そんな心当たりはまるでない。
一体これはどういうことなのかと、最初のうちはそりゃあ、紀夫はもちろん、肉親である茉莉の姉も心配し、心を砕いたのだが、でもこの二人だけ、だったんだよね。
茉莉の姉は妹の失踪を心配しながらも、そのお腹に新しい命を宿し、そりゃあ今後はそっちに愛を注ぐに違いないのだ。妹を忘れることはないにしても、忘れるに等しいような心の離れ方をせざるをえなくなるのだ。
つわりでげえげえしている茉莉の姉を目の前にして、そこまで明確に悟った訳ではないにしても、どこかで紀夫はそんな風に、あきらめにも似た思いを抱いたんじゃないのか。
最も大きかったのは、紀夫の両親が思いがけなく訪ねてきて、話だけでまだ紹介していなかった茉莉だと、家にいたマリを勘違いしたことである。
もはやこうなると、茉莉はマリになってしまう。マリはごめんね、という軽い感じで紀夫に謝るが、これがどれだけ重大な事態なのか、彼女には判っていたのか。
このエピソードが決定的だった、と思う。茉莉が消え去り、その入れ替わりとしてマリが置き替えられた。アイデンティティとしてこんなにヒドい話はないんだけれど、マリは自身、どこから来たのか判ってないんだもの。
そしてマリに自分の存在意義を明け渡した茉莉だって、死んでもないのに、記憶の死という二度目の死を自らに課して、闇の中を漂っているのか。どういうことなの!!
紀夫は当然、この奇妙かつ恐ろしい事態に必死に抵抗するし、マリを追い出そうとするし、茉莉を探し回るけれど、なんかもう、どうしようもなくなっちゃったのかなあ。
マリは決して悪い子じゃないし、むしろ魅力的なイイ子だし、茉莉は帰ってこないし、誰の記憶からも薄れかけている。
時間は二年後に飛ぶ。飛んでしまう。その直前は、紀夫が茉莉を撮ったホームビデオを見ながら泣いているシーンである。そしてその紀夫をマリが見守っているんである。
茉莉はマリじゃない。判ってる。でも、今や粗いホームビデオの中にしかいない茉莉は本当に存在していたのか。誰も証明する人がいなくなってしまった。誰からも、身内からさえも、忘れされられ、二度目の、永遠の死を、迎えてしまった!!
ならばマリはどうなのか。自分自身さえ存在を証明できない、幽霊のように現れた。でも、紀夫の両親に息子の恋人として認知され、二年後の今は紀夫と、かつての茉莉とのように、仲睦まじい恋人同士である。それに至る紀夫の葛藤を思うと何とも言えない。
二人の横を、ロングヘアーの後ろ姿だけを見せた女性が通り過ぎる。紀夫は振り返って見る。茉莉、だったのだろうかと思うが、そんなこと、判りはしない。
このエンディングに至るまで、悪夢なのか現実なのか判らないようなくりかえしの描写が提示される。紀夫が帰宅する。仕切りのカーテンを開ける。たたずむ、部屋の暗闇に閉ざされて、顔の見えないマリ、いや茉莉なのか、顔が見えないから、判らない。
茉莉とマリでは髪の長さが違うんだけれど、それも暗闇が視界を閉ざしてしまって、判らないのだ。表情さえも判らないし、言葉も発しない。
これが、これがね、本当に怖くって。顔が判別できないというシンプルな怖さ、それから派生して、誰に対峙しているのか、誰を愛しているのか、一緒にいる時、本当に相手のことを思いやっていたのか、判りあえていたつもりで,ちっとも判ってなかったのか……。
顔、表情の判別のつかなさ、そもそも生身の存在自体がつかめないもどかしさ。肉体も、名前も、なにもかもがおぼろげで、真実味がない。
生きてるって、存在してるって、その人として誰かに、社会に、身内に、認識してもらえてるのってどういうことなのか。考えれば考えるほど怖くなる。
身内でさえ、そのほかにどうしようもなく愛する者が出来てしまえば、心配しながら忘却のかなた、一番の関心ごとではなくなっていしまう、と同時にリアルな肉体感覚があっさり失われてしまう。
ここに至って、紀夫の職業がキャスティングだということがふと頭にゆりもどされる。キャスティングしてしまえば、顔も名前も正体もあやふやでも、誰かの代わりになれるというのか、そんなばかな!
むしろ、人は記憶と肉体にとらわれているから、ツライんだと最近ではよく思うんである。
本作はサスペンス、ミステリ、ホラーであり、そういう意味では人間的リアルドラマではないと言えばそうなんだけど、なんかね……記憶と肉体にとらわれていることが、案外年を取ってくると捨て去ることができるような気がしてきて、忘れられることがそれほど怖いことじゃないような気もしてきて。
こうした作品がその怖さとして提示してくることが、どこか懐かしさというか、愛しいもののように感じてくるのが、悪いこととは思わないな、というのは、ああ、年を取ったんだろうなと思っちゃう。★★★★☆