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「あ」


2005年鑑賞作品

愛してよ
2004年 107分 日本 カラー
監督:福岡芳穂 脚本:橋本裕志 李正姫
撮影:柴主高秀 音楽:岩代太郎
出演:西田尚美 塩顕治 松岡俊介 野村祐人 鈴木砂羽 伊山伸洋 アレク 泉綾香 牧野有紗 本田博太郎 鷲尾真知子 マギー 筒井真理子 菅田俊


2005/12/23/祝・金 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
随分攻撃的なタイトルだなあと一瞬思って……すぐに思い直した。いや、これは最後の切り札だ。言いたくて言いたくて、いや、自分がそう言いたいと思っていることさえ気づかないぐらいに押し込めてて、愛してよ、そう言った瞬間に、ああ、自分は愛されたいと思っていたんだと、その孤独に打ちのめされてしまう。

シングルマザーである美由紀は、とても気の強い人なのだ。押しが強くて、働いている家具販売店でもかなり強引に客にモノを買わせるし、そのくせヘイキで仮病を何度も使ってズル休みして息子をオーディションに連れまわすステージママで。
でも、彼女は、自分が孤独で、弱いということを心のどこかで知っていたから、だから、あんなにも誰にも負けないっ、っていう態度でいたのかもしれないんだ。
彼女は言うのだ。「息子を愛さなきゃいけない。だったら、私のことは誰が愛してくれるの?」この台詞こそがタイトルである「愛してよ」につながっていくんだけど、愛してよ、も哀しいけど、愛さなきゃいけない、というのも辛い。愛さなきゃいけなくて愛している、それは愛している、とはいえないじゃない。

愛してるって、どういうことだろう。この物語の中でただひとりそれをまっすぐに口にする人はいる。それはこの美由紀の元夫で、主人公のケイジの父親、沢木である。彼はハッキリいってナサケナイ男であり、だからこそ美由紀は彼を見限って別れ、ケイジをたった一人で育てているんだけれど、でもケイジにとって、ママが連れてくる“新しいパパ”である彼女の恋人より、ずっと会いたい人なのだ。
そして彼は、ケイジに、自ら死を選ぶ直前に、その言葉を言う。「愛してる。ずーっと、愛してる」

借金まみれになった沢木はケイジと、なんてことのない一日を過ごして……本当に、なんてことのない、ケイジにプールつきの家に引っ越すと約束したことから思い出した話や、そこから発展して売り地をザクザクスコップで掘ってみたりして、本当に、友達同士みたいに、くだらないことに夢中になって。でも彼は、一通の手紙をケイジに残し、屋上から身をひるがえしてしまう。
ケイジは、それがパパの愛し方だった、とつぶやく。死んだらイイ人になっちゃうなんて、卑怯だとプンプン怒っている美由紀よりよっぽど冷静で客観的だ。
でもケイジは、ことママである美由紀に関してだけは、客観的にはいられなかったのかもしれない。
でも、ムリもない。彼女自身にさえ、自分の気持ちが判っていなかったのだから。

でもね……美由紀がケイジを本当は愛しているんだと、こんなにも愛しているんだと気づくまでの過程はかなり唐突で、あまりすんなりとは納得できないんだけどね。
美由紀が子育てに苦労して、息子であるケイジのことを心のどこかでジャマだと思っている、と恋人の青木に告白する、そっちの方がよっぽどリアルに響くからなんだよね。
私は子供を持った経験がないから判らないけど、現代の母親はまさにこの問題で苦しんでいる。母親が、なんだよね。だって父性より母性の方が強要されるんだもの。自分のお腹を痛めて産んだんだから、子供を愛しいと思うのは当たり前でしょ、みたいな。
それこそ私はお腹をいためた経験もないからそんなことを言えたギリでもないんだけど、だからこそ、そのことだけによって、女性が母親であることにくくりつけられるのって、ツラいんじゃないかと思ったりするんだ。

ただ、この物語の結末は、「当分、男はケイジだけにしとく」という台詞に象徴されるように、まさにその母性をこそ礼賛しているんだよね。
いや、それ自体はとてもステキなことだと思うんだけど、ただ息子をジャマだと感じていた美由紀が、本当はこんなにもこんなにも愛しているということに自身で気づく過程がなくて、唐突に、屋上から飛び降りようとしている息子に対して発せられる台詞によって解決されてしまうものだから、なんか……ちょっと納得がいかないのだ。
まあそれこそ、子供を持たない自分のひがみなのかもしれないんだけど。確かに判らないよ。子供を何より優先する気持ちって。「私だって幸せになってもいいじゃない」と恋人を作る美由紀の気持ちの方がよっぽど判るんだもん。
確かに、それは子供にとってはたまったもんではないってことも、判ってる。
そして、ラスト、“あっちの世界”に行くことをやめたケイジが、全速力で美由紀に向かって駈けていって、まるで激突するように二人しっかりと抱き合うシーンは感動的ではあるんだけど……。
それに、二人の幸せを願って、沢木は美由紀の選んだ男とケイジと三人で、新しい家庭を幸せに築くことを願った手紙をしたためて死んだのに。これじゃ沢木、浮かばれないじゃん。

なんか、思いっきりはしょって最後まで話しちゃったけど、そう、ケイジは、小学校5年生ぐらいなのかな?キッズモデルをしてて、美由紀はいわゆるステージママ。モデルのためのおけいこごとも含めて、彼のスケジュールはめいっぱいである。
まあ、めいっぱいにつめこんでいるのは美由紀であり、ケイジ曰く、「ママは手帳に空白があると、そこから幸せ(運、だったかな)が逃げていく」と思っているというんである。
いやあ……すこぶる冷静だよね、ケイジ君。それに、確かに判る気がするんだ……そういう気持ち。それは誰かに必要とされていたい気持ちに、似ている気がするんだ。
自分の楽しみだけに生きているように見えて、本当はそうじゃない。スケジュールがつまっているということは、それに関わる誰かがいるってことで、誰かが自分のためにスケジュールを割いてくれている、逆に言えばそういうことで。

人が、仕事にしがみつくってことも、そういうことなんじゃないかと思う。仕事にブツクサ言いながら、しがみついているのは、自分が必要とされていると思いたいから。
ひょっとしたら、人間関係、すべてがそうなのかもしれない。
冷静なケイジに美由紀が動揺し、彼にキッズモデルをやらせる前はいらだってばかりいたという美由紀は、つまりケイジに必要とされていないと思ったからなのかもしれない。
ケイジにキッズモデルをやらせるようになってから、ようやく普通に話せるようになった、と美由紀は言う。しかも、優しくも出来ると。
それは、彼と関わる時間が出来たことで、自分が必要とされていると感じたからじゃないの?
そして、彼女がケイジを愛していると気づいたのは、そんな風に必要とされたかったことに気づいたからじゃないのかな。

もしかして、一番気づいていなかったのは、ケイジ自身だったのかもしれない。
しょうがない。彼はまだ10歳なんだもの。イジメにあってカネを取られたり、万引きしたり、親が離婚してたり、だから、妙に厭世的で、現代的なドライさはあるんだけど、一番判っていなかったのは、彼の、自分自身に対する気持ちだったのかもしれないのだ。
ケイジってば、イジメにあっている時でさえ、冷静である。「ボブサップパンチと、二千円取られるのとどっちがいい」とイジメっこたちに聞かれ、「最近、ツヨシ君のパンチ、強いから、二千円がいい」なんて“解決”しちゃったり、するんだもの。
でもそのツヨシ君というのは、ケイジが一緒に遊びたかった友達である。でも美由紀が、「あの子の親、水商売でしょ」と却下し、マスコミ関係の親の子供と遊ぶことさえ、スケジュールに組み込むんである。
それにさえ、ケイジは黙って従う。
その後、力関係が移動し、ツヨシ君が他のいじめっ子にのされている場面が出てくるのもなかなか皮肉である。
ツヨシ君はお金がないから、パンチを受けることしか出来ないのだ。
そんな場面をケイジはじっと、見つめている。

ケイジをとりまくモデルたちもまた、それぞれに事情を抱えている。
正直……それは、ケイジのメインエピソードとともに並列で語られるのは、ジャマなような気も、したんだけれど。
特に、ケイジと友達、というか、「どちらかが売れたら、どちらかを相手役に指名する」という同盟関係を結ぶ、6、7歳年上っぽいアキラがね。彼のお母さんが再婚したリッチな新パパに、バイトやモデルなんか辞めろと言われ、ついにはその新パパをサクッと刺しちゃって、まるで口止め料みたいに大金の“おこずかい”をもらった、なんていうエピソード、アキラがケイジに語るだけにしては重すぎるし、重すぎるだけに、言葉だけで語ると、ツクリモノみたいに思えちゃうのよ。
ヤケクソ気味にはしゃぎ、ついには泣き出してしまうアキラを見つめるケイジの目がどこか冷ややかに見えてしまう(そういう演技ではないんだろうとは思うけど)のは、そのせいじゃないのかな、なんて。

ただ、ケイジとタイ張る高原タカシに関しては、その重いエピソードもきちんと実際のシーンによって描かれるし、誰かに必要とされたい、認められたいという思いが、このオーディションで絶対に自分が採用されるんだという、狂気じみた意気込みにしっかと反映されている。
なんかね、違和感があるんだよね。意図的な、違和感。ケイジたちがたったひと枠を賭けて、レッスン料まで払って何次もの審査を経て受け続けるファッションブランドのオーディションは、赤ちゃん、って感じのコまでいるし、いっても上は14、5って感じで、キッズ向けなんだよね。でも高原タカシだけが18、9の雰囲気。
しかも、このオーディションは半ばタテマエで、ほぼ高原タカシが受かることが決まっているって話だし。
高原タカシは確かに売れっ子モデルではあるんだけど、その前に有名企業の御曹司であり、そのネームバリューが働いているニオイはプンプンする。

ただ、その有名企業の社長である、彼の父親は、ハナっから彼のことをバカにしている。バカにしているというか……自分の父親とソックリな、つまり天賦の才能を持っている彼を恐れているように見える。彼のみならず、死んだ自分の父親さえも、「生きている価値のない人間だ」とこともなげに言い、息子の彼を、無抵抗の彼を、容赦なくブン殴る。
本当に、ヒドいシーンなんだけど……誰かに対して、「生きている価値のない人間」だなんて言う人間こそ、生きている価値ないんじゃないのと思うんだけど……高原タカシはそうやって父親に受けた仕打ちを、そのままライヴァルであるケイジに向けるんだよね。
同じ台詞、同じ暴力を。
それはあまりに虚しい、っていうか、哀しくて。だってそれは、高原タカシが、そう言われたことを振り払うことで、そしてオーディションに合格することで、自分は価値のある人間だ、誰かに必要とされているんだ、って思いたがってることを、痛烈に感じるんだもの。

それをケイジに向けるのは、オーディションのブランドのデザイナー、江田島である。ケイジの選んだ服を高原に踏みつけられたケイジ、さらに自分で踏みつけて泥だらけにして、それを着てオーディションに臨む。怒る関係者たちに、「その方がカッコイイと思ったから。僕が受かるなんてありえないし」と言い放つケイジに、当のデザイナーである江田島は強い興味を示す。「彼は私の服を必要としているように感じる」と実に楽しそうに、仮縫い状態の服さえ、ケイジに着せてみたりする。
あ、ここにも“必要としている”が出てきた……。でもこの台詞は強いよね。だってこれって、“誰かが自分を必要としている”って自信持って言ってることと同じだもの。そして多分実際そうで……キッズモデルなんか実は興味ないけど、ママのシュミに付き合ってあげてる、って感じだったケイジが、この江田島との出会いで自らの意思で、最終オーディションに駆けつけるぐらいなんだもの。

そう、その時、あれほどケイジをオーディションで勝たせることに執着していた美由紀が、恋人との結婚を決意して、旅立つ、その日が最終オーディションの日で、彼女はアッサリと、ケイジの最終オーディションをあきらめて、新しい家族の旅立ちを優先したのだ。
でもそこには、美由紀の嫉妬があったのだろうと思う。あの時、嬉々としてケイジにとっかえひっかえ試着させている江田島を美由紀は偶然目にしていた。その時ケイジは、イキイキと、楽しそうな笑顔の江田島に見とれていた。「僕のママはこんな風に笑うだろうか」と。その雰囲気を美由紀は敏感に察知したに違いない。
でも、ケイジがそう思ったってことは、自分がママのそんな笑顔を封印していると思っていたからってことであり……ケイジは、パパに愛してる、って言われて戸惑っていた風だったし、愛してる、なんて言葉を実感として感じとれない幼さはあるんだろうけど、でもやっぱり、ママを愛しているんだよね。
こんな風に、ママに笑ってほしいと、そう思ったってことだから……。

江田島を演じる鈴木砂羽が、すんごくカッコよくて、ステキだから、美由紀に扮する西田尚美はどっちかっていうとキュートな女優だからさ、その対照はハッキリと際立つ。
きっと、こんな風にカッコイイデザイナーである江田島にだって、人には見せない孤独があるんだろうと思うんだけど。

自殺願望のある人を手助けするとウワサされている、自殺したエリカという、真っ赤なノースリーブのワンピースを着た少女の霊が、見え隠れしたりする。あるいは広場の真ん中にアプライトピアノが置かれてあって(!)、ケイジが気になっている女の子が、皆が無邪気にボール遊びなぞしているのにもおかまいナシに奏でていたりする。そんな、ファンタジックな画が挿入されてくるのは……うーん、魅力的に思えればいいんだけど、ちょっと消化不足って感じ。悪く言えば、なあんかごまかしている感じさえする。愛してよって言うぐらいの強いテーマを、結局は描ききれていない感じもしたから。

ケイジは、やらされていたはずのキッズモデルを、一度は優先した新しい家族の幸せを差し置いて選んだわけじゃない?美由紀は、ハデな世界だし、気晴らしが出来る、っていう程度の気持ちでやらせていて、ケイジもまた、そんなママにつきあっているだけだと思っていたはずなのに、最終的にそれに自分を賭けることを選んだんだよね。
それが、親子の絆っていうことなのかなあ。子供が人生を賭けられるものに、結果的に導いているってことは。最終オーディションの時間に遅れたって、関係者を脅したりなんだり、いくらだって手はあるのヨ、とケイジに笑顔で言う美由紀は、それまでだって同じようなコトは押しの強さで言っていたのに、印象が全然違う、それはケイジのためで、自分のためで、愛しあってる親子だからっていう信頼を自然に感じさせるんだよね。悔しいけど。

でも、やっぱり、なんかこれって、女は子供産めって言ってるみたいだよなあ……。★★★★☆


青い棘WAS NUTZT DIE LIEBE IN GEDANKEN/LOVE IN THOUGHTS
2004年 90分 ドイツ カラー
監督:アヒム・フォン・ボリエス 脚本:アヒム・フォン・ボリエス/ヘンドリック・ハンドレーグテン
撮影:ユッタ・ポールマン 音楽:トーマス・ファイナー/インゴ.L.フレンツェル
出演:ダニエル・ブリュール/アウグスト・ディ−ル/アンナ・マリア・ミューエ/トゥーレ・リントハート/ヤナ・パラスケ/ヴェレーナ・ブカル/ユリア・ディーツェ/クリストフ・ルーザー

2005/11/8/火 劇場(渋谷Bukamura ル・シネマ)
久しぶりのモーリステイスト、アナカンテイストかと思ったら、違った。それも含んではいるけれど、もっと複雑だった。あるいは悲劇的に終わる「トーマの心臓」みたいだと思った。だって、ドイツ、ギムナジウム、そして本物の愛をピュアに信じる男の子たち。「トーマ」と違うのは、男の子たちの間に成熟した女の子が入り込んできて、彼らの信じる本物の愛をかき乱してしまうこと。そうでなければ男の子たちはピュアに本物の愛を信じて、「トーマ」の様に、哀しさはあっても美しい結末を迎えられたんだろうけれど、彼らもまた、いつまでも子供ではいられなかった。

いや、それもちょっと違う気がする。この女の子も、成熟しているようでしていなかったんだ。確かに恋やセックスを数多く知っているという点で、そうした経験が乏しい男の子より大人だと彼女は思っていたし、周囲も思っていたけれど、だからこそ本物の愛なんてないんだと大人ぶるなんて、それこそ子供じみた哀しさだったように思う。恋ばかりで、愛を知らなかった。それが大人だと思っていたなんて。まっすぐに本物の愛を信じることが出来た男の子たちの意志の強さの方が、もしかしたら大人だったのかもしれない。
いや、最後まで信じることが出来た男の子は、自らのこめかみを銃弾で撃ち抜いた、ギュンターだけだったのか。
途中で、夢のようなこの感覚からふと現実に返って、真実の愛をめぐるこのやりとりを「無意味だ」と、死のとりこから生へ脱出したパウルの方は、最後まで信じられなかったのか。

パウルとギュンター、二人は親友同士だった。都会の規律の厳しいギムナジウムで、パウルは庶民的なロマンチスト、ギュンターはお坊ちゃま育ちのニヒリスト、それぞれがアウトサイダーだからなのか、対照的ながら不思議にウマがあった。そして二人の大きな共通点は、本物の愛を信じていること。
「人生の中での真実の愛は、ただ一度だ。それを知ってしまった後は、ただ罰せられるだけだ」
日向くさい草原の中、ひとしきりはしゃいで遊んだ後、そんなことを言うギュンターは、真実の愛そのものよりも、その後の罰を待っているかのような甘美さに満ちていた。
そしてこうも言っていた。「幸福の絶頂に、自ら死を選ぶんだ」と。
何となく、判る気がする。あくまで、文学的にだけど。幸福の絶頂を感じた時、だったら後はそれ以上に幸福を感じることはないから。つまりそれ以降はずっと不幸とも言えるから。

そして彼ら二人で結成した自殺クラブの掟は「愛を裏切られた時、その愛を裏切った者を殺し、自分もその後についていく」こと。
自殺クラブ。そういやあ「自殺サークル」なんていうホラー映画があったけど、それよりも、この二人の密約を交わすような甘美さにクラクラくる。だってギムナジウムで美青年二人で、真実の愛!だもの。
実際、ギュンターはパウルのことを愛していたんじゃないかと思う。ギュンターは同性愛者。そのことをパウルが知っていたかどうかはちょっと判然としないんだけれど……ギュンターはパウルを本当に大事な存在だと思うからこそ、親友という高みから引きずりおろしたくなかったんじゃないかと思うんだ。
ギュンターの妹のヒルデは女のカンなのか、「パウルのことが好きなの?」とストレートに聞く。
ギュンターはまるでそう聞かれるのを予測していたように、「彼は親友だよ?」と即答する。
その即答こそに、言外の意味を感じてしまうのだ。

この物語はたった三日、悪夢のような、あるいは白昼夢のような、もしかしたらこれこそが幸福の絶頂である夢のような時間だったのかもしれない。
パウルとギュンターが週末をギュンターの別荘で過ごそうと、列車に乗るところから始まる。そこから既に、甘美である。自殺クラブの結成にすっかり盛り上がっている二人は、美しい拳銃を手に入れ、列車の後部に風に当たりながら乗って、二人拳銃を取り合う。まるでじゃれあうように。

パウルが、ギュンターの誘いに応じたのは、ギュンターの妹、ヒルデに恋していたからだった。ギュンターもそれを判っていて彼を誘った。ヒルデがパウルのような純真な青年には手におえない、恋多き女であることは、兄のギュンターが誰よりも知っていたのに。あるいは妹にパウルを所有させて、手元におきたかったのかもしれない。だってギュンターは決してパウルには手を出せない。パウルが信じている愛は、女の子に対しての、そうヒルデに対してのものなんだから。
ヒルデは大きな瞳と華やかな唇、ふっくらした頬、ゆるやかなウェーブのかかった金髪……ベビーフェイスに見えるぐらいの、“女の子”なのに、後に魔女狩りされるのも納得な、魔性の女なのだ。
「一人の人に縛られたくないの」そう彼女は言い、両手いっぱいの男が欲しい、と無邪気に言う。
そう、無邪気、なのだ。彼女自身も周囲も、彼女を手だれのように言うけれど、結局は。
そんなヒルデにマジメな友人のエリは、「いつか男に捨てられて終わりよ」と言うんだけど……。

パウルの書いた詩を、微笑みながら聞いているヒルデ。「本物の愛を信じてるの?」そう彼に聞いてみる。「ああ」黙って微笑むばかりのヒルデは、カワイイこと言う男の子ネ、ぐらいの表情に見える。
これは、一日目の夜。ここまでは、パウルにとって幸福だったかもしれない。
その夜、パウルはヒルデに外に呼び出され、コトに及ぼうとしているけれど……多分、あれは未遂。最後までは描かれないけど、多分、そう。
ギュンターがパウルにからかい気味に、「お前、童貞だろう」と言っていたのは多分、本当。そしてこの場面でも彼はまだ未遂に終わってたと思うんだ。
ヒルデは純真なパウルに興味を持ちながらも、彼のまっすぐな思いを受け止められるほど大人じゃなかった。でもそんな思いは受け止めずにかわすのが大人だと思っていたようなフシもあり、「あなたは私にとってまだ青いの」などと言った。自分より年上の男の子なのに……。

そして二日目。ヒルデは街に出かけた。この別荘での時間をタイクツに思ったのか。ギュンターは夜までには帰ってこいと言った。パーティーを開くから、友達も連れてこいと。起きてきたパウルはヒルデがいないことに失望したけれど、ギュンターの「お前をじらすために出かけたんだよ」という言葉に笑みをもらす。
夜までの時間、パウルとギュンターが過ごす友達としての、密な時間こそが、最も幸福だったように思う。
夢のような、オレンジ色の陽の光があたりを照らし渡る、立ち枯れた草原の中を走り、疲れて木の根元に座り込み、彼らが信じる真実の愛の話をする。
愛に裏切られたら、その相手を殺す。この仮定は、愛が裏切られることを恐れるより、それを待っているかのように、思えるのだ。

そして夜がくる。運命の、悪夢の夜。朝まで続くパーティーの夜。
ヒルデがつれてきたのは、パウルに思いを寄せているエリ。そしてヒルデを追いかけて、二人の男がやってきた。アブサンを持参したヒゲの男、そして……パウル、ギュンター、ヒルデとともにキーパーソンとなる、見習いシェフのハンスである。
恋多きヒルデだけれど、その中でもハンスは恋人めいた存在だった。一昨日別荘に着いたギュンターが妹に、「ハンスを連れ込んでなかっただろうな」とまず聞いたのは、妹を心配してのことだとばかり思っていたんだけれど、違った。
ハンスはギュンターの元恋人だったのだ。つまり兄妹で一人の男をとりあっているんである。

朝まで続くこのパーティーがメインで、夜の場面が延々と続くので、だんだん、感覚が麻痺してくる。時間的感覚や、現実的感覚が。
パウルは、ヒルデがいかに奔放な女であるかをこのパーティーによって見せつけられるんだけど、やはり彼女に惹かれずにはいられない。裸足のヒルデがパウルの靴の上に足を乗せながらダンスをするシーンなど、ファム・ファタルの濃厚な匂いがする。ヒルデはあなたではやはり物足りないんだとパウルに直截に言い、二人、一糸まとわぬ姿になって夜の湖で泳ぐシーンは夢のような美しさ。
そんな二人をエリはじっと見つめている。ふとパウルと隣り合わせた時彼に言う。「なぜヒルデは愛されるのかしら」それは……愛される女と愛されない女がいるということ、自分が愛されない女だと言っているわけで、彼女の疎外感に胸がつまる。
そうだ、ヒルデがこのパーティーにエリをつれて列車を降り立った時、ヒルデを迎えるためずっとホームで待っていたパウルは、エリが一度会ったことがある、と言っても覚えていなくて、彼女の気持ちなぞにはいっかな気づかず、ヒルデと並んで先を歩き出してしまう。その後ろをエリが名もなき花を摘みながら寂しそうに歩く田舎道のシーンが、彼女の気持ちが推し量られてあまりあるんである。

エリは、パーティーの喧騒を離れ、眺めのいい場所を見つけて、そこでじっと時を過ごしていた。パウルが通りかかった。エリは彼に声をかけ、一緒に静かな時を過ごした。まるで永遠にさえ思えるような、静かで長い夜の、でもほんの一時を。
雨が降ってくる。皆が急いで屋敷の中に入り込んでくる。ヒルデが雨に濡れて入ってきた二人に目をやる。一瞬の気まずさ。ヒルデがパウルに、占いをしてやると言う。断わる彼だけど、怖いのか、などと言われて仕方なく受ける。ヒルデは本気なんだか冗談なんだか、古い占い器具を操り、パウルに「あなたは一生一人で生きる」と言うんである。
どっと沸く周囲に、どんな顔をしていいか判らないパウル、外に出るとエリがついてくる。「あなたと寝たいの」真剣な顔のエリ。「森の中で」

パウルにとって、エリこそが初めての女性だったんだろうな、やはり。森の中の小さな小屋で、二人はせつな、肌を重ねる。「あなたがヒルデに夢中でもいいの。私を哀れまないで」「哀れまないよ」……“愛し合う”行為のはずなのに、なんて哀しい言葉なの。
夜が白々と明ける。時間差で別荘に戻ってくる二人。まるで放心したように皆が座り込んでいる。なんともいえない顔をして。まるで、何か深刻な、大変な事態が起きた後のような、呆然とした顔をしている。あのシーンでの、皆のあの顔は、なんだか忘れられない。だって何があったというわけでもない。ただあまりにもめまぐるしく思惑の交錯する一夜が明けただけだ。でもそれが、彼らをそんな顔にさせる……あるいは、これから起こることに対する、予感めいた顔だったのかもしれない。

この一夜に、ギュンターの方にも“事件”があった。ハンスをとりあうヒルデと、でもやっぱり仲のいい兄妹で、三人はこの一夜限り、みたいな雰囲気で湖畔で一緒に時を過ごそうとした。でも兄妹の愛撫に、ハンスはヒルデの方にだけ反応し、ギュンターを置き去りにして愛し合い始めた。ギュンターは突然、放り出され、水を浴びたような顔をして、その場を辞してしまう。
ハッと気づいたヒルデが、ハンスの腕をふりほどいて兄を追っていくのが印象的である。ヒルデはやはりまだ……異性の愛に本物を見出だすよりも、大事な兄が傷ついたことの方が気になる純真さを持っていることに、自身で気づいていないだけなのだ。

そしてパーティーが明ける。その朝、パウルがハンスに殴りかかるなんていうハプニングがあるも、パウル、ギュンター、ヒルデ、ハンスの四人は皆で都市に戻ってくる。列車の中の四人はほこりだらけで、まるで悄然としている。ギュンターの部屋で、日曜日のけだるい午後を過ごそうということになる。ギュンターが、妙にはしゃいでいる。彼はハンスとヨリを戻そうとしているらしいんだけど、ノリの悪いのが当のハンスとヒルデで、ヒルデが寝てしまったことにあからさまにつまらなそうな顔をしたハンスは出て行ってしまう。ギュンターは荒れる。ヒルデへの思いが行き止まりになってしまったパウルもまた、そんなギュンターに同調して、自殺クラブの最終仕上げの、あの手紙をしたため、お互いにウラギリモノを殺して死ぬしかない、それが幸福の結論なんだ、と決めるのだ。
あの、美しい言葉。

我々が死ぬ理由は愛のみ。
我々が殺す理由も愛のみ。

パウルが現実に引き戻されたのは、朝の光に気づいたからなのか、その窓の外に、エリが歩いてくるのを見つけたからなのか。でも、ギュンターは引き戻されない。かたくなにカーテンを閉じ続ける。そしてその夜、またしてもヒルデと寝て、彼女の部屋のカーテンに隠れていたハンスを、パーティーの延長線上の彼を、撃ち殺し、自分のこめかみにも引き金を引いてしまった。
最終的にギュンターはハンスを撃ち殺し、自分の命も絶つんだけれど、私にはどうにもそれが、ハンスに愛を裏切られたとは思えない。ギュンターが裏切られたのはヒルデ、いややはりパウルだったように思う。二人だけが価値観を共有していたと思っていた自殺クラブからパウルが抜け出した失望だったように思う。でもその時、きっとギュンターは気づいたのだ。パウルを愛しているから、彼を殺せないことを。真実の愛とは、本当の真実の愛とは、そういうものだということを。

パウルは殺人教唆で裁判にかけられてしまう。結果的に彼は三週間の禁固刑のみで無実になるんだけれど……この裁判のシーンで、涙を落として彼をじっと見つめ続ける傍聴席のヒルデの表情は何を物語っていたのか。
そもそも、この二人の親友同士の間にかわされた「自殺クラブ」をヒルデは信じていなかった。彼女が信じていない本物の愛を二人が信じていたから。
ヒルデは兄を愛していた、のは本当。パウルに下される判決に涙を流していたのは、彼に対してじゃなく、最後に兄が考えていたのが自分のことじゃなかったからじゃないのかな。
つまりは、ヒルデは、兄は獲得して死んだかもしれない本物の愛から取り残されてしまったんだもの。
そして兄の本物の愛を獲得したのは、この親友の彼だったのかもしれないんだもの。

刑を言い渡されて法廷から出て行くパウルを思いいっぱいの瞳で見送るエリ。
最後のクレジットで、「エリは一生結婚しなかった」とある。
パウルと一緒になればよかったのに……エリしか彼を癒せる人はいなかったのに。
エリの存在に気づいて、じっと振り返りながら彼女を見つめ、ふっと笑顔をもらすパウルに少しだけ、救われる。

ラストシーンは時間がさかのぼり、冒頭の、ギュンターの田舎に向かう二人が描かれる。
自転車に二人乗りして。身体はガッチリと出来上がっているだけに、その無邪気な様子が、それ以降の展開を既に予言しているようでドキドキする。

1927年。実際に起きた事件だという。意外なほど、同性愛の感情が排斥される感覚がないけれど、でもやっぱり異性愛には勝てないって雰囲気もある。そしてこのドイツの空気感は、フランスほど奔放でなく、イギリスほど伝統的なルールに縛られず、でも何かもっと厳格で抗えないものが絶対的に君臨していて、だからこそ切ないほどに刹那的。今よりももっと、国による性質の違いがそんな風に顕著にあらわれている気がするのだ。
本物の愛が存在するかどうか、とか、それだけを生きている価値と時間軸に沿わせられる年代。本当は、もっともっと雑多でくだらないことで人生は構築されてて、案外その雑多でくだらないことこそが、人生の大事な一端であるかもしれない、なんて反面教師的に思った。★★★★☆


悪魔の部屋
1982年 89分 日本 カラー
監督:曾根中生 脚本:曾根中生 佐伯俊道
撮影:水野尾信正 音楽:立川直樹
出演:中村れい子 ジョニー大倉 内田良平 堀内正美 岩崎優子 河西健司 成瀬昌彦 中村まり子

2005/5/17/火 劇場(銀座シネパトス/特集・日活ロマンポルノ・アラベスク2005/レイト)
ジョニー大倉がロマンポルノに出てたなんて初耳だわあ。と、「壇の浦夜枕合戦記」の風間杜夫の時にも言ったような気がするけど。「壇の浦……」の風間杜夫とはまた全く対照的な役柄。風間杜夫は若いのに熟練の感じだったのが、ジョニー大倉はその若さをそのままむき出しにするような感じ。今の彼にオーラがあるなら、この時の彼には若さゆえのフェロモンがあるという感じ。
これはつまりはストックホルム症候群が前提にある話、だよね。「完全なる飼育」シリーズで何度も試みられながら、完全に納得出来るものになっていたとは言い難かったものが、20年も前のロマンポルノであっさりと完成されてしまっている。監禁される女が、その犯人である男と愛し合うようになるのが、このわずか90分あまりの中でなんら疑問を持たせないものになっているのが凄い。一体何が違うのか。

男は最初から彼女を優しく扱ってるわけでもないんだよね。最初は定石どおりおびえる彼女を追いつめてムリヤリ服をはぎとり、まさに犯してる。その後も彼女が逃げないように手錠をかけ、バンザイの形でベッドに縛りつけて行為をしてる。まさしく鬼畜に違いない。でも、二回目以降は縛りつけてはいるものの、まあ確かに彼女を優しく扱っているともいえる。彼女が感じるように、ゆっくりと、優しく、愛撫する。でもそれは勿論彼女にとって侮辱に違いないし、感じるのを必死にこらえながら、彼女は表情を崩さずに横を向いたっきりである。こんな目に合わせた男から逃げたいと思ってるし、そのためにこっそりとフォークをふところに隠し持ったりもする。
しかし、彼女の事情と彼の事情とが絶妙に、少しずつあらわにされるバランスやタイミングがとにかく上手いのだ。そしてこんな風に、男がただただ獣のようにセックスするわけではないというのも、そのバランスやタイミングの中に入ってくる。ジョニー大倉にはそうした絶妙の甘さがあるし、彼女が舌を噛み切りたいほどの侮辱感を覚えながらも、心のどこかで次に彼に抱かれる時を待っていると感じられることに無理がないのは、そうした彼の魅力と、双方の役者の上手さ、そして何よりそうした絶妙のバランス感覚に貫かれた演出力に他ならない。

女は、ホテル王、伏島京太郎の御曹司・裕之と結婚し、何不自由ない生活を送っていた新妻、世志子。そして自分は会社の者だとウソをついて、難なく彼女を連れ出したのはワケありの男、中戸川不時。彼の事情は後半になるまでさっぱり明かされない。世志子が散々、あなたは誰なのか、なぜこんなことをするのかと問い詰めても、何も答えない。その徹底ぶりが、彼の憎しみの強さを物語ってあまりある。何の悩みもなく奥様生活を送ってきた世志子に、何かとてつもなく辛い事情があるらしい彼の口を割らせることは出来ないし、だからこそ彼女は彼に抗いながらもどこかで惹かれたんだとも思える。

でも、勿論、それだけで誘拐された男を愛するようになるにはムリがあるわけで。決定的な原因は、世志子の夫、裕之がこの誘拐に関してまるで動かないことだった。中戸川は裕之に電話をする。あんたの奥さんを誘拐し、犯したと。自ら本名を名乗り、この名前をあんたの父親に言って、対応を決めるんだなと、冷笑し、電話を切る。この時点では世志子は、夫はきっと自分を心配し、すぐにでも警察に言って救い出してくれるに違いないと思ったんだろうけれど、翌日中戸川が電話をかけると、夫は警察にも言っていない、父親の指示で、今は傍観する態度を決め込んだと言って、自ら電話を切ってしまうんである。呆然とする世志子だけれど、中戸川はこれは想定の範囲内だと言う。あっちがしびれを切らすまで、あんたはここから出られない、俺と一緒にいるしかないんだと言う。

一般的な世の夫がそうするであろう、当然警察に連絡し、妻の無事を祈って気も狂わんばかりになる態度をとっていたら、世志子だって必死に逃げ出そうとしただろうし、何よりこの誘拐犯に心を移していくことなんて、いくらセックスの手練を尽くされたってありえなかっただろう。でも、世志子はこの時点で、自分が夫に愛されていないことを知ってしまい、そして同時に自分もまた愛という感情からは程遠かったことを知るのだ。
彼女はただ、何不自由ない生活をおくっていた奥様、ただそれだけだったのだと。

そんな風に思ってしまった体と心の隙間に、中戸川は忍び込んでくるんである。最初こそ、縛りつけたり、言葉での押さえつけはあったものの、それ以降はそれほど彼女を押さえつけている印象はない。逃げようと思えば逃げられたように思える。料理は一流のフルコースがルームサービスで取られ、彼女への愛撫もいっそう優しくなる。ある日世志子は隠し持っていたフォークで中戸川の腕をグサリとやるんだけれど、したたる血にうろたえ、そのことで反撃に出ずにただその血を押さえるばかりの中戸川の反応にもうろたえ、彼の介抱をしてやるんである。「怒らないの。私を殴ってよ」「君は僕の傷の心配をしてくれた。それでおあいこだ」そして世志子は彼に、セックスの時に手錠を外してくれるように請う。「もう犯されているようなのはイヤなの。お願い。絶対に逃げたりしないから」そして「キスして」と請うて中戸川を戸惑わせる。そうだ、確かにキスはしていなかった。最初はやっぱり世志子は顔をイヤイヤとそむけてそれだけは阻止していたし、それ以降は中戸川もキスに関する無理強いはしていなかった。やっぱりキスって、気持ちが大きく作用するものなんだ……体の全てが自由になった世志子と中戸川のセックスは、ベッドの間に落ちてしまうほどの激しさで、それまでは奉仕一方だった中戸川も自分の精を出し尽くし、果てるのだ。

世志子はその後、夫に自ら電話する、と言うのね。電話に出たのは住み込みで雇った家政婦。「奥様は半年間旅行に言っているので……」夫がいかに保身のために彼女を見捨てたかを思い知る世志子。そしてまるで父親の言いなりであることにも失望する。「あなたは、私に無事か、逃げられないのか、と聞きもしないのね」そしてこうも言う。「私、とても大事にされてるの。あなたとは全然違う。何がって、セックスよ。自分の意志でここにいるの」

このあたりから、中戸川の過去がだんだんと明らかになってくる。それは白黒映像の瞬間的なカットインによって。その前から、中戸川は世志子に、指宿温泉を知っているか、と聞いていた。彼は温泉旅館の息子で、この誘拐計画のために旅館を売り払ったのだとは言っていた。なぜそこまでしたのか……カットインされる映像は、いかにも悪辣そうな男が、旅館のおかみ風の和服の女をムリヤリ犯している。そしてその女の夫とおぼしき男が首吊り自殺を図っている。……もう一発で判ってしまう。中戸川の両親であり、中戸川はこの男、つまり世志子の夫の父親であるホテル王、伏島京太郎が母親を強姦した時に出来た子供だったのだ。
本当は世志子にだってこんなに心を許すはずじゃなかった。でも想像以上に伏島親子は冷徹であり、そのことで二人は連帯感を持ってしまった。そして京太郎を呼び出した二人は、口止め料の大金をせしめ、数日後に絶命するように持病の喘息の薬の中に毒物を混入させる。しかも世志子は帰らない。それを京太郎も止めもしない。

ただここで事態は急展開。世志子が中戸川の子を妊娠するんである。いやそれで、中戸川がそんなにもうろたえるとは、世志子は思っていなかった。まあ世志子だって子供がほしいと思っていたわけじゃないし、この事実には彼の判断をあおぐぐらいに思ってて、「中絶すればいいのよ」と言い放つぐらいである。でも、中戸川はすっごくうろたえる。なぜそんなにうろたえるのか、この時の世志子には判ってない。まだ彼女は彼の本当の過去を知らなかったから。京太郎の子だということを。
「俺は、強姦されて出来た子として、その親を処刑したんだ。俺は君を強姦した。その俺がこれからどんな行動に出るか判るだろう?」
……そう思ってるんなら、昼に夜に避妊もせずにヤラなきゃいいんじゃないかと思っちゃうんだけどね、ついつい。だってこんなことになるのは予測は出来るだろう……まあ、彼は世志子をこんなに引きとめるつもりはなかったんだろうから、仮にそんなことになっても、そのことを彼女の口から告げられることになるとは、しかもその彼女を愛するようになるとは思ってなかったわけだから、まあしょうがないか……。彼は一生を賭けて計画した犯行でにっくき父親を葬り去ったわけで、だからこそこの事実に呆然としてしまうわけ。自分もあの男と同じことをしてしまった、って。

世志子に嫌疑がかかってはいけない、とわざわざホテルの従業員を呼んで、彼らの目の前で、中戸川は窓から飛び降りてしまう。窓枠に立って、世志子を見つめ続けたまま、背中から。高層ホテルの窓から吹き込む強風に、世志子のウェーブのかかった美しい髪がずっとあおられ続けている。悲鳴をあげて彼を止め続けてもかなわず、飛び降りた彼を彼女もまた見つめ続け、彼が飛び降りても窓に駆け寄ることも出来ず、強風にあおられながらただ呆然とその場に立ち尽くしたまま。その彼女の呆然とした顔に重なる「完」の文字、まるで突風のようにかけぬけたクライマックスからエンドに観客のこちらもただただ呆然とする。

男の一生を賭けて、そして落ちていった中戸川を体現するジョニー大倉のせっぱつまった男の有り様はすさまじく、そのせっぱつまった時に放たれる色香が満ち満ちて世志子を撃ったんだろうと思わせるぐらい。そして世志子を演じる中村れい子の、まさしくこれぞ深窓の新妻という美しさ、白くなめらかな肢体、女の私でも触ってみたくなるようなふくよかでやわらかそうなおっぱいがキレイで、それがジョニー大倉によっていたぶられ、もまれ、吸われると、どっちかっつーとジョニー大倉側の気持ちでドキドキしてしまうのは異常なんだろうか……うーむ。★★★★☆


阿修羅城の瞳
2005年 119分 日本 カラー
監督:滝田洋二郎 脚本:戸田山雅司 川口晴
撮影:柳島克己 音楽:菅野よう子
出演:市川染五郎 宮沢りえ 大倉孝二 皆川猿時 二反田雅澄 桑原和生 山田辰夫 螢雪次朗 樋口可南子 土屋久美子 韓英恵 山中陽子(G-ロケッツ) 鵜沢優子(G-ロケッツ) 関根あすか(G-ロケッツ) 半澤友美(G-ロケッツ) 沢尻エリカ 小日向文世 内藤剛志 渡部篤郎

2005/5/8/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
傑作の誉れ高いといわれる舞台版があると、その映画版だけを観て云々するのって何となく気が引けたりして……(まー、そんなこと言ったら原作モノの原作をさっぱり読まないで、私映画ばっかりを観てるもんな)とか言いつつ、やっぱりこれは「陰陽師」(Uはキビしい)の滝田洋二郎だからこそのこの映画化の流れであり、滝田監督も大ファンの舞台の映画化だということだから。SFファンタジー時代劇はすっかりこの人、という雰囲気になってしまった滝田監督。正直、時々ヤリすぎなCGには腰が引けるんだけど(今回はやっぱり阿修羅の大顔面よね)、そのあたりをズバッとやっちゃわないとこういう映画化なんて出来ないんだろうなとは思うし。

んで、やっぱり本作品といえば、舞台版の初演、再演とも主役を張り、今回の映画化で映画初主演、並々ならぬ意気込みであったという市川染五郎氏につきるんだろうと思われ。いやー、私、歌舞伎は観んし(一回だけ観た時、見事に寝ちゃった……)、この人には別に大した興味はなかったんだけど、なるほどこれはハマり役。ついつい、見惚れる。実際歌舞伎役者という役どころで、劇中歌舞伎は、日本最古の歌舞伎劇場だという場所で、まさにそのころの熱狂の舞台を再現してくれちゃったりするし、何よりこの江戸の、ちょっと気恥ずかしいような“粋でいなせな”台詞をもう、まんま、地で行く勢いで吐きまくるんだもん。そう、それは例えばこんな感じ。
「夜這いたあ、嬉しいねえ」
「そこまで思われるたあ、俺の色気もホンモノだな」
「俺とお前はさかしまの赤い糸で結ばれてるのよ!」
んんー、や、ヤバイ、しびれるわあー。(まだ話の一端も書いてないのに、勢い込んじゃった……)

何度も言うよーだが、別に何度も言わなくてもいいんだけど、別に私はこの染五郎氏にそれほど興味はない。観終わった今でもそれは変わらんのだけど、確かに、確かに、この劇中の、出雲である彼には、こんな江戸的キザさに、うッ……カッコいいかも、と思ってしまったりして。
カッコイイっていうか、違うな。彼は一世一代の、そして現代唯一と言ってもいいかもしれない、いわばやさ男。それは色男でもハンサムでもイイ男でも、勿論イケメンでもなく、やさ男なんである。今、いないよなー、こういうホントの意味でのやさ男って。それを出来るのは、今、まさしくこの染五郎氏しかおるまいよ。
劇中で、歌舞伎の舞台を終え、衣装を脱ぎ、化粧を落とし……っていうのを見せる場面があるんだけど、そこで座長の四世鶴屋南北に声をかけられ、右半分だけ化粧を残した形で会話を続けるのね。この半分だけ素顔、半分だけメイクっていうのが、何でか知らんけど、やったら、異様に、色っぽいのだよね。これはやっぱり歌舞伎役者ならではなんだろうなあ。
それに殺陣がホントさすがなんだよなあ。「陰陽師」の萬斎さんの流線のごとき流れるようなアクションとは対照的な、歌舞伎のキメキメが冴え渡るんだよね。両方とも色っぽいんだけど、それが萬斎さんの場合は人間離れした?うーん、何ていうのかな、やっぱり高みにある人のそれであり、染五郎氏の場合は、まず男としてのきっぷの良さがあってその上に立つ色っぽさで、うん、やっぱりやさ男でも、男、やさ男だからこそ男、なんだわね。

だから、「陰陽師」では見ることが出来なかった男女の機微も実に美しく描かれるんである。もとよりこれは「恋をすると鬼になってしまう女」の物語。タイトルロールにもなっている阿修羅となってしまうわけで、それを宮沢りえ嬢が演じるんである。その相手が染五郎氏。ああ……考えただけでよだれが出そうな美しいツーショット、期待を裏切らない美しさ、色っぽさ。
それにしてもりえ嬢がね!この人はいつでも、今が一番美しいと思わせる女優さんで、今まさに、本当に匂やかに美しい。この美しさはこの年齢にならなきゃ出ないもので、闇の中、二人が初めて出会う場面、あんな闇の中なのに出雲がすかさず彼女を見つけて「いい女だ!」とまさにかぎあてるのは、うんうん、さすがあんただ!とか言いたくなったりして。それにしてもこの場面も、染五郎氏の江戸っ子的優雅さがイイんだよなー。夜の闇の中、相棒に船頭さんさせて、夜空を見上げて船底に寝転びながら川をゆっくりと下ってゆく……似合うんだよねー、ほんっとに、これが。

……人の話ばっかりしてて話が見えやしない。えーと、だから。出雲は歌舞伎役者ではあるんだけど、もともとは鬼御門と呼ばれている鬼殺しの組織の副長だったのね。この鬼御門っていうのは、江戸に跳梁跋扈する、人に化けた鬼をかぎわけて退治する役目を負っているわけなんだけど、出雲はその血なまぐさい仕事に夢中になってて人から恐れられてた。で、ある日、迷い込んだ(阿修羅城だということが後から判明する)廃墟のような場所で、自分の心の弱さを覗かれたような恐怖から、斬ってしまった女の子からは赤い血が流れた……人を斬ってしまったショックで、その時から出雲はパタリと鬼御門をやめてしまうんである。
んで、そんな出雲の前に現われたのが、このりえ嬢ふんする椿である。彼女は5年より前の記憶がない。渡り巫女たちに拾われて、その影の姿である盗賊団でも華麗な身のこなしを披露している。彼女が元から持っていたものは、たったひとつの椿のかんざしだけ。
盗賊団が暗躍しているその途中に、彼女が負傷して橋げたのところにいるのを、川くだりをしていた出雲が見つけるんである。そして彼女が落としたかんざしを拾ったことで、その運命の赤い糸は始まった。
彼女はその右肩に、謎の、バラのような赤いあざが出来ていた。それが日に日に大きくなる。それにおびえる気持ちの増幅と比例するかのように、出雲に対する熱い恋心が大きくなってゆく。
一方で、出雲のかつての仲間で、野心たっぷりの鬼御門、邪空が妖かしの鬼、美惨と密約を交わしている。阿修羅となるべき女を捜し、彼はその巨大なパワーを手に入れたいと思う。そのために、この美しくも人の身ではない美惨と交わりもする。こちらの交わりは出雲と椿のそれと違って、どこまでも陰惨に黒い心に満ちている。

ああー、そうなのよね。出雲と椿の交わりがッ!あっと、いきなりそこまで話が飛んじゃまずいか。じゃ、まずこっちの話からしよう……だからりえ嬢が美しいんだってば。自分の身が判ってない、つまりは街娘風のその可憐な小袖姿は、前髪おろしてるし若々しい風貌なんだけど、でも隠しようのないこの妙齢の美しさ。自分の身が判ってない、ってところがまた何とも危うげな色香を感じさせるのよねー。で、この時に肩のあざを見せるでしょ。細すぎるほどに細い、そして白すぎるほどに白いその肌をぐいっとあらわにする、緩められた着物の襟元がたまらんのである。そして盗賊団の時のいでたちもいい。うーん、くの一って感じ?いやあ……実際いい女だわよね。で、最終的には阿修羅になってしまうんだけど、これまたピッタリ。だって彼女ってあの鼻の横のほくろのせいかお釈迦様風の雰囲気がある上に、あの美女っぷりで恋の匂いを漂わせているからさあ。でも、あの、宙空に浮かんで光り輝く顔デカのCGはどーにも、キビしいんだけど。
そして、やはり染五郎氏との絡みである。歌舞伎風のキメキメな形で染五郎氏が後ろから抱きすくめ、近づく唇……染五郎氏は髪もざんばらと長くて、それもまたどこか退廃的な美しさ。ああっ、イイ!いいわー。二人の恋のクライマックスとして交わるシーンも用意されているんだけど、またそれまた……まあスターのお二人だから、それも適度な程度ではあるにしても、やっぱりうっ、美しい……鼻血出そう。そのきっかけとなる、出雲の肩の傷をそっとなめる椿ってのが、ぞくっとするほどなまめかしくて。このラブシーンは近年まれにみる美しさ。妙齢の男女の機微がある。やっぱりこのシーンはさ、邪空と美惨のそれとの対照っていう目的もあるよねー。

でもここで思い出してしまう、椿。自分が何者なのかを。五年より前に何があったのかを……あの時出雲が殺した女の子、それこそが自分。その少女の姿のまま、誰からもかえりみられぬまま、ずっとずっと生きてきた女の子は、自分を殺してくれる人を探し求めていた。その相手が、出雲だった。
それはまさしく、真実の愛を求めていたことに他ならないんだろうけれど、それを知って出雲は狂乱のごとく苦悩する。だって、自分が愛した女を自分の手で殺めて、そのことを今、二人で同時に知ってしまったんだもの。
椿は過去を思い出すと同時に、出雲への恋が真実であったことも自覚してしまう。そして、彼女のさだめが今ここに姿を現わす。そう、彼女は阿修羅となってしまい、さかしまの城へと消えていった……。

それを出雲は追いかける。阿修羅だろうと何だろうと愛する相手には違いないから。この単純なまでのまっすぐさがなんともたまらなくイイ。ジャマする邪空によって手負いの傷を負いながらも「お前に対してももう手加減する気がねえんだ」今までは手加減していたのかと言う邪空に「それが俺の甘さよ!」血にまみれながらも、こういうキザな台詞を言うのが強がりじゃなくてホントに地だろって思わせるのがスゴいんだけど、色っぽい。……まったくどこまでもキザなんだからねえ、この兄さんは。
邪空はここで一度出雲にやられちゃうんだけど、阿修羅によってよみがえる。それは阿修羅が恋する出雲にここまで来てほしいから。二度までもやられなきゃいけない邪空はここまでくるともう憎まれ役って感じでさえなくなる。出雲を道連れにしようとすると、気持ち悪いな!と反されちゃう始末だし、何よりまたまた出雲のカッコよさが際立っちゃうんだもん。そう、出雲、もうキメ台詞出ちゃうもん「悪いな、邪空つきあえなくて。女待たせてるもんでな」出たッ!
そして、待ちに待った出雲と阿修羅の斬り結び。お互いに今はこうすることでしか愛を確かめ合えないし、そしてそれはセックスよりももっと、究極に、愛を確かめ合う方法に他ならない。そのことが嬉しくて仕方がないという表情にしか見えない阿修羅が、嬉々として出雲に斬りかかる。それを最大限の愛をもって出雲も受け止める。愛のシーンだよねー……そして必殺!出雲が繰り出した赤い糸攻撃で、二人はまた、あの愛し会った恋人時代のように抱擁を交わして……江戸の町は炎に包まれる。ざんばら髪になると女より色っぽい染五郎氏に、凄みのある美貌に笑顔を浮かべるりえ嬢、凄まじいよなー、ホント。

いかにも邪悪な野心剥き出しの邪空→渡部篤郎や、ワナに落ちるのもしょうがないほどの魔性の美女、美惨→樋口可南子は無論手堅いところなんだけど、やあっぱり、天衣無縫とも言うべき小日向さんの四世鶴屋南北が最高だよねー。鶴屋南北がこういうキャラになるってのも意表をつかれるんだけど、それを彼にしかない可愛らしさで、多少(どころか相当)強引なのもイヤミなく見せちゃうのがね、イイわけ。どんなことがあっても、そうそれはたとえ江戸中が鬼だらけになって、火の海になっても、阿修羅が降臨したって「おもしれえじゃねえかよ!」と興奮しちゃうっていうのが凄いわけ。いやー、カワイイわ、もう小日向さん。この中では彼が一番好きだったなー。
んで、彼のお弟子さんで、つまりは完全なワキながら、いちいち笑わせてくれる大倉孝二もメチャ面白い。邪空が出雲の稽古場に椿を追っかけてきて、舞台上で斬り結びが繰り広げられるところなんか、客席で白塗りの幽霊?のカッコのまま腰抜かす彼、最高に可笑しい。それも、引きの場面で、別に彼がアップになってるわけじゃなくて、しかも後ろ姿だけなんだけど、これがやけに可笑しいのよ。もう一人お弟子さんがいて、相方とも言うべきこの彼との息もピッタリ。お師匠さんの無理難題に、彼と顔を見合わせてまるでダチョウ倶楽部のように「いやいやいや!」と言うとことかさー、何とも絶妙なとぼけた面白さがあるんだわ。

そして夜の闇。これがこの作品の魅力でもある。これって「陰陽師」でも言ってたような気もするけど、こういう時代設定、こういう舞台背景でやっぱりこれは大事って思う。きちんと暗い。暗さの中に目を凝らさないと見えない。目を凝らすと、見えないものまで見えてくる。妖かしのもの、鬼たち……そういう世界。しかしこれがその妖かしの世界に突入すると、もうまばゆいばかりにCGで光り輝いてて、うわっとか思うけど……まあ、それも対照でいいのかなあ。
でもね、阿修羅がその神々しいばかりのお顔をオレンジの光りであたりを輝かせながら浮かび上がっているのに、それと対峙しているこっち側は相変わらずベッタリの闇の中っていう切り返しは、なんかいかにも別撮り(当たり前だけど)って感じでええー、とか思っちゃうんだけど。あーいう場合はやっぱり、会話しているこっちがわにも彼女の光が当たっているべきなんじゃないの?

ラストクレジット、カットで見せていく染五郎氏とりえ嬢のシーンは浮世絵のように美しく、ジャジーに歌われるスティングの「マイ・ファニー・バレンタイン」が、これが不思議にハマってしまうのが凄い。★★★☆☆


アナライフ
2005年 83分 日本 カラー
監督:合田健二 脚本:合田健二
撮影: 音楽:レイ・ハラカミ
出演:高橋伸禎 増田あゆみ 横田陽平 畑中啓司 水野五郎 寺山直哉 芦田朋子 今村有里 西村裕子 中村梨沙 甲田貴子

2005/4/8/金 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/レイト)
これはかなり面白くて四つ星はいくわ!と思ったのだけれど、賛否両論分かれているらしいラストで私もまたつまづいてしまい、思わず星一個落としてしもうた……上映最終日だったこの日は上映前にトークショーがあり、監督がこのラストについて触れていて、ラストの謎はかなりバッサリ切って残った部分で、パンフにはその切った部分が載っているから……なんてことをおっしゃっておられたんだけど、それなら全部カットするか全部入れちゃうかどちらかにしてよー、と思ってしまう。いい、悪い、とか、面白い、つまらない、とかいうことさえ出来ない、私には単純に意味が判らなくて……なので、私にとってはこの映画はラスト前までの部分で終わってて、頭の中からラストがキレイに排除された印象になりかねないというか。確かにこの部分に監督さんの意図は盛り込まれているのだろうし、その最初から、しんねりとラストで描写される「森のくまさん」は歌われているんだけれど……。つまりは、この三人が、それぞれの身体に感じている無気力が、もっともっと大きな無形なる力によって見据えられている、みたいな、かなり壮大な哲学的なものも感じなくもないんだけど、でもそうだとしたら、壮大なものをバッサリ切ったら、残ったものでそれを感じるのは……やっぱりムリなんじゃないの。かけらを拾っても元の形は判らないもの。判ったようなふりもしたくないし、考えるにしても材料が足りなさすぎる。

……なーんて、まず気になっていたラストのことをばばっと言っちゃったけど、まあバカな私にとってその難解なラストをのぞけば、とても面白かったのよ。というか、ラストの部分はカットにしてもリズムにしても、急に普通の映画になっちゃった気がした。つまり、それまでは普通の映画じゃなかった。映画において今まで見られた手法は数々あれど、それを思いっきりミックスしまくって、ここまでのリズムに乗せてくるというのは、まさに他に見たことのない非凡なものを感じた、のね。だからそのリズムが急に“普通の映画”のリズムに落ちてしまったのが、すごく、すごーく残念に思えちゃって。
三人の男女のひたすらのモノローグでつづられるんである。モノローグでつづられる映画は数あれど、ここまで徹底して、徹頭徹尾モノローグだけで進行する映画というのは初めて見る。しかも映像も、自由自在に分断される。一画面に何枚ものシーンが同時進行する。まずモノローグしている主人公がいて、その彼が見ている映像が切り取られていて、身の回りのものや、彼がしていることなどが、さらに同時進行する。これには目からウロコである。ああ、確かにその人がいて、その人が見ていることがあって、その見ていることというのが彼のモノローグ、つまりは考えていることに直結していて、身の回りのことや彼のしていることは、そこからつながっていくものなのだと。確かに観客である私たちはそれを同時に見たいと、見せられて初めてそんな欲望があったことに気づく。分割画面で同時に見せられても、これが不思議と混乱しないのは、その全てがそんな風に不可分のものだからだろうと思う。無感動なモノローグは不思議に心地よく、無感動さを心地よいと感じることはヤバいのかもしれないと思う。言葉の洪水。それは人間が作り出した鎧に身を任せているような安心感。

最初に登場するのはレイプ男。日常的にレイプをしている男である。本当は腹を立てたいところなんだけれど、こんな具合に淡々と語られるから、思わずなるほど、などと思いながら見入ってしまう。彼は無気力を感じている。自分の身体の感覚への違和感。それを埋めようとレイプを行なう。しかも、まるで職人的に行なう。性的衝動があるからじゃなくて、レイプをするとその無気力さから解放されるのだ。
この感覚というのは、二番目の死体写真にとりつかれた女にも共通してくる。彼女もまた無気力にとりつかれている。死体を目にして、その死体がもはやヒトではないことを知る。もう、モノなのだと。死の瞬間を越えてどんどん腐乱していく死体を、まるで科学番組よろしく、克明に説明していく。まず消化器官がヤラれる。今までは食べ物を消化していたのが、自らの消化器官を消化し始めるから。膨張し、ウジムシに食い尽くされ、果ては白骨となるまでを、感心するほどの科学的描写で連ねていく。それは、死体がヒトではなく、モノだということを語っているにほかならない。
それから彼女は急に運動をし始める。荒い呼吸と波打つ心臓は、自分が生きているんだと、その存在を自身に教えてくれる。逆に言うと、そうでもしないと自分自身の存在を確かめられない。
レイプ男は、街ゆく人々が、心を持ち、何かを考えているとはとても思えないのだという。あまりにも都会には人があふれていて、まるで記号のようにただただ歩いているように見える……というのは、確かに判る気がする。あの中を歩いていると、まるで障害物競走でもしているような気分になる。障害物を避けながら歩いているだけの、人という存在。

三番目のゴミ男がゴミをあさるのだって、きっと同じ理由。ゴミの中には人間の生が、あるいは性があふれている。でもそれは捨てられたそれであって、焼却される前のそのひと時、かろうじて死の手前にはいるけれど、限りなく死に近い状態にある。そう、あの死体写真女は言っていた。死体はもはや死ではないのだと。ヒトではないのだと。それはモノなのだと。“死”は、その言葉の時点、その瞬間までは生であるとも言える。人が死を迎える瞬間は、人は人であって、死体ではないから。でも、本当にその瞬間だけで、あっという間に生の尊厳は飛び去り、死の瞬間と同時に死体というモノに代わってゆく。ゴミ男がゴミにとりつかれるのは、その瞬間がまさにここに山積しているからだ。定期購読できるほど決まったルーティンで捨てられる雑誌たちは、でもだからといってそんな雑誌を読んで何か身になるというわけでもない。だってそれは、もう死を迎えているから。ゴミ袋の底に紛れ込んでいる小銭に彼は呆然とする。“世の中には小銭をゴミだと思う人間がいるんだ”と。その小銭たちも今死の瞬間を迎えている。彼が拾い上げて使ってあげれば、かろうじて生の方へいけるかもしれないその瞬間のはざまにいる。ひっそりと捨てられたテレビを軒並み持ち帰って、映りもしないのに、そのノイズの光線で癒される彼。それもまた、死の瞬間がずっと続いている光りに他ならないのに。彼の家に持ち込まれたことで、懸命にその境界線上でバランスをとって、死にひきずりこまれないようにしている苦しさを感じてしまう。その光りに彼が感じる優しさや居心地良さとは対照的に……。

そして、捨てられた写真。女の子たちが、否定したい自分として捨てた、ちょっと顔の崩れた写真にゴミ男は欲情する。だって、確かにそこには、すました写真にはのぞむべくもない生のエネルギーが、しかも死に瀕しているということで、奇妙なエロティックを醸し出しているのだ。女の子たちが殺していく自分の姿は、とても生き生きとしていて、だからこそそれを捨て去ることで、彼女たちは蝋人形のように生気を失っていくのか。
死体写真に執着する女もなんだか似たものを感じる。このゴミ男の拾ったゴミの中に、この女のセルフヌードがあった。彼女が死体写真にとりつかれるようになったのは、ただただ人殺しをする男に出会ったから。彼女は死体がヒトではなくモノであるということに絶望しながらも、魅了される。そして自分はそのモノではないんだということにすがろうとする。でもゴミ男が知ったこの彼女の、しかもセルフヌードの写真は、まるで生も性も感じさせないのだ。オナニーまくりの彼も、この写真ではヌかない。でも彼女はこの殺人者とは、いつも彼が殺しを行なった後交わっている。この男は、ただ殺しだけを行なう。まるで見知らぬ人を、何の理由もなく殺す。何の理由もないから、つかまりもしない。本当に、感動してしまうほどに、殺すことしかしない。あるいは、そのあとで彼女とセックスすることしかしない。言葉も交わさずに。それでも彼は彼女とのセックスでそれなりの愛撫はする。でも彼女は何も感じない。そのことと、死体がモノであることに恐怖して、彼女は自分自身をつかもうとあがきはじめる。

この彼女にはまた別に印象的なエピソードがある。それはあのレイプ男からつながってくる。レイプ男が犯した女の子が、彼女の友人だった。その事実を相談されて彼女は同情した。そして相手から告白されて、同性ながらも恋人として付き合うようになった。恋人と過ごす時間は楽しかったし、普通に肉体関係も持っていた。満たされていると思っていた。でも、その子は突然、踏み切りから電車に飛び込んで、死んでしまう。
彼女は、自分の肉体を犯されることによって、そしてこうして自ら命を散らすことによって、肉体としての、人としての、鼓動を打つ人間としての自分を感じながら死んでしまった恋人を、うらやましく感じていたんじゃないかと、思ったりもする。
だって、死は最も、生を感じられることなんだもの。それは生とモノの間の一瞬の境界線上だから。あまりの刹那だから。覚悟しだいでどちらにもいけるから。

いわゆるハウツーモノとしてレイプ男の話が、不謹慎ながらも一番面白かったりしたんだけど、ただちょっとズルい感じもしたんだよね。彼、最後に通りがかりの少年たちに襲われてオカマをほられちゃうでしょ。勿論それは、このエピソードの三人が、最終的に肛門科に集うというオチ(以降があの謎のラスト)のためではあるんだけど、、映画というフィクションの中で語られるにしたって、どうしても許せない気持ちを拭い去ることは出来ないレイプという行為に対しての免罪符みたいに思えちゃって、ね。
いや、というか、そういう行為なのに、ついつい納得して見ちゃっていたから、このどこか罪滅ぼし的なオチで、あ、納得なんかしてる場合じゃなかったんだ、と気づいちゃったのが逆に……もったいない感じもしたりして。
ところどころに、そんな風に、ああ、せっかくこんな風にスムーズに展開していたのに……と、その急なブレーキにとまどうことはある。多くをしめてはいるけど、死体写真女が殺人男に犯されるのも、別にいらなかったんじゃないかという気がしちゃう。ただそれを省くと、彼女が肛門科に行く理由……殺人男が殺しそこねた相手に襲われ、鉄棒で腹部を貫かれ、ちょうど交接していた彼女がその肛門に鉄棒を受けちゃったという(おいおいーーッ!)オチが成立しなくなっちゃうんだけどさ。ゴミ男の理由は最もくだらないからこそ、好きだった。ゴミの中の浣腸剤にコーフンし、それを自分で試しちゃって、何かヤバいものが入っていたのか、激痛に苦しんで病院行き、という……(笑)。肛門科に行くならこういうオチが王道でしょう(笑)。

このゴミ男が、ある家庭のゴミから、その家庭の崩壊の様をリアルに感じていく、というのもかなり面白いエピソードだった。まさに、このゴミ男が言うように、ゴミには全ての情報が詰まっているのだ。不審なビジネスレターから父親の不倫を突き止め、ハッキングまでして不倫メールを覗き見る。夫の浮気に気づいたのか母親にキッチンドランカーのケが現われる……のは、一日一本の割合で一升入りの酒の紙パックがゴミに捨てられるからであり、酒はやめたかと思ったら、今度はシュークリームの箱が毎日大量に見つかる始末。娘のゴミからはヤバいドラッグの残骸から始まって、使用済みの妊娠検査薬(ちなみにネガティブ)までもが出てきて、かなりすさんでいるらしい。対外的には理想的な家庭、理想的な夫婦、理想的な親子、に見えているエリートファミリーの実体が、ゴミによってあばかれてしまうのだ。過去として殺していったはずのゴミによって。死というギリギリのところで、そのゴミもまた、まだ生の領域とせめぎあっているのだ。

数が、印象的に示される。レイプの親告数、検挙率、実際の犯罪数。人が死ぬ数、その中で殺される数、その確率、それが運がいいのか悪いのかと、言う。悪いに決まってるんだけど、そんな確率に当たるということが、ふとものすごい運の良さに思えて呆然とする。一体、私たちは、生きたいと、本当に生きたいと思っているのか?
……という、深刻な考えにいたるから、あのラストの、よく判らないけどなんだか哲学的な展開が、本当にビシッと決まるものだったら良かったのかもなあ、と思ったりする、んだよな。★★★☆☆


アメノナカノ青空…ing
2003年 104分 韓国 カラー
監督:イ・オニ 脚本:イ・オニ
撮影:キム・ビョンソ 音楽:パン・ジュンソク
出演:イム・スジョン/キム・レウォン/イ・ミスク

2005/12/20/火 劇場(渋谷シネクイント)
ああ、久しぶりに秀逸な邦題だな、と思って。原題とは全然違うんだけど、作品中に出てくる、一見黒いこうもり傘に見える、その中が青空に白いちぎれ雲を散らしたデザインになっている傘、それを青年が、ヒロインの女の子に、「今日、夕立だって!」と階上からふわりと落とすシーンが印象的になってて、そして二人寄り添う雨の中のあいあい傘のシーンも、良くて。
でも、原題も、いいんだな。「……Ing」何かをし続ける。観終わると、何か、が判る。愛し続けること。その、尊さ、美しさ。

ちょっと、「八月のクリスマス」に似てるなと思ったのね。細かい設定とかが。例えば青年が写真に携わる仕事をしていたり、余命いくばくもないのが男性から女性にシフトしてたり、女の子が青年をおじさん、なんて呼んでみたり、そして二人の間には何も、キスや抱擁すらなかったり。それでも二人は確かに恋していたし、愛していたり。
でも、そういういわゆる普遍的な要素というのが共通していても、ラブストーリーというのは千差万別に作れるんだな、と感心したりもする。
女の子は、愛まではいかなかったかもしれない。青年に恋をしたまま、命がついえた。母親が、最後に望んだことだった。人間の、特に女の子にとって人生のかけがえのない大切な、青春期の恋。それをどうしても味あわせてあげたくて、少しでもミナに幸せをあげたくて。
だから、片思いで良かったのだ。恋をする気持ちを与えてあげたかった。だから青年、ヨンジェにミナに近づくことを依頼した。
誤算は、青年がミナを愛してしまったこと。しまった、なのだろうか。でもとにかく……ミナは恋だったけど、ヨンジェの彼女に対する気持ちは愛だったと思うのだ。
どちらが幸せなのか、判らない。初めての恋の幸せを胸に抱いて天国へと旅立ったミナ、愛する彼女を失う苦しみと引きかえに、一生忘れられない思いをもらったヨンジェ。恋と愛は、どっちが幸せなんだろう。

ヨンジェは、でも、いつからミナの母親、ミスクにミナとつき合うことを依頼されていたのかは、気になるところである。ライターを渡した時にそうだったのか。床にケイタイ番号を書いた時は?ケイタイの番号やメールを教えたのはミスクだったのか……全てが気になってしまう。
別にどこの時点でも、ヨンジェがそれを乗り越えて彼女を愛するようになったことが大事ではあるんだけど……最初に彼がミナを見つけた時点では違ったような気がする。
そう、まさに、見つけた、だった。窓辺でヘッドフォンをして音楽を聞きながらタバコをふかしているミナに気づいて声をかけるヨンジェは、とても“依頼”されたように見えなかったから……。トンだ不良少女だとからかうようにしか見えなかったから。そして……その出会いは確かに運命的だったから。

その時、ミナから彼女の父親の形見であるジッポを借りたヨンジェ、翌朝、ミナとミスクに行き会い、ミナにすぐ返すからネ、なんて目配せして、ミスクには、下に越してきた者です、なんて挨拶して。あの時が、ミスクがヨンジェと初めて会ったと思えてならないんだ。そしてミスクが彼ならば、と思った、と。
それならば、ミナとヨンジェの出会いは全然、仕組まれたものではないじゃない。ヨンジェは最初からミナに興味を持っていたし……「ひと目惚れ」っていうのはウソにしても。
そう、「ひと目惚れ」はウソで良かった。ひと目惚れはロマンチックだけど、だんだんとこのぶっきらぼうな女の子をほっておけなくなる、いとおしく思うようになる、方がいいに決まってる。

そう、ミナはぶっきらぼう。でも判る。この年頃には、アイソがいいって方が信用できない。社会に出れば、どんな人間だってアイソのいい演技ぐらい出来るようになるんだもの。こんな風に不器用な女の子の正直さがカワイイ。だってそこには、“本当は気になって仕方がない”って気持ちがバレバレなんだもの。母親のミスクもそれを見越して、娘の恋心をきっちり仕向けていくし。
そう、自分にも覚えがあることだから、そして何たって娘だから、母親はミナの恋心ぐらいは、言ってしまえば操作できたのだ。想定外だったのは、ヨンジェがミナを本当に愛するようになったことだった。

ミスクはヨンジェに、ミナと一緒にいることと同時に、彼女の写真を撮ることも依頼していた。死にゆく娘の思い出を形にしておきたいと思うのは当然だろう。青年がカメラマンであるということも好都合だった。でもそのことが、彼の、ミナへの愛をはぐくむことになる。
きっと、写真が好きな人はみな、そうなんだろう。自分が撮った、気に入った写真を部屋の壁に貼る。ミナが彼の部屋を訪れた時、彼は自分が好きなハワイの写真や、そこのウミガメの写真なんかを飾っていた。ミナはそれを見て、彼の愛するハワイに行ってみたいと思った。それまでは、何度もビデオを繰り返し見ている、憧れのバレエの本場、ヨーロッパに行ってみたいと思っていたのに。
そして、いつしかヨンジェの部屋は、そうしたハワイの写真の替わりに、撮り続けたミナの写真でいっぱいになっている。
最初は彼の向けるカメラにぎこちなく、不機嫌な顔を見せていたミナは、次第に表情が柔らかくなっていって……、すっかりリラックスしたその表情は、年頃の少女らしく、とても可愛いのだ。

ミナは、学校で友達がいない。そもそも、学校に通うこと自体、高校生になって初めてぐらいである。ずっと入退院を繰り返してきたミナ。でも実は……病気が治ったわけではない。ミナ自身、治ったから通常の生活が送れているんだと思っていたけれど、そうではなかった。母親の裁量だったのだ。もう、ミナの病気は治る見込みがない。病院にいても数ヶ月伸びる程度の余命ならば、出来る限り娘のそばにいて、幸せを与えてあげたい、とミスクは思ったのだ。
正直な気持ちは、前者の方が重かったかもしれない。愛する娘のそばに、出来る限りいたい。
それは、愛する人が残してくれた最も大切な宝物だから。
ミスクの夫、つまりミナの父親は、海軍だったというだけで、どうして死んでしまったのか、どういう人物だったのか、まるで語られない。海軍、……戦死だったのかな。ヨンジェが聞こうとすると、「パパのことを話すと、ミスクも私も悲しくなるから話さないの」という台詞で終わっちゃうし。なんか、不必要にミステリアスにしちゃってる気もするんだけど。

でも、……強く印象に残るのは、そう、だから、ミスクは、愛する人にまたしても去られてしまうということなんだよね。
一人に、なってしまう。
愛する夫に去られても、愛する娘を残してくれたから、今まで生きてこれた。でも、その娘までも天国に召されようとしている。ひとりぼっちになってしまう。
ミナはそのことを悟ったから、母親を心配して、でも自分が死ぬってことを気づいてしまったことは隠して、「私が結婚したら、ミスクは一人ぼっちになっちゃうじゃない」と再婚を勧めたりする。
つまり、ミスクはもう数ヶ月の命である娘に告知をしていないわけで、それをミナはミスクのベッドの下に隠されていた日記で知ったわけだけど、このあたりは……ちょっと、難しいよね。

今、こうして書いてみて初めて気づいたぐらいなんだけど、物語の進行は完璧に進んでいくからそんなことにはホント、気づかないんだけど、あと数ヶ月の命の娘に何も告げずに、出来る限りの幸せを与えてあげよう、それには恋だ!とか仕組むのって……ちょっと母親の強引さが気にならなくも、ないなあ。
それをミナがミスクに気づかれずに知ってしまって、母親の思いを汲み取って、ていうのは判るんだけど、死にゆく運命を初めて悟った女の子が、たった一晩泣き通すぐらいじゃ、すまないよな、とも思うし……。
こういう、思う側を優先させるゆえの違和感って、「ラスト・プレゼント」とかもそうだけど……韓国映画は、つーか韓国は、思う側が、もう思いすぎて、結構ルール違反ギリギリだったりするよなー。でも本作では後からはそう思うけど、見てる時には案外感じないのは……恋する二人の思いが繊細に、丁寧に描かれているからかもしれない。

せっかく、やっと普通の女の子の生活を送れるために、とミスクが思ったに違いないミナの高校生活が、まるでつまんなそうで、一人も友達が出来ないっていうのが気になる部分ではあるんだけど……でもここでヘンに優しい描写にしない方がいいのかなあ。でもね、母親が友達代わり、はステキだけど、でもかなり哀しいよ。基本ラブストーリーだから尺的にムリだってことかもしれないけど、ミナに高校時代ならではの友達を作ってほしかったなあ。
ミナは、左手が奇形である。“機能は普通よ”ということでか、ちゃんと見せる場面がラストにしかないので、不必要に気になったりもしちゃうんだけど、つまり、指が足りない、その分、指が太くて、つまり、ゲンコから無造作に分かれたような手をしていて、ミナは、普通に使えるその手を、一人部屋の中にいる時でさえミトンで隠しているんだよね。

“一人部屋の中でいる時でさえ”ってところが、彼女の心の闇を如実に物語っている。ラスト、カメラマン(のタマゴである学生)のヨンジェが卒業制作かな、グループ展を開いてて、そこにミナのその手をとらえたカットが展示され、観客は、「何コレ、人間の手?キモチワルーイ」と言って通り過ぎていくんである。そんな視線にミナはさらされていたからこそ、ずっとずっと、その手を隠し続けてきた。
でも、その写真はね、とても美しい、美しいものなの。
ミナが倒れてしまって、ついに意識がないまま天国へと旅立った。ヨンジェは彼女を愛しているってことを自覚して、自分の左手の薬指に指輪をはめ、サイズが判らなかった、ってだけじゃないと思う、この奇形の手じゃサイズがなかったんだと思うの、ミナの分は、チェーンを通してブレスレットにして、意識の戻らないミナの左手に、泣きながらそっとはめてあげるの。とてもとても、美しいシーン。
うたた寝をしていたヨンジェ、ふと目を覚ますと、母親のミスクがミナのその左手を握って寝入っている。ずっとミトンで隠し続けていたその左手に、ヨンジェのブレスレットが繊細に光っている。
この時、もう、ひょっとしてミナは天国に召されていたんじゃないかと思うような、静かで、穏やかで、美しい、時間の止まった一瞬を、ヨンジェはカメラに収めた。

ずっとね、きっと、ミナは聞こえていたと思うんだ。ヨンジェはミナの耳元でずっとずっと、ハワイのツアーガイドを語り続けてた。ウミガメはミナを待ち続けているよ、と。自分の運命を知ったミナが、ハワイには行けない、そう思って、水族館でウミガメを見ようと思ったけど、定期健診中で、見られなかった。ひどく落胆の表情を浮かべていたミナに、ハワイで見せてあげるよと軽く言ったヨンジェは、その時はミナの病状を知らなかったのだ。
ヨンジェが語って聞かせるハワイのお話しに、意識がないはずのミナのまなじりから涙がひと筋、流れる……。

ヨンジェは、ミナに、“ライターを返す代わりの人質”として小さなカメを託していた。引き離されると死んでしまうというつがいのカメの一方を託し、それでもライターを返さないから、ミナはつがいでカメを引き取ることになる。ゆっくりと歩く様がなんとも愛らしいカメにミナは愛着をよせる。
カメのように、ゆっくりと人生を生きられたら良かったのに。ヨンジェの部屋に貼られていたウミガメのように、この小さなカメも大きくなるのかとミナが聞いたのは、そういう意味だったに違いない。ヨンジェは、ハワイのウミガメと金魚鉢で生活しているカメは違うだろ!と一笑に伏すんだけれど。

ミナが、アコガレのトウシューズをはかせてもらう場面は、すんごい美しかったなあ……ヨンジェの写真にも残されているけれど、本当に、少女の一瞬の美しさ。ネクタイにニットのベスト、ミニのブリーツスカート姿のミナが、床に座って、バレエスタジオの女性にトウシューズのリボンを結んでもらってる、光に満ちたその写真は、何か、岩井監督の「花とアリス」みたいだよね!バレエスタジオのシーンに限っては、ほおんと、濃厚に「花とアリス」チックだよなあ。韓国では岩井人気が凄いらしいし、ひょっとして意識した部分があるかも??

ミナの、奇形の手にはね、フリークスみたいな趣があるんだよね。その手のことを、ミナは始終隠しているぐらいなんだから、ホントに気にしているんだけど、ヨンジェが、「(宇宙人の)レーザー発射だー!」とおどけてみたり、ミスクが「本当の父親は宇宙人なの」とからかってみたり、とにかくカルくしようとしてて……でもだからこそ、その重みは、ホントに……重いんだよね。
ミスクがひたすらジョークにまぎらわしていたのは、ちょっと納得いかない部分もある。こういう手の赤ちゃんだと知って中絶した人もいる、だけどママはなぜ私を産んだの?という問いに、何もジョークでまぎらわす必要はなかったんじゃないの。あなたを愛しているから、というだけで充分じゃない。
ま、父親が宇宙人、って話に、「……三秒(三十秒だったかな)だけだまされた」とソッポ向いて言うミナは可愛かったけどね。

宇宙人、っていうのは、でも含みを感じる。地球外の生命体。つまりは、天使。
ミナが、天使として、あの世に召された、っていう意味にも思える。

物語にちょっとしたスパイスを加える、ミナの通う高校の前の交差点で交通整理をしている“旗手”の男のエピソードがなかなか効いてる。この高校に通う女学生に思い焦がれて待ち伏せしていた彼、目の前で彼女が交通事故死して、それ以来、交通整理をしているという。彼女が死んだ時と同じ雨の日は、泣きながら旗を振っているという……この物語の中ではいかにもお伽噺だけど、自分の運命を悟ったミナにとって、この旗手のエピソード、「死んだ人を思い続ける」っていうのはかなり効いている。ま、それを相手に押し付けているとも思えるんだけど……正直。

母親の思いをくんで、そしてヨンジェへの思いを自覚して、「私は、今、幸せなの」という台詞は、母親がいずれ読むであろう、ベッドの下に隠されていた日記にこっそり記された言葉、それを読んで母親は号泣し、その頃、ミナが残した、スケッチブックのヨンジェへの思いがたっぷり託された絵と言葉(ミナは絵が得意だったのよねー)にヨンジェもまた、溢れる涙を抑えきれないんである。

美しい物語だと思いつつ、母親のミスクはともかく(立場上、ミナの願いどおり再婚しても問題ないだろうし)、ヨンジェが彼女への思いを抱きながら、交通整理をしている旗手みたいに彼女への思いを持ち続けて、っていうのもちょっとツラい気がするんだよなあ……。★★★☆☆


雨よりせつなく
2005年 87分 日本 カラー
監督:当摩寿史 脚本:飯田健三郎 森下佳子
撮影:藤澤順一 音楽:佐藤史朗
出演:田波涼子 西島秀俊 黒坂真美 深浦加奈子 綾田俊樹 笹野高史 杉崎政宏 池田政典 中村靖日 鈴木雄一郎 栗山かほり 田村直子 恩田括 原楠緒子 伊藤俊輔 岩本昌子 大高佐知子 杉本佳奈子 斎田吾朗 中村良平 澤田よしみ 加藤太郎 大河内浩

2005/2/1/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
27歳のOLの、恋愛とその先の結婚と、それと天秤にかけなきゃいけない今まさに充実している仕事と。そしてその相手の、見せてくれない心のうちと、自分自身、今まで引きずってきた恋愛と……今、立ち止まって、何かを選ばなきゃいけない、岐路の話、である。
そういえば、20代後半のこの頃って、うっわ、30になっちゃうよ、どーしよー!とか、何をどうしようというわけでもないんだけど、ちょっと焦ってた気分だったのは、確かにある。越えてしまった今、なんだかすっかりラクーになっちゃって楽しく生きてるけど。

ただね……こういう、20代の、ちょっと寂しい女の子の、恋愛と仕事が絡んだ話って、何でそのヒロインは大抵広告代理店なのかしらね。
撮影の裏側とか何とか……華やかで、どことなく昔のトレンディドラマっぽいわと思ったりして。そんな華やかOLの経験ないし、ずーーっと下っ端だからこんな風に自分で企画作ってバリバリ仕事、とかもないから、どーもこのヒロインが遠いんだよなー……それは私の単なるひがみだわね。
でもちょっと、その遠さは、それだけではないというか。このお話、その後、三年後の彼女が出てきて、かつての彼と再会するんだけど、その時まだブーツはいてるんだよなー。ブーツ……うーん、引き抜かれてバリバリ仕事している女性が、いまだにブーツかー。何となく違う気がするんだけど。これはでも、「君も変わらないね」という彼の台詞に対応するものなんだろうか。
そんなあたりが、微妙に、リアリティがありそうで、ちょっとだけズレているような気がする、このヒロイン。
演じる田波涼子が演技初体験だということで、頑張っている印象ながらも、抑制させようとしてるせいか、ちょっとぎこちない。これは、「ココニイルコト」の真中瞳の時と(そういやあ、職業とか設定も何か似てる)おんなじ感じ。

一方で、相手の西島秀俊はさすがの自然体。うーん、やっぱりこの人はイイよね。ビジネスマン(サラリーマンというよりこっちの感じ)の、スーツの彼というのは、これが意外に珍しいのかも。新鮮。リアリティがあるんだよなあ。ぼーっとしてそうで、実はなかなかデキるんじゃないかと思わせる。遅刻してきたヒロインを叱る場面なんて、彼の風貌からしても、何かホントにこっちが叱られてるみたいなリアリティがあって、そのことで彼女が彼に逆に惹かれていくのが、判る気がしちゃうのね。

同じ会社内で、同じように残業してて、カップラーメンを食べようとしたら自販機に箸が彼の分しかなくて、一膳の箸を二人で分け合った、そこから始まった。地味な出会いといえば地味だけど、その後同じチームとして仕事をすることになって、その不思議な偶然が彼女の心をときめかせた。最初のうち、彼の方は何となく牽制しているようにも見えたんだけど……。
この彼女、ちょっと恋愛体質っぽい感じはある。友人と出店しているフリーマーケットでは、「不良債権」だと言って、過去の恋人のために背伸びして買った、高価な服がズラリと並んでたり。
27歳。この年でする恋愛は、いわばそろそろ最後の選択ってヤツである。彼女もそこんところはそれなりに意識していたのか……彼女の友人は結婚を控えてラブラブハッピー。彼女に対して、恋愛をするなら20年後、30年後を見据えなきゃダメよとハッパをかける。今んとこ仕事も順調だし、引き抜きの勧誘までされているし、そんな友人の言葉を聞き流しているようにも見える彼女。
でも、このお話、この場面から始まるんだよね。彼女が電話を受けてる。その電話からは彼の声。「結婚しようか」ややあって答える彼女。「いいよ」
その時間軸から戻して、彼と彼女の出会いから始まる。そしてこの場面まで行き着いた時、その時、……彼女の心がここでは「いいよ」と言うほどには決定していないことが判るのだ。知ってしまったいろんなこと。

でもね、私は、ここで二人、結婚しちゃえば良かったのに、なんて思ったりもするんだよね。別にそう、決定的なことがあったわけでもない。
彼が、死んだ恋人のことを忘れられない。それは彼がやっと話してくれたことで、判ってた。そうして彼の部屋に出入りするようになって、彼が毎月飾っている一輪の花と、その恋人の写真がすべて破られたアルバムで、その思いが本当に重いものだということも判っていた……でもこのことを彼女一人でこっそりと気付いてしまった時点で、少しずつ、二人の位置がズレてしまっていたのかもしれないけれど。
彼のために食事を作っていたのに、そのアルバムを見つけてしまって、彼女は一人、その部屋を辞する。すると彼から電話がかかってくる。こういう時に携帯電話って、便利だけど……でも、今いる場所に、ウソをつくことが出来てしまうから、彼女。そして、心にも。
彼に、それを問いただすほどの若さもない。そっとしておいてあげたいと思う一方で、心にさざなみがたっている。そんなこの年頃は、もしかしたら一番やっかい。

ある日、彼が、いつもは一輪なのに、その日は花屋のその花を全部買って帰ってくる。彼女が部屋に来ていることは、知らなかった。彼女は彼がずっと探していたラジコンの飛行機を手に入れて、彼の喜ぶ顔を見たくって、今か今かと待っていた。だけど帰ってきた彼……「来てたんだ」そう言う彼の手にはその花束。それを見て彼女は、「……あたし、帰るね」ときびすを返す。その彼女を彼は引きとめ、その腰に顔をうずめる……。
まるで、まるで泣いているみたいに。
そしてその後、彼と彼女は最後のデートで、彼とその死んだ恋人が行くはずだった海岸に行き、やるはずだったラジコン飛行機を飛ばしてはしゃぎ……そうして、彼女は彼に言うのだ。「これ、(思い出)返すね」と。

何でかな……いや、判る気はするんだ。タイミングが悪かったんだよね、多分。彼と恋愛するタイミングが悪かった。双方何か、重い荷物を引きずりすぎてた。そしてそれを、ことさらに重く考えすぎてたんだ。
彼女は、今までひとつの恋愛を経る度に、思い出を全部、捨ててきた。破格の値段でフリーマーケットで売りさばいて、その金を友人とパーッと使って。
でも彼の思い出は、そんな簡単に捨てられるようなものじゃなくて……「あの道を通らなければ、俺と一緒にいなければ」そう自責の念にかられる彼と、そういう恋愛をしてきた彼女とは、やっぱり何か……比重が違いすぎたのかもしれない。
彼が、彼女に、そう、知り合って時間が経って、一緒に食事したり何だりはするけれどまだ恋人じゃなくて……彼女は恋人になりたくて、なかなか心を開いてくれない彼に、「なかなか話してくれないんですね、自分のこと」なんてコナまいたりして、でもそうやっていわば話すように水を向けた結果のこの過去は、あまりに重すぎたんだ。
彼がそれを彼女にやっと話してくれた時、彼女は、「幸せだね。10年間も思ってもらえるなんて」とまず言い、その後、自分が経てきた、なくしてきた恋愛話をするんだけど、これがいまひとつあいまいな上に、彼の話に対して比重が軽すぎて。彼が「ありがと」と言ったのは「幸せだね……」の台詞に対してなんだろうけれど、この時点からやっぱり何となく、二人の距離とズレを感じてしまってはいた。
会社で、窓と窓でお互いを見つけて、声も聞こえないままに、ニッコリと手を振り合う場面とか、素敵に見えながらも、あれはもしかしたら、決定的な距離と届かない気持ちを示唆していたようにも、思えたんだ。

でも、結婚しちゃえば良かったのにね、とやっぱり思うのだ。女が一人で生きていくのも幸せだと主張してはばからない私にしては珍しいけどさ。でも、彼女がここで諦める理由が、彼の重荷を投げ出したようにも思えたから。
だって、死んだ恋人を忘れられない彼って、素敵じゃない。
それで、彼は彼女と結婚して、この恋人の哀しい記憶から救ってほしいと思ったのかもしれないけど、そう思ってくれるぐらいには、彼女のことが好きだったんでしょ。
でも、そうじゃなくって、そう、忘れさせるとか、忘れてほしいと思うんじゃなくて、そのものの彼を丸ごと愛して、ただただ一緒にいればいい、と思えるようになれば良かったんだけど……でもそういうのって、それは確かに難しいことなのかもしれない。こんな風に仕事もがんばっている20代の女性にとって、そんな悟りはまだまだ先の、本当のオトナの女のなせるわざなのかもしれない。仕事をバリバリやる女性にも憧れるけど、そういう意味でのオトナの女には、もっともっと憧れる。 ただでも……彼にとってもこのタイミングではなかったのかなという気はするし、だからやっぱり……うん、タイミングなのかな。

お互い空虚なところを埋めあうように陥っていく恋愛関係だったから、そういう惹かれあい方だから、心の底まで話し合うことがなくて、だから、なんだかどんどん、辛く、苦しくなってくる。
それが、「切なさ」というものなんだろう、多分。それに、彼女にとってはまだまだ、恋愛は恋愛の範疇でしかなかったような気がする。一膳の箸のお礼にワイシャツを贈るなんて、恋愛の仕方があまりに重苦しいし。あのラジコン飛行機をひたすら探し回っているのも、判るけど、あれってもしかして、彼が自分で探したかったんじゃないかな……などとも思ったり。彼の言いにくそうな風は、そんな感じにも思えた。
彼女の友人。あの幸せそうな。単純に見えて彼女の方が、そういう重苦しさがなくって、単純に可愛くて、ある意味悟っている気がする、のね。
結婚の幸せに自信のあるこの友人。そして、仕事ができる幸せに自信のある先輩女性。そのどちらともつかない彼女。

でも、この友人に、彼女は何も話さなかった。この友人はそれなりに彼女の変化に気付いていて再三、「私に隠していること、ない?」と聞くんだけど、そのたびに彼女は「ないよ」と返す。この友人も単純で(まあ、愛すべき単純さだけど)「そう?」と聞き流しちゃうんだけど……ここでもう少し突っ込めよ!と一方では思い、一方では、彼女がこの友人を全然信頼してないのかな……という気もし。
それも寂しいけど、一人で全部かぶっちゃおうという、あるいは自分は一人で処理できるんだという、寂しさを抱えているのも自覚しているのに、その一方で仕事をこなせていることを、自分自身の処理能力だと思っちゃっているようなのが、彼女の更なる寂しさかもしれない、などと思う。
街の坂道を、自転車で勢いよくこいでゆく彼女。一人、部屋でのまったり感。
居心地のよさと、寂しさは、紙一重かもしれない。それを寂しさと感じたら、一人でいられなくなる。

でも、彼女、一人でいることを選んだんだね。それは、寂しいからという理由で結婚するというのも確かに違う気がする……もちろん、彼のことは本当に好きだったに違いないけど、好きだったから違いないからこそ、今はムリだったのかもしれないし。
でも、今、ムリなら、彼とはもう……ダメなんだよね。
彼女は引き抜きに応じたんだろう、三年後、一人でバリバリと動いている。そして彼と再会するけれど、その時には、ただ、久しぶり、で、その後何かが起こるわけじゃなくて。彼は、あの時彼女が贈ったワイシャツを着てはいるけれど、そして、「君も変わらないね」とは言うけれど。
もう、終わってしまったこと。
彼女は別れて道の反対側に行った彼に言う。「あたしのこと、好きだった?」うーむ、そんなこと、公道で聞くな、恥ずかしい。
でも、ちょっと笑って手をあげる彼は素敵だった。そしてここでようやく、本当の意味で二人は終われた気がした。
かかってきた電話。あの友人が宣言どおり、三年後に赤ちゃんが出来た。あの時、幸せそうに人生設計を披露する友人にイライラとしていた彼女だったけど、この時は素直におめでとって言えてて、彼女は今の人生、充実してるんだ、よね?
もう、30になった彼女。その顔は晴れ晴れとしているような気がする。彼との再会も、彼と付き合っていた頃よりずっといい顔をしている。

でもね……一人って、ホントにそんなに寂しくないよー。めっちゃ楽しいよー。なんかそう言えば言うほどアレだけどさ。
そう言ってほしいんだけどね。今の彼女にも。★★★☆☆


アラキメンタリARAKIMENTARI
2004年 75分 アメリカ カラー
監督:トラヴィス・クローゼ 脚本:
撮影:トラヴィス・クローゼ/ブライアン・バーゴイン 音楽:DJ KRUSH
出演:荒木経惟 ビョーク 北野武 森山大道 神蔵美子 小真理 シノ 飯沢耕太郎 リチャード・カーン

2005/3/8/火 劇場(渋谷ライズX)
天才アラーキーをドキュメンタリーでとらえた意欲作。それも、アメリカの若き映像作家によって。なぜ、日本の作家がそれを出来なかったのか!と悔しい。それは多分、アラーキーのアーティストとしての本質が、外である海外からの方がよく見えるからだろうとも思う。実際、アラーキーが芸術家だなんて、恥ずかしながら、思ってもみなかった。いや、確かに落ち着いて考えれば、芸術家に他ならないんだけど、日本での彼の取り上げ方は異端者というか異分子というか、とにかく何かやらかすオジサン、しかも風俗やエロの方の、そういう感じだったし、彼自身、割と積極的にそういう表舞台に出る人だったから。
でも彼は、まさに芸術家として戦っているんだ。いや、芸術家なんていう言葉さえ越えているのかもしれない。天才という言葉さえも。まさに、モンスター。
じっとしているということがない、それは眠っているときだけではないかと思われるほどに動き回り、そして黙っている時がないんではないかと思うぐらいにしゃべりまくるアラーキーは映画の被写体として、最高だ。観ているだけで、衝撃的だし、何より凄まじく楽しい。いつまでも彼と一緒に時を過ごしたいとさえ、思っちゃう。

彼についての言葉を残す森山大道が、ヘアヌードを世に認めさせたのがアラーキーだと言う。そう言われれば確かにそう。とにかくヘアであることがダメだというガチガチの日本の風潮を開かせてしまっただけでも凄い。
私はでも、正直言って、あのヘアヌードグラビアというものに、拒絶感を感じていたりしていたのだ。見せない方が美しいしエロなんじゃないかって。
ただ、ヘアであることがダメだという風潮は、映画の世界ではいまだにあって、あの無粋なボカシが横行し、映画という芸術作品をヘイキで傷つけていることに憤りを感じることで、ああ、同じことなんだ、と思った。

アラーキーはあのマシンガントークで、ひたすら人妻エロスなんだと言い続けているんだけど、ヘアだからエロだということではなくて、返ってその部分にはあまりそれを感じない。彼の撮る実にアグレッシブなヌードグラビア、容赦ない緊縛が変形させる女性の体からは濃厚なエロスがにじみ出ていて、そこでは女性の肉体にあるものとして、特に誇示されることもなくヘアはあり、そういう意味で記録的な趣さえある。
性器を露出させるためにモノすごい格好をさせることもあるし、それそのものの画をクロースアップで撮ったりもする。そこまでいくと、ますますエロではなく、彼が女性の肉体をつぶさに撮ろうという、ここまでくるとある種の使命感に燃えているような気さえ、してしまう。
ヌードだということではなくて、アラーキーにこそ撮られたいと思って、日本中、時には海外からも女性たちが押し寄せる。何となく、判る気がする。

確かに、エロだけど、エロではない。アラーキーが言うように、顔を撮るだけで内面まで撮っちゃう。写真のレントゲンだと言っていた。自分の知らない内面が露出させられるから。
それでいて、やっぱりエロスは濃厚に匂いたつ、のは、ヘアだの緊縛だのという部分ではなくて、そうか、この人の、江戸っ子の、下町の感覚が出ているんだ。春画を浮世絵そのままのしっとりとした雰囲気で再現しようとする試み。和服を着せ、湿度のある日本家屋に場所を設定し、アラーキーの演出でモデルたちはさながらカメラとセックスしているかのごとき艶っぽい表情を見せてくる。春画であり、カメラとセックス、だからヘアは当然、出される。でも和服はまとわりついていて、それがなんともはや色っぽく、慎ましい感じさえ、させるのだから不思議。

アラーキーは元々、人間の顔を撮るのが好きなのだと言って、膨大な量の顔の写真を披露する。彼が写真家の道を歩み始めたごく初期の頃からのものもキチンと保存されていて、今では確実にいなくなってしまった日本人の顔を見ることが出来る。
と、いうことに、かなりの意外を感じる。マスコミでのアラーキーのイメージから、彼は風俗写真、ヌードグラビアの人だと確かに思ってたから。でも彼は、撮らない写真というものがないぐらい、何だって撮っちゃうのだ。
あ、でも何でそんな風に思っていたんだろう。「東京日和」という映画があった。あれが、荒木夫妻をモデルにした映画だってことは、知っていたはずなのに。アラーキーと亡くなった妻陽子さんの関係、その仲睦まじい夫婦ぶりは、とても有名なものであったという。
でも、こうして改めてアラーキーの口から語られ、その写真を見せられると、あの映画の「東京日和」は全然違ったんじゃないかな、と思う。何より奥さんの印象がまるで違うし、竹中直人ほどの人でも、このモンスター、アラーキーにはとてもなれないのだ。

結婚生活中、アラーキーは膨大な奥さんの写真を撮っている。時にはその中に自分が映りこむこともある。
披露宴でスライドショーをやり、その中に奥さんのヌードがあったもんだから、田舎から出てきたおばあちゃんがショックで寝込んだ、なんていうエピソードもある。奥さんは、真の意味でアラーキーの芸術の理解者であり、多分一番のファンだったんだろうと思う。
小さな胸の、きゃしゃな体の奥さんのヌードは、でもアラーキー得意のヌードグラビアのようなセンセーショナルなものではなくて、まさにそこにいる奥さんをそのままつぶさにとらえたいという、思いだけに貫かれている。
そしてそれがこんなにも愛情に満ちているということに、どうしてそれがこんなに愛情を感じるのかということに、驚いてしまう。
アラーキーのカメラの前で、奥さんはだってあまりにも、無防備で、多分、彼のそばにいるということと寸分違わない表情を、身体を含めた表情を、見せているから。そしてそれは、まるで予言したかのように、死の匂いを濃厚に漂わせている。小船の中で疲れて横になって眠る様など、アラーキーの言うとおり、まるで三途の川を渡っているかのようだ。

18年間の結婚生活の末、奥さんは、死んでしまった。アラーキーはその最後まで、シャッターを切り続けた。ベッドからこぼれた手を握り締めるその写真は、この夫婦だからこそ撮れる、何も言葉などいらない、一枚の永遠の時間。
今のアラーキーを見ていると、こんな深い愛情に支えられた夫婦生活があったなんてと、にわかには信じられない気もするけれど、女性を等分に愛するアラーキー、という姿は、一人の女性を愛するということはこの奥さんである陽子さん以外には、もうない、ということなのだ。奥さんの遺影、笑っていなかった。それは当然アラーキーの撮った奥さんの写真であり、彼が愛した、日常の彼女、きっと最も美しい彼女だったのだろうと思う。
アラーキーが女性を賛美して、肉体的にも精神的にも男性よりはるかに上だといい、その女体の神秘を追及するがごとく、どんな年齢の、どんな女性でも、360度、いやもうそれ以上のあらゆるアングルから撮り続け、とにかく女性大好き!という趣なんだけど、でもそれは、個人としての女性ではない、んだよね。それは陽子さん以外にはありえないから。女性を女性というひとつのカタマリとして、女性研究家のようにとらえていて、それは一人一人を見つめているようで、あくまで女性研究としての、外側からであり。

なんて思うのは、多分このオッサンにホレこんでしまうせいだろう。モデルとして彼の前にひっきりなしにあらわれる一人一人の女性も、多分そうだと思う。一人の女性として彼に切り取られたいと思う。アラーキーは世間で言われるほどエロジジイというわけではなく、ハートフルでジェントルマンだと、モデルたちは口をそろえて言う。語られるような、ホテルに直行なんてことは、ないんだと。
そう言う彼女たちは、もちろんそんなアラーキーにホレこんではいるものの、もしかしたらそれこそホテルに直行を望んでいるかのように見える。
モデルになる女性たち、そしてこのドキュメンタリーを見てしまった女性たちもきっと、好きにならずにいられない、んだよね。写真を撮るためにはヘアだって触りまくるし、オッパイだってモミモミしちゃうけど、あくまで写真を撮るためである、という点に、彼の前に身体をさらしたモデルはほんのちょっと、寂しく思ったりするんじゃないかな、なんて。
それにしてもそんなことまで出来るアラーキーはスゴすぎる!ヘアを触るどころか、性器を露出させるためにぐいっと手で押し広げるなんてこともするんだけど、そういう行為に全く躊躇もないし、イヤな感じがないっていうのが。モデルさんもリラックスしまくって、それを演出として受け入れている。スゴい。プロにもほどがある!いや、やっぱり、モデルさんが、もう、アラーキーにホレちゃってるんだろうな、それは恋愛の雰囲気も多少なりとも含むけど、尊敬や崇拝も含めた、もっともっと大きなもので、そういう相手に出会えるのって、奇跡的だし、すっごく、うらやましいって、思う。

冒頭、アラーキーの膨大な写真がまさにシャッターを切るように目にも止まらぬ速さで連続して現われる。こういう形で見られるのは映画ならではだけど、映画の中に何度か出てくるスライドショーというのも、そういう趣があるんではないかと思う。アラーキー自身もそれが、自分の写真を見るのにふさわしいひとつの形だと思っているんじゃないかって。果ては膨大な数を出している写真集の表紙もそんな風に連続して見せてくる。チカチカと点滅するように何度か繰り返されるのは、あの問題を起こした「遠野物語」だったりする遊び心もあり、まさにその驚くべき冊数に圧倒される。アラーキーにとって、写真はみな等分の価値があるから、順番にどんどん写真集が出せるのだと、森山大道が語り、ナルホドと思う。

アラーキーは言う。写真は点だけれど、それが連続して線になって、生きているという流れになるんだと。
でも、その“点”は、確かにその瞬間瞬間に写真の中に生が閉じ込められて、その時間はシャッターとともに時間のかなたに飛び去り、死を迎えていると言えるのかもしれない。
だから、アグレッシブでイキイキとしていればいるほど、反比例的にその中に死をどうしても感じてしまう。逆に、死を感じれば感じるほど、彼の写真がアグレッシブにイキイキとしてくる。
あの、奥さんの死後、アラーキーは空ばかり撮っていた。モノクロームの空。モノクロームは死を感じさせる。空という死とは関係ないはずの自然が、不思議と死そのものにさえ思える。でも、死、なのに、そのモノクロームの空はなぜか、涙が出るほどキレイなのだ。
空を撮るアラーキー。涙が出るほどキレイ。
それが最も意外で、彼が確かに芸術家であると、思った。

芸術家である彼は、芸術のために、戦う。アホな検閲と闘う。確かに性器はダメなのに射精は映してもいいなんて、セックス、いやこの場合は女性への男性の性的放出はオッケーで、人間の身体そのもの、つまり人間を否定しているということであって、こんな屈辱的なことって、ないのだ。
アラーキーはでも怒ったりはしない。いつでもただただ突進している。からからと笑いながら突進する。射精はオッケーならと、自分の写真に白い染料を射精よろしくぶちまけ、性器の部分をうまく隠してしまう。「この写真とセックスしてるんだよ」などとからからと笑いながら、そしてそれは彼の写真を壊すどころか、攻撃的でヴィヴィッドな“表現”になってしまうのだから、まったくもって恐れ入る。

壊すことも彼の芸術の手段。壊すということも、彼の中での死への執着とリンクしているのかもしれない。熱湯処理したという写真まである。それはまさに熱の中で変形してしまったような、グロテスクな印象でドキリとさせる。アラーキーが言うように、それはあの、戦争の、原爆を、思わせる。
写真とセックスするんだと言うアラーキー。セックスも死の感覚だろうなと思う。エネルギーを放出して動かなくなる。子供を生み出すためではないセックスは、さらに不毛な死の感覚。もうひとつ彼がこだわるエロスが死の匂いを引き寄せるのは、当然のことなのかもしれない。
江戸っ子である彼は、東京以外には行きたくないんだと言う。それは、この東京には死があふれているから。
何か、何か判る気がしちゃう。私はイナカ者だけど、いやイナカ者ですらない、根無し者だけど、いくら住んでもどっかニガテだなーと思いながらも時々は感じる東京の居心地の良さは、多分そこにあるんだと、思うもの。
満員電車に足を踏ん張るんじゃなくて、力を抜いてふっと身をゆだねられるような。
この人ごみの中で一人の人間でいることは難しいけど、でもかき消えることも許されるような。
と、いうのは、アラーキーとはまったく正反対にいる立場の感慨。彼はそういうものも含めた死の匂いを積極的に取り込んで、生のエネルギーにしてしまうモンスター。
確かに、森山大道が言うように、彼はコワい人なのかもしれない。可愛く見えることで得をしているけれど、って。

アラーキーがどういう人物か、と語るゲストは何人かいるんだけど、その中でもメインを張っているのが北野武監督……っていうのは、ヤメてほしい。うー、こんなこと言うようになるなんて、思わなかったな。私だって以前は確かに北野映画ファンだったはずなのに……。正直、映画監督としては落ちているように思えてならない彼に、あまりにも飛び越えた怪物、アラーキーを語るのは聞いていてどうも……彼の語る言葉も単純な気がするし、やはり同業者である森山大道や、違うジャンルの天才であるビョークの真をつき、愛に満ちた言葉にこそ、貫かれるから。
それに何より、この作品自体が、若い才能の結集で撮られていて、この天才を何とかとらえてやろうと、すっごくもう、エネルギッシュに動いているのが、それだけで既に感動的なんだもの。キタノなんて、いらないよ。
そう、アラーキーという存在そのものが奇蹟の芸術なんだから。★★★★☆


ある朝スウプは
2004年 90分 日本 カラー
監督:高橋泉 脚本:高橋泉
撮影:高橋泉 音楽:並木愛枝
出演:廣末哲万 並木愛枝 高橋泉 木村利絵 垣原和成

2005/8/2/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
PFFでグランプリ、各国の映画祭で評価された本作は、確かにその演出の腕はホンモノだし、メインの役者二人の演技も素晴らしいし、とぎすまされてて、観客を引き込んで、最後までぐんぐんひっぱっていって、映画としての面白さもある。そりゃもう、文句のつけようもない。そのせっぱつまった感を強調する映像……味噌汁をかきまぜたり洗濯機のぐるぐるのクロースアップとかね、息苦しさを感じさせる映像演出も上手いとは思うんだけど。
ダメなんだよね、生理的にこういうの。割と節操なくなんでも好きな方だと思うんだけど、こういうの、ダメなんだ。いや、夏バテ気味の体調で観たせいもあったのかもしれない、寛容に受け止められなかったのは。

同棲している恋人、きっとその先には結婚も見据えているだろう二人、それは彼女の方が彼の実家ときちんと懇意にしている様子からも判る。そんな、お互いを判り合って尊重しあっていると思っている二人が、二人だけの親密な時間をあまりに完璧に作り上げているからこそ、崩壊していくのを止めようもなくなるという物語である。
本当に、二人だけ。ことに男性の方、北川君と呼ばれる彼が、映画の冒頭早々にパニック障害と診断されて、ずっと家にいて、彼女はそんな彼を支えようとしてるんだけど、職場の方でトラブってて再就職先を探したりなんぞしてる。彼は家にいても出来る在宅の仕事をしようとそのためのセミナーに通っていて……つまりは双方にちょっと不安定な時期なんである。
在宅のためのセミナー、それに対して彼女、志津は、「そういうところって高い教材を買わせるだけで仕事を回さないんでしょ」と北川君に言う。うッ……確かにそうです。いやあの……私の場合は通信教育だったけど、そういう経験があったりして……キャー。
「そういうんじゃないと思うよ」と言う北側君。アホ!何の根拠があってそんなこと言うんじゃ!(あー、イタい記憶じゃ)。

男性の方が、パニック障害という症状であり、最終的には新興宗教に洗脳される、という展開になるから、この北川君の不安定さばかりに目が行きがちにもなるんだけど、案外女性の、志津の方もそんな風に、安定していない時期だから、彼を支えきれなかったのかもしれないと思う。彼女が慣れた仕事をそのまましっかりと続けていていられれば、こんな彼に対してもっと客観的な方法をとれたのかもしれない、などと……つまり、彼女までもが彼に巻き込まれて客観的な方法をとれずに、追い込まれて、一緒にパニックを起こしているような状態で、で、観客の方はパニック障害の上に新興宗教にハマってしまった彼に共感することなど出来ないから、比較論って感じで彼女の方に感情移入して見ることになるんだけど、彼女があまりにも客観的立場に立たないままに彼を追いつめ、自分を追いつめていくから、なんか……息苦しくなっちゃうのだ。

それこそが、作り手にしてみればしてやったりなんだろうとは思うけど。どんどん二人が追いつめられていく、観ている観客も追いつめられていく、それだけ世界が濃密になる、世界観の完成度も高くなる。それは確かに成功していると思う、だけど。
後味の悪さだけが、残っちゃうのが……好きになれなくて。
ひどく、似た思いをした映画があった。「UNLOVED」。上手いんだけど、受け入れる気持ちになれない、という……。メインの登場人物は三人で、いわば三角関係。でも世界観は非常に似ていた。ヒロインの言動と、この関係性に共感できないまま追いつめられる世界に観客が強引に連れていかれて、それは強引に連れていかれるだけの力があると言えもするんだけど、共感する部分がないまま、イヤーな思いを引きずったまま、でもそれでもこうなるのが仕方ない、みたいな展開が、救いのなさを感じてしまって。

救いのなさこそが、テーマであるんだろう。人間とは、人生とは確かにそういうものなんだろう。それを描くことが表現であり、問題提起であるということも、判るんだけど。
私は、ダメなんだなあ……やっぱり、単純で、ガキなのかもしれない。それに、日本人って、こういう世界を描きたがるよなあ、って気もしてる。こんな若い世代でも。自主映画的なお家芸って感じもして、それが、日本映画を何度も行きづまらせている気もしてる。もちろん、こういう世界をキチンと描いて名作を残しているのも日本映画なんだけど……そういう世界を突きつめることに必死になっちゃってる気も、なんだかしてしまうんだ。それにそういう世界を観たいって、何度もは思わないし……。
ああ、そんなくくりで断じてしまうのは良くないとは思うんだけど……何か、ダメなんだもん、生理的に。完成されていればいるほど、ダメなんだもん。生理的にダメだと思ってしまうと、もう語る資格もないんだろうけど……。

監督は、これはパニック障害や新興宗教、それを描いた映画ではないと言うんだけれど、でも監督の言う、そうではなくて純愛映画だっていうのも、どうなのかな、って思ってしまう。
純愛、純愛映画って、今はふた言目には言われるような風潮があるけど、その定義のありかが、ことに本作においてはホント判らない。
それは、相手を盲目的に思ってて、いや思ってるフリをして、相手のふところに飛び込まずに、他人なんだという結論に達することなの?
あ、ゴメン……いきなり結末に行っちゃったけど。この物語の結末は、志津が、頑張っても、どうしても、どうしても、自分の元に引き止めておくことが出来なかった北川君に、「私たち、他人なんだね」と言うところで終わるんである。

そのラストシーンは印象的である。もう今日での別れが決まっている。北川君はきちっとスーツに着替えて、今までのラクなカッコでずっと家の中にいた感じとは違って、新しい人生を歩む決意が見えている。志津はそんな彼と最後の食事をともにする。思い出話をする。台風の中、温泉旅行したこと。「あの時北川君、晴れるって、ウソついたよね」「ホントに晴れると思っていたんだ」その北川君の台詞に、志津が発するのがそのラストの台詞なんである。判り合っていたと思っていたけれど、もともとすれ違っていたんだね、という……。
その回想には既に、頑なに何かを信じる北川君と、彼の言葉を軽く受け流して本気にしていなかった志津、という図式も見え隠れする。志津は新興宗教にハマってしまった北川君を、イケない方向に行ってしまったと断じるばかりだった。北川君の言うことなど、聞こうとしなかった。ただただ拒否するばかりだった。

志津のその判断が間違っていたとは思わない。在宅の仕事のセミナーのはずが、そんな新興宗教の場所だったという時点でルール違反だし、ご利益があるといってバカ高いソファを買ったり、正常な目から見たら、北側君がイッちゃってるのは明らかなんである。
でも、この描写って、ズルいんだよね。だから志津が正しくて、カレシがこんなことになって可哀想で、みたいに導いていっちゃうから。北川君の陥る状況が言ってみればあまりにベタで極端だから、彼女自身の問題から観客は目をそらされてしまうのだ。
そりゃ、北川君は、ヤバい方向に行ってしまった。カルマだのなんだのとリクツをこね始める北川君は、明らかに自身の意思から離れたところで植えつけられたものを喋っているだけだし、嫌がる志津を押さえつけて刷り込もうとする姿はすんごくコワいし……でもそんな北川君に対してとった志津の態度は、……ちょっとマズかったのだ。
だってあんた何にもしてないもん。
一人苦しんでる顔をして彼を閉じ込めているだけで、ただ耳をふさいでいるだけで。
つまり、人間なんてこんなもんと言いたいのだろうか。

志津が、正常の状態、というか、仕事を自信持って続けている状態なら、違ったかもしれない。でも今は求職中で、なかなか決まらなくて、彼女はアネゴ肌なんだろう、病気になってしまった北川君を守らなくちゃいけない、自分なら守れるんだ、みたいな境地に陥っていて、他に相談するってことをしない。誰か他人に、例えば彼の家族とかに相談したり専門家に相談したり、ってこと、一切しない。それは自分のところで彼がこうなってしまったことを恥じているからじゃないの?って思ってしまう。彼女が唯一託せるのは病院だけ。彼女には病院至上主義みたいなところがあって、北川君は病気なんだから病院に行かなくちゃ、行けばいいんだ、みたいなところがある。北川君がクスリを飲みたがらなくなるのは新興宗教に救いを求め始めたせいでもあるけれど、彼が「病院に行ったって、調子はどうですかって聞かれて、クスリを出されるだけでしょ」と言うのは確かに当たってて、彼の悩みを聞いてくれたのが、新興宗教だったということなんだろうと思うのだ。新興宗教の仲間たちと一緒にいると彼は安らぎを覚え、クスリがなくても大丈夫になった。ますます医者への信頼が薄らいだ。ただただ医者に行けというばかりの志津も、そんなおざなりの医者と同じだったということなんだろうと思うのだ。

人間は、誰かに、大丈夫だよ、と言ってもらいたい生き物なんだと思う。志津は北川君に、あなたは病気なんだから、と、彼が追いつめられれば追いつめられるほど、それは彼女もまた追いつめられれば追いつめられるほど、ってことなんだけど、でもそんな状態で彼にそんなことを言うものだから、彼は、大丈夫だよって、言ってくれるところへ、行ってしまったのだ。
北川君、追いつめられるとおもらしまでしてしまう。「だって病気なんだもの。一人じゃ何も出来ないでしょ」その台詞は、いつも志津に言われていることなのだ。自嘲気味にそんな台詞を彼女にぶつけると、彼女、狂ったように笑う。……もう、もう、耐えられないよ、見てるの。壊れていく人間を日本人が描きたがるのはどうしてなの。なんか、それも過ぎると異常って気がする。

志津は、北川君のことを、誰に相談するってこともしないでしょ。お医者さんにも突っ込んだ話はしない。それは彼が手におえないところに行ってしまった、と思っているだけで、彼の苦しみを本当には受け止めていないからなんだと思う。北川君に共感できないながらも、だからといって、彼に手を焼く志津にも共感できないまま、生理的に受けつけない気分のまますすんでしまうのは、そのせいなんだと思う。
それが、この二人のせっぱつまった関係性を作り上げるための手法だって判ってても、扱うコトが現代的に重いテーマなだけに、それでそんな単純に割り切っていいんだろうかって、思ってしまうのね。

そりゃ、北川君に共感するわけではないの、決してそうではないの。いくら信じているものがあるからって、そのために信頼しあって生活を共にしている彼女と一緒に貯めたお金に黙って手を出すなんて、一番やっちゃいけないこと。「いつか絶対に判ってもらえる」と彼女を説得しようとする彼には気分が悪くなるし、自分ひとりで信じてろよ、と言いたくなるし。ムリクリ自分の思想を彼女に判らせようったってそりゃムリってもんで、まあそんな彼に対する防御策としてお金や預金通帳を常に持ち歩くようになる彼女も辛いんだけど。
しまいには、そんな志津にイラつく気持ちが最高潮に達してしまったのか、ある朝、志津が北川君を起こして朝食をとらせようとすると、起きようとしない北川君、志津の頭を殴る。一瞬、呆然とし、泣きじゃくる志津。男が女を殴るようになったら、もう、オワリだ……。

そう、もう、オワリなのだ。何かを信じたい北川君の言葉に耳を貸さずに、志津が追いつめた結果、彼が彼女に言う台詞が、痛くて。
「気持ち悪いんでしょ。ただそれだけなんでしょ」
そうなんだ、確かにそうなんだよね、志津の拒絶の理由って。
志津は、思想を植えつけようとする北川君に、「ヤメてよ、気持ち悪いんだよ」と何度もはねつけていた。正直ね、観客の気持ちも同じだった。で……作り手の気持ちも同じなんだよね。これは……いいのかなって、正直思う。新興宗教の問題って、映画の要素として取り上げるには確かに使いやすいけど、こういうシリアスな題材に使いやすい要素として取り込むのは、危険だと思う。
作り手が、どこまでそれを判っていたのかが、ちょっと疑問だったんだ……確かに志津は北川君から、「気持ち悪いんでしょ」と言われて鼻白むけれど、だからって、作り手が北川君の気持ちを理解して彼を送り出したとは思えない。作り手も、気持ち悪いと思って北川君を造形したまま終わっているとしか、思えないんだよね。多分それが、この作品の後味の悪さになっているんだと思う。

そりゃ北川君は明らかに洗脳されているんだけど、今の彼にとって志津は一切自分の言葉を聞いてくれず、否定しかせず、病気だといって一人の人間としての扱いさえしないヒドい相手でしかないのだ。
北川君がね、これはパニック障害の症状のひとつだと思うけど、志津の友人が訪ねてきた時に、気まずげで、その時にふった話題が、この友人を侮辱したんじゃないかって、ひどく気にするでしょ。それを志津はなんてことない、と受け流す。ああ、ダメだな……って、思っちゃったんだ。彼女は彼を受け入れようとか、判ろうとか、してないなって。せめて彼女に感情移入できたら良かったけど……つまりは、救いのない物語なら、二人で行くところまで行ってしまえばいいのに、って思っちゃうんだ。篠崎誠監督の「おかえり」みたいに。

私はね、救いようがない、という題材なら、これは甘いんじゃないかなと思っているのかもしれない、と思う。彼女が、彼の思想の中に飛び込むことをしてないから。本当に彼のことを愛しているなら、そうするんじゃないかと、思ったんだよね。この映画のテーマは「人間同士は所詮他人」だってことだったんじゃないかとも、思えるの。監督が言うような、「純愛」より、そっちの方がよほどしっくりくる。他人だから、そこまで飛び込むことはしない。で、相手を知ろうとすることもせずに勝手に傷ついて、終焉を迎えてしまった、その方がよほど、しっくりくる。

志津がアルバイトで空き地の撮影をしているシーンが印象的だった。彼女が次々撮影する空き地の、空虚な乾いた感じが、彼らの行く末をあまりにも案じていて、息苦しかった。★★★☆☆


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