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「ほ」


2007年鑑賞作品

包帯クラブ
2007年 118分 日本 カラー
監督:堤幸彦 脚本:森下佳子
撮影:唐沢悟 音楽:ハンバート ハンバート
出演:柳楽優弥 石原さとみ 田中圭 貫地谷しほり 関めぐみ 佐藤千亜妃


2007/9/18/火 劇場(有楽町丸の内TOEI)
正直なトコ、堤監督作品は苦手。ファーストインプレッションが良くなかった上に、そう言ってばかりもナンだと、時期を経て観たでもダメだった。だから「明日の記憶」も観ないままで、評判が良かったから後悔していたんだけれど(こーゆーあたり意志が弱い)、今回観て、やっぱりなんか、ダメなんだよな、私、この人、と思っちゃう。

高崎市の市内だけで撮影されたという本作。傷ついた場所に包帯を巻き、癒されるというストーリーは、何だかちょっと恥ずかしくなるほどにストレート。そしてそれを依頼者によって代行し、依頼者が救われることで自身も癒されるというのも、やっぱりちょっと気恥ずかしい。それがホームページで立ち上げた、包帯クラブなる彼らの活動なのだ。
ただ、様々な場所に包帯をアーティスティックに巻きつけた画は美しいし、それを若い彼らが人の目を盗んで作り上げるスリリングも楽しい。そんなにツッコミどころはないように見えたんだけど……。

物語は、石原さとみ演じるワラが、柳楽優弥扮するディノに出会うところから始まる。そこは病院の屋上。息詰まる思いを抱えてワラは屋上のフェンスの上に立つ。そこに後ろから声をかけてきたのがディノ。「何や、ジャージか。死ぬ時も、パンツ見えるのが気になるんか」
あっと、ここに至る前に、ワラが一人、ひたすらモノローグしているんだっけ。いや、ここに限らず彼女のモノローグにて進行していくんだけど、その言葉は正直、あまり頭に残らない。冒頭彼女は、大人になるに従って、ただただ何かが失われていく、と嘆いている。知らない間に、時には信頼する誰かによって失われてゆくんだと。怖いのは、いずれ自分も失わせる側に回るんだということ。
彼女の若さゆえの厭世観は判らなくはないんだけど、このモノローグは正直具体性に欠け、ゆえにその後にきちんとリンクもしてこないので、なんか意味のないまま飛ばされてしまう感じ。なんか、雰囲気だけで終わっちゃってて、切実さがない。

そういやあ冒頭、ワラは誤まって包丁を手首にかすってしまい、まるで自殺未遂のような状態になってしまう。それを医者から「リストカットは良くないね」と言われ、ディノとの出会いでも、リスカ?リスカ?としつこく言われうんざりするのだけれど、そのシーンもあまりその後に活きてこない気がする。
ワラは、特に自殺願望がある訳ではない。このエピソードは「ほんのちょっとしたきっかけで自殺してしまう、あるいは破滅してしまう」というディノの発言、更にディノの抱えた過去にかかってくるんだろうけれど、それは物語もずっと後半になってからなので、最初から引いてくるには引きが弱くて、ただアッサリスルーされているようにしか感じない。
しかも、ディノだって別に自殺したいと思ってる訳じゃないし、ディノの抱えた過去が自殺に関することでもない。なんか、関連が弱いんだよなあ。

ディノが「この場所には血が流れているんや」と言った台詞にハッとしたワラが、しかし強がって「ばっかみたい。そんな血、止めちゃえばいいじゃない」と返す。この台詞の応酬は、ワラが、いわばディノの心の情景にノった形なんだけど、出会ったばかりで意気投合しているわけでもなく、しかもこんな突き放した物言いでノること事態、不自然に思われる。文学的ではあるけど、現実味がなくて、聞いてるこっちは、はァ?とか思ってしまう。
そして、ディノは屋上のフェンスに包帯を巻き、その光景にワラは心が癒される。その話を聞いたワラの友達のタンシオは、どこやらで出会った浪人生のギモを引き入れて、包帯クラブなるものを立ち上げようじゃないかと、あっという間に話が進む。発案者のディノも参加することになり、依頼者も続々と集まってくる。
しかしある依頼に、ワラとタンシオには、心の中に引っかかるものがあった。中学でケンカして、それ以来会っていない友達。テンポとリスキ。二人をなんとか仲直りさせたいと思う……。

テンポは裕福なお嬢様で進学校に通っている。リスキは父親の工場が潰れてしまったことで、中卒でもう働いている。ほんのささいなボタンのかけ違いが、二人の間に溝を作った。
リスキを伴って、テンポの住む高層マンションを訪れたワラとタンシオ。しかしテンポは包帯クラブにも冷たい反応を示し、しかも高校を卒業したら就職するというワラに、「それじゃ負け犬じゃない。そしてつまらない男と結婚して、つまらない人生だとグチを言うわけ。あなたは世間知らずだから」などと辛らつな言葉を投げるんである。
それに対して激昂したのがリスキ。このマンションは、彼女の父親の工場があった場所だった。そういうことを知ってるのかと、世間知らずはあんたじゃないかと。そして、飛び出してしまう。こうして包帯クラブにテンポを引き入れることも、いや何より、この絶交状態を修復することはもうかなりの困難に思えたのだが……。

このテンポを演じているのが関めぐみ嬢。彼女が出ていたのはラッキーだった。彼女は本当に見る度に成長を遂げる。正直、あまり作品に恵まれているとは思えないけど……それは作品自体が良質でもあまりヒットに結びつかなかったり、本作みたいに作品自体がイマイチだったりするわけで、早く彼女のためだけに作られた、ドカーン!とくる作品を観たいと思う。

それにしても何度も言うけど、あの最初の、単なるカバーガール的な登場からたった2年あまりで、この繊細さが生み出されるなんて誰が想像し得たであろう。正直、この作品は彼女のセンシティヴさがなかったら、かなりキビしい、締まらなさになっていたと思われる。
確かにかなりのもうけ役だとは思うけど、ヘタするとただのイヤなヤツで終わってしまいそうなところを、しかも脚本はそれがひっくり返されるのがかなり唐突でムリがあるにも関わらず、その孤独や寂しさをミリ単位の表情で見せて成立させてしまうめぐみ嬢に、あなたがいなければ、この映画は惨憺たる結果になっていた!と思うのだよね。

テンポは、楽しそうに活動している彼らを物陰から観て(この画も随分とベタだが)嫉妬を感じて、学校や警察にチクる。そのことで包帯クラブは一時解散寸前になる。そして、テンポはある日部屋をキレイに片づけて姿を消してしまう。テンポを探し出すために、ワラたちはあらゆるところに包帯を巻きまくるのだが……。
でね、前回堤作品を観た時もイラついたんだけど、今回もやっぱり同じ。ツッコミどころが、あまりに愚かなほどに投げ出されてしまっているんだもの。しかも今回、そのツッコミどころが劇中の登場人物によって指摘され、しかもそれが、その彼女が寂しかったゆえのイジワルだっただなんて着地点にするんだから、正直アゼンである。

それはねつまり、この包帯クラブのメンメンが、包帯を巻いた場所をそのまま放置しているもんだから、街の景観を損ねる、汚物を撒き散らすな、という指摘をテンポが(正体を隠して)する訳。それを聞いた時は、観客であるこっちが呆然よ。まさかそのまま放置しているなんて思わなかったんだもん。
だってそうでしょ。目的は傷ついた場所に包帯を巻いて、その写真を依頼者に送って見せてあげることであって、なぜそこをそのまま放置する必要があるのか判らないし、放置しちゃいけないでしょ。
テンポの言うことはしごく真っ当であって、それを「オレたちのことをチクった奴がいる」という結論に至ってヘコむのにはアゼンとするしかない。
しかもその真っ当な指摘をしたテンポなのに、同時に死ねだの自己満足だのという中傷の書き込みもさせて、その指摘が真っ当であったことがうやむやになってしまう。このあたりは製作者側の、どうせ判んないだろうってな故意なのか、あるいはその矛盾に気付いてさえいないのかどうかさえ不明。しかもそんなことをして“しまった”テンポが、仲良さそうなワラたちがうらやましかったから、と述懐するだなんて、ちょっとあまりにおかしいんじゃないの。

それに、依頼者に送り、HPにアップするその写真、一緒に写っている彼らの顔をつぶしてあるのが気味が悪い。そりゃその後、この“違法行為”が彼らのシワザだとバレそうになって、シラを切りとおす展開があるから顔が見えていたら困るけれど、でもこれじゃ、いくらその場所に包帯を巻いてもらったって、のっぺらぼうの人間が写り込んでちゃ癒される気持ちも癒されないんじゃないの。
試合でオウンゴールをしたことをずっと引きずっている依頼者に送る写真、石原さとみがニッコリ笑って包帯を巻いたボールを持ってゴールの前に立ってたって、その笑顔が消されてちゃ意味がないじゃないの。石原さとみのニッコリ笑顔だよ?なぜ消すか!
廃屋に連れ込まれてレイプされた女の子のために、その場所のお葬式を敢行する場面の写真だって、炎の前で四人ものっぺらぼうで祈りを捧げているのは、気持ち悪いよ……真摯な表情が見えてこそ、癒されるんじゃないの。 ここは結構泣けそうな場面だっただけに、余計に残念に思うのよね。

この場面、レイプされた女の子と共振するのは、ギモだった。一番の年長者でサイトを作り上げてくれた彼は、いわばまとめ役のようなお人なんだけれど、彼もまた、心の中に闇を抱えていた。
小学生の頃、男の先生にイタズラをされ続けていたこと。彼はそれを友達の話として語るけれども、ディノは「出来すぎた話だ。ギモ自身の話じゃないか」と思う。ふーん……「出来すぎた話」ってのを、ここでは認めるんだ、などとちょっと皮肉に思ったりして。
その時に彼が、あるいはその友達が思った、ここにいた自分をなかったことにしてほしい、死んだことにしてほしい、だからお葬式をしてほしい……というのを、レイプされた女の子の気持ちに重ねたのである。実際、その写真を見て入院していた女の子は涙を流し、ずっと食べていなかったであろう食事を、「食べる、食べます」と引き寄せる。ちょっと泣きそうになるシーンなのだけれど、あののっぺらぼうの写真がふと目に入ると、どうも気分が萎えてしまうのよね。

そんなギモに首っ丈なタンシオ。演じる貫地谷しほり嬢は、なんか「彩恋」と同じようなイメージ。アゴが気になるし、なんかあんまりピンとこないんだよな。本作の中ではただ一人、まるで悩みを抱えてないって感じだし。あ、失恋クイーンで、しかしそれはただ単に、惚れっぽいってだけの話なのだが……。
そう言っちゃうのも酷なのかな。一応、ワラと共に中学時代の友情が壊れたことを気にしている訳だし。でも彼女は、コメディリリーフだよね。まあそれで、いいのかなあ。

さて、最も重要なところと言えるのは、ディノの抱えている過去である。やはり中学時代、仲の良かった三人組。マンガの上手いマイウーと、明るい関西人のツッコミ。ある日、たまたまディノだけがいなかった、マイウーとツッコミ二人だけの場面で、マイウーがツッコミを背中から刺し、ツッコミは下半身不随になってしまった。
ツッコミの替わりに自分がいたら、自分が刺されていたんじゃないか、ツッコミは自分の身代わりになったんじゃないかとディノは苦悩していた。橋の向こうにあるツッコミの家に見舞いに行くことが、どうしても出来なかった。
……という話なんだけど、マイウーがツッコミを刺してしまったあいまいな理由が、投げ出されすぎじゃないのかしらん。

そりゃ、説明のつかないことなんだと思うよ。ディノへの手紙に記されていたように、マイウー自身にも説明のつかないことだったんだと思う。「ただその時、僕はとても苛立っていた」とマイウーは記し、そんなことに全く気付かなかった、友達の何を見ていたんだとディノは苦悩するんだけど、どうにもとってつけな感じ。
結局ワラの後押しでツッコミを見舞うことが出来、そしてツッコミはそんなディノを大きな包容力で受け止める。大団円?うーん……。

尺の問題もあるだろうけど、ココこそが最も重要な部分なのに、結局はディノの自分勝手な苦悩だけで、そしてその苦悩がツッコミの寛容によって許されるだけで終わるのは、そんな結末を迎えるだけなら、いっそのことやらない方が良かったんじゃないの、と思えてしまうのだ。
自分の身代わりになったんだ、自分の方が、オタクとかデブとかからかっていた、と自責の念に苦しむディノは痛ましいけど、結局ディノとツッコミの間でだけ解決されてしまうのが、凄くヤなのだ。三人の中で、恐らく取り残された気持ちが増幅するに至って「苛立って」いたに違いないマイウーがそのまんまにされるのが、解せない訳。というか、大問題だと思う訳。それは多分……この三人のキャラの中なら、マイウーこそが自分に重ね合わされるせいだと思うんだけど……。

アヤしげな関西弁を操る奔放なおぼっちゃまは、柳楽君にとっての新境地。テントの中に爆竹を投げ入れてキズだらけになったり、裸足で登校したり、目隠しをして授業を受けたりして、学校では異端の目で見られている。
それを彼は、人の痛みを知るためだと説明する。そんなことをして何が変わるのかと突っかかるワラに、「だからって、何もしないでええんか。そうしたら永遠に変わらないで」と笑顔で言い放ち、「包帯一本巻いて世界が変わったら、めっけもんやん」という言葉がワラを動かすのだ。

そんなディノ、演じている柳楽君のテレがかすかに感じられて、見ててハズかしい気持ちは正直否めない部分があるんだけど、泣きの場面などきっちりと見せてくれるし、彼のチャレンジ精神や向上心には敬服する思い。
それに、彼は成長するごとに判ってきたけれど……少年期よりもずっとずっと異形の個性を持っていて、その風貌のカリスマ性には、ちょっと畏怖を覚えるほど。それまでは繊細な少年性を漂わせていた彼が、近い将来ワイルド&セクシーな男優に変貌しそうな予感を、本作で発揮してくれているのが嬉しい。

しかし彼に関しても、おぼっちゃま、おぼっちゃまと言われてるだけで、家庭環境がまるで見えてこないのがもどかしい。
おぼっちゃまと言ってる家政婦さんだけじゃん。しかも、登場したと思ったら、辞めさせていただきますって、彼の奔放さを表現するにはあまりにランボーすぎるし、しかもあの家、訪ねた皆がアゼンとするほどには凄い豪邸って訳じゃないじゃん……微妙すぎて、判りにくい。
ホント、力を入れるところがアンバランスな気がするんだよなあ。

そしてヒロインの石原さとみ嬢。彼女には、結構興味がある。今回足を運んだのも、彼女をスクリーンで観られるということが大きかった。今まで観る機会を逸していたから。柳楽君も一作ごとに若さのチャレンジ精神でぐんぐん成長しているから、今回はどうくるのかと興味はあったけど、やはりさとみ嬢にスクリーンで出会うことが一番大きかった。
想像はしていたけれど、スクリーンで観ると、その唇はえげつないぐらいに凄い。いやこれは、ホメているんである。今まで数々の唇女優はいたけれど、ナンバーワンである。えげつないなんて言っちゃったけど、えげつないの一歩手前。
その一歩手前がたまらない。彼女にはぜひもっともっと女優開眼してもらって、その唇での激しいキスシーンなど拝ませてもらったら、もうたまらんだろうなあ。ああ、想像。

演じるキャラの立ち不足や、相対する柳楽君の頑張りに食われてしまった感が惜しい。だって、彼女、環境的に弱いんだもん。いや、離婚しての母子家庭が弱いだなんていうのは良くないんだけど、ディノやテンポが強すぎるからさあ。
それにこの母子家庭の辛さが表面的で、あまり伝わってこないのももどかしいところ。なんかね、台詞で説明されるだけって感じなんだよね。
それも、若い女を連れて出て行った父親に捨てられたというワラの思いだけの説明であって、母親に対してはどうなのか、母親こそが傷ついた筈なのに、そのことに対する言及はまるでない。
それに、母親に対して八つ当たり気味にうっとうしがっているのが、最後には包帯クラブによって成長した、って感じで、初任給で何か買ってあげるとか、理解ある娘になってるってのがあまりに単純。一番重要なところをすっ飛ばしているから、結局ワラ自身の辛さが真の意味であぶり出されないんだもん。

女手ひとつで子供たちを育て上げた母親が、パートで疲れ果てた母親が、一番辛い筈なのに、それが、テーブルでうたた寝しているシーンだけで、しかもそのテーブルにはチューハイの空き缶が転がってて、それに対して娘が眉をひそめている、という描写じゃさ、まるで母親の酒癖に怒ってるだけで終わってるみたいじゃない。
なんか、足りないというか、小さく突っ込みたくなる部分がやたらとある気がして仕方ないんだよなあ……。

音楽ガンガンかけて妙に大げさに切っていくカッティングや、スペクタクルに見せるためなのかワザとらしいばかりのヘリ撮影などが、芽生えかけた繊細な印象をことごとにブチ壊している気がしてならない。
笑顔が人を傷つけることがある、とか、印象的な台詞はあるにはあるのに、根付かない。なんかやっぱり、どうも苦手な監督なんだよなあ……。★★☆☆☆


僕のピアノコンチェルト/VITUS
2006年 121分 スイス カラー
監督:フレディ・M・ムーラー 脚本:ペーター・ルイジ/フレディ・M・ムーラー/ルカス・B・スッター
撮影:ピオ・コラッディ 音楽:マリオ・ベレッタ
出演:テオ・ゲオルギュー/ブルーノ・ガンツ/ジュリカ・ジェンキンス/ウルス・ユッカー/ファブリツィオ・ボルサニ

2007/12/6/木 劇場(銀座テアトルシネマ)
なんだか最近、ピアノをモティーフにした映画が多いような気がする。今年は日本映画でも「神童」があったし。
んでもってここ最近、ズバリピアノがタイトルについているものだけでもやけにゾクゾク現われる。ピアノモノにはそれだけでピンとアンテナが張ってしまうワタクシとしては、なかなかに嬉しい悲鳴なのであった。
ピアノがモティーフになっている映画って、不思議と精神性が高いというか、その楽器そのものと演奏者となる演者とが、不思議な共鳴を示す、その感じがたまらなく好きだ。

しかしこれは毛色が違うというか、趣向が面白いというか。ホンモノの天才ピアノ少年をキャスティングしているから、その恐るべき才能、恐るべき超絶技巧を駆使した、しかも迫力のある(この小さな身体で!)演奏場面も無論体験できるのだけれど、面白いことに、この少年のピアノの天才である、という部分を軸にした物語ではないのだもの。
いや、軸にしているのかな。だって結局は最後、彼は天才少年ピアニストとして大オーケストラをバックにソロを弾きあげ、満場の聴衆から拍手喝采を受けているのだから。でも中盤、彼は全くピアノを弾かなくなる。“普通の少年”になってしまうのだ。

そうなの、彼、ヴィトスの天才ぶりは、ピアノだけに留まらず、妙に大人びた子で、特に理数系、数に関するものへ並々ならぬ才覚を示すのね。
曰く、「モーツァルトのようにピアノを弾き、アインシュタインのように数学の才能を持って生まれてきた少年」なんである。IQは飛びぬけて高く、小学校に上がる前から大人をおちょくるもんだから、同じ年頃の子たちとは一緒にいられず、あっというまに飛び飛び級で高校までいってしまう。
でも、そこですらヴィトスは疎ましがられる。高校生であっても、彼にとっては低級なのだ。まさに真の天才、周囲は専門的な高等教育を受けさせるべきだと進めるんだけれど、それはつまり、ここにいてはメーワクだからということに他ならない。そのことを親たちも判っているから、オリの中に入れるようなことはしたくない、と言う。

という、この辺のバランスも微妙というか面白いというか。いわゆる天才児の孤独や苦悩を描く際に、大抵その天才の親たちは子供の才能に有頂天になったり、あるいは畏怖して避けたりして、だからこそ子供はますます孤独に陥っていく……ていうのが定番パターンなんだけど、ここではそうはならないのだ。
両親、特に母親は彼の才能を伸ばすべくきりきりまいはするけれども、まず、彼を自分の子供として愛しているという姿勢を崩さないし、父親は一歩引いてそれを見守っていて、でも妻に任せっぱなしというわけでもなく、同じように才能ある息子を誇りに思ってる。
でも才能あるがゆえに苦しむことも心配して、お前は理数系の才能があるんだから、パパの会社に勤めたっていいんだぞ、と言ってくれたりする。

父親は独創的な才能を持つ発明家で、ヴィトスの理数系の才能は父親譲りだと思われる。更に、彼のおじいちゃんに当たる父方の祖父も飛行機狂の理数おじいちゃんなのだから、まさに血は争えないというヤツなのだ。
父親は自分が持ち込んだ革新的な補聴器がヒットを飛ばして会社の中核的存在になり、次期社長と目されていた。つまり子供の才能にベッタリな親ではなく、親は親で、自分の夢を追っている。それは今までの天才児物語になかったことで、とても新鮮。
しかも最後には、ピンチに陥ったこの父親をヴィトスがその才覚を生かして助けるのだから!ここがクライマックスになってるから、つまりピアノが一切関係なくなっちゃうから、ピアノをモティーフにしながらも、かなり異彩を放つ印象を与えるのだ。

それは、ヴィトスを演じる、実際の天才ピアノ少年、テオ・ゲオルギューの魅力が実に大きいと思われる。ピアノ少年、なのだから、役者というわけではない。こういう物語の場合、今は映像のトリックも発達しているんだから、ピアノシーンは巧みに吹き替え出来るし、何もわざわざホンモノのピアノ少年に演じさせることもない……という考えを吹き飛ばしてくれる個性的な少年。
彼はヴィトスのようにやけに老成して、しまいには株をやって儲けたりしちゃうようなコではないんだろうけれど、やはりこの年で完璧に情感豊かなピアノテクニックを見につけているという時点で、やはり普通とは違う男の子なのだろう。

まあ、美少年というわけではない。歯が出てるし、普通……よりちょっと異質にはみ出しているような容姿。その“ちょっと異質”が、妙に強いインパクトを与える。
劇中、ヴィトスは小さな頃にベビーシッターをしてくれた年上の女の子、イザベルと再会する。その頃から変わらぬ愛情を抱き続けていた彼は指輪を差し出し、プロポーズをする。その彼のマジぶりがキャラを突き抜けて伝わってきて、なんだかもう、自分がプロポーズされているようなドキドキを味わってしまうのだ。
このマセガキの少年が、年上女の心をかき乱すのだ。当然、そんなマセた申し出をイザベルは断わってしまうのだけれど……でもラストシーン、彼女は花束を持って、彼のコンサートに駆けつけているのだし、何か、避けきれないものを感じるんだよなあ。

でね、そう、おじいちゃん。家具工房を営むヴィトスのおじいちゃんが、彼の一番の理解者なんである。まあ、孫に対しては教育上何の責任もない立場だから、いつの世でもおじいちゃんおばあちゃんが孫の理解者にはなりがちではあるけど、それにしたってこのおじいちゃんは実にカッコイイ。演じるのはあの名優、ブルーノ・ガンツ。へー、スイス出身なんだ。知らなかった。
ヴィトスはウチよりも、このおじいちゃんのボロ工房に入り浸っている状態。そのことに対して両親も特に何も言わない。
まあ、ピアニストになる息子のケガを心配する母親が、ノコギリを使わせているところに慌てて割って入る場面はあるものの、「これは遊びじゃない、仕事だ」とおじいちゃんからの受け売りの台詞を息子から言われ、しかもこのおじいちゃんはヨメに花束なぞプレゼントしたりして懐柔するワザがすぐれているもんだから、なんだかうまくかわされてしまうんである。

おじいちゃんは、飛行機マニア。手作りのブーメランで窓ガラスをブチ割る、というおちゃめな登場シーンから始まり、空を自由に飛ぶことの素晴らしさを嬉しそうに語る。孫が株で稼いでくれた金でドーンと飛行機シュミレーションマシンを買い、実際の飛行機まで買い、免許もないのにそれで飛んで……ケガして入院して、帰らぬ人になってしまった。
いや、その最後の部分は、ヴィトスに対してのウソなのだろう。両親は、おじいちゃんが屋根の修理をしていて落ちた、と説明しているのだし。

ヴィトスにだけ耳打ちしたそれは、おじいちゃんは、空を飛んだんだよと、長年の夢をかなえたんだよ、というウソだったのかもしれない。だからお前も、自由に空を飛んでみろ、という示唆だったのだろう。
それはあくまで比ゆに過ぎず、空を飛ぶという意味が、ヴィトスにとってはどういうことなのか。つまり彼が本当に好きなもの、やりたいこととは何なのか……。
しかし、ヴィトスはおじいちゃんの言うとおり、最後、その飛行機に乗り込み、空を飛ぶ。
しかし、その行き着く先は、彼の本当にやりたいことがある場所。最初は拒否した場所なのだ。

それは、世界的なピアノ指導者の住むお屋敷。最初、母親に連れていかれた時、ヴィトスはただただ拒否反応を示すばかりだった。世界中から彼女の指導を受けたい子供たちが集まってくる、予約待ち状態のその場所を、彼はまるで魔女が住んでいるお城のようだと思った。その時、彼は自分がどんなにピアノが好きなのか、判っていなかったのだ、多分。
彼女は、彼がピアノを弾きたくなるまで待つと言ってくれた。それが今ここにいる時間だけの話ではないことを、ヴィトスは同じピアノを愛する者同士として、その時は反発した態度のままで終わったけれども、感じ取っていたんだと思う、きっと。母親はこの時間内に息子がその気になってくれなかったことに、怒りを爆発させたけれど。

そうなの、ヴィトスはピアノが好きなんだよね。だって本当に、幼少の頃から、いつになったらピアノを買ってくれるの?って両親に何度も催促していたくらいなんだもの。
その頃は両親も、まさかこんな天才少年だとは思わず、まあ適当にあしらって、というか彼を愛情深く育てることこそを第一にしていた。父親の発明が売り込みに成功するかどうかが大事な時だったこともあったし。
でもヴィトスの才能が周囲に認められるところとなり、彼自身もそれに自覚的になるに従って、子供の気持ちがだんだん判らなくなってくる。

思春期さえも迎えていない子供の、整理しきれない苛立ちをピアノにぶつけると、先生は、もっと抑えて弾きなさい、と言う。左手を抑えなさい、などと彼の気持ちも理解しようとせずに言う。
その前に、ヴィトスが気に入っていた最初のピアノの先生も、息子の技術には追いつかないから、と母親が切って捨てた。
いや……それは確かに、大人の目から見れば仕方ない、という感じに思えた。母親が言うように、たった半年教えただけで、天才児の教師である位置を失いたくないのだ、ということが真実だったのかもしれない。でも幼い彼にとっては、本当に、ただ単純に大好きな先生ってだけだったんだもの。

その後も、ちょっとオマセなベビーシッター、イザベルにロックミュージックと、お酒まで教えられ、当然、こんな不良少女からも引き離されるんだけど、印象的なのは、これを隠し撮りしていた(!)父親が、その映像に思わず笑みを漏らし、妻の衝撃と憤りに反して、悪からず思っていたみたいだってことなんだよね。
まあ酒を飲ませたのは悪いことだし……ってことで、彼女をベビーシッターから外すことには同意するけれども、やっぱりそのあたりは、おじいちゃんに通じる寛大さがあるって感じがするんだよなあ。
でもそう言ってしまうと、母親ばかりがケッペキで厳しいみたいだけど、比較対照としてそう見えるだけで、決してそうじゃないのよ。ステージママとしては、かなり甘い方だと思う……でもやっぱり、母親ってのは、ある種のストッパーを求められるもんだからさあ……ていうか、昔はむしろ、逆だったような気もするけれど。

追いつめられたヴィトスが窓からの飛翔を試み、かすり傷ひとつ追わなかったけれど、それまでの天才的資質が一気に失してしまう。驚異的だったIQも、ピアノの技術も何もかも、年相応の普通の子供になってしまった。
愕然とする母親に医者が、「もっとヒドイことを言われる場合もあるんですよ。年相応の子供さんだと言われて、なぜ衝撃を受けるんですか?」と諭す。
という台詞を後から考えると、ひょっとして医者もグル?などと思うけれど……そう、結果的にはヴィトスは、演技していたのだ。窓から飛んだというのも見せかけ。
それは、ヴィトスがおじいちゃんにもらした、「他の人間になりたい。普通の人に」という苦悩の言葉を、「決心がつかなければ、大事なものを手放してみろ」と返したおじいちゃんのアドヴァイスを、彼なりに必死に咀嚼した結果だった。大好きなピアノを手放し、普通の子供になってみたけれど……。

普通の小学校に入りなおし、隣の席の同級生にこぶしを付き合わせる挨拶の仕方から教えてもらう。ただただ自転車でぐるぐる回るだけでなぜか楽しい。この場面、ヴィトスの聞いているクラシック音楽と、同級生の聞いてるヒップホップとが、自転車の交差と合わせて音楽も交差するのが、とても印象に残る。
でも、彼は、演じているのが我慢し切れなかった。最初に我慢し切れなくなったのは……ピアノだったのだ。おじいちゃんの工房にいつものように遊びに行って、年相応の子供らしく喋って、チェスも弱いフリして……そこまで演技してたのに、おじいちゃんがふと作業場に行った隙に、かけていたCDを聴いているだけではどうしても飽き足らなくなって、CDのフリして、ピアノを弾いた。
その様子に気づいたおじいちゃんがこっそり覗いていることにも気づいたけど、やめられなかった。
孫の頭の良さと共に、そこまで追い詰められていたことも知ったおじいちゃんは、この秘密を“死ぬまで”守り続けることを約束する。
そう、確かにその約束をおじいちゃんは守った。でも、その期間はそれほど長くはなかったんだ……。

だから、そう、やっぱり、ヴィトスはピアノが大好きなんだよね。口では「チェスにわざと負けるのが、一番大変だった」なんて言い、普通の小学生として同級生とムジャキに接するのも楽しそうでなんだか胸が熱くなったけど、でもピアノが好きだってことだけには、ウソをつき続けられなかったんだよね。
彼がかまえたオフィスにも、真っ先にグランドピアノをおいた。
その時、もうおじいちゃんは亡くなっていた。ずっと清貧な暮らしを続けてきたおじいちゃんを見かねてヴィトスは、彼の名義を借りて株で大もうけし、おじいちゃんはシュミレーションマシンと、何より夢だった自家用機を購入し、空への夢を全うして死んだ。

でも……その時ヴィトスのお父さんは、というかお父さんの勤める会社は倒産の危機に瀕していて、観客はもちろん、お父さんのお父さんであるおじいちゃんも、孫がこの天才的な才能で息子を、つまりヴィトスのお父さんを救ってくれないだろうかと思っていたに違いないんだ。
でも、それを言うのは、真っ先に自分のことを考えてくれた孫の気持ちを踏みにじることだから……。
それでも、どこかの時点で、ヴィトスはそんなおじいちゃんの気持ちを汲んだ。もしかしたら最初から判っていたのかもしれないし、あるいは、もしかしたらそのためにおじいちゃんが、究極の夢、“空を飛んだ”のかもしれないし……。
おじいちゃんの名義で設立した個人会社で、お父さんを解雇した会社を買収、一発逆転、お父さんをオーナーにし、そしてヴィトスは、そう、ようやく自分だけの欲望に対して向き合うことが出来た。

それにしてもこんなことをやってのけちゃうだなんて!彼は子供だから勿論、表舞台に立ってやり取りは出来ない。全てネット上で行って、姿の見えない怪人として恐れられているのだ。
買収、契約の場面には、彼のことを赤ちゃんの頃からスゴい子になるとホロスコープではじき出していた、占い師のおばさんが代理人になってくれた。
星占い、なんていうとロマンティックに感じるし、天才児であることに苦悩していたヴィトスはそれに反発した時もあったのだけれど、それだって言ってみれば数の論理から生まれたある種の学問だし、このおばさんも彼の理解者である、とも言えるんだもんなあ。
で、ドキドキの買収に成功したヴィトスとおばさんは、摩天楼輝く彼のオフィスでシャンパンで乾杯!おいおい、お前が酒を飲むのを見逃しちゃいかんだろー(笑)。

お父さんは、屈辱を味わわされた新社長に、自分の意見を曲げるから、解雇だけは撤回してほしい、と頼みに行く。と、新社長は苦々しく彼を睨みつけ、こっちから辞めてやる!と辞表を叩きつけるのだから、何が起きているのか判らず、呆然とするお父さん。なぜか自分が、いつのまにか、この会社のオーナーになってる!
そして彼は、ヴィトスが遅れて投函した、おじいちゃん、つまり自分の父親からの遺書で、全てを悟る。“普通の子供”に戻った筈の孫の秘密、それをずっと守り続けていたおじいちゃんのこと。そしておじいちゃんが、彼ら全てを愛していたことを。
うっ、こういうの、弱いの。あっさり泣く私。

天才は、特に幼少からの天才であるほどに、ある種の先天的異常……普通ではない=異常、という意味……だという解釈がなされる。
故に短命であったりする設定もある。
でも、本作はその点、希望的明るさに満ちているのだ。確かにヴィトスは普通ではない。何倍も早く身につけてしまった大人の感覚と共に、消しがたい子供の感覚とのアンバランスに苦しんでいる。それこそが異常とも言えるのかもしれないけれども、彼の強みでもある。

彼には、小さな頃にしか持ち得ない、誰かを純粋に愛する心が、大人の部分と調和してるからこそ、成長しても双方を持ち続けられるんではないかという、希望を与えてくれる。
それは純粋であると共に、とても成熟した、……成熟の境地が純粋になるような、本当に究極の境地なのだ。
そう、まるで、ピアノの音色のように。
数の冷静さとピアノとの結びつきが、何の混じり気もない、純粋、という共通項で手を結ぶのだ。
確かにピアノは数の論理かもしれない、と思う。

幼い彼がセクシーなイザベルにフラれる場面は、精一杯の彼の背伸び……アジアンレストランでのプロポーズ……があまりに切なくて、ムリない、と思うだけに切ないんだけど、ただただ彼を子供だと思っている彼女を見返す、ラストのコンサートシーンが圧巻だからさ。
でも、ヴィトスの、年齢をはるかに追い越した成熟と同時に、年相応に持ち続けている純粋さは、彼が“普通の子供”に戻った時に確かに見せていたものだったし、なんかそんな、フクザツなアンビバレンツを、本当に判ってくれる女性が現われなければ、ヴィトスは真に幸せになれないのかもしれない、なんて思ってさ……。

だからこそ、あの結末があるのかもしれないけど。本当は、同じピアノを愛する同志として最初から響き合っていたのであろう、老女性ピアニストの“お城”。彼はあの時、先生のピアノを最初に聴かせてくれと言ったのだもの。あの時、彼女はそのひと言で、彼の才能と、同じ魂を持っていることを見抜いたんじゃないかと思う。
“老”女性ピアニストってとこが、切ないんだけどね(爆)。いや、これは萌えるところなのか?かなりハイレベルな萌えだな……。

この作品がドイツとかじゃなくて(なぜかそんな感じがしてた)スイス映画だってことに、へーと思っていたら……あら!監督の名前見て、感動、大感動、「最後通告」の監督さんではないかあ!
監督が言う、「子どもの頃に感じていた、“ピアノ”と“天才”への憧れ」判るー!!「音楽が持つ力に対する畏敬の念」判る判る判るー!!いやあ……なんか監督さんの正体?知ったら、思いっきり大納得してしまった。
この監督だからこそ、子供の世界を不思議の領域まで知り尽くしている監督だからこそ見い出した、「北京ヴァイオリン」以来の、映画に永遠に生き続ける天才音楽少年、ヴィトスよ!★★★☆☆


僕は妹に恋をする
2006年 122分 日本 カラー
監督:安藤尋 脚本:袮寝彩木 安藤尋
撮影:鈴木一博 音楽:大友良英
出演:松本潤 榮倉奈々 平岡裕太 小松彩夏 浅野ゆう子

2007/2/14/水 劇場(新宿武蔵野館)
「妹萌え」ブームの中で出てきた数々の映画作品は、しかしやはり常識の範囲内に留まっていたのか、実際は妹じゃない、という関係性ばかりだった。
その代表的なのが始祖とも言うべき「くりいむレモン」で、お互いの親同士の再婚というのがお決まりのパターン。いや始祖どころか、これは昔々の少女マンガの頃からの定石。しかし今回は本当に兄妹、しかも双子という最も近しい関係性にまで迫ってる。

しかし実際、原作では、実は異父兄妹だったというオチがつけられるらしいんだけど、それで何で双子になりえるのかと思ったら、「24時間以内に違う男性とセックスすることでそれぞれの赤ちゃんが出来て、双子となって出産」ってことらしい……なんてムチャクチャな!
その事実こそが衝撃で、彼らの恋愛関係なんてフツーに思えちまう……いいんだろうか。それとも、普通の兄妹の禁断の愛だけじゃ、最近は足りんということなのか。凄すぎる。
これを知ると、原作をどこまで考えて臨めばいいのか、悩むところなんだよなあ。連載モノのコミックスが映画になると、ホントここが実に悩ましいところなんである。
無論、映画はベツモノで、この中だけの世界で完結していて、彼らはあくまで二卵性双生児で、本作のラストに暗示されるように、決して「郁をお嫁さんにする」ことなどは出来ないのだろう。でも前提としての原作があると、やはりその先を追わずにはいられない。

しかしこの原作の存在に関して、監督いわく「原作とは離れたエピソード」、原作者いわく、「原作のイメージを期待していた人は、さぞかし期待を裏切られたのではないでしょうか?」とどこか原作ファンを牽制するような言い方をしている。こうまで言われると、ますます原作を読むべきなのかなあと思ってしまうのは、ひょっとしてタイアップのワナにハマっているのだろうか。
てことはそれはキャラに関してではなく(原作者は、特に頼役の松田潤にはかなり満足していたようだし)、やはりオチに関する部分なんだろうなあ……。と考えると、映画ではそれこそ“常識の範囲内”に留まっているってことになるのかもしれない。

二卵性双生児の頼と郁。兄の頼が最近自分に冷たい、と妹の郁は悩んでいる。最初のうちは郁のモノローグが中心である。
頼は出来の良い学生で、先生からも一目置かれているぐらい。冒頭、膝のおんなじ部分にケガをし、保健室で一緒に手当てを受けているシーン、「さすが双子ね。頭の出来も似ればよかったのに……ゴメン」と保健の先生がついつい悪気がなく言ってしまうぐらい、双子とはいえ郁とはちょっと離れた存在なのだ。そのことが彼女をさらに落ち込ませる。
だけど、頼の方は多分……そうやって、妹から離れた存在でいたかったんだろう。二人が気持ちを確かめ合い、それによって追いつめられていく後半になって、こんな台詞があったから。
「私たち、何で離れちゃったんだろう」つまり、どうして二つの人間になっちゃったのかってことよね。でも二卵性ならどう考えたって二つの人間になっちゃうよなあ。
それに対して頼は、「俺は、郁と離れて良かった」と言う。つまり相対する好きな人として、彼女が存在するってことだよね。

実はここに、二人の気持ちの決定的なすれ違いがあるように思えてならない。二人ともお互いのことが好きで好きでたまらないのはホントで、それは何より彼らを結びつける絆ではあるんだけど、郁は彼とひとつであれば良かったと、まあちょっとロマンティックに思っている節があり、一方の頼の方は離れているからこそひとつになれる……これはちょっと、セックスを思わせるリアリスティックな思いを感じさせるのよね。
だから、映画ではあのオチになるのかなあ……ということは原作では禁断の愛を乗り越えてハッピーエンドになっちゃうってこと?ヤバい、ますます読みたくなってきた……本棚がもうマンガでいっぱいなのよお。

二人はこの年になっても、一緒の「子供部屋」なんである。高校三年生で上下の二段ベッドはあまりにも不自然。お互いにこんな感情を持っていなかったら、絶対にどちらかがそれに異議を唱えているはずなんだもの。
でも、親にとっては、当然いつまでも子供、だからその不自然に気づかないんだろうか。二人仲良いから、ぐらいに思ってるのか。
でもその仲良い、ってのが別の意味であることを、感づいてしまう。身体も気持ちも子供じゃないんだもん。
頼が、もう自分の気持ちを抑えることが出来なくて、眠っている郁にキスをしようとした。目覚めた郁との長いやりとり。「郁もそうだったら郁からキスして」「ズルいよ、頼」そう言いながらも、郁もまた気持ちにあらがうことが出来なかった。そして……。
何が起こってしまったかを、母親は頼のベッドだけが乱れていないことで敏感に察知する。
うわー……こんなこと、母親として察知したくないわ……。

郁は頼の親友である矢野に告白されてて、悩んでた。郁は頼しか好きじゃなかったから。でもそんなこと、言えるわけもないし許されるわけもない。何より頼の気持ちが離れていっているんじゃないかと思ってたから、躊躇してた。
でも、お互いの気持ちを確かめ合ってしまったら、もう何も迷うことはない。最初のうちはそう思って……とにかく矢野の申し込みを断わった。
一方の頼は、同じクラスの友華から言い寄られていた。彼女は彼らの秘密を知っていた。理科室でキスしているところを見てしまったのだ。
いや多分、その前から彼女は二人の仲を疑っていた節がある。最初はつっぱねていた頼だったけど、矢野が郁を諦めない、と宣言したことで心が揺れ始める。

三人で行こう、と矢野から誘われていた水族館に、頼は仮病を使って行かなかった。
矢野に何を言われても、ぼんやりと返すばかりの郁。
そういえば、こんなシーンがあった。巨大な水槽にぶつかりそうになりながら泳いでいるイルカに、ガラス越しに頬を寄せて、「イルカは寝ている時、脳の半分で寝て、半分で泳ぐんだって」と郁がつぶやく。
矢野は、「俺は脳の全部で眠りたいよ」と応えるんだけど、彼女はそれを聞いているのかいないのか……どこかひとり言のようにまたこう言うのだ。「私は脳の半分で寝ていたい。全部で寝ていたら、目が覚めた時が辛いよ」
彼女にとっての夢は、頼とひとつになることだったのだろうか。それは幸せな子宮の中での一体感?それとも、小さな頃受けたプロポーズが現実になる夢?……どちらにしてもそれは「目が覚めた時」にはかなわない夢なのだ。

矢野は郁に、頼へのお土産だと、イルカのストラップを渡した。そのキュートさに郁はニッコリし、「私も同じの買ってくる」と即座に駆け出した。矢野はどこか苦笑気味に、そう言うと思った、とつぶやく。つまり郁は頼とお揃いのものが欲しかったわけで、それは実は……矢野も同じだったのだ。
彼もまた自分用にとお揃いを買い求めていた。でもそれを、帰りのバスの中の幼女にあげてしまった。郁がうたた寝をしている間に。
実はこんな風に、矢野の気持ちの伏線はちゃんと張られているんだけど、最後に明かされるまで案外気づかないもんなのね。

その頃、頼は友華に呼び出されていた。そして……その日彼女と関係を持った。つまりこの日から、二人は付き合うことになったのだ。
友華が二人の秘密をかぎつけたこともあるけれど、郁を幸せには出来ない、と思った頼が、「好きじゃないけど、それでもいいなら付き合う」と言った条件に、友華がノったのだ。
そう、友華はそれを条件だととった。つまり、私のことを好きじゃないうちは、付き合い続ける義務があると。それは、ゆくゆく振り向いてもらえた時には本当の恋愛関係が待っている、とも言えるけれども、一方、そんなことが来ないことも頭のどこかでは判ってて、そうなるといつまでもキライでいてくれれば、この関係を維持できるってわけで、それはあまりに矛盾しているし辛いけど、彼をつなぎとめるただひとつの手段なのだ。
二人がラブホに入るシーン、頼が郁をふっきろうとするだけの理由で友華とセックスしようとしてるから、興が全然のらないのが如実に伝わって、友華の気持ちを考えると辛い。
頼の気持ちに寄り添っているから、観客の目にも割とカワイイ友華があられないカッコしても、全然そそられないのだ。これは映画のマジックだよな……だって顔の作りからしたら、郁役の奈々ちゃんより彼女の方がイケてんのにさ。

友華は頼がイヤがるのを知ってて、郁にこの事実を告げるんである。しかも、頼の前で。
ショックを受けた郁は飛び出して行ってしまう。
追いかけようとした頼を、友華が止める。郁を傷つけるだけだと。これで私がもっと嫌いになっただろうけど、私が嫌いなうちは頼は私のものなんだから、と。
ほんっとに、救いのない矛盾のかけひきだ……。
屋上でぼんやり座り込んでいる頼の元に、矢野が近づいてくる。追いかけろよ、お前らしくない、とけしかける。
背を向けた親友の背中にありがとうと言って、飛び出していく頼。

矢野はそれを見送り、そっと自分の携帯の待ち受け写真を見る、と……そこにツーショットで映っているのは矢野と頼、なんだよね。
彼の気持ちが示されるのはこのワンカットのみ。正直もっと見たい気はしたけど、頼と郁の描写が薄れちゃうから仕方ないのかなあ。でも友華には割と尺を割いてんのに。

頼はあちこち郁を探すけれど、見つからない。やっと見つけたそこは、夜中に二人抜け出して、自転車の二人乗りした場所だった。逃げる郁を追いかけ、ムリヤリに抱き締める頼。
……この時、二人の身長差がもちょっとあったら、もっとドキドキしたのになあ。奈々ちゃんおっきいんだもん。
追いつかれ、力づくに抱き締められるのが、もう抗えないって感じで、でもそれを理由に仕方なく抱き締められてるんだっていう、葛藤の中の言い訳と切なさを、やっぱり欲しちゃうんだなあ。

そう、これは報われない恋愛の切なさ。10代の恋愛なんて、その先の一生を決めるものではまず、ない。9割方、思い出のためのこやしである。
でもその時点では、誰もがそんなことは思わない。この恋こそが永遠であることを願う。そんな経験を積み重ねていくうちに、その思いは段々と薄れてくる。そして最後の人を決める時には、それまでの恋愛パターンをかえりみて、「一生一緒にいられる人」を決めるのだろう。それは決して、一緒にいて胸が苦しくなるほど大好きな人じゃない。そんなの、身体がもたないもの。
10代の時には、そういう大人の言い分が、諦めや言い訳のように聞こえた。どうして本当に好きな人とケッコンしないの、なんて青臭いことを思ってた。
その、青臭いことが目の前に現われてて、なんだかたまらない思いになってしまうんだ。

報われない恋愛の切なさは、彼らに関わる二人の同級生にも派生する。
いや、そもそも大前提の、彼らのお母さんがまずそうなのかもしれない。劇中では何も説明されない、この母子家庭の状況が、彼女が子供たちのお父さんと破綻したことを示唆しているんである。しかも原作では異父兄妹だという結論が待っているってんだから、つまりは二人の男と?いやいや、それを考えちゃいけないんだけど。
郁と頼が深い思いと絆で結ばれていることを感じながらも、二人が兄妹だから、一縷の希望を持って近づく友華と矢野。
特に郁を「妹ちゃん」と呼んで好意を寄せているのを前面に出しながら、最後の最後で、実は頼のことこそが好きだったことを匂わせる矢野は、一番のキーマンであるかもしれない。

ちょっと隠しすぎで、唐突な感じもしたけれど、でも翻って考えてみれば、彼は郁にフラれてもさしてショックな風ではなかったし、その後も懲りずに近寄ってくるし。
何より頼に対して「妹ちゃんのこと、諦めてないから」という台詞、それまでも妹ちゃんがどうたらこうたらと言って、やたら頼を挑発していた感じなんだよね。オチが判ってしまうと、二重の意味があったことに気づいてしまう。
妹ちゃん、という呼び方を執拗にすることで、二人が許されない関係であることを強調しつつ、郁のことしか目に入っていない頼に対して、その切り口でしか入っていけない矢野。
でもどこかで、その障壁こそが返って頼の心を燃え上がらせてしまうことも感じてる。実際、それを目の当たりにされて、友人としての立場の彼は、苦悩するのだ。

と、いうことは、三人が頼に思いを寄せているわけで、なんか郁の立場がないんだけど……。
郁役の榮倉奈々ちゃんは、私は初見なんである。普通っぽさが魅力かなとは思うけど、正直まだまだ不器用な野暮ったさが残る。サムシングは感じるけど(これは重要)、ちょっとピンとこない。重たい女の子は好きだけど、重たさばかりが残っちゃうというか。
正直、彼女に関してはラスト、頼をおんぶするシーンで、それが出来るだけの体格を持った女の子って条件だったんじゃないかしらんと、ついつい思っちゃうぐらいなんだよね。
背が高くて足が長くてスタイルはいいんだけど、それが彼女の持つ重たい不器用さを魅力に変えることを妨げている。
このキャラのイメージでは、このスラリとしたイメージはないかなあ、っていうか……ま、私が勝手にそう思うだけではね。確かに重たさは郁って感じだけど。

一方の頼役のマツジュン。彼も私は殆んど初見。まあ顔は知ってたけど……テレビで折々見かける感じより、彼もなんか外見的印象が、どこかカクッとワザとらしい感じ。眉毛があまりに整えられていて、気になっちゃう。むしろ矢野役のメガネ男子の方が、理知的な中にフクザツなアブノーマルを漂わせていて、そそられる。
二人がね、もっと罪の意識っていうか、許されない関係だっていうことをお互いに感じて、苦しんでいる感じが欲しかったんだよね。
そのためには、キスシーンにしてもセックスシーンにしても、もっとガッツリいってほしかったと思う。

まあ、ふた昔前のお兄様モノだったら、セックスの暗示さえなかったとは思うけど、兄妹であることに苦しむんなら、「キスして倒れこんで、カットが切られた次のシーンでは、肩と腕だけ布団から出して彼が彼女を抱きしめている」なんて、今の少女マンガにだってないだろ、っていうような、優等生的な時間経過の表現なんてやってほしくなかった。
ここでそんなスルーするから、二人が抱えているのは単なる秘密の恋、程度に見えちゃうんじゃない。それを見つける友華にしても矢野にしても、あくまで自分の恋のライバルとしてその弱点を追及するに過ぎなくて、その禁断の恐ろしさをついてくるわけではない。
実際、「最終的には許されない関係である」って程度で、二人を含めた彼らがどれだけ、その禁断性に戦慄を覚えているかは、ちょっと微妙なトコなんだよね。

好きでいる方が、立場が弱い。それは恋愛法則の昔からの鉄則。
殊に、頼は郁のためを思って(自分勝手な解釈なんだけど)彼女から離れるために友華と付き合っているわけだから、好き嫌いの範疇からハッキリと離れていて、それはあまりに残酷なのだ。
それならまだ、頼に道ならぬ恋をしている矢野の方がマシである。少なくとも、友達ってのは一生キープできる立場だからだ。まあ、針のむしろだけど……。

銀残しを思わせるフィルムの手触りは、黒味の重たさをクラシックに強調する。現代の制服の風潮よりは長めの、膝丈ギリギリのプリーツスカート、そしてハイソックス、厳格な革靴。男の子の制服もシックな色合いの、ちょっと崩したネクタイ姿で、適度な厳粛さがあって、そそられる。
私たちの頃の、思いっきり保守的な紺サージと学ランをほうふつとさせる、保守的だからこそ、それを破る欲望の危険さ。
思えば安藤監督は「blue」でも、制服の禁断を十二分に発揮させてドキドキさせてくれた。
でもその黒を強調する画面は、マツジュンのやけに整った眉毛や、奈々ちゃんの黒髪や浅黒い肌の重たさも強調してしまってるんだけど。

しかもやけにワンシーンワンカットの粘りにこだわるもんだから、余計な重たさが加算されてしまう。確かに気持ちの流れを辛抱強く見つめ続けることが、有効な題材であることは勿論である。
でも、それも限度があるっていうか……それならスパークする要素(つまり、前述のキスやセックスの描写に関してね)を持ってきてほしいし、役者がこのロングショットに耐えてるだけのように見える時もあるんだもん。実際はその感情の変化をとらえようってネライなんだろうけど、別の感情の変化をとらえちゃってる。
ことにラストの、ジャンケンして負けた方が相手をおんぶして歩くゲーム……幼い頃、何も考えずにお互いを好きだってことだけで成立していた頃を再現するシーンなんて、この長回しに二人はすごく頑張ってるし、追いつめられた気持ちを出そうと努力してると思うけど、ちょっとムリがあるんだよー。
ここはカット割って盛り上げても良かったと思う。二人ともムリに涙を搾り出そうとして、聖子泣き状態だし。耐えて見ていたこっちも、耐えて涙を流さなきゃいけないのかしらん、みたいな気持ちになってしまう。

そう、このラストシーンは……どこか二人の逃避行のように見えもして、それがあっさりと否定されてしまう虚しさが秀逸である。
頼は郁に、シロツメクサの花を渡す。あの頃の記憶が甦る。あの時、何て言ったか覚えてる?言ってみて、と郁は請う。頼はテレながらその台詞を口にし、あの草原に行こう、と郁を誘う。そこでもう一度この台詞を言わせて、と。
幼い頃、シロツメクサの指輪を指にはめてあげて、「郁は僕のお嫁さんだよ」と言った、あの幸せな記憶。

二人寄り添って、電車に乗って、草むらをかきわけて、ここだ!と目の前に広がったのは……無残に地肌を剥かれてしまっている土くれの風景。
呆然と立ち尽くす二人。
頼は、ごめんね、郁、と繰り返す。もう、昔の時間には戻れないんだ、なんて、そんなこと判りきっていたことだったのに。
郁は静かに、頼にもらったしおれ気味の一輪のシロツメクサを、埋めるのだ。ここに埋まっているって思えば、安心する。そう言って。
それは、二人の幸せな過去も、今の気持ちも、ここに埋葬されてしまう、そんな気がする。二人とも黙り込んで、言いたくない、聞きたくない言葉をお互いに待っている、そんな気がする。

そして、あのおんぶゲームの場面で、郁を背負ったまま立ち尽くした頼が、「ごめんね、郁。郁をお嫁さんに出来るわけがないのに」と泣くのだ。
その背で、郁も涙にぬれた頬をすりつける。振り返った頼と交わすキスは、こんなにくっついているのに、向き合えない、一体感になれない苦しさがあって。
でもそういえば二人、きちんと正面から抱き締めあうシーンはなかった。隣に座って郁の頭をかき抱いたり、地面に寝転んで頭をくっつけあうようにして寄り添ったりするシーンはあったけど……セックスの暗示のシーンさえあったけど、それもあっという間に画面の外に見切れてしまったし。
それはどれも切なく、画になるシーンではあったけど、二人は結ばれないんだよ、という暗示だったのかなあ。
郁を背からおろし、二人はまた隣同士、歩いていく。
いつも、隣にいた。それはプロポーズを受けた幼い頃からそうだった。いつも隣にはいたけど……隣なのだ、あくまで。

学校、それ自体が切ない装置だったことを思い出した。いつも頼は屋上に一人、佇んでいる。錆びついた屋上。屋上もお約束だけど、この錆びついた、ってところが、放置されてもてあました感情を皆が発露させてきた場所、を強調している気がする。
この屋上から、ヘッドフォンステレオを聴きながら歌を歌っている友華を、頼が見下ろしているシーンも印象的である。これを受けて彼は友華を合唱コンクール?の実行委員に推薦するんだけど、「歌、上手かったから」とすっと言う。
それがね、ほんのちょっとではあるけれど、彼の心の中に友華が入り込んだことを思わせて、それはこれだけ沢山の生徒が通っているはずの学校で、奇跡的に一人きりの場所が二箇所出来てて、そしてその片方が片方を気づかれずに見つめてるっていうのが非常に効いてるんだよね。

あとこれ!自分の気持ちが郁を傷つけるんじゃないかと悩んでいる頼が、郁を先に帰らせ、しかし後から慌てて追いかけようとするんだけど、もう見失って、で、教室で呆然と座りこむ場面、カーテンがはためき夕方の西日が入り込む教室が、彼のシルエットを非常に美しく輝かせてて、すっごく画になってた。

学校って、実に美しい場所だったんだなあ……。★★★☆☆


ホリデイ/THE HOLIDAY
2006年 135分 アメリカ カラー
監督:ナンシー・メイヤーズ 脚本:ナンシー・メイヤーズ
撮影:ディーン・カンディ 音楽:ハンス・ジマー
出演:キャメロン・ディアス/ケイト・ウィンスレット/ジュード・ロウ/ジャック・ブラック/イーライ・ウォラック/エドワード・バーンズ/ルーファス・シーウェル/ミフィ・イングルフィールド/エマ・プリチャード

2007/4/18/水 劇場(有楽町丸の内TOEI)
ハリウッドラブコメを久しぶりに観たー、って私、おんなじようなこと、毎回言ってる気がするけど。
でも、ホント、別にミュージカルでもないのに、テンション上がると手をぶーんと振り上げたりするような、ザ・ロマンチック・ラブコメ、久しぶりだよ。それとも向こうでは、恋愛の時は皆こうなんかい?
まあ、だから割り切って観られる。つーか、女がこの年になってここまでガーンとオーバーアクション出来るっていうのが、ある意味清々しい。
でもその中に、女が味合わなくてはいけないキッツイ現実が横たわっているのだよね。
どこか大げさに紛らしているだけに、余計に救いがない。

イギリス在住のアイリスは、新聞社に勤務するコラム担当の記者さん。そしてアメリカ在住のアマンダは、映画の予告編製作会社の経営者。共にバリバリのキャリアウーマン。
冒頭は、それぞれのヒロインが恋に破れる様子が描かれる。その様は対照的である。

アイリスは二股かけられた相手に、しかし未練タラタラで、まだ望みがあるんじゃないかと思ってプレゼントなぞ用意しちゃって、しかし職場でのパーティーの席でソイツがその二股相手の方と婚約発表しちゃう。そんな仕打ちを受けても涙をこらえて背を向けそっと帰るしか出来ない。そして家に帰って思いっきり泣いて泣いて。
一方のアマンダは、同棲相手に絶対アイツ、ウワキしている!許せない!と息巻き、相手がどんなに否定しても否定しても追いつめ、ついには彼を追い出し、そしてその口からようやく浮気の事実を吐かせるとパンチを二発くらわせる。別れに涙もないのか、とどこか呆れ気味に恋人は去って行く。アマンダは泣こうと思って力を入れてみるんだけど、泣けない。こんな時にも泣けない自分に呆然とする。

かくして、センチメンタルジャーニーをとネットのホームエクスチェンジに登録していたアイリスに、やはりセンチメンタルジャーニーを求めてアクセスしたアマンダ。二人はクリスマスに休暇を2週間とって、お互いの生活を取り替えようというワケなんである。

このチャットの場面はリズムがあって面白い。ことにアマンダが「その街に男はいる?」とジョーク気味に聞くと、アイリスがやはりジョーク半分で「ゼロ」と書き込む。すると間髪いれず「行くわ」とアマンダが返すトコで、二人の旅の目的がどうやら一致していることが判るあたり、クスリと笑わせると同時に凄く上手いよね。

家の交換をするホーム・エクスチェンジなんて、初めて聞いた。ちょっと心惹かれる。
しかも国を越えてだなんて!失恋したらこれぐらい遠くに行ってリフレッシュしないと、ということかしらん。しかし、アマンダが旅先を選ぶのに、「英語圏がいいわね」と探しているのがね、そーゆー選択が出来るっていいよね……などと思っちゃう。スペイン語圏とかさ、ロシア語圏とかはさ、あるけど、日本語圏は日本しかないんだもおん。あ、ハワイとか言わないでね。虚しくなるから。
まあでも、日本国内でのホーム・エクスチェンジならアリなのかなあ……でもそれだと、よっぽど環境を変えないとリフレッシュ出来なさそうだけど。

ところでさ、予告編製作者のサガか、アマンダが人生の岐路に立つと、自分のそれまでと、これから起きるかもしれないこれからが、予告編風映像となって彼女を容赦なく襲うんだよね。
ハリウッド映画そのもののように、無遠慮に、攻撃的に。
彼女が「大ヒット間違いないナシね」と語って最終チェックしてる劇中映画の予告編が、あまりにベタな内容しか伝わってこないサスペンスアクションと思しき映画っていうのは、やはりひそかに皮肉なんだろうなあ。
あまりにベタすぎて、背後で大爆発のベタしか覚えてないけど。
そして多分、彼女自身はこの本編自体は観ないんじゃないかな、と思われるのもね……。

さて、かくしてアイリスはロスへ、アマンダはロンドン郊外へと飛び立つんである。主役級のヒロインをゴーカに二人持ってきて、ホーム・エクスチェンジでしょ。もうまるまる映画2本分の楽しみとボリュームなの。

アイリスの方は、アマンダのゴージャスな住まいに心躍るばかり。すべてが自動でワケ判んないぐらいだし、無数のDVDで溢れたホームシアターは超豪華だし、一人で寝るにはもったいないぐらいの大きなベッドだし。
そもそもはアマンダが「メルヘンでかわいい」と、自身の家より数段狭いアイリスの家を選んだことからこの交換が成立したのに、一方のアマンダはこの家に到着してから数時間でタイクツを感じ始めて、なんか窮屈そうに動いているのが気になるんだよね。
あ、そういやー、アイリスはこの後出会うことになるマイルズと恋の予感はあるものの、まだ予感程度で寝るどころかキスだってしてないぐらいだから(ほっぺにはしてる)、この大きなベッドは彼女がのびのび一人で使ってるんだけど、一方、アマンダの方は、アイリスの小さなベッドで彼の兄のグラハムと寝ているわけで、この辺りの細かい対照も上手いんだよなあ。

でもバリバリの新聞記者であるアイリスがそんなにキュウキュウであるとも思えず、彼女のこの不自由な生活……童話の中に出てくるお菓子の家みたいに可愛らしいエントツが立った愛らしい一軒家で、だから周りから隔絶されてて、暖房は暖炉に薪をくべ、お風呂はアンティークなバスタブというのは、彼女自身があえて選択した、「心地よい孤独」なんだよね。
一方のアマンダは、稼いだお金を実に判りやすく使ってる。ロミジュリでもやれそうなバルコニーのついた豪邸、しかしこのバルコニーと地上で、アマンダとイーサンは後戻りの出来ない醜い痴話喧嘩を繰り広げるわけだが。
ラスト、メインの四人が皆して、アイリスの小さな家の方に集っているというのが、この映画の、そして観客はそっちであろうという決着点を示しているように思えてならないのね。
広大で、プールまでついてて、ゴージャスで快適だけど、一人でいるとどうしても寂しいから、近所のおじいちゃん連中なんか呼んでパーティーしちゃうアマンダ邸。
一方、大好きな人が一人いれば、充分にロマンティックな時が過ごせるアイリス邸。
それぞれに、本来の持ち主が思いも寄らぬ価値をそこに見い出すのだ。

アイリスは、ロスという解放的な土地にも関わらずハデに遊んだりはせず、少しずつ心の傷を埋めていく。すぐには、恋しない。ご近所の足の悪いおじいちゃんと仲良くなったりする。しかもこのおじいちゃんっていうのが、ハリウッド黄金期の名脚本家だというニクイ設定!一方でコミカルなミュージシャン、マイルズと出会い、友達のような心安さから、段々と癒されてゆく。
一方のアマンダは、着いたその日の夜に既に、恋に落ちてしかも速攻、寝ちゃう。酔っ払って妹の家に泊めてもらおうと訪ねてきたアイリスの兄、グラハムとソウイウことになっちゃったんである。それ以降は彼とのラブラブの日々と、だけど私はクリスマスが終わったらロスに帰らなきゃいけない……というせめぎ合いである。

これって、アメリカとイギリスの違いかしらね。もうセックスの相性!から入って恋へと猪突猛進型で行っちゃうアマンダ。近所のおじいちゃんたちと友情を育むなどの知的なアプローチを見せつつ、恋の相手もその経過も、遅れがちで遠慮がちで慎重なアイリス。
だけど、アマンダは別れた恋人とは忙しいあまりにセックスをしておらず、イギリスに渡ったこの時はどこかその反動が出てて、えーい、心のおもむくまま!みたいな気持ちが出ているように見えるし、一方、アイリスの方はというと、恐らくこの薄情な恋人に結構肌を許してしまっていたことも含めて傷つきまくって今ここにいる感じもし、その辺りの対照が実に上手いのよね。

アマンダは夜半、目の前にいきなりイケメン(そらー、ジュード・ロウ以上のイケメンはいないであろう……)が目の前に現われて、もうスッカリ動揺しちゃうの。
彼と彼女は、こんないきなりの出会いでもなんだか会話が弾んじゃって、で、グラハムはふと彼女の唇に、本当に突然キスしちゃう。
このいきなりキスは、少女マンガに基本を置くラブストーリー王道のときめきよねー。
アマンダ、目をパチクリさせて、「もう一回」。思わず吹き出しちゃう。これはキャメロン・ディアスだから成立するキュートさ。
ウッカリするとうつみ宮土里にも見えかねない親しみやすさが、セックスから始まる恋をいやらしくなく、イヤミなく、見せる。

しっかし、アマンダ=キャメロン・ディアスとグラハム=ジュード・ロウはキスしまくりだよなあ……。
でもね、二度目のセックスの後、ベッドに呆然とその身を投げ出すように二人天井を見上げ、アマンダは「メチャ感じたわ!」とつぶやくなんていうシーンを用意するなら、彼女がさあ、キッチリブラをつけてるのはなんか興醒めだよな。明らかに事後直後って雰囲気の会話なのに、おかしいじゃん。
それならまだ、シーツなり掛布なりかけててくれた方が良かったと思う。
あんな、セックス直後に放心しているような状態で、なんでキッチリブラつけてんのよ。
あー、ついつい、そんなことが気になってしまうのよねー。ピンクを基準にしているわけではないのだが……。

ところでさ、アイリスが出会う脚本家、アーサーって、誰かモデルがいるんだろうか。彼の語るハリウッド黄金期のエピソードに心躍る。
アイリスが歩行器で散歩している彼を見つけ、車で送り届けたのが出会いなんだけど、その場面で、アイリスがどこから来たのかって聞かれて、「ケーリー・グラントの出身地だ」と即座に答える彼がね、もうこの瞬間に立場逆転っていうか、アイリスはどこか、困っているおじいちゃんを助けるみたいな感覚でいたのが、一転するのが上手い。

そしてアイリスは、アーサーから勧められた名作映画の数々にスッカリ心酔する。
このアーサー、ハリウッド協会から名誉の受賞を打診されてるんだけど、歩行器を使って人前に出るなんて出来ない、とつっぱね続けてる。ハリウッド黄金期の脚本家。そのプライドと、ダンディズム。
特に後者に関しては、今のアメリカにはもうないかもしれないけど、意地っ張りのイギリスにはまだまだ残っているものと共通している感じがする。
だからアイリスは、現代アメリカでは時代の遺物のようになっている彼に、敬意を持ち、友情を感じ、どこか保護者のような心配をもって見つめている。その関係がね、実にステキなんだよね。

んでもって、そのアイリスと出会うミュージシャンのマイルズが、この素敵な映画愛に寄り添うんである。
「ニューシネマパラダイス」のテーマ曲をカーステでかけながら現われる。「あなたの曲?」「残念ながら、そうじゃない。モリコーネの曲だ」いや、判るだろ……アメリカ人ならまだしも?同じヨーロッパ人なんだからさあ。
マイルズは映画オタク。というか、映画音楽オタクと言うべきか。アイリスの家を訪ねた時にちょうどアーサーやその友人のおじいちゃんたちとパーティーやってて、彼も飛び込みで参加する。その人なつっこい性格で、おじいちゃんたちともすぐに仲良くなっちゃう。なんともチャーミングなキャラなのね。

アイリスがアーサーから勧められた映画を物色しているビデオショップで、マイルズはその名作映画を、映画の音楽を口再現して語っていく。彼、ミュージシャンっていうより、もう見た目からまんまコメディアンって感じだから、このパフォーマンスの楽しいのなんの!「二つの音だけで表現する」とジョーズのテーマ音楽を嬉しそうに口ずさむ。こんな恋人がいたら楽しいだろうなって思わせる。
本作の音楽家、ハンス・ジマーを持ち上げるのはご愛嬌ってとこか。
感動なのは、「卒業」のDVDを手にとってその主題歌「ミセス・ロビンソン」を歌ったら、振り向く客がダスティン・ホフマンだということ!
なんと豪華でシャレた演出!

でもね、彼には現時点で売り出し中の若手美人女優の恋人がいて……でも、今ロケでいないはずの彼女が男と歩いているところを彼は発見してしまう。
自分の記憶とダブらせて、彼を痛ましく見つめるアイリス。そう、この時点では彼女は決して、マイルズに恋していたというわけではないのだ。
「どうして、俺は悪女に弱いんだろう」
「悪女だからよ。魅力があるから」
アイリスは当然、彼と婚約した若い女を頭に浮かべていただろう。まだマイルズとは恋にまで至ってない。もっと安らげる、大切な友人になれればいいな、ぐらいな気持ちだから、だから余計に、なんだか彼のことが心配で、彼の気持ちをくんであげたくて。
それって、恋以前に、あるいは恋以上に、すっごいステキじゃん!

すっかり落ち込むマイルズを慰めるアイリス。酒を差し出し、「こんなこと言うと、ウソっぽいと思うだろうけど、私にはあなたの気持ちが判るの」と、このセンチメンタルジャーニーの経緯を話し出す。
彼を振り切れずにいた辛くて長い年月。感情が入り、涙ぐみながら話すアイリスに目を丸くするマイルズ。「君の方が飲むべきだ」と酒を差し出す。
なんか、思わず笑っちゃう。この、自然にギャグが出てくるところが、いや、ギャグじゃないんだけど、彼は本気で心配して言ってるんだけど、なんか笑っちゃえるあったかさがあるというかさ。
つまり自然に人を思いやれるのが、彼のあったかさ。アイリスとアマンダも全然違うタイプだけど、それ以上にグラハムとマイルズは180度&ヒネリ5回分ぐらい違うよね。グラハムが一見、イケメン、ウラワザ母性本能くすぐり系なら、マイルズは、一見癒し系に見えながらも、実は包容力アリアリ系なのね。あんなナリして音楽で口説けちゃうってのもちょっとキュンとくるしね!

一方のアマンダとグラハムは、もう恋の路線一直線である。「久しぶりの“初めてのデート”」に緊張しまくるアマンダは、三銃士のように仲の良かった三人家族の思い出を話す。両親が離婚して以来、ずっと涙を封印して生きてきたこと、それ以来、どんなに悲しくても泣けないのだと。
グラハムもそこそこには自分の話をするんだけど、それはせいぜい、「逆に自分はすごく涙もろくて、映画を観ても、本を読んでも、バースデーカードでも泣く」といった程度のライトなもの。
彼にはもっと言わないでいる、言えないでいる事実があるんだけど、でもこのライトな告白が、実はすっごい、ステキな素晴らしい伏線になっているってのは、さすがの上手さなんだよなあ。

その隠された事実、それは、ある日アマンダが彼に会いたくて、思い切って彼の家に押しかけた時に明らかになった。
突然現われたアマンダに当惑の表情を浮かべるグラハムに、アマンダは、誰かがいる、とピンときた。一瞬、彼にはイイ人がいたんだと、彼女もそして観客もそう思った。
しかし、彼の後ろからヒョッコリ現われたのは、小さな女の子。そしてもっと小さな女の子!

驚き、戸惑うアマンダをよそに、彼女たちははしゃいでアマンダを迎え入れる。とっておきのロマンチックなレースのテントにもご招待する。四人並んで横たわって見上げると、キラキラ光るお星様がぶらさがってる。「皆で作ったの。だって三銃士だもの」
ハッとするアマンダ。
「この家に女の人が来るの、初めて。嬉しい」娘たちはそう言ってアマンダにすり寄る。
「いい匂いがする。その口紅も、素敵な色」下の娘は興味津々。「新色よ。ベリーキスっていうの」上の娘がその言葉に反応する「ベリーキス」とつぶやいて、父親を見る。なんて、おませさん!
彼の携帯電話に表示されていた女名をウッカリ見てしまっていたアマンダ、「ソフィー、オリヴィア、アマンダ、忙しい人ね」なんてアキラメ気味に言っていたのに、まさかそれが、娘だなんて。

「本当に親しくならなければ、言わない。週末は両親に娘たちを預けて、一人の男になるんだ。それと娘たちとの生活を両立出来るとは思えない。娘たちの生活を大事にしたい」グラハムはそう言った。
正直な男。だけど「信じられないよ。娘たちがなつくなんて……」ってことに、動揺しているのもホント。娘だもの、ママがほしいに決まってる。そりゃパパのことは大好きに違いないけど、女同士、いや、女の子同士、秘密の話がいっぱい、あるんだもの。
下の娘がアマンダが自然に身につけている化粧品や香水に憧れの視線を向けたり、上の娘が二人の仲を慮ってオマセな配慮をしたりするトコに、それが如実に現われてる。

一方、アマンダと連絡をとったアイリスは、同時に電話がかかってきたお兄ちゃんと彼女の反応で、気付いちゃうのだ。
この、三者面談(面談じゃないけど)のやり取りが、王道のハリウッドコメディだなーっていう上手さ&可笑しさ。
キャッチホンなわけよ。んでね、アイリスはアマンダの豪邸のハイテクを使いこなせてないから……いや電話なんてハイテクでもなんでもないけど、でもキャッチホンの切り替えが上手く行かなくて、お兄ちゃんに向かって「アマンダと寝るなんて!彼女にはこの街に男はいないっていう条件で貸したのよ!」と叫んだつもりが、切り替わってなくて「まだ私よ」とアマンダから遠慮がちに返事されて慌てふためく。ベタだけど、上手いギャグ。

アマンダの家がハイテクだからっていうよりか、アイリスが実にアナログ人間だってのが判るわけよね。そうだよね、なんたって暖房が薪の暖炉だなんていうメルヘンな家にすんなり住んでいるぐらいだもの。
アイリスはアマンダが、自分と同じように傷心バカンスであることに、薄々気付いていたってことだよね。で、まさかこの短いバカンスで本気の恋が芽生えるなんて思ってないから、お兄ちゃんが遊びで彼女と寝たんだと思って、激怒したワケだ。
だからこそ、このキャッチホンの応酬に、アイリスに電話をかけてきたマイルズが入り込んでくるのが、上手いし、大きな意味があるんだよなあ。

もうそろそろクライマックスを迎える二組。アイリスとマイルズは、少しずつイイ関係になってた。アイリスの元に、あの薄情でイイカゲンな元彼、ジャスパーが訪れて、彼女の心はちょっとかき乱されて、流されそうになったんだけど、彼が結局、アイリスを失いたくないとか言ってる甘い言葉の一方で、婚約者と別れる気配も全くないことで、イイカゲン、アイリスは思い知るのだ。
こんなヤツ、自分を愛してくれているんじゃないんだって。結局は子供みたいな所有欲。アメリカまで追っかけてくるなんていうロマンティックなことしちゃう自分に酔いしれてるだけで。
彼を追い出して、両手を突き上げて、やった!とばかりに咆哮する彼女は、この地に犯されたか、かなりハリウッド風味だけど、でもここで引きずるんじゃなくて、清々しく断ち切ったのを、その姿でしゃんと示したってことよね。

アーサーの名誉受賞式のためにと、彼をイメージした曲を作ろうというんで、マイルズの部屋にアイリスが来てる。小粋なシャレたメロディを奏でるマイルズ。とてもこの巨体から奏でられているとは思えない。「アーサーっぽいわ」と喜ぶアイリスに、メロディアスな旋律を奏ではじめるマイルズ。「君をイメージした曲だ」アイリスはふと天を仰ぎ、何ともいえない表情をするのね。
イイ感じじゃん!

で、いよいよアーサーの名誉授賞式。その前に、アイリスがマイルズとデートする。それがね、お寿司屋さん(日本料理屋さん?)が実にフツーに出てきたのにはちょっとビックリ。
いや、もはやビックリすることもないのか。イタメシ屋さんとかと同じようにフツーなのかなあ。お箸もフツーに使ってるし、何よりシンプルなガラスのお猪口で日本酒をキュッと、フツーに(しつこい)飲んでいることに、なんかカンドーしてしまう。
わー、私らと同じじゃん!みたいな。
でもそこに、あの元カノから電話がかかってくる。動揺するマイルズに、「ほらね」とアイリスは微笑んで彼を送り出す。寂しげに酒の杯を飲み干す彼女の姿から、彼への気持ちを自覚している様子がほの見える。
でもマイルズ、ギリギリに授賞式に滑り込んできて、アイリスの隣の席に座って言うのだ。
「彼女とはケリをつけてきた。お正月は一緒に過ごせるかな」
「私、イギリスに帰るのよ」
「行ったことないんだ。君と一緒に行ってもいいかな」
おおー!!!

ちなみにこの式も凄く感動的なんだよね。アイリスのスパルタで見事自力で歩けるようになったアーサーが、予想外の黒山の聴衆に胸を熱くして、そして堂々と壇上に上がり、笑いもとってスピーチする。アイリスは「あんなにリッパに……」と感極まる。ホント、オカンみたいだな。

一方、アマンダとグラハム。グラハムはね、愛してるって、彼女に言うのだ。そりゃこの先、どうしようもない。でも一緒にいたい、愛してる、その気持ちはホントだから……なんと応えることも出来ずに、自分がどこか涙ぐんでいることに、彼女は気付いていただろうか。
どうしようも出来ずに、とりあえずの別れをした二人。しかしまた会えるという言葉が、何の保証もないことはお互いに判ってる。タクシーの中で、それまで泣きたい時もどうしても泣けなかったアマンダの瞳から涙がこぼれる。その事実自体に喜んでキャーと笑っちゃうアマンダに、運転手が怪訝な顔するのには吹き出しちゃう。

引き返してもらうアマンダ。車が行けるのは小道の手前。雪の中、走って走って走って、家の中に駆け込む。奥から驚いたように出てきたグラハムの顔は涙でグシャグシャ!もおー、吹き出しちゃうよ。イケメンの代名詞になるぐらいのジュード・ロウが、彼女との別れでグシャグシャに泣いちゃって、鼻をすすりながら出てくるのよ!
うー、あの伏線よ、涙もろいって自分で言ってたグラハム、その伏線がここなのよ!それにしたって凄い号泣してんのよ。つまりそれぐらい、彼女との別れが辛かったのよ。なんとカワイイのかっ。
アマンダは自分も久しぶりの涙を流しているのも忘れて、なんだか笑っちゃって、でもとにかく彼に突進して、固い固い抱擁をかわす。「お正月に一人だなんて、寂しいから」彼女はここにもうちょっと残ることを選択したのだ。

バリバリの新聞記者のアイリスと、予告編製作会社の経営者であるアマンダ。共に“たかが”男のために、自分の今いる場所を捨てるなんて、出来ない。敢えて、そういう言い方をしてみる。
彼女たちがこの短いバケーションで見つけた恋は、一生のものかもしれない。それを、仕事のためだといって手放すなんて愚かなのかもしれない。でも、じゃあ、男はその葛藤は与えられないのか、女だけがそれに悩まなくてはいけないのか、ってことなのよね。
とはいえ、彼女たちが恋に落ちた相手も、当然それぞれに築いたものがこの場所にあるわけだし、その地を離れることはかなり難しそう。

ラストは、どうしても現時点では離れ離れにならなければならない運命を、クリスマス休暇をニューイヤー休暇にまで延ばして、つまりは先送りしただけで、まるで問題解決にはなってないし、むしろ不安になるぐらいなんだけど、なぜか、大丈夫、何とかどうにか上手くいくって、という気持ちになるのは不思議。
ただ、危惧していたのは、まあ、ヒロインが主人公だからそれはないだろうとは思ったけど、女が男の条件に合わせて、仕事を諦めるとか、拠点を変えるとかしちゃうんじゃないかってこと。現時点ではそこまでの決着は見られないんだけど、なるとしたら男の方が拠点を変えるんじゃないかなー、となぜか思うのは、女の勝手かしらん。

気軽に観られる一方で、この決着をどうつけるんだろ……と気になってもしまう作品。
それは、今後の男女共生の社会の重要テーマのひとつで、そして実際、まだ解決されていないんだってことだよな。★★★★☆


ボルベール<帰郷>/VOLVER
2006年 120分 スペイン カラー
監督:ペドロ・アルモドバル 脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ペネロペ・クルス/カルメン・マウラ/ロラ・ドゥエニャス/ブランカ・ポルティージョ/ヨアンナ・コバ/チュス・ランプレアヴェ

2007/8/3/金 劇場(有楽町 有楽座)
ここ数作、すごい重さに包まれていたので、ああそうだ、アルモドバル監督って、こういう、シニカルの中にコミカルさのある人だったんだと思い出した。私がアルモドバル作品に出会った頃を思い出した。
ただあの時の私は、映画にも人生にも(爆)免疫がなかったから、ただただそのシニカルや毒の部分に圧倒されていた記憶があるばかりだけれども。

そして、ここニ作品でアルモドバル作品に花を添えてきたペネロペ・クルスが、今までのアルモドバル作品には案外なかった、華麗な女の花を咲かせる。
女は強い。どんな局面にあっても、という視線をずっと崩さずにきたアルモドバル監督ではあったけど、それをこれほどまでの美しさで肯定した、彼女の圧倒的強さにひれ伏す思い。
ペネロペ姐さんは劇中、くっきりとした真っ黒いアイラインが両目をぐるりと取り囲み、意志的な眉毛と真っ赤な唇、という結構な厚化粧。それは地味な姉と比較する意味合いもあるんだけれども、後に明かされる彼女の過酷な過去を考えると、彼女がその化粧やセクシーにあいた胸元の服の下にくじけそうになる自分を必死に隠してきたであろうことに、思いを馳せてしまうのだ。

とはいうものの、やはり女は強し!なのだけれどね。だって劇中、女たちは三人の人間を殺しているのだよ。三人のうち二人は男。こう言ってしまうとマズいのかもしれないけど、ま、死んで当然の男たち。
巻き込まれて死んでしまった一人の女は、殺した方の女にとっては憎むべき存在ではあったけど、女たらしの男に騙された気の毒な女であり、その女を殺してしまったことを後悔していることは、ガンにおかされてしまったその娘の最期を看取る決意をしたことで明らかなのだもの。
ま、ということは、男を殺したことは決して後悔していないという裏返しでもあるんだけどさ。

と、既に食い気味、落ちバレ気味な感じで始まってしまいましたけれども。冒頭は、墓掃除の場面。姉、ソーレと妹、ライムンダ。そしてライムンダの娘のパウラ。両親の墓参りをかねてせっせと墓を磨いている。
その中には目が見えなくなってちょっとボケ気味の伯母、パウラの墓も混じっている。生前に墓を買い、大事に掃除するのはこのラ・マンチャの村の風習なのだと聞いて、まだ14歳の娘は「キモチワルイ」と顔をしかめる。実際、この風の強い、年寄りばかりが住んでいる小さな村は、そんな古い風習がまだまだ頑迷に残っている土地なのだ。
三人は、その伯母を見舞いに行く。ライムンダ以外は記憶のかなたにすっ飛んでいるらしい伯母。しかも彼女は、死んでしまった筈のライムンダたちの母が、自分の世話をしてくれていると語るんである。
確かに目が見えないはずなのに、きちんと生活しているようだし、三人へのお土産もちゃんと用意されている。心配した姉妹たちは、向かいに住んでいる隣人のアグスティナに伯母の様子を見てくれるように依頼する。

のもつかの間、伯母の死が知らされるんである。しかも、アグスティナにもたらされたその死の知らせは、まるで一緒に住んでいる誰か、つまり姉妹の母、イレネの幽霊が知らせたんではないかと思われるんである。
古い因習の残っているこの村では、そんなこともアッサリと信じられてしまうから、今や都会に住んでいる姉妹などは一笑に付すわけなんだけど、実はそれが、本当だったのだ!しかも、幽霊ではなく……あわわ、またネタバレ!

の、一方、ライムンダの方ではタイヘンなことが起きているのね。なんと娘のパウラが父親パコをウッカリ殺してしまったのだ。殺す場面は出てこないんだけど、娘が仕事から帰ってくる母親を、ずぶぬれの雨の中立ち尽くして待っている様子は、非常にただならぬ、不穏な空気を感じさせるんである。
墓参りから帰ってきた母娘に、失業した、と報告するところから登場するパコは、股を広げてソファに座る娘のスカートの奥を凝視するトコから既におかしかったけど、彼の愚行がこの悲劇を招いてしまうのだ。

つまり、娘に襲いかかったんである。その前夜、彼は妻に夜の誘いをしていた。でも彼女は旅から帰ってきて疲れているから、と拒絶したんだよね。夫は失業したイライラが性欲に向いていたのかもしれない。それが拒絶されたことで娘にいったのかもしれない。
と、いうような母親の罪悪感が示されることが一切ないのが、女性礼賛のアルモドバルらしいところである。ま、それが示されちゃったりしたら、そんなねえ、ウソっぽいこと、とイカったに違いないからこれは大正解なんだけど。
でも一応、こういう前提を忍び込ませたところには、アルモドバル監督の男への哀れみがちょっとだけあったのかなあ、なんて。

娘に襲いかかろうとした時点でこの夫が明かしたんだけど、彼は娘の本当の父親ではなかった。だから大丈夫、などと愚かなリクツを吐いてコイツは娘に挑もうとしたわけだが、もちろん、だからと言ってそんなことが許される筈もない。
ただ、この事実で即座に予測されてしまうんである。だってライムンダは、パコは結婚してくれた、と言った。そういう表現をした。ということは、この娘を孕んだ時には、本当の父親が誰か、人には言えない事実があったに違いない。
しかも彼女は、娘に手を出そうとしたパコ、そしてそのパコを殺してしまった娘に、そんな男は死んで当然、パパは私が殺したのよ、そう思いなさい、とひとかけらも娘を責めることはなかった。動揺はしたけれど、躊躇なくこの殺しを娘から遠ざけ、自分ひとりで処理する決意を固めたのだ。
そしてライムンダが今は亡き母親を遠ざけていたということからも、なんとなく、なんとなく、ライムンダもまた父親に犯されそうになったんではないか、いや、そうになった、じゃなくて、実際犯されて、その結果がこの娘なんではないかと推測されて、それがピタリと当たるんである。

それは、物語の構成として、観客に容易に推測されてしまった、という失敗ではない。ある程度謎解きの部分はあるけれど、それがメインの楽しみの映画ではないから。
アルモドバル監督は観客に対する信頼があって、話の進み具合、彼女の演技、そういったもので徐々に徐々に、観客に予測させていくんである。そのあたりはさすがに、実に巧みである。それは、姉妹の母親、イレネの“幽霊”が絡んでいく展開に従って、徐々にそう思わせていくんである。

火事で死んだ筈の母親、父親の腕に抱かれて死んだ筈の母親。だけど、死んでいなかった。それはこの姉妹が、心のどこかでいぶかしく思っていたことに相違ないんである。詳しくは語られないけれども、ぽつぽつと話される内容では、離れて暮らしていた両親が、突然、山小屋で火事に遭遇して死ぬなんて不自然なんだもの。
どこか世間知らずの姉のソーレはそれをフツーに信じていたのかもしれないけど、父親に陵辱された妹のライムンダは、疑念を持っていたと思う。父親はライムンダを陵辱したあと、さすがにいたたまれなくなったのか遠い外国に働きに出て、娘を手込めにした事実を知った母親との関係も冷え切った。そして愛人との関係を知った母親は逆上し、その同衾の現場に火をつけたんである。

少々話が戻るけれども……、伯母の死が知らされた時、娘のパウラが夫のパコを殺害した直後だったのね。その痕跡を消し去るために、ライムンダは伯母の葬儀に出席することも出来なかった。人一倍怖がりの姉のソーレは、一人で葬儀に出席することをイヤがるんだけど……まるでその恐怖が呼び寄せたように、彼女はそこでありえないものを見、そして帰宅した彼女の車のトランクにはありえないものが入っていたのだ。
それは母親の幽霊、いや最初はホント、幽霊だと思ってた。「ママは死んでるんでしょ」とソーレは疲れきった母親がトランクからよっこいしょと出てくるのに半信半疑だったし、「いつまでここにいるの」と言う様子からも、つまり、幽霊が成仏できないでいるんだよね、と思っている(ま、スペインで成仏という概念があるかどうかは疑問だけど)様子なのはアリアリなのだもの。

でも、ベッドに倒れこんですやすやと寝て、美容師であるソーレの手によって髪をきちんとし、生気を取り戻してゆく母親が幽霊なんかではないことが、段々と実感されてくる。
この家に住み、在宅美容師をするソーレの手伝いをすることになった母親が“言葉の通じないロシア人”に身をやつしている場面は笑った。
そして母親は、ライムンダが若くして家を飛び出した前後から自分を避けていること、当時は判らなかったその理由も今は判っていて、ライムンダに会いたいけれども罪の意識があって躊躇しているんである。
それは、父親に陵辱された娘が、母親に打ち明けることも出来ず、なぜ気付いてくれないんだと悩んで苦しんで母親に反発して、いたたまれなくなって家を出た、ということ。それが判らなかったから、当時は娘に対するグチを方々にまきちらしていたことも。
ソーレなどはそんなことはツユとも知らないから、実際妹のことをハデで自分勝手で気まぐれ、ぐらいに思っているふしもあるし。その一方で妹の方が強気でドンドン行くから、頼りにしているんだけどね。

ところで、伯母の葬儀に出られなかったライムンダである。以前働いていたレストランのオーナーから頼まれ、留守を預かるために鍵を受け取っていた彼女は、その冷凍庫の中に夫の遺体を隠す。その直後、映画の撮影のために訪れたクルーにこのあたりで食事できる店を探していると問われた彼女は、引き受けてしまうんである。
倉庫に遺体を隠したまま、撮影中のランチ、そして打ち上げのパーティーまで采配し、そのパーティーで、若い頃オーディションを受けた時の美声を披露する。
オーディションを勧めたのは母親だった。そしてその歌を教えてくれたのも。
ソーレの手引きでこっそり聞きに来て、車の中でそっと涙を流す母親。
娘が母親にうちとけなくなったこと。そして突然家を出たこと。自分は嫌われているんだと思っていた。姉も、妹は勝手だと言い募っていた。地味な姉が派手な妹に対しての反応としては、ありがちだと思われたけど、そうじゃなかったのだ。
母親は、その事実を知ったからこそ、夫が許せなくて、火を放った。
そのことで、傷つく第三者がいるとは、その時には思わずに。

ライムンダがレストランをやりだして、にわかにイキイキしだすのが実に印象的。
最初にレストランを訪れるスタッフの青年は、ちょっとカワイイ。彼女も絶対、この美青年のカワイさに惹かれて引き受けたに違いないんである。
突然、ランチ30人分を用意することになった時、急いで買い出しに出かけるライムンダはでも一回じゃとても足りなくて、往来で隣人の女たちに行き会っては、彼女たちが買い物してきた食材を次々に買い取るんである。その中には義母のためにと苦労して買い取ったものなどもあるのに、ライムンダのアッケラカンとした、しかし有無を言わさない取り引きに、彼女たちは首を縦にふり、家へ届けるわ、とまで言うんである。
特に、大好きなビスケットをまとめ買いしてきた隣人に、そんなのコレステロールがタップリでダメよ。2、3枚だけね、と断定しちゃうのが凄い。でもそれが、ライムンダ=ペネロペだとなんかイヤミにならないのも凄い。

やっぱりね、ここには、男にはない女の強力なネットワークを感じるんだよね。この厳しい世の中で、いざという時は助けあう女たち。
だって、夫は失業した“だけ”でこの世は無常だ、ぐらいな勢いでヤケ酒飲んだりしてたじゃない。そう、“だけ”なんだよね、所詮。
女はそんなことぐらいでくじけたりしない。男は家族を養うためになんていう言い訳の元に、正職=聖職みたいなプライドで、だからクビになっただけで落ち込むんだけど、女は隙間隙間でパートに精を出して、とにかく、今生きていくことを重要視する。
でもいわば、それは当然のことで、男は家族のことを言い訳にして、自分のプライドを大事にしているだけなんだもの。それってさ、逆に家族を侮辱していることにもなるじゃない?
なあんてついつい、フェミニスト大全開な主張をしてしまうのは悪いクセなんだけど。

夫の遺体を川のほとりに埋めることを決意した時も、同朋である女が何よりの理解者&協力者になる。
レストランを続けてやっていこうと盛り上がった隣人たちのうちの一人。自らの身体を売ってしか生きていくことが出来ない女。レストランの夜の時間も稼動してカクテルを出そうと提案した彼女はつまり、今のままでは自分の将来に不安を覚えているからこそのギブ&テイクだったわけだけど、そうした打算や駆け引きも、女同士、充分判ってる。判ってるからこそ、このネットワークが強固なのだ。
ライムンダに時間給は払うから今日の客は断わってほしい、と言われた時「女のシュミがあるとはね」と軽く誤解をカマすのはまあ少々のコミカルがあるけれども、その仕事というのが川のほとりに“冷凍庫”を埋めに行くことであり、そして「私は誰も殺していない」というライムンダの台詞に全てを察し、自分だって言えないことを抱えて生きている人生だから、決して口外はしない、と固く約束する。女は口が軽いと言われるけれども、これ以上の強固な信頼関係はないよね。それは苦しい人生を歩んできた女同士でしか判りあえないものなんだもの。

そして、ライムンダは母親と再会する。ソーレの家を訪ねた時から、母親の気配を察知していた。ライムンダの娘、パウラは一足先に祖母とスッカリ仲良くなって、母と祖母の間に何か事情があって、祖母は母を愛しているのに会えないでいることを娘らしい敏感さで感じ取っていた。
ライムンダが、「ママのおならの匂いだわ!」といつもすました顔ですかしっぺをしていた母を思い出して笑い出す。隣の部屋で息をひそめている母親も笑いをこらえるのに必死である。そんなやりとりを何度か繰り返した後に……ついに、ベッドの下に潜んでいる母親と再会を果たすんである。
母親の姿を認めたとたん、一気にこみ上げた思いが涙となって吹き出して、ライムンダは何も言うことが出来ずにパウラの手を引いて飛び出してしまう。

母親はね、「あの子は私を拒絶しなかった」と言って泣くのだ。ひと言もコトバを交わさずに行ってしまったけれど、でも、拒絶しなかった、と。その目に愛があふれていたことを見て取ったから、だから、安心して……泣くのだ。
ただただ泣きじゃくりながら往来を行くライムンダに、パウラは諭す。ママ、すぐに戻らなきゃダメよ、と。
ライムンダは決して完璧な母親じゃない。娘からもすぐカッとなると指摘されるぐらい、気分にムラがある。でも、そんな姿を見せてきたからこそ、この親子は今までやってこれたのだ。
パウラにとりなされて、ライムンダはすぐにきびすをかえす。
そして母娘の絆は、取り戻された。

ライムンダ、娘のパウラ、姉のソーレ、そして母親のイレネはドライブに出かける。あの川のほとりに。
ライムンダはそっと、あの葬られたところに娘を誘う。何を言いもしない。ただ、パウラは側の木に父親の生年と没年が刻まれているのを発見し、全てを察した。
「パパがここに葬られていて、良かった」

世間からは死んだと思われてしまった母親のかわりに、父親と共に本当に死んでしまった愛人の女、というのが、実はアグスティナの母親だったのね。
そのことをアグスティナは知っていたから、ライムンダたち姉妹にずっと気兼ねがあった。火事の後失踪したと思っていた母親が、実はあの時ライムンダたちの父親と共に死んでしまったんじゃないかと、恐らく彼女は早い段階から思っていたに違いない。ひょっとしたら、その時から気づいていたのかもしれない。
村でただ一人のヒッピーだった母親。そのカッコイイ写真を誇らしげに飾っている一方、失踪して四年が経ち、生きているのか死んでいるのか、それだけでも知りたい、とアグスティナは思うようになる。
それは、彼女自身が末期ガンに犯されてしまったから。

アグスティナは入院するために、ライムンダたちのいる都会に出てくる。急いで駆けつけるライムンダだけど、その一方ですがるアグスティナを「私も忙しいんだから!」と袖にするあたりは、いかにも彼女らしいんだけど、一方で現実の厳しさも感じたりする。
アグスティナは、自分の母親の生死が知りたい、という。それをあなたの母親に聞いてくれないかと。
言わんとするところが読めなくて、ライムンダは目を白黒させる。
アグスティナは、ライムンダたちの母親の“幽霊”を信じてた。自分に伯母パウラの死を知らせてくれたのは絶対に彼女だと思っていた。
ま、実際、そうなんだけど、でもそれは“幽霊”ではない。アグスティナがそれを“幽霊”だと思っていたか、あるいは自分の母親が替わりに死んでしまっているのだから、生きているイレネなのだと確信しているのかどうかは、最期まで明らかではない。
そう、“最期”まで。

アグスティナはタレントになっている妹の請うままにテレビに出てみたりもするんだけど、余命いくばくもないガンのことや、見つかれば大都市の病院に入れるとか、心ないことを司会者に暴露されて、たまらずに途中で飛び出してしまう。
ここでは、姉妹の亀裂が明らかになるのが切ないのだけれど……でも、イレネが、アグスティナの最期を看取ることを決意する。伯母のパウラを看取ったように。そして、アグスティナの最期を看取ることは、自分の罪を償うこと。
イレネの姿を認めたアグスティナは、「会いたかった」とたまらない顔をして抱擁を求める。この台詞はあまりにも様々な意味合いを含んでいて……ここまでの、女たちの全ての思いさえも含んでいる気がして。

ラストシーンは、アグスティナの家のドアを叩くライムンダ、ドアを開けた母親に、涙の浮かんだ笑顔で彼女が言う台詞。「私にはママが必要なの」
最初からそうだったんだけど、展開していくうちに男の影がきれいにとりはらわれていって、もうここに至っては、女にとっても女しか必要ではないという結論に至っている気がする、のは、果たしてどうなのだろうかとも思う。
しかし、徹底している。女礼賛。これぞアルモドバル。

真上からのショットが多用され、洗い物をしているペネロペの美乳が大写しになる場面やら、トイレでパンツをひきおろして生おしっこ?をする場面などが先にマスコミに露出していたので、なんかそんな興味ばかりでこの作品が語られていたのに、当然ながらそんなことは全く関係ない。
ま、確かにペネロペのおっぱいに関しては、「あんたの谷間が客を呼び寄せるのよ」なんていう台詞はあったけど。
決して、女たちの罪が暴かれないのがイイ。女礼賛。そう、これぞアルモドバルなんである。★★★☆☆


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