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「ほ」


2014年鑑賞作品

鬼灯さん家のアネキ
2014年 118分 日本 カラー
監督:今泉力哉 脚本:片岡翔 今泉力哉
撮影:岩永洋 音楽:曽我淳一
出演:谷桃子 前野朋哉 佐藤かよ 川村ゆきえ 古崎瞳 岡山天音 葉山レイコ 水澤紳吾 モト冬樹


2014/9/14/日 劇場(新宿武蔵野館/レイト)
今、最も新作を待ってる監督の一人、そして最も将来が楽しみな監督!今泉監督、ひょっとして原作モノは初めて??いや私は映画作品でしか彼に接していないから判らないけど、それって商業映画への抜擢ってことかしらんと思って、なんだか嬉しくなる。
前作「サッドティー」がヤハリ、映画祭出品からこっち、その内容の高さで人気と評価を高めてきているから当然かもしれない!惹句もパロってるし!
まー最近、やたらエロ方向に手を出している角川がらみだけど、今までと違ってオフィシャルサイトもちゃんとしてるし(爆)。

しかしなんつってもオリジナル脚本が魅力の今泉監督だから、原作アリ、しかも四コママンガ??と聞いて、これはどういうアプローチの仕方なんだろう……と気になったりする。
実際、本編を見ても、とても四コマで展開できるような内容とは思えず、ヤハリこれは映画はベツモンと割り切った作品作りなのかなあ、とちらと原作の概略を覗いてみたらおーっとビックリ!割り切るもかなりの割り切りぶり!!

そもそも主人公である弟クン、吾朗ちゃんは“背が高くジャニーズ系の黒髪”って、それを前野朋哉にふるとは!ここ、これは相当、原作ファンからクレーム出るんでないの……180度どころじゃないやん!
い、いや、私が本作に足を運んだ理由は、勿論第一は今泉監督の新作だったけど、前野朋哉ラブだからさ!!

しかもそのラブが始まったのは、今泉力哉という才能に出会った「終わってる」であり、ここで二つの才能に私は恋に落ちたんだからさ!!
実際あの時から、前野朋哉はやたら出まくりの感あり、……それは私が気にしているからかもしれないけど、でも売れっ子になったよね!
この監督と主演コンビは、時々戻ってきて作ってほしいと、今回の再コンビに改めてそう思ってしまった。

と、なんか脱線しまくりだが。そう、原作のキャラとは全然、ぜんっぜん真逆どころかねじれてどっか飛んでっちゃいそうなほど、違うんだもの!
大体、前野朋哉が高校生役をやるたびに、いつまでやるんだよ……と思い続けてきたが、さすがに今回またしてもで、そろそろこれを最後にしてあげてほしい(爆)と思ったりしてしまった。

ま、本作はコメディ要素がたっぷりで、同級生の水野役の佐藤かよちゃんとかもとても高校生の年齢じゃないし、どこかコスプレ感もあるからまあいいっちゃいいかなとも思うけれども。
でもこの二人の出会いのインパクトが、哀しきドーテー君=それを体現する(いやあくまで見た目のイメージでね!!)前野朋哉であることを思うと、監督が前野朋哉という役者のそんなパーソナルなチャーミングさを愛してキャスティングしたように思えてならないんである。

これが原作通り、“背が高くジャニーズ系の黒髪”であったら、話自体、テイスト自体、男の子の視点から描く物語として全然違ってくる。
本作は絵柄は男系女系、どっちともとれるような感じだけど、一応少年漫画扱いなの??ちょっと意外だなあ……。
いや、エッチな姉、しかも義姉にホンローされるというあたりは、男子的に萌えるということなんだろう。

けれども、実際の男子事情から言えば、本当に“背が高く……云々”であれば、まあ実際は性格の問題だからリアリティの問題からいったら何とも言えないけど、でもやはり現実の男子事情から見れば、やっぱりこれは、納得いかない部分があるのではないかと、勝手に思っちゃう。
原作の基本部分を無視したとも思えるこの思い切った改変は、作り手側のそうした主張を感じる、のはうがちすぎかしらん??もちろん、監督&主演の名コンビというのもあるんだけれども……。

でもね、実際女子側から見ても、吾朗ちゃんのような男の子は確かに、すっごく、可愛くて、母性本能をがしがしくすぐられまくるんだよ。
いやでもそれは、若い時からそうだったかと問われれば自信がないけれども……いや!私は中学生の時、リック・モラニスにホレこんで、アメリカ渡って結婚しようと思ってたもん!(結構本気で)。
実際、劇中でハルの同僚の美咲は、このドーテー君にちょっかい出したくてガマンならずに、文字通り襲う、まさに食っちゃいそうになるシーンが用意されているが、判るもん判るもん(爆)。こーゆー、エロな女の子だったら実行に移せてうらやましいと思うもん(爆爆)。

確かに美しい男の子はとても素敵で、その男の子が暗くてドーテーで、こんな風にエッチな義姉にホンローされるのは、想像上ではエロくて萌えるかもしれない。
でもそれは、美しい男の子だからこそ、その先に二人がカラむことを頭のどこかで想像するからこその萌えなんである。つまり、二次元だからこその萌え、なんだよね。
まあ映画だって二次元なんだけど、でもやはり役者が演じるとなると、これがホントにジャニーズの男の子が演じたらと思うと、やはり違ったかなと思う。贔屓目かな。だって今泉監督、前野朋哉、大好きなんだもん!!

それで言えば、キーパーソンとなる同級生の水野(女の子が苗字で呼ばれるのは嬉しい♪)がハルに思いを寄せるという展開もまた、恐らく映画オリジナルであると思う。
映画冒頭で、図書室で書架に隠れてイチャイチャし、ソフトキスを交わす女子同士カップルを吾朗ちゃんがもんもんとのぞき見している場面があって、これってメッチャ親切な伏線だなあと思っちゃうフシもあるのだが……。

後のひとつのクライマックス、水野が鬼灯家に盗撮カメラを仕掛けていたのは「どうしても気になっちゃって……」てなぐらい好きな相手は、この時点では思いっきり誤解されちゃったけれども、お姉ちゃんのハルの方であり。
それは冒頭のこのシーンがあったから、容易に推測されちゃったんだよね。ちょっと惜しかったと思う。観客にももっとビックリさせるぐらいの意外性が欲しかったと思う。

吾朗ちゃんとは幼馴染という間柄、図書室での勉強で隣り合わせ、教えてもらったり、参考書を選んでもらったりするぐらいの親密さ。
水野はクールで内面が判りづらいだけに、冒頭の伏線さえなければ、観客も「実はハルの方が好きだった」と明かされる場面で驚いたと思う。
同性愛、いやそれ以前に人を好きになる気持ちがよく判らないと悩む女の子に佐藤かよ嬢を持ってくるという、セクシュアリティ以上の繊細さを充分に感じさせるこのキャスティングも面白いと思うからこそ余計にさ……。

えーと、もう後半に至ってるのに、流されるまま書いちゃったからなあ。いつも以上におどおどと概略をば(爆)。
そもそもこの血のつながらない姉弟が、二人きりで暮らしているのはナゼか。大体こーゆーシチュエイションの場合「妹ちょ」のような不自然さにイラッとくるものだが、再婚してきょうだいになった二人、吾朗ちゃんの母親の方が死んでショックを受けた吾朗ちゃんは引きこもり、登山家の父は、「自分に出来るのは山に登ることだけだ」と、娘に後を託して山へと向かう。

なるほど、きょうだい二人きりになるのに、なかなか考えられたシチュエイション。お義姉ちゃんのエロいたずらが弟の心を開くためから始まったということも、後の回想シーンを見れば割と納得できる。
そしてそんなうちに吾朗ちゃんは本気でこの義理のお姉ちゃん、ハルを好きになっちゃって、だからアネキ、なんて呼べない。ハル、と呼び捨て。
それというのも本当のお姉ちゃん、シングルマザーの楓がいるからってのも、あるんだけど。

この登山家の父が、モト冬樹氏である。「こっぴどい猫」からのつながりで、今泉監督の才能にホレこんでくれたかな、と勝手に嬉しくなる。
本当にゲスト的な出演なんだけど、いわばこのキャラの虚構こそが、本作のオリジナリティであると思うからこそである。

母が死んで、きょうだい二人きり、というのはまあちょっと古臭さを感じる浪花節ではあるんだけど、モト氏のおかしみ哀しみが、いい意味でのフィクション味との化学変化でね。
家族のためにエベレストに登頂、亡き妻と息子と娘の名前を絶叫する生中継に、一瞬だけだけどちょっとグッとくるんである。まあすぐに吾朗ちゃんに消されちゃうんだけどさ。

いや、なんかいろいろトバしてて判んなくなってきちゃった(爆)。えーと、原作ではお義姉ちゃんは大学を目指してるってんだから本作とはやはりちょっと設定が違う感じ。
本作のハルは、ボウリング場に勤めている社会人。劇中、グラビアモデルにスカウトされ、弟の進学費用のためにそれに応じている姿が描かれ、吾朗ちゃんは彼氏が出来たのかとか、カメラの前で水着になるなんてとか、芸能界なんて恐ろしいところ、とか、気をもんで仕方ないんである。

そんな吾朗ちゃんは日々、お義姉ちゃんのエロいたずらにホンローされる日々。朝立ちのチ○コを二段ベッドの上からマジックハンドで掴まれ、ハダカエプロンで待ちかまえられ、背中を流してと言われて熱いシャワー攻撃に遭ったり、キスされるかと思ったら頭突きされたり、ジョークか本気か判らないはざまでボロボロ。
実際、前半部分はこんな具合にかなりの本気モードのエロさで、後半、それが母の死のショックで引きこもった弟を外に連れ出すための有効な方法だったからということが明らかになっても、いやいや、それでもトメどころがあったでしょう!と思うが、そこはそれ、吾朗ちゃんがハルを好きになっていったのと同時進行で、ハルもまた……という含みがあるのであろう。

実際のところは、そこまでは明らかにされないのさ。イイ感じに姉弟のしがらみと、そして家庭のあたたかさの双方求めている雰囲気をしっかり保持してるのさ。
この小さなアパート暮らし。正直、テレビの生中継されるほどの登山家ならもちょっといい暮らしをしてそうな気もするが(爆)、やはりこのぐらいの感覚が、家庭環境への渇望と、それが実際は意外と満たされているのに、という暖かなギャップで、イイんである。

あ、そうそう、本作は盗撮が大きな要素、面白さになってて、盗撮してされて、という状態にハルの同僚の美咲が「何これ、ウケる」と言うぐらいでさ。
でもその一つはオメーが持ち込んだんだろ、ていう可笑しさもあるんだけど。大きなクマのぬいぐるみ。それは美咲が同僚の男の子からプレゼントされた隠しカメラ付きのシロモノ。
これでボクの私生活を覗き見てくれたら興奮するから、というヘンタイっぷりにヘキエキして、美咲はこれをハルに横流しした訳だが、このぬいぐるみがやけに可愛くて、もんもんとした吾朗ちゃんが抱きしめたりする場面に妙にキュンキュンしちゃうの!

でもなんたって、“盗撮しまくり”である。吾朗ちゃんが、ハルの彼氏の存在を疑って(めっちゃコンドーム持ってたから……判り易い記号だ)、仕込んだのが最初、しかしその映像を見てみたら、自ら教えた合いかぎのありかで這入ってきた水野が、カメラを回収する場面が収められていて、そこから事態はごっちゃごっちゃに急展開。
水野が吾朗を好きなのか、いや、吾朗はどうなのか、ハルを好きなのか、でもきょうだいだし、好きになってくれる人がいたら、好きになれるかもしれない、と水野の気持に揺らぐも実際は違う訳だし。
ハルも自分自身の気持ちが判んなくて、でも水野に嫉妬して、姉として弟と付き合ってほしい、とか頭を下げたりして、そのウソが色々バレちゃったりして、もうごっちゃごっちゃになるんである。

こういう展開になってくる後半と、ひたすらエロ記号を振りまく前半とはかなりの解離性があって、一応はその理由とかつないではいるんだけど、ちょっとつなぎきれない感じはあるかなあ、というウラミはなくもない、んである。
その辺が、いくらベツモンでオリジナルをプラスプラスしてはいても、足しきれない部分なのかなあなどとは思う。

季節外れの七夕の短冊、隠れて願い事を下げるシークエンスなんて可愛いアイディアだと思ったし、一線を超える直前で思いとどまった気まずさを、お父さん=家族としてつながるテントを家の中に張って姉と弟、一夜を過ごす、というポエティックなシーンも好きだった。
でもやっぱり、なんか、うーん……。なんだろう。男の子の気持はあふれんばかりに判るんだけど、女の子の、お姉ちゃんの気持が……いや、弟を思う気持ちとかは実に丁寧に描いてはいると思うんだけど、でもやっぱりそれをエロ、いたずらに転化する感じ、それは恋心なのか否か、ってあたりの昇華まではちょっと尺が……。
いややはりやはり、これはドーテー君、吾朗ちゃん、演じる前野朋哉フューチャリングであり、ってことなのだろうと思う、うん、やっぱり。

やはりここまで来ると、今泉監督のこの次が相当に気になるんである!納得のいく作品で、どーんとジャンプアップしてほしい!!★★★☆☆


ぼくたちの家族
2013年 117分 日本
監督:石井裕也 脚本:石井裕也
撮影:藤澤順一 音楽:渡邊崇
出演:妻夫木聡 原田美枝子 池松壮亮 長塚京三 黒川芽以 ユースケ・サンタマリア 鶴見辰吾 板谷由夏 市川実日子

2014/6/4/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
「舟を編む」で名実ともにトップ監督に躍り出て、だからこそのこうした作品も任される、ということなのかしらん。
いや、何か意外な気がしたからさ……。石井監督ということで迷いなく足を運んだけれど、それまでには大なり小なりあった、軽みというか、ユーモラスさがビックリするほど排除されていたから。
言ってしまえば、誰かが作りそうなシリアス家族ドラマ、という感じがしなくもなかったが、まあそれも仕方ないのかもしれない。こうした重厚なドラマもきっと本人も挑戦したいのかもしれないし。ちょっと残念な気もするけれど……。

まあ、石井監督ということを考えずに観れば、確かに一つの社会派ドラマとして一定の完成度には達しているし、こういうのが賞獲りには向いてるのかもしれないな……なあんて、なんか私、イヤな見方してるな……。
いやだって、やっぱりヒットなりしちゃうと、方向性やかじ取りを失うクリエイターさんって結構いるから、なんだか勝手に残念な気がしちゃったんだもん。
別に彼でなくても……なあんて思ったりして(爆)。

ダメダメ、いつだって映画は一つの作品として対峙するだけだと思っているじゃないの。こーゆーこと言い出すとホントイヤな映画ファンだぞ(自嘲)。ううむ。
まあ、そう思いたくなるのは、やっぱり私的事情、神カル2 で私的事情に没頭しちゃって、感想と言うより体験談を重ねてしまったワタクシは、本作にもしっかりすっかりどっぷり、私的感情を重ねながら観てしまって。
うーむうーむ、石井作品の独自カラーでさらっていってくれなかった!とか勝手な言い草で(爆)。

病気モノ、そしてそれが家族を巻き込む物語となると、なんていうか、ある程度カラーは固まってしまう気がする。そう、こんなシリアスドラマになりがちだよね、と思う。
果たして私たち家族は、そうだったかしらん、と振り返る。こんなに余命宣告が性急じゃなかったし、それどころか何年もかかって浮き沈みありまくりの闘病生活だったから、全然比較も何もないんだけど、いざ自分の家族で体験してしまうと、比較してついつい観てしまう訳。
とゆー訳で、神カル2と同じように感想というより体験談になっちゃいそう、ゴメンなさい……。

この家族は、私ら家族とぴたりと反対なんだよね。本作の家族は母親が病気に倒れて夫、息子二人の、つまり男三人がこの事態に右往左往する。まさに右往左往。男たちならこうなるだろうな、って感じ。
自分の父親が病を得てから、そういう経験をした人、あるいは周りで見聞きした人とよく話をする機会があるんだけど……失礼を承知で言えば、こーゆー時って、男は頼りになんないよねーっ!ってこと(ホント失礼でゴメンなさい)。

男子って、本当に繊細だと思う。その事態にダイレクトに反応して凄く落ち込むし、取り繕うことも出来ないし、とにかくシリアスにシリアスに受け止めちゃうの。
ウチの場合は病気を得たのが父親だったから、その父親がそりゃー、メッチャシリアスに受け止めちゃって、女三人がアッケラカンと(父に比べればね)していた感じだった。
日常の出来ることから始めなければ仕方がないし、実はそれこそが、女子が得意で、男子が不得意なことなんじゃないかと、本作を観て改めて思うんである。

そして神カル2でも思ったこと……東京の病院至上主義にヒヤリとしたりもする。
確かに、このお母さんの病気に関しては、郊外の小さめの病院では、もしかしての可能性を見落としてしまうこともあるのだろう。
セカンドオピニオンというのも現代の患者の、そして家族の権利として大事なことだし、彼らは万に一つの可能性を信じて東京じゅうの”名医”を探し回る。家族が出来る最大限のこと、お兄ちゃんいわく"悪あがき"をする。
でも、なんだか私は、それが、都会の優秀な病院、優秀な医者でなければ、とか、それ以前に、医者や病院の冷たさを描写している気がして、なんだかヒヤリとしてしまったんだ……。
それは私ら家族が地方に住んでいて、そして、まあ色々あったにせよ、いい病院、いいお医者さんと思える環境で闘えたからかもしれない。

このお母さんが脳腫瘍という病気故に、色々症状が出て、本音を漏らす。本当はこんな郊外に家なんて持ちたくなかったと。東京に出るのも不便だし、みたいな。
冒頭は彼女が友人たちと吉祥寺(確か)でランチしている場面。ハワイの土産話に彼女だけが行ったことがないから曖昧な相槌しか打てない。
ていうかこの時点でもう病気の症状が出ていて、ぼんやりと、自分の大切にしているサボテンの名前をようやく思い出した、と口にして友人たちを呆れさせたりするんである。

郊外に家を持った彼女は、でも一応、社長夫人である。しかしその小さな会社は火の車で、しかも彼女自身もサラ金地獄だったことが後々明らかになってくる。
息子は二人。長男は結婚して奥さんのお腹に新しい命が宿っている。その報告を受けた時既に、お母さん、息子の名前が瞬間出なくなってしまっていた。後に症状が進んで、完全に忘れ去ってしまって「あなた、誰?」という事態にまでなってしまった。
でも次男のことは絶対に忘れないの。途中、違う人に変換して話し続けることはあっても、排除することはない。

次男が登場する最初のシーンは、「3万でいいから」とカネをせびるシーン。
この次男はそんな感じで、マジメな兄貴に叱られる立場なんだけれど、切羽詰まっている他三人の気持ちを敏感に察し、ちゃらんぽらんを演じ続けながら、でも内心、彼もまた父や兄と同じように不安いっぱいなのだということが、後に明らかになる。
やあっぱり男子は繊細なのよね、どう仮面をかぶったってさ。

でも、長男のことはいち早く忘れちゃって、次男に対してはまるで恋人の様に甘い雰囲気を出す母親、ってーのは、それでなくても息子に対する母親ってのはそうだっていうのは聞くけど、長男にとってはキビしいよなあ。
いや、それ以上に夫にとってかな??いやいや、でも、夫に対する気持ちも、結構セキララ暴露するけど、「でもあの人が好きなの!」と聞いてるこっちがほっぺたが赤くなっちゃうようなコクハクするし、本当に長男が一人、置いてきぼりなんだよね……。

この長男を演じるのが、基本人懐っこすぎる柴犬系のつまぶっきーというのが、その無邪気すぎる笑顔が封印されるのが、ミスキャストとまでは言わないまでもあまりにもったいなく……。
確かに「悪人」で、こんな役もやれる実力派ですヨというアピールは充分に認識されたけれども、彼はその人懐っこ柴犬系こそが魅力なんであって、なんかなんか、ホントにもったいない気がするんだよなあ!!
役者の野心というものなのかしらん……でも彼にしかないものもあるのになあ……。

それでいったら次男を演じる池松君は、急速に大人になっちまったこともあるし、最初から実力派、演技派という、ある意味でのレッテルを貼られていることもあって、特にここ最近は、こーゆー暗めのヒネ加減の役柄を振られることが多い気がする。逆にアッケラカンと明るい池松君が見たい、と思ったりもしちゃう。
あ、そう言えばこの事態に落ち込んだ姿を他の家族には見せず、バイト先のバーで沈んでいるところに常連の市川実日子がやってきて、「今夜つきあってくれませんか」「悪いけど、童貞君はNGなの」「そうすか……」てなやり取りは、なんとかうっすら、石井作品的ユーモラスを感じさせてくれてホッとしたかもしれない。
バーのマスターが「俺も三年前に父親が死んだ時には……」と語り出しかけた時にすっぱりとシャットアウトするのには、双方の気持ちが判るだけに、これまたなかなかにヒヤリとするものがある。

本作の解説でさ、これまでのどんな家族映画とも違う、とまあ、かなり、自信マンマンに書かれてて、そこまで言うかなあとも思ったし、まあ百歩譲って映画としてはそうであったとしても、家族は本当に、千差万別あるんだしな、と思った。
この家族の中で紅一点と言うべき母親の原田美枝子、友人のハワイ話にうらやましがったり、何社ものサラ金に手を出していたり。
病気のせいとはいえ、自分の病状を知って取り乱しまくって絹を裂くような悲鳴を上げたり、どんどん子供のようになっていくのも、その出だしの、いや基本のキャラ設定からしてなんか、女ってこんなに弱いかね、と思わなくもないというか(爆)。

いや、そーゆー風に思っちゃうのが、それこそ女の悪い癖(爆爆)。人間なんだから、男だって女だっていろんな性格ある訳で、長男の引きこもり時代に腹を据えてそばにいた彼女は、確かにそんな女の強さを一方で持っていた筈で。
だからこそなのかなあ、この乙女のような弱さが今になって露呈するのは……。女は女を肯定したがるからさ(爆)、正直こういう、男の家族の中で、病気のせいとはいえどんどん子供返りしてっちゃう女の姿を許容しがたいものがあるのよ(爆)。女はこんなに弱くない!とか、勝手に思っちゃう訳(爆爆)。

でも正直、実際、男目線があるような気がするんだよね、この母親の造形にさ。病気になって、弱くなって、少女のようになっていっちゃう母親に、それまで頼り切っていた男三人が、自分の弱さを鏡のように反射して見て、一致団結、頑張ろう!みたいな。
まあそれはそれでとてもいいことなんだけど、友人の中での彼女もそうだし、一人の女としての彼女が、なんか同じ女としてしっくりと見えにくい気がしたのだ……でもまあそれは、私が空しきチョンガーだからよね、きっと(爆)。

長男の嫁に関しても、それはちょっと感じたから余計にかなあ。子供のために家計をやりくりしていた彼女が、夫の家族に対する浪費に、いかにこんな非常事態とはいえ金を出せないかとか言われるのがガマンならないのは判るが、その嫁の描写が、「今日も体調悪いから先に寝るね」の一辺倒では、妊娠した女という盾で冷たく言い放っているようにしか聞こえないじゃないの。
しかも今や男女同権は当然(こんなことをわざわざ言うのもイヤじゃ!)、まあ彼女も妊娠する前までは仕事をしていたのかもしれないけど、少なくとも見ている限りではそこまではうかがえない。

んでもって、父親の借金の保証人となっていた彼が、外資系に転職して、キツイかもしれないけど、絶対に返すから、と嫁を説得した、という展開になり、そしてその同じ台詞を、お気楽大学生だった筈の弟も口にしており、更に義父にまで頭を下げられて、このヨメはすっかり折れちゃう。
「あの人なら、絶対に何とかしてくれます」と夫を立ててるんだか、夫に丸投げしてるんだか判んない、まあ一見してはカンドー的な言葉で締めくくる。

……ああ、このヨメの存在があったから余計に、かなあ。母親を少女的に可愛く見せるだけならまだそれは、父親なり息子なりの立場もあるからネ、まあ男はねえ、となんとか納得させられなくもなかったけど、現代のヨメまでもが、「あの人なら何とかしてくれます」的立場とは……。
でもそれは、ヨメの妊娠を祝う両家族の顔合わせなんつーシークエンスを、しかもめっちゃ老舗的料理屋で執り行って、しかもしかも、ヨメ側の両親は婿の母親の異常に困惑するっていうだけの描写で、なんか、なんかなあ。
やっぱりなんだか少しずつ、女側が見えない気がしちゃうのよ。人間としての女が見えてこない。こんなに甘ったれだろうか、女は……って。

そんなこと言っちゃったら、この物語の成り立ち自体を否定しちゃうよな……あー、なんか、モヤモヤしてる私!素直に感動できない!!なんか男が弱いし、柔軟じゃない!
自分の家族と照らし合わせたりしちゃったのが良くなかったのかもしれない。でもこれって、確かに家族の真摯な物語だけど、男女の人間差、人生の差を図らずも露呈した作品という気がする。それが良かったかどうなのかは、判らないけど……。★★★☆☆


ほとりの朔子
2013年 125分 日本=アメリカ カラー
監督:深田晃司 脚本:深田晃司
撮影:根岸憲一 音楽:徐敬太
出演:二階堂ふみ 鶴田真由 太賀 古舘寛治 杉野希妃 大竹直 小篠恵奈

2014/1/26/日 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
えっ……またフクシマなの、と身構えてしまった。この美しき才女、自分の出たい作品を作るためにプロデューサーとなる杉野希妃女史。監督も違うんだから関係ないといえばそうなんだろうけれど、「おだやかな日常」から続く彼女のプロデュース作品と思えばやはり、そこに明確な意志を感じずにはいられなかった。
改めて彼女のプロフィルを見ると広島出身、そうだったのか……ならば彼女にとってはきっと見過ごせないことなのだろうと。

本作にとってのフクシマは確かに重要な要素ではあるけれど、でもやっぱりワキ要素だし、そんなフクシマフクシマ言う必要はない、というか、言ってはいけないのだろう。
監督さんが最初に思い描いていたような、「海辺を男の子と女の子が歩いている。ただそれだけで、スクリーンが息づき満たされるような、そんな映画を作りたい」という、それが基本にある美しい映画なのだろうと思う。
でも……。それはやはり、「おだやかな日常」が、力作ではあったけど自身の中で抑えようのない激しい反発が起こったことがトラウマのように残っているので、何とも見過ごせず、この映画の抒情的な美しさを素直に受け取れないというか、なんか澱のようなものが苦く残る気持ちで劇場を後にしてしまった。

でもやはり、それはワキに置いておかなければいけない。それにとらわれてしまったら、この少女の一夏のリリカルをつまらないもので汚してしまうように思う。
彼女が劇中、その福島の少年に言う、今までの自分は空っぽだった、そのことに気づいた、という台詞が、それに気づいただけでもう彼女の中は瑞々しいもので満たされ始めていることをスクリーンに映し出しているようで、まぶしかった。
二階堂ふみという女優が、まさにその階段を上がっている今を、私たちは目撃している。

思えば彼女がこんな風に、等身大の、“普通の少女”を演じているのを見るのは初めてのような気がする。今までは、極端な振り幅の役柄が多かったし、確かにそういう役柄だと演技力が過度に絶賛されがちだし。
「……あっついよ」とつぶやき、夏蒲団のなかで寝返りを打つ。真っ赤なワンピースを膝上で揺らし、さびれたママチャリに空気を入れて海沿いのカーブをさっそうと駆け抜けていく。
ああ、なんとも少女、夏の少女ではないか!!

なぜ彼女、朔子がここに来ているかというと、浪人中、おばの海希江(みきえ。鶴田真由)が翻訳の仕事にかかるために、もう一人のおばの水帆(みずほ。渡辺真起子)が旅行で留守をする海沿いの家に滞在するのに、ついてきたんである。
勉強しなくていいの、と聞く水帆に「お母さん口うるさいし。ここの方が集中できるから」と朔子は言う。<>p 海希江と水帆という名から判るとおり、彼女たちはここが地元であり、真ん中に挟まれた朔子の母は、海希江と同じ音のミキエ。
樹という字を使うという説明はあったけど、エの字はどう書くのかは言ってたっけ?姉妹で同じ音の名前、ということから判るでしょ、と後に出会った少年、孝史に朔子は言う。
再婚同士の連れ子同士。海のミキエで海子、山のミキエで山子と呼ばれていたと海希江はほがらかに笑う。

ここには登場しない朔子の母、樹の字を使うミキエさんは、この美しきしかも才女の姉妹に挟まれて、相当プレッシャーだったらしい。
「だってあの子、バカでしょ」親愛の気持ちからなのかもしれないけれど、そんな風に言う美しい海希江さん=鶴田真由に、うわあ、これは樹のミキエさんは、それはそれは大変だっただろうと思う。
一応姉妹ではあっても、同じ学年だったというし……それでなくても出来のいい姉妹の存在というのは大変なのに。

などと、自分の都合でシンクロして考えているけれど、朔子を含めて考えると事態は結構複雑である。
この美しき才女姉妹、海希江さんはインドネシアの歴史研究に携わり、インドネシアの小説の翻訳の仕事にまい進している最中である。
水帆さんは陶芸の有名作家らしく、その合間をぬってようやくとれた休暇でヨーロッパあたりを周る予定であるらしい。

この才女姉妹が交わす会話……何かあったらメールしてよ、美味しい店も知ってるからさ、なんてのは、きっときっと山子のミキエさんには到底入りえない会話であろう。
……などと、ここには一切出てこない朔子の母親のミキエさんがなんだかとっても気になるのは、きっと私の側に近いタイプだからなのかな、などと自嘲気味に思ったりする。

それを言ったら、朔子ちゃんもそうだということになる。まだ少女で、少女だけど成人の一歩手前で、いったん自分の道筋を決める一歩手前である彼女は、この鮮やかなおば姉妹に憧れている。少ない会話の中で自分の母親を否定しているような感もある。
でも……こんなことを言ったらそれこそ私的フェミニズムに反しているんだけれど、この姉妹の中で朔子のお母さんだけが子をなした、んだよね。海希江さんも水帆さんも結婚も子供もなしてない、みたい。
水帆さんに関しては冒頭、彼女がなくしたパスポートを彼=兎吉が見つけ、加えて空港まで車で送っていくという、ザ・使いっ走りとして現れ、「元カレ?違う違う、一方的に憧れてただけだよ」と慌てまくり。

しかし意外な事実?事実なのかどうなのか……実は兎吉がつきあっていたのは海希江さんの方で、しかも結婚寸前までいったのに、子供を産めない、いや産まない、そんなことですったもんだしてる間に、兎吉の浮気相手が妊娠して破談。
兎吉は近所のおばちゃんに言わせると「あのゴロツキ」であり、ヤマ師根性が抜けずに、その連れ合いに散々迷惑をかけた上に死なれ、現在は男やもめで大学生になった娘にケーベツされている状態、と。

こーゆー、近所のオバチャンとかの言い様のシンラツさって、キビしいよね。ゴロツキ、チンピラ、言いたい放題。
このオバチャンは、絵をたしなんで、銀座でグループ展をしたこともあるような余裕のあるお人。あんなヤツと付き合っちゃだめよとか忠告するような“余裕”がある訳。
この中途半端なセレブリティが痛くって、ああ、こんな風にカン違いしないようにしないと、と思っちゃう。
てゆーか、何があっても、どんなにイヤな相手でも、得々と人の悪口言うことだけはしちゃダメと思っちゃう。私、してる?してるかも??ヤバいヤバい!!

なんか、一気に言ってみたらえっらい昼メロみたいな感じになっちゃったけど(爆)。
でもこの兎吉さんに扮する古舘寛治氏、深田監督作「歓待」からの連投で、その「歓待」含め、ここ数年最も印象度の強い俳優さん。
いいよね、男子は。年齢が深くなってもこんな風に成功できるんだもの(爆)。しかも鶴田真由と深い関係の役なんて。おーっ。

実際どうだったのか。この“すったもんだ”の話は兎吉の甥である孝史からもたらされたもので、本当のところは最後まで明確にされない。
実際、最初だけの登場の水帆さんに使われている様子なんて、兎吉の娘の辰子からケーベツ気味に揶揄されるぐらいだし。

でも朔子が孝史と最初に関係を深めた、川のほとりへのサイクリング、近道を通ったはずの兎吉と海希江おばさんは、到着がやたら遅かった。
そのおかげで朔子は初対面の孝史と距離を縮めることが出来たけれど、でもその間、二人は何を話していたのか、あるいは何をしていたのか……後に朔子がそれをうっすらと問い詰めても、「秘密。ヒミツヒミツ」とはぐらかすだけ。

そんな風に彼女がはぐらかせるのには理由があって。朔子が孝史とプチ家出をかましたから。……という展開に至るには大きな出来事がいくつもある。
そうそう、川のほとりのへのサイクリングこそが、タイトルにつながるんであろうと思うけれど、本当にそれは、ささやかなシークエンスだった。
朔子と孝史が距離を縮め、兎吉と海希江おばさんが旧交をあたためた(どの程度あたためたかってあたりがまあ……アレなんだけど)川のほとり。

そこで素足を濡らす朔子は、木々が水面に瑞々しい若緑を写し、しかもそれが幾重にも広がる波紋で照り返されて、本当に美しい一場面だった。あの場面一発で、このタイトルを決めたんじゃないかと思うほどに、ハッとするような奇跡のような一瞬だった。
彼の方が年下であるにしても、だからこそかちょっとお姉さんのような口をきいて、でも淡い感情が見え隠れする朔子の、夏の装いのワンピースといい、ぷりぷりしたお尻が見え隠れする水着といい(でもこれも、ワンピース型なんだよね)、何ともそそられるんである。

一方の孝史君は、この年頃のしかも年下の男の子だから、やっぱりまだまだ子供なんだけど……でも、彼は特有の事情を抱えている。
まず知れるのは不登校だということ。しかもこの土地にはつい最近来たのだけれど、彼は元いた場所を言いたがらない。ただ、北の方とだけ言い、いい思い出がないから、とだけ。

クラスメイトだった女子と海辺で出会い、孝史君と話したかったのにすぐ学校に来なくなっちゃったから、と彼女は言い、アドレスを交換する。
そんな彼を表面上はセンパイの余裕で朔子は接する。彼をランチに誘ってその途中でその子から電話が来ても、席を外す余裕のかまし方である。

でも勿論、そんな“余裕”はフリだけである。しょざいなげに歩いていく後姿と、一人海辺で歩き回る姿に、最近ついぞ味わうこともなくなった、恋の予感とそれを失いそうになる揺れ動きを感じてきゅんと胸が痛くなる。
正直それが、あんな形に展開するとは思わなくて……。

それはちょっと先においといて。他の人物たちにもまー、色々あるのだ。出たい作品をプロデュースするってんだから、出たらそりゃーキーマンであるに違いない杉野女史は兎吉の一人娘、辰子役。
本当は好きな相手が別にいたくせに浮気相手に子供を産ませて、しかも散々苦労させて死なせて、なのに葬式で泣きやがって、とシンラツ極まりない。

その辰子に軽い気持ちで近づくのが、海希江の恋人である大学教授の西田。この地の女子大にゲスト講師で招かれてやってきて、まあそれなりに著書とかも出している著名人、そういうあたりの、なんていうのかな、軽薄さ、とまで言ったら語弊があるけど、まあその……ある人にはある、下々のものとは違う、みたいな感じを持ってるヤツ。
しかもそーゆーやつに限って、なんか軟白な感じっていうの?、バカにしてる相手と比べて明らかに生命力がないというか(爆)。これはキャスティングの妙、だよなあ。
西田を演じる大竹氏は私多分初見なんだけど、そーゆーヨワヤワな感じがバッチリなんだよなあ。だって恋人が鶴田真由って、もう存在自体は勿論、ガタイでも負けてる(爆)。

でもソイツ、まさか恋人の元カレの娘だと知らずに、辰子を誘っちゃうんである。まあ確かに辰子から近づいたとは言えど、「どっかでちょっと休んでかない?金は払うよ」
……この日、英語字幕がついてて、rest,rest?と描写されてるのが妙に生々しかった……。
まさかその後再会することになるとも知らず、海希江の誘いでしぶしぶ辰子の誕生パーティーについていった西田は、兎吉の失礼な態度に激昂する形で辞するのだが、辰子にもビンタされ、まあつまり、自業自得ってヤツだな……。

そんなこんなのドロドロよりも、やはりやはり気になるのは、さっき一応おいといた、孝史の出自である。
実は福島から“疎開”してきた彼。近づいてきたクラスメイトの女子の真意は、反原発、脱原発の集会に彼を引っ張り出すため、なんであった。
「あれ?言ってなかったけ?言ってたよね??」と、これは当然確信犯だよな……それまでは思わせぶりなデートを重ね、デートと思わせた“行きたいイベント”はこのデモ集会であり、これが彼女のカレシだろうと思わせる主宰の青年に引き合わせる。

被災者の現状を話してほしい。突然言われて突然ステージに引っ張り上げられる。それをユーストリームで朔子が見ている。
辰子のバイトしてる喫茶店に訪ねて行った朔子が遭遇した、このデモ集会のビラを配っている青年がそうだったんだろう。
ムリヤリステージに引き上げられた孝史は、いわゆる主催者の求めるような言葉を言うことは出来ず、ただ両親や地元への青年らしい反発と、原発で食わせてもらってきたんだからいわば自業自得だと言いつつ、でもただ苦しそうに、その壇上から逃げ去るんである。

……私ね、これを書き出した時には、またフクシマか、と書いたし、確かに苦い思いを抱いて劇場を後にしたのは本当だった。でも、今こうして書いてみて、少し違ったかもしれない、と思った。
それこそいつまでもフクシマフクシマと言われ、型どおりのプラカードを掲げ、no nukeなんて、使い慣れない英語を殴り書き風につづってさ、その不自然さ、だったのかな、ひょっとしたらそうだったのかな、と思ったのだ。
その集会に集まっている人たちの表情をあえてとらえることをせず、そうした無機さをあえて示しているようにも見えた。
アツいデモのようには見えなかった。趣旨も説明せずに、被災者なら引っ張り出せば言ってくれるだろうという傲慢さ。それを示してくれているように思えた。

孝史は、おじさんである兎吉が支配人をしてるホテルでバイトしている。田舎によくあるショボいビジネスホテルのように見えて、その実態はラブホテルなんだという。風営法の網をくぐって営業しているけれど、じきに警察の手も伸びてきそうだというんである。
VIPだというハゲおっさんは、いつもロビーに若い女の子を待たせていて、「これでなきゃ燃えない」という、80年代あたりに流行ってたような、熱帯系をヘビーローテさせる。
言われるままに流していた孝史も、“客”が女子中学生らしいことを知り、それまでの経過もあって、おじさんに初めて反発するんである。そして飛び出し、“家出”“駆け落ち”するんである……。

ユーストリームで孝史のステージを見ていた朔子が心配してホテルに行って、そのまま彼の“家出”“駆け落ち”に付き合うことになる。
ああ、本当にさ、ギリギリ、だよね。二人が“家出”“駆け落ち”して、若い男女がそうして、何もない、なんて。
いや、この年頃なら、何かあってしかるべき??そう考えるのは、それこそワカモンを軽視、蔑視してるかなあ。

そうかもしれない。朔子と孝史をこの物語の中で見ていると、本当にピュアで、胸が痛くなる。恋さえ知らない、特に孝史は。
朔子に関しては、過去にそんな経験があったのかなかったのかさえ、判らない。
でもこういう男の子女の子の方が、普通だと思う。そうだと思うなあ。え?何十年も前の自分の経験に照らし合わせすぎ??

本当に、何もないの。せいぜい、夜遅くまでやっている喫茶店に入って、それこそ酒も飲まずに(いい子たちだなー……)、その喫茶店でやってるパントマイムパフォーマンスを眺めているだけ。
客の一人の、それこそオッチャンが涙を流しているのを、目を見開いて眺めている。

オッチャンがなぜそんな涙を流しているのか、そりゃ観客である私にもわからないけど、まるで珍しい生物でも見るように眺めている彼らには、やっぱりまだ、先は長いのだ。
フクシマもゲンパツも途方もなさすぎるけど、パントマイムに人生の何かを託して涙を流すだけの経験もない彼らは、まだまだ先は長いのだ。
どこか遠くがどこまでも遠く、どこに行っても同じだということは判っているのに。映画のワンシーンのように、線路の上を歩いてみるシーンはひどく画になるのに。

この線路のシーン、朔子は判りやすくスタンドバイミーと言ったけれど、孝史君は映画好きの父親が見ていた古い日本映画の記憶を語った。
それって、なんだったんだろう。恥ずかしながら私、見当がつかなかった。なんだったんだろう……。

朔子は、これまでのあれこれがあって、海希江に聞くのね。おばさんはなんで外国に行って研究をやろうと思ったの。日本にだって困っている人はたくさんいる。外国の人を助けても、そんなのって偽善じゃないの、と。
ものすっごい純粋すぎるぶつけようで、でもそれは、孝史と出会ったり、あの集会を見たりしたことで本当に純粋に思ったことだろうことで。
でもそれに返す海希江さんの答えは、確かにしっかりしてる。説得力もある。客観性を世界に託する、人間的な、大人な答えだと思う。

なるほどと思いながらも、実はそこで朔子は勿論、もうすっかり大人である私でさえ、これに説得されていいのだろうかとちょっと思ってしまう。
子供の純粋さに触れてしまったからだろうと思う一方で、だったらそれが真実の思いなんじゃないのとも思う。
ただそれを言ってしまうことが、主張してしまうことが、自分や自分の国だけを愛し囲ってしまうことだってことも重々承知している。
でも、それが出来なくなってしまうことが、国際社会の中に生きるということなのかなと思ったりもして。

朔子は親からの電話で塾の補習を受けるため、東京に戻ることになる。ひどくあっさりとした理由と幕切れ。
小さな駅まで彼女を送るのは海希江おばさんと兎吉だけ。孝史君とはあの一晩を何ごともなく一緒に過ごして、どこに行くことも出来ず、いや行かず、この小さな駅で二人、野良猫のように一緒に過ごして……野良猫のように、彼は何かをしかけたかもしれないけど、でも何もなく、朝を迎えた。
別れ道で、じゃあ、と言った時、ここは年上の姉さんの朔子が男気?を出して、彼の頬にチュッとやった。
朔子は辰子から、記憶のない小さな頃の、朔子、辰子、孝史が映っている写真をもらった。
関係ない、知らない、もう別れて他人と思っても、知らない頃からつながっていて、これからもつながっているのだ。……もう、なんてこと!! ★★★☆☆


BONSAI GIRL
2009年 26分 日本 カラー
監督:新生璃人 脚本:新生璃人
撮影:新生璃人 音楽:ツダユキコ
出演:加藤沙織 斉藤新平 島口哲朗

2014/5/10/土 劇場(池袋シネマ・ロサ/レイト)
あ、これ解説最初に読んじゃうともう、ホラーって書いてあるんだ……良かった、知らないで。
まあゆうばりファンタに出したっていうんなら、その方向の推測が立たないでもないけど、ほんとに何にも知らないで観たから、素直にビックリした。
いやかなりビックリした。だってこの監督さんの作品自体、初見だったから、作品カラーも何も知らなかったんだもん。

いや、作品カラーはいまだによくつかめない。この日のメイン本編と本作のカラーは全く違うからなあ。
本作では本当にビックリしたし、芸能人に憧れる女の子を街中に追う形でとらえるカメラワークもスタイリッシュで、そういうクールなセンスが凄くある気がしたが、本編を観ちゃったら判んなくなった(爆)。
いやだから、内容が違い過ぎるからだけど。しかし共通して言えるのは女優さんをちゃんと脱がすことが出来る人。これ重要。女の子は総じてなぜか小さ目の胸。好みなのかしらん(爆)。

BONSAIを盆栽と凡才に引っかけていると気づいてからも、まさかそれが更なる引っかけとなる恐怖のオチにつながるとは思っていなかった。
主人公の女の子は「大洗から出てきた」と劇中、スカウトマンに言う。東京からそれほど遠くない。つまり遠くに憧れる東京ではなく、リアルに憧れる東京、ゲーノージン。
そういう感覚は東京に出てきて初めて知った。地方にいると本当に遥かで途方もない夢で、現実味がないから。

彼女が電話で話す母親は、娘を心配しているのか、呆れているのか、彼女の口ぶりからは判然としない。
ただただ彼女はキレている。「私のチャンスをジャマしないで!私は凡才じゃない、非凡なのよ!!」

物語の冒頭、スカウトマンを名乗る男に引っかかったのか、ホテルで一発ヤッて、サインの練習をしている彼女をひとしきりほめた後で、彼女がシャワーを浴びている間に男が姿を消しているシークエンスがある。つまりそんなもんだということなのか。
キャリーバッグを転がしながら歩く彼女に、また若い男が声をかけてくる。センスいいね、地方から出てきたばかりなんて見えないよ、と。
そして次のシーンではもう、バリバリのグラビアアイドルのごとく、次々にポーズを決めている彼女がいる。

この撮影シーンはもう、冒頭に示されているんだよね。私は凡才じゃない、非凡なのだというモノローグも既に示されている。そしてマンションのベランダのようなところで、ぱちんぱちんと盆栽の手入れをする男の描写も何度となく繰り返される。
植物の声が聞こえるか?切ってほしいと言っているんだ。痛いと言っているんじゃない……。割とちゃんとした盆栽なのに、マンションのベランダという狭苦しさ、その向こうに広がる、これまた息詰まる大都会、東京。
奇妙な不自然さを感じながらも、まあ盆栽と凡才をかけているんだもんね、と特に深く考えもせずに眺めている。そうだこれは、ゆうばりファンタの出品作、そんな都会のヒューマンドラマで終わる筈がなかったのに。

本格的な撮影に心躍るヒロイン。何度も心の中で、私は凡才じゃない、非凡だ、と繰り返す。ヤリ逃げされた冒頭の男が、君のサインの字には才能があふれている。そう、非凡だよ、とささやいたあの言葉は、ヤるためだけのものだったこと、判っている筈なのに。
またも母親から電話がかかってくる。また彼女は叫ぶ。私のチャンスをジャマしないで、私は凡才なんかじゃない!

その直前に、それまではほめそやしていたカメラマンがうーんと悩み顔で「前髪を切ってみようか」と言った。特にすまなそうな風でもなく、そう、それこそそこの枝を切ってみようか、そんな感じで。そう、そんな感じで!
その時、えっという顔をした彼女の元に、いつもの着メロで母親から電話がかかってきたのだ。母親の直感だったのだと、今なら思う。
どんなに東京から気軽に行ける距離でも、東京なのだ。モンスターが巣食う場所だと、最初の経験で判っていた筈じゃないか。

前髪を切ってみようかという気軽さのまま、サイドも切ってみようかと言われ、あっというまにショートボブになった。前髪をOKした後は、抗うヒマもなかった。
確かにショートボブになったら、それはそれで素敵だった。それでもカメラマンは首をかしげる。最初はあんなにほめそやしていたのに。
そういえば果物を持たせ、イチゴを食べさせるあたりから雲行きが怪しかった。そっけなく小道具を下がらせ、それはまるで、メイクや服やアクセサリーで、着飾る女たちを嫌悪するかのようだった……と思ったのは、このオチが判ってから。

ショートボブになった彼女にもうーんと首を傾げ、近寄って手をとり、ためつすがめつ、そして「これも切ってみようか」
え?といぶかしげな疑問をたてる間もなく、そして観客がえ?と聞き違えたかしらん、ともう一度聞き耳を立てる間もなく、髪を切っていた青年が髪を切る時と同じようにさらりと近寄りバチリ!ギャー!!えーーーーっ!!!
……ここに至るまでホントのホントのホントに、本作の意図するところに気が付かなかったよ!!!気づく訳ない!!

血まみれの手を押さえて絶叫するヒロインの口にタオルを突っ込み、押さえつけ、「腕も切ってみようか」げええぇぇぇ、やめてやめてやめて!!
かなーり本格的なソードが登場するんですけど!!フィクションだと判っていても、いきなりの展開と音のリアルさにゾゾ気が走るーっ。
きれいになるために。そうきれいになるために、余計なものは切って落とすんだ。植物の声を聞いて、切ってほしいという声を聞いて。でも植物じゃないし、言ってもいない!!!

しかもこのキ印男が最後に手にしたのは、枝も何も丸裸の痛々しい盆栽で、その横に青ざめた彼女の生首が鉢に植えられている。
生首オチは正直ないなあと思ったが、盆栽と凡才の引っ掛けがこの恐ろしいオチにつながるアイディアとスプラッターには驚愕した。
盆栽は確かに鉢の中の小宇宙だけど、でも都会の殺風景なベランダではやはり、姿を保っても、丸坊主にされても、大して趣は変わらないのだ。誰も慈しんで見る人などいないんだもの。

女優メイキングという形で、心配するママにと、別に好きじゃないけどとか言いながら照れながら、頑張ってるよとメッセージを残す彼女。
それでエンディングというのが、この人は実際は人間ドラマを作りたい人なのかなあと思わせる。本編はまた、そこからはちょっとハズれたけど(爆)。 ★★★☆☆


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