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2020年鑑賞作品

破壊の日
2020年 56分 日本 カラー
監督:豊田利晃 脚本:豊田利晃
撮影:槇憲治 音楽:GEZAN 切腹ピストルズ 照井利幸 MARS89
出演:渋川清彦 マヒトゥ・ザ・ピーポー イッセー尾形 松田龍平 長澤樹 大西信満 和田美沙 飯田団紅 窪塚洋介

2020/9/8/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
コロナの緊急事態が解けた後の街で、最初に撮られた映画じゃないだろうか。驚くべきことに本作の企画自体は1月にスタートしていて、つまりコロナは関係なかった。驚くべきこと。だって内容は完全に、コロナ禍の中の世界をバックヤードにしているとしか思えないのだもの。
無論、この現実の急変を作品自体に投影させて改変していったに違いないが、1月の時点で語られていたコンセプト、人間が強欲という物の怪にとりつかれる、つまり人間が心を失っていくというのが、まさにこのコロナ禍における絶望すべき人間の姿だったから、まるでそれを予期していたかのような企画に、震えたのだ。

東京五輪に対する辛辣な視線は、これはそれぞれに考え方が違うから何とも言えない部分はあるのだが、資金力を武器に五輪をもぎとった日本という国の、それがコロナによって“それどころではなくなった”、所詮はお金の欲得が絡んだ運動会、ぐらいの言い様が、この状況下ではひどく皮肉に響くんである。

しかして、作品自体はかなり前衛的というか、いわゆる物語映画という感じはまるでない。実はウッカリデータベースサイトのユーザーレビューの星を見てしまったのだが、投稿していたのはたった一人だったが、バッチリ1をつけてたのを見て怖気づいた(爆)。一人の意見に左右されるのもバカバカしいのは判っているのだが、でも1をつけるって、かなりの気合?だと思って……。

実際、観てみて、判るような気もするというか、いわゆる映画文脈とはかけ離れているし、今のリアルな状況にとにかく吠えろ、という焦燥のようなものも感じて観ているこっちが焦ってしまうような感じもあるし、その割にはファンタジックに飛んでしまっておいてかれる感もあったり……。

そう考えるとかなりムチャクチャなのだが、ふと、「甦りの血」の土着的日本神話的な世界観が、それこそ甦った気がした。あの時は、監督自身の問題でインターバルがあっての復帰作であったけれど、今回の本作と通じる土着感みたいなものがあるなあと思ったら、上手く言えないけどなんか、腑に落ちる気がした。
原点に立ち返る、というか、地から湧き出るパワーというか、姿も何も判らない、太刀打ちできない大きなものに恐れおののくとか、そういうことを、小手先でAIなんかをこねくり回している現代日本はなめくさって忘れてるんだ、とでもいうような感覚。

なんか周囲をぐるぐる回ってなかなか作品自体に行けないのは、私が怖気づいているからかもしれない。だって、やっぱり、異様なんだもの。
まず冒頭は今から7年前である。豊田作品によって鍛えられたという印象のある松田龍平君がまず切り込むのが嬉しくなる。本作はクラウドファンディングによって作り上げられたザ・インディペンデント映画だけれど、監督と役者の信頼関係によって、目を見張る豪華キャストで埋め尽くされている嬉しさがある。

龍平君は東京から来た、なんだったっけな、記者かなんか??炭鉱の奥に幽閉されている“怪物”を見物に来る。この山奥の地がどことは明示されないが、霊力をもった山伏が今も存在している、冬には雪が降りこめる、東北の山奥のどこか、といった想像がされる。
この怪物はホラー映画さながらに、ただただ息をしているおぞましい物体、として描かれるにとどまるが、モノクロで、血だか汚れだか判んないような濡れた感じ、顔も目も見分けがつかないような、ただただ唸るように呼吸をしているだけの物体という不気味さに、龍平君が怯えるどころかうっすらと笑みを浮かべるのが怖いんである。
龍平君だから、なんかそれが自然で、やべえなこれ、ぐらいの無邪気な感じに見えるのが凄く怖いのだ。

外からの風が入るのは本当にここだけなのだ。モノクロームからカラーに戻ってきても、7年後のここ……村だか町だか集落だか判らないところだが、現代の感覚では信じられないような価値観がフツーに横行している。
なんたって、絶対まだ20代だろと思われる若き青年が、疫病の噂が広がってすっかり疑心暗鬼になって腐ってしまったこの地を救うために、即身仏になろうとするっていうんだから絶句である。

即身仏になろう、ってこう書いてみても、あまりにも現実味がない。実際に即身仏になった(という伝説だろうか)、法衣をまとったミイラというかガイコツというか、が煽情的にスクリーンに繰り返しドアップにされる。こんなこと出来るのかオラ、てな暴力的なカッティングで何度も何度も観客に圧をかける。

この青年、賢一は妹を病で亡くして以来、何か、思い詰めてしまっている。この地にはフツーに修験者がいて、その一人が本作の主演である我が愛する渋川清彦氏演じる鉄平なのだが、彼は本当にフツーというか、むしろカルいというか、修験者??てな感じなのだが、修験者の力を賢一に教えた、いわば先輩である。
そしてその更に先輩になんとまあ、イッセー尾形氏が参戦、アヤしげな漬け酒屋?を営んで?おり、即身仏になり損ねた賢一にアヤしげなまたたび酒だかなんだかのブレンドしたものを飲ませている。マムシだのサンショウウオだののラベルも見えている(サンショウウオは漬けていいのか??)。

彼らの関係性は時間軸を行ったり来たりしながら描かれる。賢一の、今は亡き妹との今はどこか夢のような回想もまた。妹が入院していたのはここではなく、東京だったのだろう。それだけ難しい病気だったのだろう。
五輪前、建築されている競技場を遠目に眺めながら、シニカルな兄と、そんな兄の気質を知ってて受け流して、オリンピックに出られるならなんの競技かなあ、なんて無邪気な質問をする妹。あんなシニカルなこと言ってたお兄ちゃんなのに、乗馬(馬術)かな……とつい、妹の質問にマジレスしてしまう。この一発だけで、彼が妹をどんなに愛していたかが、判るのだ。

妹の死の原因がなんだったのか……ここで散々語られている疫病だったのか。疫病の噂に疑心暗鬼になって正気を失う人々が散見されるようになる。それはまさに、発狂であり、発狂した人たちを明日は我が身とばかり遠巻きに眺めている図式である。
コロナの異常事態がピークに達したあの頃、どうだっただろうか。むしろこの図式だったなら、まだ平和なうちだったんじゃないだろうか。皆が目を吊り上げて、狂っていた。ドラッグストアに群がって、取り合いをしていた。罵声が飛んでいた。それを目にしてしまった。
本作が撮影されていた時にはそのことも白日の下にさらされていたから、現実の醜さの方がフィクションである映画より先に行ってしまったという恥ずかしさと、フィクションである映画でさえ追いつけなかったという驚きがあった。

即身仏になり損ねた賢一は、妹が死んだ東京に向かう。まるで血だらけのような全身赤に染まって、あのスクランブル交差点で。
まさにあの時の、そろそろと出てき始めた人々が、しかし全員マスク装着して、誰一人あの名所ではしゃいで写真撮ったりしていない。しゅくしゅくと、静かに、行進するように横断しているというだけで、スクランブル交差点としては異常事態。

そこでゲリラ撮影で、真っ赤に染まった時代錯誤なカッコをした超長髪の男の子が、ひざまずいて天を仰いで絶叫しても、恐る恐るチラリと目を向けるだけで、マスクの人々は粛々と通り過ぎていくのだ。
それは通常語られる、都会の無関心ではない。はしゃぐこと、さわぐこと、そもそも外に出てくることが非難されてしまうあの時に、皆が黙り込んでいたあの異常事態を、図らずもこのゲリラ撮影が見事に映し出してしまった。

結局あの怪物は何だったのかとか、修験者として登場する窪塚洋介氏の役割がよく判んないとか、消化しきれない部分はめっちゃあって、私だって星をつけるとかなったら、なかなか困っちゃう。
星何個とかいうレベルのことじゃないだろうし、来年になったら、あのマスク集団のスクランブル交差点を、懐かしく眺めることが出来るのだろうかと思ったり。

豊田監督は本作だけではなく、クラウドファンディングによる、今作らなければならない映画を、これまでも作っていたのだという。
映画はとかく社会情勢から遅れがちのメディアだが、豊田監督の、「今年撮影されて今年公開される作品がなければ寂しすぎる」という言葉に本当に共感したから……。★★☆☆☆


はちどり/??/House of Hummingbird
2018年 138分 韓国 カラー
監督:キム・ボラ 脚本:キム・ボラ
撮影:カン・グヒョン 音楽:マティヤ・ストルニシャ
出演:パク・ジフ/キム・セビョク/イ・スンヨン/チョン・インギ/パク・スヨン/キル・ヘヨン

2020/7/15/水 劇場(TOHOシネマズ日比谷)
国の経済の成長や、国際的な広がりが激動の時代だったであろうこの当時の韓国を肌身で知っている、そこに生きていた当地の人たちと違って、きっと私たち外野の観客は、本当の意味では本作の持つ重要な意味を判ることは出来ないのだろう。それが悔しく思えるほどに、そのナショナルな筈の感覚が、そのまんまダイレクトに私たちを撃つのは何故だろう。
プリズム。多面体。そんな言葉が頭に浮かぶ。きらきらとした青春時代のまばゆさもそうだが、主人公ウニを取り巻く状況や人々がまさに多面体で、それが本作の何よりの魅力になっているのだ。

一見してザ・韓国の家父長制度的な家庭。日本もアジア的家父長制度の圧が長い間征服してきた国だが、結構テキトーな思想の国民性が、そう、まさに思想という価値観でしかなかったコレを、いつのまにかじりじりと排除してしまっているのに比して、あくまでイメージでしかないけど、韓国は今でも、思想としての厳しい家父長制度が続いているような気がする。
そして本作の舞台となる、ソウルオリンピックが開かれたことが象徴的な鋭角的な右肩上がりの高度経済成長時代の韓国においては、まだ彼らがその劇的な変化に気づいておらず、雲の上の変化を見上げているような感じがある。

そしてその雲の下の、小さな地方都市の、日本で言えば団地と呼びたいこまこまとした集合住宅に家族五人で暮らすウニである。
冒頭、ウニが一階上だか下だかに間違えてピンポンと壁ドンドンを繰り返す描写は、その時にはピンときていなかったものの、なるほど引いて全景をとらえれば、巨大な迷路に入り込んだかのようにめまいのするような“団地”である。

そういやあ、もう大分前の中国映画「スパイシー・ラブスープ」で、出会ってイイ感じになって彼の部屋で過ごし、鍋に煮豚いっぱい買って帰ってくると、一歩外に出たらすべてが相似形の集合住宅で、もうどの棟かさえも判らなくなって途方に暮れる女の子、というくだりがあったことをふと思い出した。
それこそあの映画は、本作で描かれているような時代だったんじゃないか。日本も含め当時のアジアが象徴する“高度経済成長”は、みんなで右ならえの、こんな滑稽なものだったということなのかもしれない。

ウニの両親は商店街で総菜屋を営んでいる。ウニがそらんじる、「いい米を使っているから、美味しいんです」という台詞は、両親が、ことに接客として表に出る母親が愛想よく繰り返す受け売りだろう。家族総出で手伝っているし、そういう意味ではウニが後に言うような、「なんでウチの家族は仲が悪いのかな」というのがまだ飲み込めなかった。
いや、観終わると、その時ウニがそう言ったのは判るけれども、やっぱり彼らは、現代の、日本に限らずそれぞれに個に閉じこもる家族たちより、ずっとコンタクトしてるし、それが時に暴力という形になっても、黙ってない、反撃する。そりゃそれがケンアクになったり、逃げだしたくなったりはするけど、最終的には彼ら家族が、愛し合っていることを観客にしっかりと認識させるのが、凄いと思った。

そう、多面体なのだ。一見して父親は頭ごなし、母親はそんな父親に従属、お兄ちゃんは両親に期待されていることをかさに妹に暴力をふるい、お姉ちゃんはそんな家族を見限って勉強もせずに彼氏と遊び歩いている。判りやすい図式である。ウニが可哀想と思うのには十分すぎるほどの材料だ。
でも、お兄ちゃんは“ソウル大学に入ること”を絶対条件にされてのちやほやはどれほどのプレッシャーかと思うし、お姉ちゃんもウニと同じように、長子ではなく、しかも女であることの劣等感をむしろウニよりも、先に感じていたからこそ、自己主張という形でグレ始めたんだろう。

ウニはその点、まだどこかぼんやりしている。“学校にはなじめず、他の学校の友達と遊んでいる”みたいな解説がされているけれど、そこまでも明確じゃない気がする。なじめない、というほどの明確さじゃないのだ。
それは、昨今の日本映画が、とにかく凄惨な、イジメ描写やら親からの虐待やらに、いわゆる現代社会的リアリティを求めて、つまり凄惨にすればするほど社会派みたいな風潮を感じることがあって、なんか違和感を感じていたから、なんか凄く、腑に落ちた気がしたのだ。

ああ、久しぶりにこーゆー感覚に陥った時に思い出す「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」である。どんなに辛いことがあっても、幸福である状況は今必ずある。不幸100%じゃないと、イングマル君に教えられた何十年も前のことを、ことあるごとに、繰り返し思い出すのだ。

ウニを演じるパク・ジフ嬢はトンでもなく透明感マックスの美少女で、いや、いわゆる整った美少女というんじゃなく、なんかもう、自然素材の、神様が作りたもうた、美しい水だけで培養された女の子、みたいな!!
と、思ってオフィシャルサイト見てたら、監督さんが超美女!!何それ!!こんな信じられないデビュー作撮る才人がこんな美人って、どーゆーこと!!

……えーと、まあそれは作品にはあまり関係ない話なので(だって驚いちゃったから……)。本作で最も印象に残り、ウニにとっても最も重要な人物は、塾の女性講師、ヨンジ先生である。
そもそもリーバイスの同じジーンズをはきっきりの前任男子教師を、一緒に受講している友人とこっそりからかったりしていたところに現れたヨンジ先生は、まず窓辺でタバコをくゆらせている姿が、ウニならずとも、かつての女子中学生であるあらゆる女子観客をドキドキさせただろう。本作の中には、そういう、女子的疑似恋愛、そこまでは言い過ぎかな、年上の女性に対する親愛の感覚がリアルに描かれるのだ。

ウニもまたその標的にされる。下級生から恋愛に近い思いを寄せられ、まんざらでもなく、デートに近いお出かけもする。でもその後輩は、「(好きだと言ったのは)前期のことです」としれっと言って去って行っちゃったりする。
この後輩女子に限らず、ウニの周辺の惚れたはれたは目まぐるしく、特にボーイフレンドに至っては、ベロチューとか結構積極的に試みていたのに、コイツは他の女の子にうつつを抜かしてウニと連絡を絶ったり、それを反省してヨリを戻したかと思ったら「あなたが餅屋の娘?」母親登場!マザコンで終了か!……うーむ、中学男子は恋愛よりも性欲、恋愛よりもママかあ……。

でも、ウニが言った、「あんたのこと好きだったことは一度もなかった」というのは、意外と強がりじゃなかったような気もする。特にヨンジ先生に出会って、それが判ったんじゃないか。本当に自分を理解してくれる相手、それはイチャイチャする男の子じゃなく、その先の自分を思わせるような、シンパシイを感じるヨンジ先生。
彼女が有名大学に在籍していながら、ずっと休学中で、どうやらまあその、いろいろな問題(恐らく心の)を抱えていることを知るとウニは一気に心惹かれただろうし、そしてヨンジ先生も、この悩める子羊にかつての、あるいは今の自分を感じたんだろう。同じ、左利きなんだよね。それに気づいた時、なぜだか凄く運命的な感じがして、胸が締め付けられた。

ウニは耳の下にしこりを感じて、でも両親は忙しいし検査とかがなかなか進まず、中学生女子としてはあまりにしっかりした、「(母親を連れてくるのが無理だから)ここで電話してくれませんか」とか、もう自分ですべて算段して、両親に告げるシーンがもうさあ……。
この両親は、なんつーか、微妙なのよ。先述したように父親は居丈高なザ・家父長さん。母親はそれに疲れたように従っているといった感じで、子どもたちに対してもまず夫の対応をうかがうといった感じだった。

でも、ウニのしこりが手術を伴うこと、万万が一、顔面まひの可能性もあること、傷跡が残ること……をお父さん知ると、長男にしか関心がなかったと思われたお父さんが、車を運転しながらがふがふ泣き出しちゃうの!!ビックリした!!!劇中のウニも相当ビックリした顔をしていたし、観客もウニと同様ビックリである!!
いや、なんとなくの布石はある。何よりの布石は、子どもたちにとって絶対的存在の“大人”である親たちが、子どもたちと同じく、子どもから徐々に成長していった先でしかないという意味合いの“大人”である、ということなんである。

それが子どもたちに知らされず、教育する側される側、虐待する側される側、殺す側殺される側、になっていくという図式である。……近年の日本映画では、カワイソウな子供を救えとばかりに、子どもたちが受けている凄惨な状況をひたすら描写することに腐心している。もちろんそこにウソはないし、時代も違えば国も違う。でも、なぜ子どもたちがそんな目に合うのか。
そんな目に合わせている大人たちの状況や考えを丸無視して、とにかく子どもたちが可哀想、勝手な大人たちがいけない、というだけでは何も解決しないのだ。虐待の末に殺してしまう親にも、愛の感情があるかもしれない、いや、あるからこその悲劇だということの、まだそこまで時代的成長(イヤな言い方だが)が煮詰まっていない韓国の“右肩上がりの経済成長”の中の小さな物語に、色んなことを思う。

ウニは、ただ大人として、親として、教師として、従うしかない大人ではない生身の姿を、自分自身ではあまり自覚はしてないかもしれないけど、自身の中に刻んでいった。それはウニに暴力をふるっていたお兄ちゃんや、厭世的になっていたお姉ちゃんもまたそうだった。
お姉ちゃんが通っていた学校へと通じる大橋が崩落するという事故が、大きな転機となる。この時きっとウニは、お姉ちゃんがこの事故に巻き込まれてしまったかもしれないことにこんなにもショックを受けたことを、必死になる頭の外側で意外に思っていたような気がする。自分に無関心な家族、仲の悪い家族、そう思っていたのにと。

お姉ちゃんは無事だった。それ以外のなにかは考えなかった。ウニはヨンジ先生から小包を受けとる。最後に会えなかったヨンジ先生。入院する前に、父親の蔵書をちょろまかして、ヨンジ先生ならきっと読むだろうと、ロシア文学書を渡した。
思いがけず、ヨンジ先生はお見舞いにも来てくれた。暴力を受けたら、そのままでいてはいけない。やり返しなさいと静かに先生は言ってくれた。シンプルな助言だったけれど、これは、特に当時の韓国の女性、幼き女の子にとっては特に、困難なことに違いない。でも信頼するヨンジ先生の言葉だもの。ウニはうなずいた。
後から思えば、心配する生徒ということはあるものの、わざわざ見舞いに来てその言葉を授けたヨンジ先生は、……何か予感するところがあったのかもしれないが、そんなことを言ってしまったら、ありがちな映画的展開だから、それは言いたくない。

ラストシーン、三きょうだいが崩落した大橋を見に行く。父親が起きないうちに、という台詞に、先述した絶対なる家父長制度を感じるが、だからこそ時代の変化も感じる。
不思議な縁なんだけど、本作を観る前々日観た日本の、二本の映画(シャレじゃないのよ)、崩落した橋を事故の記憶を残すためにそのまま保存していること(「もち」)、友人関係において、信頼しているからという前提で親友から、アンタ、めんどくさいことあるよ、と言われるシーン(「蒼のざらざら」)、うっわ、奇跡的なリンクだ!と思い、でも、これぞ全世界的なことだろうとも思い……。世界が狭くなっていることはホント感じ続けている。★★★★★


初恋
2020年 115分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:中村雅
撮影:北信康 音楽:遠藤浩二
出演:窪田正孝 大森南朋 染谷将太 小西桜子 ベッキー 三浦貴大 藤岡麻美 顏正國 段鈞豪 矢島舞美 出合正幸 村上淳 滝藤賢一 ベンガル 塩見三省 内野聖陽 三元雅芸 内田章文 小柳心 山中アラタ 谷嶋颯斗

2020/3/25/水 劇場(丸の内TOEI@)
噂には聞いていたけれど、ベッキーの入魂演技が凄くって、彼女以外のキャストが目に入らないぐらい。
まあそんなことを言ってしまったら、彼女は結局はワキ役なのだから、主役さんたちに失礼になるのかもしれないが……とゆーか、いわゆるヤクザ側のワキ役さんたちが皆一球入魂演技をしまくるので、主人公二人がむしろそのための受け皿のようにさえ見えるのであった。

でもそれが、ネライだったのかもしれない。だってなんたって本作のウリは、“三池作品初のラブストーリー”だっていうんだから。
そうだっけとも思うが、でも本作もラブストーリーなんだろうか……という疑問も持つ。そこまで行っていない、というか、その予感を感じさせる手前というか。プラトニックすぎるなんていうヤボなことは言いっこなしだが、でもそこまでかなあ、という気がする。

まあ、奥歯にものが挟まったようなことばかり言っていても仕方ないので粛々と行く。主人公が天涯孤独のボクサーという以外は、ヤクザ周りの展開は初期のVシネ含めた三池監督のオハコを思わせ、そして黄金期の東映らしさも思わせ、ネラったベタさという感じもしている。
なんたってバリバリのやり手ヤクザさんの内野聖陽が出所するところからスタートするなんて、そしてそれを子分が出迎えるなんて、懐かしすぎてクラクラする。唯一現代的なのは、出迎える子分が二人だけ、しかも一人は頭の弱い新入りだとゆーあたりで、三池監督らしいユーモアが見え隠れする。

内野聖陽はもう最近は、「きのう何食べた?」のケンジがどうしても頭をよぎっちゃうので、ケンジ、頑張ってコワモテ作ってるぅ、とか思っちゃう弊害が(爆)。
でも彼のオールドタイプのヤクザ像、しかもそれにプライドバリバリで、やられたらやりかえす!という血気盛んさが何か可愛らしく思えるスパイスがあるから、徹頭徹尾、コワイヤクザさんじゃない訳で。

脇役に筆が滑りすぎた。主人公である。窪田正孝君である。その肉体のストイックさはつとに言われるところだが、それをじっくりと見られる作品というのは私は初である。
現役のボクサーと言っても信じちゃうような素晴らしき肉体にホレボレとするが、ファイトシーンもそこそこに大したことないパンチをくらってぶっ倒れてしまう。運ばれた病院での精密検査で、脳腫瘍で余命いくばくもないと言われてしまう。

それまでの彼、レオはクールというか世の中をナナメに見ているという意識すらない淡々とした生き様で、圧倒的な実力で勝ってもこぶしを突き上げることすらなく、トレーナーから歯がゆがられていた。実力もオーラもあるからこそ、ファンがつくだけのスター性があるのに、というところだったんだろう。
つまりこの時点で、ああきっと、彼はこのこぶしを本当に彼の望む衝動のために使い、ボクシングを見つめなおし、こぶしを突き上げる時が来るんだろうと、なんとなく想像させるんである。もうタイトルにも示されちゃってるから、それが愛する女性との出会いであるのだろうなということも。

それは当たっていたのか、どうだったのか。それまでのレオの人生はまあ見せる必要もないとは思うが特に示されず、天涯孤独としか設定されないし、その設定もなかなかに古めかしいなとは思う。
だけど、だったら彼が家族についてどう思っているかとか、父親の借金のかたに売り飛ばされてヤク中になっているモニカのことをどう感じたかというのは、このわやくちゃの抗争ドラマの中だから結構すっ飛ばされてしまう感がある。

むしろそのあたりの“家族の愛憎”は中途半端で、なくても良かったような気がする。モニカはヤク中で、自分をそんな状態に追いやった父親の幻覚をしょっちゅう見ては怯えるのだが、ぽってりとした中年太りでブリーフいっちょのお父さんの幻覚はコメディリリーフとしか思えないし、正直……モニカのヤク中は都合のいい時に幻覚が見えて物語を展開させるためだけとしか思えないほどのテキトーさなもんだからさ……。

ここが本作で一番、どーだかなあと思う部分であった。確かに“設定”としてはひどくシビアだ。売り飛ばされるまでにお父さんに何をやられていたのかという想像もさせるような。でもヤク中にしてはお顔ふっくら、やつれた感じはみじんも感じられない美少女っぷりで、かなり印象が弱い。
それは、悪鬼のごとくのインパクトを与えるベッキーが、数少ない女性キャラの中で、まさにモニカと対照的な位置で存在するので余計なんである。

ベッキーが演じるのはモニカを監禁している半グレの彼氏の恋人、という位置であり、半グレは当然、ヤクザとつながっていて、この監禁場所はモニカがヤク中になっているのも判る通り、ドラッグの取引場所になっている訳である。
クスリで縛って、父親の借金のみならず、それ以上にふくれあがる借金という形で、モニカをウリまくっている訳である。

ああ、これまたなんとも懐かしい設定である(今でもあるのかもしれんが)。ベッキー演じるジュリが悪鬼と化すのは、ベタベタにホレている恋人が殺されたからなのだが、その恋人の三浦貴大君はロクに顔も判別できないままの展開で、特にキャラが発揮される間もなく、利害と欲望の中に存在を示すことも出来ずに虫けらのように殺されてしまうので、あら、あれ貴大君だったの、と後から思うのはなかなかツライものがある(爆)。
それも計算だったのかなあ、ベッキーを悪鬼としてインパクトを与えるための。あんなにベタ惚れなら、ちょっとエロエロなところも見たかった気がするが(爆)。

あーでも、考えてみれば、バイオレンスはめっちゃだけど、そういうR指定はなかったね。主人公二人だけではなく、サブも含めて純愛、ということを貫いたのかもしれない。
でね、なんでこんなわちゃわちゃになったかとゆーと、おー、これも懐かしの設定、ヤクザと通じて懐をあったかくしている悪徳刑事と、下っ端の立場から抜け出てヤクを横領、トンズラしようと思っている若手組員、そこが手を組んでプランを立てたってことが、そもそものはじまりなのであった。

まあそりゃー、そんな上手くいく訳はないのは当然でそれぞ映画のだいご味なのだが、あまりにも最初から“そんな上手くいく訳ないよね”というのが破られちゃうもんだから、そしていろんなメンツがくんずほぐれつなもんだから、頭の悪いこっちとしては、えーと、そもそも何がどうなるハズだったんだっけ、誰がどう来るべきだったんだっけ……と悩んでいるうちに展開しまくるという……。ああ、私の頭が悪いのがいけないんだよ!!

まあとにかく、大森南朋演じる悪徳刑事と、身の程知らずの欲を起こしてしまった若手組員の染谷将太がそもそもの発端であり、計算外の一番は、幻覚で錯乱したモニカに遭遇し、通りすがりのレオがうっかりそのこぶしで悪徳刑事をぶった押してしまったこと、二番はベッキーちゃん扮するジュリがことのほか彼氏ラブがゆえ……にしてはキョーレツすぎるほどに強かったことであろう。
それは染谷君扮する加瀬の読みというか判断力というかそもそものこらえ性がなさ過ぎて、「もう今日何人目だよ」というぐらい、その場を何とかするために、“ついうっかり”殺してしまい過ぎという展開の故であり。これがねー、多分それなりに笑わせるスタンスがあったんじゃないかとも思うが、それをぶっ潰してしまったのが、入魂ベッキーであったのだろうと。

そう思うと、彼女の入魂演技は果たして正解だったのだろーかと思ったりもするが、コメディとして見せるにしてもその芝居はマジであることが必須であると思えば、ヤハリ彼女の芝居に彼らが吹っ飛ばされてしまったということなんじゃないかと思っちゃうんである。
彼女のマジを笑っちゃうぐらいに相対するほどの芝居を、相対する男どもは誰も出来なかったということなのかもしれないと思う。窪田君とのダブル主演として、カワイイ美少女として絶対的に存在する筈のモニカを演じる小西桜子嬢がそのワリを一番食っちゃった気がするが、まあ仕方ない。だってキャラの造形自体がヨワイんだもの。彼女のせいではなかろう。

しかして、3000人ものオーディションの中から選ばれたとゆーのはなかなかのプレッシャーだよなあと推測されるが、偶然なのかなんなのか、窪田君とのガチの相手役として連投というのはなんなんだろうね。
一方では(窪田君相手ではないけど)おっぱいも辞さないガッツを見せたが、本作ではウリを強要されてはいるが可憐なワンピース姿を崩さないカワイソウな女の子像。しかしてしかして……双方ともに、なんか女子的リアリティにグッと来ないのは惜しいというかなんというか。作品自体の問題だとは思うのだけれど。

中国マフィアを組み込んでくるあたりも、アジア系、中華系を絡ませるのを好んでいた初期の三池作品的男臭さを感じて懐かしかったが、その中に「あなた(内野聖陽演じるヤクザ)に似ていた」とレオに言わせる武闘派でストイックな女マフィアを登場させたり(タカクラケンが現代に存在しないとわざわざ言わせるあたり……)、ベッキーはいわずもがなだったり。
いかにも三池監督の苦手そうな、初挑戦!!ていうのがアリアリなモニカにしても、ほんっと、なんつーか……男臭さだけでは今の商業映画界では難しいのかもしれないとか思って。三池監督らしさを久々に感じられた部分も多かっただけに、ザ・三池映画を観たかった気もしたりして。

てゆーか、「あれは誤診でした」はナイでしょ!刹那の恋のキュンキュンもぶっ殺すのかよ。ハッピーエンドばかりがいい訳じゃないのは周知のことではないの。ナイわー!! ★★★☆☆


八州遊侠伝 男の盃
1963年 83分 日本 モノクロ
監督:マキノ雅弘 脚本:直居欽哉 山崎大助
撮影:三木滋人 音楽:小杉太一郎
出演:片岡千恵蔵 千葉真一 志村喬 鳳八千代 安中滋 松浦築枝 藤純子 原健策 加藤浩 藤木錦之助 川路充 戸上城太郎 堺駿二 田中春男 国一太郎 水島道太郎 熊谷武 大里健太郎 牧口徹 山波新太郎 和崎俊哉

2020/1/5/日 劇場(神保町シアター)
国定忠治がどーゆー人物かも判らずに本作を観るのはマズいかもしれんと思いつつ……。当時の観客は時代劇を見慣れていたから、こういう侠客物の有名人物の歴々に対して、当たり前に持っている知識だったろうからなぁ。
本作のキモは、処刑されたという噂の国定忠治が生きていた、というところ。ついつい後追いでウィキってしまうと、処刑されたというのはホントだが、その後に遺体が盗まれたというのだから、そういうあたりから本作のアイディアが産まれたのかもしれない。遺体がないということは、死んだという証拠がないということだものね。なるほど。

物語はとある温泉街。いかにも悪辣そうな松五郎一家なるヤクザ集団が、この一帯を食い物にしようとしている。そこへフラリと現れたのは、源次という流れ者。登場では行動を別にしていたと思うんだけれど(うろ覚え(汗))同時期にこの町に着いて祭りでひと稼ぎしようとしている二人組が、この源次=国定忠治のおつきの者、だっということなのだろう。
源次は本当にただ偶然にこの町に訪れたのかなあ。忠治の子分で彼のために命を落とした巳之吉の家族が住む町だと知らずに??……考えにくいが、あの驚いた顔からはそう想像するしかない。

巳之吉の妻と一人息子が暮らす旅籠に草鞋を脱ぎ、この子からやたらなつかれながら穏やかな時を過ごす源次だが、次第に今この町がのっぴきならない事態に陥っていることに気づく。
松五郎一家は町一番の行事であるお祭りを狙って、法外なショバ代を吹っ掛けたり、屋台をめちゃめちゃに壊したりやりたい放題。目明し藤兵衛の息子である佐太郎は、父親が老いていることを心配することもあって、松五郎一家が高値で十手を買い取るという話に乗ってしまう。

松五郎一家がまだ尻尾を出す前の話で、青臭い佐太郎はこの松五郎こそ義侠心に厚い親分だと思い込んでいるんである。ああ、若さである。当然藤兵衛にはこいつらの悪辣さが判っているから、自らの老いを自覚はしていても、十手を手放すなんてことはする訳がない。
しかして多勢に無勢、藤兵衛は殺されてしまう。その前に、まるでその死を予感したかのように、処刑されたはずの忠治が、きっときっと、この町に訪れてきた源次だと、きっとどころか確信して、藤兵衛は彼と盃を交わす。その直後だった……。

劇中でも「今なら40ぐらいの……」と語られるし、実際の忠治も享年が41なのだから合っているのだが、片岡千恵蔵の風貌はどー見ても40には見えないので少々首をかしげてしまう。
当時の大スターだったからの起用だろうし、例えば身なりとかそういうところは年齢を踏襲しているのだろう……それだけにますます違和感は感じざるを得ないが、それもまた時代劇を見慣れていないということなのだろう。たとえば歌舞伎のような様式美の世界と同じだものね。年齢も性別も超越すると言うのは。

しかし、顔の判別もつかないぐらい若い千葉真一が義理の弟として登場されると、うーむ、兄弟というより親子、いやひょっとしたら孫……と心の中でツッコみたくなる。無論、息子である忠治を赤貧のために捨てざるを得なかった目明し藤兵衛も充分老いていて(そりゃそうだ、息子が40なんだから)、千葉ちゃん演じる佐太郎が随分若いな、親子というにはキビしいだろ、と思っていたところに、藤兵衛とさして変わらないように見える忠治、いやこの場合は源次というのはなかなかに……。
だって改めてプロフィル確認してみると、当時片岡氏は60だよ!……いくらなんでも40は無理があるだろ……と思うのは現代から見た気持ちだからだろーか??でもさでもさ、ほらー、やっぱり、実年齢、藤兵衛を演じる志村喬の方が若いやんか(爆)。そらムリだわ。

しかしてつまり、志村喬は年齢相応、いや、プラス10ぐらいの雰囲気の老目明しを、素晴らしい名演でワレラ観客の心をわしづかみにするんである。もう、かくれ主役は志村喬ではないかと言いたくなるぐらいである。今更ナンだが、本当に彼は名優だと実感する。
息子が生まれ落ちた時、奥さんも死んでしまって、赤貧洗うがごとしで、どうしもようもなく寺の前に捨て去った子供が、今目の前にいる、処刑されたという噂の、しかし目明しの元に配られていた人相書きの忠治とソックリで、彼の事情を聞くとピタリ一致して、そのたびに、藤兵衛の黒目がちな瞳が大きく開かれ、ひたひたと涙がたたえられる(しかし決してこぼさない!!)あの、あの……!!しかもお互い、そうと確信しているのに、確認することはないのだ。ただ、ただ、見つめ合うだけ!!

やっべーよ、志村喬!!もー、泣かされた!!それを受ける源次=忠治=片岡千恵蔵は良くも悪くも様式美で、うがって見ちゃえば志村喬のエモーショナルあふれる芝居をウッカリ邪魔しないように受けているという印象さえあるほど。
……志村喬には出会うたびに打たれてる気がする。一体あとどれぐらい、私の見ていない志村喬がいるんだろう!!

佐太郎を演じる千葉ちゃんの若さには、先述したが本当に驚く。千葉真一が二番目のクレジットだったから、ワクワクしながらスクリーンに対峙したが、……この出番でこの役どころなら彼なんだろうけれど……と中盤に至るまで自信が持てないほどに……。だってアクションでカンロクな千葉ちゃんしか私、知らなかったんだもん!!
当時24歳かあー。いやー……なるほど 真剣佑君が産まれる訳だと妙に納得(爆)。もー、若い若い、ピッチピチ。黒目がちのおめめが世間知らず感を際立たせる。老いたおとっつぁんを心配する気持ちが判るだけに、彼の世間知らずの判断がいとおしくてたまらない。

そんな彼の相手役となる、おきゃんな町娘が、なんとなんと(新人)付、つまりこれがデビューの藤純子である。デビュー!!藤純子のデビュー作品に出会えるなんて、なんたる幸せ!!
しかしてもうこの時から“藤純子”は正確に出来上がってるんである。そらまぁ若いしピチピチだし、意気地のない幼なじみの男の子を叱咤するっつーおきゃんな女の子の役柄は、古今東西もうお約束もお約束のところなのだが、千葉ちゃんが顔の判別もつかないぐらいの若さと青臭さだったのに対して、もう出来上がってるんだもん。

凄いわ藤純子。さすがだわ。その独特のエロキューションもしっかり確立されてるしさ。いや、これは別に作ってやってることではないだろうけれど、でも感動してしまう。
後の緋牡丹のお竜さんではそのエロキューションが色っぽく、貫禄あるものとして聞こえるのに、でももうその通りなんだもの。感動するさー。

侠客物、チャンバラ物、敵討ち物としての要素をキッチリと見せながら、市井の人たち……特に、源次が連れてきた堺駿二らの露天芸人、ここがどこなのかよく判らないけど(爆)、よそから流れてきた芸人たちがつるつると喋る関西なまりが楽しい。
片岡千恵蔵と志村喬の重厚シリアス組、千葉ちゃんと藤純子のピチピチ若手組を、彼ら手練れ喜劇組がしっかりと支えてる。こういうのがホント、当時はしっかりと構築できるだけの、役者の役割の層の厚さがあった。現代も素晴らしい役者さんが沢山いるけれども、そのあたりがあいまいになっている感は否めないと思う。ちょっと、うらやましい。

最後のクライマックスは、殺された藤兵衛の仇を打つべく、まず忠治が大立ち回り、そして義理の弟に無念を晴らさせるべく、佐太郎に松五郎を討たせる。
先述の疑念があるもんだから、片岡氏の立ち回りが型どおりで彼が全然位置から動いてない気がするなぁとか思うが(爆)、まぁ、義理の兄弟のこれ以上ない契りの場面であるし、千葉ちゃんのつるピチ美青年が、こんなのなかなか見れないからねえ、良かった。

上半身ハダカになって祭りの大太鼓を叩く千葉ちゃんが、ひょっとしたら当時の観客に対するサービスシーンだったのかもとか思うが(照)、でも、後のJAC創立者だということを思えば、逆に萌えちゃうほどの筋肉のない色白ヤワなお身体だったりして(爆)。★★★☆☆


花笠若衆
1958年 88分 日本 カラー
監督:佐伯清 脚本:中田竜雄
撮影:三木滋人 音楽:米山正夫
出演: 美空ひばり 大河内傳次郎 星十郎 沢田清 飯島与志夫 明石潮 香川良介 柳永二郎 沢村宗之助 吉田義夫 須藤健 藤木錦之助 桜町弘子 三條美紀 高島淳子 中村時之介 長谷部健 堺駿二 清川荘司 月形哲之介 小金井修 永島朗 河村満和 北村曙美 吉野登洋子 常盤光世 大川橋蔵

2020/5/6/水 録画(東映チャンネル)
先日観た美空ひばり映画 が哀しすぎてあまりに辛かったので、本作の楽しい楽しいひばりミュージカルに待ってました!!と心躍りまくり。そして彼女が若衆(=男)姿になるとゆーのも、心躍りまくりなのだ。
ひばり様の、女性としてはハスキーな声(歌声になるととんでもないオクターブの持ち主なのだが)がハマる若衆姿が凛々しく瑞々しく、時を隔てたオバサマの心も高鳴らせちゃうんである。そしてその麗しい若衆姿で、まさにひばりさまの高らかな美声をこれでもかと聞かせるんだから!!

しかも、二役である。前回のひばり映画は確かに哀しく辛かったが、お姫様のひばり様もまた愛らしく美しいことは知っているんである。本作ではそれを同時に堪能できるってんだからなんと贅沢な。
そしてその中間??もある。若衆姿の吉三が本来の性のカッコに戻ると、これが小粋な姐さん姿となり、これまたあだっぽくてたまらない。いやあ、なんと引き出しの豊富な人だろうか。さすがとしか言いようがない。

物語は、まず若衆姿のひばり様の、ホレボレする立ち回りから始まる。舞台は吉原。華やかな花魁道中に見物人が鈴なりになっている。ハバをきかせて酒を飲んでいる町の嫌われ者、白鞘組が若く美しい町娘にナンクセをつけて拉致しようとしたところに割って入ったのが江戸屋の若旦那、吉三である。
バッタバッタとなぎ倒し、そこにふっと助太刀に入ったのがキーマンとゆーか、王子様的役どころの又之丞なる美丈夫。気品と気さくさがあいまった大川橋蔵によだれが垂れそうである。

同じ時、江戸屋に物々しい面会が来ている。雪姫がここにいるはずだと、慇懃ながらもどこか殺伐とした雰囲気の侍たちである。江戸屋の主人は、確かに18年前こちらでお引き受けしたが、ほどなくしてはやり病で亡くなったと告げる。疑いタップリの侍たちだが、ガンとしてはねつける。
むしろ彼らが欲しているのは雪姫ではなく、雪姫を引き受けたという書付だということが知れてくると、どうもキナくささがふんぷんたる、である。お家騒動、いや、金に目がくらんだ一部の不忠者の暴走が、悲しすぎる展開を生み出すんである。

ちなみに、この雪姫ってのが、若衆の姿に身をやつした吉三であり、吉三は、自分が扇山藩のお姫様だという出生の秘密を知らない。それというのもなぜこんな町家に託されたかと言えば、双子の姉妹として生まれ、当時の風習で畜生腹と忌み嫌われ、妹として生まれた雪姫は隠匿の憂き目にあったのであった。
ただこれが、“後から産まれたのが妹としたが、実は後から産まれたのは姉”だという、時代による解釈を、この不埒な計画を立てた不忠者どもはまことしやかにささやくのだが、なんかこーゆー解釈の違いを持ち出すのが妙に現代的で面白い。で今は、どっちの解釈なんだろう……。

江戸屋の主人はとにかく吉三可愛さに、ついに来たかとは絶対思った筈だがしらばくれて突っぱねたものの、そもそも相手の思惑は、純粋に姫様を迎えに来たわけじゃなくて、剣呑な陰謀があった訳だから、悲惨な結果になってしまう。
この不忠者たちは一度国に帰って、もうご老体ですっかり気の弱くなってしまったお殿様を丸め込んで、雪姫様こそが婿をもらっての跡継ぎだと説き伏せてしまう。
で、この場合、それまでは当然のごとく婿をもらう準備をしていた妹、千代姫がいるのだが、彼女はそれまで恵まれてきた自分と比してまだ見ぬ姉に申し訳なく思い、あっさりと跡継ぎの座を譲るんだから、不忠者どもはほくそ笑むばかりなんである。

千代姫は、自分は姉と比べて幸福だというけれども、「広いお城の中でかしずかれて楽しい日々」という台詞にえらく矛盾を感じるのは、時代を経た観客だけではあるまい。
「母の乳房も離れぬうちに見知らぬ人の手に渡り……」とお姉ちゃんを思いやるけれども、血がつながってないとはいえ親子以上に親子の情愛で結ばれた江戸屋の主人、その荒っぽい気性に合った江戸での若親分としての生活は、多分妹ちゃんよりお姉ちゃんのほうがぜったいめっちゃ楽しい日々よ、と思っちゃう。

そーゆー皮肉を利かせている訳ではないのだけれど、ただ、お父ちゃんが彼女を男として育てたのは、その身分を隠すためというのはカンタンだけど、それをあっさりすんなり吉三が受け入れていたのはちょっと考えちゃうけどね。考えちゃいけないのかな、こーゆー、男女二役を堪能できるというそれだけの理由だと思うべきなのかな。
でもさでもさ、自分自身を男と思い込んでいるとかいうんじゃないじゃない。白鞘組に騙されて呼び出されて、女だろうと言われてハッと胸元をかき寄せるし、なにより又之丞様に心惹かれるのは隠せないしさ。でもでも……ああまるでオスカルみたいって感じ??確かに女子はこーゆーの、大好きだけど!!

江戸屋主人が、惨殺されてしまう。書付さえ手に入れれば何とでもなると踏んだ鬼の所業である。しかも、白鞘組を巧みに使って、吉三と又之丞をおびき出しての卑怯なやり方。
「18年捨てとくなんて親のところに帰りたくない。おいら、お姫様なんぞになりたかねえ。俺は江戸屋の吉三だ。おとっさんの息子だよ」と親子の絆を確認したものの、やはり主人にとっては、愛する子供の幸せを奪ってしまったんではないかと思い続けていたんだろうと思う。

しかもさ、その直前、得意先の結婚式でついつい御酒が過ぎた主人は熱を出してしまって、吉三に介抱されているのよ。おかゆなんて作ってさ、主人はしみじみしちゃうのだ。男として育ててしまったから……。
「江戸屋の若親分とかなんとか言われたおいらが、おかゆのたきかた褒められちゃ世話ねえや」と照れる吉三に、「ケンカを覚えるよりこんなことを覚えてくれた方が嬉しい」と返す主人。好きな男はいないのかと問うと吉三は、「おとっぁんだよ」と言い、彼の相好を崩させるあたり、なかなかの娘っぷりであるが、でも吉三にとっては……本当に、本心だったのだろう。

吉三の身を守るために男として育ててきたけど、彼の中ではずっと、可愛い可愛い娘だったのかもしれない、と思うと、こーゆー価値観にフェミニズム野郎勃発しそうになる私ですらしみじみと泣きそうになる。その直後の惨劇だったから……。
花火大会の日だった。華やかな花火とのカットバックで、お父ちゃんとの最後とは思ってなかった時間も、立ち回りも、帰ってくるまでの意気揚々とした時間も、まるで夢のようだった。
書付を奪われ、斬りつけられ、それでもなんとかかんとか、吉三たちが帰ってくるまで虫の息で待っていた。「もうおめえとは、将棋を指せねえなあ……」(号泣!!)懺悔し、こと切れる父親をかき抱いて、涙にくれる吉三は復讐を誓う。そのために扇山藩に向かうのだと。

書付を奪ったから、もはや本体の雪姫には用がない訳さ。ニセモノを立てればいいんだから。しかしこんなムチャなやり方したら、そらー追ってくるに違いない訳で。てゆーか、それを見越してこんなムチャしたんなら、おーおーおー、吉三さま、そして又之丞さまを随分と見くびってくれましたなと!!
確かに扇山藩の良心である側の助っ人を拉致されておびき出されて、危ない場面もありましたが、落石を浴びせただけで死体の確認もせずに、やったった、と満足そうに去っていくというアホさ加減。これは突っ込んでいいのだろーか!!

吉三はそらー、危機になるとことごとく現れる美丈夫、又之丞にホレちゃう……けど、それを明確に口にはしない。
敵討ちのために扇山藩に向かう道中、それまでの若衆姿からあっさり姐さんスタイルに躊躇なく変身、子分の金八に「女のカッコになったらとたんにナヨナヨッと。器用なもんだ」と言われるぐらいのあっさり大変身。しかもその旅中、又之丞(だけじゃなく金八も一緒なのに)と一緒の部屋で泊まることにコーフンして眠れなくて、彼と結婚するという妄想夢を見る。

しかもそれだけじゃ終わらない。新婚旅行の道中、という結構長めのシークエンスで、あれ、あれれ、これ妄想だよね、紗がかかったりかからなかったりだけど、現実じゃないよね??と観客側が心配になるとゆーあたり(爆)。そうなの……案外乙女なんだもん。バカバカバカ!!とか言うしさー。
案外、なんて失礼よね。男として育ってきた吉三、いや雪姫にとっては初めての経験なんだもの。でも、又之丞は千代姫のいいなずけ。それは判ってる。自分の目的は父親の敵を討つこと。勿論それは揺るがないし、素晴らしきクライマックスできちんと達成するし。

あのね……なんか哀しき哀しきなのよ。ニセの雪姫が仕立てられる。不忠者の父親の言いなりになる早苗という本当に普通の娘。言うとおりにすればいいんだと言われながら、これが良くないことに加担していることを濃厚に感じながら城に向かう。
しかして、本物の雪姫を連れて又之丞が現れる。書付を盾に、明らかにソックリな雪姫を前にしても言い募る自分の父を含む不忠者どもに、純真な早苗は耐えられなくなりすべてをぶちまけたら……ああ、なんということ、それをしたのが父ではなかったことが救いだったか。
でもヤハリ鬼畜は最初から最後まで鬼畜、この陰謀をここまで運んできた狸侍が、何の罪もない、むしろ、神のご加護を与えてやりたい娘の胸に小柄を投げて貫いたのだ!!なんてことを、なんてことを!!

……私冒頭、これは明るく楽しいひばりミュージカルとか言っちゃったかな、どうやらやっぱりこれもツラすぎる展開!!そして早苗についていた女も自害、早苗の父も自害、もーどーすりゃいいの……。
なのにおいぼれ狸侍だけはみっともなく逃げ惑うもんだから、もーここは成敗するしかないでしょう!!雪姫の姿から凛々しき若衆の姿に一瞬で変わったことに一同が目をむくのも胸がすく!!

まぶたの姉妹の再会なのに。ひばりさん二役だからそこは当時だしカットバックしかないんでなかなか難しいところはあるんだけれど、ただ、又之丞がしっかり千代姫を愛していて、だからこそ男姿なれどソックリの吉三を気にかけてここまで来たというのもあって。
吉三は……吉三というべきなのかな、とにかくここで、女として失恋しちゃう訳。でも妹だし、自分の信頼する男のいいなずけだし、なんかもう、キャー!!よ!!老いた父親が娘としての自分に問いかけるのにも、必死に耐え忍び、だってここに来たのは、実の父より本物の父親だった、江戸屋主人の敵討ちに来たんだからさ……。

でもね、いいのいいの。ラストはすっくり胸がすく。あの時、江戸の秋祭りにぜひ来て送んなせえ、と言った吉三、約束という訳じゃなかった。でも吉三が凛々しく神輿の上で太鼓をたたいている様を、特等席で見守っている妹、又之丞、父。
思わず吉三は背をむけて目をぬぐうけれど、泣いてるもんかい!!とまた威勢よくバチをふるう。時代劇全盛ということもあったろうが、これほどまでに男女を完璧に、巧みに演じ分け、実は女、みたいな性的アイデンティティまでも見事で、そんなスターは美空ひばり意外に思い当たらないんだよなあ!!★★★★☆


花と沼(キモハラ課長 ムラムラおっぴろげ)
2020年 分 日本 カラー
監督:城定秀夫 脚本:城定秀夫
撮影:田宮健彦 音楽:林魏堂
出演:七海なな 麻木貴仁 きみと歩実 しじみ 山本宗介 久保獅子 守屋文雄 森羅万象

2020/10/17/土 劇場(テアトル新宿)
“原点回帰でピンク映画界へ戻ってきた!”てことは、最近はピンク撮ってなかったのね。いつ休んでるのかと思うぐらい膨大な様々なジャンルや媒体で撮りまくってるからヒマがないのかなあ。
そしてその久々だというピンク作品は……まさに快作!そして今回の特集の一本目の芝居のヒドさにヘタっていたので、この安定感!!やっぱりどんな映画でもまず芝居のできる役者さんじゃないと成立しないよなあ……。

フェティシズムにふけるヒロインというのは、昔外国映画でなんか観たことがある記憶があるが、ピンクにおいてフェティシズムを扱えばもーそりゃ、限界ナシになるに決まってる。フェティシズム自体がエロを内包しているけれど、内包どころか、直結である。

窓際族が追いやられる企画第三課、メガネっ子の地味系OL、一花(イチカ)がひそかに熱い視線を送っているのは、課のみんなからキモいとウザがられている沼田課長である。
そのキモさは外見、昭和な言い回し、肩を叩く程度の軽いスキンシップ(彼でなければ特段問題にもならない程度のものだというのが切ない)もセクハラになり、課の全員が沼田課長を嫌う、というよりも、バカにしている。セクハラ、キモハラと言いつつ、軽んじられていることに気づいていないと、バカにしているんである。

そのことに後から思い当たると、彼らこそが思い違いをしていることに気づくんである。だって沼田課長は判ってる。自覚してる。キモいと言われていることも、軽んじられていることも。
だからこそそれを自嘲気味に爆発させてユーチューバーになってるんだから。いやあれは、ニコ動か。コメントがリアルタイムで流れているから。

一花はもちろんそのチャンネルもチェックしている。それもちゃんと生放送の時間に正座して、心を込めたコメントを打ち込む。
他の視聴者がキモいウザいヤメろと言い続けるのに一花だけは、頑張ってください!面白い!!と打ち込んで、他の視聴者に、それがウザがられているんである。

面白い図式である。一花だって沼田課長のことがキモいからこそフェティシズム心にグッと来ているのに、それを罵倒することでよりのめり込むという倒錯ではない。
つまりホントにそのキモさこそを愛し、うずき、欲情を掻き立てられて、ご自愛もするし、時にはうずきまくって言い寄ってきた男と目をつぶって黙らせてエッチだってしちゃうのだ。

ゆがんでる。そーとーゆがんでる。彼女はでもそれが、恋心だと気づいてない、というか、認めたがらないってところがまたグッとくるポイントなんである。
言い寄ってきた男はそれなりのイケメンで一花の同僚がネラってるぐらいだし、その同僚の証言によれば、地味系メガネっ子とはいえその可愛さは隠しがたく、それまでも言い寄られまくっているのにちっとも成立しない。
「あの子、男に興味ないんじゃない?」と同僚は断定するが、キモい男、いやキモい沼田課長にしか一花は興味がないんである。それこそが恋心だということを、自覚せよ、一花!

ただ、難しいかな、一花のキモ好きは沼田課長にとどまらないのだ。ガマガエルを飼育し愛で、飲み会ではゲテモノメニューを頼みご満悦、「目黒と言ったら寄生虫博物館に決まってるじゃないですか!」と、一瞬カルチャーに意識高め女子と思わせておいて、うっとりと寄生虫のキモ素晴らしさを語る。
大抵はそれで退散というところなのだが、イケメン青山はそのヘンぶりにこそ興味を持つ。でもねえ、ちょっとヘンな子で面白い、ってなぐらいで興味を持ってちゃ、ダメなのよ。つまりそれって、俺クラスならこういう子を判ってあげられる、っていうようなカン違いプライドが見え隠れするんだもの。

沼田課長のキモさにラブしまくりの一花は、イメクラに入っていった課長の動向が気になって、彼の万年筆を盗み、無線機を購入、万年筆の中に盗聴部品を仕込んで、イメクラ嬢との一部始終を盗聴する。
ここ、これは……。実に本格的にジージー火花を散らして改造している描写にまずあぜんとする。
そのイメクラ嬢とのじっつに情けないやりとり、オケツに指を入れてくれないなら、この万年筆を入れてくれ!!って言っちゃう!うっわ!ともうそれだけで噴き出しちゃうが、このキモオヤジにウンザリなイメクラ嬢が、こともあろうにキャップの方から突っ込み、「痛いのがイイのかと思ったから」ってのが本気かどうかアヤしいところだが、「釣り針の返しみたいに引っかかって抜けない!!」ギャー!!(大爆笑!!)。

しかもこのイメクラ嬢、時間が来ると冷たく豹変、それまでの設定(社内でセクハラする上司とされるOL。……なんて不憫な……)の役柄を続けようとする沼田をガンとして拒否し、そのまま帰れ!と突き放す。
時間外手当を出してなんとか万年筆を抜いてもらう、その激痛に絶叫する沼田課長に爆笑しつつなんかもう……哀しくなっちゃうが、一花はというと、アナルに万年筆入れられた、まさにチョクの音声ですっかりご自愛達しちゃうのだ。そしてもう気分最高潮の時に、イケメン青山に呼び出され、ヤッちゃうんである。

お尻の激痛に耐えながらも生放送チャンネルを律儀にこなす沼田課長(笑)。しかしさすがに彼は荒れていて、会社への愚痴やらなんやら、しまいにはラップで熱唱しだす。
沼田課長を想って他の男とエッチしてきちゃった一花も荒れている。いつもの気持ちでこの動画を見られない。
そしてこともあろうに、この動画が社内に流出、幹部に呼び出され沼田課長はクビになってしまう。……てゆーか、思いっきり顔出しでやってりゃいつかはバレただろうが、自分の欲望や幹部の愛人問題とか暴露しちゃって、そりゃもうダメである。一花は呆然と、愛する沼田課長が会社を去るのを見送るのだが……。

結構早い段階で、この二人が両想いであることはお互いにもうすうす感づいているのに……。一花は退社していく課長を追いかけて、涙ながらに、課長はキモいんです!キモいんです!!そのままの課長でいてください!!ともう愛の告白としては超訳判らんことを、でもこれ以上ない熱量でブチまけて、走り去っていってしまう。
課長が、実は一花ちゃんのことが好きだったんだと告白しかけたのを封じたのは、無意識だったのか、それとも……。

とにかくね、一花は課長のキモさに目が離せないとか、うずいちゃってご自愛しちゃうとか、それは自分がキモいものに偏愛をもつ、つまり自分がヘンな女の子だと、普通じゃないんだと、そっちに分類したがっているという感じなんだよね。
それはなんだろ、人間関係が苦手で、自分の偏愛を言い訳にして閉じこもっているようにも感じるし、フェティシズムが恋愛につながるなんて、人間性としてどうなのかという葛藤のゆえに封じているようにも感じるし、まあとにかく、素直に向き合えてないだけなのよ。

一方の沼田課長は、まあ確かに外見も内面もキモいし(爆)、イメクラ嬢への過剰なリクエスト場面なんてマジ引くし(爆爆)、でも後にそのイメクラ嬢が言うように、「割とイイ奴。キモいけど」っていうところなんだよね。
言ってしまえば真性ヘンな子の一花と対照的に、沼田課長のそのキモさは相手に与えている部分だけで、至極まっとうな人間であり……。だから究極的に考えつめれば、はたして沼田課長はこのこんがらがっている女の子を扱い切れるのか、単純に付き合うってことに一花が拒否したのは、なんかその点で判る気がして。

でもその前に、もう、もう、熱量たっぷりのセックス、しちゃいます!!沼田課長と会えなくなってすっかり意気消沈した一花は、沼田課長が交通整理のバイト中、年若い先輩バイトから叱責されているところに遭遇。お互い目が合い……一花は踵を返して駈けだしてしまう。
もうそれはさ、それはさ、追いかけてくれと言っているようなもんよ!とは思ったが、もちろん課長は追っかけたが、その追っかけっこがこんなに長く続くとは思わなかった。

あのイケメン青山に「好きじゃなくてもエッチできるから大丈夫」とか本音を言っちゃって別れた後だった。もう深夜で、電車もない。彼らの追っかけっこは実に、日が昇るまで続くのだ!
その途中に、あのイメクラ嬢とチンピラ恋人との邂逅がある。イメクラ嬢にホレ切っていると思しきだっさいチンピラ男が、沼田課長をボッコボコにする。本当にもう、死ぬかってぐらいで、最初いきなりドロップキックをかましてきた時には思わず噴き出したが、その後はマジでシャレになんないボッコボコである。

イメクラ嬢がチンピラ男を引き離し、そして一花に目をやる。「ひょっとして、イチカちゃん?」いつも自分をイチカと呼んでプレイしていたと、「本物のイチカちゃんに会えた!」と彼女は、沼田課長の恋心を客観的に証明してくれるんである。
そう……このシークエンスは一見して笑いどころのようにも思えるんだけれど、実はめっちゃ重要な部分だったと思う。そしてここからも、沼田課長は一花のあとを追い続けるんである。

一花はアパートの鍵をかけなかった。沼田課長は戸惑いつつ、中に入った。ヤラせてくれ!!ようやく正直に言えた沼田課長と一花はカラみあった。ああ、こういうセックスよ。特に女の子の方の、好きな相手としたくてしたくてたまらなかった気持ちが爆発している、いくら欲しても足りない、ぶつかりとその表情に心打たれるのだ。
がっつきすぎの課長があらゆるものを蹴飛ばし、あ、サボテンの鉢を蹴飛ばした……と思ったら、めっちゃ盛り上がってさあ入れるぞ!!という段に至ってひっくり返り、いたたた!!とケツにサボテンぶっさしちゃうのには大爆笑!!はあっ!と驚いた彼女の表情も最高!!

それでも二人の求めあう気持は止まらないの。これは……最高のエッチだったなあ。だってさ、一花はずっとずっと、あのイケメン顔を沼田課長にすげかえてまで自分の渇きをいやしていたんだもの。
果ては慈しんでいるガマガエルが逃げ出して探しに言ったら、沼田課長への気持ちに素直になれないことについて説教される。ガマガエルが沼に飛び込み、その沼から課長が生まれ変わったかのようにぬうと現れる夢まで見る。
こら重症よ。性愛という言葉があるではないか。まあこんなフェチ愛をそれに言い換えたものは聞いたことはないものの……。

「満足しましたから」と一花が翌朝、パンいちの課長をドアの外に追い出しちゃう気持ちも、それまでの一花の精神経過を考えれば、判らなくはないのだ。でもここまで来たらいい加減素直になれよ……とも思ったところで、どう決着するのかな、と思った。
一花に突き飛ばされて、落ちて来た小麦粉かぶって(笑)、パンいちの実に情けない姿でおんだされた沼田課長は、でも諦めなかった。

彼には、万年筆があった。一花が盗聴器を仕込んだ万年筆。彼女に合図を送り、万年筆に向かって歌を歌い始める。朝の住宅街の路上で、パンいちで、小麦粉の粉だらけで、万年筆に向かって、愛の歌を歌い出す。
それを無線機のイヤホンで聞きながら、……キモいとつぶやく一花でカットアウト。
なんという、愛のあふれるラストだろう。単純にエッチしてイイ感じで、じゃあこの後付き合おうっていうラストになりそうだったのを(まさに沼田課長は単純にそうだろと思ってたから(爆))、素晴らしいリリカルなハッピーエンドにしてくれた。★★★★★


パラサイト 半地下の家族/GISAENGCHUNG
2019年 132分 韓国 カラー
監督:ポン・ジュノ 脚本:ポン・ジュノ/ハン・ジヌォン
撮影:ホン・ギョンピョ 音楽:チョン・ジェイル
出演:チャン・ヘジン/チョ・ヨジョン/イ・ジョンウン/イ・ソンギュン/パク・ソダム/ソン・ガンホ/ チェ・ウシク

2020/1/22/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
凄いなあ凄いなあ!アカデミー賞に外国語映画賞どころか本式にノミネートだって!(というのは書いている時点。ホントにオスカー獲っちゃった!!)別にアメリカの映画界に認められることが凄いなんていう旧式のことを言うつもりはないけど、ヤハリアメリカは自国文化に絶対の自信を持っている、ある意味排他的な意識のイメージがあるから、勿論今や世界はずんと狭くなり、それこそアメリカだってそんな旧式の考え方をする人たちも減っているのだろうが、やはりそれにしても!である。
だってフツーに考えて、日本のアカデミー賞だって、どんなに大ヒットした外国映画だって、そこは分けるじゃん。大抵の国がそうじゃん。だからこそそれとは別の国際映画祭というものがある訳だし……本作が世界中に与えた衝撃が、この一端を見たって十二分に判るというもんで。

一時期、キム・ギドクを発端にして韓国映画の恐るべき才能の数々に耽溺していた時期があった。ポン・ジュノもかなり観た記憶があるのだけれど、サブカルチャーとして熱狂的に迎えられた時期が落ち着き、ごく普通に受け入れられるようになると、あまのじゃくなもんでなんとなく観なくなってしまった。
決して避けていた訳ではないのだけれど……日本映画の新作を追いかけるだけでも大変だからさ……という言い訳をしてみたりして。でもこうして改めて、それまでも十二分に世界に認められていたポン・ジュノが、いわば本当に公式に、大ブレイクというか大爆発する瞬間を目撃すると、身震いする想いがする。

それは長らく韓国の名優として駆け抜けてきたソン・ガンホ氏にしたって、そうである。久々に彼を見て……韓国ナショナリズムを体現するような風貌が、そのまごうことなき芝居力とあいまって、本作に圧倒的な迫力を与えていることに感嘆するのだ。
例えば彼は、日本が名優として世界に押し出す渡辺謙や役所広司のような整った顔を持っていない。一目見て韓国人だと判る顔立ちはしかも大きくせり出していて、コミカルな印象を与えるあたりは、ふと渥美清を連想させたりする。
そうだ……寅さんが少し行き過ぎた形での日本ナショナリズム俳優だったのと、何か通じる気がするし、そのインパクトこそが本作に重要な意味を与えているのだ。

というのも、彼を父親にたてた一家は、妻、娘、息子ともども、一目見て韓国人だと判る風貌というか、お顔立ちなんである。これは絶対に、意識的だと思う。だってハッとするほどの美男美女が揃う韓国芸能界の中から、彼らをチョイスするのは、意図的としか思えない。
妻はでっぷりと太っていかにも夫を尻に敷いているおっかさん、娘と息子はともに一重まぶたで色白、平面的な顔立ちは、アジア的な中でも実に韓国人的、なんである。

それは、後に登場する、彼らがパラサイト(寄生)する富豪一家が、総じて美男美女、それこそ私たちが連想する華やかな韓国芸能界に跋扈する美男美女であることをみれば明らかである。
富豪夫は小泉進次郎のようなシブさわやかなイケメン、妻は和久井映見ソックリの美女、娘は秋元さんのナントカ坂あたりにいそうなアイドル顔、息子は……幼いからそれほど顔立ちははっきりとはしないが、彼こそがこの家の秘密を我知らずつかんでいるキーマン。

こんな大富豪に寄生する貧民一家は、半地下暮らしである。大家からパスワードを変えられて、スマホかざして無料Wi−Fiを探し回る印象的な場面からスタートする。ピザ箱を組み立てるというショボい内職でなんとか食いつないでいる。
とぎれとぎれに入ってくる情報では、父はなんか仕事の上手くいかない人で、転職を繰り返した末の今の失業状態、息子は兵役前と後で計4回大学受験に失敗、娘も美大受験に失敗、共に金がないから予備校へも行けず、先行きも判らずに、このこ汚い半地下で肩身寄せ合って暮らしている。

地上を見上げるように窓からのぞく世界は、まるでネズミかモグラのようである。時に酔っぱらいが立ちションベンしているのに憤然とケンカを吹っ掛けに行ったりする。
なにかこう……薄暗い。日が差さないのは当たり前だが、トイレが高い位置にあるのは、そうか!水圧が低いからなのか!!うわー!!

もうネタバレで言っちゃうとさ、邦題につけられちゃってるんだもん、半地下の家族、っていうのが、つまりキーワードになってるってのがさ。勿論、クライマックスで大雨、洪水の大迫力のシーン、この半地下にごうごうと水が流れ込み、下層地域にあるこの貧民街そのものが沈んでしまうという、そう、高台の富豪との明確な差というものを画できっちり示すというのは当然あるのだが。
でも、半地下、というからには地下がある。なんかタイトルで半分ネタバレさせちゃってるっていうか、この面白さについつい配給会社さんが匂わせちゃったというか、そういう感じがしてさ!!

息子がエリート大学生の友人から頼まれて、彼の留学期間の間、ピンチヒッターで頼まれるのが高台の富豪一家の娘の家庭教師で、そこを糸口に、息子の美術教師、運転手、家政婦、と言葉巧みに入り込み、時には前任者をクビに陥れて、他人同士の顔をして一家はまんまとこの富豪一家に入り込む。
その手口というか、数々のエピソードはあまりに鮮やかで面白く、いちいち挙げていたら力尽きてしまいそうなのではぶくが(……怠惰)、なんでこんなに騙されやすいんだろう、金持ちは神経質だと思っていたが、金持ちこそが気持ちに余裕があるから騙されちゃうんだ、みたいなことを言ったのは父親だったか息子だったか。

彼ら一家は富豪を騙してこの家に入り込んでいるのに、ご主人様となったこの家族を軽蔑するどころかむしろ尊敬していて、だから本当は、“あんな結末”は望んでいなかったのだ。
ただ同じようにパラサイトし、同じように尊敬している半地下どころか地下にいる存在に気づけなかったことが、彼らを地獄に突き落とす。これは本当に本当に……驚いてしまった。

家政婦、である。桃のアレルギーを利用して結核だと吹き込み、体よく追い払った、この屋敷にその前に住んでいた時から継続して勤めている、いわばヌシ。
その後、豪雨の夜、彼女は訪ねてきた。おりしも富豪一家がキャンプに出掛けて留守で、パラサイト一家はこれ幸いとばかりに豪華なリビングで酒盛り。正直、ここまでの展開でも充分面白く、このまま収束を迎えるのかもと思っていた。まさかクライマックスがここから始まるなんて思いもしなかった。
前任家政婦さんが「忘れ物がある」と降りて行ったのは、半地下どころか地下も地下、隠し地下!そしてそこに……突然彼女が追いだされたから、餓死寸前になっている夫がいた!!うわーっ!!!

……サブタイトルにわざわざ半地下、とつけたかった理由が急に判って、ぶわーっ!と鳥肌が立つ。半地下であるこの家族も充分に自分たちの貧しさを自覚して、時に開き直って、ここまで来た。どん底だと思っていた、かもしれない。
しかしまさに、物理的に、その下があったのだ。底があったのだ。まるで監獄、幽閉、半地下のように外界との接触地点もない。世間が見えない。なのに彼……妻にこっそりかくまわれていた、幽霊のように生きてきた夫は満足そうで、妻も、このままの生活を続けさせたいと言って、彼らに懇願してきた。
いわば弱みを握った同士。相哀れむという感じになるのかという雰囲気もあった。でも……とにかくこの異常事態に双方ともにテンパっていたし、豪雨だし雷だし、しかもキャンプに行った筈の一家が息子のワガママで帰ってきちゃうし!!

最終的な猟奇的悲劇はさらにその後に待っているのだが、そんなことが待っていることの予測も出来なかったから、この時点の緊迫と猟奇的でもう、震え上がってしまう。
とにかくこの家政婦夫婦を地下で縛り上げてしまう。てゆーか、もう突き落としたり殴ったりで、死んでんじゃねーかとブルブル震えっぱなしである。

結局ね、やっぱりこの富豪一家は……哀しいほどに幸福で、つまり天然というか、疑問に持たないの、信じちゃうの、むしろ感謝しちゃってるの……。
IT企業の社長さんである夫なんか、厳しい世界で生きている筈なのに、そういう点どこか、お坊ちゃま的なのかなあ。家事のできない妻をしかし愛しく思い(てゆー価値観はやはりまだまだアジアな封建的かなあ)、妻は妻で、こんな美人なのにドンカンで涙もろくて。娘は新しい家庭教師であるパラサイト息子になぜかホレちゃうし(前任家庭教師の方が明らかにイケメンなのに)。

幼き息子は何より……ただ一人、“地下の幽霊”を目撃してしまっていた人物。彼がそのことを、信頼しかかっていた美術の先生(=パラサイト娘)に相談できていたら、事態は違っていたのかもしれない。

白昼の、惨劇である。やっぱりさ、地下でずっと暮らしていた家政婦夫は、抑圧がキッカケをもらって狂気に変わったのかもしれない。いかにもセレブリティなガーデンパーティーで勃発する惨劇は、クラシカルなホラー映画を見るような思いがする。
絶対に死んだろと思った、何回も頭を殴打されて超流血していた息子がなぜか助かり、心臓を突かれた娘が死んでしまう。
父親が……この事態にパーン!と突き抜けてしまう。尊敬していたご主人様を刺し殺してしまう。もうグッチャグチャの状態だったから、彼が何をもってそうしてしまったんだか、もしかしたら後から考えても、彼自身判らなかったのかもしれない。

だから後に彼は後悔する。ただその時、彼は世間から姿を消している。忽然と。この惨劇がワイドショー的に世間をにぎわし、しかし情状酌量的印象を与えたのか、執行猶予がついて、息子と母親はまた半地下で静かに暮らし始めた。父親の行方は杳として知れないまま。
しかしある日、惨劇があった豪邸を山の上から眺めていた息子は、当時地下の男がオート点灯を利用してひそかに発信していたモールス信号を認めるんである。……想像できたけどね。だって彼が身をひそめるのはあの地下しかないんだもの。

ラストはね、希望的妄想というか、訪れるかどうかも判らない未来を息子が思い描いているから、なんとも言えず、切ないの。父親のモールスメッセージを受け取った彼は、夢想する。いい仕事について、金儲けして、あの家を買い取って、地下からお父さんが出てきて、そして、……お姉ちゃんは死んじゃったけど、一家水入らずで幸せに暮らすのだと。
彼はそれを手紙に書いたけど、どうやって父親に届けるつもりなのだろう。届けられたのだろうか。地上にモールス信号は届くけど、地下には届かない。その幸福すぎる妄想を信じる余裕を、私たちはとても持っていない。

今の日本では想像力がないせいかあまりピンと来ないけど、恐らく韓国や世界中で、貧富の差、あがいても上に行けない苦しさを想像以上に共感できるというのも大ヒットの要因なのだろうという気がする。
日本は、気づく努力を怠っているだけで、こういう事実は絶対に、あるのだ。日本映画の作品力に切実さがなかなか加わらないのは、そういう鈍感さにあるのだと思わざるをえない。そしてそれに気づく時、こんな圧倒的なエンタテインメントが誕生することになるのだと。★★★★☆


ばるぼら
2019年 100分 日本 カラー
監督:手塚眞 脚本:黒沢久子
撮影:クリストファー・ドイル 蔡高比 音楽:橋本一子
出演: 稲垣吾郎 二階堂ふみ 渋川清彦 石橋静河 美波 大谷亮平 片山萌美 ISSAY 渡辺えり

2020/11/30/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
漫画の神様、手塚治虫の膨大な作品の、そのほんの一部しか私は知らなかったことを改めて思い知らされるとともに、確かにアダルトな危険な作品を描いていることは知ってはいたけれど、これは衝撃だった。原作が読みたくてたまらないが、この“偉大なる父”の問題作を見事に映画に仕立て上げた手塚眞監督の才能にも舌を巻く。
映画作品「白痴」しか観ていないかなあとも思うが、ひょっとしたら他の映像作品を観ていたのかもしれない。手塚作品に対するイメージはなんかあって、本作にはザ・手塚監督とでも言いたいビザールな魅力がパンパンに詰まっており、“偉大なる父”の原作がまるで運命のようにこれまた異端の才能である息子の手のひらに落ちて来た、そんなことを言いたくなる。

カメラマンがクリストファー・ドイルというのが、また!!なぜこの組み合わせに思いつかなかったのだろうと思うほど、手塚カラーにピッタリだ。
夢のような、地獄のような、異世界のような、唾棄するほどに現実そのもののような、めくるめく、などという古めかしい言葉さえ持ち出したくなる。

そして主演の二人が!本当に驚く。稲垣吾郎&二階堂ふみ。この組み合わせの意外さにも驚かされたが、二人ともまさに怪演でなんかひどく嬉しくなってしまう。
稲垣氏がこんな役をやるなんて。てゆーか、こんなザ・アンダーグラウンドな作品に出るなんて。それこそスマップ時代なら考えられないことだ……などとついつい思ってしまう。
今年は草g君がこれまた驚くべき役柄を熱演したが、メジャーから解き放たれた彼らが自由に羽ばたく可動域の凄まじさを感じる。

稲垣氏が演じる売れっ子作家、洋介は、しかしその書いてるものは空虚なエロ小説で、同期が大きな文学賞に輝いているのを目にして多少イラついている。そして性欲が抑えられないのか、誘いをかける女たちに迷い込む。
そんな中、ふみ嬢演じるばるぼらに出会う。彼曰く、大都会のあまたの人間たちの排せつ物のような女、そんな言い方をしていたと思う。泥だらけになって、都会の掃き溜めに泥酔して足をおっぴろげて、うずくまっている女。

なぜそんな女にひっかかっちまったのか。大きくて真っ黒いサングラスが妙に時代がかっていて、これは原作の時代を反映しているのか、彼自身の時代遅れ感を演出しているのか。これが妙に稲垣氏によく似合っててて、皮肉にも……みたいな感じもするが。
稲垣氏はいわゆる昭和のスターだし、端正な美男子だけど、確かに時代に取り残されているかもしれない、という雰囲気がある。そして同期に追い抜かれる。そして自身はセクシーな女たちの幻想に惑わされては、ばるぼらに助け出される。
どこかケッペキな優等生みたいな雰囲気のある稲垣氏がこんな役を、オケツまで見せてバッコンバッコンやる姿まで披露するなんて、本当にビックリだが、これが本当にピタリなんである。優等生のイメージを残しているあたりも、皮肉に作用するところまで。なんということか。

そして、ばるぼらを演じるふみ嬢である。素晴らしいヌードを見せてくれる。彼女は「私の男」あたりで脱ぎそで脱がない、売れっ子女優さんにありがちな見せ方をしたので、あーあ、彼女もそーゆー女優さんか。素晴らしい女優さんなのは判っちゃいるが、なんでこう、ここまで見せて、ここまでレロレロキスまでして、乳首だけ死守するかねーっと思っていたが、考えてみればその後はそーゆーことを思わせる作品に出てた訳ではなかった。
Y・M嬢とか、Y・A嬢とかに、そこまで見せて、しかもこの役柄で、見せねえのかよ!!とイライラしていた矢先だったので、思いがけぬタイミングで彼女が美しいおっぱいを見せてくれたことにめちゃくちゃ感動した。

やはり女優は脱げるか否かだと私は思っている。別に所かまわず脱げと言ってる訳じゃない。脱ぐべき作品で脱がないことに失望する時、じゃあなぜこのオファーを受けたんだと思っちゃうんである。
別に、常に脱げと言う訳でもない。脱ぐべき作品があると思っている。「私の男」の時は、うーん、彼女がやっぱりかなり年若かったから難しかったのかもしれないと、思い返して思う。
本作で彼女が見せてくれたのは、まさにこれが脱ぐべき作品であり、女優にとっての脱ぎ時、美しい身体とその役柄がマッチした時、これは幸福なタイミングと言うものだろうと思う。それが彼女にとっての本作だったんだと、なんかもう、胸がいっぱいになる思いがする。

ばるぼらはどこかサイボーグ的というか、現実的な感じがしない。掃き溜めに排せつ物のように打ち捨てられた女。洋介がセクシーな女に惑わされていると必ず現れて、その女をボッコボコにする。驚く彼だが、その女が実はマネキンだったり、デカいブランド犬だったりするんである。
最初のうちはうるさくて汚い女、ぐらいに思っていたんだけれど、段々と、彼女がいなくては立ちゆかないようになってくる、のは、ばるぼらに助けられたからなのか、そのことによって洗脳されたからなのか。

でも彼女と結ばれたのは、何か突然、スパークしたようにセックスしたタイミングからだった。それまでは、まるで汚物のように扱っていたのに。ばるぼらの正体はまるで分らないまま。
怪しげなトップレスバーに案内されて、ビジュアル系男子に口説かれている彼女に嫉妬して、引きずるように連れ帰ったこともあった。そんな具合に、とにかくアンダーグラウンドな、エログロな夢かうつつかの世界のなかで、洋介とばるぼらの関係ははぐくまれていくのだ。

ばるぼら、というネーミングも不思議だし、洋介との愛を誓いあって、彼女が紹介する母親というのが、渡辺えり氏だというのが象徴的だが、彼女のふくよかさにしてもあれはもっと肉襦袢着せてるよな、という巨漢に仕立て上げている。つまり、異様な、現実味のない、呪術師のような存在である。
そもそもばるぼらは、洋介に近寄る女や係累たちをどうやら……古典的な藁人形ならぬマスコット人形にまち針ぶっ刺す的な手法で、死に追いやったり、重傷を負わせたりしてるらしいんである。
そして洋介と結ばれるには、母親の承諾、そして相応な儀式が必要だと言い、あやしげな全裸儀式に足を踏み入れるも、洋介と付き合っていた大物政治家の娘の差し金によって警察が踏み込み、洋介とばるぼらは引き裂かれるんである。

洋介には献身的に彼に使える秘書がいる。演じるは石橋静河嬢で、彼女もまたばるぼらの呪いのえじきにあって瀕死の重傷に遭っている。だから彼女がしれっと復活して、エプロンなぞつけて洋介の前に現れ、彼の好きなビーフストロガノフなんぞを作って微笑む描写に……なんかゾッとするんである。
特にそれにオカルト的な風味が加わる訳じゃないんだけど、この秘書さんはまさに無償の愛で、ただただ洋介を心配し、彼の才能を信じ、その生活が荒れていくことを心配するばかりの、天使のような女性で、それがなんか怖いというか、ウソくさいというか、本当に存在しているの?ばるぼらが打ち砕いたようなマネキン人形じゃないの??と空恐ろしくなるのだ。
エプロン、ってのが、ホントに……しないよ、エプロン、いまどきさあ。エプロンしてビーフストロガノフ作るって、怖すぎだろ、と思う私がおかしいのか……。特に彼女が怪物とかいう描写もなく、洋介はばるぼらを求めて飛び出してしまうのだから、こんなヒドいことを言うのはアレなんだけれど。

物語の後半はばるぼらと手に手を取り合っての逃避行である。ばるぼらの母や親族たちは決して許さない、と怯える彼女を、半ば暴力的なまでに説き伏せて、誰も知らないところまで逃げて二人で暮らそう、とかきくどく。
もう、悲劇的な結末は見えたも同然だが、同然だからこそ、その予測される残酷な経過を、悪魔的なまでに美しく見せてくれて、耽溺とはこのことだと、観客であるこちら側は罪の意識を押し付けられる感覚を心地よく受け取りながら、彼らの“最期”を見届けるのだ。

その前段階で、洋介とのセックスで、既に美しいおっぱいを見せてくれていたが、この“最期”のために、ふみ嬢が一糸まとわぬ姿を見せる意味が、ばるぼらとして一糸まとわぬ姿を見せる意味があったのだと、思い知らされる。
一体洋介は、本気で二人で逃げ切れると思っていたのか。あるいはばるぼらは。耽美的な愛情に酔いしれたままだということが、頭のどこかにあったのか、なかったのか。

山奥で車はエンスト、その時点でばるぼらは限界に達し、一緒に死ぬためにここまで来ている、みたいな二人の甘い雰囲気もあいまって、彼の首をしめかかる。ギリギリまで受けていた彼だが、ぷはあ!とばかりに彼女を突き飛ばした時に、ゴン!と後頭部を大きな石にぶつけたばるぼら。ああもう、判っちゃう。予測できちゃう。だって血が出てるんだもん!!
そして行き着いた空き家で、ばるぼらは半目を開けたまま、動かなくなってしまう。はだかのまま、椅子に座り、一糸まとわぬ姿のばるぼら。

性の妄想にとらわれた洋介を、ばるぼらが救い出したシークエンスを思い出す。美しい女は実はマネキンだった。今ばるぼらは、マネキンさながらの、動かぬ完璧に美しい裸体で座っている。いくらゆすっても、声をかけても、おっぱいをさらけ出して黙って座っている。
ああ……イヤな予感がした。洋介は、屍姦をしちゃったよ。ばるぼらに起きてほしい、生き返ってほしいために、屍姦をしちゃう。
あの時、ばるぼらに助けられた時、彼女が打ち砕いたマネキンと同じように、彼が突っ込んでるばるぼらは、死んでいるのだ。マネキンと同じ。人形と同じ。死んでいるんだもの。なのに彼は、むなしく腰を動かし続ける。半目のばるぼらを犯し続ける……。

バブルを想起させる汚辱と絢爛と倦怠を思わせる世界観、そこに昭和のそれを引きずる稲垣氏、平成、令和の新鮮かつ冷酷なミューズのふみ嬢、時代を踏み越えまくったクリエイターたちの集結で、すさまじくワクワクするヤバ作が仕上がっちゃったことにコーフンが収まらない。
今やメジャーで活躍するあらゆる人たちが、面白がって参加する、そういう時代になったのだということが本当にワクワクするし、まさに時空を超えたコラボレーション、クリエーションの場に観客として立ち会えたことに興奮しきりなんである。★★★★☆


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